第三幕 視えない同心と岡っ引き

視えない同心と岡っ引き(一)



 おちかの発火騒動のドタバタで、春冲は気を失ってしまったらしい。旧鼠というモノノケは、気丈な少女を気絶されるほどに凶悪ななりをしているのだろうか。青い顔ながらもにわかに正気づいた久兵衛によって、春冲は同じく気を失ったおちかと床に並べられたが、さすがに夕刻になっても起きないことに朔次郎は焦った。このまま泊まってもいいと勧める久兵衛に甘えて、春冲は大和屋に預けることにした。――――のだが。


(おちかどのを燃やそうとした炎を見てしまえば、モノノケなどいないと断言できなくなってしまった。そして、この大和屋には、春冲どのが旧鼠と言い当てたモノノケが住み着いているのだ……)


 そんなモノノケの住処に春冲だけを置き去りにするのは憚られる。それに、モノノケの事情など知る由もないが、モノノケの正体の視える春冲を狙うことだってあるのではないか。

 未知の生物相手に護衛が務まるとも思えないが、いないよりもマシならば自分が傍にいた方がいいのではないか。迷う朔次郎に、久兵衛はぜひ一緒に泊まっていってくれと泣きついた。おおかた、炎を見てしまった久兵衛はすっかりその気になってしまい、唯一刀を遣える朔次郎に留まって欲しいのだろう。

 しかし――――、と思う。

 水をかけても消えなかった炎。刀が役に立つとは到底思えない。

 それに、春冲だって言っていたではないか。視えるだけで、退治することなどできないと。ならば、モノノケすら視ることのできない朔次郎は、何の役にも立たない。

 それでも結局は久兵衛の熱意に折れて、一晩だけ護衛を務めることになった朔次郎は、春冲とおちかの眠る座敷で寝ずの番をすることになった。唐紙越しに聞こえる規則的な寝息に、ふうっと息を吐く。どうかこのまま、何事もなく夜が明けますように――……。

 そんな願いも虚しく、いつの間にかうとうとしていたらしい朔次郎の耳に短い悲鳴が聞こえたのは、明け方近くのことだった。


「春冲どの! おちかどの!」


 声は二人の眠る座敷から聞こえた。声をかけるも、返答はない。


「御免!」


 勢いよく開いた唐紙の向こうには、身を小さくさせた春冲が、がたがたと震えていた。


「春冲どの……?」


 対するおちかはまだ寝ているようだ。気を利かせてついつい小声になる朔次郎に、春冲はしきりに何かを訴える。やがてそれが、枕元の行燈を指していることに気づいた。


「明かりがどうかしたのですか?」


 黄表紙きびょうしの読み過ぎか知らないが、モノノケは明るい場所が苦手だと言い張った久兵衛によって、今宵は屋敷中に明かりが灯っている。当然、二人の眠る座敷にも、夜更けだというのに煌々と明かりが焚かれているわけだが。


「いいから! 消して!」

「え?」

「火を消して!」


 鬼の形相で迫る春冲に気迫負けした朔次郎は、言われた通り行燈の火を掻き消した。途端に闇に沈む座敷内。しかし幸いなことに、今宵は月が出ている。座敷の片隅で震える春冲の姿も、ぼんやりとだが見えてきた。


「春冲どの……」

「……」

「失礼ながら……春冲どのは、火が恐ろしいのですか?」


 沈黙が落ちる。やあやあって、春冲はかすかに頷いた。


「……だから言ったでしょう。アタシは、油屋と相性が悪いと」

「そうでしたね」

「こんな事件、引き受けたくもなかったのですが、旦那には稲荷寿司の礼がありますからね。受けた恩を仇で返すつもりはありません」


 婀娜っぽい気性の割には、随分と江戸っ子気質な娘である。思わずくすりと笑った朔次郎を、春冲はぎろりと睨みつけた。


「アタシみたいなかわいげのない女が、火が怖いなんておかしいですかい」

「いえ、そのようなつもりは。思いの他、かわいい人だと思っただけです」


 そう言えば、暗闇の中の春冲がぎこちなく身じろいだ。


「これだから……旦那は罪な男だと言うんです」

「え? すみません、よく聞こえなくて……」

「いえ、気にしないでください。たいしたことじゃあ、ありません」

「そうですか? 春冲どの、お身体の調子はもういのでしょうか?」

「え? ああ……火に驚いただけですから。別に怪我をしたわけではありません」

「それは良かった。それでは、夜明けまであと少し、ゆるりとおやすみください。役に立つかはわかりませんが、微力ながらも外で見張りをしておりますので、火の心配はなさらないでくださいね」


 それでは、と座敷を後にしようとする背中に、春冲の声がかかる。迷い迷いながらも、結局春冲はその言葉を口にした。


「……旦那は気にならねえんですかい?」

「え?」

「アタシがどうして、火なんぞが怖いのか」


 じっと見つめて答えを待つ春冲に、朔次郎は目元を緩ませて微笑んだ。


「あなたが訊いて欲しいと思う時に、ぜひ聞かせてください」


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