視えない同心と岡っ引き(二)
明け方、町木戸が開いたのと同時に、朔次郎と春冲は大和屋を後にした。明け方になっても目を覚まさないおちかのことは気になったが、火を絶やす気配のない大和屋を春冲が一刻も早く離れたがったのだ。夜更けの悲鳴を聞いた朔次郎としては、春冲の願いを無下にすることはできない。それに、おちかの安否ならば、後日改めて訪ねても遅くないだろう。
「それじゃあ、アタシは帰りますね。旦那、一睡もしていないのでしょう? 屋敷に戻って、ゆっくり休んでください」
そう口早に言った春冲は、急ぎ足で長屋へと向かった。どうやら、弱みを握られたことで朔次郎と真面に顔を合わせたくないらしい。そうとわかったからこそ、苦笑を漏らしながら立ち去る朔次郎の背中に、春冲の慌てた声がかかる。
「旦那、言い忘れていました。アタシがいないからといって、お役目を怠けないでくださいね」
「ええ?」
随分な言い様である。
「だから、次に会うまで大和屋久兵衛の身辺について、調べといてくださいと言っているのです。アタシはしばらく長屋に籠りますからね。大和屋久兵衛について、あますことなく調べ上げたら、また訪ねて来てください」
「旧鼠というモノノケと久兵衛どのに関係があるというのですか?」
もはや身分云々、については念頭にもない朔次郎である。素直に尋ねる朔次郎を、春冲は呆れたように見返した。
「関係があるかどうかを調べるのが旦那のお役目でしょう!」
しかり。
だが、探索事自体初めてな朔次郎は、探るといっても何から手をつけていいかわからない。この姿で大和屋を訪ね、久兵衛に会って「旧鼠というモノノケに心当たりはないですか」と尋ねるのは違う気がするし……。
「旦那。探索事といったらまずは聞き込みでしょう。どうです? 警戒心を抱かれねえように、町人髷でも結いやしょうか?」
そう提案するのは、朔次郎が贔屓にしている廻り髪結いの
「京さん。例え私が町人の姿に身をやつしたところで、うまく聞き込みができると思いますか?」
「できる、できねえの話ではなくて、やらなきゃならねえのでしょう。どうやら、旦那は絵描きの小娘とやらに形無しと見える」
「そうなのですよ……。いやはや、困りました」
縁側に座り、がっくりと肩を落とす朔次郎の後ろで、京之助が手早く髷を整えてくれる。その手つきは実に鮮やか。髪結いとしての腕は申し分ないが、京之助が髪結いとしての商いを始めたのはここ一年未満の話である。この影のある髪結いが昔何をしていたのか、朔次郎は知らない。知らなくていいと思っている。
「で、旦那どうします? いつも通りにしやすか? それとも、町人髷に?」
「うーん、ちょっと待ってください。……そうだ、京さん。髪結いは町方の屋敷に上がって内情を知ることも多いのですよね? 亀戸にある大和屋という油屋について、何か知りませんか?」
「残念ながら、縄張りが違いますからね。それにもし知っていたら、いちもにもなく旦那に教えていやすよ」
にべもなく返された言葉に、いよいよ朔次郎は困り果てる。京之助の言う通り、町方役人の姿をした朔次郎が聞き込みをしても、尋ねられた方は委縮してしまい、洗いざらい喋ってくれることはないだろう。ここは町人髷に挑戦……してみるか。
そう腹をくくったところで、来客を知らせる声があった。
「随分と朝の早いお客さまですね」
京之助の言う通りであるが、朔次郎にはさっぱり心当たりがない。とりあえず客を庭へ通すように命じた朔次郎だが、やって来たのは齢五十ほどの小柄な男。小柄な割にはがっしりとした身体つきは、とても
「明朝に大変失礼をいたしました。御影朔次郎さまですね? あっし、
しかし先方は朔次郎のことをご存知らしい。だが、客が岡っ引きとは、朔次郎はますますもって意味がわからない。
「はあ、御影朔次郎は間違いなく私ですが。回向院の親分さんが、何用ですか?」
尋ねる朔次郎に、雁助と名乗った岡っ引きは大きな口を広げて笑った。何か懐かしいものに出逢ったような、心から零れた笑み。瑞々しい空気が漂う早朝には、うってつけの笑みだった。
「こたび亀戸で起こった不思議な事件の数々、ぜひこの雁助に手伝いをさせていただきたく存じます」
笑うと
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