大和屋と視える絵師(三)



 表店の裏手にあるという井戸は、菜種油が保管されているという蔵からは遠かった。これでは、売り物の菜種油が引火したという線は薄いだろう。だったら、誰かがあらかじめ井戸に菜種油をこぼしていたのではないか? 何のために? ――――長助を、殺すため。


「長助は誰かに恨まれていたということはありませんか?」


 朔次郎の問いに、主人は大きく頭を振る。それはおちかとて同じ反応だった。


「長助はごく大人しい気性でしたよ。うちに勤めて五年になりますが、よく言えば物静かな、悪く言えば覇気のない男で、なかなか日の目を見ない己を恥じることも、主人を恨むことなく、黙々と仕事をこなすような真面目な男でした」

「そうですよ。長助さんったら、私たち女中にもへりくだった言葉遣いで、それで私たち、長助さんったら頼りがないわねえっていつも言ってて……それでも、照れた笑みを一つ浮かべるような、優しい人でした」


 なるほど。主人やおちかが言うように真面目な性格が真ならば、あくどい輩に絡まれて恨みを買ったなんてことはないのだろう。ただし、主人とおちかの言う人物像が、本当の長助とぴたりと重なればの話だが。

 ふと首を巡らせれば、不気味なほど静かな春冲が、固い顔をして井戸端をぐるぐると回っていた。たまに屈んでみせては、鼻がくっつきそうなほど地面を覗き込んでいることもある。その春冲が、地面から目を逸らさずに口だけを開いた。


「おちかさん」

「は、はい」

「それで、長助はどのように死んだの?」

「え、っと……水をかけても炎は消えなくて、びっくりして立ちすくむ私の前で、長助さんはひどく苦しんでおられました」

「何か言葉は言っていた?」

「ええと……確か、熱い熱いとしきりに苦しんでおられました。そうですね、それから……俺は悪くない、と」

「俺は悪くない?」

「はい。私にはそのように聞こえました。そうして、そのまま井戸へどぼんと落ちたのです」


 井戸から引き揚げた長助の遺骸を、朔次郎は実際に見た。男か女か、ましてや人かそうでもないかの区別もつかないほど、黒こげに燃え尽きた死骸だった。


「俺は悪くない、という言葉に心当たりは? ご主人」


 春冲のまっすぐな視線を受けた久兵衛は、心外だとでもいうように片眉を上げる。


「私が知るわけないだろう。いくら古参の奉公人といえども、長助の頭のてっぺんから足の先まで知っているわけではないからね。それとも君は、私を疑っているのか?」

「まさか。これは、人のしわざではない。モノノケのしわざですよ」


 これには泰然と構えていた久兵衛もさすがに面食らったらしい。片手で額を打ちながら、乾いた笑みを漏らす。


「こいつは……確かに、巷でモノノケのしわざだと噂されているのは知っていますが、まさか八丁堀の旦那の手下が、根も葉もない噂を信じているとは思いもしませんでした」

「だから、私は旦那の手下になった覚えはないって」


 憮然と唇を尖らせる春冲の手には、短い毛のようなものが握られていた。井戸端で拾ったものだろうか。


「それは?」


 思わず尋ねた朔次郎に、春冲は片頬を上げて答える。


「さて、旦那はこれが何に見えますか?」

「何か……畜生ちくしょうの毛にように見えますが」

「ご明察。では、これが何の毛であるが、詳しい答え合わせは屋敷を回ってからにしましょう」


 いつの間にか場を仕切っていた春冲に先導されて、朔次郎たちは一旦屋敷の中へと戻った。菜種油を保管する蔵や、おちかがあの日最初に向かった土間はもちろんのこと、春冲は主人の自室や奥方が暮らす奥も回りたいと所望した。さすがに久兵衛は難色を示し、朔次郎も一応は宥めてみたのだが、春冲の意思は固いらしい。結局は朔次郎が久兵衛に頭を下げて、家族の者が暮らす奥向きを案内してくれるように頼んだ。

 くねくねとよく折れ曲がる廊下を滑り、奥へ向かう間も、春冲はあたりをきょろきょろと見回している。朔次郎の脳裏に、ふと養父の声が蘇った。


 ――――朔次郎。辰巳の住む、春冲という名の絵師を訪ねよ。

 ――――あやつの目には、人の目には決して視えぬものが映っておるのじゃよ……。


「――――もしかして、モノノケが視えているのですか?」


 咄嗟に尋ねた朔次郎を、春冲はにわかに驚いたように見上げる。


「こりゃあ、旦那。ようやっとアタシに興味を持ってくれましたか?」

「そういう意味では……」

「でも、残念ながら、まだ視えません。その代わり、さっきから厭な鳴き声が聞こえますけどね」


 鳴き声――……?

 春冲に指摘されて耳を澄ましてみるも、生憎朔次郎には各々方の足音しか聞こえない。


「春冲どの。私には鳴き声など聞こえませんが」

「でしょうね。きっと、アタシ以外には聞こえていませんよ」


 しらっと答える春冲は、心なしか顔色が悪い。まさかとは思っていたけれど……。


「春冲どのは、モノノケの姿かたちだけではなく、声も聴けるのですか?」

「まあ、厭でも聞こえますね。ついでに言うと、臭いもわかりますよ。でも今は、鳴き声が一番強烈です」


 青い顔で隣を歩く春冲を、じいっと見つめる。これがお芝居だったら、中村座も裸足で逃げ出す名演技だ。


「あの、鳴き声というのは、いったいどのようなものなのでしょう? 春冲どののお身体を蝕むものなのでしょうか?」

「どうしてそんなことを訊くんです?」

「お顔の色が優れないように見えましたので」


 そう言うと、春冲は目に見えて驚いた。朔次郎の顔をまじまじと覗き込むと、花が咲くようににこりと笑う。


「やっと、旦那がアタシに興味を持ってくれた」

「え?」

「ま、ご心配は痛み入りますけどね。胸糞が悪いのは、鳴き声のせいじゃありませんよ。どうやらアタシは、油屋とは相性が悪いみたいです」


 なんだかはぐらかされた気がしないでもないが、朔次郎はそれ以上の詮索をやめた。普通の人には視えないものが視えてしまうのだ。そこにはきっと、春冲だけの苦しみがあるはず。とにかく、春冲が倒れないようにと注意を払う朔次郎は、無理をさせない足取りで奥へと進んだ。


「さすが大和屋さんだ。広いものですねえ」


 横川を越えた入江町には、武家屋敷が多く立ち並ぶ。庶民より比較的裕福な武家を相手に、大和屋は手堅く商いをしているのだろう。菜種油で稼いだ財で築いた屋敷は、朔次郎が八丁堀に賜った屋敷とは比べものにならないほど広かった。おまけに、調度品にも凝っている。特に久兵衛の部屋には、唐渡りの花瓶や見事な水墨画の掛け軸があって、例によって春冲は花瓶の絵柄や水墨画の見事さに夢中になっていた。対するおちかがときめいたのは、奥方の部屋に飾られていた色鮮やかなぽっぴんの数々。やはり年頃の女子が興味を持つならこちらだろう。ちなみに春冲はというと、大真面目な顔でとっくりとぽっぴんを眺め回している。大方、絵にでも使おうと思っているのだろう。

 この対照的な女子二人が珍しく意気投合して興味を持ったのが、大和屋の一人息子である若旦那の部屋に置かれた竹籠だった。子供一人は軽々と入りそうな、複雑で凝った作りの巨大な竹籠に二人揃って興味津々である。


「若旦那は竹籠を集めるのが趣味なのか?」


 尋ねる春冲は、竹籠から目を離さない。さすがに呆れたのか、主人は大きな嘆息を一つ落とした。


「いいえ。佐吉さきちは珍しい鳥の収集が趣味でして。捕まえた鳥を、竹籠に入れて楽しんでおります。あいにく、今はからっぽですけどね」


 おまけに、その珍しい鳥は手ずから狩ってくるというから恐れ入る。やはり、金持ちの趣味は金のかかることらしい。ちなみに、渦中の若旦那は、親戚筋へお使いに出て留守のようだ。


「春冲とやら。奥まで案内させて、いったい何がしたかったのかね」


 竹籠に夢中になる春冲に、さすがの久兵衛も呆れ果てたらしい。大仰な溜息を吐く久兵衛に、おちかが慌てて姿勢を正す。対する春冲は、どこ吹く風だ。


「何、と言いましても、我らが探っていることは一つでしょう」

「は?」

「長助を殺したモノノケは、いったい何者なのか」

「あなたという人は……まだモノノケのしわざなんて言っているのか」

「いいえ、大和屋さん。これはれっきとした、モノノケのしわざですよ。そして、次に狙われているのは、あなたかもしれない」


 にたりと口角を上げて笑う春冲に、その場の誰もが凍りついた。


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