視えない同心と視える絵師(三)
亀戸町に、
ただの殺しならば、管轄内の与力及び同心に仕事が割り振られる。しかし、この事件はただの殺しではない。人の目がある場所で、人が前触れもなく燃え死んだのだ。よって、これはモノノケ同心と異名をとる朔次郎の管轄だと、仕事が降って湧いた次第だ。
そう、朔次郎のお役目は、少々変わっている。他の定町廻り同心と同じように、江戸八百八町で起こった事件の解決に乗り出すのは同じだが、朔次郎が扱うのは俗に言う「モノノケのしわざ」と噂される殺しだった。
「――――で、その油屋で起こった人死が、モノノケのしわざと言われているのでありやすね」
そしてこの春冲と名乗る少女は、一部の者しか知らないモノノケ同心の存在をも知っているらしい。口元についた米粒を無心に食べる春冲に周囲には、下絵なのか描き損じなのか判断に難しい半紙が山のように散らばっている。四畳半の狭い部屋に置かれている道具はそれほど多くないが、あまり掃除は行き届いていないようだ。雑然と散らばった半紙や浅草紙のお蔭で部屋に入れない朔次郎は、とりあえず上がり
「そうなのです。お蔭で私は大変困っています」
「おや、御影の旦那。しっかりしてくださいまし。こんなの、別に珍しいことではありやせんぜ」
「自然発火による人死は珍しいですよ」
「いや、そちらではなくて。モノノケのしわざで人が死ぬなんて話は、たいして珍しい話ではありませんよ」
言い切った春冲は、いたずらが成功した悪童のように、にやりと片頬を上げて笑った。朔次郎が怖がっているのか、試しているのだろう。
「春冲どのはモノノケが視えるからそう言われるかもしれませんが――」
「申し訳ありませんが、それ、やめてもらえませんかね?」
「え?」
「八丁堀の旦那に春冲どのなんて言われると、どうにもきまりが悪くていけません。どうぞ、アタシなんぞに畏まらないでください」
「ああ、気にしないでください。私は誰にでもこうなのです。癖みたいなものですから、春冲どのも気にしないでいただけると助かります」
途端に春冲は歯にものが挟まったような顔になった。
そう言えば、善右衛門からは「春冲」という名しか聞かなかったが、察するにこの名は絵を描く時の雅号だろう。本名を尋ねる朔次郎に春冲は、
「真の名なんて、忘れちまいました」
と婀娜っぽい微笑と共に返した。本当に忘れたなんてことはありえないから、何か事情があって話したくないのだろう。それとも、ただの一度きり会っただけの朔次郎に、教えたくないのだろうか。
だからといって別段気分を害することもなかった朔次郎は、油屋の一件について重い口を開いた。
「死んだのは長助という名の、下男をしていた男です」
「おや、旦那。アタシみたいな胡散臭い絵描きに、人殺しの話をぺらぺら喋っちまっていいんですかい? それにアタシは、旦那に協力すると言った覚えはありませんよ?」
「構いません。あなたには包み隠さず全てを話すようにと、養父からのお達しですから」
フン、と小鼻を膨らませて笑ったところを見ると、また朔次郎を試したらしい。
「突然火が出たのは、お店の裏にある井戸端だったようです。事件のあった大和屋は菜種油を扱う油屋ですからね、商いものの油が発火したのではないかと、誰もが疑ったのですが……」
「場所が野外で、おまけに井戸の近くとなったら、火元はありませんものね」
「その通りです。私も実際に現場に向かったのですが、菜種油が置かれている蔵からは離れていますし、死んだ長助が火元になるようなものを持っていた形跡もありませんでした」
「ふうん。不思議な話ですねえ。そりゃあ、モノノケのしわざだと、噂になるのも頷けます。世の中、人の理解に及ばないことは、全てモノノケのしわざで片がつきますからね」
トントンと話に乗ってくれる春冲であるが、協力してくれる気があるのだろうか。と思う朔次郎でさえ、本当にモノノケのしわざであるが、半信半疑である。それ以上に目の前の娘が本当にモノノケが視えるのかという問題については、輪をかけて半信半疑であるが。
じいっと見つめる朔次郎の視線に気づいたのか、春冲がにやりと片頬を上げて笑う。にわかにはだけた襟元を引き締めると、片膝をポン、と小気味よく打った。
「いいでしょう。旦那には稲荷寿司の礼もありますしね。不肖春冲、協力させてもらいます。ただし、善右衛門さまの時とご同様、きっちりおあしはいただきますよ」
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