第15話 狂
武項は壁に体を持たせかけて流海を眺めていた。
国府側の浪海は、浦のそれとはまた違った景色だ。緩やかな風が流れ、湖畔がかすかにさざめく。満月に近い今夜は辺りが妙に明るく、浪海は時折きらきらと光って見えた。
「つまらない強情など張るものではないな。やはり連れてくるべきだった」
武項は月に星涙の顔を思い浮かべながら、そう呟いた。
星涙のことを考えれば考えるほど武項の胸は痛んだ。彼女と離れてまだ数日しか経っていないというのに、心の中にはぽっかりと穴が開いたようである。一人置き去りにされた彼女は、今何を思っているだろう。
「私を想って寂しがっていて欲しいものだ」
自分に都合のよい答えしか出てこないことに、さすがに自分でも呆れた。
星涙の気高い美しさに惹かれた一方で、儚く崩れ落ちるような彼女もまた愛しい。毒薬の様に武項の体中を蝕むのは、星涙の存在そのもの。彼女以外、何も要らない。彼女がいればそれでいい。今や、権力も地位も全てが鬱陶しかった。桃源郷のような世界で、ずっと二人だけで過ごしたかった。
「失礼します。
遠慮がちに告げられた侍女の声で、武項は現実に引き戻された。甘い思考を閉ざされたことで、彼は一気に不機嫌になる。
「力?」
「はい。至急、御目通りを、と」
月は天辺にまで昇っており、人を訪ねるのにふさわしい刻ではない。わざわざこんな遅くにやって来ることから察するに、楽しい話ではなさそうである。会うのは煩わしかったが、会わなければ更に面倒なことになる気もして、武項は仕方なく弟を通すように告げた。
間もなくして聞こえてきたのは、一歩一歩踏みしめるような重い足音だった。いつものように軽快な音ではない。
「入れ」
顔を合わせる気になれず、武項は湖畔に向いたままそう告げた。
「夜更けにどうした」
努めて穏やかにそう尋ねたが、力からは何の返答もない。無言に違和感を覚えて、武項は仕方なく入り口の方を振り向いた。するとそこには、いつになく深刻そうな顔をした力がぼうっと立っていた。
「どうした」
普段明るくて元気な弟とは思えないほど、暗い雰囲気である。驚いた武項が再度そう尋ねると、力はようやく消え入るような声をだした。
「先日、ナミ様にお会いしました」
予想外の話題に武項は内心ほっとした。何の興味もなければ、どうでもいい話だ。
それがどうしたと問いかけるも、力は口ごもって続きを渋る。どうやら次の言葉を迷っているようだが、そのなよなよした態度が非常に癇に障った。
「自分から話を持ちかけておいてなんだ。言いたいことははっきり言え」
怒鳴るとまではいかないが、それなりに強い口調で武項はそう言った。
以前は、彼が物を言い始めるまで根気よく待っていたものである。けれど最近は違った。はきはきしない弟が情けなくて、腹立たしい。
だが今夜、いつもと違うのは力も同じだった。彼は体を縮こませないばかりか、急に武項を真っ直ぐ見据えてきたのである。
「…では、遠慮なく言わせて頂きます。兄上はどうしてナミ様に目を向けられないのですか。形ばかりの妃では、彼女があまりにも不憫です」
思いも寄らなかった話に驚いた武項は、呆然と力を見た。まだまだ子供と思っていたのに、彼の目には一人前の嫉妬の色が映っていた。
「兄上は、義姉上が今何を思っているかご存知ですか。あの方が輿入れなさってから何度お会いになりましたか。彼女は悲しんでいます。せっかく浦に嫁いできたにもかかわらず、兄上は全くお相手をしようとなさらない」
「力、もしやお前」
ナミに想いを寄せているのか。そう問おうとしたその時、力は思わぬことを口にした。
「兄上がご執心のあの女。星涙は妖ですよ」
「はぁ?」
眉間に皺を寄せた武項の様子を見ながら、力は慎重に言葉を発する。
「あの女と関わってから、兄上は変だ。あれは辰国の妖に違いありません。兄上を誑かしてナミ様を悲しませ、果ては東国にも害をなそうとしているのです。ナミ様もそうおっしゃられております」
「いい加減にしろ」
武項は力を壁に叩き付けると、思い切り怒鳴りつけた。その表情には殺意に近い怒りがありありと表れている。
「馬鹿だ、馬鹿だとは思っていたが、ここまで頭がおかしいとは思わなかったぞ。やはり、何処の誰のかもわからない血を受け継いでいるだけのことはあるな」
「私は兄上のためを思って、忠告しているのです。その好意を無駄にされるのですか」
「黙れ」
そう叫んだ武項の剣幕は、今にも腰の剣に手を伸ばしそうな勢いであった。戦でさえ、ここまで気が乱れる事は稀である。
「力。今後一切、私にも星涙にも近付くな。浦への立ち入りも禁じる。わかったら下がれ」
「兄上」
「下がれ」
武項の迫力に、力の勢いは見る見るうちに萎んだ。結局、彼はそれ以上何も言えずに、泣きそうな顔をしながら部屋を出て行った。
悲しみと怒りが冷めやらぬまま自邸に戻った力を待っていたのは、あまり会いたくない者であった。
「何の用だ。お前は自由の身ではないはずだろう」
部屋に入るなり恭しく頭を下げて見せた谷田を、力は軽く一瞥した。しかし谷田は必要以上の笑顔を貼り付けた顔で、力の横顔を覗き見てくる。
「お元気でしたか、しばらく会わぬうちにまた一段と大きくなられましたなあ。近頃は以前にも増して勉学に励んでいられるとか。母君がご自慢しておいででしたぞ。それになんでしたか、名のある将から武術で一本取られたとか。まさに天の申し子とはあなた様のこと、力様こそこの国を治めるのにふさわしいお方です」
谷田のべたつくような視線に気持ち悪さを覚えた力は、ぶっきらぼうに答える。
「用件があるのならばさっさと話せ」
全く抑揚のない声で愛想もない。しかし谷田はそれを気にするどころか、ますます親しみを込めたかのような猫なで声を出した。
「何をそんなに苛々なさっていられる。私でよければ相談相手になりましょう」
「貴様には関係ない。第一、兄上から貴様と会うことは禁じられているのだ。それにどうやってこの部屋に入った」
「私の手引きよ」
きいっという扉が押し開かれる音と共に姿を現したのは、茜であった。
彼女がこうして気まぐれに、力の元を訪れるのは珍しいことではない。ナミや陽と共に幼い頃から国府に出入りしていた彼女とは、年が近いせいもあって、非常に仲が良い。姉の陽とは違って気心も知れており、兄妹のように近い存在でもあった。
「何だ、その格好は」
力は目の前に立つ彼女の姿に唖然とした。彼女が着ていたのは、いつものような派手な服ではなく、まるで忍びの装束のような格好だった。
「いいでしょう。なかなか気に入っているのよ」
茜はくるっと回転して見せると、にっこり微笑んだ。
「この方が動きやすいの。色々とね」
「何をしでかすつもりだ」
「今にわかるわよ」
聞き飽きた答えである。最近の茜はいつもこうだ。彼女が怪しげなところを訪ねていることは何となく察していたが、その理由はいくら尋ねても教えてはくれない。
「ねえ、谷田の話を聞いてみたらどうかしら。多分あなたのこと、理解してくれると思うわよ」
茜は力に向かって人差し指を突きつけると、片目をぱちっとさせた。何気ない彼女のこの仕草だが、力にとってはまじないの効果がある。自信に満ち溢れた茜の顔を見ていると、ほっとするのだ。この時もそう、力の激していた感情は茜のそれで少し落ち着いた。
「わかった。聞くだけは聞いてやる」
「心中お察し申し上げます」
力の言葉が終るのを待たずに、谷田は大きくため息をつくと、さも気の毒そうにそう告げた。その言い方にむっとした力は、指で机をこつこつ叩き出す。
「何が言いたい」
「ナミ様のことでお悩みなのでしょう」
それを聞くなり、力はばんっと机を叩いて勢いよく立ち上がった。その顔には内心を言い当てられた動揺と焦りが浮かんでいる。冷や汗が溢れ出し、唇は青ざめ出した。これこそ彼が幼い頃からの教育の賜物である。
力は動揺するとそれを取り繕うことが出来なくなる。自分では何の対処も出来ないように育てられたため、追い込めば追い込むほど扱いやすくなるのだ。時間をかけただけの成果を目の当たりにして、谷田は薄ら笑いを浮かべた。そうしたところで、今の彼には気付かれるわけがない。
「嘘をつきなさるな、お顔に書いてございます」
「貴様こそ、でたらめを、でたらめを、言うな。私には、悩みなど何もない」
答えはしどろもどろ、顔には焦りが見て取れる。谷田はわざと大きくため息をついてみせた。充分に焦らせてしまえばこっちのものである。力を凶器とすること、これこそが今回の謀略の鍵となるのだ。
「力、落ち着いて。最後まで話を聞いてちょうだい」
茜が宥める様に背を撫でてやる。彼女は幼なじみの彼を心底心配しているようで、絶え間なく優しい言葉をかけ続ける。
「全てはナミ様をお救いするためのこと。お願いよ」
「義姉上を救う、だと?」
疑うような眼差しを向ける彼に、茜は大きく頷いて見せた。
「ええ。全てはナミ様のため。協力してくれるわよね」
端から見ている分には充分滑稽な場面であるが、今の谷田にはこの状況が嬉しくて仕方がなかった。彼は力の呼吸が穏やかになってきたのを見計って本題を切り出した。
「義姉上の病のことか」
「左様。力様もそのことでお悩みなのでしょう。かの者に呪いをかけられたのでは、との噂もございます」
「呪いだと」
「まぁ所詮は噂ですが。しかし、ここ最近の武項様のお振る舞いは常軌を逸しておりましょう。ナミ様の気鬱も然り。何かの呪いをかけられたと疑いたくなるのも無理はございません。」
「それでは、やはりあの女は妖ではないか」
そう言うなり、力は怒りに任せてその場にあったものに当り散らした。目につくものを投げ飛ばし、壁を蹴り始める。狂乱じみた力の行為は表沙汰にこそなっていないが、谷田も茜も何度も目撃してきた。これこそが策略の一環。すべては石賀と谷田の謀略である。彼はそのためだけに生まれたと言っても過言ではない。
侍女となり、国府高官の弱みを焙り出すことを使命としていた彼女であったが、造の子を身篭るという嬉しい誤算が起きてくれた。石賀と谷田は手放しでこれを喜び、力を自分達の息がかかったもので育て上げた。そして、いざという時を待ち構えていたのである。
「かの者をお連れして以来、武項様はお変わりになってしまわれました。魅入られたように執着し、政務もおろそかになった」
力がひとしきり暴れ終わると、谷田はそっと声をかけた。
「かの者を快く思わない者は多い。そして三臣を憎む者もまた多くございます」
その言葉に、力はぴくりと反応する。
「奴らは私を疎んじている」
力は憎憎しそうにそう言うと、表情を歪めた。
「特に砲だ。奴は私を見る度に、見下したような顔をするのだ。」
谷田は尤もらしく頷いてみせたが、内心でほくそえんだ。それは単に砲が感情を隠すということが苦手というだけである。風見も海里も表面にそれを表さないだけであり、心中では彼以上の思いを抱いているに違いない。それに気付けない力には、やはり道具以上の価値は見出せなかった。
「しかし三臣の中で敵を見つけるのが容易いのは、間違いなく海里でしょう。奴に陥れられた者は数多くおります。それに奴には星涙様とのただならぬ噂もある」
「このままでは東国が、あの妖に滅されてしまうかもしれない」
力は唇を噛むと、はき捨てるようにそう言った。
彼の頭は星涙への憎しみで占められてしまっているようである。ちらちらと時折混ぜる海里への批判など、全く聞こえていないようだ。世の噂を鵜呑みにして彼女を妖と言い切る力の馬鹿さ加減には呆れてしまうが、谷田はこの策の成功を確信した。
「海里も、いや、もしかしたら武項様も既に妖に憑かれているやもしれません」
畳み掛けるように言うと、力は恐ろしいものを見たような表情をみせた。
「どうしたらいいのだ」
怯える様子を隠しもしない彼に、谷田は内心で腹を抱えて笑いたくなった。あと一歩だ。もう少しで力を意のままに動かせるようになる。
谷田は深呼吸すると、重々しい口調で話し出した。
「妖から救われる法はただ一つしかありません。剣をもって、命を絶って差し上げるのです」
「馬鹿を申すな。兄上をこの手にかけろ、というのか。そんなこと出来るわけがなかろう」
「しかしそうしなければ、いつまで経っても武項様は救われませんぞ」
「嘘だ。そんなこと信じないぞ」
「力、武項様だけじゃないわ。ナミ様もきっと救われる」
「駄目だ。兄上に剣を向けるなど、私には出来ない」
力はそう言うと、耐えきれなくなって茜に泣きついた。彼女はさらさらした栗色の彼の髪を優しく撫でてやる。
「無理もないわ。だって実の兄上ですもの」
自分の胸で泣く力に気付かれない様、茜は谷田に下がるよう合図した。それを受けた彼は、無言で部屋を出て行く。二人きりになったのを確認した茜は、そっと力を引き離した。
「ねぇ、力。あなたは男なの」
茜は両手で力の顔を挟み込んだ。そして泣きじゃくる彼をじいっと見つめながらこう続けた。
「男なら、自分が大事なものを護るって義務がある。あなたが大事なものは、武項様とそれにナミ様でしょう。だったら彼らを護らなければならないわ」
でも、とまた泣きだした彼に、茜は微笑みかけた。
「谷田はああ言っていたけれど、なにも武項様に手をかけることはないと思うの。あの方を狂わせた元凶を、あの妖を斬ればそれで済むわ」
無論、これは谷田の本意を理解していない茜独自の策である。彼女が谷田を下がらせたのは、彼がいたらどうしても武項を消す方向に話を進められるからだ。
茜は、谷田の策が何の意味を持つのかということはわかっていなかった。星涙が妖であるとまでは思っていなかったが、彼女も力同様、単に武項が星涙のせいでおかしくなったと信じていたのである。だから彼女にとって、消すべき相手は星涙ただ一人だ。
「あの妖を…私が?」
「そうよ。あなたなら、きっと彼らを救って差し上げられる」
そう言って大きく頷いた茜は、指で力の涙を拭いてやり、その頬にそっと唇を落とした。
「海里の策が当たったと言うわけか」
久しぶりに政に加わった武項は、感嘆するようにそう言った。
「ええ、これで我々は手を煩わせる必要もなくなりました。海里の言うとおり、慎重策を取ったのがよかった。自由に泳がせた結果、玖波側の思惑が明らかとなったわけですから」
満足げな武項に、風見が軽く説明を加える。海里はそんな二人に薄い笑みを浮かべてみせた。
「それにしても随分大胆に動いてくるな」
武項の言葉に、風見は不快そうに顔をしかめた。彼の優美な眉がわずかに釣り上がる。
「それだけの余裕があるということでしょう。彼らは私達が何も気付いていないと考えております」
「では、今が好機だというわけか」
「いいえ、もう少し待ちましょう」
逸る武項を諌めるように、海里はゆっくりと答える。
派遣した軍を壊滅寸前にまで追い込んだ辰国との先の戦。その黒幕はやはり玖波であった。今や完全にその権威は地に落ち、実権すら持たない彼らであるが、他国に逃れた残党共はまだ生きているのである。彼らを一人残らず捕えて処罰出来れば良いが、なかなかそう簡単に事は運ばない。となると早急に必要となるのは、彼らの自由を塞ぎ、その協力者を削りとっていくことである。
「だが、海里。本当に智は信用できるのであろうな」
わずかに嫌味を込めた言い方の武項に、海里は悠然と笑みを返した。
「ご安心を。情報源の安全は常に確かめております」
「もしこれで佐間が我らを裏切っていたとしたら、それこそ大問題だろう」
「佐間に我らの情報は一つも流してはおりません」
風見がきっぱりと告げる。海里も砲もその言葉に大きく頷いてみせた。三人の顔を見比べながら、武項は呆れたように言う。
「それにしても、父に作らせた古い書を利用してくるとは思わなかったな。上手く広野を騙し、奈須の三郷と手を組ませて、吾らを孤立させようとしたわけか」
「広野も注意不足であったと、ひどく反省しております」
海里が彼の弁護を口にすると、武項は首を振った。
「だが奴のしたことは謀反にも値するぞ」
謀反という言葉に、砲が敏感に反応する。彼は武項をじろりと見ると、あからさまに眉をひそめた。
「確かに彼の振る舞いに処罰は必要でございます。けれど謀反に当たるとは思えません」
砲は挑むようにそう言ってのけた。武項は疑うような眼差しを彼に向ける。
「やけに庇うな。何か裏があるのか」
「何もございません。ただ彼に対する嫌疑は、我々の手によってほぼ晴れているのです。それを謀反の一言で片付けようとするのは、いかがなものでしょうか」
「砲、言葉が過ぎるぞ」
武項は不機嫌そのものの声で叱責すると、砲をきつく睨み付けた。しかし砲も引こうとしない。彼は堂々と胸を張って武項に向き合った。
「この機会に言わせていただきます。武項様、最近の行動を思い返し下さい。あなた様が最後に政を執られたのは一体いつでございますか」
「馬鹿を申すな。毎日欠かさずここへ訪れているではないか」
武項の言い分に、砲は更に過熱した。彼は不機嫌さを前面に押しやって、高らかに文句を述べる。
「庁堂に顔を出しこそすれ、何もしようとはなさらない。挙句、政務を放って星涙様とお出かけになることもしばしばです。面倒なことは全て風見様や海里に押し付け、名ばかりの存在ではありませんか」
この砲の言葉には、さすがに風見も海里も度肝を抜かれた。いずれは言わねばならぬことではあったが、こんなにあからさまでは逆効果である。
風見が止めに入ろうとしたときには、もう遅かった。武項は砲の胸倉を掴み、怒りの形相を彼に向ける。
「私が名ばかりの存在だと?だったらお前達は私の威を借る狐ではないか」
砲は苦しそうな顔も見せずに、負けじと怒鳴る。
「我らが日夜、浦のために働いていることを知っていて、そうおっしゃるのですか。星涙様を得てから、あなた様はお変わりになられた。どうか目をお覚ましください」
「星涙には何の罪もない」
「ええ、確かに彼女は何も悪くありません。悪いのは彼女に惚けて、政務をおろそかになさるあなた様です」
砲の言葉に武項はますます顔を歪めた。二人は一触即発。次に何かあれば、どちらかが何らかの行動に出てしまうだろう。
「とにかく引き離そう」
成り行きを見守っていた風見であったが、ようやく海里の肩を叩いた。海里は小さく頷くと、砲の後ろ側に回る。
「砲、いい加減にしろ」「武項様、怒りをお鎮め下さい」
海里が砲を後ろから押さえつけるような形を取り、風見が武項の手を押さえながら二人の間に割り入る。
「私達が割れている場合ではありません」
風見は穏やかな声音で、そっと武項の腕を砲から引き離す。長身の二人に挟まれた彼はまるで娘のように見えたが、それでも迫力は満点だ。
武項は不満げな顔のまま、乱暴に砲から手を離した。体勢を崩した砲をすかさず海里が支えてやる。砲はそれでもまだ厳しい視線を投げかけていたが、武項はそれを無視して勢いよく部屋を飛び出した。
「まるで子供だな」
風見が呆れたように呟く。海里は砲から離れると、大きくため息をついた。
「砲も率直過ぎたのでしょう」
「あれぐらい言わないと通じん」
「確かにそうだけれどね。でも、もう少しで手打ちに遭うところだったよ」
風見が釘をさすように言うと、砲は苦笑いを浮かべた。
「ですが、これで私達の考えは伝わったでしょう」
「星涙様が傾国の美女だってことか」
茶化す砲を、海里が一瞥する。
「とにかく、武項様があんな状態では浦の体制も万全だとは言えません。造様にこの事態をお伝えしておいて正解でしたね」
「ああ、だが奈須から付け入られる隙は充分だな」
海里は砲の言葉に目だけで同意する。武項がこのままでは、浦はもちろん国府までもが反対勢力に乗っ取られることになるだろう。
海里は息を吐きながら、外を見やった。開け放った窓から見えるのは、血の様に赤い夕焼け。不吉の前触れの様なその空は、まるで今宵に巻き起る惨劇の予兆のようだった。
夜も更ける頃、星涙は武項が彼女のために特別に拵えてくれた小部屋にいた。そこには、これまた彼がわざわざ用意してくれた多くの書物がある。武項や海里に読み書きを教わった彼女は、毎晩ここで武項の帰りを待つのが日課となっていた。
近くに警護を置くことを嫌がったために、無防備と言えばそうだったが、下手な兵よりは星涙自身の方がよっぽど頼りになる。どんな格好であろうと、常に腰には剣を帯びていたし、少数で彼女に敵う者はそうはいない。だから安全の点では、武項もそれほど気に病むことはなかった。
時折落ちてくる髪を払いながら、読み物に耽る。武項から贈られた香を焚き染め、髪を軽くまとめただけの姿を燭台の明かりに照らされた彼女は、妖か女神かと疑いたくなるほどの美貌だ。
毎夜変わらぬ光景ではあるが、今宵の異変はすぐに察せられた。人目を忍ぶような足音が近づいてきたかと思うと、部屋の外からは激しい殺気が感じられたのである。星涙はさっと剣に手をかけた。
戸が開かれると同時だった。一人の少年が、わぁっという掛け声と共に、無我夢中に剣を振り回しながら入ってきた。
星涙はひらりと身をかわすと、彼と距離を取った。ふわりと舞う着物も髪の毛一筋も傷つけられてはいない。相手の姿を正面から確かめて低い声で問う。
「何の真似だ」
「妖、お前を斬る」
力は精一杯の勇気を振り絞った。しかし気持ちとは裏腹に、出てきたのは蚊の鳴くようなか細い声である。星涙は相手を心底嘲る笑みを浮かべて、力を見返した。
「私を斬る?お前に出来るわけがなかろう」
「うるさい。斬るのだ」
がたがたと震える体を押さえつけることも出来ずに、力は両手で剣を握り締めた。星涙は相手にするのも馬鹿らしくなり、ふぅと息をつく。
「下がれ、この事は内聞にしておいてやる」
「馬鹿にするな」
力は何かが吹っ切れたのか、もう一度、大声をあげながら星涙に向かった。
星涙は反射的に腰から剣を抜いて彼の裏に回り込み、剣先で優美な弧を描く。しかし寸止めするはずであった剣は、不意に動いた彼の背に真っ直ぐに落ちていった。真っ赤な鮮血が辺りを染め、星涙は思わず剣を取り落とした。
力、と呼びかけるも、彼は痛みに呻くだけでまともに話せない。思ったよりも傷は深かった。おそらく助からないだろう。
星涙は膝を折ると、彼の隣に屈んだ。そして一瞬のためらいの後、力の心臓に剣を突き刺した。
「何をしている」
不意にかけられた言葉にはっとして、星涙は体を硬くした。声の主は青ざめた顔をした武項であった。戸口に呆然と立つ彼は、再度問いかける。
「何をしているのだ」
星涙は唾を飲み込むと、すくっと立ち上がった。
「力に命を狙われた」
言い訳は無用だ。短く事実だけを告げ、後は武項の判断を仰ぐ。弟を殺めた人間を罰するというのであれば、それは仕方のないこと。星涙は剣を手放すと覚悟を決めた。
「処罰を」
星涙はそう言って目を閉じた。武項が近づいてくるのが空気でわかる。彼に剣を向けられるのはこれで三度目、今度こそは確実に命を失うだろう。星涙はそう思いながら、拳を握り締めた。
「私にお前を殺せるわけがなかろう」
武項は星涙をしっかりと抱きしめると、耳元でそう囁いた。たまらず開いた星涙の瞳には、悲しげな表情を浮かべた武項が映る。
「武項、私は」
「力がそなたを狙ったのだ。そなたは身を護ろうとしただけ、何の罪もない」
武項はそう言うと星涙の剣を拾い上げた。血を軽く払うと、再び星涙にそれを手渡す。
「先に行け、私も後から逃れる」
「どこへ」
「裏から馬に乗ればいい。森を抜けて真っ直ぐ北上したところに、小さな社がある。そこで待っていてくれ」
そこらにある適当な宝玉を星涙の着物に挟み込むと、武項はもう一度彼女を抱きしめた。
「必ず追いつく。それまでどうにかしのいでくれ」
力強い武項の言葉に星涙は大きく頷く。そしてすぐさま部屋の裏口からそっと外へ抜け出した。
後に残された武項は、腰から剣を外すとそれを力の血で染めた。あたかも自分がこの罪を犯したかのように細工したのである。それが済むと武項はその剣を戸のほうへ、ごみのように放り投げた。が、おかしなことに落ちる音が聞こえない。
不思議に思ってそちらを見やると、そこには予想外の人物がいた。彼女に驚いたせいで、武項の動きはぴたりと止まった。
二人はただただ立ち尽くしていた。声を発することも出来ず、お互いを穴の開くほど見つめる。どのくらいそうしていたのであろうか、しばらくするとナミは無言のまま剣を置き、床に倒れた力に触れた。彼の周りは鮮血で染まっていたがナミは気にすることなく力をさする。
「おかわいそうに」
ナミは消え入るような声で呟いた。彼女が血で汚れた髪を顔から払うと、まだ少年っぽさの抜けきらない力の顔が露になった。力の白くなった頬をなでるナミの瞳からはとめどなく涙が流れている。武項は何をすることも出来ず、その様子を黙ってみていた。
「なぜ力様を手にかけたのですか」
ナミは武項を見ずに、そう尋ねた。
「あなた様ならば、力様のお命を奪わずに対処なされたはずでございます」
今度は怒りのこもった目を武項に向ける。彼女の眼差しをこんなにも長く受け止めたのは祝言を挙げて以来、初めてかもしれない。意外にも意志の強そうな瞳に、武項は正直恐怖した。たとえ真実がどうであったとしても、自身の至らなさで弟の命を奪ってしまったのは動かぬ事実である。
「不意打ちには、上手く対応できない」
武項はどうにか言い訳を述べた。しかしナミはより一層冷ややかに彼を見るだけである。彼女の視線があまりにも痛くて、つい武項は思ってもいないことを口走ってしまった。
「主君が部下を処罰することなど大したことではなかろう」
「相手がかわいがっていた弟君でもですか」
ナミは一歩も引こうとはせず、武項の言葉に即座に切返した。
「深夜、自室で訪ねてきた弟を手にかけた。これが大したことではないとおっしゃるのですか」
「先に仕掛けたのは力の方だ」
これは事実である。星涙は力に不意打ちに抵抗したのだ。結果彼女が勝利を収めた、ただそれだけのことである。
「一つお伺い致します。襲われたのは、誠にあなた様でございますか」
ナミはちらりと力の傷跡を見て、意味ありげにそう尋ねた。
「もちろんだ。他に誰がいる」
「私がそれを口にすることをお望みですか」
その口ぶりからすると、ナミは事実を知っているのかもしれない。しかし武項は白を切ることを決めた。彼女が手放した剣を拾って、その刀身を何とはなしに眺める。
「力が襲ったのも、それを返り討ちにしたのも私だ。他の誰でもない」
「こうまでしても、可愛い弟を犠牲にしてまでも、彼女をお庇いになるのですか。それでもあの女を救いたいのですか」
ナミは恨みがましい目で武項を睨んだ。そこには強い非難が込められていた。
「星涙には関係ない。力を殺めたのは私だ」
武項がそう告げると、ナミは目を伏せた。その瞬間、彼は勢いよく振り上げた剣を一気に下ろした。
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