第16話 戦

 三臣が庁堂を出ようとした時、扉の前には青白い顔をした陽が立っていた。

膝はがくがくと震え、唇は紫色に変色している。一目で異常とわかる彼女の様子に、三人は一瞬目を見張った。

「どうかしたのか」

 最初に口を開いたのは風見であった。砲はもちろん、海里もすぐに対応できなかった。

「あの…一緒に」

 陽はかすれる声で、ようやくそれだけ告げた。ほとんど庁堂に足を運んだことのない彼女が、こんな夜更けに訪れてくること自体尋常じゃない。緊急を察した三臣は、すぐさま庁堂を飛び出すと、無言で廊下を走り抜けて奥の武項の部屋へと向かった。

 人の気配は感じられなかったが、砲は用心のために剣を構える。そうして風見を後ろへと押しやると、自分は壁に右半身を付けながら中の様子を伺った。

 開けるぞ。声には出さずにそう告げた砲に、海里はこくりと頷いて見せた。それを合図と受け取った彼は、きちんと閉じられた扉を勢いよく蹴り開けた。

 部屋の中に入るなり、三人は一斉に顔をしかめた。そこにあったのは、息絶えたときのまま捨て置かれているのであろう二人の屍だったのである。

 現場は未だ血も乾ききっていないようで、異臭が立ち込めていた。剣を手にしたまま床に突っ伏している力と、部屋の片隅で小さくなっているナミ。もはや、彼らから生気は感じられない。

「酷いな」

 風見はそう呟くと、そっと顔を背けた。陽は吐き気を抑えるように、袖で口を覆う。海里はおもむろに屈み込むと、ばっさり斬り付けられている力の背中を見た。

 迷いなど感じられない太刀筋である。にわかには信じられないが、揉み合った末に斬られたというわけではなさそうだ。

「一体、誰がこんなことを」

「ここは武項様の部屋だ」慎重に尋ねた海里に、砲がぶっきらぼうに答える。

「陽、何があった」

 海里の問いに、彼女は答えなかった。ただ口に手を当てたまま、小刻みに震えるだけである。

「何が、あった?」

 今度はもっと強い口調で問う。老練な政治家達をも黙らせる海里の詰問に、ただの女が耐えられるわけもない。彼女の目には見る見るうちに涙が溢れてきた。

「茜が、ナミ様と、」

「はっきり答えろ」

 砲に怒鳴りつけられた彼女は、大袈裟なほどびくっと反応した。彼女は救いを求める様な眼差しを向けてきたが、海里は首を横に振って見せる。

 賢いとは言っても、やはり女。血を見る様な現場では、冷静ではいられないようだ。彼女が気を落ち着けるよう、海里はとりあえず涙を拭かせると、努めて穏やかにそう問いかけた。

「どういうことだ」

「ナミ様と、茜は、谷田と通じていたのです」

「谷田だと?」風見の表情が険しくなる。

「はい。此度の件は彼の策謀です。茜から聞いて、私は止めに来たのです。けれど間に会わなかった」

「奴はまだ東国に出入りしていたのか」

「ナミ様の手引きでございます」

「そんな大事な事、何故今まで黙っていた」

 砲は頭を抱えながら、また陽を怒鳴りつけた。彼女は両手で顔を押さえながら、壁に寄りかかる。

「私は、知らなかったのです。本当です。知っていれば、もっと早く中ノ様に、」

 打ち明けていました。そう続く言葉は、涙でぐしゃぐしゃになってしまった。

 おそらくその言葉は偽りではないだろう。根拠はなかったが海里はそう感じていた。

「それで策謀とは?」

 しばらく黙っていた風見が、ようやく重い口を開いた。彼は目眩を抑えるかのように、額に手を当てながら、陽にちらりと視線を向ける。

 力に星涙を斬らせる。陽が告げたその言葉で、海里は今回の事件の真相が大体読めた。風見や砲もわかったらしく、二人は同時に息を吐いた。

「どうしましょうね。内密に運びますか」

 砲はわざとらしい明るい声でそう言った。彼は自身の剣を指でなぞりながら、嘲るようにこう続ける。

「力様を殺めた犯人を別に仕立て上げ、その者を公開で処刑する。そうしてしまえば、武項様に罪を着せずに済むでしょう」

 砲の案を聞き終えた風見は、大きなため息でそれに応えた。

 ただでさえ悪評の武項である。今では彼の地位を守ることすら難しいというのに、力とナミを殺めたという罪を有耶無耶にするのは、殆ど不可能だろう。

「この状況で武項様を庇うのは無謀でしょう」

 海里は風見の代わりに、彼の心中にある意見を述べた。

「こちら側がいくら理屈を述べようとも、曖昧な部分をつついてくる輩は必ず現れます。その火の粉を全て振り払える保障はどこにもない」

「せめて逃亡さえしなければな」

 砲は憎々しげにそう言ったが、海里は内心でそれを否定した。武項が留まろうと逃げようと、結果はおそらく変わらない。信頼が失墜している今の彼では正当防衛であったと言い訳しても、誰も信じないに違いないだろう。

 海里は腕を組みなおすと、冷静に意見を述べた。

「今の武項様を守ろうとすれば、我らの立場も悪化することは間違いありません。誰が何と言おうと、最近のあの方は異常だった。星涙様が妖でないことはともかくとして、彼女に溺れきっていたことに違いはない。我らが全力を尽くしたからこそ、どうにか治世を行うことが出来ていたのです」

「海里の言うとおりだ。とにかく私は明日の朝一番で国府に行く。造様に直にお会いして、今後の処理を考えよう」

 風見はこめかみを押さえると、ため息とともにそう吐き出した。

「ところで星涙様は?彼女はこのことをご存知なのでしょうか」

 海里の問いに、砲は顔を歪めた。

「…武項様が彼女を残していくとは思えん」

 それはそうだ。いくら武項が堕落しきっていたとはえ、それこそ全て星涙のためである。彼女を放って自分だけ逃げるなどあり得ない。

 風見は力の体を検分していた海里にこう告げた。

「部屋を見るまでもないだろうけれど、一応葉那に確かめてくれないか」

「じゃあ、俺は探索部隊を手配しましょう」

 その場にある武器の数々を確認して歩きながら、砲が自分の役目を確認する。

「また、奥で合流しましょう。武項様の行方についてだけでも、打ち合わせが必要です。俺達の答えがばらばらでは、余計に不信感を与えてしまいますからね」


 海里が一部始終を告げると、葉那は恐怖を貼り付けたような顔をした。

「しばらく前に武項様の部屋に行かれると行ったきりです。戻ってはおりません」

 その事実を知っているのが葉那だけということでも少しほっとする。彼女の答えで、海里は自分の考えが誤りでないことを確信した。

「ここを出るとき、彼女は武器を持っていたか」

「ええ。いつもの長剣を」

 彼女はごくりとつばを飲み込むと、必死に冷静さを保とうとした。

「格好も普段と同じままです。いつもと何ら変わりはありません」

 海里はおもむろに部屋の中を歩き回った。星涙が普段から持つ武器は二つ。例の長剣と武項から贈られた懐剣である。両方、いつもの定位置には見当たらなかった。

「最近、星涙様は必ず剣を身につけております。武項様にそう命じられたとかで」

 葉那は海里の目当ての品に気づいたらしく、そう忠言する。自身も相当衝撃を受けているはずなのに、葉那は気丈であった。

「不審な物音などは聞いていないか」

 念のために確認を入れてみるも、彼女は悲しそうに首を横に振る。

「はい。何も…」

 仕方のないことだろう。ここと例の現場まではそれなりに距離がある。

「葉那、よく聞け。星涙様はずっとここにいた、そして武項様が彼女を連れ出された。誰に聞かれてもそう答えるのだ」

 海里は声を低めると、きつくそう命じた。当然彼女は驚いた顔をしたが、すぐに、わかりましたと頷いた。いつものように根掘り葉掘り聞いて来ないのは、今が緊急事態だという事を充分わかっているからだろう。

「いいか、たとえ風見様や砲に聞かれても同じことだ。私から言い含められたとも言ってはならない」

 頼んだぞと告げると、葉那は一度だけ大きく頷いた。


 

 海里が国府に到着したのは、それから数日後の夜更け頃だった。

「わざわざ悪かったね」

 一足先に着いていた風見は、そう言って苦笑いを浮かべた。

 幸いなことに、浦では未だ騒ぎが起こっていない。武項が政務に出ないのは常の事になっていたし、力とナミの行方は陽が上手く誤魔化している。それについて重臣達が何かを疑うという様な事もなかった。だから海里自身は特に普段と変わることなく振舞っていれば良かったのである。

 とは言っても、心痛、胃痛が止む事はない。海里でさえこうなのだから、風見のそれは察するに余りある。

「造様がお待ちだ」

 そう告げた彼の目下には、くっきりと黒い隈が浮かんでいた。おそらく、あの事件以来ろくに寝ていないのだろう。ただでさえ細身なのに、今は病的とも言える痩せ方だ。

 風見が向かったのは、庁堂への広い廊下ではなく、外に突き出した渡りの方だった。この先にあるのは造の私室である。

 やけに長いこの回廊は何度通っても慣れない。磨き上げられた床を滑る布の音がいつにも増して大きく聞こえるのは、緊張感のせいだろう。

 衝立の奥にいたのは、造と彼の側近が数名だった。風見に続いて中に入った海里に、造は苦々しいような、それでいて泣きそうな顔を向ける。

「おお、海里。来てくれたのか」

 疲れ切った様子の彼の目に映っているのは、まさしく恐怖の色だった。愛弟が引き起こした今回の一件は、単なる内輪揉めとはわけが違う。東国を根幹から揺らしかねない大罪である。

「して、武項の居所はわかったか」

 硬い声でそう尋ねる造に、海里は首を横に振った。

「四方に手を尽くしているのですが、未だにわからぬままでございます。」

 その答えに場の全員がため息を漏らした。造にいたっては、肩を落としたのが明らかだ。

「その件は、また後程。今は確実に御報告できる事をさせて頂きたく思います」

「と、申すと」

「力様とナミ様。お二人の最期についてでございます」

「何かわかったのか」

 造は幾分身を乗り出して、悲痛な声を上げた。弟が弟を殺める。そんな兄弟同士の討ち合いは、彼にとって痛まし過ぎる事件だ。

 海里はちらと風見を伺った。すると彼も海里の答えを待っているようで、視線で話を促してくる。

「砲と再度検分を行いました。そこから犯人像を割り出した結果、力様を殺めたのは武項様ではない、との結論に至りました」

 造はもちろん、側近達も驚いた様子で目をむく。

「理由は?その根拠は何だ」

 口を開きかけた造を制しながら、風見が問う。

「力様の傷口です。もし武項様の仕業であるならば、力様が負った傷が一つだけというのは些か不審ではないでしょうか。たとえいきなり斬りかかられたとしても兄弟の仲、兄の情で少しは手加減をなさるのが普通でしょう。そうなれば力量が歴然であるお二人のこと、武項様は致命傷にならぬ程度に傷を負わせるのではありませんか」

「なるほど。だが力様の傷口は上から振り下ろされた一刀のみ、確かにおかしいな」

 風見が納得したように同調した。

「そして決めてはもう一つ。あの場には血の臭いに紛れて、わずかに香の香りがしておりました」

 ここまで話せば海里の言わんとしていることが伝わるであろう。

「つまり、力を殺めたのは星涙だと申すのか」

 造の震える声に、海里は頭を下げることで同意した。

「事実、あれ以来、星涙様の姿はどこにもありません。単に武項様が彼女を連れ立って逃げ出したとも考えられますけれど」

 そこで口を閉じた海里の代わりに、造が思案げに呟く。

「いや、あの女は馬鹿ではなさそうだ。冷静な状態の彼女が、そんな無謀な策に乗るわけがなかろう。となれば星涙が力を殺め、武項は先に彼女を逃していたと考えるのが筋か」

 無言は肯定である。ここにいる者の全てが、今や星涙が犯人であることを確信していた。

「武項様はこれからどうするおつもりでしょうか」

 造の側近の一人がそう尋ねる。すると造は答えを求めるように海里の顔を見た。

「星涙様を伴って逃亡したことを踏まえれば、彼女の故郷に向かったとも考えられます」

「辰国か」

「戻ったからといってどうなるわけではありませんが、行く当てのない者であれば故郷を目指すのではないかと」

「有り得るな」

 造は顎に手を当てて、なるほどと言う顔をした。そこに風見はすかさず提案を持ち出す。

「軍を向けましょうか」

「いや、待て。もしそこにいなければ徒労に終わろう。ただでさえ辺鄙な場所に、無駄な軍は出したくないぞ」

 造は困ったように側近に同意を求めた。海里はどうにも煮え切らない彼らを心中で毒づいたが、表面上は謙虚さを取り繕った。

「無駄とは限りません」

 風見も含めた全員が一斉に海里を見る。どういうことだ、と尋ねる彼に海里はある策を打ち明けた。

「先の戦は正直誤算だらけでしたが…辰国は我らが倒すだけの価値があるものと存じます。彼らは大和の力に属せず、また奈須を脅かす危険な存在です。攻め滅ぼしたとしても誰に叱責を受けましょうか。大和の力を拡大するのですから讃えられることはあっても、罰を受けることはないでしょう」

「大和に恩を売るいい機会だというわけか」

「彼らを持て余している、奈須も同様かと」

「なるほど」

 風見はにやりと笑うと、海里の肩を叩いた。造達は先を見据えた彼らの話にほうっと感心していた。海里は今を逃すまいと更に畳み掛ける。

「それに、これはある意味で現実離れした話になりますが、星涙様は未だに龍神の加護を受けているという噂でございます。辰国に攻め入り龍神を滅ぼすことが、星涙様討伐の役に立つのではありませんか」

 東国にとって何の負にもならない策であった。世に東国の勢力を見せ付けるには、この上ない機会である。側近たちが沸き立つ中、造だけが浮かぬ顔色を見せていた。

「だが、その戦で武項はどうなるだろうか」

 出来ることなら無事のまま取り戻したい。そう懇願するような声色の彼に、海里はわずかにためらった。しかしこちらから告げることの出来る答えは一つしかない。

「それは…造様の御心次第かと存じます」

 現実がどうであれ、武項諸共葬り去るなどと、自分の立場で口に出せるわけがない。海里は当たり障りなくその場を凌ぐことにした。

 しばらく黙り込んでいた造であったが、ようやく意を決した。

「うむ、そうだな。とにかく辰国に軍を出そう。武項の処分は追って伝える。風見、浦からはどの程度出せるのだ?」

「武項様の手勢も全て砲が把握しております。彼とそれから数名の将で、討伐に充分な戦力の半分は用意できるでしょう」

「では国府からは残りの半分を出そうか」

 そう提案した造に、海里は手を挙げて意見を出した。

「いえ、佐間からも兵を出させましょう。最も国境に近い郡ですし、何かと便利でしょう。さすれば国府からの兵は半分で済みます」

「佐間か。妙案だな」

 造は感心したようにそう言った。

 海里が佐間を新技術の試行だけでなく、軍事的にも利用するために手中に置いていたなど、彼には考えもつかないのだろう。事情を把握している風見が彼に代わって話を進めた。

「派遣する兵の数や現地での指揮は砲に任せましょう。反武項様の声が上がる今となっては、造様の御身も危うい。私が今、浦を空けるわけにはいきません。かと言って、砲だけを遣わせるのも些か心許ない。ですから私の代わりとして此度は海里を戦場に向かわせ、私が浦で目を光らせることをお許しください」

 理路整然とした風見の話に一同は素直に納得したが、ただ海里ばかりは困惑していた。まさか戦場に送り出されるとは思ってもみなかったのである。


 

 辰国への進軍が開始したのは、それから二日後のことであった。

 一度に大量の兵を送り込んでも無駄だという砲の意見で、海里達は国府からの援軍に先んじて発つことにした。浦には信頼のおける部下数名を残しており、彼らが遅れて来る国府軍と合流する手筈を取ってある。

「まったく、皮肉な話だな」

 海里が記した策紙を見ながら、砲は自嘲気味にそう言った。

 軍略もトントン拍子で纏まり、兵糧の用意もすぐに整った。それもこれも『如何なるときにも軍を出せるように』という武項の考えのもと、常日頃から備蓄を欠かさなかった成果だ。

「自分で自分の首を絞めることになろうとは、思ってもみなかったでしょうね」

「まだ、そうなるとは限らないだろう」

 風見はどうにも浮ついた感じのする砲を諌めるようにそう言った。

「武項様が鍛えた兵達だ。もし、万が一に寝返りでもされたら、」

「それは有り得ません」砲は幾分怒ったかのような口調できっぱりと告げる。

「彼らは東国の武人です。裏切り者につく様な真似はしませんよ」

「なら、いいんだけれどね」

 風見は自分に言い聞かせるようにそう言うと話を本題に戻して、より綿密な打ち合わせを行った。そこで風見は戦場での権限を砲に、それ以外での権限を海里に預けたのである。

「砲は細かいことが嫌いだからね。何かあったら助けてやってくれ」

 風見がにこやかにそう告げると、砲は暢気に頭をかいた。

「まあ、一戦交えたことのある相手です。海里もいますし、充分勝てますよ」

「今回は敵陣まで乗り込むのだ。油断するな」

「わかっています。まあ多少不安があるとすれば、武項様と星涙が自ら兵を率いてくるかもしれないってことです。そうなれば楽な戦いにはならないでしょう」

「勝算が変わってくるか」

 声を強張らせた風見に、砲はにやりと笑みを見せる。

「いいえ、所詮は二人です。兵自体は訓練を積んでいないただの壁、蹴散らして見せましょう」

 自信あり気な態度ではあったが、海里は彼の心中にある不安を見抜いていた。

 ある意味、今回は砲と武項の戦でもあるのだ。武項に勝る武人であり、また将であることを明かす機会にもなるのである。

 武項を欠いた軍で戦に出るのも、総大将を務めるのも初めてのこと。まして攻めるべき相手が武項本人となれば、兵達の間には当然戸惑いが生じる。それを抑え込み、かつ、戦にも勝利しなければならないのだ。彼は今まで味わったことの無い重圧感に襲われているに違いない。

「とにかく、無理はするな」

 風見の再三の忠告に、砲はひらひらと手を振って応えた。海里は早口で出立の辞を述べると、急いで彼の後を追った。

 


 祈りに共鳴するように火の粉を放ち、炎は大きく燃え上がった。

 寸前まで迫る熱さに、肌が痛い。龍の形に整いながら次第に大きくなるそれに、果ては自分まで焼き尽されるのではという恐怖が脳裏を掠めた。必死で心を落ち着けようとしたが、そうすればするほど気持ちは焦るばかりだった。

 最初はうっすらと額に浮かんだだけだった汗も、今はもう流れるように顔中を伝っている。その中の一滴がつうっと目に入った時、浅海は思わず瞬きをしてしまった。すると、祈りが途切れたことに怒りを露にした龍神は、息つく間もなく耳を劈くような嘶きを上げた。炎は形を変えながらますます勢いを増して、浅海の喉元に喰い付かん勢いで攻めてきた。

 喰われる。一瞬、そう逃げ腰になったが、本能はそれを拒否した。自分でも無意識のまま、早口で祝詞の続きを述べていたのである。

 火勢が弱まった隙に、手元にあった桶の神水をばしゃりとぶちまけ、神酒を滝に流す。すると、今までうねる様に燃え上がっていた炎は急速に勢いを失った。それが元の蜀台に、ただの篝火としておさまるなり、浅海はその場にへたり込んだ。

「少し疲れたようですね」

 ユキはそう言って、竹筒に入った水を手渡してくれた。熱さと緊張のせいで喉はからからだ。浅海は受け取った水を一気に飲み干した。

「やっぱり、私じゃ駄目なのかしら」

 愚痴を漏らす浅海に、ユキは首を振って穏やかな笑みを向けた。

「そんなことありません。それは星涙様と比べたら敵わないかもしれませんけれど、彼女は特別でしたもの。気にすることはありません」

「でも、祈りの途中で龍神が怒り出すなんて」

 情けないにも程がある。浅海は悔しさに唇を噛んだ。ユキは乱れた浅海の髪を整えながらこう言った。

「あなた様が炎に馴染んでいないだけでしょう。時が経てば、必ず」

「どうかしらね…。途中で怖くなったわ。自分が取り込まれそうだった」

 星涙のような炎との一体感が、自分にあるとは到底思えなかった。どんなに祈りを捧げても、拒絶されているような気がしてならないのだ。彼女の域に到達しようなどという大それた望みは抱いていないが、それでも炎を自在に操れない巫女など、役立たずにしか思えない。

「自信をお持ち下さい。あなた様は充分、御自分の務めを果たしております」

「けれど、私なんて」

 せっかくユキが慰めてくれているというのに、気分はどんよりと落ち込んだままだ。

 口を開けば溜息とつまらない愚痴ばかり。力の無さにも心の弱さにも、自分の不甲斐なさに泣きたくなる。

 それからしばらくして、滝壺の端で膝を抱えて蹲っていた浅海はトントンと肩を叩かれた。顔を上げると、深刻そうな形相をしたフユと目が合う。

「少し、宜しいでしょうか?」

「どうかしたの?」

 何故か強張った声のフユにそう尋ね返した時だ。彼女の肩越しに一瞬だけ、きらりと光る何かを見たような気がした。

 何かいる。直感でそう思った浅海はすっと立ち上がって、ユキとフユを自分の背後に追いやった。

「そこにいるのは誰?」

 慎重に発した言葉は、岩場に反響してわずかに音を変える。

 落ち着きなさい。浅海は自分にそう言い聞かせながら、相手の出方を伺った。


「ほう。気配を読めるようになったのか」

 返って来たのは、聞き覚えのある低い声だった。久しぶりに聞くその声に、浅海の背にはぞくりと寒気が走る。

 樹木がざわめき、水面が波打つ。聖域を囲むように燈されている篝火も、何かに共鳴したようにその勢いを増した。辺り一帯がぴりぴりした独特の雰囲気に包まれて、息苦しくなる。こうさせる力を有する人物を、浅海は一人しか知らなかった。

「生きて、おられたのですね」

 白地に灰色の線が幾重にも刻まれた岩の陰から姿を現したのは、思う通りの人物であった。どうにか声を絞り出してそう告げた浅海に、彼女は不敵な笑みで応える。

「御帰りなさいませ」

 喉が焼けるように熱くて、こんなに短い言葉すらままならない。それ以上何か話す時間さえ惜しくて、浅海は走り出した。そして迷うことなく、星涙の胸に飛び込んだのだった。

 あの戦から優に半年は過ぎていた。今まで何処にいたのか。どうして戻ってこなかったのか。

 聞きたい事は山のようにあった。けれど、どれもこれも乾いた音になるばかりで、一向に言葉にはならない。代わりに温かい雫が浅海の頬を伝った。

「泣くな。馬鹿者」

 ぐすぐす泣く浅海の背を叩きながら、彼女は信じられないほど優しくそう言った。

「一族の巫女がなんだ。立場を弁えろ」

「だって、星涙様が」

 涙目のまま顔を上げた浅海は、ようやく彼女の格好をまともに見た。

 身に纏っていたのは東国の着物。多少痛んではいたが、こんなにも華やかで彩鮮やかなそれは最上の仕立物である。造か、それに近しい者しか許されない代物だ。 思いもよらない身支度の彼女を、浅海がぽかんと見つめていると、不意に横槍が入った。

「こら。我が妃をこれ以上、涙で汚すな」

 からかうようにそう言った男は、横からすうっと腕を伸ばして星涙の肩を抱いた。彼の顔を浅海は知っていた。

「武項様…」

「ほう。私を見知っているのか。良い心掛けだ」

 彼はそう言うと、より一層、浅海から星涙を引き離した。そうして彼女を自分の腕の中に閉じ込めると、安心したように表情を緩める、その一方で浅海の思考回路はぐちゃぐちゃに乱れ始めた。

 どうしてこの男がここにいる?自分を東国から追放した男が、どうして星涙と共にここにいる?

 脳裏に、月下の風見の顔が蘇った。彼が浅海に約した事、そして浅海が彼とその主である武項に誓った事。それは今でも変わり無き誓いのはずである。

 何を失ってでも浅海が護りたかったものを与えるべき相手が、何故この地にいるのか。さっぱりわからなかった。理性と感情が複雑に絡まって、今にも発狂しそうになった。

「星涙様。あちらの方は他国の者でしょうか?」

 放心状態の浅海に代わって、フユが口を開いた。彼女は怒り露わに二人を交互に睨みつけたが、彼らはどこ吹く風に涼しい顔をしたままだ。

「ここを離れていた間に、よもや掟を忘れてしまったわけではありませんね?」

「…許せ。今は非常事態だ」

 艶かしい動きで武項に寄り添った星涙は、少しだけ困ったかのようにそう言った。けれど言葉の割に表情は暢気そうで、余計にわけがわからない。

「私達は何も存じません。出来れば御事情をお話し下さいませ。まず、そちらの御仁は?」

 フユは不満露わにそう問う。すると、武項の方が口を開いた。

「吾は東国浦郡司、武項。星涙の夫だ」

「夫?」

 浅海とフユの声が混ざった。浅海は驚き顔でこう続ける。

「それでは、お二人は浦で祝言を?」

 その問いに星涙は嬉しげに笑った。笑ったのである。目の前の光景がとても信じられなかった浅海は思わず、嘘、と呟いてしまった。

「失礼な奴だな」

 星涙は苦笑しながらそう言うと、一つに留めた髪をぱさりと払った。風になびく黒髪は、以前にも増して艶がかっていて、日の光をきらきらと反射する。眩いほどの美しさは昔と然程変わりはなかったのだが、何かが違う。

「先の戦で私は東国軍の手に堕ちた。けれどそこで武項と出会い、彼と生きることを決めた」

「では、巫女として戻られたのではないのですか?」

 浅海がそう尋ねると、ただでさえ険しいフユの表情が更に歪んだ。

 巫女として在った頃は、神そのものであるかのように崇められ、そしてその命を賭して部下を救ったと信じられていた星涙。その彼女の口から巫女との決別を告げられるとは思ってもみなかったことだろう。まして彼女は平然と舞い戻ってきたばかりでなく、堂々と禁忌を破っている。幼い頃からその成長を見守ってきた彼女としては、耐え難い思いに違いない。

「わかってくれとはいわない。だが、誰にも私達の邪魔はさせない」

 今にも文句をぶちまけそうなフユに、星涙は先に牽制をかけた。彼女は武項の体にその白い腕を回しながら、意思の強そうな眼差しを浅海達に向けた。

「私は武項を得て、初めて呪いから解放された。これが本来の姿だ」

 呪い、と言う単語にやたら重みを置いた彼女に、フユは何も言えずに俯いた。それまで空気のようだったユキが、ようやく意識を取り戻したかのように、母親の背をそっと擦ってやる。星涙はそれを一瞥すると、思い直したように浅海に向き直った。

「単刀直入に言う。私達を匿って欲しい」

「匿う?」

 仮にも浦の司とその妃だ。彼らがこんな辺鄙な場所で逃げ隠れするなど、どう考えてもおかしかった。嫌な予感のようなものがぴんと感じられて、浅海は恐る恐る尋ねてみた。

「浦で何かあったのですか?」

「だと、したら?」挑む様に笑んだ彼女は、やはり美しい。

「私達が追われているとしたら、お前はどうする?」

 どうもこうもなかった。浅海にはもちろん、辰国の誰もそんな事情は知らない。 訝しげな眼差しを向けた浅海に彼女はこう言った。

「浦を支配するのは、今や武項ではない。三臣だ。彼らは武項に成り代わり、政を思いのままに動かしている。そして邪魔になった私達はあっという間にその地位を追われ、居場所も失った」

 星涙はそこまで言うと、浅海をじっと見つめた。まるで試されているかのようなその視線に気が落ち着かなくなる。

 

 真実か、偽りか。それを判断する術はここにはなかった。

 けれど浅海も元は東の国の人間だ。権力を守るためであれば、何を犠牲にしても構わないという人間を何人も知っていた。だから彼らがこじつけのような理由で、その立場を追われたとしても不思議とは思わない。だが逆に大胆にも彼らが間者としてやって来ることも有り得ないわけではなかった。

 信じるべきかどうかを迷っていると、不意に武項が口を開く。

「浅海。浦を追われた時、星涙は迷わずここを逃亡先に選んだ。何故だかわかるか。お前を信じているから、お前だけが頼りだからだ」

「けれど」

 どうしていいかわからずに、浅海は口籠った。すると彼はこう畳みかける。

「東国がどんな場所か知らぬわけではないだろう」

「浅海様」

 すっかり話から置いけぼりをくらっていたフユとユキが、驚きと疑いの混ざった複雑な顔を向けて来る。

「あなたはもしや東国の?」

 ユキのその問いに、浅海は思わず唇を噛んだ。西からの逃亡者としてこの国に入り込んだのである。今更、生まれを訂正するのもおかしなことだ。

「私は、」

「お願い。正直に言って」

 言い淀む浅海にユキは泣きそうな声でそう訴えた。彼女の隣ではフユが失望した表情をしている。胃がきりきりと痛んで、こちらも泣きたくなってきた。

「今まで騙していて申し訳ございません」

 浅海は覚悟を決めた。きっぱりとそう告げ、フユ達の正面に向き直る。そして深々と頭を下げた。

「私は東国の生まれです。けれどある事情から国を追われ、彷徨っていたところを菫に救われたのです」

「随分な言い草だな。なにも追い出したわけではあるまい」

 すぐさま武項の呆れ声が聞こえたが、浅海はそのまま地面を見つめ続けた。顔を上げるのは怖かった。彼女達の目を見るのが怖かったのだ。

 

 重苦しい沈黙の中、滝の水音だけが、やたらと響いて聞こえる。

「その情けない振舞は何です」

 誰もが口を閉ざす中、静かにそう告げたのはフユだった。無理矢理浅海の頭を持ち上げた彼女は叱り付けん勢いでこう言った。

「あなたはこの国唯一の巫女、最も神に近い存在なのです。それなのにたかが侍従に頭を下げるなんて。巫女に有るまじき行動はお慎み下さい」

 でも、と反論めいた事を呟いたが、それ以上口を挟む隙はなかった。フユは眉間に皺を寄せたまま、怒涛のように言葉を続けたのだった。

「今のあなた様には、出自が何処であるかなど、全くもって関係の無い事。巫女として、この国を統べる義務があるのです。いいですか。私達はあなた様の判断に従います。先代の巫女を護ると言うのなら、そうしましょう。それで戦になるのであれば、それはもう運命です」

 フユが言い終えるなり、ユキもまた浅海に向かって大きく頷いて見せた。茶みがかった瞳は『あなたを信じている』と、そう告げていた。

 彼女達は心を決めてくれた。嘘や偽りで塗り固められていた浅海を、それまでと変わることなく受け入れることを決意してくれたのである。

 ありがとう。浅海は小さな声でそう呟いた。

 

 巫女である以上、誤った判断を下すわけにはいかない。浅海は大きく息を吐き出すと、つかつかと星涙の前まで進んだ。

「星涙様。私はあなた様を信じてよろしいのですね?」

 その問いに誰しもが息をのんだ。星涙ですらも、うっすらと緊張感を漂わせている。彼女とこうして対峙するのはこれで何度目だろう。

「あなた様は御身を犠牲に、私や樹様、それに兵達の命を救って下さいました。ならば私達はその恩を返さねばなりません。」

「救ってくれる、と?」

「ええ」

 感謝する、とだけ告げた星涙は、武項と穏やかな眼差しを交わした。

「お変わりになられましたね。武項様に御心を許したからでしょうか」

 星涙はそれには答えず、ただ儚げに微笑んだ。

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