第14話 過去
年に一度の大祓の日、星涙は祈りを捧げ終えるとすぐに麓の社に入った。
「お疲れですか」
星涙の顔が不機嫌そうだったからであろうか。フユはそう尋ね、湿らせた布を手渡した。星涙はそれを受け取ると、額に乗せる。
「大丈夫。この位何でもない」
フユはその布が落ちないように気を配りながら、星涙の髪を解いた。それは漆黒そのものでとても美しく、指で梳くとさらさらと落ちてしまう。まるで絹糸のようになめらかだ。
「あまり無理をなさらぬように。大巫女様も言っておられたでしょう。巫女は神ではなく、あくまでも皆の祈りの象徴に過ぎないのだと」
「わかっている。第一、既に何人もの命を奪った自分は神になどなれやしない」
星涙は目を閉じると冷静に返事をした。それにフユは怒ったように反論する。
「戦で相手を倒すのは世の常、気に病むことではございませんよ」
フユは大巫女同様、星涙が戦に出ることを快く思っていない。しかし長の命が下れば戦場に出向かねばならないし、星涙自身もそうしたがった故に了承するしかなかった。彼女は、星涙の心が戦で汚されるようなことがないように、彼女なりにいつも気を配っていた。
「長も、何故未だに巫女様を戦にお出しになるのでしょうか」
「父上は私を疎んじておられる。あわよくば戦場で命を落とすことを願っているのだろう。どちらにせよ、あの女の差し金であることは確かだ」
星涙が冷たくそう言うと、フユは口を噤んだ。
その言葉は決して誤りではない。父である長の寵妃は、星涙を毛嫌いしていた。 星涙の実の母は、彼女を産んですぐに亡くなったそうだ。そのために星涙は幼き日から大巫女と共に日々を神殿で過ごし、彼女と彼女の側近であるフユに育てられたのである。
妃の評判は非常に芳しくない。彼女はこの国の出ではなく、長が戦場で見つけた女である。美しくはあったが性根が悪く、長を意のままに動かして権勢を振りかざし、大巫女が亡くなってからは止まる所を知らなかった。長の娘であり、巫女として国を動かす立場にいる星涙を目の敵にしては何かと嫌がらせを試みる。
無論、長がしっかりとした人物であれば、これらの問題が起きようもない。星涙の父である長は、これまたどうしようもない男であった。幼い頃から散々甘やかされて育ったために、心の成長が止まってしまったようである。欲しいものはどんなことをしてでも手に入れる、そのためには卑劣な手段さえも好んで使うような男であった。大巫女がいくら嗜めようと一向に聞き入れようとせず、彼女に敬意を払うこともしなかった。
そんな彼を誰もが黙ってみていたわけではない。これまでに何度か彼の命を狙う者もあった。しかしどうにも悪運が強いらしく、すんでのところで助かってしまう。逆に、長は自分の命を狙ったものを手ひどく処罰した。一族全員を焼き討ちにしたこともある。そんなことが繰り返されるうちに民は諦め、彼の命が早く尽きることを願うことしか出来なくなったのだった。
「民は巫女様に期待しております。どうか一刻も早く巫女としてのお力を高めてください」
フユは口籠りながらそう言った。そして言い難そうに続ける。
「大巫女様にとって長様は可愛い甥子、どうしても罰しきれないところがございました。妃様の件に関してもそうでございます。このままでは…」
「あの二人にこの国が破滅させられる。そうだろう?」
星涙は薄く嘲笑を浮かべ、フユを見る。彼女は口を出しすぎたと思ったらしく、唇を噛みながら俯いた。
「安心しろ。これ以上あの者達の好きにはさせない」
星涙は長い髪を払いながらそばに置いてあった剣を手に取り、こう告げた。
「私にもう少し力がついたとき、その時がこの馬鹿げた茶番の終幕だ」
剣を見る星涙の目は恐ろしく冷たかった。それをまともに見てしまったフユは、思わず身震いをした。
まさか娘が父を手にかけるようなことはないだろう。だが、この時の星涙は本気でそれをしかねない雰囲気を纏っていた。
そう、娘が実の父を殺めることなど普通は考えられない。フユは、今では自分しか知る由もない事実を、決して漏らすまいと固く決意した。
星涙が儀式装束から略装に着替えている最中、その知らせは突然舞い込んできた。原矢が正式な手順を踏まずに社まで踏み込んできたかと思えば、彼よりも慌てた様子の火明も飛び込んできたのである。
「巫女、大事だ」
原矢は息を切らせながらようやくそう告げる。顔をしかめたフユがそんな彼を叱責した。
「何の騒ぎか知らぬが、ここは神域です。場を弁えなさい」
「そんなことを言っている場合ではない。奈須の者が乗り込んで来たのだ」
「侵入者ごときでこの騒ぎ。あなたももう子供ではないのだから、いい加減に落ち着きなさい」
「それがただの者ではないのだ。その男、巫女にそっくりなんだよ」
ちょうど息を飲み込んだ原矢に代わって、火明がそう答えると、一瞬にして彼女の顔色が変わった。勿論星涙がそれを見逃すはずはない。
「その男が何をしに?」
わなわなと震えるフユを横目に、星涙は珍しく興味有り気に問い掛けた。
「…復讐。そう言っていた」
「長は激怒して、今すぐに処刑すると言い出した。今、親父がどうにか思いとどまらせて、男はとりあえず牢の中だ。内密に星涙を呼んで来いと言われて慌てて走ってきたというわけよ」
火明に続いて、原矢は一気にそう言った。しかし、彼ら自身も何が起きたのかはよくわかっていないようだ。星涙はそれぞれ複雑な表情の彼らをざっと見遣りながら、戦仕様に髪を一つに束ねると、愛用の長剣を手にした。
「とにかく行こう。場所は?」
「ここと真反対の牢です」
今すぐにでも星涙の手を引いて駆け出しそうな火明を、フユが強い口調で押し止める。
「お待ちなさい」
「何だよ」
原矢がしつこいと言わんばかりにフユを睨んだが、彼女がそんなことで臆するわけもない。彼女は事実のみをひどく気にしていた。
「本当にその男は巫女に似ているのですか?」
「ああ。巫女が男なら瓜二つだ」
「年の頃は?」
「多分、長と同じ位だろうな」
それを聞いてフユの顔は一気に蒼白になった。彼女はどうにか落ち着こうと、額に手を当てながら大きく息を吐く。そうして星涙の目を真っ直ぐに見つめると、その手を強く握った。
「巫女、お急ぎください。その方は貴女様の実の父君でございます」
今度は三人が驚く番であった。星涙は目を見開いて唖然とし、原矢達は口をぽかんと開けた。
「早く牢に向かうのです。急いで」
フユは三人を急かした。母の顔を知らない星涙に、せめて命ある父に会わせてやりたかった。
彼はその言葉通り、復讐に訪れたのだろう。かつて自分の最愛の女性を無理矢理奪い取った極悪非道な男に罰を与えるために。
だが、彼が救いに来たであろう玉涙はもういない。その忘れ形見である星涙と彼が並べば、真実は一目瞭然だ。あの男ならば、自分を長年騙し続けてきたかつての妃の裏切りを許しはしまい。たとえそれが自分の子供じみた我侭のためであったことなど、おそらくあの男には理解できないはずである。
「玉涙」
男は星涙を見るなりそう言った。それは頭の片隅に残る、顔も知らない母の名だった。
彼は目にうっすらと涙を浮かべながら、嬉しそうに星涙に微笑みかけた。その顔には生々しい傷がいくつもあり、まだ乾ききっていない血が痛々しい。考えるまでもなく、それらはきっと長がつけたものだ。
喜田の手引きもあったため、星涙達は厳重に警備された兵の合間をどうにか潜り抜けてここに辿り着けた。
兵達とて心底から長に従っているわけではない。機を待って、彼が倒れるその日を待っている面々なのである。次を担うであろう、喜田や原矢の命に逆らうはずもなかった。
「父上」
星涙は戸惑いながらもそう口にした。といってもそれは呼びかけよりも、尋ねたというほうがふさわしい口調だった。明らかに困惑した表情を浮かべる星涙に、男は優しく話しかけた。
「玉涙の娘か」
「ええ」
「名は何という」
「星涙、と」
「玉涙が付けたのだな」
一切の事実を知らない星涙は曖昧に微笑むしか出来ない。それでも男は満足そうに頷いた。
「あいつは元気か?」
男の期待するような問いかけに、星涙は答えられなかった。物心ついたときは、母は既になかったのだ。押し黙る彼女に代わって原矢が返事をする。
「玉涙様は巫女が幼き時にお亡くなりになりました」
その答えに男は眉根を寄せ、目を閉じた。強く目頭を押さえ、涙が零れ落ちるのをどうにか止めようとする。しばらく重い沈黙が辺りを包んでいたが、ようやく男は口を開いた。
「やっぱりそうか」
やっぱりという言葉に星涙達はわずかに反応する。
「もう十数年。元気に生きているなんて、ましてもう一度会えるなんて考えるのはやっぱり甘いな」
男はそう言うと、聞いているこちらまで胸が痛くなるような悲しげなため息をついた。
「遅すぎた…か」
「どういうことですか?」
ぽつりとそう言った男に火明が尋ねる。すると男は寂しそうに彼を見、作り笑顔を浮かべながらゆっくりと話し出した。
「もう十年以上も前か。俺達、奈須軍はこの国と戦って大勝した」
既に兵として戦に出ている火明が、その言葉にぎゅっと眉根を寄せる。
「あんたも武人かい?自慢じゃないが、俺は奈須軍の中枢を担う立場だ。総大将を務めた事もある。もしかしたら戦場で会ったことがあるかもな。まぁとにかく、あの時の戦、この国の奴らが境の村に傾れ込んできたときのことを話そう。お前達の軍は逃げ惑う民を誰かれ構わずに襲い、徹底的に一つの村を潰したのさ。俺達が出陣した時に見た光景は、それは大惨状だったよ。生のあるものは何一つ残っていなかった。家はもちろん、一面の草木は燃やされ、民は全滅だった。龍神とやらが存分に暴れたそうだが、あれが神と名のつく存在のしたこととはとても思えない。俺には鬼の仕業としか思えなかった」
「龍神はこの国を護る為にある。他国に牙を剥くのは当然だ」
興奮で顔を紅潮させた火明が、唾を吐かん勢いで噛みつく。彼にしてみれば戦で勝ち、辰国の領土拡大を図ることが責務なのである。いきなり現れた敵軍の言葉を素直に聞き入れられるわけもない。
「…互いに国を護ることが役目だ。それについては否定しないよ。けどな、その戦であの男が仕出かしたことは絶対に許されない」
赤々と燃える篝火が、星涙と同じ漆黒の目に鮮明に映った。彼の心の中に渦巻く、恨みの炎を映しているかのようである。
「玉涙は男勝りな女だった。奈須の造の縁者として深窓の姫君であればいいものを、弓は引く、馬に乗る、剣は振るう。武人としてそこらの男に引けをとらない程度であったのをいいことに、俺に付いて回って戦場に来たんだ。それが災いしたよ。境の村を落として調子づいていた辰国軍は、その勢いに任せて更に内部まで攻め込んできた。民が受けた苦しみを少しでも返そうと躍起になっていた俺は先陣を切って、敵に突っ込んでいったさ。だから、玉涙が何処にいるかを気にする余裕もなかった。それが間違いだったんだ」
男は血が滲むほど唇を噛んだ。目尻には悔し涙も浮かんでいる。星涙は自分でも驚くほどに、その男の気持ちに共感していた。
「戦支度をしていても、あいつは間違いなく美しい女性だった。だから手に入れたくなったんだろう。危険な場所から一早く逃げ出したあの男は、こそこそと動き回って、怪我人の手当てに当たっていた彼女を背後から矢で射、動けなくなったところを連れ去った。玉涙の周りにいたのは怪我人ばかりだったからな。誰も助けてやれなかった」
「…どうして。どうして、すぐに助けにこなかったのです?」
「そうだよな。そう思うのは当然だ。情けない話だが、俺がこうやって動けるようになったのは、最近なんだ」
男は溜息と共に吐き出すように告げる。
「例の戦で足を悪くしてな。当時は歩くことすら出来なかった。ところで、星涙っていったか。教えてくれ。玉涙はどうして死んだんだ」
唇を噛みしめた男は牢の柵を握り締めながら、星涙にそう懇願した。目に涙を湛え、真剣に頼み込む。だが、星涙に彼の思いに応えられる術はない。むしろ自分でもわからないことばかりなのだ。必死の彼に自分が何もしてやれないことが悔しくて、星涙は床を睨みつけた。
「それは私からお話しましょう」
突然入り口のほうから声が響き、三人は一斉にそちらを振り向いた。そこには小さな松明を手にしたフユが立っていた。無言のまま中に入って来た彼女は、静かに牢の前に屈むと、男に軽く会釈した。
「玉涙様は自害なされました」
彼女がそう告げるなり、男の顔が歪んだ。
「真か」
こくりと頷いたフユの瞳には、たくさんの雫が溢れていた。
「長は嫌がる彼女を無理にこの地へ連れてきました。ちょうど神殿を出ていた私は、長の屋形に閉じ込められていた彼女を見つけたのです。彼女は涙ながらに、自分が身篭っていることを打ち明けてくれました。泣き叫んでぼろぼろになり、生気もなくしたような彼女が不憫で仕方なかった。だから私はすぐに大巫女に報告したのです。大巫女はすぐに彼女を神殿に匿うように命じました。私は喜田達の力を借りて、長に見つからないように事を起こしました。長は何度も彼女を取り戻そうとしましたが、さすがに神殿を汚すことは恐ろしかったのでしょう。彼も無理なことはいたしませんでした。けれど、あれは星涙様をお生みになってすぐのこと、玉涙様が崖の上の祭壇に赴いたときのことでございます。長は前触れもなくそこを訪れ、偶然出くわした玉涙様を連れ去ろうとしたのです。私が見つけたとき、二人は必死に争っておりました。彼に連れられていくことが余程嫌だったのでしょう。止めるまもなく玉涙様は、長から奪った懐剣で自らの胸を貫きました」
話し終えたフユの目からはたまりにたまった雫が溢れていた。嗚咽でむせながら、彼女は途切れ途切れに言葉を告げる。
「私がもう少し早く見つけていれば、あんなことにはならなかったかも知れません。申し訳ございませんでした」
原矢が彼女を宥めようと、軽く背中を叩いてやる。火明は何も言えずに、ただ星涙を見つめていた。男は下を向いて俯いたが、搾り出すように声を出した。
「あんたのせいじゃない。俺のせいだよ。俺が彼女を護ってさえいればこんなことにはならなかったんだ」
薪のはぜる音と、フユの啜り泣きが暗い牢に悲しく響く。そんな中、星涙は恐ろしく冷たい声でこう言った。
「違う。元凶は全て、あの男だ」
その頃長の屋形では、男の処罰を巡って喜田と長が激しく口論していた。
「なりません。儀式を終えたばかりの今、処刑を行うことは禁忌でございます。一族の掟に背くおつもりですか」
喜田は出来る限りの大声を張り上げた。しかし相手には何の効果もないようである。長は煩わしそうな顔をすると、人を小馬鹿にするような口調で応酬してきた。
「私は長だ。臣下のお前がとやかく言うことではない」
話の論点すら噛み合っていない長に、喜田は根気よく尋ねる。
「どうして余所者が領地に立ち入っただけで、処刑なのですか」
「あれは単なる侵入者ではない。奈須の将、我が国の敵だ。即刻、刑に処すべきだろう」
長は有無を言わせないというように喜多に人差指を突きつけた。言い出したら聞かないのは子供の頃から変わらない。中身はわがままな少年のまま、体だけ成長してしまったのだ。
「いいか、これ以上余計な口を出すな。わかったか」
長はそう言うと不機嫌そうに背を向けて、外に飛び出していってしまった。
「どうしようもありませんね」
すぐ傍にいた喜田の側近も、呆れてものが言えないようである。
絶対に臣下の助言を聞き入れないのはいつものことだが、今回ばかりは彼の傍若無人さを許すわけにはいかない。彼は一族の禁忌を犯そうとしているだけでなく、星涙からもう一人の肉親を奪おうとしているのだ。喜田は今回の原因になる十数年前の出来事を思い出した。
まだ、長がその地位になったばかりの頃である。奈須から不意の攻撃を受けたのだ。知らせを受けた喜田は、慌てて軍を編成した。時間がない中どうにか軍を現場に送ったまではよかったが、長が喜田の予想外の行動に出たのである。
彼は喜田に何の報告もなしに戦場に赴き、軍の指揮を執りだしたのだ。当然将校達は驚き大反対したが、その声が大きくなるにつれて長の意思はより強固になっていった。結局長は皆の反対を振り切って、軍の先頭を切ったのである。
龍神のおかげで幾度かは勝利したが、ろくに戦の経験もない彼がそんな大役を最後まで果たせるわけもない。周囲の期待通り彼は肝心なところで逃げ出したのである。
「我々が命を削って国のために戦う中、山に逃げ込んで雲隠れ。いいご身分です」
側近達は長への不平をあからさまに口にした。ただ逃げていただけならまだしも、長はその間に他国の女性を攫って来たのである。長を責める声が国中に鳴り響くのは、無理もない。
彼が民からの信頼を失ったのは、これがきっかけだっただろう。喜田はそんな思い出を思い出しながら、もう一度深くため息をついた。
「とにかく、この時期に処刑はまずい。何としてでも阻止するぞ」
側近達にそう告げ、喜田は長の後を追った。
「逃げてください。父上」
星涙は格子の隙間から男の手を取ると、強く訴えた。父と呼ばれた男は、嬉しそうに少し目を細める。
「こんな綺麗な娘に父親って呼ばれて、俺は幸せ者だな」
星涙もそんな彼に表情を緩めたが、気を引き締めて再度強く言った。
「彼らの力を借りれば、あなた一人逃がすことは造作ない。逃げて。無事に生きて」
「お前はどうするんだ」
男は不安げに星涙を見つめた。
「お前は俺と玉涙の娘だろう。この国の者じゃねえ。それでもここで生きていけるのか」
背後で原矢と火明が体を硬くするのがわかった。一族の者ではない自分が、巫女として君臨するのは確かにおかしな話である。
「星涙様は、大巫女様によって巫女と認められております。その決定は絶対ですから」
星涙の迷いを察したのか、フユはそう口にした。それを聞いて、男は少しばかり肩を落とした。
「…出来ればお前も連れて帰りたい。玉涙が残した宝だからな」
「私を共に?」
彼の言葉に驚いた星涙は、手に力を込めた。巫女としてではなく、自分を娘として必要としてくれたのだ。初めて肉親から受ける愛情に心が揺れる。気恥ずかしそうに微笑む父親に、星涙もつられて頬を緩める。
「巫女は父親似だったのだな」
原矢は二人を見ると、感心したようにそう言った。切れ長の目も、すっと通った鼻筋もよく見れば彼にそっくりである。
「玉涙にもよく似ているさ」
男はにこやかに言う。この場には似つかわしくない暖かな空気が一同を包み、星涙は幸せというものを感じることができた。
「星涙、お前今いい顔してるよ。この人と一緒に行ったらどうだ」
原矢は星涙の肩に手を置きながら、そう言った。火明もフユもそして星涙もが、まじまじと彼を見つめる。
「だってよ、お前はこの国の者じゃないんだろ。だったらここに縛られている意味はないだろうよ。確かに巫女としても武人としても優秀なお前がいなくなることは痛手だ。でもお前のためには、その方がいいんじゃないか」
「そうだな。好きにすればいいだろうと思う」
火明も兄に続いてそう言った。
星涙は二人の兄弟と父を見比べ、そしてフユを見た。彼女はまだうっすらと涙を浮かべており、寂しそうな目で星涙を静かに見ている。
「どうしたらいいだろうか」
星涙は、似つかわしくない迷ったような口調でそう尋ねた。
「自由に、あなた様の好きな道をお選びください」
フユはどうにか笑顔を作って、星涙に微笑みかけた。けれど涙を堪えている彼女の表情からは、明らかに寂しさが伺える。
「私は」
星涙が何を言おうとしていたのかは、ついに明かされることがなかった。口を開いたその時、突然怒声が響き渡ったからである。
「そこまでだ」
四人は一斉に声の方を振り向いた。そこには目を血走らせた長と兵達が、入り口を塞いでいた。
「星涙、お前がなぜここにいる」
長は怒りに満ち溢れた声でそう怒鳴った。癇癪持ちの彼にとってそれは珍しいことではなかったが、星涙に対しては初めてだった。彼は巫女としての力を恐れるからか、星涙には出来るだけ穏便に接してきたのである。
「巫女が神殿を離れるとは如何なる了見か」
常識など持ち合わせない長に何を言われようと気にならないが、状況は不利だ。
「申し訳ございません。即刻立ち去りましょう。」
星涙は当たり障りなく返し、長を軽く睨んだ。牢の中にいる父も、同じように長を睨みつける。二人の顔が余程に通っていたのであろう。長は気が狂ったように喚いた。
「裏切り者。一族外の者め。星涙を捕えよ」
長がそう命じると、部下達はすぐに従う。数人の兵が星涙の腕を掴んで、取り押さえた。抵抗しようともがいたが、所詮少女の力では屈強な男の力には叶わない。 しかしそれでも星涙は声の限り訴えた。
「全ての儀式の終わる刻までは、処刑は禁じられております」
「巫女自らその掟を破っておいて、今更何を言う。さっさと外に連れて行け」
長が小馬鹿にするようにそう言うと、星涙は兵達に引きずられるように岩屋の牢獄から連れ出された。
外に出ると心臓はますます早鐘を打つ。父の安否が気になって、星涙はじっと牢の出口を見つめた。次に火明、そして原矢の順で外に放り出されてくる。
「大丈夫か」
体を動かせない歯痒さと苛立ち、それに恐怖という緊張が加わり、自然と声が震える。泣きそうになる気持ちを堪えていると、すぐそばで父の呻き声が聞こえた。慌ててそちらを見れば、両手をきつく縛られ、苦しそうにしている姿が目に入る。
「父上」
星涙はそう叫んで、彼に向かって走ろうとした。しかし兵たちは彼女を抑える力を強め、身動きを取れなくする。そうする間に父の体は地面に倒された。長が父の体を踏みつけて、狂ったように笑い出す。
「今更のこのこ現れなければよかったものを。せいぜい自分の馬鹿さ加減を呪うことだな」
長は嘲る様にそう言い放ち、剣を抜いた。父の顔が一瞬恐怖に歪んだが、すぐ強気に戻って相手を睨みつける。
「お前の所為で玉涙は」
「あの馬鹿な女は自ら胸を刺したのだ。生きていれば我が妃として暮らせたものを。馬鹿な事だ」
「ふざけるな」
それが父の最期の言葉であった。長は両手で柄を握ると、上からまっすぐに父の胸を貫いた。力を込めて何度も何度もその体を刺した。
ようやく気が済んだのか、やっと長はその体から離れた。そして星涙の方を向き直り、笑みを浮かべながら呟く。
「終わりだ」
星涙はあまりの衝撃に言葉を失った。涙すらも出てこない。
長は笑いながらその場を離れ、星涙を押さえていた者たちも彼の後を追っていった。後に残されたのはさっきまで息のあった父の、変わり果てた無残な姿であった。星涙は衣服が血に塗れるのも気にせず、彼を抱きしめた。
「父上」
悲しみがこんなにも痛いものだと初めて知った。星涙は声の限りに泣き叫んだ。感情を露にした彼女のそんな姿に、三人は為す術もなく立ち尽くすだけであった。
「その一年後、私は儀式を利用して奴らを葬った。それも幼い妹や弟の前で、だ」
星涙は自嘲的にそう言うと、膝を抱えて蹲った。武項はそんな星涙を力いっぱい抱きしめる。
「そなたに罪はない。民のことを考えない輩など粛清されるべきだ、そうだろう」
「皆のためにそうしたのではない。私は憎しみに任せて行動しただけだ。剣を振り下ろしたとき、何のためらいもなかった。むしろ喜びすら感じていたのだ」
ぽつりとそう言う彼女の声には、全く覇気が感じられない。
巫女であったために、その罪が正当化出来ていたのである。しかしそれを失った今、星涙には重い罪悪感だけが残された。
「泣きたいときは素直に泣け。そなたの全てを受け入れてやる」
その言葉に、星涙は武項の胸に縋って泣いた。涙に濡れる彼女の表情に、思わず息をのむ。
美しい、それ以上の言葉は見つからなかった。彼女の白い肌は月明かりに照らされ、涙が落ちる様はまるで真珠が滑るようである。星涙は武項の目を見つめながら、掠れる声で訴えた。
「私は無力だ」
「それがどうした。そなたが何者であろうと、私にとってかけがえのない存在だということは間違いない」
武項は低い声でそう言うと、彼女の手をとる。
「私はそなたが心底愛しい。星涙さえいてくれれば他には何も望まない。この浦も、地位や財産も全て手放そう」
武項は抱きしめる力を強めると、そっと言い聞かせた。
「星涙、約束するよ。何があってもそなただけを愛し、最期のときまで力の限り護ろう」
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