第13話 変化

 馬を駆らせる樹の後ろで、浅海はずっと泣いていた。嗚咽を漏らす度に、彼の背が震える。

「すまなかった。私の力不足のせいで」

 樹は浅海に負けず劣らずの涙声でそう呟いた。

 樹の所為じゃない。そんなことはわかっている。けれど、今の浅海には彼に慰めの言葉をかけられるほどの余裕はなかった。

「早く戻りましょう」

 苦い喉の奥から、ようやく出てきたのは彼を責める様な声音だった。浅海より数段参っているだろう彼には少々酷すぎたかもしれない。言ったすぐそばから後悔したが、謝る気力もなかった。

 

 星涙は全てを覚悟して二人を逃したのだ。そして、その代償は大き過ぎた。

 弓の走る鋭い音。剣と剣がぶつかり合う金属音。青い空に飛び散る鮮血。ばたばたと倒れる兵達。思いだしたくもないのに、頭の中には、戦の混乱ぶりが鮮明に蘇ってくる。

 命の遣り取りと死を眼前に突きつけられて、浅海の頭は狂いそうだった。自分達が生きているという事実が、重くて、苦しい。自分達だけが、生きて国に戻ることは、大罪のように思えた。

「ああ。急ごう」

 樹は抑揚の無い声でそう告げると、口を閉ざした。

 きっと、彼も同じ思いなのだろう。若干速度を速めた彼に振り落とされないよう、浅海はしがみつく手に力を込めた。

 

 二人が辰国に着いたのは、夕刻になってからだった。

 多くの者達が心配そうな顔を浮かべて、二人を出迎えてくれていた。その中にユキの姿を見つけた浅海は、馬を下りるなり転げるようにして彼女に抱きついた。

「ごめんなさい。巫女を、みんなを護れなかった」

 声は途切れ途切れになってしまい、話すたびに息が苦しかった。ユキはそんな浅海の頭をそっと撫でる。

「いいえ。あなたが無事でよかった」

 彼女の声はとても優しかった。けれど、その優しさが今はとてつもなく痛い。

 ユキの恋人である火明も行方知れず。星涙を護る多くの兵達も、もはやどうなったかわからない。彼らを、そして星涙を犠牲にしてまで戻って来たのは、浅海と樹の二人だけだ。無力さが情けなくて仕方がなかった。

「樹、浅海。よく戻ったな」

 心痛そうな顔でそう声をかけてきたのは、原矢だった。浅海はユキから体を離すと、彼に向き直る。

「あなたのせいじゃない」自分のものではないと思うほど、低い声だ。

「あなたがこんな馬鹿げた戦を始めなければ、こんなことにはならなかったわ。星涙様を返して、皆を返してよ」

 服を掴んで揺さぶるが、原矢は押し黙ったまま何も答えない。彼は浅海にされるがまま、ぼかぼかと殴られていた。

「やめなさい、浅海」

 取り押さえようとするユキをがむしゃらに振り切る。そして両手で彼の胸を叩こうとしたのだが、誰かの手によって妨げられてしまった。

 きっ、と睨みつけた先には、今にも泣きそうな樹の顔があった。

「離して」

 泣き喚く浅海の手を掴んだまま、彼は首を横に振る。

「やめてくれ。辛いのは皆同じだ」

 そう呟いた樹の目には、水っぽいものが浮かんでいた。それ以上顔を見ていられなくなって、浅海は俯きながら彼の手を振り払う。

「とにかく屋形に戻ろう。皆に状況を伝えるのが先決だ。今後のことも話し合わねばならない」

 樹は力ない声で浅海にそう言い聞かせた。彼の精一杯の振舞いに、浅海は頷くことしかできなかった。

 

 樹の話を聞き終えると、屋形の内は沈黙に覆われた。

 最強と信じていた自国の敗戦。天下無敵の巫女である星涙の敗走。どちらも俄かには、信じられなかったのである。

「姉上は、私と浅海を逃してくれた。何があっても戻ってくるなと、命じられた」

 樹は悔しそうにそう言った。浅海はまた涙が溢れそうになるのを必死に堪える。

「結果まではわからないが、あの状況から盛り返すのはほとんど不可能だと思う」

「残った兵たちはどうなったのかしらね」

 ユキがぽつりと呟いた問いに、原矢が答える。

「敵方に落ちたと考えるのが筋だろうな」

「それに、最後まで残っていたのは精鋭達ばかりだ。姉を捨てて逃げるようなことはしないだろう」

 樹の言葉で、ユキは泣きそうな顔をしたが、涙は見せなかった。本当は心配で仕方がないだろうに、彼女は必死で強気を装う。

「でも、まだ全員が倒れたとは限りません。樹様達みたいに戻ってくる可能性だってあります。彼らを信じましょう」

 無駄な望みだ。その場にいた大方がそう思ったであろう。けれどユキの力強い声で、浅海は、はっとした。

 星涙は、皆を泣いて悲しませるために浅海と樹を逃したわけじゃない。これからの辰国の命運を二人に賭けたのだ。

「ユキの言う通りだ。泣いていても仕方がない」

 そう言ったのは樹だった。それまでとがらりと顔つきが変わった彼は、力強く続ける。

「これからの事を考えよう」

 樹は円になって座っている一同をぐるりと見渡した。全員の視線が彼へと集まる。

「姉がいない今、二つの空席が生まれる。巫女と、軍の将だ。国を立て直すに欠かせないこの二つを如何に埋めるべきだろうか」

「巫女は、娘である浅海が継ぐべきでしょう」

 今まで黙っていたフユが、即座にそう答えた。その声には一点の迷いもない。彼女の横ではユキも頷いていたが、原矢を含む他の面子は複雑な表情をしている。原矢は曖昧に頷きながら、顎に手を当てて唸り出した。

「いくら慣わしとは言え、どうだかな。浅海は、その、何だ」

「余所者、と仰りたいのでしょう。けれど、彼女の出自が何であれ、巫女の決定は絶対です。娘が一人しかいない以上、浅海以外が跡目を継ぐ事は許されません」

「だがなぁ。ああ、そうだ。浅海、お前は星涙から全ての知識を学び終えているのか」

「一応、一通りは」

 浅海はフユの顔を伺いながら、自信なさ気に答えた。すると、彼女は窘める様な顔でこちらを睨みつけ、ぴしゃりとこう告げた。

「巫女の跡は娘が継ぐ。当り前の事です。彼女に足りない部分は、私とユキとで埋めましょう。原矢殿、よろしいですね」

 フユの有無を言わせぬ態度で、皆、一斉に首を縦に振った。その瞬間、浅海の心臓はばくばくと大きな音を鳴らす。

 さっきまでの強い決意は何処へ行ってしまったのか、内心にあるのは困惑と懼れだった。巫女という称号を得た事の嬉しさはほんのわずかだ。負わねばならないものの重さに、身体全体が押し潰されそうだが、逃げるわけにはいかなかった。これは浅海に課された使命なのである。

「では、将の方はどうする。弟が生きていれば迷いなく奴に託すが、あれも忠義な男だ。巫女に何かあれば、自分も生きてはいまい」

 原矢は何気なくそう言ったのであるが、浅海はユキがぴくりと反応するのを見逃さなかった。もちろん鈍い彼がそれに気付くことはなく、話はそのまま続けられる。

「ここは、樹。お前が務めたらどうだ」

 原矢の提案に、樹は躊躇うことなく頷いた。彼は一度目を閉じると、そのままゆっくり息を吐いた。

「皆に異論がないのであれば、引き受けたい。もともと今回のことは私が原因だ。戦場で果てるには一番相応しい身だろう」

 否、を告げる者は一人もいなかった。原矢が、うんうんと一人納得する。

「決まりだな」

 彼がそう言った後、樹は浅海に微笑を向けた。柔らかい表情とは裏腹に、その瞳の内に込められていたのは、悲しみと寂しさだ。それが何を意味するのかは、多分、浅海が思っている通りだろう。


 翌朝、長の屋形の前には、辰国中の人間が一人残らず集まっていた。中には、菫の姿もある。まず、原矢は彼らに現状を話して聞かせた。

「信じられぬことであろうが、我らは東の国に大敗を喫した。戻ったのは伝令を仕えた兵と樹、それから浅海の三名だ。残りの者の消息はわからぬ。巫女は樹と浅海を逃すのが精一杯だったそうだ」

 そこまで伝えると人々から啜り泣きや、落胆の声が聞こえだした。予想以上の反応に動揺した原矢は、ちらと不安顔をフユに向けた。けれど彼女は助け舟を出すでもなく、無表情のままである。仕方なく彼は、気を取り直して声を張り上げた。

「確かに悲しい出来事だ。だがまだ辰国が滅んだわけではない、我らはまだ生きているのだ。今後、巫女は娘である浅海が引継ぎ、将には樹がつくこととなった」

 破滅をもたらしかけた二人が国の頂点に立つことに、当然、人々の間にはざわめきが走った。口々に疑問の声をあげ、中には罵声も交じっている。原矢はそんな彼らを静めようと、浅海を擁護した。

「浅海は確かにこの国の出ではない。だが、今、娘は彼女しかおらん。他に誰が務められるというのだ。幸いにも、浅海は既に巫女の修業を終えている。彼女をおいて相応しい人間が他にいようか」

 珍しく説得力のある彼の言葉に、浅海は心のうちで感謝した。だが、皆の態度は硬いままだ。認められない事に段々決意も揺らいできて、浅海は泣きそうになった。涙を零さないようにぎゅっと目を瞑り、膝にある拳を強く握りしめる。

「皆、何を懸念しているのですか」

 そう問いかけたのは、鈴の鳴る様な声。菫だった。彼女はすくっと立ち上がると、両手を広げて大袈裟に語りだした。

「巫女はこの地に縁のあるものではならないなどという決まりごとでもあるのかしら。もしそういうならば、私達は既に間違いを犯していたのよ。だって一族最高の巫女であると信じられていた星涙は、辰国の血など一滴も受け継いでいないのだから」

 人々の間に、さっきまでとは比べ物にならないほどのざわめきが走る。原矢は慌てて彼女を黙らせようとしたが、菫は彼を睨みつけて話を続けた。

「星涙は先代の娘なんかじゃない。どこの誰ともわからないような両親を持った、ただの余所者よ」

 やめろ、と樹が制するが彼女は黙らない。菫はその桃色の唇をぺろっと舐めると、愛くるしい笑顔でこう続けた。

「けれど彼女は、この国始まって以来最高の巫女だった。そうでしょう。当代の長を儀式と銘打って、葬り去るという大罪を犯したのに、誰も彼女を罰しなかった。それどころか、余計に彼女を神として崇め奉っていたじゃない」

「菫っ」樹が声を荒げる。けれど、彼女はますます笑みを大きくした。

「兄上だって覚えているでしょう。泣き止まない私を、あなたは必死に慰めてくれた。震えが止まるまでずっと手を握っていてくれた」

「巫女には、巫女の考えがあったのだ」

 まるで駄々をこねる幼子に言い聞かせるように、原矢がそう告げる。けれど菫はますます激昂した。眉間に深い縦皴を浮かべて、声を荒げる。

「考えですって。随分都合のいい言い訳よね。だけど事実は一つなの。あの女は皆の前で、私達の目の前で父と母を殺したのよ」

 菫はほとんど叫ぶようにそう言った。その目にはいつの間にか涙が浮かんでいる。浅海は思わず立ち上がろうとしたが、隣にいたユキに裾を引っ張られる。

「やめなさい。あなたが関わるべきことじゃない」

 ユキは鋭くそう言い、厳しい視線で浅海を制した。

「でも、菫を止めないと」

「あなたは巫女になるべき人間よ。ここで感情的な姿を見せてはいけないの」

 ユキは真剣な声でそう告げた。でも、と尚食い下がろうとする浅海に、彼女は強硬に首を振る。彼女は浅海の両肩を掴みながら、揺さぶる勢いで詰め寄って来た。

「星涙様を思いだしなさい。あの方なら、どうすると思う」

 彼女なら決して取り乱しはしない。そもそも雑然とした人の声など、耳に入りすらしないだろう。そう思い直した浅海は、目を閉じて大きく深呼吸した。胸に手を当てて、荒波の様に暴れる心を鎮める。

 その時、自分の気持ちの整理だけで精一杯だった浅海は、既にユキが自分を見ていないことなど、ちっとも気付かなかった。既に彼女の視線は、ただ一点だけを捉えていたのである。


「それだけ、長達が腐りきっていたということだ」

 どこからともなく聞こえて来た力強い声で、衆人らのざわめきが一瞬で静まる。

「火明」隣にいたユキはそう呟くなり、立ち上がって走り出した。

 まさか。浅海はそう思ったが、彼女が駆け出した方向の先には、間違いなく彼がいた。それも一人だけじゃない。ぼろぼろの格好ではあったが十数名の兵達が、生きてその場に立っていたのである。

 浅海はよろよろと立ち上がると、そのまま彼らの方に歩き出した。樹も飛び出してくる。

「おお。お前達も無事たどり着いたのか」

 火明はユキを抱きしめたまま、進み出てくる二人にそう言った。浅海と樹は同時に大きく頷いてみせる。

「お前達だけで大丈夫かと心配していたのだが。どうやら杞憂だったようだな」

 火明は心底ほっとしたようにそう言ったが、その顔には相当の疲れが刻まれていた。あの後、彼らがどれだけな目にあったのか。想像することさえも怖かった。

「あの、星涙様は」

 帰還者達をぐるりと見渡した後、浅海は震える声でそう問いかけた。すると兵達の顔は一斉に曇り、全員が俯く。

「一緒じゃ、なかったの?」

 彼女の姿がない。それだけで答えなど一目瞭然だ。けれど、聞かずにはいられなかった。

「巫女は敵方の捕虜となられた。我らを救うために、その身を敵方へと投じたのだ」

 火明の右腕とも言える武人は、顔を辛そうに歪めながらそう告げた。それを聞くなり、浅海の頭は真っ白になる。

「嘘でしょう」

「本当だ」そう告げた火明の声は沈痛そのものだった。

「星涙様は巫女としての、将としての誇りを全て投げ打った。その御身を犠牲にされ、我らを救ってくださったのだ」

 目眩がして、浅海は土の上にへたり込んだ。それにつられたのか、兵達からは啜り泣きが聞こえてくる。辺りは一段と物悲しくなり、群衆からも嗚咽が漏れだした。

「我らには、どうすることも出来なかった」

 そう言った火明は、大きな体をぶるぶると震わせた。彼もまた、必死に涙を堪えているようだった。

 どうして星涙だけが戻ってこない。どうして彼女だけがこの場にいない。そんなことが頭をぐるぐる廻り、涙さえも出て来なかった。

「浅海、とにかく今は彼らの無事を喜ぶべきだ。彼らの姿を見てごらん、充分な手当てが必要だ。姉のことは彼らに休息の時を与えた後で考えよう」

 膝を折って浅海と目線を合わせた樹は、静かにそう言った。彼の言葉で、浅海はゆっくりと顔を上げる。

 兵達の軍服はぼろぼろに裂けており、うっすらと血の匂いも漂っている。中には浅海達を逃すために負傷した者もいるはずだ。散々に苦しんだ後が鮮明に残されており、浅海は今更ながらに先の戦の厳しさを思い出した。

 樹の手を借りて立ち上がると、いつやって来たのか原矢がすぐ後ろに立っていた。彼は、若干恐ろしげな顔をぐしゃっと歪ませて、弟に手を差し出す。

「火明。無事で良かった」

「おう。帰還が遅れて済まなかったな。兄上」

 実の弟の生還は、やはり嬉しいものなのだろう。原矢は毛深い腕を顔面に擦り付けると、目から零れ落ちた涙を雑に拭いた。

「主を見捨てての生き恥だ。そんなに喜んでくれるな」

「馬鹿者。何が恥な事か。お前達が、こうして」

 彼の言葉はそこまでだった。後は獣の咆哮の様な男泣きで、何が何だかわからなくなってしまったのである。火明はそんな兄の背をバンバンと叩いてやる。

「ほら。長がそんなことでどうする。早く、この場を収束させないか」

「お、おう。そうだな」

 原矢はどうにかそう言うと、両手で顔をごしごしと拭いて、再度壇上へと駆け上がった。

「皆、見ての通りだ。巫女の腹心の部下達が戻ってきた。やはり、龍神は我等を護って下さったのだ。これで、これで、この国の再興も成ろうぞ」

 大声でそう宣言したと原矢に、若者達が賛同の意を述べた。始めはぱらぱらであったその声も、次第に大きなものへと変わっていく。困惑したまま階下にいた浅海だったが、樹に背を押されて原矢の隣に立った。

「巫女、皆に挨拶を」

 樹は耳元でそう告げると、浅海の右手をそっと上に押し上げた。

 瞼の裏に映る、在りし日の星涙の姿。浅海は、彼女と同じように軽く腕を上げて、巫女の礼をとった。その途端に、わぁっという歓声と拍手の嵐が広がる。圧し掛かる不安に足が震えそうになったが、浅海はしっかりと踏ん張った。

 辰国の巫女になるということ。それはつまり、正真正銘、辰国の住人となるということだ。もし再度、東国と戦になろうものならば、この国を率いて戦わねばならない。たとえ相手が海里であっても、全力で。

 ごめんなさい。

 覚悟を決めた浅海は、心中でそう謝罪した。そして、隣に立つ樹に顔を向けると、彼の目を見つめながらこう告げた。

「樹。私、この国を絶対に護ってみせる。絶対に」

 


「ごめんなさい」

 どうして戻らない、と責める海里に浅海は悲しそうにそう答えた。

 彼女は憐れみの眼差しを注ぐばかりで全くその理由を告げようとはしない。

こんなにも近くにいるというのに、海里は浅海に触れることが出来なかった。手を伸ばせば伸ばしただけ、浅海は後退してしまうのだ。彼女を腕に抱くことが出来ないもどかしさと苛立ちが、海里の理性を次第に奪っていく。

「頼む。戻ってきてくれ」

 恥も外聞も関係なかった。海里はがくりと膝をつくと、ひたすら浅海に縋りついた。

「お前がいなければ何も出来やしない。頼む、浅海」

 海里は半狂乱になりながらそう懇願するが、目の前の浅海の姿は次第に薄くなっていく。そして透明になり、ついには消えてしまった。

 海里はがばっと身を起こすと、額に手を当てた。

 全身は汗にまみれており、喉はからからに渇いている。久しぶりに浅海の夢を見たというのに、目覚めの悪さは最悪だ。これも昨晩の自棄酒に酔ったせいだろう。

「浅海が生きている、か」ため息と同時にそう呟く。

 星涙から突然知らされた事実、それは海里を悩ませるのには充分な代物だった。 生きていたことが嬉しい一方で、戻らぬ彼女への苛立ちも募ってくる。

 どうして東国を去ったのか。どうして辰国に留まるのか。そのどちらにも当てはまる答えは一つだ。彼女は海里と共に生きることを拒んだのである。憎らしさが沸々と湧いてきて、海里はぎりぎりと奥歯を噛んだ。


 早朝であったにもかかわらず、風見は穏やかな笑みで部屋に迎えてくれた。

「おはよう。とりあえず話を聞こうか」

 まるで海里の訪れを予期していたかのような口調だった。おそらく彼は、こちらの言わんとしていることも察しているのであろう。海里は一度唾を飲み込むと、出来るだけ淡々とした口調でこう問いかけた。

「昨夜、星涙様にある者の話を伺いました」

「それは、浅海のことかな」

「ご存知でしたか」

 小さく頷いた風見は、窓辺に寄りかかった。朝日に照らされたせいか、彼の白い肌はますますその白さが増して見える。

「生きていたんだね」

「ええ。東国を捨て、辰国の巫女としてではありますが」

 知らずのうちに言葉に棘が出る。東国という言葉に包んではいるが、そこに込められている意味は自分自身だ。風見は前に垂れた髪を後ろに払うと、そんな海里に寂しげな目を向けてきた。

「浅海は私を裏切ったのです」海里は拳を握り締めた。

「私の気持ちを一旦は受け入れたのに。それなのに、彼女は私を」

「逃げた女にいつまでしがみ付いているのだ」

 いつ現われたのか、気だるそうに戸口に寄り掛かっていた砲が呆れたようにそう言った。

「全く、お前もしつこい男だな。大体、女が逃げたのは何年前のことだ」

 砲は大袈裟に息を吐きながら、ずかずかと二人の前まで来た。そしておもむろに海里の両肩をぐいと掴むと、一語一語区切るようにこう告げた。

「いい加減、もう、忘れろ」

 浅海の話が絡むと、いつもこうだ。とにかく彼は海里が浅海に執着する事を毛嫌いしていた。他の女を必要以上に薦めて来たり、すっかり消え失せようとしていた陽との縁談を復活させようとしたり、とにかく、浅海という存在を海里の中から消そうとしてくる。その理由もわかっている。

 浅海が関わると、途端に脆くなる海里の精神面。彼女が絡めば頭の回転は鈍くなるし、取り乱すのも稀な事じゃない。彼はそれを嫌っているのである。

「いいか。戦はな、弱みを曝け出した者は絶対に負けるんだよ。お前の弱点はその女だ。今のままじゃ、政っていうお前自身の戦場ですぐに敵の手に落ちるぞ」

 砲は締上げかねない勢いで海里の胸倉を掴んだ。だがそれを押しやる元気もなくて、海里はただ俯く。

 張り合いを失くしたことで、砲は、だぁっと叫んだかと思うと急に手を離した。

「どうしちまったんだよ。今のお前を見てるとどうも調子が狂うぞ。怜悧冷徹、それが中ノ海里じゃないのか」

「砲。感情はそう簡単に割り切れるものじゃないよ」

 苛々したように頭を掻く彼に、風見はそう言った。

「けど、」

「わかっている」

 まだ何か言い足りないのであろう砲に、海里は吐き出すようにそう言うと、ゆっくり目を閉じた。

「今更、何もどうにもならない事くらい、わかっている」

 確かに浅海は生きていた。けれど彼女が意図してこの東国を去った以上は、海里に出来る事は何も無かった。

「彼女に会いたくはないのかな」

 風見の問いに、海里はぐっと詰まった。

 会いたくないと言えば嘘になる。たとえ直接拒絶の言葉を聞かされるだけであったとしても、である。俯いたまま答えない海里に、彼はこう続けた。

「とにかく、浅海は生きている。ならば二度と会えないわけじゃない。機を待ってみてもいいんじゃないかな」

「そうですね」

 気のない返事をする海里に、砲は肩をすくめた。本当はもっと文句を言いたいのに、我慢してやったと言わんばかりの態度である。癇には障ったが、海里は余計な口を開くのはやめた。ここにいない人物について、これ以上彼と言い争いをしても仕方がない。風見はそんな海里の気持ちを汲んだのか、この話題に終止符を打った。

「この件は、しばらく落ち着いて考えるといい。それよりも海里、ちょっと相談があるんだけどいいかな」



 同じ頃、ナミは自邸で一人苛立っていた。

 辰国との戦から戻ってきて、一夜が明けたと言うのに、夫からは挨拶の一つもない。そればかりか、彼は戦場から連れ帰って来た女を妃と称して、帰還の宴の最中もずっと侍らせていたそうだ。

「正室は、私なのに」

 彼女は吐き捨てるようにそう告げると、唇をきつく噛んで拳を握り締めた。側近の侍女達は、そんな彼女をおろおろと見つめている。

 ナミが武項に輿入れしたのは、半年程前の事である。ちっとも身を固めようとしない彼に、兄である造や、重臣達がしつこく諭したのだ。

 相手など誰でも構わないと言い放った彼に、造達があてがったのは、荒居の姫であるナミだった。あまりに無難で妥当な判断に、意を唱える者は一人もおらず、武項自身も乗り気でないだけで反対はしなかった。

 しかし実際のところ、武項がナミを妻として扱ったのは、祝言の宴の時だけだ。 彼女の屋形を訪れた事すら、この半年で一度もない。形ばかりの妻であることは周知の事実だったし、ナミ自身にもその自覚はある。それでも良かったのは、彼がナミだけでなく他のどの女にも興味を示さなかったからだ。

「それなのに、今更どうして」

 ナミは狂気じみた声で小さくそう叫ぶと、無造作に髪を掻き分けた。

 自分で言うのもなんだが、見目も生まれも良い。武項の正室として恥ずかしくないだけの教養もある。そんな自分を誇らしく思っていたのに、その誇りはずたずたにされてしまった。

「いっそ嫌いになれたら、どれほど楽なことか」

 ため息と共にそう吐き出したが、それは不可能だった。結局のところ、ナミも武項に恋焦がれる娘の内の一人なのだ。どんなに蔑にされたとしても、きっと彼への想いを断つことは出来やしない。

 頬杖をつきながら鬱々としていると、そこに、例の女の元に遣わせた侍女たちが戻ってきた。ナミは、さして気にしていない風を装って問いかける。

「それで、どうだった?」

 心中には深い嫉妬が渦巻いていた。その空気を察したのか、侍女達は互いに目配せしながらもごもごと答える。

「それが侍女のせいで、直接お話しすることは叶いませんでした」

 ナミの額に青筋が浮かぶ。使者を断るということは、ナミ自身を否定するのと同じこと。新参のその女にも軽んじられたことに、ナミの怒りは一気に増した。

「それは、あの女の意思か」

「いいえ」侍女達は更に口籠る。ナミは苛々して声を荒げた。

「はっきり、お言い」

「私共が、その方の侍女と話をしているところに、中ノ様が現れたのでございます」

「中ノ?何故あの男が?」

 ナミは低い声を絞り出すと、まるで侍女達が悪いかのように詰め寄った。彼女達は顔を見合せながら、ためらいがちに口を開く。

「これは、全て噂にございますが。武項様は浦に入るなり、例の女性の身を中ノ様にお預けになったそうです」

「つまり、中ノがその女の庇護者ということか」

 そう言いながら、ナミはわなわなと震えだした。

 今、武項が最も信頼を置いているのは、付き合いの長い風見でも、共に戦場に赴く砲でもない。中ノ海里である。彼がその女の力となっている以上、人々が彼女こそ正室であると噂するのも無理はない。

「叔父上は何をしているのだ。あの、役立たずが」

 ナミはいきなり立ち上がると、そう叫んだ。その迫力に侍女たちは思わず後退りしたが、それが癇に障った彼女はますます声を荒げた。

「谷田に遣いを。早くせぬか」

 出てきてはいけない名に、その場にいた者達は一斉に周りを伺った。

 ナミと谷田との繋がりは、武項はもちろん、広野さえも知らないだろう。幼い頃から、何事彼女が頼ってきたのは叔父の広野ではなく、谷田であった。可愛がってくれて、いつもあっと驚く様な話や遊びで楽しませてくれた彼を、彼女は今でも妄信していた。それは、彼がこの東国を追われた今でも変わる事はない。

 尤も、浦はおろか東国にすら近付けない彼と意思を伝え合うのは簡単ではなく、そう頻繁には出来なかったが、それでも二月に一度位は何かしらの伝令があった。

「谷田なら、きっとどうにかしてくれる」

 ナミはそう怒鳴ると、手にしていた飾り玉を床に叩きつけた。

 玉はばらばらになり、それぞれに散らばる。それが武項の気持ちを表しているようで、気が晴れるどころか無性に悲しくなった。彼女はしばらくそれをじっと見ていたが、やがて呟くようにこう命じた。

「奥に行く」

 その命令に、侍女達は目を見開いて驚いた。彼女達の顔には困惑と怪訝さが浮かんでいる。一人の侍女が落ちていた飾り玉を拾い集めながら、諭すように告げた。

「しかし、中ノ様が」

「妾は正妃ぞ。臣下に遠慮する必要などないわ」

 ナミは両手を大きく動かしながら、演技がかった声でそう言った。

 はたから見れば、悲劇に酔った女でしかなかったが、本人ばかりは至って真面目だった。武項相手では現せない気の強さが、ここぞとばかりに発揮されて、もはや誰にも止められない勢いだ。

 だが、彼女がこうした行動を起こすのは三臣の想定内。既に手を打っていた風見は、手筈通りに、海里を使者として遣わせていた。


 荒居の司の屋形は、大海を一望できる小高い丘の上にあった。

 国府のある神島かしまの浜からずっと北上したこの辺りは、波が荒く、潮の引きも激しい。凪と言われている時間でさえ、激しく白波が砕けるのだ。荒れた時などは、大波が寄せてどうにもならないと聞いている。

 海里がこの地を訪れるのは、今回で確か五度目だ。武項と共に訪れた前回からは、三年ほど間が開いていた。

 眺めこそは最高な場所だが、正直、昔から望んで訪れたい場所ではなかった。今だって、風見の命とあって仕方なしに足を運んだのである。

 用件さえ済ませたら、さっさと帰ろう。海里は既に帰途に思いを馳せながら、待ち人を待った。

「中ノ様ぁ」

 強めの潮風に乗って、きゃんきゃんと甲高い声が聞こえてきた。ちらとそちらを振り向くと、娘が一人、こっちに向かって大きく手を振っていた。茜だ。年の頃は海里より少し若いその娘は、荒居の三の姫である。

「お会いできて、嬉しいですわ」

 彼女は妙に身体をくねらせて、上目遣いに見つめてきた。

「わざわざ荒居にいらっしゃるなんて。姉もさぞかし喜びましょう」

 媚びる態度もここまで全身で表現されてしまえば、かえって清々しいものである。だからというわけではないが、不思議と彼女が嫌いではなかった。

「して、その姉君は?」

「もう少しお待ち下さい。あなた様のために、一心に身を磨いておりますから」

 普通の者ならここまではっきり言わない。明け透けに物を言う茜に、海里は思わず失笑を漏らした。

「あら。私、何かおかしいことでも?」

「何でもない。気にするな」

 海里がそう言うと、彼女は可愛らしく首を横に傾げてみせた。まだ少女の面影を残している彼女がそうすると、まるで赤子のようだ。砲に言わせれば、茜は相当に愛らしい顔つきをしているらしいが、海里には特段興味もなかった。

「あの。ところで御用件とは?」

「お前に告げる必要はなかろう」

「では、ようやく御心を決めたのですね」

 目をきらきらと輝かせながらそう言った彼女に、海里はすぐさま、否と答える。

 この会話はもう彼女と会う時の恒例行事だ。毎回毎回必ず聞いてくるため、その切り出し方も覚えてしまった。この次に来る言葉も容易に予想が付く。

「けれど、姉はまだあなた様をお待ちしていますわ」

 茜はいつも通り非常に軽い口調でそう言ったが、今回に限って、海里はぐっと詰まってしまった。

 陽の想いは充分過ぎるほど知っている。それなのに彼女の気持ちを踏みにじる様な真似をしてきたのは、一度や二度ではなかった。

 出会ってからの数年、彼女を傷つけた事は、覚えているだけでも片手では満たない位あった。無意識となれば、もはや数はわからない。そうまでされてでも自分への好意を失わない彼女には申し訳ない気持ちもあったが、その想いに応える気はさらさらなかった。

 今もそうだ。彼女が自分に向ける好意、それを利用するためにここへ来たのである。


「お待たせいたしました」

 やって来るなり、陽は淡々とした口調でそう告げたが、その頬は紅く色付いていた。

 多分、海里から見えないところは走って来たのだろう。気位の高い彼女ならではの、気遣いである。

「いや。こちらこそ、突然すまなかったな」

 何も気付かない振りをしてそう言った海里に、陽は静かに首を横に振った。あくまでも丁寧で他人行儀な態度だったが、どこか嬉しげな雰囲気が漂っているのは、きっと勘違いではない。彼女が恥入るように目を伏せたのに気付いた海里は、視線をさっと海へ移した。

「あなた様がここへいらっしゃるのは、三年ぶりでしょうか」

 茜を下がらせると、陽は海里の背に向かってそう言った。その声には恨みがましさは感じられない。三年前、丁度この場所で、人目も憚らない位の大泣きをしたとは思えなかった。

「お呼びいただければ、私の方から出向きましたのに」

「頼み事をするのに、相手を呼びつけるわけにはいかないからな」

「私に、何か?」

 そう問い返してくる彼女の声は、心なしか震えていた。取り繕ってはあるが、内心の動揺は隠せないようだ。

 何を告げられるのかわからない、という不安。きっとそれが大きいのだろう。何と言っても、海里がこうして彼女を呼びだした時、良い事を言った例は、ただの一度もないのだから。

 海里は一度大きく息を吐くと、思い切って彼女に向き直った。出来れば振り向きたくはなかったが仕方ない。頭を下げに来たというのに、後ろ向きはさすがに非礼過ぎる。


 浦に来てくれないか、という海里の問いに、陽は目を見開いて小さな驚き声を上げた。

「私を、浦に?」

 喜色ばんだ声には、彼女の心中にある甘い期待がありありと溢れている。いくら色恋に疎いとは言え、それが何を意味するのかを察せられない程鈍くは無いし、陽との付き合いも短くない。だが、海里は敢えて知らない振りをすることにした。彼女が二の句を繋ぐ前に、さっさと言葉を挟み込む。

「ああ。ナミ様の側に侍って欲しいのだ。形は何でも構わない」

 そう告げると、陽の表情はほんの一瞬だけ翳ったが、すぐ元の明るさに戻った。

「わかりました。すぐに、父に願い出ましょう」

 その答えに、迷いは一つも無かった。

 まっすぐに見つめてくる彼女の黒い瞳には、困惑顔の自分が映っている。断られる事はないと思っていたが、こんなにあっさりと決まるとも思っていなかった。  ほっとした一方で、いつにも増して強く注がれる想いに、複雑な気分になる。陽は最近ではほとんど見せなくなった、媚びるような笑みを浮かべた。

「風見様に感謝いたします。中ノ様の御近くに居られるこの役目、他の誰にも譲りたくはございませんから」

 しなっとした態度とは裏腹に、そう告げた声はとてもきっぱりしていた。

 不意に漏れる明け透けな態度は、姉妹だけあって茜によく似ている。おそらく、こちらが彼女の本質だ。普段は荒居の二の姫という鎧で武装しているだけなのであろう。陽の二面性があからさまに見えて、海里は思わず苦笑する。

「感謝するのはこちらの方だ。では、よろしく頼むぞ」

「はい。あなた様のお役に立てるよう、精一杯務めさせて頂きます」


 その夜、風見に報告を終えて自邸に戻った海里は、久しぶりに剣を稽古をしてみた。鬱憤晴らしといった方が正確だろう。一心不乱に剣を振り回し、手当たり次第、そこらの木に切りつける。

 例の如く、別れ際には『側にいたい』と訴えてきた陽に出した答え。

「私は誰も娶る気はない」

 言葉はいつも通りだったというのに、海里の心情は違った。平然と告げはしたが、心臓の鼓動はわずかに早まっていた。

 一途に人を想う陽の目は、どこか懐かしくて、胸がぎゅっと締め付けられた。自分を想っていてくれた頃の浅海を思い出したからなのか、未だに彼女を想い続けている自分への自己愛なのか。それとも単に、いつまでも変わらない陽の想いが嬉しかったからなのか。

 何が答えかはわからない。だが、一瞬とはいえ彼女に心を動かされたことは事実だ。いつまでたっても埋まる事のない空虚さ。陽ならそこから救ってくれるかもしれない。そんな馬鹿げた期待を抱いてしまったのは確かなのである。

「一体、何を考えていた」

 吐き出すように呟いたその時、手元が狂った。つるりと滑った柄は手を放れて、そのまま真っ直ぐに、闇に浮かぶ白い影に向かって飛んでいく。人か、獣か。海里はとっさに、危ない、と叫んでいた。

 だが、その心配は全くの無駄だったようで、白い影は何事も無いように、飛んでくるそれを避けた。勢いを失った剣は、ぐさっという鈍い音と共に地面に突き刺さある。

「随分と荒れているな」

 影の正体は、薄い夜着にもう一枚羽織っただけの格好の星涙だった。彼女は、からかう様にそう言いながら、目の前に落ちてきた剣を引き抜いた。

「こんな夜更けにどうした」

「その言葉、そっくり返しましょうか」

 海里はそう言うと、彼女の手から剣を受け取った。何度か振ってやると、刀身にこびり付いた泥が辺りに飛び散る。

「お戻り下さい。勝手に部屋を抜け出されては、私が警備の落ち度を責められます」

「原因は浅海か」

「はぁ?」

 突如話題を変えられ、しかも内心を言い当てられたため、つい口調が強くなる。

「葉那が言っていた。今日のお前はおかしい、とな」

 余計な事を、と内心で毒づいた。だがそれをぶつける相手は今は夢の中だろう。

「どちらにせよ、貴女様には関係のない事です」

 海里は吐き出すようにそう言った。しかし、星涙は乾いた笑みを浮かべただけで、立ち去ろうとはしなかった。そればかりか、すぅっと海里のそばまで来ると、その手から剣を取った。

 刀身を指でなぞりながら、星涙は、愉しむかのような声で問いかける。

「斬りつけたい相手は浅海か。それとも自分自身か」

 答えは、両方。だが口からは何の言葉も出て来なかった。

 勝手に姿を消した浅海への憎しみ。捨てられたことの悔しさ。そしていつまでも諦めきれない自身の弱さ。どれもこれも自ら進んで認めたいものじゃない。

「浅海を信じられないのか」

「信じるも何も、彼女は私を、」

 裏切った。二人は同時にそう口にした。

「よくご存じですね」

 訳知り顔の彼女に、海里は嫌味を込めてそう告げる。

「浅海が自分から打ち明けたのですか?私を裏切ったことを」

 自分で言ったにもかかわらず、海里の胸はきりきりと痛んだ。

 目の前にいるのは、つい先日まで浅海の近くにいた人間である。彼女の言い分や思いを、直に聞いている星涙が告げる言葉の重みは、海里の勝手な思い込みとは比にならない。

「浅海はあなたの下で、巫女になったのでしたね」

「ああ。実の妹のように手をかけた」

 手にしていた剣を地面に投げ置くと、星涙は足元に咲いていた小さな花をそっと指で揺らした。白い花が揺ら揺らと傾き、また同じ場所に戻る。

「浅海は穢れを知らない。無垢なまま。あの優しさも素直さも、巫女には最適な資質だ。だが、あれは決して巫女には成りきれん」

 星涙は苦笑しながらそう言った。彼女の言う意味を理解できなくて、海里の眉間には皺が寄る。

「お前と同じだ。浅海は人としての感情を、お前への想いを捨てられない」

 そう言った彼女は丁寧に首飾りを外すと、それを海里の眼前に突きつけた。

 もう何年も前に手放したそれは、多少傷ついてはいるものの、まだまだ光沢を失ってはいない。中央で薄緑に輝く翡翠に重なって映るのは、浅海の笑顔。その両脇に連なる透明な円玉には、彼女の様々な表情が見えた。

 海里は、怖々と手を伸ばして首飾りに触れた。夜気に晒されたせいもあってか、氷のように冷たい。けれど、手のひらでしっかりと掴んでやると、すぐに熱を帯びてきた。

「巫女として告げてやろう。お前は浅海と再会する。その時にまた渡してやれ」

 初めて聞く柔らかな口調でそう告げられ、海里は目を見開いた。彼女はそんな海里に薄い笑みを浮かべると、くるりと後ろを向いて、そのまま屋形の方へ去って行った。

 木々に囲まれた闇の中へと消えていく彼女の姿を見つめながら、海里は首飾りを強く握りしめた。



「勝手に抜け出していいのか」

 星涙は、自分を抱えるようにしながら手綱を執っている武項にそう問いかけた。びゅんびゅん鳴る風切音に負けないように、自然と声は大きくなる。

「誰にも、何も言っていないのだろう」

「案ずるな。我は浦の司だぞ。誰に許しを得ると言うのだ」

 武項は豪快にそう答えると、更に速度を上げた。彼の視界の邪魔にならないように、星涙は、風になびく黒髪を手元に引き寄せた。

 どこまでも続く緑色の大地が、流れるように移り変わっていく。谷や森ばかりの辰国とは違って、ここでは地平線がくっきり見えた。

 武項が星涙の寝所にやって来たのは、夜も明けきらぬ内のことだ。侵入者に気付いて身構えた星涙の間合いに、いとも簡単に入り込んだ彼は、口を開きかけた彼女の唇にそっと指を当て、こう告げたのだった。

「出掛けるぞ」

 警護の兵に固く口止めをした武項は、星涙の肩を抱き寄せて、静かに屋形を抜け出した。

「これから、何処へ」

「国府だ。兄上に挨拶に行く」

「罪人の引き廻しか」

 冗談半分、本気半分。星涙はからかう様な軽やかな口調でそう尋ねた。すると、武項はこつんと彼女の頭を小突く。

「馬鹿な事を言うな。妃として引き合わせるのだ」

「正気か?私は敗軍の将だぞ」

「戦は終わった」

 武項は少しばかりむっとしたようにそう言うと、不自然な体勢で後ろを向いている星涙の体を前向きに戻した。

「余計な事を言ってないで、ほら。じっとしていろ」

 彼は、星涙の頭を撫でながらそう命じた。その態度も口調も、まるで子供を相手にしているようだ。

 武項にしてみれば、何気ない動作の一つ一つなのだろうが、星涙には全てが新鮮だった。小突かれることはもちろん、無理矢理体を動かされるのも初めてだ。こうして男と馬に同乗することだって、辰国にいた頃は考えられなかった。

 彼の行動にいちいち敏感に反応しては、戸惑ってしまう。けれど決して不快ではなかった。むしろ彼に触れられる度、その声を聞く度、胸はどきりと高鳴った。この感情を何と呼ぶのか。星涙にはまだ解らない。

「そら、矢倉が見えてきた。あの塀の中が東国の中心だ」

 

 何の前触れもなく登場した武項の所為で、政務が始まったばかりの庁堂には、ざわめきが走った。役人達は口をあんぐりと開けてぽかんとし、侍女達は信じられないものを見たかのように固まった。

「ど、どうした。来るのは、昼過ぎではなかったのか」

 思わず、手にしていた筆を取り落とした造は、目を丸くしながらそう尋ねた。

 普段は呼びつけても、なかなか来ない男である。その彼が、定刻以前に国府を訪れるなど、前代未聞だった。武項は彼らの動揺などどこ吹く風で、爽やかに口上を述べる。

「お早うございます。浦郡司、武項。先の戦の御報告に参りました」

「それは、あぁ、なんだ。そうか。ま、まぁ、中へ」

 造は困惑したままであったが、とりあえず彼を招き入れた。その場が上を下への大騒ぎとなったのは、その直後である。

 武項は星涙の肩を抱いて、造の前まで進んだ。そんな二人の姿を見るなり、造は椅子から転げ落ち、役人達の大方は後ろに仰け反った。中には腰を抜かした者もいたかもしれない。侍女達に至っては、全員が気絶する勢いだ。

「ぶ、武項。その女人は、誰だ?」

 造は取り乱しながらも何とかそう告げると、袖で額を拭った。武項はそんな兄に満面の笑みを見せる。

「我が妃、星涙です。以後、お見知り置きを」

「妃とは…一体」

「先日、迎えました。兄上にすぐにでも御報告をと思いまして」

「おお。そうか」

 嬉しそうな弟の声とは真反対に、兄のそれは魂の抜けた様なものだった。ようやく音だけは出しているが、感情も何もあったものじゃない。

 正視するのも躊躇われるほどの容色に、武項と肩を並べても見劣りすることのない存在感。彼女が只者ではないことくらい、誰でもすぐにわかる。

 今まで一度たりとも女を寄せ付けなかった弟に一体何があったのか。

 目の前の二人を交互に見ながら、造は回らない頭で必死に考えた。風見に聞けばすぐにわかるというのに、動揺のし過ぎでその案は浮かばない。

「彼女は辰国の出。東国のしきたりには、まだ不慣れです。どうぞ温かい目で御見守り下さい。では」

 武項はそう告げると、颯爽とその場を去って行った。取り残された造達の思考回路が繋がったのは、それからしばらくしてからのことだ。


「あれでいいのか」

 庁堂の出口を出るなり、星涙は苦笑しながらそう言った。そんなに近くも無い距離をせっかくやって来たのに、滞在時間はほんの僅か。武項が告げたのは、随分と呆気ない挨拶だけだった。そして、星涙自身は一言も口を開いていない。

「堅苦しいのは苦手だ。さて、次は何処へ行こうか」

「まだどこかへ?」

「当り前だ。お前に東国中を見せねばなるまい」

 その言葉に、星涙はようやく今朝の彼の行動の意味を納得した。三臣に知られないよう、こそこそと抜け出して来たのは、今日一日勝手に羽を伸ばすためだったのである。昨日で戦の後処理を終わらせたと言っていたのも、おそらくは偽りだろう。星涙は片方の口角を上げただけの、挑発的な笑みを彼に向けた。

「風見に叱られるぞ」

「いくら奴とて、目の前にいない相手に説教は出来ん」

 ふんっと鼻で笑った武項は、行くぞ、と星涙の肩に手を回した。抱き寄せられた瞬間、心臓が大きく跳ねる。嬉しさと恥ずかしさが入り混じった、何とも言えない気持ちを彼に悟られない様、星涙はそっと目を伏せた。

 

 武項が巡ったのは、国府の周辺一帯だった。

 北は浦郡との境目である浪海の南岸、西は玖波山、南は大河。と、所謂東国の中心部をぐるりと案内して歩いたのである。その間中、彼は星涙を片時も離そうとしないだけでなく、行く先々で彼女を妃と称して回った。市、社、司の屋形。どんな場でも、相手が誰でもお構いなしだった。

「妃だ。先日、娶った」

 そう告げる時の嬉しそうな、緩みっぱなしの表情といったらなかった。たとえ相手が呆れ顔をしていようと、苦笑いを浮かべていようと、上機嫌すぎる彼には何の関係もないようである。そうして最後に残った東へ向かったのは、次第に日が傾き始めた頃だった。

 林の中の小道を進んでいると、どこからともなく、慣れない音が聞こえてきた。 その音は次第に大きくなり、次第に星涙の全身に響いてくる。

「何の音だ」

 星涙のその問いに、武項は一言、潮騒だと答えた。

「シオサイ?」

「ああ。見ればわかるさ。しっかり掴まっていろよ」

 武項はそう言うと、手綱を握る手に力を込めた。結構な傾斜の斜面である。速度を落としたら、後ろにずり落ちていきそうだ。

 小高い丘を一気に駆け上ると、一気に視界が開けた。

 そこ一面に広がっていたのは、夕刻の空で紅く染まった海。初めて目にする大海原に、星涙は言葉もなく立ち尽くした。そんな彼女に、武項はくすりと笑みを漏らす。

「さぁ、こっちだ」

 彼は馬を近くの岩に繋いで、星涙の白い手を取った。

 誘われるまま砂浜を歩くが、さらさらとした砂に足が沈んで、なかなか上手く歩けない。不安定さによろめく彼女を時折抱きとめながら、武項は波打ち際まで進んだ。

 すぐそばまで打ち寄せる波は、宝玉のようにきらきら光り、また砕けて、大海に還っていく。

「どうだ。綺麗だろう」

 そう言った武項の姿は、夕焼けに暗く翳る。その何とも言えない色っぽさに、星涙は意図せずに息をとめた。

「この浜には、神の遣いの白鳥が舞い降りたと言い伝えがあるんだ。ほら、あの松林。あそこの内の一本が、羽休めの松だ。今はこの辺りの御神木になっている」

 武項が指差した先には、確かに樹齢がありそうな松の木があった。その周りには、杭と縄で囲いがされている。けれど、とても神が宿っているような代物とは思えなかった。

「まぁ、所詮は言い伝え。真偽の程はわからん」

 星涙のしらっとした態度を察したのか、彼はそう言葉を付け足した。

「東国を守護する神、とは何だ」

 風になびく黒髪を邪魔そうに払いながら、星涙は問う。

 今日一日、色んな場所を巡ったが、東国には聖域らしきものは見当たらなかった。其処彼処に社はあったが、どこにも神の気は感じられなかったのだ。

「巫女だっただけあって、随分仰々しい問いだな。東国の守護、か。強いて言えば、我が軍だろうな」

「軍は人間だろう。神はいないのか」

 真顔で見つめる星涙に、武項はふっと笑みを漏らした。そして、駄々をこねる子供にするように、ぽんぽんと彼女の頭を叩く。

「もちろん、神はいる。だが彼らは何をするわけじゃない。ただ天の上や地の底で、我等を見守るだけだ。願ったところで望みが叶ったりはしない」

「では巫女は?」

「彼女らは神の機嫌を損ねないように祈りを捧げているだけさ。果たしてそれに意味があるかはわからん」

 武項の言葉には、若干の嫌味が込められていた。彼は遥か海の彼方を睨みながらこう続ける。

「我は姿を見せもしない奴なんぞには頼らん。人を救えるのは人だけだ」

 一切の迷いなどない、自分の力を信じ切った言葉。それは驕りの様にも聞こえたが、星涙の心は一気に弾けた。

「傲慢な男だな」

 星涙は彼の顎に右手を当てると、くいっと上げた。彼女の顔には、微笑みとは言い難い妖艶な笑みが浮かんでいる。

「神を神とも思わず、自分の力量がそれよりも上だと信じ切っている。いずれ天罰が下るぞ」

「構わんさ。出来るものならやればいい」

 挑発的な彼女を捩じ伏せるかのように、武項は強い口調でそう言った。

 己が負けるわけはないという確信。決して揺らぐことが無い理想。自分には無い強さを持った彼に、星涙は激しく惹かれた。もう絶対に離れられなくなるほどに、強く。

「ならば、見せてもらおう。お前が創り上げる理想郷とやらを」

 夕日を背にした星涙の姿は、こちらも正視に耐えられぬほどの輝きだった。その様は、古より伝わる女神そのもの。日が沈めば、彼女もまたいなくなってしまうように思えて、武項は力任せに彼女を抱きしめた。

 耳元に聞こえる、彼の震える様な吐息。照れと嬉しさで星涙の顔も熱くなる。恐る恐る彼の背に手を回すと、頭のてっぺんから指の先まで、温かな何かが巡った。 心の奥が激しく揺さぶられて、少しずつ、抑えていた感情が溢れてくる。

 これが、愛しい、という感情かもしれない。そう思った瞬間、星涙の身体中に巻かれていた、重くて冷たい鎖が一気に解けた。


 

 風見は、口を真一文字に結んだまま、ずっと浪海を眺めていた。無言に込められているのは、恐ろしいほどの苛立ちだ。

 造からの使者が遣わされたのは昼前のこと。それを合図にするかのように、近隣郡の司達からも、わんさか情報が寄せられて来た。勝手に姿を消した浦の司の突然の来訪を告げるそれらの報せは、彼をこうさせるのに充分なものだった。

 外はもう暗闇に近い。いくら武項でも、夜更けに兵も無しに女連れでふらふらするのは危険極まりない行為である。

「何処行ったんですかね」

 静けさに耐えきれなくなった砲がそう口を開くと、風見の柳眉がまた山のように尖り出した。彼の怒りがひしひしと伝わって来て、胃がまたずしりと重くなる。

 風見は、今日一日、一度も海里を責めはしなかった。そして武項から口止めを受けた警護兵達も叱ったりはしなかった。浦一の身分である男に頼まれれば、断る術も、告げ口する度胸もなくなることはわかっていたからである。

「捜索の範囲、広げましょうか」

 黙りこくる風見に、砲はそう提案した。いつもの海里なら、すぐさま彼に同意しただろう。けれど、今は何の発言権も無かった。


「大変でございます。星涙様がおりません」

 葉那がそう駆け込んで来たのは、丁度、海里が風見の部屋を出ようとした時だった。泣きそうになりながら、行方不明でございますと告げる彼女に、海里の方が泣きたくなった。警護を任されていたのに、まんまと姿を眩まされたのである。言うまでもなく、大失態だ。

「野盗に襲われでもしていたら、大事ですよ」

 先の問いも無視されたのに、砲は懲りずにそう言った。

「それに、野盗に扮した玖波の残党やなんかに狙われるおそれもあるし」

「わかっている」

 ようやく口を開いた風見はそう吐き捨てると、珍しく舌打ちを漏らした。

「わかっている。けれどここで派手な動きをすれば、私達が穴だらけである事が周りに筒抜けになる。だろう、海里?」

「その通りです」

 急に矛先を向けられた海里は、若干俯きながら答えた。

 ただでさえ、情勢が不利な最中である。海里が陽を引き込んできたとはいえ、まだまだ荒居や七加との関係も不安定だ。それに奈須がいつ攻め込んでくるかもわからない。

 形勢の立て直しが急がれる中、それを率いるべき司が勝手な振る舞いをしていれば、得られるべきものまで逃してしまうかもしれない。

「浦に纏まりがないと覚られるのは、敵に好機を与える様なもの。それは避けねばなりません。けれど」

「けれど?」

「命は一つです。失われれば二度とは戻りません」

 言っている内に、自分の詰めの甘さに、また嫌気がさしてきた。やらかしたのが他者だったら、原因を作ったのはお前だろうと罵るに違いない。

 武項がいなければ、東国の新生など夢のまた夢の話だ。彼の代わりを務められる存在など、誰もいない。その大事な命を野放しにしてしまったのは、他ならぬ海里なのだから、どうしようもなかった。

「捜索を広げましょう。出来るだけの人員を割いて」

「海里」風見が弱り切った目を向けてくる。

「元はと言えば私の責です。私兵も動員して、一刻も早く探し出しましょう」

 海里はそう言いながら、机に広げられた地図を睨みつけた。砲もすぐさま隣に来る。彼は、待ってましたとばかりに、短刀の鞘で山の図をなぞった。

 浦の周囲には既に兵を置いている。国府への道筋も同様だ。

「となると、山道か海岸沿いか」

「ああ。まずは東から潰そう」

 そんなこんなで、何処に誰を何人出すかを詰めていると、どたばたと数人が部屋にかけ込んで来た。海里が奥に置いていた警護兵達である。

「申し上げます。たった今、武項様がお戻りになられました」


 

 風見の怒りが解けたのは、それから一月程経ってからだった。無論、時の経過だけでなく、武項の謝罪相応分の働きがあったためである。

 あの日、満面の笑みで戻って来た武項は、風見と砲の二人から厳しく叱責された。そしてその場で、しばらくは政務に精を出す事を約束させられたのである。

「済まなかった。この埋め合わせは必ずする」

 その旨を誓約書にも書かされた彼は、二人のどちらかの監視の元に必ず置かれることとなり、強制的に星涙から引き離されたのである。この間、誰が彼女の面倒を見ていたかというと、もちろん海里である。

「最近では、狐狸妖怪の類だそうですよ」

 部屋に入るなりそう口にした海里に、星涙は薄い笑みを浮かべた。

 武項が戦場から連れ戻った絶世の美女であり、彼の寵愛を一身に受ける女人。人々は、彼女についてこぞって推察に興じたが、良い噂はそれほど長く続くものではない。いつしかそれは悪い方へ向かい、遂には人ではなく妖だとまで、形を変えていったのである。

「取り憑いてくれようか」

 珍しく冗談を言った星涙に、葉那はくすっと笑う。海里はそんな彼女をじろりと睨むと、真面目な声でこう告げた。

「まあ、構うことはないでしょう。放っておけばいい」

 日に一度、こうして星涙の部屋を訪れるのは、武項から懇願のような命令を受けているからである。その日に起きた出来事などを簡単に報告するのであるが、もちろんその場には葉那も同席している。

 一見、主の頼みを忠実に果たしているだけのようにも見えるが、本心は別にあった。けれど、それは口が裂けても言えやしない。

「どうして、武項様は噂をお止めにならないのでしょう」

 葉那は、わからないという風に小首を傾げた。

「風見の差し金であろう。面倒事は避けよ、と」

 机にあった書をぺらぺら捲っているだけの海里に代わって、星涙が鋭く突っ込む。

 時々だが、こうして感情的な所を見せるようにもなった彼女には、出会った当初の様な氷のような冷たさはなかった。葉那のような百面相並みの表情には程遠いが、それでも星涙のそれは驚くほど豊かになったものだ。

「あなた様が訴えれば、我らはすぐにでも動きますが」

「私に泣き言を言えと?」

 海里の提案に不満げにそう答えた星涙は、無造作に髪をかきあげた。はらはらと黒髪が落ちる様は、海里にもそう思わせるほど艶っぽい。

 群衆たちでなくとも彼女の正体を疑いたくなる、と海里は冷静にそう思った。大陸からの書に傾国の美女という話があったが、まさにそのものだ。

 星涙が人らしくなればなるほど、海里の不安はどんどん募った。それが、いつ、どんな形で現れるのかまではわからない。けれど不穏の予兆は既に見え始めていた。

 少しずつ己を見失い始める武項。心痛から気の病を患ったナミ。そして、まとまりを失いかけている国の役人達。

 厄介なことにならねばいい。戸を閉じながら、海里はそう呟いた。

 だが、その望みはそう長い時を待たずして、呆気なく壊れることとなる。彼の懸念が現実に成るまでには、もう一月もなかった。


 

 突然やって来た客人に、葉那は思いっきり顔をひきつらせた。警護のために横にいる勇も、苦笑いを浮かべている。

「ついに来たって感じだな」

「茶化さないでちょうだい」

 二人は張り付けた笑顔で正面の客人達を見ながら、小声でそう言い合った。

 来るとは思っていた。けれど、なにも海里が居ない今でなくても良いだろう。

「それで、いらっしゃるのかしら?」

 茜はこちらを小馬鹿にするように目を細めると、高飛車な口調でそう言った。

 いる、とそう答えてしまえば、逃げ場はなくなってしまう。けれど葉那としては、彼女達を星涙に会わせることは、出来るだけ避けたかった。

 ナミが気の病を患っていることは、今や浦中で周知の事実だ。武項の正室であるということだけが誇りだった彼女は、星涙の出現で何もかもを失った様な喪失感に襲われてしまったのである。気位が高い故に、己の弱さを見ようとしなかった彼女はあっという間に病魔に蝕まれた。

 まだ始終おかしいというわけではなく、時折狂気染みた行動に走る程度であるが、いつ悪化してもおかしくは無い状態らしい。そんな彼女を、憎んでも恨んでも飽き足らない存在である星涙に会わるわけにはいかなかった。

「どうしよう」

 困り果てた葉那は、思わず勇の袖を掴んだ。それを目敏く見つけた茜は、ふふんっと鼻を鳴らす。

「やっぱりいるんじゃない。とにかく、中へ通しなさい」

 わざとなのか、地なのか。いちいち鼻につく話し方だ。思わず身を乗り出し掛けた葉那に、勇が視線で牽制をかける。

 武項の妃と荒居の三の姫。一臣下の、そのまた侍女風情など、到底勝てる相手ではない。やめておけと無言で諭され、葉那はぐっと堪えた。


「随分貧相なこと」

 周りをきょろきょろと眺めながら、茜はあからさまな嫌味を言った。言い返す言葉が喉まででかかったが、唾と一緒に無理矢理飲み込む。

 客間に通したのは、ナミと茜。そしてナミ付の侍女が三人である。

 陽の不在で幾分気は楽になったが、逆に言えば、もしナミが暴走した場合に止める者がいないという事になる。感情的な女達ばかりが揃っているこの状況は、危険、であった。

「ねぇ。早く呼んできなさいよ。ナミ様をお待たせするなんて失礼にも程があるわ」

「ところで御用件は?」

「あなたには関係ないの。さっさと連れてらっしゃい」

 愛らしい丸顔を不自然に歪ませた茜は、そう言って葉那の鼻先に指を突きつけた。

 人を見下す彼女の目がとんでもなく憎たらしく思えて、葉那は音を立てて戸を閉める。彼女はわずかにびくっとしたようだったが、すぐに睨み返して来た。

「何よ」

 茜は精一杯の低い声でそう言うと、ふふっと嘲笑を浮かべた。

「あなたは確か佐間の出よね。そう言えば行方不明の彼女、生きているの?」

 けらけらと笑いながらそう言われ、葉那は怒りで顔が熱くなるのを感じた。

 茜の言葉は必要以上に嫌味ったらしく聞こえた。恋敵であった陽はもちろん、海里に憧れの様な感情を抱いている彼女も、浅海の事は毛嫌いしているからだろう。

「中ノ様に言い寄ったあんな女、いない方が清々するわ」

「何ですって」

「ただの泥棒猫。何か違うかしら」

「妾は待ちくたびれた」

 二人のきゃんきゃんした言い合いを遮ったのは、不機嫌さが頂点に達したナミの一言だった。病を患っているとは言え、さすがは武項の正室。その迫力に客間は一気に静まり返る。

「早くしておくれ」

 有無を言わせぬ口調でそう告げられ、葉那は仕方なく立ちあがった。

 天井から下げられている帳をゆっくり持ち上げ、外に出ようとした彼女はその姿勢のまま固まる。目の前には、外出しているはずの海里の姿があった。

「海里様」

 並んで立つ彼の後ろには陽もいる。葉那の背には冷たい汗が伝った。

「客人に対する礼は、充分に言って聞かせたはずだが」

「申し訳ございません…」

 海里のきつい視線と冷たい声に、自然と頭が下がった。急に勢いを失くした彼女に何があったのかと、中にいた面々もこちらに顔を向けてくる。

「姉上」「陽」ナミと茜が同時に叫ぶ。

「ナミ様、どうしてこちらに?私は何も聞いておりませんよ」

 陽は淡々とした口調でそう問うた。苦虫を潰したように顔を歪めたナミに代わって、茜が慌てて捲し立てる。

「あの、姉上。私が行ってみましょうって」

「あなたは黙っていなさい」

 ぴしゃりと言われ、茜は罰が悪そうな顔でしゅんとした。一方で、ナミが開き直ったようで堂々と答える。

「一の妃が夫に会いに来て何が悪い?」

 下手過ぎる言い訳も、きっぱり言えばそれらしく聞こえるものだ。陽は呆れたように溜息を吐くと、ちらと海里の顔を伺った。

「武項様は庁堂でございます。お会いになりたいのであれば、取り次ぎましょう」

 海里は出来るだけ刺激しないように丁寧にそう言ったが、ナミの頬はぴくぴくと震えた。その様子に、激するときの予兆かと侍女達は慌てたが、どうもそうではないようだ。彼女は下唇を噛むと、強張った作り笑いを浮かべた。

「ふん。せっかくここまで来たのだ。ついでに女の顔を見て言っても、罰は当たるまい」

「ナミ様。一の妃がわざわざ足を運んだとあっては、名折れでございます。ここは一旦戻り、奥の方をお呼びになってはいかがでしょうか」

 さっとナミの前に出た陽は、尤もらしくそう理屈を並べた。けれど言葉の端々には、僅かな焦りが含まれている。

 せっかく海里からナミの監視役を任されたというのに、その彼女の気鬱は悪くなるばかり。挙句自分の留守中にこんな勝手を許してしまったのだ。これ以上、海里の面子を潰す様な失態は出来ない、と彼女もまた必死だった。

 

 帳の擦れる音と共に空気ががらりと変わったのは、陽がナミを促そうとしているまさにその時であった。背筋がぞわっとするほどに張りつめた空気と、息苦しくなるほどの圧迫感。誰が来たのか、振り向いて確かめるまでもない。

「星涙様」そう呼び掛ける海里の声は、もはや叱責だった。

 文句を言いたい衝動は何とか抑え込んだが、眉間に皺が寄るのは止められなかった。相手が彼女でなかったら、武項の寵姫でなかったら、勝手な振る舞いをするなと怒鳴りつけていただろう。

「ナミ様は、もう御戻りになられます。此度は、」

 どうにか気持ちを落ち着けながらそう告げた海里に、彼女は片方の口角だけを釣り上げた笑みを浮かべた。事情を解りきった上でわざわざ現れたのは、まるで海里の反応を愉しんでいるようだ。

「私への客人だろう。会わねば礼を欠くのではないか」

 彼女は海里を嘲笑うかのようにそう言うと、寒気がするほどに美しい微笑をナミに向けた。当然、そこには一欠けらの温もりも感じられない。けれど、感情が込められていなかったわけではなかった。

 嫉妬、かもしれない。海里はそう思った。

 星涙は、女として、正妻への妬みを抱いているのではないだろうか。形だけとはわかっていても、自分の愛する男に他の女の影がちらつくのが不快なのではないだろうか。

 如何せん色恋沙汰には疎いため、確信は無い。けれど隣の葉那の驚きぶりを見る限りでは、この推測もそんなに外れてはいなさそうだ。

「ナミとやら。私が星涙だ。会いたかったのだろう?」

 いちいち煽るような物言いである。淡々としたいつもの口調とは打って変わって喧嘩腰な態度に、海里も葉那も心中で焦りまくっていた。

「そなたが、セイルイ?」

 ナミは何かに臆するように両腕で自分の体を抱きしめながら、か細い声でそう問いかけた。

 星涙が変だと思えば、こちらもまた変だった。高圧的な姫ぶりは身を潜め、小動物のようにいじらしい態度だ。まるで見てはいけないものを見てしまったかのように、侍女達はナミから一斉に目を逸らした。

「セイルイ。そなた、とても綺麗だ。黒い髪、白い肌、紅い瞳、それに黒い血…」

「黒い血?」

 意味不明の表現に陽がそう問うてきたが、海里にもさっぱりわからない。はらはらした面持で一同が見守る中、ナミはゆっくりと立ち上がった。

「そなたの白い肌は、真黒な血に染められている。恨みに体を蝕まれている」

 ぽつり、ぽつりと小さな声でそう呟いた彼女は、そこまで言うと突然狂ったかのように笑い出した。

「ナミ、様?」

 一番近くにいた茜がそう言って、ナミの体へ手を伸ばしたが、あまりの異常な様子にすぐに引っ込めた。今、彼女に触れるのは危険そうである。陽が慌てて駆け寄るも、ナミは反対に星涙に向かって突進してきた。彼女は人差し指を星涙の鼻先に突きつけると、こう怒鳴り散らした。

「妾は武項様の正室。お前如きが口を利ける立場ではないわ」

 口調は一変。話には何の関連性もない。完全に彼女はおかしくなっていた。

 心を病んでいるというナミの病状を、海里は初めて目の当たりにした。風見から話だけは聞いていたが、いざ当事者になってみると、何とも言えない恐怖だ。

「余所者が。今すぐ東国より去れ」

 ナミは血が滲むほどに腕を掴みながら、血走った目で星涙を睨みつけた。常軌を逸したその振舞は、まるでどこかの線が切れてしまったかのようである。

 だが、当の星涙は平然とした態度を崩さないばかりか、薄笑いさえ浮かべていた。俄かには信じられなかったが、その様は、彼女がもっと壊れることを望んでいるようにも思えた。

「お前は私から、一番大事なものを奪った。何故だ?どうして私からあの方を盗る?」

 今度は涙ながらにそう訴え出した彼女に対して、星涙は冷笑を浮かべた。女性の感情に疎い海里にもその心中は透けて見えた。

 武項は最初から私のものだ。お前の入り込む隙など、髪の毛一筋分さえもない。

 星涙の目は、ナミを見下しながらそう告げていた。その姿は、もはや只の女。恋敵に勝って満足げに哂う、どこにでもいる女だ。軍を率い、命を賭けて部下を護ろうとした武人でも、気高き巫女でもない。

「海里様。あの二人を早く。早く引き離しましょう」

 ようやく正気を取り戻したらしい葉那が、そう言って海里の袖を揺らす。

「あのままじゃ危険です」

 焦る彼女に海里も、ああ、と同意する。けれど既に遅かった。海里が一歩踏み出した時、激昂したナミが金切り声で叫び声を上げたのである。

「血で穢れた女め」

 それを聞くなり、星涙の纏う空気は凍りつくように恐ろしいものへと変わった。

 陽も茜も彼女の威圧感に竦み上がり、海里でさえ動くことが躊躇われた。しかしナミだけは、星涙に触発されたかのように更に声を張り上げる。

「そなた、武人あがりだというではないか。命を産み落とす女でありながら、その手で何人の命を奪ってきた。鉄の塊で何人の胸を貫いた。血に塗れたその身で、よく平然と生きていられるものだなぁ」

 両手を天に向けて狂気染みた動きをするナミに、星涙は怒りに任せて手を伸ばした。首を絞めかねない勢いの彼女の腕に、我に返った葉那がすかさず飛びかかる。 すると何を思ったのか、ナミは葉那の首を後ろから思い切り引っ掻いた。

 きゃあという葉那の叫び声が辺りに響き、海里と陽が慌てて三人の間に割って入る。引き剥がそうとするも、ナミの力が異常に強くてそう簡単にはいかない。そうこうしているうちに、勇率いる海里の私兵が駆け込んできた。


 涙目になりながら首筋を抑える葉那の手に、星涙がそっと自分のそれを重ねた。海里はその様子を横目で見ながら、陽に向き直った。

「今回のこと、内々で済ませるぞ」

「わかっております。まさか、このようなことになるなんて」

 陽は消え入るような声で返事をすると、縋るように海里を見た。

「海里様、ナミ様はどうなるのでしょうか」

「こちらから何かを仕掛けることはしない」

 強気な答えではあるものの、その内心は正反対である。ナミが星涙に危害を加えられたなどと訴えれば、不利になるのはこちら側なのだ。そしてその場に居合わせた海里も相応の痛手を食らうことになろう。

「しばらく大人しくしていることだな」

 まるで自分に言い聞かせるように、海里はそう告げる。しかし陽はうんうんと何度も大きく頷いて見せた。

「わかりました。今回のことは私にも責任があります。あなた様にとって、不名誉極まりないこと。決して口外はいたしません。ナミ様にもよく言って聞かせましょう」

 彼女に内心を見破られていたことに、海里は思わず苦笑した。

「相変わらず勘の良い娘だ。敵に回すと恐ろしいな」

「ご冗談を。私はいつでもあなた様のお味方でございます」

 そう言って海里を見つめてきた彼女の目には、真剣な想いが零れんばかりに溢れている。

「あなた様のために生き、あなた様のために命を投げ打つ覚悟もございます」

 真っ直ぐな瞳には一点の偽りも見られない。海里は思わず目を逸らした。

「…ともかくだ、陽。ナミ様のことはお前に頼んだぞ」

「はい。今度こそ、必ず」

 陽は深々と頭を下げると、茜を急かして部屋を出て行った。


 部屋ががらんとすると、やっと海里の心も幾分軽くなった。はっと葉那に向き直ると、彼女の首には痛々しい線がくっきり残っていて、思わず眉をひそめた。

「大丈夫か」

「余計なことをして、すみませんでした」

 彼女はしゅんとうな垂れながらそう呟き、深く頭を下げてきた。

「けど、星涙様が心配だったから」

 あの状況では、危なかったのはナミの方だろう。内心でそう突っ込んだが、口にはしなかった。

「今回は、私にも大きな責がある。お前一人にそれを負わせたりはせん」

 尤もらしい事を言っては見るが、そもそもこの結果をもたらしたのは海里の甘さだ。むしろ彼女に責められても仕方ないのであるが、葉那はぐすっと洟を啜っただけで、海里を責める言葉など何も言ってはこなかった。


 庁堂に戻った海里を待っていたのは、不快な表情を浮かべる三人であった。

 武項は頬杖をつきながら始終辺りを睨み付けており、風見も忙しなげに腕を組みなおしている。砲にいたっては、壁を蹴り飛ばさん勢いであった。

「海里、見損なったぞ」

 中に入るなり、武項は低い声でそう罵って来た。残りの二人もそれに異議を唱えるわけでもなく、こちらを煩わしげに見てくるだけである。

「もう少し上手い対処はあったはずだ。お前としたことが、どうしたというのだ」

「申し開きはしません。ただ私が甘かった。それだけでございます」

 海里は余計なことを言わず、そのまま頭を下げた。全身で武項の苛立ちがひしひしと感じられて、とても顔を上げる気にはなれない。

「何故、星涙をナミに会わせた?」

「それは星涙様の御意志です」

「ならば、もっと打つ手はあったはずだろう」

 じゃあ、お前ならどうした。海里はそう言い返してやりたい衝動に駆られた。

 この件に関しては確かに海里の落ち度。だがその原因を創り出したのは他ならぬ彼ではないか。面倒なことは全て風見と海里に任せ、政すらも疎かになり始めた武項。海里はそんな彼に対して、初めて負の感情を抱いたのである。

「海里、起きてしまったことは仕方がない。もう気に病むな。それにお前のことだ。その後の策は打ってあるのだろう」

 風見の声は、無理やり怒りを押し殺して穏やかさを装ったようなそれであった。海里を庇いだてようとはしているが、上手く感情が付いてこないのだろう。

「はい。陽にあちらでの処理を任せました。彼女であれば上手く立ち回るでしょう」

「陽はナミの縁続きだぞ。信用できぬ」

 武項は吐き捨てるようにそう言ったが、それはとても自分の妃に対する言葉とは思えない。彼の中では、星涙に害を成す者は完全に悪人として認証されてしまっているのだろう。良くない兆候のようなその事実に、海里は皆に気付かれないようにそっと息をついた。

「武項様。彼女は海里の言うことであれば、よく従うはずです。その点の心配は要らないでしょう」

 風見はわずかにほっとした口調でそう言った。

「それよりも気になるのは、ナミ様の気鬱のことでございます。見境無しに暴れられたのでは、あまりにも外聞が良くない」

 どのような意図で言ったにせよ、風見の発言は一同を黙らせるだけの効果はあった。仮にも夫である浦の司の前で、大胆すぎる意見である。海里と砲がその重大さに顔を見合わせていると、不意に低い声が響いた。

「…いっそ、始末してしまおうか」

 声の主はもちろん、武項本人である。

「正気ですか?」

 砲が慌てて口を挟んだが、武項は肯定も否定もせず、ただ静かに薄ら笑いを浮かべている。

「ご冗談はお止めください。彼女は荒居の姫君です。いくら荒居が力を失っているとはいえ、まだ敵に回すには恐ろしい存在ですよ」

 焦って色々喚いている砲を制止すると、風見はそう告げた。眉間には深い皺が刻まれていて、苛立ちが露だ。しかし武項は、お前が言ったのであろうと言わんばかりにしれっとした態度であった。

「それをどうするかは、まだ先の話だ。今はともかく、如何にしてこの状況を切り抜けるかを考えるのが先だな」

「しばらく陽に、いや私に任せていただけませんか」

 海里は自然に拳を握り締めるとそう訴えて出た。風見と砲が驚いたようにこちらを見つめてきたが、海里は武項から目を逸らさなかった。

「全ては私の責任。最後までそれを果たしたいと思います」

「待ちなさい、海里。今回の事はそう簡単な問題ではないよ」

 風見が口を挟むが、武項には全く聞き入れる様子がなかった。彼は大袈裟に足を組み替えると、値踏みするように海里の全身をねめつける。

「いいだろう、お前が蒔いた種だ。お前がきちんと刈れ。その代わり、責めを負うことも忘れるなよ」

 武項はそう言い捨てると、そのままくるりと背を向けて、さっさと庁堂を出て行った。


 武項は奥宮に着くと、扉の前で深呼吸した。単なる形ばかりの正室に、星涙が傷つけられたという事実が腹立たしいのはもちろん、そのことで彼女の愛情が薄れてしまうのではないかと不安になっていたのである。

 今の武項にとっては彼女が全てだった。三臣と共にあんなに精根尽くしてきた政治でさえ、どうでもよくなりつつある。彼女を失う恐怖に勝るものは何もなかった。

 思い切って戸を開くと、星涙は何をするでもなくただぼうっと外を眺めていた。結い上げていない黒髪は滑らかに流れ、頬杖をついている腕は輝くような白さだ。その優雅な様に、武項の口からはため息が漏れる。

「どうした?」

 気だるそうにこちらを振り向いた彼女を、武項は後ろからそっと抱きしめた。長身の彼が相手では、すらりとした星涙もすっぽりと包まれてしまう。彼女は武項の胸に顔を埋めると、その背に腕を回した。

「事情は大体聞いた」

 武項は悔しそうにそう告げたのを聞いて、星涙の胸はちくりと痛んだ。昼間のナミの顔がちらついて、全身に轟々と嫉妬が渦巻く。

「何を聞いたというのだ?」

 尋ね返してみたものの、はっきりした答えが欲しいわけじゃなかった。

 ナミは武人としての星涙を激しく非難した。その言葉に誤りは無い。それどころか、星涙の罪はもっと重いのだ。全てを知られ、彼に軽蔑されることが怖かった。 彼の体温が心地良ければ良いほど、失うことが怖い。しかし星涙のそんな心配を他所に、武項はより優しく星涙を抱きしめる。

「お前を苦しめるようなことをして、本当に済まなかった。許してはくれまいか」

 武項はそう言うと、星涙の黒髪の中にその大きな手を入れてきた。触れられた場所が温かく、さらさらと落ちる髪が気持ち良い。しかし同時にそんな喜びや幸せを感じることには、抵抗があった。

「私に幸せになる資格など、ない」

 狂ったようなナミの高笑いが聞こえたかと思うと、鬼と叫びながら刃を向けてきた菫が頭に浮かぶ。自分を罵る声がぐるぐると頭を巡り、やがて強い吐き気が襲ってきた。

「私は巫女だ。感情など必要ない」

 ひどい眩暈に倒れそうになる中、星涙はうわ言の様にそう呟いた。武項が心配げに顔を覗き込んできたが、顔を上げる気にはなれなかった。

「どうした。お前は私の妃、それ以外の何者でもなかろう」

「違う。私は巫女だ」

 強がりなのか、甘えなのか。星涙自身でも何が言いたいのかわからなかった。星涙は武項から手を放すと、泣きそうな声でそう告げた。

 かろうじて涙は堪えるも、心は締め付けられるように痛い。突然不安定になった星涙を、武項は諭すように頭を撫でてくれた。しかし星涙は駄々をこねるように彼の胸をどんどんと叩く。

「私はただの女ではない。巫女として武人として、辰国を支えてきたのだ」

「…だから何だ」

 武項に苛立ちが見え始めたが、星涙は止まらなかった。

「龍神の力を借りてせっかく封印したのに。どうして、どうしてこんなに心が痛い。巫女でなくなったから、封印が破られてしまったのだ。結局、私は巫女としてしか生きられない。ここへ来て、それがよくわかった」

「辰国へ戻りたいのか」

「違う。巫女としての役目を失った今、私に生きる資格はないのだ」

 武項はそう叫んだ星涙の腕を無造作に掴むと、その手に無理やり剣を持たせる。

「いいだろう。お前の言い分が正しいかどうかの証をくれてやる」


 鈍い音をたてて二人の剣がぶつかる。身の軽やかさがだいぶ彼女を有利にした。軽々と武項の攻撃をかわす。

 星涙はなかなかの使い手であり、武項は力での勝負に出るしかなかった。星涙の攻めに受身を取って鍔迫り合いに持ち込むが、じりじりとしのぎを削る力も予想以上である。だが所詮は女の力、いくら強くても武術で名を馳せる武項が押し返せないわけではない。

 星涙は分がないと見たのか、下方に身を引きその場を抜け出した。意表をつかれた武項は一瞬動揺したものの即座に一歩引いて身構えた。矛先に逃げられた星涙の剣は空を斬る。もう一度と狙った彼女の一振りは、武項の剣にはじかれた。空中に舞った剣は鋭い音を立てて地面にささる、と同時に武項は彼女の後ろをとった。

 逃げようとして体勢を崩した星涙は地面に投げ出された。切先を星涙に向けた武項が上から見下ろす。

「これでもそなたが選ばれた存在、いや特別な存在だというのか?」

 武項は冷ややかな眼差しで言った。荒い呼吸のまま、星涙は声も出せずに武項を睨み返す。

「自惚れもいい加減にしたらどうだ、そなたはどこにでもいるただの娘だ。特別な力など備わっていない。私がこの剣をそなたに向かって放っても生きていられるとでもいうのか」

 負けを認めたくはないもののこの状態で切っ先を向けられていては認めざるを得ない。吐き出すように星涙は答えた。

「殺せ」

 既に息を整えていた武項は呆れたようにため息をついた。剣を地面に投げ捨て、うずくまっている彼女を立たせようと手を差し伸べる。

「まだそんなことを言っているのか。馬鹿馬鹿しい」

「…私は罪人だ」

 星涙は武項の手を払うと、強い口調で答えた。

「私が生きることは許されない」

 きつく唇を噛み、冷ややかな視線を武項に注ぐ。

「どういう意味だ」

 武項は星涙の頬に手を当てながら、怪訝そうな顔をした。すると星涙は真っ直ぐに武項を見つめ、呟くように告げる。

「私はあの日…自分のためだけに、恨みを晴らすために、人を手にかけた」



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