第12話 交錯

 西日に照らされた大地は、本来の色を失い始めていた。

 橙の色が濃くなり、影が長く伸びる。一日の終わりを告げ始める夕焼けに、辺りはどこか物悲しく染まっていた。夕焼けに照らされる場所は必要以上に眩しくなり、それが届かない場所はまるで急ぐように早々と暗闇へ様変わりしていく。

「最期の足掻き、か」

 海里はすっと目を細めると、自嘲気味にそう呟いた。

 人も動物もそしておそらくは天も、自分の終焉を素直に受け入れることは何よりも困難なのであろう。消え行こうとするもののうち、己が消えていくことを望めるものはきっとごく稀だ。海里自身も今の地位を失うことには、少なからず恐怖がある。

 

 領内を駆け抜け、隣郡との境辺りにまで来ると、ようやく東国軍を目にすることが出来た。砲から聞かされていた通り、先頭を進む武項の馬上には一人の女性の姿があり、その光景についつい眉根を寄せる。戦は完全な勝利に終わったというのに、不機嫌顔で戻ってきた砲の気持ちがわかるような気がした。

「全く、冗談じゃないぜ」吐き捨てるようにそう言った砲の声が頭の中に蘇る。

 確かにこれは冗談では済まされない。武項にぴったりと体を寄せるその女性の姿を見て、海里もまたそう思った。

「おお、海里。良く来てくれたな」

 彼の馬に横付けした海里に、武項はそう声を掛けた。戦に出る前の、あの覇気はどこへ消えたのか。彼の表情は緩みっぱなしだ。

「そちらが?」

「ああ。星涙という。しばらく奥で休ませてやってくれ」

 武項がそう言うと、まるで彼の体に包みこまれているような状態の彼女は、さっと顔色を変えた。不安げな彼女に、武項は甘ったるい声でこう言い聞かせる。

「すまない。私がお前と共に行けるのはここまでだ。ここからはこの海里と進んでくれ」

「どういうことだ?」

 女性にしては低めの声だが、その中には不安がありありと含まれている。

「一旦ここで別れるだけだ。先に戻って休んでいてくれ」

 あからさまにがっかりしている彼女の肩を、武項はそっと抱いた。

「案ずるな。ほんのひと時だ。帰還の報告やらの雑務を片付けたら迎えに行く」

 微笑みかけられて、わかった、と返した彼女は精一杯の虚勢を張っているようだった。俯き加減の彼女の頭を、武項はその胸にすっぽり納める。ひとしきりそうした後でゆっくり剥がし、静かに馬を止めると、抱きかかえるようにしてゆっくりと星涙を降ろした。

「頼んだぞ」

 武項の命令に、海里は一礼で応じる。馬上から手を伸ばして星涙を引き上げた時、否応なしにその指先に触れる。そのひんやりとした感覚に、背がつうと寒くなった。

「参りましょうか」

 海里は寒気を誤魔化そうと、長い息を吐いた。駆け出した時、星涙はちらりと武項を見たが、彼は優しく微笑むだけで何の言葉もかけはしなかった。


 海里は人目を避けながら、暗がりを進んだ。星明りだけで照らされるこの道では、充分に目を凝らさなければすれ違う相手の顔を判別することは困難だ。人目を忍ぶ際、武項が好んで使う道の一つである。風見から受けた指令に従って、海里は出来るだけ森の中を進んでいた。

 本来、捕虜である彼女を人目に晒すのは何の不都合もない。むしろ捕虜は戦の勝利の証であり、敵の将を捕らえることは誇りでもある。だが今回ばかりは事情が違った。武項は捕虜を一人も連れ帰られなかったばかりか、敵方の将だけを自分の妃にするために連れ帰ったのである。今回の戦では武項が得たものこそあるが、東国自体には何の利益も無いといえよう。

「何を考えているのやら」

 声には出さず、心中で主にそう問いかける。武項が連れてきた女性を背に置いているというのに、主の愚痴を漏らすほど馬鹿ではない。

 そもそも、彼女は一体何者なのだろう。海里はふと、後ろの女性に意識を向けた。

 全く素性のわからない、妖しげなほど美しい女性である。何か尋ねようかとも思ったが、何を話せばいいのやらさっぱり思い付かない。それに武項から引き渡されてから、彼女は始終無言を貫いていて、とても会話を楽しむ雰囲気ではない。はっきりとはわからないが、彼女が気落ちしているのは何となく察せられたので、気遣いの言葉でもかけようかと思ってはみたが、どうにも苦手な分野だった。結局、無口な彼女を見習って海里も口を閉ざしたままを通してしまった。

 重苦しい空気を引き摺りながらも馬を駆けさせていると、しばらくして点々と灯る明かりが目に入ってきた。明かりの灯る箇所を避けるようにして、海里は武項の私邸を目指していく。そうしてもう少し行くと、視界の先にぽつりと建つ小さな屋形が入ってきた。海里は念のためそこらを見回したが、そもそもここは集落とはだいぶ離れたところ。辺りには武項の別邸の明かり以外、何もない。

「着きました。どうぞ、こちらへ」

 海里は持っていた松明に火を灯すと、星涙に見えるよう辺りを照らした。

 小さな炎に照らされた星涙の顔は、見るからに青ざめていた。海里が着いてくるように合図をすると彼女は不安からか、びくっと体を硬くさせた。

「何の心配もございません。ここは武項様の別邸。あの御方が、誰にも邪魔されたくないときにこちらに御篭もりになられるのです。そのおかげで普段から滅多に人は訪れません。どうぞ、ごゆるりとお寛ぎくださいませ」

 海里が戸を軽く叩くと、どたどたと駆ける音が聞こえてきた。そして勢いよく扉が開かれたかと思うと、待ってましたとばかりに葉那が飛び出してきた。彼女の顔には心配と喜びが複雑に混じりあったような色が映っている。

「随分時間がかかったのですね」

「ああ。色々回り道をしたからな」

 海里はそう答えたが、葉那は適当に相槌を打つだけである。全く聞いていない、そう思った海里は軽く舌打ちを漏らした。しかし彼女はそれすらも気付かないようで、ちらちらと海里の後ろにいる星涙を盗み見ている。

「先程の女性だ。粗相のないように」

 若干怒りを込めてそう告げた海里に、葉那はようやく役目を思い出したようだ。彼女は慌てて両手を綺麗に重ねると、はにかみながら礼をとった。

「心得ております」

「いいか。私と勇以外は何があっても中に入れるなよ」

「だから、わかっておりますわ。ご心配なく」

 満面の笑みで胸を叩いて見せた葉那に、海里は思わず眉根を寄せた。彼女が力む時には、大体良い事がない。張り切り過ぎて自滅するのである。

「決して、余計なことはするなよ」

「あら、私を信用できないのですか」

 むっとしたような葉那を一蹴すると、海里は一段と声を低くした。

「武項様の評判に関わる事態だ。軽く考えるな」

 海里の真剣さを汲み取ったのか、葉那も急に表情を改めた。いつもこうならばと思うが、それを彼女に期待するのは無駄だということは十二分にわかりきっている。海里はくるりと背中を向けると、もう一度強く念を押した。

「念のため、勇を見張りにつけておく。だが決して油断はするな」

「はい。海里様もくれぐれもお気をつけ下さい」

 葉那に全てを任せてしまうことに多少の不安はあったが、相手は女性である。ここは彼女に任せるのが得策なのであろう。海里は無理やりそう納得しながら、風見達が待つ庁堂へと戻ることにした。


「無事お預かりしました」

 海里がそう告げると、風見はほっとしたような表情を見せた。

「ご苦労様。武項様も今さっきお着きになったよ」

「これからどうなるのでしょうか」

 海里の問いに、風見は曖昧な笑みをみせる。

「わからないね」

「あれほど意気揚々と進軍したにもかかわらず、辰国の兵を取り逃がしたのだぞ」

 砲が呆れたように大きなため息をついた。酒を飲んでいるからか、妙に嫌味っぽい。

「あの女一人のために、一人の捕虜もなしだ。信じられるか」

「とりあえず勝利したのだ。それでいいだろう」

 海里が取り成すように言ったが、砲はそれを笑い飛ばす。

「戦は楽勝さ。敵軍はろくに訓練も受けていない雑魚ばかりだ。こちらが申し訳ないくらいばたばたと倒れてくれたよ」

「ならば、いいではないか」

 砲は風見の言葉を聞き流し、ますます酒瓶を傾ける。口の端から酒が滴るのも構わずに、彼はがぶがぶと飲んだ。

「俺達は戦の最中に余所見をしたことなんか一度も無い。それを叩き込んだのは他でもない武項様なんですよ。それを何だ。少しばかり綺麗な女が将だからって、あっさりとそれを破ってしまわれた」

「それほどの女人なのかい?」

「まぁ、美しいとは思います」

 風見の問いかけに、海里は首を竦めてそう答えた。

「尋ねる相手を間違えたね」

 反応の鈍い海里をからかうようにそう言う風見に、砲は思い切り高笑いをし始めた。

「海里に聞いたって無駄ですよ。そいつは武項様以上に、女に興味がないんですから」

「誰彼構わずに口説くお前よりはましであろう」

 海里の嫌味など耳に入っていないようで、砲は何かの糸が切れたかのように腹を抱えて笑っている。戦の疲れもあるのだろうが、どうにも情緒不安定のようだ。海里は彼から酒瓶を取り上げようとしたが、砲はそれを手放そうとはしなかった。

「もうやめておけ。宴で飲む酒が不味くなるぞ」

「構うものか。それはそれ、これはこれだ」

「随分楽しそうだな」

 海里達が取る取らないの押し問答をしている最中、突如響いたのは主の声であった。その声に砲の動きはぴたと止まる。三臣は一斉に武項に視線を注ぐと、即座に礼を取った。

「此度の戦、お疲れ様でございました」

 風見がそう口を開くのに合わせ、海里と砲もより深く頭を下げる。武項はつかつかと歩み出ると、風見の前にある机にどかりと腰掛けた。

「戦の手柄は全て砲のものだ。こいつを誉めてやれ」

「馬鹿なことを申されるな。敵方の将を落としたのはあなた様でしょう」

 いくら酔っているとはいえ、あからさますぎる嫌味口調だ。砲の暴言とも取れる言葉に、海里と風見は思わず顔を見合わせた。

「まだ言うか。お前もしつこいな」

 武項は特に怒りも見せず、逆にくすくすと笑い声すら立てている。

「星涙はもはや敵の将ではない、我が妃だ」

「ほう、それでは披露目をしなければなりませんな」

 はっと鼻で笑うと、砲は嘲る様に告げる。その態度に、一瞬眼光を鋭くした武項に海里は思わず身構えた。しかし予想外にも彼はすぐにふっと表情を和らげると、聞いたこともないような甘い声で嬉しそうにこう告げたのであった。

「ああ。今宵の宴でそれをすることにした」

 慌てたのは三臣である。三人は呼吸することも忘れて、嬉々とした表情の武項をぽかんと見た。風見は珍しく冷ややかな声で武項に問うた。

「状況をおわかりですか?」

「どんな状況だ」

 武項はあっさりと聞き返す。その言葉に顔をひくつかせる砲を横目に、海里は風見の言葉を繋いだ。

「広野の一件が片付いたわけではございません」

「…吾が戦に出ている間、何をしていたのだ」

 武項はあからさまに顔を歪めると、冷たくそう言い放った。怒りの視線が海里と風見に向けられる。

「お前達、この戦の間何をしていた?まさか主の不在をいい事に、好き放題やっていたというわけではあるまいな」

 あまりの言い草に、海里は返す言葉が見つからなかった。何かを言おうとしても上手く声が出てこない。そんなこんなでもたもたしていると、風見が横から冷静な切り返しを見せてくれた。

「本気で言っておられるのですか?」

 震える声から、その怒りが読み取れる。風見の眉間にこれ以上ないほど深い皴が刻まれた。

「たかだか数日で、これだけの件が片付くと本気でお考えですか?」

 風見の迫力に、武項も思わずたじろぐ。しかし彼は尚も武項に詰め寄った。

「広野の背後を洗い出すだけでも、相当の時間がかかります。更に彼らを処罰するとなれば、相応の証拠固めが必要だ。あなたの不在を埋めて政治を執っていた私達に、この件も解決しておけと言われるのですか?」

「落ち着け、風見」

 武項は焦ってなだめようとするが、風見はそれを聞き入れない。

「あなたは辰国を攻め滅ぼすと出て行かれたのではありませんか。しかし結果、女に目が眩んで敵兵を捕り逃した。どこか違いますか」

「悪かった。この件は全て私の責任だ、反省しよう。つい頭に血が昇ってしまった」

 憤る風見に、武項はひたすら低姿勢で謝った。

「無理やり国から引き離した彼女を、少しでも早く浦に慣れさせたかったのだ。誰も知る者のいない土地で暮らすのは、さぞ心細かろう」

 武項の言葉に風見は更に厳しい視線を投げかけたが、それ以上何も言わなかった。ほっとした様子の武項は、再度風見に問いかける。

「どうだろうか。彼女のためだ、考えてはくれないか?」

「…先の言葉、昔のあなたに聞かせてあげたい」

 風見はそう告げると海里が声をかける間もなく、さっと部屋を出て行ってしまった。残された武項は複雑な表情で砲を見やったが、彼もまた厳しい視線を武項に向けている。武項は諦めたようなため息をつくと、何故か悲しげな眼差しで海里を見てきた。

「海里、すまない」

「宴の件、正直に言えば賛同しかねます。しかし御命令とあれば従わざるを得ませんね。葉那にその用意も命じましょう」

 そう告げるなり、砲は思い切り海里を睨み付けてきた。何か言いたげであるが、彼は何も言わない。武項はそんな砲と海里を見比べて、曖昧な笑みを浮かべていた。


 海里に伴われてやって来た女性の姿を見るなり、葉那は思わず息をのんでしまった。

 顔立ちが綺麗なのはもちろんのこと、長く美しい黒髪やそれとは正反対の白い肌。直視するのも躊躇われるほどの美貌である。破れかけたみすぼらしい軍服を身に纏っているというのに、彼女はまるで女神のように美しかった。

 しばらくぼうっと魅入っていた葉那は、彼女から注がれる冷めた視線でようやく自分の役目を思い出した。不機嫌そうに自分を見る彼女に反射的に愛想笑いをしてみたが、それは逆効果で、ぷいっとそっぽを向かれてしまった。

「私は葉那と申します。あなた様のお世話を仰せつかりました」

 少しでも場を和やかにしようと明るく話しかけてみたが、効果は無い。沈黙だけは避けようと、葉那はさっさと場所を変えることにした。

 湯殿は、屋形の一番奥にある。そこに案内する途中で、葉那はやっと彼女の名を聞けた。星涙という名は、なるほど彼女にふさわしい。夜空に輝く星が涙を流すとしたら、きっとこれほどの美しさなのであろう。

「こちらでございます。どうぞ」

 そう言いながら葉那は、星涙の軍服に手を伸ばした。

 その瞬間、湯殿にぱしっという乾いた音が響く。葉那の差し出した手が、彼女に勢いよく払われてしまったのである。痛みはもちろん、想定外のことに、葉那は思わず目を丸くした。

「私に触れるな」

 ぞっとするほと冷たい声に、葉那は反射的に体を竦ませた。一瞬でその場の空気は凍りつき、葉那の体はまるで金縛りにでもあったかのように硬直して動かない。

「申し訳ございません」

 ようやく数歩下がって頭を下げたが、星涙には無視された。既にぼろぼろになっていた軍服をびりびりと引き裂く音が、静かな湯殿にやたらと響いて聞こえる。

 葉那は息を潜めるようにして彼女からの言葉を待っていたが、しばらくしても星涙は何も言ってこない。おそるおそる顔を上げてみると、ちょうど星涙がその首にあった玉を外しているところであった。

 見覚えのあるそれに、葉那は目を見開く。どう見ても東国の拵えであるそれは、かつて浅海の胸元にあったものによく似ていたのである。

「あの…」

「何だ」

「い、いえ。失礼致しました。何でもございません」

やっとのことで口を開いたものの、葉那は星涙の威圧感に再び俯いてしまう。

「言いたいことがあるのならば、言え」

「本当に何でもないのです。お気になさらないで下さいませ」

 葉那は弱弱しい笑みを浮かべながら、顔の前でぶんぶんと手を振った。気のせいとしておこう、何となくそう思ったのである。

 星涙の玉のように白い肌に手桶でゆっくりと湯をかける。滑らかな湯が彼女の肌をさらさらと伝い、その滴はまるで真珠のようだ。ぬるめの湯で彼女の身体についた泥や汗を流し、砂埃にまみれた髪を軽くすすぐ。それが済むと、葉那は石造りの風呂に右手を入れた。立ち上る湯気がその証であるように、熱い湯である。湯加減を確認した葉那は、笑顔で星涙に告げた。

「さあ、お入りくださいませ」

 星涙は葉那をちらりと見てから、恐々とその足を入れた。その瞬間に顔をしかめた彼女に、思わず声をかける。

「熱すぎましたか」

 苦しそうな表情を浮かべている星涙に、葉那は慌てて手桶に水を用意した。しかし星涙は差し出されたそれを手で押しやる。

「無理をなさらずに。どうぞお使いくださいませ」

 葉那は内心で相当焦りながらそう告げた。星涙に何かあったら、それこそ海里からどんな仕打ちがあるかわからない。

「もう慣れた」

 そう言うと、星涙は湯の中でゆっくりと手足を伸ばしてみせた。心地良さそうに息をつきながら水と戯れる彼女の美しさに、葉那はごくりと息を飲み込む。

 彼女と打ち解けようとは思うものの、どうしても勇気が出なかった。そうして口を開いたり閉じたりを繰り返していると、不意に星涙がふっと笑みを漏らした。

「葉那、といったか。私はただの捕虜、気を遣ってくれる必要はない」

 まるで挑むようなその口調に、はいそうですか、と言える者は多分いない。葉那は左右に大きく首を振った。

「何をおっしゃいます。あなた様は武項様の妃になられるお方、捕虜などではありません」

 やんわりと否定するつもりだったのに、口から出てきたのは、はっきりし過ぎる言葉であった。もしかしたら嫌味に聞こえたかもしれない、言った後でそう後悔したが、不思議にも星涙にそんな様子は見られなかった。

「武項、か。教えてくれ、あの者は何者なのだ」

 湯の中で揺らめく身体を見ながら、星涙はそう呟いた。

「私には何もわからない。ただ、彼に言われるままに着いてきただけだ」

 両手にすくった水がさらさらと手のひらから零れ落ちていく。それを見つめる彼女の目には悲しげな色が映っていた。先程までの刺々しい態度とは正反対の彼女に、葉那の表情も自然と柔らかくなる。

「星涙様、ご安心くださいませ。武項様は素晴らしいお方です。あの方があなた様を必ず良い様になさって下さるに違いありませんわ」

 葉那はそこまで言うとにっこりと星涙に微笑みかけた。しかし彼女は水面を見つめたまま、自嘲気味にこう言った。

「私は戦で奴に敗れた。いつ処刑されてもおかしくない身だ」

「そんなことはありません。武項様はあなた様を妃にするために連れ帰ったと言われました。あの方が言葉を違えることなどありえません」

 余計なことは言うなと言う海里の顔が一瞬浮かんだが、葉那は言葉を続けた。星涙の横顔があまりにも寂しげで、気休めだろうが何だろうが、励ましに何か言ってやりたかったのである。

「身分を弁えないで口を挟むのをお許しください。実を申せば、あの方にはご正室が一人おられます。しかし武項様は大の女嫌いとして有名なお方、ご正室のナミ様は確かにございますが、名ばかりの存在に過ぎません。祝言を挙げてから何年も経ちますのに、武項様が彼女を妻として扱うのは儀式のときばかりでございます」

 わずかに動揺を見せた星涙の様子で、葉那は彼女が何も知らされずに連れて来られたことを悟った。何もわからないまま、ただ武項だけを頼りに東国にやって来た星涙。見た目にはわからなくとも、内心はさぞかし不安に覆われていることであろう。

「正直に申し上げますと、ナミ様はもちろん密かに武項様をお慕いする女性からの風当たりは強いと思われます。しかし私達はあなたのお味方です。どうぞご信頼ください」

 そう告げる葉那の目には知らずのうちに、力が篭っていた。星涙を護れるのは自分しかいない、葉那の中にそんな使命感が湧き出てきたのである。

「武項ほどの地位であれば正室がない方がおかしいだろう」

 星涙は淡々とそう言ったが、落胆を抑えようとしているのが見て取れる。武項を取り巻く女に嫉妬心を抱くことは、女であれば当然の感情だ。葉那は彼女の長い黒髪を眺めながら、朗らかに答えた。

「武項様はご自分の意志で星涙様を選ばれた、それが何より大事でございましょう」

 葉那の言葉に星涙はぴくりと反応した。それを良い意味で捉えた葉那は、内心で喜びながらこう続ける。

「あのお方が女性に心惹かれるのは初めての事とお聞きしております。けれどそれもあなた様を見れば理解できる。あなた様ほどのお方は、東国中を探し回っても見つかりませんわ」


 湯から上がった星涙の髪からあらかたの水分を落とし、布で全身を丁寧に拭いていく。

 仕上げに髪を結い上げようとしたその時、葉那は小さな悲鳴を上げた。視線の先には星涙の右肩、龍の痣があった。

 黒龍が天に昇る様を描いたかのようなそれは、今にも飛び出してきそうなほど生々しい。星涙は鬱陶しそうに髪を元の位置に戻した。

「失礼いたしました。お気を悪くしないで下さい」

 気を取り直したものの、葉那の心臓はまだばくばくと激しく鼓動していた。彼女に伸ばす手も少しばかり震えてしまう。その白いうなじが露になると、くっきりと浮かび上がる龍の痣がやたらと目について、気分はぞわぞわしたが、どうにか星涙の美しい黒髪を一つに束ね上げることには成功した。


 湯殿を出て、入り口近くの広間へと移るなり、扉を叩く音が聞こえた。訪問者を迎えるため、葉那は素早く戸口に向かう。

「どうなさったのですか。今宵は戻らないはずでございましょう」

 予想通りの人物であるが、この訪れは予定外である。葉那はつい顔をしかめた。

「変更だ、今から帰還の宴を催すぞ。星涙様を正装に着替えさせてくれ」

「まさか、星涙様もご同席なさるのですか」

「ああ、武項様の意向だ」

 そう告げる海里の顔には、はっきり迷惑だと書いてある。

 人目につかないようこの屋形に押し込めているというのに、わざわざ公の場に引きずり出すというのはどう考えてもおかしいだろう。

「このような状況で、星涙様を公にするのは如何なものでしょうか。敵に付け入られる隙を与える、そうではありませんか」

 言わなければいいものを、葉那はついつい思ったことをぽろりと尋ねてしまった。その瞬間、海里の眉間には深い皴が寄せられる。

「お前に言われるまでもない」

 それはそうだ。葉那はわかりきったことを尋ねたことを些か後悔した。

 海里や風見がそんな隙を好んで見せるはずはないのだ。それでもそうしなければならないのは、やはり武項の一存に寄るからであろう。

「とにかく星涙様の支度だ。早くしろ」

 海里に急かされ、葉那は大急ぎで星涙に事情を話した。

「そう言うわけでございます。お疲れだとは思いますが、どうぞご了承下さいませ」

 話を聞かされた星涙はほんのわずかに片眉を上げたが、すぐに元の無表情に戻った。平静を装う彼女に、葉那は小さくため息をつく。

「海里様はもちろん、私も同席することを許されております。気を楽にお持ちくださいませ」


 星涙が宴の場に姿を現したとき、ほとんどの者が口をあんぐりとあけて驚いた。

口にこそ出さなかったが、内心で最高の出来栄えであると自負していた葉那は、彼らの驚き様に思わず笑いを漏らした。

 黒曜石のように艶やかな髪は巧みに結い上げられ、絵のように美しい顔には薄化粧が施してある。白い頬に軽く紅を叩き、口紅を差した彼女は正視するのをためらわれるほどだ。武項ですらそんな星涙を見て、言葉を失ったほどである。

「武項様、彼女を席に」

「あ、ああ。そうだな。星涙、こちらへ」

 海里に指摘され、武項は慌てて星涙を自分の隣へと誘った。

 しなやかな動きの中に凛とした空気を纏った星涙の美しさは、まさに比類なきものといえる。

「星涙、この場にいるのは浦の主だった者達だ」

 武項は左腕でそっと星涙を抱きながら、優しくそう言った。星涙は彼の方へと体を傾けないようにしながら、面々を見やる。

「海里とそれに砲か、彼らとは既に面識があろう。そしてこの者が私の一の側近である風見だ」

列 の一番右端にいた風見が穏やかな笑みを浮かべながら、軽く会釈する。

「風見と申します、星涙様。噂にはお聞きしていましたが、本当にお美しい限りで」

 風見の挨拶を皮切りに、昔からの重鎮もこぞって星涙に声をかけ始めた。

 星涙は無表情なまま、首だけを軽く動かして彼らに答える。そんな中ただ一人、広野だけが曖昧な表情を浮かべていた。ナミの叔父である彼としては複雑な心境なのであろう。

「一波乱ありそうか」

 砲が小声で海里にそう耳打ちする。

 どこか面白がっているのがその声に表れており、海里はじろりと彼を睨んだ。

「広野とて馬鹿ではない。今はまだ心配なかろう」

「嘘をつけ。風見様もお前もそうは思っていないんだろう。既に何か手を打ってある、違うか」

「宴の場には相応しくない話だ。後にしてくれ」

 海里がそう言い切ると、砲はくっと笑って何気なく星涙の方へと視線を向けた。するとちょうどこちらを見ていた彼女と目があったらしく、彼の顔はさっと朱に染まる。海里はそんな砲に呆れたように言った。

「相変わらず、女には目がないな」

「喧しいわ。葉那、こっちへ来い」

 砲は気恥ずかしさを隠そうと、乱暴な口調で葉那を隣に呼びつけた。すると彼女はすぐさま二人の元にやって来て腰を下ろした。

 彼女は海里の前では見せないような艶っぽい笑みを浮かべながら、砲の杯に酒を注ぐ。

「お疲れ様でございます。此度の戦でもご活躍だったとか」

「まぁな。俺の勇姿をお前にも見せたかったぞ」

 砲が女相手に軽いのはいつものことだ。彼は葉那にどこでどんな風に戦ったのかを、おそらく脚色を交えながら細かに話して聞かせた。ついさっきまであれだけ不満を全開にしていたというのに、よくもまあぺらぺらと話せるものである。

「それにしてもこんな役目を押し付けられるとは、お前もとばっちりだな」

 ある程度話を終えたところで、砲は周りに聞こえないよう声を低めてそう言った。海里もちらと周りを伺ったが、武項達は風見との会話に興じており、こちらの様子には注意を払っていない。ようやく口を開こうとした海里であったが、葉那に先を越されてしまった。

「それならば私を誉めてくださいませ。海里様の言い付けで準備をしたのは、この私でございます」

「おお、そうかそうか。では葉那、お前にも一献注いでやろう」

「ありがたき幸せでございます」

 葉那は嬉しさを顔一面で表し、うっすらと頬を染めた。

 口調や振る舞いはがさつだとしても、砲の見目は良いのだ。彼に微笑まれて顔を赤らめない娘はそうそういない。しかし海里は喜ぶ彼女にあっさりと水を差した。

「確かに働きは認めるが、実際に行ったのはお前に命令を受けた下働きの者達だろう」

「だからそれを手配したのは、私です」

 ぷぅと顔を膨らませた葉那の頭を、砲がぽんぽんと撫でてやる。

「葉那、こんな主が嫌になったらいつでも私が引き取ってやろう」

「つまらぬ女の嫉妬に塗れたいならば、そうするが良い」

 海里は砲の嫌味をさらりと返した。葉那は二人のそんな様子を楽しそうに見る。

「お二人とも、子供じみた諍いはお止めください。星涙様に笑われてしまいますよ」

 彼女の言葉に、二人が星涙の方を見ると冷めた三人分の視線が突き刺さった。

「お前達、もういい大人であろう」

 武項が呆れたようにそう言うと、風見もくつくつと笑う。

「いいではありませんか。平和の証でございます」

 ついさっきまでの剣幕はどこへやら、風見はいつも通り悠然とした態度だ。海里は彼を宥めるのに使った労力を思い出して、ため息をついた。

 怒りの冷めやらぬ風見を様々な論で説き伏せ、どうにかこの場に引っ張り出したのである。最終的には風見も、内輪揉めは避けるべきという考えでまとまった。

「それはさておき、砲よ。お前は星涙にまだ挨拶がないだろう」

「仮にも敵将、わずかな時間で相容れることは出来ません」

 砲は素っ気なくそう言うと、視線を下に落とした。子供の反抗のような彼の態度に、葉那がそれとなく注意する。

「砲様、戦はもう終わったのでございますよ。こんなにも美しい女性を目に入れないのは、損でございましょう」

 葉那の言葉に、海里も何となく彼女を見た。

 無表情であるが、やはり恐ろしく美しい。妖艶などという言葉では収まらないほど美しい星涙を、普通の人間であれば欲しようなどとは思わないであろう。海里には武項の考えが全くわからなかった。

「矢を射掛けた男か」

 星涙が怒りの混じったような声でそう問うと、砲は驚いて声を張り上げた。

「顔を覚えているのか」

「お前は浅海に矢を当てた。忘れるわけがなかろう」

 場の空気は一瞬で変わった。星涙が口にした名に海里が反応したのは勿論、一部の者までもが凍りついたのである。

「浅海だと?」

 砲は怪訝そうにそう問い返すと、人々の間にさざめきが走った。

 皆、隣の者達と顔を見合わせて小声でひそひそと会話を始める。しかし海里はそんなことには気付かなかった。それほど動揺していたのである。

 周りに気を払うことも忘れるほどに余裕を失った海里は、身を乗り出して星涙に問いかけた。

「浅海と言いましたか?」

 慎重にその名を問うと、彼女は探るような目で見つめてきた。海里は尚も星涙に問いかけようとしたが、風見によって遮られてしまった。

「海里、そろそろ刻限も遅い。星涙様を寝所にお連れしなさい」

 まるで諭すような風見の命令に、海里は思わず反論しかけた。しかし、わずかに残っていた理性がそれをぐっと堪えさせる。気付けば葉那も海里の袖をぎゅっと掴んでおり、海里が取り乱すのを必死に押し留めようとしていた。

「星涙様、今宵はお疲れになったでしょう。どうぞ、ごゆっくりお休み下さい」

 風見の言葉に武項は驚いた様であったが、特に異論も述べない。砲も横で頷いており、結局海里は大人しくその場を離れるしかなかった。


 いくつかの雑務を言いつけて戻ろうとした海里を、葉那は慌てた様子で止めてきた。

「お待ちください。浅海のことを確かめなくてよろしいのですか」

「出来るものならば、そうしたい」

 切に訴えるような目を向けてくる葉那に、海里は吐き出すように答えた。

小さな声で馬鹿と毒づいた葉那を海里は思い切り睨みつけたが、そこにはもう誰の姿もなかった。彼女は星涙の前に額づいていたのである。

「お聞きしたいことがございます」

 葉那は頭をぴったりと床につけ、真剣にそう願い出る。すると星涙は無言のまま彼女の傍にそっと片膝を付いた。そしておもむろに己の首元に手をやると、着けていた首飾りを外して葉那にそっと手渡したのである。

「佐間を知っているか」

 星涙の問いに葉那はこくりと頷く。

 誰がこのような出来事を予測できたであろうか。一大決心をして浅海に渡した翡翠が、葉那の手の中で冷たい光を放っている。海里は体がぐらぐらと傾くような感覚に囚われた。

「預かりものだ。最も返す当てはないが」

 星涙は淡々とそう告げる。葉那はおもむろに立ち上がると、海里の手に首飾りを持たせてきた。

「浅海の、ですよね」

 海里は手渡された冷たい石を指でそっと撫でた。

 間違いない、これは自分が渡した妻問の宝である。

「戦場で別れるとき、浅海から渡されたものだ。自分の代わりに私を護るから絶対に手放すな、と」

「浅海とはどこで?」

 無言を貫く海里の代わりに葉那が尋ねる。

「妹のように思っていた。辰国で私の後継の巫女として育て上げたのだ」

 巫女という言葉に、海里の脳裏には出会った時の泣き顔の浅海が浮かぶ。そして次に、腕には焼け落ちた社で抱き締めた時の温かい感覚が蘇る。巫女になりたくてがむしゃらになっていた彼女を理論で説き伏せ、傍に置いておいたのは他ならぬ自分だ。過去の経緯が一気に思い出されて、海里はしばし立ち尽くした。

 沈黙の後、やっとのことで発せられたのは震える声であった。

「生きて…いるのですね」

「おそらく。だがそれも戦から無事に逃げ切っていればの話だ」

 全身から力が抜けていくこの感覚を、海里は一度味わっていた。

 数年前、浅海を失ったときと全く同じである。葉那はこれ以上の驚きはないといった表情で、ぽかんと星涙を見ていた。星涙はそんな彼女を一瞥すると、凍るように冷たい声で海里に尋ねた。

「浅海に何があった?」

「それはこちらが聞きたい」

 海里は星涙から視線をそらして目を閉じると、乾いた声を絞り出した。

「何年も前から行方不明です。どれだけ手を尽くしても見つけられなかった」

 浅海を失ったあの時同様、再び体が切り刻まれるような痛みが海里を襲った。星涙はそんな海里に構うことなく、淡々と話を続ける。

「丈というものから大体のいきさつは聞いている」

「奴を知っているのか」

 海里は夢中になって、星涙を問い詰めた。興奮で、わずかにだが舌をもつれさせた海里に、彼女は落ち着けと言わんばかりにゆっくりと返答する。

「東へ向かう途中の山中で出くわしただけだ」

「奴は何を?」

「山賊だ。相当お前を、いや浅海を恨んでいたぞ」

 言いようのない怒りが体中から湧き起こり、頭を熱くする。海里は壁を思い切り叩いた。

「侵した罪を棚に上げ、浅海を恨むというのか。どこまでも厚かましい男だ」

「お前が立飛を追い込んだと聞いているが」

 星涙はそう問うと、葉那に手を差し伸べた。立ち上がるなり、葉那はそっと海里の手から首飾りを取り上げる。次第に色を失っていく海里を見かねたのであろう。

「私は法に基づいて裁きを下しただけだ」

 海里は額に手を当てて、こめかみを強く押した。

「敗者は勝者を恨むもの。近いもの同士が争ったならば尚更だ」

 星涙は自嘲気味にそう告げると無造作に髪をかきあげた。葉那がおずおずと問いかける。

「…浅海は何故佐間を捨てたのでしょう」

「余計なことを聞くな」

 捨てたという言葉にびくっと反応した海里は、葉那を怒鳴りつけた。

 今更そんなことは聞きたくなかった、浅海が戻ってこない理由を知ることは恐怖でしかないのだ。星涙はそんな海里の様子に表情を歪める。

「残念ながら、浅海はそれだけは何としても答えてくれなかった。丈を刺し、馬で逃げてきたとしか言わないのだ」

「私から逃げ出したということか」

 海里は必死に感情を抑えようとするが、口調は独りでに荒くなる。

「そんなわけがないでしょう」

 葉那がなだめようとするが、こんな海里は初めてでどうしたらよいかわからない。星涙は、おろおろする葉那の肩に手を置いた。

「聞け。浅海は、今でもお前への想いを断ち切れていない」

 星涙から冷え冷えとした視線を投げつけられ、海里はわずかにたじろいだ。彼女の表情には暖かさの欠片も見えない。とても浅海が慕う様な人物には思えなかった。

「浅海は」

 星涙は話を続けようとしたが、これ以上は聞く気になれなかった。海里が浅海を失った責めに苦しみ続けてきたこの数年、彼女は別の場所で自分の望みを叶えていたのだ。

 恨みたくはない、憎みたくもない。けれどどろどろとした負の感情は否応なく海里を捕えてきた。

「もうよい。私はそろそろ戻ることにしよう、後のことはお前に任せる」

 どうにかそう告げるのが精一杯であった。海里はふらふらしながらその場を後にしたのだった。


「お疲れでしょう。もうお休みになられますか」

 葉那は先程の重苦しさを忘れさせるような明るい声を出した。しかし戸口に立ったままの星涙は、難しい顔で夜空を睨んだままである。再度問いかけようとしたとき、不意に彼女が口を開いた。

「葉那と言ったか。お前は浅海とはどういう関係だ?」

「私はあれの従姉妹、親友でございます」

 意外な問いに少し驚いたが、葉那は素直に答えた。すると星涙はくつくつと笑った。

「なるほど、道理で似ているわけだ」

「海里様は、全くそうは思っていないようですけれどね」

 葉那は冗談めかして彼の名を出してみた。すると星涙はすうっと目を細める。

「あの者は浅海を心の底から想っているのであろう。浅海もまたそうであった」

「浅海からお聞きになられたのですか?」

 誰にもわからない真実、葉那はどうしてもそれが知りたかった。

「結ばれるべくして出会った二人でした。幸せになれるはずだったのです」

 数年前の輝くばかりの二人の様子を思い出して、言葉が詰まる。肩を並べて寄り添う二人は、葉那にとっても理想だった。海里と共に旅立つと決めた浅海は、最高に美しい笑顔を見せてくれたものだ。

「浅海は佐間も東国も捨てて、海里様と生きる道を選びました。けれどその旅立の日、事が起きてしまった」

 星涙は全てを打ち明けろと言わんばかりの視線を向けてきた。しかしその答えを知らない葉那には静かに首を振ることしか出来ない。

「不可思議なことに、この東国の誰もその詳しい事実を知りません。無論、海里様も同様です。そして失意に暮れる海里様をお助けになったのが武項様なのでございます」

 そう、武項が海里をここまでの存在にしたのである。少年のときから優秀さを謳われてきた彼を逸早く手中に収めたのだ。

「海里様は、今は浦の三臣のお一人として存分にその才能を振るっておりますが、私の目には、全力で政に取り組むことで浅海の存在を自らから締め出そうとしているようにしか見えません。少年の頃からその才を東国中に轟かせ、野心家として煙たがられる彼の心情は私には量れませんけれど、それでも浅海に対する想いが本物であることはわかります。海里様の心には浅海以外の誰もいません。あの方を解ることの出来る人間はこの世でただ一人、浅海だけです」

 葉那はそこまで言って、目頭が熱くなっているのを感じた。彼女がいなくなった寂しさは海里だけのものではない。親友が行方知れずになったのである。誰にも知られずにひっそりと。せめて一言くらい、一印くらい、欠片でもいいから何かを残して欲しかった。

「お前も浅海が好きなのだな」

 星涙の感情の無い言葉にも敏感に反応して、葉那は鼻を啜った。心の奥底に封印していた浅海の存在を急に身近に感じて、涙はぼろぼろと零れ出し、鼻の頭が赤くなる。

「巫女に、巫女になることが、浅海の、望みでした。他所に、行っても、その思いを、忘れなかったのなら、それが、あの子の、あるべき姿なのでしょうね」

 職務も忘れて泣きじゃくる葉那に、星涙は特に言葉をかけてくれはしなかった。けれど思い込みかもしれないが、その黒い瞳の奥の奥には、浅海への情愛がかすかに浮かんでいる様な気がした。

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