第9話 祓
黄金色の秋もとうに終わりを告げ、辰国には厳しい冬の季節が訪れていた。
肌寒さはぐんと増し、近頃では白雪もちらちら舞い始めている。人々は秋の間に蓄えておいた食糧と共に、生活の地を麓近くまで移していた。変わることなく神殿に留まるのは、星涙とフユ、そして浅海だけである。
「本当に寒いわね」
真っ赤になった両の手に息を吹きかけながら、浅海は体をぶるっと震わせた。
初めてこの地で迎える冬は、東国のそれとは比べ物にならないほど格段に寒い。息を吸うだけでも空気の冷たさに喉が痛くなるのだ。
いよいよ明日だ。年に一度の大きな儀、大祓。浅海にとっては初めての公な勤めである。巫女の娘となって以来、星涙からは儀式の次第を学び、フユには徹底的に作法を叩き込まれてきた。その成果を見せる時がようやくやって来る。
洟を啜りながら、浅海は腕から溢れんばかりに抱えている薪を持ち直した。神殿に蓄えられていたそれらの中には、貴重とされる香木も混ざっている。東国では見ることの出来ない珍しいものも多々、浅海はそれを扱うたびに妙な緊張に襲われた。加えて、社を出てくる前のフユの厳しい顔を思い出してしまい、自然とため息が漏れ出る。
「良いですか。この日ばかりは山を降りている皆もこの地に集結し、一年の穢れを払い落とすのです。辰国にとって何よりも大事なこの儀に決して間違いは許されない。そのことを忘れないように」
ここ数日、彼女は普段よりも浅海の一挙一動に目を光らせていた。わずかにでも誤った手順を踏もうものなら、始めから全部やり直せと言わんばかりの勢いで叱責された。どこか力が入りすぎている感もあるが、それだけ重要な儀であるということだ。
だが、その一方で星涙はいつも通りそのものだった。ついさっき神殿を訪れたときも、何事もないように淡々と儀を執り行っていた。浅海が話しかけたのを頭から無視するのも同じである。もっとも、星涙が取り乱す姿など想像のしようがない。慌てふためく姿など、最も彼女に似つかわしくないのだ。
独特の玲瓏たる威圧感、女性にしては少し低い声、そして女神と見紛う程の美貌。あの凍り付きそうに冷えた瞳に、強い感情の色を宿しているのを見たことがない。
今でこそ話す度に体が固まることはないが、それでも彼女の前で萎縮することはやめられない。出会ったときのような殺気こそ感じはしないが、触れればこちらまで凍てついてしまうような印象は今でも全く変わらないのだ。
浅海は寒さに急かされるよう、硬い霜柱を踏み鳴らしながら仮宮への道を急いだ。
集落の中央に作られている仮宮は、明日の大祭のためだけに設けられた特別なものである。巫女達以外は誰も近づくことが許されておらず、人々は遠巻きに宮を伺うしか出来ない。そのため浅海はここを出入りするたび、一斉に視線を浴びせかけられた。彼らを完全に無視するのも何となく気まずくて、扉を開く前に一応はこちらを伺っている人々に目をやることにしている。中には見たことのある者もちらほらはいるが、親しい者の姿は見当たらなかった。
「ここを終えたら、あなた様は戻ってください」
あらかたの準備を終えたところで、フユは浅海にそう告げた。
「神殿に戻るのですか」
当然ここで仮宮の番をするものだと思っていた浅海は、思わず作業の手を止めて目を丸くした。しかしそれが気に入らなかったのか、フユはわずかに眉を釣り上げる。そしてため息と共に諦めたような声を出した。
「巫女の娘はあなただけなのだから、仕方ないでしょう。巫女は儀の直前までその身を清めておかねばなりませんから」
まるで浅海を責めるかのような口調に、ついついこちらも眉間に皴が寄る。
「私一人では力不足だとおっしゃるのですか」
浅海は不快感を全面に出してフユに詰め寄った。確かに失敗ばかりであるが、これでも一生懸命頑張ってきたのだ。それを頭から否定されたようで、情けないような悲しいような嫌な感情に包まれる。
「私は巫女の娘として精一杯務めてきました。ご不満があるのならばおっしゃって下さい」
連日の睡眠不足も相まって、ここ数日の彼女への不満が爆発したのかもしれない。浅海はそう言うと、拳で祭壇を叩かんばかりの勢いでフユに向き直った。
珍しく腹を立てた浅海を、彼女は奇妙なものでも見るような目で見てきた。それもそのはず、巫女の娘となってからの浅海は、文句一つ言わず真面目に勤めてきたのである。それが突然反抗的になれば誰だって驚くだろう。
「そういう意味ではありませんよ」
予想に反して、フユは苦笑を浮かべると、宥める様にそう告げた。
「あなたがどうこうというわけではありませんよ。巫女の娘は本来ならば二人いるはずなのです。一人が巫女の清めを手伝い、もう一人が仮宮作りを行う、これがこれまでの在り方でした。けれどそうできない以上、空の仮宮よりも巫女を優先するのは当然でしょう」
初めて聞かされる事実に、浅海はぴたりと体を止める。
「二人、ですか?」
「ええ」
「では、星涙様もどなたかとご一緒に修行なされたのですか?」
「いいえ。あの方は特別です。龍神自身が彼女を巫女に据えることを望んだのですよ。彼女がお生まれになったとき、龍神のお告げが下ったのです」
ふぅと息をつくと、フユはおもむろに祭壇の前に腰を下ろした。
「そこにお座りなさい。明日の前に少しお話ししておきましょうか。」
口調を改めたフユは、今しがた作り終えた祭壇に真剣な眼差しを注いだ。何事が始まるのかと浅海はごくりと息をのむ。
「辰国の巫女はその地位に就いたとき、巫女の娘となる二人の娘を選びます。その方法は巫女のみが知りうること。決定は絶対であり、何人たりとも異議を唱えることは許されません」
フユがそう言ってちらりとこちらを伺った時、浅海はあることに思い当たった。 余所者である浅海がすんなりと巫女の娘に就くことが出来た、その理由である。民の中には当然異論を抱く者もあったに違いない。けれど巫女の決定が絶対である以上、異議を唱えられるわけもなかったのだ。
浅海は唇に手を当てると、ゆっくり視線を落とした。
「では、私がこの務めに付くことに反対なさった人も多かったのでしょう」
全員に認められようなどとは思っていない。けれど、それでも無性に寂しさが込み上げてきた。
「何も気に病むことはありません。こればかりは巫女の決定が全てなのです」
フユは急に元気をなくした浅海を気遣うような声を出した。けれど浅海の心は晴れない。自分が分不相応の場所に立っているようで、言い様のない焦りに襲われていた。
「浅海様、自信をお持ちなさい。あなたの努力は星涙様も私も認めております」
けれど、と言いかけた浅海の手をフユは優しく包み込んだ。
「あなたは星涙様によって選ばれた、それは何よりの誇りです。たとえ周りの者が何を言おうと、あなたが巫女の娘であることに違いはないのですから」
「ありがとうございます」
その言葉に浅海の目頭は熱くなった。こんなことで泣いてはいけない、必死にそう思ってみるがその思いとは裏腹に喉の奥もどんどん熱くなってくる。フユはそっと浅海から手を離すと、今までより柔らかな口調で話し始めた。
「話を続けましょうか。選ばれた二人は共に修行を積み、互いに切磋琢磨しながら巫女の地位を争います。そして、より力のある方を巫女が選び、その者が巫女を襲名するのです」
「なれなかった者はどうなるのですか」
浅海は両手で裾をぎゅっと掴みながら、掠れた声を絞り出した。
「誰かに嫁いで子を成し、普通の女として暮らします。そして身につけた知識で村のために尽くすのです。まぁ大抵は長やその縁者と結婚することになりますけれど」
「そんなに簡単に巫女の地位を諦められるものでしょうか」
片一方に対して随分不本意な決定であるように思え、浅海はつい怒ったような声を出してしまった。するとフユはすっと目を細めて諭すように答えを告げる。
「巫女は辰国の力の証。選ばれなかったということは、それだけの者だったと諦めることが肝心です。それに村に戻ってもそれなりの暮らしは保証される、見方によれば巫女のほうが損かもしれません」
「巫女は力を有する証なのでしょう、それがどうして損になるのですか」
まだ不満げな顔をしている浅海にフユは困ったような目を向けてきた。
「それは人それぞれ、誰が何に価値を見出すかはわかりません。一生を滝で龍神に捧げる巫女も、子をなして辰国の繁栄を築く母もどちらも偉大な存在には変わりませんよ。それに龍神を鎮めることが如何なるものか、あなたにはまだわからないでしょう。もう少しお待ちなさい。何が自分にとって大切なのか、そのうちわかってきますよ」
フユにそう告げられたとき、かすかに遠い記憶が蘇ってきた。これと同じ言葉をかつて聞いたことがある。佐間の巫女からの教えだ。親しかった頃、彼女もまた浅海に自分の意志を持つことを強く願っていた。
浅海は優しかった彼女の翠色の瞳を思い出して、ふっと笑んだ。
「お話しいただきましてありがとうございました。明日の祓の儀、精一杯努めさせていただきますわ」
両親の悲鳴が聞こえ、菫ははっと気がついた。
ぼうっとしていただけのはずなのに、頬に触れれば涙の跡がはっきりとわかる。何年たっても忘れられない忌まわしい記憶。毎年鎮めの儀の頃には、必ずこの記憶にうなされるのだ。
必死に助けを求める両親の姿、幼い自分の泣き声、二人の最期の叫び。容赦なく振り下ろされた剣が二人を捕らえた瞬間、幼い菫の心は凍てついた。そして何よりも忘れられないのは、それを平然と行った鬼の姿である。
あの鬼は微笑を浮かべながら、二人を斬り捨てた。どんなに素晴らしい人物と称えられていても、菫にとっては大切な両親の命を奪った鬼でしかない。儀式と称して行われたあの非道をどうして忘れられようか。
「絶対に許さない」
菫は血の滲むほど唇を強く噛んだ。
数刻後には否が応でもあの鬼と対面することになる。間違いなく、鬼はふもとに姿を現す。菫は常に懐に忍ばせている短剣をそっと取り出した。不気味に鈍く光る剣に菫の目が映る。
「今年こそ、逃しはしないのだから」
「菫様」
ウタはそんな彼女におずおずと声をかけた。
「止めないでちょうだいね」
菫が意を決してそう告げると、滅多に取り乱さないウタでもこの時ばかりは焦ったようである。
「無茶でございます」
「わかっているわ。でもやらなければならないの」
「あのお方は普通の人間ではございません。それに護衛の者も多数おります。菫様がどうにかできる相手ではございません」
「ええ、あれは鬼よ。だから何のためらいもないわ」
菫はそう言うと、抜き身の短剣を指でなぞった。
白い巫女の装束を身に纏った星涙の姿に、浅海はくらくらしてしまった。何ていう美しさなのだろう。ぽかんとした顔で口を大きく開いたままでいると、彼女はその形の良い眉をわずかに歪めた。そんな姿も神々しく映るばかりだ。
「その締まりのない顔は何だ」
「だって、本当にお綺麗なのですもの」
辰国では東国と違い、巫女は髪を結い上げない。そのため一つに束ねただけの星涙の黒髪は歩く度にさらさらと揺れ、日の光を一身に浴びてきらきらと輝いて見えた。すらりとした体躯に装束を優雅に纏い、漆黒の黒髪を流している彼女はどう見ても女神の化身だ。この世のものとは思えない美しさに浅海の頭は自然と垂れていったが、当の本人はそれを煩わしがるようにふんと鼻を鳴らした。
「お前も似たような格好をしているだろう」
浅海はおそるおそる自分の姿を見てみたが、やはり思ったとおりである。とても星涙と同じ装束を身につけているとは思えないほどの落差だ。想像通りの姿に浅海は苦笑いを浮かべるしかなかった。
「そうは思えませんけれど」
顔立ちはもとより背格好も全く違う。どうやっても彼女の様になれるわけもないというのに、少しでも期待していた自分が恥ずかしかった。
仮宮の前では人々がきちんと整列して祓の儀が始まるのを今か今かと待っていた。星涙と浅海は、左右に別れて座している彼らの間を通り抜け、儀式ばった重々しい足取りで進んだ。いつもは早足でなければ後を追えない星涙も、今はいつもよりずっとゆったりしていて助かったが、その代わり神酒の入った大きな壷を抱えていた浅海は、転ばないように注意しなければならなかった。
仮宮の扉にはフユが待機しており、星涙が到着するなり一礼をしてそれを開いた。まだ何の明かりも灯されていないせいで、宮の中は薄暗い。星涙はそれを気にすることもなく中へと進み、祭壇の前に静かに座した。白い装束のせいか、それとも星涙自身の気配のせいか、彼女は薄暗い中で浮き上がって見えた。まるで幻でも見ているかのような光景に浅海は思わずごくりと唾を飲む。
浅海は戸口の手前に壷を置くと、フユに散々言われたとおり星涙の斜め後ろに腰を下ろした。星涙はそれを目で確認することもなく祝詞を捧げ始めると、あっという間に炎を起こしていく。
燃え始めたのを確認した浅海はくべる薪をそっと星涙の手元に寄せたが、それを使う必要はなさそうだ。わずかな種火から起こされたというのに既に強大な炎となり、仮宮ばかりか外までも明るくしていたのである。
毎日見ているものではあるが、これほど狭い空間で行われるとなると迫力は比にならない。赤々と燃え上がる炎は仮宮の中いっぱいに大きく成長しており、宮の中は蒸し風呂のように暑い。浅海の体も自然と熱くなり、頬も赤く染まっていく。
そんな中、違和感は突然現れた。直感とでもいうのだろうか。祝詞の間中、手で仰ぎたいのを必死に耐えていた位だったのに、その一瞬だけ寒気を感じたのである。強い殺気のような嫌な気配に、浅海は思わず後ろを振り向いた。
こんなとき、時の流れというものは不思議なほどゆっくり感じるものらしい。
浅海の目に映ったのは駆け寄って来る菫の姿であったが、彼女の動きはまるで止まっているかのように見えた。だが実際は、菫はその手に光るものを握りしめ、髪を振り乱しながら般若の形相でこちらに向かってきていた。
「危ない」
菫が仮宮の中に飛び込んできたのは、浅海がそう叫んだのと同時だった。あまりに突然の出来事に誰もが呆然とする中、浅海は反射的に彼女に飛びかかった。浅海も小柄であったが菫はそれ以上に華奢だ。彼女が衝撃でよろけている隙に、浅海は上手く菫の手を掴むことに成功した。
「何しているのよ」
浅海が怒鳴りつけるが、菫は暴れるのをやめない。彼女は体を懸命に動かして、どうにか逃れようとした。
「放して」
菫はそう叫びながら、短剣を上下に振り回そうとする。こんな細い腕のどこにこれほどの力があるのか。浅海は必死に抑え付けようとするが、菫は尋常でない力でがむしゃらに暴れた。
「放して。あなたには関係ないでしょう」
肘が腹に命中し、その痛みに思わず手を離しそうになったが、浅海は全身の力を込めてそれを堪えた。
「やめろ、菫」
揉み合う二人の間に火明が割って入るが、浅海も菫も無我夢中で離れようがない。わけがわからなくなった二人をどうにか引き離そうと、彼は、浅海が上から抑え付けている菫の腕を思い切り殴りつけた。ようやく菫が剣を取り落とす。その機を逃さず、浅海はすぐに落ちた剣を拾い上げると、彼女からさっと離れた。
「怪我は?」
「平気よ」
慌てて駆け寄って来た樹はそう問うと、浅海を自分の背で隠した。
思わず樹にしがみついた浅海は彼の背中越しにそろそろと様子を伺う。いつの間にか集まってきていた火明の部下達によって、菫の体には縄がかけられていた。顔は涙でぐちゃぐちゃになっており、いつもの愛らしさは消え失せている。
「連れて行け」
「離しなさい。私は鬼に復讐しなければならないのよ」
体の自由を奪われた菫は思い切り喚き散らしていたが、火明らによって宮の外へと連れ出されていく。足をばたばたさせながら引きずられて行く彼女の姿は、その悲痛な叫び声も相まってとても痛々しかった。
「姉上、お怪我は?」
菫の行く先をぼうっと眺めていた浅海は、樹の声ではっと星涙の様子を伺った。
すると驚いたことに星涙は未だに祈りの姿勢を崩しておらず、皆に背を向けたままの状態であった。浅海は樹から離れると彼女の傍に膝をついて、小さな声で問いかける。
「ご無事でしょうか」
「ああ」
こちらを振り向きもしないばかりか、その声にも動揺は感じられない。彼女は冷静そのものであった。
「続けるぞ」
星涙はそう言うなり儀を再開した。樹と浅海は驚いて顔を見合わせたが、祝詞が聞こえ始めたため、急いで元の位置に戻る。しばらくざわめきが聞こえていたがやがてそれも収まり、先程の騒ぎがなかったのかのように儀式は淡々と続けられた。
仮宮での儀を終えた星涙は今度は滝へと移動し、浅海も神酒を抱えてそれに従う。その道中、浅海は星涙と二人きりだったのであるが、とても先程の話題を口に出す勇気はなかった。
無言の沈黙に耐え、ようやく滝にたどり着いた浅海は供物の横に神酒を並べた。祭壇の臭気につい顔をしかめてしまったが、すぐに無表情を装う。
浅海の作法を目で追っていた星涙は、神酒が添えられたのを確認すると、無表情のまま祭壇の前に座した。そして仮宮の何倍もあろうかと思われるほどの炎を巻き起こす。火柱は天高く昇り、それに反応した龍神の嘶きで地が揺るぐ。浅海は星涙の様子をじっと見守っていたのであるが、情けないことにその地震で少しばかり体勢を崩してしまった。
祝詞を終えた星涙は立ち上がり、神酒をばしゃばしゃと贄にかける。そして剣で一つずつそれを突き刺し、滝へと投げ入れ始めた。再び耳を劈くような嘶きが響き、滝の中がうっすらと赤く染まる。
浅海はその様子に思わず目を閉じた。いくら儀式とわかっていても、血が流れるのを平然と見ていることは出来ない。
「終わりだ」
星涙の声で、そろそろと目を開いた浅海ははっと我に返った。星涙は剣についた血を神酒で流し、軽く水気を払う。剣を手にした彼女を前に、浅海は反射的に体を硬くした。
「皆に告げろ」
星涙はそれだけ言うと、さっさと神殿へと戻ってしまった。その後ろ姿を見送りながら、浅海は慌てて返事をする。そして祭壇の火を大きめの薪に移すと、それを高台にいるフユに向かって振って見せた。
村に戻ると、仮宮の周りをぐるっと囲むようにして、国中の人々が宴に興じていた。昼間の厳かな雰囲気とは打って変わって、明るさに満ちている。皆、そこかしこに集まっては、酒を酌み交わしていた。老若男女問わず、赤い顔をして笑い合っていた。
「お前は戻れ」
全てを終えて神殿に戻った浅海に、星涙は背を向けたままそう言い放った。
どうしてと問いそうになったが、浅海は慌てて口を噤んだ。背中越しにぴりぴりとした空気を感じるばかりか、綺麗に解いた彼女の黒髪がまるで高い壁の様に浅海を拒絶していたのである。
ちらちらと燃える篝火に照らされているせいか、星涙自身が赤々と光っているかのように見えたが、今にも爆ぜそうなその様からは、怒りどころかその他の何の感情も感じられなかった。それがかえって不気味で、浅海はそそくさと立ち退くことを選んだのだった。
「ものすごく賑やかね」
「それはそうよ。ほら、浅海。あそこに樹様がいらっしゃるわ」
ユキが指差した方向には、確かに樹がいた。彼はこちらに気付くと、大きく手を振ってくれた。浅海は彼女に手を引かれながら、仮宮のすぐ傍のそこまで滑り込んだ。
「よく来たな。ユキも出迎えご苦労だった」
樹は自分の隣を軽く叩いて、座るように告げた。穏やかに微笑む彼に、浅海の心の内にあった棘が少し抜けた。彼の笑顔には不思議な作用があるようで、見ているとほっと気が安らぐのである。
「本来は巫女の娘は仮宮の中に席を設けるのだが、まぁいいだろう。こっちで我慢してくれ」
「いいえ。むしろありがたいです」
浅海はそう言って樹に笑いかけた。彼に向き合うと自然と笑みが零れる。
「元気だったか」
「ええ。樹様は、少し痩せられましたね」
顎の辺りや首回りが、以前よりも更にすっきりとしている。それがますます彼の魅力に磨きをかけていた。
「まぁ、戦が続いたからな」
「国が攻められているのですか?」
「いいや。領土拡大のため、我らが奈須に攻め込むのだ。長い年月の中をかけて次第に彼らの領土を奪い、辰国は確実に広がった」
「けれど…国力も民の数も彼らの方が勝っているのでしょう?」
浅海は正直な感想を述べた。しかし樹は怒るわけでもなく、穏やかな笑みを浮かべた。
「ああ。条件だけならば圧倒的に奈須が有利だ。けれど我らは勝利を収めてきた。もちろん、これからもそうなる」
樹が軍服を纏い、敵と打ち合う姿はどうにも似合わない。儚げな彼が今にも不幸に見舞われる様な気がして、浅海の胸はぎゅっと締め付けられた。
「…どうか、御無事でいらしてください」
真っ直ぐに彼を見つめた浅海は、その瞳の中に自分の不安げな顔が映っているのをみた。樹は一瞬迷った様な顔をしたが、すぐにいつもの柔らかい笑顔を浮かべてくれた。
「安心しろ。姉上がいる限り、我らは負けない」
ほら、と渡された器を両手で持つと、浅海は彼が注いでくれた酒をちろりと舐めた。
月がだいぶ傾き、あちらこちらで泥酔人が現れてきた頃、浅海は樹をそっと物陰に連れ出した。袖を引っ張られてよろけそうになる彼に謝罪しながら、人がいない事を確認する。
「お話がございます」
きょろきょろと周囲を伺ってから声を低めた浅海に、樹は何かを察したらしい。彼も強張る声で問い返してきた。
「どうした?」
「…菫のことが聞きたくて」
名前の部分は特にか細い声でそう告げると、樹はやはりと言った顔でこちらを見返してきた。彼は大きく、だが、静かに息を吐いた。
「姉上はどうだ?」
「どことなく、いつもとは違います。とても何かを聞ける感じではありません」
思案げに顎に手を当てた樹を、浅海は下から覗き込んだ。
「教えて下さい。菫はどうしてあんなことを?」
浅海は樹の両袖を引っ張りながら、彼に詰め寄った。酒の力もあったせいで、多少興奮気味だった。
「よりによって、鎮めの儀の時にあんな振る舞いするなんて」
樹は浅海の手を片方ずつそっと離すと、代わりにこちらの両腕をがっしりと掴んできた。そして真剣な口調でこう言った。
「菫は牢の中だ。もちろん見張りがついている」
「罰を与えられるのですか」
問う声がわずかに震える。樹は静かに首を振った。
「わからない。だが、おそらく姉上は菫を罰したりはしない」
どうして、という浅海の問いに彼は答えてはくれなかった。その代わりとでも言うように、彼は浅海の手を引いて足を進めた。いきなりの彼の行動に浅海が戸惑った声を出すと、樹はただ一言こう告げた。
「会いたいんだろう」
長の屋形の裏手にある洞窟の前には二人の兵が見張りに立っていた。どちらも火明が信頼を置いている者らしく、樹が訪れたというのにその場を動こうとはしない。
「何人たりともここを通すなとの命を受けております」
浅海達の懇願にもかかわらず、彼らからの答えはそれしか返ってこない。業を煮やした浅海は強行突破を試みようとしたが、樹がそれを制した。
「やめておけ。敵うはずがないだろう」
「だってこのままじゃ」
駄々をこねるように体を揺すっていると、不意に後ろから肩をぽんと叩かれた。
「通してやれ」
振り向いた浅海達は同時にその人物の名を呟く。樹の方は相当驚いたようで、目を見開いて相手を見つめていた。
「いいのか、火明」
「ただし、通す条件は俺が立ち会うことだ」
「ああ。それは構わない」
樹はそう言ったが、すぐに浅海の顔色を伺ってきた。こくりと頷いて見せると、火明は着いて来いというように手をくいと振った。顔を見合わせた浅海と樹は、そんな彼に無言で従った。
社の奥に続く洞窟に比べて、ここは一段と狭かった。細身の樹であればともかく、火明などは縦も横もぎりぎりである。浅海は転がる小石に何度か足を取られそうになったが、すぐ目の前には樹がいたため幸いにも転ぶことはなかった。息が詰まりそうなほど狭い通路には、不気味なほど音が大きく響く。時折どこかで滴る雫の音も心臓がどきりとするほど反響する。びくびくしながらしばらく進むと、ちらちらと揺らめく篝火が見えてきた。
「あそこ?」
浅海は誰にともなくそう問いかけた。すると火明が、不快さがありありと伝わる声で答えてくれた。
「ああ。ここは重罪を犯した者だけが留め置かれる場所だ。最もあれ以来、一度も使われることはなかったのだがな」
あれ以来、という言葉が妙に気になったが、とてもそれを尋ねられる雰囲気ではなかった。樹の顔はこれ以上ないくらいに青ざめており、火明の眉間にはこれまたはっきりと深い縦皴が刻まれていたのだ。
迫り出した二つの大岩に堅い格子が幾重にもかけられた、まさに堅牢。奥はどこもかしこも行き止まりであり、とても抜け出すことは出来そうに見えなかった。にもかかわらずそこにも二名の兵がおり、事の重大さが伺える。
菫は敷かれた布でなく、冷たそうな石の上で悠然とした笑みを浮かべていた。
「何しに来たの?鬼に命じられたのかしら」
口を開こうとした浅海であったが、菫は素早く二の句をつなげてそれを遮る。彼女はちろと舌を出すと、桜のような唇をぺろりと舐めた。その姿はぞっとするほど妖艶に映った。
「まさか、私が心配で会いに来たなんて言わないわよね」
菫はそう言うなり、狂ったように高笑いを始めた。
「冗談よ。裏切り者がそんなことするわけがないわ」
「裏切り者?」
眉をひそめた浅海に菫は見下すような視線を注ぐ。
「あなたは私を裏切ってあの鬼を選んだ、何か違うかしら?」
「浅海は巫女の娘になっただけだ。お前を裏切ったというわけではないだろう」
押し黙る浅海に代わって、樹が口を開く。すると菫は両手を頬に当てて妙に嬉しそうな顔をした。
「いつだって私の味方は兄上だけね。結局皆あの鬼に騙されるのよ」
そう言った菫に、樹はまるで哀れむような目を向けた。
「…鬼って、まさか星涙様のことじゃないでしょうね」
「あら。他に誰がいるのかしら」
「冗談じゃないわ。星涙様がどうして鬼なのよ」
菫の嘲る様な物言いに、浅海はついつい激昂してしまった。格子に両手をかけ、ぴくりとも動かないそれを揺さぶろうとする。
「星涙様は巫女よ。この辰国を支える神といってもいい存在じゃない。そのお方に何てこと言うのよ」
「可哀想な浅海、あなたはあの鬼を余程妄信しているようね」
菫はそう言うとゆっくり立ち上がった。そして格子のわずかな隙間からその白い手で浅海の手に触れてくる。
「痛っ」
浅海は思わず小さく悲鳴を上げた。菫が歪んだ笑みを浮かべながら、浅海の指に爪を立てたのである。
「教えてあげる。あれは神なんかじゃない、ただの人殺しよ」
菫は言葉を続けながらますます強く力を込めた。その痛みに浅海は思わず彼女を睨みつける。
「あら、巫女の娘がそんな顔をしていいのかしら。巫女は常に穏やかな心でいなければいけないのよ。あの鬼を見て御覧なさい、それこそ平然と人を斬れるじゃない」
「やめなさい」
「知らないのなら教えてあげるわ。あの鬼はね、薄笑いを浮かべながら私の両親を斬殺したのよ。二人の懇願など頭から無視してあっさりと剣を振り下ろした。そして滝へと二人を投げ捨てたの」
「やめろ」
火明はそう怒鳴ると、格子を思い切り蹴飛ばした。
「樹、もういいだろう。浅海を連れて行け」
怒りの滲んだ声に浅海は思わずぶるっと震えた。しかし菫は平然とした態度を崩さない。
「火明、あなたも可哀想な人ね。知ってるのよ、あなたが本当は誰を想っているのか。でも残念、あの鬼には人を愛する心なんてないんだもの」
「いい加減にしないとその口を塞ぐぞ」
「やれるものならやってごらんなさい。鬼だって自分の手を汚さずに済むって喜ぶはずよ」
菫と火明の言い争いは、ますます激しくなりそうであった。この場から早く抜け出そうとする樹に腕を引っ張られたが、足が思うように動かない。初めて知らされた事実に頭が回らなくなり、ついでに身体も固まってしまっていた。
「大丈夫か?」
樹は優しく問うと、浅海の頭をぽんぽんと叩いてくれた。その懐かしい感覚に感情が更に混乱する。
「海里」浅海は小さくそう呟くと、首飾りをぎゅっと掴んだ。
外に出ると、幾分落ち着きが戻った。浅海はおそるおそる樹を見上げる。
「菫はどうなるの?」
「姉上次第、だろうな」
「そう…。けれどわからないわ。星涙様はどうして菫の、いいえ、自分のご両親を…」
俯きながらそう問いかける浅海に、樹は重い口を開いた。
「もう数年前になる。姉上は儀式のために菫の両親を犠牲にしたんだ。まだ幼かった菫も、その様子を見ている」
絶句した浅海に、樹は視線を落とした。
「今だからこそ言えるが、先代の長、つまり私達の父親はとにかく酷い君主だった。民のことなど少しも考えることはなかった。己の欲望を満たすためだけに、幾度も大勢の人々が犠牲になったよ。彼らが亡くなって悲しんだのは、何とも寂しいことに菫と私だけだ」
そう言って弱弱しく微笑んで見せた樹が、ひどく痛々しかった。彼も父親を殺された被害者なのだ。そしてそれを行ったのは他でもない実の姉。菫もだが、樹も相当に苦しんだのだろう。
「龍神はどうしてその二人を贄に選んだのかしら」
浅海はぽつりと呟いた。
今回の儀もそうであるが、贄は巫女の占で決められるのである。そこに個人の感情が入り込む余地など全くない。菫がいくら星涙を恨んだところで、それは逆恨みでしかない。
「このままでは辰国が滅ぶとお考えになったのかもしれない。そのくらい、あの頃はひどい時代だった」
樹の言葉を何度も思い出しながら、浅海は一人神殿への道を辿った。
菫には確かに何の罪もない、けれど実の父を手にかけねばならなかった星涙もまた辛い立場だったに違いないだろう。苦渋の決断を強いられた彼女をどうして責められよう。きっと星涙の冷たい瞳の中には、苦しみが渦巻いているのだろう。浅海はそれを思うと、いてもたってもいられなくなり、慌てて駆け出した。
息せき切って滝に到着すると、星涙は一人水辺に佇んでいた。
「ごめんなさい。戻ってきました」
浅海はそっと声をかけると、そのまま彼女の後ろに立った。浅海の気配に気付いているのであろうが、振り向くことなく一心に滝を見つめている。
「樹にでも聞いてきたのか」
浅海の行動など見通しているのだろう。星涙は静かにそう問うた。が、こちらの答えなどどうでもいいらしい。彼女は膝を折ると、おもむろに両手を水の中にそっと入れた。
月明かりに照らされる水面下で、彼女の白い手は宝玉のように輝いて見えた。反対にその横顔は影に黒く染められ、その醸し出す陰の気はぞっとするほどである。 浅海はごくりと唾を飲み込むと、妖のようにさえ見える彼女にじっと魅入った。
「私は生まれながらの巫女などではない」
不意にそう告げた星涙の声は、気のせいか幾分震えているようにも聞こえた。普段と異なる彼女の様子に戸惑いは隠せなかったが、浅海は出来るだけ淡々と問いかけた。
「おっしゃる意味が、わかりません」
「私は龍神と契約を交わしていているに過ぎない」
すくっと立ち上がったその姿は月を背にしているせいで、輪郭しか描いていない。凛としてはいたが、妙に寂しげでもあった。
「ちょうど菫が父母を失ったのと同じ年だった。…ちと、母を失った真実を知った、その次の年だ。あの日、私は剣を手にこの場に立っていた。そして力の限り、水面を斬りまくっていた」
「水を、斬る?」
「ああ。水面に剣を何度も叩きつけ、飛沫にひたすら斬りかかった」
「けれど…瀧には、龍神が眠っていらしたのでしょう。恐ろしくはなかったのですか」
さあな、と曖昧に答えた星涙は、片方の口角をわずかにつり上げる。
「何かを怖ろしいなどという感情はとうの昔に彼方に消えていた。ただ、あの時は無性に寂しかった。孤独というものを、身をもって知らされて、どうしたらいいのかがわからなかった。強くあろうとすればするほど空虚さが募り、泣けども泣けども、呆れるほど涙が溢れた」
彼女の口から寂しさや涙などという言葉が聞けるとは、思ってもみなかった。思わず目を見開いた浅海に、星涙は自嘲気味な視線を送って寄越した。
「龍神が現れたのは、つい腕を斬ってしまったときだ。血を洗い流そうと瀧に腕を突っ込んだその時、黒い体が轟々と音を立てながら水中から飛び出してきた。あの時の身の竦むような感じは今でも体に残っている。忘れていた恐怖という感覚をまざまざと思い起こしてくれたのだからな。紅い眼を爛々と輝かせ、黒い巨体を軽々と空中に躍り出した神はこう告げた。『そなたの器、気に入った。我の鞘となれ。さすれば、望みのままに我が力を振るうことが叶うぞ』と、な」
「では、まさかその時から…神をその身に宿していると?」
「龍神の感情は、私の感情そのもの。私は神が此の世で力を振るうための、ただの器だ。巫女として神を鎮めると同時に、私は私自身を鎮めねばならない。そうしなければ、怒りにまかせて全てを滅ぼしてしまうだろうからな」
「身の内に神がいるなんて…考えも付きませんわ」
「…人には悪人と善人がいる。悪人は理性で自らの悪を抑え、善人は悪に染まらぬように努めるのだ」
答えになっていない。浅海はつい、そう反論しようとした。しかしそれを遮るように、星涙はぱしゃりと水を叩く。
「たとえて言えば前者が私、後者が樹だ。そうは思わないか」
「あなた様が悪人だとおっしゃるのですか」
星涙はその問いに答えずに話を続ける。
「菫を悪に染めたのは私だ。魅入られれば人は簡単に染まってしまう。その悪が強ければ強いほどに、な」
「それは違います。あなた様はそうせざるを得なかった、龍神の意思に従っただけでございましょう」
星涙はふっと自嘲的な笑みを浮かべた。まるでその行動が全て自分の意志であったことを肯定しているようだった。
「お前は憎しみをもって人に剣を向けたことがあるか?」
不意にそう問われ、浅海の体はびくりと跳ねた。
刃を突き立てたときのあの妙に柔らかな、とてつもなく嫌な感触が再び両の手に戻る。苦痛に呻く男を前に、浅海は一歩ずつ後退りしたのだ。彼が絞り出す暴言のほとんどは耳に入ってこなかった。ただただ、どうしたらいいかわからなかった。
「…あります」
情景をありありと脳裏に浮かべながら、浅海はかすれる声でどうにか答えた。そんな答えは予期していなかったのであろう星涙は、それを聞くなりわずかに眉根を寄せた。
「真か?」
「はい。佐間を抜ける途中、追っ手を振り切る時でした。私は憎しみに任せて相手の腹を刺したのです」
「相手の生死は?」
「わかりません。私はそのままその場を離れてしまいましたから」
「見かけによらず大胆な娘だ」
星涙はそう言って、くつくつと笑い声をあげた。
「手を汚すことを厭う娘だと思っていた」
「もちろん好き好んで、人に刃を向けたりはしません」
浅海はきっぱりと答えた。あの出来事も言わば正当防衛である。丈を憎らしく思ったことは事実だが、それよりも何よりも海里の生死がかかっていたのだ。
「私も悪人でしょうか?」
自信なさげな声を出した浅海に、星涙は少しばかり穏やかな声で告げる。
「それは、お前自身が一番よくわかっているのではないか」
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