第10話 波乱
厳しい寒さもとうに去り、神殿は今や桜色に彩られていた。そよ風が木々を揺らし、はらはらと舞う花弁は水面に浮かんでいく。桜色の欠片に魅かれるように、浅海は透き通る碧玉色の水中に手を浸した。穏やかな陽気になってきたとはいえ、神殿の前を流れる水は一年中冷たい。たちまちに赤くなった手には、棘が刺さるかのような痛みが走った。
「冷たっ」
冬よりかは幾分ましであるが、相変わらず薄氷の張りそうな温度である。浅海はぱっと手を引き上げると、ぶんぶん振って水気を飛ばした。前屈みになったせいか、結い上げてない黒髪がはらりと顔にかかる。
初めのうちこそ結い上げていない髪が少々鬱陶しかったが、いつしかそれにも慣れてしまった。今年で浅海が辰国で迎える春は四度目になる。東国とそして海里と別れて、もう五年の歳月が流れていた。
一体、何度東国に戻りたいと思ったことだろう。いくら馴染んだとはいえ、この国はやはり郷里とは違う。誰とも血の繋がりのない中で一人生きていくのは孤独で、時折無性に苦しくなる。そんな時、思い出すのは家族と彼。浅海は未だに心中を占めるその人の名を呟いた。
「海里」
もはや、癖だ。意識していないのに、手は勝手に首飾りへと伸びる。短剣はあの時に失ってしまったため、手元に残っているのはこれだけだ。石独特の冷たい感触が虚しさを余計に思い知らせてくる。
皮肉なもので、こうなってみて初めて彼の心情に近付けた気がした。近くにいたあの頃より、今の方がずっと彼の思いを理解できる。海里があれほどまでに、権や力を欲したのは、自分の居場所を欲したからなのだろう。他人が自分の領域に触れることを許さなかったのは、拒絶される恐怖に怯えていたからなのであろう。
「お前も物好きだ。相手は野心の塊と蔑まれる中ノ海里だぞ。才を見せ付けて、出世することしか頭にない男だ」
浅海が、彼への想いを口にする度、海里はひどく冷えた声で自嘲的にそう言ったものだ。その無表情な横顔が愛しくて、浅海は何度も彼に抱きついた。腕の温かさ、力強さは、体中ではっきりと覚えている。
「会いたい」
浅海のかすかな呟きは、あっという間に滝音に消されてしまった。
どんなに想おうと二度と会うことは叶わない、そんなことはわかっている。けれど浅海の心の中にはまだしっかりと彼が息づいていた。海里は、今何処で、何を思っているのだろう。
海里は湖畔に建てられた宮の一室から、向う岸が霞んで見えるほどに広大な浪海を、ぼんやりと眺めていた。
東国央部に堂々と横たわるそれは、古よりこの地を潤してきた大きな水源である。国中の大地を巡りながら流れ着いた川と、潮によって流れ込んできた大海原の海水が、混じり合って創り出された、言わば奇跡の代物だ。異なる二つが同じ器にあるというのに、それらは互いに拒絶することなく、一つに溶け合い、そしてその豊富な水量で人々の命を繋いで来た。東国に住む者にとっては何よりも大切な代物であり、必要不可欠なもの。まさしく、国の生命線である。
薄紫の夕闇に染められた湖面は、風がない分、昼間より凪いでいる。波打ち際というよりも、湖中の浅瀬に支柱を立てた造りのため、すぐ下はもう浪海だ。わざわざ回廊から突き出して造られたこの場にいると、水上に浮かんでいるような気分になる。
玖波を粛清してから、早数年。海里は武項の
在るべき場所になければならない、大事な存在。それは東国にとっての浪海であり、海里にとっての浅海であった。ぎりぎりと奥歯を噛みしめながら目を閉じる。瞼の裏に映る浅海の笑顔は、今も変わらず明るく華やかなままだ。
「代わり等、在りはしない」
海里はそう呟くと、握った拳で力任せに壁を叩いた。小さな声は、どんっという衝撃音と風にのまれてあっさりと消えて行く。
過ぎたことに囚われたまま燻ぶっているばかりでは、本当に駄目になってしまう。生きようとする思いは、本能的にそうなることを拒絶し、記憶と痛みを消していくのだ。そして諦めると言う事は、実はそんなに難しくない。代わりを見つけ、今度はそちらに頼ればいいことだ。
海里自身も浦に来てすぐの頃、一度だけ彼女を忘れようとしたことがある。がむしゃらに働いて、自分の興味を政へと逸らそうとしたのだが、やっぱり駄目だった。玖波を倒し、こうして落ち着いてしまえば、思い出すのは浅海の事ばかりだ。
自分には浅海が全てなのだ。命を賭するに値する存在だった。代わりなど無意味どころか、むしろ害。浅海を失った痛みは何を手に入れようと癒せるわけがなく、彼女以外でこの虚しさが埋まるわけはなかった。
「どこにいる」
海里は湖畔に向かってそう呟いた。浅海は何を思い、どうして自分の前から姿を消したのか。直接会って、問いただしたかった。
「それ以上、身を乗り出すのは危険だよ」
背後から聞こえた風見の声に、海里はゆっくりと後ろを振り向いた。
ほっそりとした体つきと、女性のように綺麗な顔立ち。衣服こそ男物だが、それを女物に改めてしまえば、充分女官でも通用しそうだ。
「浪海から人を引き上げるのは、結構大変なんだ。出来れば無駄な労力を払わせないで欲しいね」
「私が、身投げするとでも?」
海里の問いに、彼はくすっと笑っただけであった。彼はこつこつと軽い足音を立てながら端まで来ると、海里の隣で欄干に両手を掛けた。
「海里にそうされては困るね。不要なものは他にある」
意味有り気な口調から、海里は彼が何を言わんとしているのかをすぐに悟った。ここ最近、こうした仕事は珍しくない。
「祓の儀までには、片付きましょう」
そう了解の意を告げると、風見は一枚の書をするりと、海里の懐に滑り込ませた。書かれているのは、ある人物の名と彼の所業。海里はその内容を頭に叩き込むと、即刻そばの篝火に放り込んだ。
要は、標的となる者を表舞台から引き摺りおろせばいい。暗殺だろうが、失脚だろうが、やり方は自由だ。主な標的は私腹を肥やすことばかりに励む役人。今回の相手も同様だった。
葉那を上手く使って様々な情報を集め、正当な証拠とよく似せた捏造の両方を用意して、武項に提出するのである。偽りを造り上げる海里の手腕や才能は、風見とて及ばない。全くのでっち上げにも関わらず、海里がそれと明かさなければ、武項にも見抜けないほど精巧なものなのだ。
武項の政権を確固たるものにするためには、こうした陰の動きが不可欠だった。邪魔者をどんどん排斥しなければ、新たな勢力の入り込む余地はない。それを繰り返し、繰り返して数年。結果として、浦はもちろん近隣の郡の権も、完全に武項達が握ることとなったのである。
「何を考えている」
不意に背後から聞こえた低い声に、浅海の体は一瞬で硬くなった。
主の帰還だ。浅海は即座に立ち上がると、相手の顔も見ずに頭を垂れた。
「御帰りなさいませ。無事の御帰還、」
巫女の娘としての習慣で、浅海は彼女の足元に視線を落したままそう告げた。だが、膝より下の辺りにべったりとついた赤黒い染みに気付いて、ぱっと顔を上げた。
「星涙様」
焦って彼女の全身を眺めてみるも、いつもと変わらない美しい容姿だった。けれど本来は白いはずだった軍服は、血だらけで所々黒ずんでいる。
「お怪我はありませんか?」
恐る恐る問いかけたが、答えもいつもと同じ。否、だけだ。
「よかった」安堵のため息が漏れる。
心配する浅海を煩わしそうに一瞥すると、星涙は剣を水の中に無造作に突っ込んで、じゃばじゃばと洗い始めた。
ちょうど桜の木の下。はらはらと舞い落ちる花弁が星涙を彩る。命の芽吹きの証のような桜と、それを奪うことを目的とした剣。その二つは相反するものであり、加えて星涙は汚れた軍服に身を包んでいるというのに、その姿は女神そのものだ。涙も止まり、そのあまりの美しさにぼうっと見とれていると、彼女は突然剣を投げて寄越してきた。
「ちょっと、何を」
辰国の宝剣であり、星涙の大切な武器である。触れたことすら数度しかないそれは、ずっしりと重くてとても片手では持てない。
「落としでもしたら、どうなさるのですか」
すぐさま反応したお陰で取り損ないはしなかったが、もし何かあれば一大事だ。責める口調の浅海に、星涙は口角をわずかに上げてからかう様に言った。
「構えてみろ」
渋々剣の柄を両手で握り締めたが、あまりの重さに切っ先はふらふらしっ放しだ。
「情けない。それでも巫女の娘か」
「仕方ないでしょう。私は武術の鍛錬など行ったことがないのですから」
浅海は剣を抱きかかえるようにして持つと、彼女にそれを突き返した。
「これは宝剣でございましょう。もっと大切に扱ってくださいませ」
星涙は受け取った剣を、いとも簡単に片手で高々と掲げる。一見華奢にも見える彼女のどこにこれほどの力があるのだろうか。
「剣とは振るってこそ、その力を発揮するもの。戦の最中に腰に飾っておけというのか」
「そうではありませんけれど。もう少し丁寧に」
「うるさい」
星涙はそう言うと、剣を思い切り振り下ろした。
空を切った刀身は日の光を受け、眩しく反射する。戦場でたっぷりと血を吸った剣であるというのに、今は宝剣然として美しく輝いている。桜吹雪の舞う中、星涙は踊るように剣を振るっていた。優美な曲線を描くように剣を振り下ろすその目には、どきりとするほど明るい色が映っている。
戦、戦、戦。このところの彼女は、巫女ではなく武人であった。
こうして血塗れの軍服で帰って来ることも常だ。どこで、どんな戦をしているのか。尋ねても決して答えは返ってこない。巫女の留守中には神殿から出るなと言い付けられているため、浅海は何も知らなかった。
「まだ、斬り足りないのですか」
剣を振るう事が嬉しくて仕方のないように見える彼女に、浅海は思わずそう問いかけた。だが、当然星涙は答えてくれない。
戦から戻ってきたというのに、憑かれたように空気を斬りまくるその姿は、まだ敵と戦っているようだ。その姿は生き生きしているというより、止まることを恐れているようにも見える。浅海には、誰のものかわからない血を全身に浴びたままだというのに、平気な顔をしている彼女が恐ろしく感じられた。
「壊れて、しまいますよ」
何でそんなことを言ったのだろう。ついはずみで口にしたものの、言ったすぐ後で後悔した。彼女はこちらをじろりと睨むと、剣を翡翠のような水中に差し入れて、思い切り水面を斬り付けた。跳ね上がる飛沫はきらきらと光り、宝玉のように煌めく。冷たい飛沫が顔にかかって、浅海は小さな悲鳴を上げた。
「きゃっ」
桜と飛沫が入り混じる空間の中で、星涙は剣先を天に向けていた。その姿はまるで、神からの啓示を待っているかのようだ。柔らかい日の光が彼女に降り注ぎ、彼女の気高さを更に強調している。
「私は、とっくに狂っている」
星涙はその姿勢のまま、何の感情もなくそう言った。天啓とはかけ離れた言葉に、かける言葉が何も見つからない。浅海はひたすら、余計な事をいったことを後悔した。
「して、これは誰が許したのか?」
武項は、椅子の肘かけに頬杖をついたまま、正面の男達を睨みつけた。
庁堂には痛いほどに張り詰めた空気が流れている。普段こそ冷静沈着であるが、武項は元々武人気質。ましてや玖波を倒し、政敵も悉く潰した彼は、今や事実上の
誰も何も言えずに沈黙を守る中、武項が怒りに任せて壁を叩く音が響いた。並んだ兵達は、まるで子供のようにその音にびくっと反応する。
「この度は、申し訳ございませんでした」
命からがら逃げ帰った武将の一人がおずおずとそう答えたが、武項は軽く一瞥して続きを促す。聞きたいのはそんなことではないのだ。
武項の肝煎りで作られた、
正規な将もないまま、まだまだ訓練中の若兵達を連れ出し、身勝手に振舞った罪は大きい。その上、東国軍は相手の軍勢に手酷く叩きのめされて壊滅状態となったのである。是が非でも、その責任の所在を明らかにしなければならなかった。
「
「だから、誰が許しを出したと聞いている」
「それは、」「言え」
「
「広野だと?」武項の驚いた声が堂内に響く。
意外な人物に、海里と砲も思わず顔を見合わせた。彼がこの件に絡んでいるということを知ってか知らずか、その場にいた全員がざわめく。あまりの視線の冷たさに耐えられないのであろうその武将は、床に向かって話を続けた。
「何でも辰国が領土拡大を図り、次第に奈須へとなだれ込んできているそうでございます。このままでは、奴らは東国の一部にまで手を出すのではないか、という訴えにございました」
全くもって納得のいかない答えである。辰国が領土拡大を図ろうと、それは今のところ東国には関係の無い話だ。
「広野はなぜ私に相談しなかった?それに軍を動かすには造の許しがいるはずだ」
「それは、私どもにはわかりかねます」
最後はかすれてよく聞こえなかった。要するに、彼は自分達には一切の責任がなく、全て広野の独断であると言い分だろう。事が事だけに彼の話だけを鵜呑みには出来なかった。もっと詳細な情報が必要だが、そのための調査には慎重を期す必要がある。下手に動けば足元をすくわれることになってしまう。
「もうよい、追って処分を決める。皆下がれ」
吐き捨てるように武項が言うと、その場にいた者達は我先にと出て行った。もっとも、皆がさっさと逃げようと戸口に押し寄せたせいで、すんなりと抜け出せずにいた者達は武項の罵声を浴びることになった。
転がるように出ていく様を憎々しげに睨んでいた彼は、傍にいた砲に問いかける。
「一体どういうことだ?」
砲はわからないという代わりに首を振った。
辰国による東国軍壊滅、それだけを突然告げられたのである。あまりにも唐突な報告で、砲にも全く事情が読めなかった。彼だって武項と共に国府にいたのだ。その留守を預かった風見や海里も、何の報告も受けていない。知らせを聞くなり、慌てて国府の武項へ遣いをやったのである。無論、西の都に赴いている造に話が伝わっているはずはない。
「広野の独断でしょうか?」
風見は思うところを述べてみる。武項は苛立ちのあまり声を荒げた。
「お前も海里も話を聞いていないとすれば、奴の罪は重い」
「ええ。しかも急ごしらえの軍を他国に送り、壊滅させたとなれば尚のこと。けれど相手は広野でございます。人望厚く造に忠義な者、処罰するのが一番困難な者かと」
「誰かが図ったと?」武項は眉をひそめる。
「確証はありません」
「しかし捨て置くわけにはいくまい」
風見は急に思案顔になって黙り込んだ。
「海里、お前はどう思う?」
武項は突然話を振ってきたが、海里は慌てることなく考えを述べる。
「広野様は陥れられたものと思います」
聞くなり、武項の片眉が釣りあがった。風見と砲は息をのんだまま、海里を見つめた。
「奈須の
隣では同意見とばかりに風見も大きく頷いていたが、頭に血が昇っている武人気質の二人は、それが気に触ったようで口を真一文字に引き結んでいる。海里は彼らの望んでいる所も付け加えることにした。
「どちらにしても東国が辰国によって痛手を被ったことは事実です。まずはその相手を叩く伏せることが大事かと」
待っていたとばかりに、武項の目の色が変わった。彼の性格上、負けっぱなしは一番嫌う所である。とりあえずは、やられた分をやり返す。それが何よりも先に来てしまって、他の事を思考から締め出してしまっているのだろう。海里のこの言葉で、武項は意を決したようで、急に立ち上がって大声で告げた。
「風見、海里。お前達はこの背景を探り何としてでも黒幕を暴け。そして砲、お前は戦の準備だ。吾自ら軍を率い、辰国を攻め滅ぼしてこよう」
原矢が神殿を訪れたのは、星涙が戻って来てから十日ほど後の事だった。
神殿に誰かが近付けばすぐにわかる。樹木がざわつき、風が変わるのだ。この日も浅海はどこか妙な不安を覚えて、高台の社までの坂を上ってみた。
集落へと通じる一本道の先には、うっすらと人影のようなものが見て取れた。突然の来訪者に浅海は思い切り不審な眼差しを向ける。通せん坊をするように小道の真ん中で出迎えると、原矢は弱弱しい愛想笑い浮かべた。
「お久しぶりね。巫女に何か?」
「…ああ。すぐに目通りを」
深刻そうな声でそう言った原矢の顔は、憔悴しきっていた。その表情にはいつもの暢気さが全く見られない。浅海はそんな彼の様子に妙な胸騒ぎを覚えた。彼とはつい一月前の儀式で会ったばかりだ。その時は、甚く上機嫌で始終顔を緩ませていた記憶がある。
「巫女は身を清めている最中でございます。余程のことでもない限りは御遠慮願います」
浅海は星涙を真似て無感情にそう答えた。
いつもの原矢であればそんな浅海に小言の一つでも言い返してきたであろう。しかし彼は無言で俯いてしまい、重い沈黙が二人を覆う。慣れない状況に耐え切れず、浅海はとっさに口を開いた。
「いいでしょう、とにかく伝えます。ここで少しお待ち下さい」
用件も聞かず仕舞いのまま、浅海は滝へと走ることにした。直感で何かの大事だと思ったのである。
一見するとただの崖のような細い階段を少し急ぎ足で下り、滝の飛沫を身体に浴びながら、星涙がいる下流へと向かう。轟音の鳴り響く滝壷から少し離れた浅瀬に彼女を見つけた浅海は、更に足を速めた。
星涙は既に清めを終えたようで、水の中を自由に泳ぎまわっていた。その白い身体にまとうものは薄い布一枚だけで、右肩にはくっきりと龍の痣が見て取れる。
「お戻りください。原矢様がいらしております」
浅海は滝の音にかき消されないように声を張り上げた。おそらく聞こえているだろうに、星涙からの返事はない。
同じ言葉を根気よく何度か繰り返すと、ようやく彼女はこちらを向いた。手で追い払う仕草をされたが、それが浅海を追い払うのか、それとも原矢を追い返せということなのかはわからない。岸辺伝いに近づく浅海を無視するように、星涙はもう一度水の中に潜り、そして水の精のようなしなやかな動きで勢いよく飛び出した。
浅海は水中の星涙に向かって手を伸ばしたが、彼女はそばの石に手をかけて濡れた身体を引き上げた。身体にぴったりと張り付いた黒髪を後ろにまとめながら、苛立ったように尋ねる。
「何の用だ?」
「聞いておりません」
眉をひそめた彼女の迫力に一瞬怯んだものの、浅海はすぐに答えた。
「用件くらい聞けといつも言っているだろう」
「申し訳ございません。随分、深刻そうでしたので」
言い訳を述べながら布を差し出す浅海を、星涙は軽く睨みつける。彼女は受け取ったそれで乱暴に身体を拭くと、身につけていた衣服を濡れたまま投げて寄越してきた。水に浸かっていただけあって冷たい上に重い。仕方なく絞ってみれば、流れるように水が出てきた。
「先に髪を拭かないと、また服が濡れますよ」
浅海はそう言って星涙の背後に回ると、彼女の豊かな黒髪を紐で束ねた。
露になった右肩には、龍の痣がくっきりと見える。それがいつもより濃いと思うのは気のせいだろうか。
二人が現れるやいなや、原矢は星涙に平伏した。誇りだけは他の誰よりも高い彼が儀式以外でそうするのはひどく珍しいことで、浅海は思わず後退さった。
「頼む、お前しかいないんだ」
星涙の目を見ないように意図しているのか、原矢は顔を上げずにそう頼み込んだ。しかし彼女はその願いをあっさりと払い除ける。
「断る」
冷めた態度の彼女に、原矢は地面を睨みながら声を震わせた。
「…命が危ういかもしれないのだ」
「全てはお前の負うべき責め、私には関係ない」
星涙が抑揚のない声でそう告げると、原矢は掠れた声で呟く。
「俺では火明達は動いてはくれない」
「ならば一人で行け」
「そんなことが出来るわけがないだろう」
原矢は泣きそうな声をあげた。大の男が情けないほどの狼狽ぶりである。
「自らを安全な場に留め置いて、私に尻拭いをさせるつもりか」
星涙の口調が苛立ちを帯び、周囲の樹木がざわめく。
原矢は尚も顔を伏せたまま、小刻みに震えだした。浅海には何の話かさっぱりわからなかったが、背中を小さく丸めて平伏す原矢を見れば、彼が星涙の怒りに触れる相当なことをしでかしたことくらい察しが付く。
「樹を殺したのはお前だ」
星涙は静かに、だが怒りを込めてそう言い放った。原矢が怯えたように身体を縮込めるのと同時に、浅海は思わず口を挟んだ。
「どういうことですか?」
星涙は浅海をちらと見ると、足元の原矢に向かって吐き捨てるように言った。
「この男が樹を殺した」
「ちょっと待て。まだそうとは限らない」
原矢は慌てて否定したが、彼女からはすぐに厳しい声が返される。
「戦で逃げ遅れた者は助からない。いくら無能なお前でもそんなことがわからないはずはないだろう」
押し黙る原矢に、星涙はさらに追い討ちをかけた。
「お前の欲に、私が手を貸すとでも思ったか」
熱湯ですらも一瞬で凍り付いてしまうような冷たい口調だった。恐怖のせいか原矢は真っ青になって震えている。浅海はそんな原矢が少しばかり哀れに思えたが、星涙の話が本当であるのならば、到底許せなかった。
「すまない。確かに樹を犠牲にしたのは他の誰でもないこの俺だ。この責めは必ずや俺が負う。でも、もはや欲などではないのだ。俺はあいつを本当の弟のように大事な存在だと思っている。今は何よりもあれの命が大切だ。頼む、樹を救ってくれ」
原矢は地面に頭を擦りつけて、そう必死に頼み込んだ。彼の樹を思う気持ちがひしひしと伝わってくる。
星涙はしばらく彼を上から睨みつけていたが、ほどなくして口を開いた。
「馬と鎧を。すぐに山を降りる。幸いにも奴は将だ。まだ生かされているかもしれない」
彼女の答えに、浅海は耳を疑った。いくら弟とはいえ、星涙が誰かのために戦に出るなど信じられなかった。思わず目を丸くしていると、彼女は早くしろと命じてきた。
武具一式が祭られているのは神殿である。浅海はそこに向かうため、さっきとは段違いの速さで崖を下った。
息を整える間も惜しんで神殿の重い扉を開くと、その中には浅海が今朝灯した篝火の明かりが妖しく揺らめいていた。深呼吸で心を落ち着け、中央の祭壇に軽く祈りを捧げる。祀られている鎧と剣を丁寧に下ろすと、すぐそばに保管されていた軍服を引っ張り出した。それらを彼女が身に着けやすいように用意すると、今度は神殿に隣接する厩へと向かった。二頭のうち、彼女の愛馬は大きい方だ。
厩から連れてきた馬を神殿の前に縛りなおしながら、浅海は先程の星涙の口調を思い出していた。一刻を争う様な口振りはどこか感情的で、彼女らしからぬ剣幕だった。
焦っているのかもしれない。そう思うのは浅海の勝手な希望ではない気がする。
「辰国は奈須と戦をしているのでしたね。連戦連勝であった相手に、何故敗したのでしょうか?」
星涙の身支度を手伝いながら、浅海はそう問いかけた。
どうにも胸につかえている不快感。その正体は、多分この間の儀式で出た占だろう。
「此度の相手、まさか東国ではございませんよね?」
鎧の紐を締める手に力が籠る。もし東国であるなら、浅海は絶対に彼女を行かせるわけにはいかなかった。
「我らが攻め込むべきはかつての故郷、奈須国だ。だが原矢は攻めるべき方向を誤った。というよりも欲に目が眩んだのだ。己一人では軍を動かすことも出来ないくせに、欲だけは人一倍にあるからな」
「と、おっしゃいますと?」
「奴は東へと攻め込むことを目論んだ。しかも自分は高みの見物のつもりで矢面には立たず、その役目を樹に託した。全く卑怯な男だ」
やはり相手は東国なのだ。疑いが確信になった。浅海の答えもこれで決まった。
「星涙様。私は巫女の娘です。あなた様を戦に向かわせるわけにはいきません」
浅海は彼女の前に回り込むと、がばっと床に平伏した。
「先日の儀で出た占。よもやお忘れではないでしょう。あなた様は決して東国の者と剣を交えてはいけない。どうかお考え直し下さい」
「言いたいことはそれだけか」
顔を見て話す勇気もなく、足元に向かってそう述べた浅海に、星涙は嘲る様に言った。
「何をそんなに気に病む?私は自分が将である戦に負けたことは一度もない。それは今回も同様だ」
でも、といいかけたが星涙に制される。彼女は膝を折ると、視線を浅海の高さに合わせた。
「私には龍神がついている。何も案ずることはない」
決して優しくはなかったが、彼女なりの精一杯の穏やかな声だ。浅海の瞳にはうるうると水滴が溜まる。
「その龍神からの啓示でしょう。あなた様は巫女。ならばその意に背くことは赦されません。お願いです。どうかこのまま」
「樹を見殺しにしろと?」
淡々とした口調の中には、浅海への軽蔑が込められていた。彼女が人のために感情的になるなど、出会ってからの数年間で初めてのことだ。その違和感が、ますます浅海を不安にさせる。
「そういうわけでは…」
「私が行かねば、樹は殺されるぞ」
星涙は嫌味っぽくそう言うと、不敵な笑みを浮かべた。片方の口角だけを釣り上げたその表情は、ぞくりとするほど美しい。
「東の者と剣を交えれば、そなたは滅びよう。占はこうだったか。龍神も私を甘く見たものだ」
「東国には優れた武器も多彩な戦術もございます。いくら星涙様でも無事でいられる保証なんてありません」
「今更、故郷自慢か」
「そういう意味で言っているのでないことはおわかりでしょう」
星涙の迫力に気圧されたが、浅海も負けじと言い返した。彼女の命がかかっているとあれば、そう簡単には引けない。
「そんなに言うのならば、お前もついてくるか」
星涙はすっと立ち上がると、浅海を小馬鹿にするようにそう問いかけてきた。
「えっ?」
「そんなに気になるなら来ればいいだろう」
星涙は余裕の笑みで浅海を見た。まさか本当に戦についてくるはずがないと、そう絶対の自信を抱いているようだ。
「行きます」
「戯言だ。真に受けるな」
「いいえ、本気ですわ。私だって怪我の手当てや薬草の使い方もわかりますもの。何かの役には立てます。それに、龍神はあなた様と共にいる。あなた様がここにいないのならば、私がここで祈りを捧げる意味なんてないでしょう」
「少しは利口になったようだな。だが、それならばわかるだろう。私が負けるはずはない」
「いくら反対しても無駄です。行くといったら行きますから」
浅海の勢いにさすがの星涙も驚いたようで、一瞬だけぽかんとした表情を見せた。
「本気で言っているのか?」
「もちろんです。神殿のことはフユに頼めばいいでしょう。お願いです、連れて行ってください」
浅海は真剣な眼差しで星涙を見た。たとえ反対されようと聞き入れるつもりはなかった。星涙はその意志の程度を確認するかのように浅海を見つめ、少しの思案の後、こう言った。
「決して戦場には出ず、陣営に留まる事。火明の傍を離れない事。この二つは必ず守れ」
辰国を発ってから既に幾日か経ったが、星涙率いる軍は意気揚々と歩を進めていた。
無謀にも勝負を射掛けてくる盗賊や、ならず者の類は後を絶たず、その小競り合いの度に足止めを食らったが、その程度であれば前駆の兵達で充分事足りた。彼らはきちんと連携の取れた戦いぶりを見せてくれて、心中では辰国の軍事力を甘く見ていた浅海を充分に感心させてくれた。
彼らのおかげでわざわざ星涙が出ていくこともないのだが、困ったことに彼女は進んで先頭に立ちたがる。もちろん火明の充分な援護があるからこそのことだが、それでも浅海は冷や冷やしっぱなしだった。いくら彼女に龍神の加護があろうと、その身体は生身の人間のそれなのだ。もし流れ矢にでも射られたらと思うと、浅海は一時も気が抜けないというのに、星涙はこちらのそんな気持ちなどちっとも意に介してくれない。
だが、確かに彼女は普通の人間とは異なった。何というか彼女を包む独特の空気が防御壁のような役割を果たしているようなのだ。その証拠に彼女は今回の戦で相手を倒す際、一度も攻撃を受けたこともなければ、息を切らしたことすらない。
敵方は最初のうちこそ、将が女であるこちらを軽く見て攻撃を試みるが、実際に星涙と向き合うと、早々に自分の読みの甘さに後悔するのである。彼女が馬を駆って突撃していく様子は圧巻であり、相手はその姿を見るだけで震え上がって逃げ出していく。鬼神の如く殺気に満ちた彼女から正面切って向き合おうとする者などいやしない。その上に火明の鮮やかなほどの攻撃をくらえば、諸手を上げて降伏するか、情けなくも泣き声を上げながら逃げ出していくかのどちらかであった。
辰国軍はむやみに命を奪ったりはしないものの、向って来る相手に決して容赦をしない。完膚なきまでに叩きのめすため、相手はしばしば意識を失ってしまったが、兵達はそんな相手に情け心などなしに、樹の消息を問いただした。だが、有力な情報はそうそう得られるものではなく、毎回聞かされるのは彼らの命乞いの言葉ばかりだった。
無駄な争いがこれで幾度目か数えるのも億劫になってきた頃、再び山賊が襲い掛かってきた。兵達の間にはまたか、という風なため息が漏れる。しかし今回の相手はこれまでの相手と些か異なっていた。彼らは小奇麗な衣服を見につけており、その動きもまた訓練された兵のように俊敏なものであったのだ。彼らは一斉に星涙を取り囲むと、彼女に刃を向けた。
「星涙様」
火明が多少慌てた様子で彼女の名を呼んだが、星涙は意にも介さないようで男から視線をそらさない。そして次の瞬間、賊たちは一斉に星涙に切りかかった。と同時に警護のために星涙の近くにいた兵達も一斉に駆け出してその場は混乱に陥る。 賊と兵達は入り乱れて戦いを始め、浅海と共に最後尾にいた火明までもがそこに参戦した。しかしそれも長くは続かず、賊の頭の叫び声であっさりと幕を閉じたのであった。
「殺せ」
頭は震える声で、だが、きっぱりとそう言った。彼の喉元には火明の剣先が触れるかどうかに突きつけられている。
「お前たちは何者だ?」火明は静かにそう尋ねた。
「見ればわかるだろう。ただの山賊さ」
「元は?」
「お前に話す義理はないね」
男は自嘲気味にそう言った。火明は剣を握る腕に力を込めると、強い口調で問う。
「最近この辺りで、戦があったと聞いたことはないか?」
「ああ、あったぜ。東国軍とどこぞの国の戦だ」
男はそう言うと、突然笑い声を上げた。
「あんた、東国を知っているかい。腐った国だが相変わらず戦は強えぜ。あれだけ荒っぽい奴らが集団で剣を振り回すんだから、厄介なもんだよ」
男は視線だけを火明に向けたまま、ぶっきらぼうにそう言った。
「お前も東国の人間か?」
「元、だ。あんな国こっちから願い下げだ。あんた達も下手に関わらない方が身のためだ」
「どういう意味だ?」
「そのまんまさ。奴らは自分に都合の悪い連中は、何の躊躇もせずにあっさりと取り除く」
「お前も除かれたというのか」
「ああ。俺のいた玖波郡は浦郡から目の敵にされてたからな」
玖波。そう聞いた瞬間、浅海は全身から血の気が引いていくのを感じた。男は尚も続ける。
「俺の主の立飛様が処罰されてからは、それはひどい毎日だった」
「立飛ですって?」
思いもよらぬ名を聞いて、浅海は思わずそう口走っていた。男は浅海の方を見ると、怪訝そうに眉をひそめる。
「あんた、立飛様を知っているのか?」
一瞬、迷った。ここで同意すれば、隠していた出自を暴露するようなものである。仮にも東国相手に戦をしようとしている時に、敵国の出であることがわかるのは、あまり好ましくない。けれど、彼の身に何が起きたのかも知りたかった。そんなことを考えあぐねていると、意外にも星涙が助け舟を出してくれた。
「火明、私はこの男に聞かねばならぬことがある。先に行け」
彼女の命令に火明は特に異を唱えることなく、すぐに行動を開始した。捕らえた賊達を近くの木にまとめて縛りつけ、地に伏せっている頭の腕も縛り上げる。兵達がそれらを終えたのを見届けると、星涙は軽くあごをしゃくって火明に行くように促した。彼は無言で頷くと、さっと馬に乗り星涙の代わりに先頭に立って軍を出した。
「さぁ。続きを聞かせてちょうだい」
彼らが離れていったことを確認した浅海は、男にそう尋ねた。髭を蓄えて、顔も日焼けしているがこの顔には何となく見覚えがある。
「まぁ、いいだろう。俺は丈というもんだ。元は玖波で立飛様の護衛を務めていた」
やはりそうだった。生きていたんだ。忘れていた憎しみが沸々と湧き上がる一方で、どこかほっとしたのも事実だった。
浅海は顔を覆っていた布をさっと外して、素顔を相手に晒した。
「あ、浅海?浅海じゃねえか。何でてめえが生きてやがる」
丈はこちらの顔を見るなり、そう毒づいて叫んだ。
「随分な挨拶じゃない。こっちこそ、まさかあんたに会うなんて思わなかったわ」
浅海が感心したかのように言うと、彼はますます逆上する。
「ふざけんな。お前のせいで玖波が、俺達がどんな目にあったかわかってんのか」
「知るわけがないでしょう。私は立飛とあんたのおかげで、佐間を追われたのよ」
浅海がそう怒鳴ると、丈はその瞳に憎しみの色を露にした。視線に込められた殺気に多少ひるみそうになったが、負けじと睨み返してやる。
「立飛を恨む理由はあるけれど、恨まれる理由はないわ」
「てめえの所為で、俺達がどんなに、」
「自業自得よ」
「よくそんなことが言えるな。何にも知らねえのか」
「だから、知らないって言ってるじゃない」
丈は血の滲むほど唇を噛みしめた。
「立飛様はなぁ、もう何年も前に自害されたよ。海里が、いやお前が殺したも同然だ」
「彼が自害?」
「ああ、そうさ。お前がいなくなって、数カ月もしないうちに玖波と浦は戦になったのさ。立飛様は石賀様の企てなんて本当に何も知らなかった。それなのに海里は勝者側として、あの方を容赦なく責め立てた」
丈はその時の事を思い出したのか、苦しそうな顔をして見せる。浅海は無表情なまま、彼を見下ろした。
「俺達は何とか立飛様の無実を証明しようとした。けど、奴がそんな話を聞き入れるわけねぇ。奴にしてみれば、どんな手を使ってでも立飛様を陥れたかったんだろうよ。浅海を自分の手から奪ったのは立飛様だと、馬鹿みてぇにそう思い込んでいたんだからな。結局、あいつは武項の力を笠に着て立飛様を追放した。家も地位も全て取り上げ、あの方を無一文で放り投げた。立飛様はそんな己を恥じて自ら命を絶ったのさ」
「…だから、何?」
感情に任せて怒鳴る丈とは正反対に、浅海は冷静だった。そうなることはあの日から、全てわかっていた。まさか結果として立飛が命を落とすことになるとまでは思わなかったが、それでもこれは全て浅海が望んだことである。
浅海がそれ以上何も話さないところを見て、星涙が丈に話しかけた。
「それでお前は賊になったというのか」
「ああ、そうだよ」
「弱い男だ。男なら堂々と戦いを挑めばよいだろう。己の過去に囚われたまま、弱者を相手に憂さを晴らす毎日に何の意味がある」
星涙が嘲る様に言ってのけると、丈が憤慨した。
「お前に俺達の何がわかるっていうんだ?俺達がどんなに苦しんだかわかるか?」
「そこがお前たちの弱さだ。死ぬ気でかかれば、その男に一太刀でも浴びせることができるだろう」
「あいつは浦で権力を拡大している。俺達が襲う隙など一寸もねぇ」
「お前たちに覚悟が足りないからだろう。命を賭して相手と戦う気の無いものなど弱者に過ぎん」
「言いたい放題言ってくれるじゃないか。だったら何かい、浅海には何の罪もないというのか」
丈が怒鳴ると星涙はいったん口を噤み、彼を見下すように冷たく笑った。
「浅海に罪があろうとなかろうと、立飛という男は消されていたのではないのか。大体本当に無実であったのならばいくらでもその証を立てればいいだけのこと。それをしなかったのはお前達に後ろ暗さがあったのではないか」
丈はぐっと言葉に詰まった。浅海は星涙の迫力に口を挟めずにいたが、ようやくここで言葉を発した。
「勘違いしないで。元はといえば立飛が海里を陥れようとしたんじゃない。私達を引き離そうとしたのは誰よ。立飛は海里から当然あるだろう報復が恐ろしくて、勝手に逃げただけでしょう」
「馬鹿言え。どんな経緯があろうと、結果的に立飛様を殺したのは海里だし、お前だよ」
「だから、そうなったのは自業自得って、さっきも言ったでしょう」
浅海はきっぱりとそう言い切った。
海里を想う浅海と、彼への憎しみを露にする丈の視線が激しくぶつかる。今にもお互いに爆発しそうな兆しを見せていたが、それは星涙によって制された。
「まあそんなことはどうでもよい」
星涙は二人の諍いなどすっかり他所におくかのように、あっさりと言い捨てた。
「それよりも私が知りたいのは東国軍の情報だ。話を戻そう。この辺りで戦を見なかったか?」
「…あんだけ言われて、素直に吐くわけねぇだろう」
「お前は最早東国の者ではない。ならば奴らの情報を話したところで心も痛まないだろう」
「それはそうだ。だがな、俺はそこの女の味方をする気など更々ないね」
「ならば時間の無駄だ。浅海、行くぞ」
星涙は男をそのまま地面に捨て置くと、馬に戻った。浅海は彼を多少気にしつつも、彼女の後を追う。
「おい、浅海。覚えておけ。お前なんぞに幸せなんか来ねえ。人を不幸にしておいて自分だけ幸せになろうなんて甘いんだよ」
丈は浅海に向かってそう叫んだ。振り向いて怒鳴り返そうとしたが、星涙から厳しい視線が注がれ、寸でのところで思い止まった。
「こんなところで再会するなんて、夢にも思いませんでした。」
浅海は星涙の背にそう話しかけた。
「あれが、以前言っていた、剣を突き立てたという相手か」
「そうです。自分がした事に驚いて、彼の生死なんか確認する余裕はありませんでした…けれど彼は生きていた。生きて私と海里を恨んでいた」
丈は彼の言うとおり、もう充分苦しんだのかもしれない。玖波に仕えていたほどの男が、こんな山奥で賊に成り下がる。信じられない事実を目の当たりにして、浅海は少し気が動転した。
「奪うつもりなんてなかった立飛の命を奪ってしまった。でも奪ったと思った丈の命は奪えなかった。人の運命とは、わからないものですね」
何とも言えない矛盾に心がざわつく。星涙の背に頭をこつんと置き、ため息をついた。丈の言葉は思った以上に深く、浅海の心に刃を突き立てた。
彼の言うとおりだ。結果として、浅海は立飛の命を奪った。直接彼に手を下したわけではないにしろ、その事実に変わりはない。すべては海里を想うゆえのこととは言え、心はずしりと重くなった。
星涙は後ろにいる浅海の心中などお構い無しに、もの凄い速さで馬を走らせた。あっという間に火明率いる軍に追いつくと、彼女は先頭を進んでいた彼に元の位置に戻るように命じた。
「お前も戻れ」
星涙は浅海を自分の馬から降ろすと、火明の方へと促した。出立前に移動の際には必ず彼の馬に乗るようにと、星涙が厳命したのである。
浅海は少々気まずい思いであったが、素直に彼の馬へと向かった。無言ではあったが、火明は手を差し出してくれたので、それを掴んで馬に乗り込む。彼は浅海に先程の話を尋ねるわけでもなく、ただ黙々と歩みを進めた。
進軍の足音のみが響く中、浅海はぽつりと呟いた。
「…龍神の力なのかしらね」
「何の話だ」
「星涙様の強さ」
「巫女であろう。お前のほうが詳しいのではないか」
当たり前だと言わんばかりに淡々と答える火明に、浅海は少し苛立った。
「だって戦に出ている星涙様を見たのは、初めてなんですもの」
「あの御方は、常に龍神と共におられる。滅多な事では、その護りは解けん。だがまぁ、この程度の戦であれば、星涙様の力だけで易々と勝てるがな」
「星涙様って、やっぱり強いのよね」
「あれだけ見ていてわからなかったのか」
火明は呆れたような声を出すと、浅海のほうを振り向いた。
「わかることはわかったけれど、ほら、火明も強かったじゃない。それに相手もどんどん逃げていってしまうし」
「星涙様を恐れるあまりの逃亡だ」
浅海はかつて星涙から剣を向けられた時のことを思い出した。
あの時の凍りつくような恐怖は今でも忘れられない。確かに彼女は力も強いのであろうが、まずその圧倒的な気迫で相手を逃げ腰にしてしまうのであろう。
けれど浅海は、彼女の強さを目の当たりにしても尚、不安を拭い去ることが出来なかった。星涙の占に不吉が現れたこともその一因であるが、それよりも何よりも今でも記憶の中に強大な軍事力を誇る東国がありありと存在しているからであろう。
かつて父に連れられて一度だけ見たことのある軍事演習。充分に訓練を積んだ兵士や最新の武器、そして優秀な指揮官の下での素早い対応。星涙が強いのは認めるが、あくまでもそれはこの狭い一族や文明の無いこの地域一帯における話だ。彼女一人で彼らに立ち向かえるとはとても思わない。
浅海は嫌な思いを払うように頭を振り、明るく火明に問いかけた。
「星涙様とあなたって、剣ではどちらが勝つの?」
「決まっているだろう。俺など足元にも及ばない」
「原矢は?」
「兄が戦で活躍したところなど見たことはないぞ。あいつがうまいのは悪巧みだけだ」
「戦を頼みに来たとき、珍しく土下座して星涙に懇願したわ」
「星涙様がおられるのとそうでないのとでは、全く別の軍だからな。現に樹は捕虜となったろう。まぁ、樹に経験が足りない事も手伝っているがな。とにかく星涙様が素晴らしいお方であることに違いはないさ」
火明が熱っぽくそう言うのを聞いて、浅海はこの男の心中を訝しんだ。彼が妻であるユキを想っていることに間違いはない。しかしこの話し振りはどうだ。主君に対する忠義心以上の熱い思いを感じているように思えてしまう。
「おい、着いたぞ」ぼうっとしていた浅海は乱暴に身体を揺すられ、はっとした。
「人の背を枕にして寝るとはいい度胸だ。巫女でなければ振り落としてやるところだったぞ」
「あら、巫女でよかったわ」
「減らず口をたたいている暇があったら、早く星涙様の元に行ってこい」
火明は自分だけさっさと馬から降りると、ぶっきらぼうにそう言った。
「呆れましたわ」
星涙はあたりで一番大きな木の陰に寝そべっていた。その姿はおよそ巫女には見えない。というよりむしろ、あるまじき振る舞いである。
「それでも巫女なのですか」
浅海は嫌味っぽく言ったが、星涙は一向に気にしていない様だ。変わらず大の字に両手を広げている。
「お前もどうだ。気持ちいいぞ」
「普段はあんなに作法にうるさいというのに。珍しいこともあるものですわ」
文句を言いつつも浅海も彼女を真似て寝転ぶ。星涙はいくらか気が緩んでいるらしく、わずかに笑みを漏らした。
「ここは神殿ではない。今は私も一人の武人だ」
珍しく言葉に棘が無い。浅海はそんな彼女に心底驚いた。
「あなた様は戦がお好きなのですか?」
星涙は答えなかった。彼女の代わりとでも言うように鳶の鳴き声が聞こえる。
浅海は星涙の整った横顔をちらりと見やり、彼女に課された責を思った。
一人で負うには大きすぎる役目を果たすため、自己の思いを封印することしか出来なかった星涙。多少人間離れしたところはあるが、確かに彼女は一人の女性なのである。泣いたり笑ったりしたところを見たことはないが、怒りの感情なら見たことがある。感情の無い人形ではなく、自ら感情を押し殺してしまった人間なのだ。
辰国の巫女として国を治める責を負っている以上、自分の望みを持つ事もそれを叶えることも許されない。そんな彼女が唯一感情を露に出来るのが戦なのであろう。戦でしか自由を得られないのであろう。どれほど強大な力を得ていても、彼女の持つ空しさや寂しさは計り知れないものがある。
そこまでわかっているのに、浅海は自らその力を欲して巫女の娘になったことをちっとも後悔していなかった。特別な存在になるということは、多少の犠牲は仕方がないのだ。それに、一番欲しかったものはもう二度と手に入らないことがわかっている。だったら、自分というものに何か役割を与えてやりたかった。
さわやかな風が二人の黒髪を優しく撫でる。
「もうすぐ春も終わりですね」
浅海は少し湿気を帯び始めた風を感じ、そう言った。穏やかな時間だった。このまま何事も無く過ぎてくれるのであればと心から願う。
「ここはお前の故郷と近いのか?」
星涙は不意に、意外な問いかけをした。
「大分東に来たはずだ。これでもまだ先があるというのか」
彼女にしては珍しく、弱音ともとれる言葉である。浅海は正直に答えた。
「わかりません。けれど玖波の者がいたという事は、もう近いのかもしれないですね」
「…帰りたいか?」
少しの間の後、星涙は小さく尋ねた。その問いに浅海の身体に電撃のようなものが走る。帰りたい。だが、決して帰るわけには行かないのだ。
「いいえ」
浅海は感情を無理矢理押し殺すと、短くそう答えた。星涙はそれにどうするでもなく、さっと起き上がる。と、同時に突然火明の声が聞こえて、慌てて浅海も身体を起こした。
「斥候から伝令がございます。この先の大きな村があり、武装した兵がひしめいている、とのこと。いかがいたしますか」
最後の言葉をいやに慎重に言うと、彼は星涙の言葉を待った。
「そこに樹が?」
「確実ではありませんが。しかし一つの村にしては些か数が多いとのことで」
「罠か…」
火明は頷いた。星涙は目を細めて天を仰ぐ。
「お前の考えは?」
「突撃あるのみ、と」
火明は頭を下げたままはっきりとそう告げた。彼のそんな自信有り気な口調に、浅海は腹立たしさを覚えた。いくら星涙を将に据えた彼らに力があるといっても、それが東国に立ち向かえるほどかどうかはわからないではないか。
「相手の数は多いのでしょう。だったら一旦退くべきじゃないかしら」
「素人は黙っていろ」
浅海はつい口を挟み、案の定火明に怒鳴られた。しかし、めげずに言い返してやる。
「黙ってなんかいられない。いくら樹様を救うためといっても、わかりきった罠に嵌る事はないじゃない」
「お前が口出しすることではない」
火明は腹立たしげに言い捨てた。浅海は拳を握り締め、怯まずに意見を述べる。
「あなたは東国の恐ろしさを何もわかっていない。彼らにとって兵士などただの駒、いくら切り捨てようと換えのものは次から次へと溢れてくるわ。そんな相手に真正面から挑むなんて無謀にも程があるわよ」
「随分と知ったような口を利くではないか」
火明は訳知り顔で話す浅海を一瞥すると、決断を仰ぐべく星涙を見た。彼女は目を閉じると、ゆっくりこう告げた。
「いくら罠とはいえ、このまま攻めれば確実に我らは勝利することが出来よう。無論相手方は我らの隙をついて退路を絶ってくるに違いない。けれどその者達を蹴散らすことも我らにとれば難ではない」
「だからそれは」
「我らの自信が過剰だといいたいのだろう。案ずるな、決して負けはしない」
尚も食い下がろうとする浅海を星涙は強い口調で制した。
「お前に我らの真の力を見せてやる。火明、進軍だ」
星涙は首にかけていた飾りを握り締めると、命令を下した。火明はそれを聞くなり兵達が待つ方向へと駆け出す、いや、正確には駆け出そうとした。浅海が彼の袖を引っ張っていたためそれが叶わなかったのである。火明は忌々しげに振り払おうとしたが、浅海は頑として放さなかった。
「待って」
「星涙様の命令を聞いていなかったのか」
彼は瞳に苛立ちの色を見せた。その剣幕に浅海はまけてしまいそうになったが、すぐに気を取り直した。普段から彼よりも格段に恐ろしい星涙の相手をしているだけあって、そんなことで引き下がるほどやわではない。
「放せ」
「放さない」浅海は強く袖を握った。
「占をお忘れですか。東国と戦ってはいけません」
星涙は無表情で火明と浅海を見比べている。
「お願いです。あなた様はただの武人ではない、辰国にとって欠かすことの出来ない巫女なのです。どうか、無茶をなさらないで」
浅海は必死に懇願した。星涙の眉間に深い皺がよるのが見えたが、彼女の機嫌に構っている場合ではない。こればかりは何としてでも止めなければならないのだ。
「いい加減にしろ」
ついに星涙は口を開いた。いつも以上に冷たい声が辺りに響く。
「私に指図するつもりか」
怒りを含んだ声は周りの空気までも冷え冷えとさせた。浅海はようやく口をつぐむ。
「お前が今更何を言おうと、私は決断を変えない」
「…どうしても?」
恐る恐る尋ねる浅海に、星涙は苛立たしげに答える。
「何度も言わせるな」
「なら、せめて先陣を切るのはやめて下さい。火明とお代わりになって」
「敵は四方に散らばって我らを取り囲む策をとるはずだ。どこにいても変わらない」
星涙の怒気を含む言い方に、浅海はついに反論の余地を失った。これ以上何か言えば、彼女は浅海に刃を向けるだろう。
「もういいだろう。火明を放せ」
星涙に命じられ、浅海は彼を掴んでいた手を放した。
「ごめんなさい」
浅海は素直に謝罪を口にすると、下を向いて黙り込んだ。それ以外に何も言えなかったし、また苛立ち露わの彼女を真正面から見る度胸もなかった。大体、彼女が浅海の言うとおりに動くなど千に一つあるかないかで、この戦に連れて来て貰っただけでもかなりの厚遇といえる。
とは言っても、巫女の娘としてはここで諦めるわけにはいかない。こうなったら、最終手段しかなかった。頭の中にあったもう一つの切り札を、か細い声で星涙に願いを申し出た。
「一つだけお願いがあります」
「何だ?」
「いざという時には、龍神を召喚することをお許し下さい」
浅海の嘆願に、星涙はあからさまに不快な顔をした。
「お前に護られなければならないほど私は弱くはない。自分が何を言っているのかわかっているのか?お前一人で龍神を鎮められるわけがないだろう」
「無茶は承知です。けれど万が一にもあなた様が戦で傷ついたとき、その時に龍神が暴れてしまったのでは、それこそ私には何も出来ない。けれど先に星涙様から龍神を放しておけば私にも鎮めることが出来ると思うのです」
星涙は無言で浅海を見た。出過ぎたことを言っているのはわかっている。だが、今回の戦は、星涙はもちろん樹の命もかかっているのだ。浅海は星涙の足元に平伏すと、もう一度強く訴えた。
「私を信じてください。巫女の娘となってこの数年、修行を積んできました。それはあなたが一番知っているでしょう」
迷いはなかった。ただ純粋に星涙の力になり、彼女の命を護りたいのだ。自分の思いに対する誇りのようなものが自信となり、そして意思となって突き動かした。
突然、星涙は浅海に向かって手を伸ばすと、その髪にそっと触れた。
「霊力は髪に宿ると言った事を覚えているか」
彼女は手を放すと、呟くように言った。
「お前はまだ充分ではない」
頭を殴られたような衝撃が全身を走る。
「私には鎮めの力がないということですか?」浅海は震える声で尋ねた。
「ないとは言っていない。ただ、充分ではないのだ。もし鎮めに失敗したならば、お前の身体は無事ではすまない」
「失敗なんか絶対にしません」
「…いいだろう。やれるだけをやってみるがいい」
星涙はそう言うと、ふと笑みをもらした。いつものような相手を皮肉ったものではなく、穏やかなそれこそ女神のような笑みである。まさかの彼女からの贈り物に、浅海は思わずぼうっとしてしまった。
「もっともお前がその儀を行うのは、我らが窮地に陥ったときのみ。無用な心配だ」
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