第8話 台頭

 浦に来てからの三月は、あっという間に過ぎてしまった。この間、海里は一切表舞台には出ていない。ひたすら、風見の下で学に励んでいたのである。

 武項の一の側近というその肩書きに偽りはなく、風見は紛れもない智将だった。今、海里のいるこの書庫には、彼が記したおびただしい数の書物が床に散乱している。

 膨大な書の中身は全て、東国の記録。風見が独自に調べ上げた浦郡の現状や、他郡との関わり方や何やらが纏められている。それらは政だけに留まらず、各郡の風習に至るまで色んな事柄が事細かに記されていた。

 神経質な彼の性格上、細かい文字が紙面中にぎっしりと書かれており、少しばかり読みにくいが、その分漏れは無かった。加えて、余計な情報が混ざらないようにと、これを風見一人で纏めたというのだから頭が下がる。

 元々国府で評判になるほど優秀だった海里である。あらゆる知識を吸収し、それを活かす応用策も新たに生み出した。一通りの学は頭に叩き込まれたし、砲に相手をしてもらったお陰で、武術の腕も上がった。武項はそんな海里の成長を喜び、早く側近として政の場に出したがっていたのであるが、それには風見が強く反対していた。

「中途半端な知識は命取りになりましょう。機は熟してからこそ、力を発揮します」

 彼はそう言って、とにかく武項の側近としての海里の存在を公にしなかった。風見が何を期待しているのか。海里にはそれがいまいちよくわからない。

「何か考えがあってのことだろう」

 海里の内心の動揺を察してか、砲は時折そう言ってくれていたが、あまり気休めにはならなかった。早く政界に出たいとは思わないが、こうして暗い書庫で学ぶだけの毎日には次第に飽きていた。何と言うか、もっとこう文字面を追うだけではない、実際の駆け引きをやってみたくなってきたのである。そんな衝動は日に日に募ったが、性格上、自分を売り込む様な行為は出来ない。そのために仕方なくというのも何か違うが、結局、居場所は書庫のままだ。

 今日もまた、朝からずっとこの部屋に籠りきりであった。手に取っているのは、十数年前の記録。ちょうど海里の父親が東国にいた頃のものだ。ずらりと並ぶ司の名は、今のそれとは多少異なる。

 並み居る豪族達を押し退けて造に取入った、都人。顔すら知らない父の業績を、こうして残された記録の中だけで知るのは何だか妙な気分だった。彼は何を思い、何を得たかったのだろう。

「『その男、まさに鬼才。打ち出す奇策は、天からの恵みのように悉く民を救う』相変わらずの中ノ殿贔屓だな」

 近くに転がっている書に書かれている一文が読み上げられ、海里は驚いて顔を上げた。

「武項様」

 扉の開く音すら気が付かなかった。慌てて頬杖をついていた姿勢を正したが、彼はそんな海里の行動など何も気にしていないようで、床にばら撒かれてあるうちの一つを手にとって、その表紙を軽く眺めた。

「お前の父君は、今でも風見にとって相当偉大な存在らしいな。まぁ、自分の才を最初に見出してくれた人間なのだから、当然か」

「父と風見様に面識が?」

「ああ。だが、あれがまだ子供の頃の話だ。父親に連れられて、偶々国府に来ていた風見を彼は甚く評価して兄の側近として引き上げた。私もまだ幼子だったから、あまり詳しい事は覚えていないが、話だけは兄からよく聞いている」

 謂わば恩人なのだろう。武項はそう言って、ふっと笑みを漏らす。

「浦を任せると言った時、兄は迷わずに風見を私の側近としてくれた。いくら無鉄砲な弟の監視役としてとは言え、よく手放したと思う。本当は手元に置いておきたかっただろうに、な」

「造様には、それだけ風見様の御力が浦や東国に必要だとおわかりだったのでしょう。だからこそ力のあるあなた様にお預けになられた」

「さぁな。兄や風見の内心はわからん」

 彼はそう言うと、手にしていた書物を放った。無造作に投げられたそれは、ばさっと乾いた音を立てて床に落ちる。まるで無用な物を捨てるかのような仕草に、海里はつい眉をひそめた。

 武項はこちらに背を向けると、窓枠に両手をついた。

「確かにここにある書は素晴らしい出来だ。風見も策士としては並ぶ者がない。だが、あれには実行力がないのだ。いくら頭の中で策を立てようと、それでは政治にならん。どんな良策でも実行しなければ無意味だ」

 誰も救えない。おもむろに海里の方に向き直った彼は、最後にそう呟いた。

 窓枠に腰を掛けた武項は、切なそうな表情で外を眺める。

「一日一日を何とか食いつなごうと必死な者もいれば、財産を増やすことに執心する者もいる。役人は己のことしか考えていない、立場と権力を得ることにしか興味がないのだ。出世のためには立場の弱いものを犠牲にすることも厭わない。飢饉が起これば真っ先に力弱い者から飢えていく、理不尽だとは思わないか。強者には弱者を護る義務がある。だが今の東国は、その真逆だ」

 武項のこの自論は、いつ聞いても決してぶれることはなかった。理想論だと一笑する者達もいたし、実際海里もそう思っていたが、彼が口にすると叶いそうだから不思議である。彼の持つ王者の器がそう思わせるのかもしれなかった。

「だからこそ海里、お前には風見を超えて欲しい。あれ以上に力をつけて欲しいのだ」

「随分、大それた御命令ですね」

 そう言って苦笑いを浮かべた海里の肩を、武項はぽんと叩く。期待しているぞ。彼はそう告げて、颯爽と部屋を出ていった。


 がしゃり、という金属同士のぶつかる不快な音。そのすぐ後で今度は、ぐさっと土の抉れる音がした。

「ちっ」

 剣を弾き飛ばされたのは大柄な男の方。その事が余程悔しかったのか、彼は相手を軽く睨みつけた。

「お前も戦に出たらどうだ」

 地に落ちた剣を拾いながら、砲は嫌味たっぷりに言った。

「それだけの腕を腐らせるのは惜しいだろう。戦に出れば存分に剣を振るえるぞ」

 言葉の端々が刺々しい。砲は今や武項の片腕として何部隊もの統括を任されている将軍である。その彼にしてみれば、たかが文人である海里に負けるなど、恥以外の何物でもないのだろう。

「やめておく。私は戦には向かない」

 海里はそう返すと、置いてあった水を一気に飲み干した。

 剣術も体術も戦に出るために覚えたわけではない。武項の側近であるということは、いつ如何なるときでも敵におそわれる可能性があるということだ。その時に身を守るため、それだけのために身に付けたのである。

「どうだ。もう一戦?」

 胡坐をかいて座り込んだ砲は、まだ諦めきれないようで、こちらに恨めしそうな眼を向けてきた。海里は濡れた口元を袖で拭いながら答えた。

「負ける勝負はしない主義だ」

「ちょっと邪魔するよ」

 練成場の端でだらしなく座り込んでいる二人のもとにやってきた風見は、そう言って微笑を浮かべた。上役とはいえ、馴染んでいる間柄。彼が来ても、海里も砲もそのままの格好を崩さない。

「どうかされましたか?」

「海里に客人だ」

「ほう。誰ですか?」

 こちらが口を開くより先に砲がそう問いかける。すると風見は意味有り気に目を細めた。

「綺麗な娘だよ。海里に会わせてくれって、門の所で待っている」

 砲がにやけた顔を向けてきたが、海里の目には彼はちっとも映っていなかった。

 浅海かもしれない。そんな期待と願いが頭を即座に駆け回る。

「とにかく行ってあげて」

 風見の言葉に適当に頷くと、海里は一目散にそこへ向かって駆け出した。後に残された二人は、そんな彼を呆然と見送る。

「まさか、違いますよね」

「当たり前だろう。彼女ではないよ」

 砲の訝しげな問いに、風見は薄い笑みを浮かべた。


 海里は門前でその娘を見るなり足を緩めた。やっぱり現実はそう甘くないようだ。

「何の用だ」

 娘の会釈に海里は冷たい言葉を返した。しかし彼女はそれを気にすることもなく、明るく告げる。

「お久しぶりでございます。中ノ様に是非お会いしたかったのです」

「私はお前に用は無い」

 娘はそう言って背を向けた海里の袖を引っ張り、歩みを阻む。

「大事なお話がございます。是非お聞きください」

「必要な時には何も言わずにいたお前が、今更何を言う?」

 海里は掴まれた袖を乱暴に振ると、彼女の手をぱしりと叩き落した。

「消えろ。お前の顔など見たくもない」

 心の底からの言葉だった。あれからまだ三月。玖波や佐間の人間と平然と会話を交わせる心境ではない。それに浅海をより鮮明に思い出させる彼女とは、尚のことだ。

「私は本当に何も…何も知らなかったのです。あなた様の刑が執り行われることも、浅海がいなくなったことも」

 彼女は俯いたまま絞り出すように言った。

「あの前の日から、私は竹の屋形におりました。だから、あなた様や浅海の身に何があったのか、全然わからないのです。聞いても、誰も教えてくれなかった」

 葉那はそこまで言うと、突然泣きだした。傍から見れば海里が泣かせたような光景で、門番もこちらに訝しげな視線を向けてくる。下手に噂されても面倒だと判断した海里は、一先ず彼女を奥に連れていくことにした。

 

「へぇ。なかなかの器量良しだな。海里、どんな知り合いだ」

 ぴりぴりした険悪な雰囲気に、あっさりと水を差したのは、砲の一言だった。彼は、ひゅうと口笛を吹きながら、さっさと葉那の隣を陣取った。

「娘さん。さ、これで涙を拭いて」

 目を赤くした彼女は、こくりと頷きながら、砲が差し出した布を受け取る。

「海里に何を言われたのか知らないが、あまり気にする事はない。あいつは冷たい男だから」

 軽口を叩く砲に、葉那は値踏みするような視線を向けた。だが、それに微笑み返した彼に葉那も少しずつ表情を明るくする。

「ありがとうございます」

「ほら。笑っていた方が綺麗だよ」

 女に甘過ぎる砲の態度は、時折無性に気に障るが、まさに今は最高潮だった。壁に寄り掛かっていた海里は腕を組み替えると、微笑み合う二人を睨みつけた。

「それで結局、何の用だ」

「海里ぃ。そんなに苛々するなよ。お前の客人だろうに」 

 砲は寄り添った葉那の肩に手を置いたままそう言った。その隣で同情を買うためのような仕草で涙を拭う葉那には、嫌悪感が沸々と涌いてくる。甲冑を身につけていない時の、奴の軽さはどうにかならないものなのか。武項が酒の席でよくそう漏らしていたが、それに大声で同意してやりたかった。

「客人だと?佐間の娘が笑わせるな。よく、のこのこと敵対する浦にやって来られたな」

 元々、親しくもない間柄だ。言葉を選ぶ必要なんてない。何を言っても、その結果で彼女が傷つこうと、どうでもよかった。

 指で腕を打ちながら、吐き捨てるように告げた海里を風見が宥める。

「まぁ、落ちついて。海里がそんなことでは話が前に進まないよ。それで御嬢さんは伊佐殿の?」

「姪に当たります。けど、私」

 葉那はそこで言葉を区切った。何かを迷う様に俯いた彼女であったが、下唇をぎゅっと噛むと、今度は勢いよく頭を上げた。

「私、佐間を捨てました」

 心を決めたかのような、きっぱりした言葉だった。しっかりと海里の目を見つめながらそう言い切った彼女に、海里と風見は同時に眉をひそめる。

「嫌気がさしたのです。言われるがままに行動し、民の事も考えずに石賀に尽くし込む、佐間に」

「それはどういう事かな?」

 風見は冷静に葉那を問い質した。すると彼女は、汚らわしいものを思い出したかのように、急に激し始めた。

「今の佐間は玖波の属郡以下の存在です。男達は玖波の兵として集められ、女だけで必死に生業をこなしております。けれど如何なる決定も石賀が行い、佐間の実権は皆無。郡の中にはそんな状況に不平を漏らす者もおりましたが、彼らは次々と…」

「もういいよ。ありがとう」

 また涙を流し始めた葉那に、風見は優しく告げた。彼女はほっとしたように、そっと胸に手を当てる。

 甘い。そう思った海里は思わず彼を見たが、やはりそこは風見だった。海里がこれで終わりにするつもりかという視線を向けるより早く口を開いていた。

「佐間の状況は噂で聞いているよ。玖波と相当蜜な関係だそうだね。まぁそれはいい。それで、君が逃れてきた直接の原因は何なんだい?民の苦しさを見かねて、わざわざやって来てくれたわけではないのだろう」

 顔には微笑が浮かんでいるが、声はなかなかに鋭かった。

 風見は上っ面の言葉だけで納得するほど、甘い人間ではない。彼にかかれば、自分と他者のどちらを大事に思う人間かを見抜くことなど、容易いことだ。

「海里を頼って来るということは、それなりに大事が起こったということだろう。正直に話してみなさい」

 風見の尋問に偽りを口に出来た者など見た事がない。あの一見ほんわかした空気は、当事者にとっては、実はとても圧迫的なのである。話さなければいけないような妙な圧力に屈して、皆ぺらぺらと事実を話してしまうのだ。策士としての彼がここまで成功して来たのは、この特技があったからといっても過言ではない。

 無論、この時の葉那も例外ではなかった。魂を抜かれた様にぼうっとしていた彼女だったが、促されるままに話し始めた。

「実は…私に祝言の話が舞い込んできました。石賀様に命ぜられるまま、立飛の妻として玖波に嫁入りすることが決まったのです。もちろん浅海の代わりとして。そして同時に玖波への償いの証として」

「償い?」

 海里の片眉がぴくりと釣り上がる。葉那はそれに気圧されたように、地に目を落とした。

「ええ。浅海が玖波と佐間の間に入れた亀裂。それを修復するための、蜜蝋としての役割です」

「ほう。玖波はどうしても形式上も佐間を取り込みたいというわけか」

 押し黙る海里の代わりに砲が口を開いた。

「こうなる前に、やはりあの時叩いておくべきだったのではありませんか?このまま放っておけば、近隣の郡が全て奴に取り込まれますよ」

 彼は、そら見ろと言わんばかりにそう続けた。それに対して風見は冷静なまま、こう反論した。

「いいや。あの時無理に戦を行うべきではなかった。それは今も同じ考えさ。それに玖波が軍を整えれば、それこそ願ったりだ。造様から勅命を頂いた上で大手を振って、奴らの本陣を潰しにかかれる」

「しかし、いつまでも悠長に構えているわけには」

「勿論だ。時はそろそろ迫っている。葉那がこちらに来た事がその合図ではないかな」

 急に自分の名を出された彼女は、目を丸くして風見を見た。

「私?」

「そうだよ。君は私達が動くきっかけを作ってくれた」

 よく、わかりません。そう正直に答えた彼女に、風見はまた微笑みかけた。

「君さえよければ、これからずっと海里の傍にいてやってくれないかな」

「娶せるということですか?」

 当の海里以上に驚いたようで、砲は大声でそう問うた。言葉を素直に受け取ってくれるのは彼の長所でもあり、短所だ。風見も彼のそんなところはよく知っているため、丁寧にこう付け加えてやる。

「いや、それは当人同士の話で好きにしてくれればいい。妻でも侍女でも構わないよ。ただ、彼女がこうして海里を頼って来てくれたんだ。そのことを無駄にするのは惜しいだろう。こちらの陣中に居てもらって、充分に働いて貰おうじゃないか」

 風見の言葉が非常にありがたかったのか、葉那は力尽きたようにへたりと座り込んだ。

「お願いします。侍女でも下女でも構いません。どうか私をお引き取りください」

 彼女はそう言ってきちんと両手をつくと、額が地面につくほど深々と頭を下げた。海里は無言でそんな葉那を見つめた。

 彼女のつまらない誇りの高さは知っている。彼女がそれらを全て捨てて、身一つで海里の元へ来るということが、どうしても釈然としなかった。

 海里が言葉を迷っていると、風見が口を挟んだ。

「どうだろう、海里。これも浦のためだと、割り切ってくれないかな」

 言葉こそは丁寧であったが、これはもう頼み事の域を超えていた。私情を捨てて政に徹しろ。そう命ぜられたのと同意であり、逆らえる訳もない。となれば海里が選べる行動は一つしかなかった。

「わかりました。この者を侍女として手元に置いたまま、佐間の出方を伺いましょう。ただし、間者であることが露見した時は、」

「わかっております。その時は佐間も私の命運も尽きましょう」

 意志の強そうな黒い瞳は、従妹だけあって浅海のそれとよく似ていた。ほんの一瞬だけ、彼女の顔がだぶる。

 違う。海里は心中でそう自分を叱りつけると、すぐに思考を切り替えた。


 武項に国府を訪れるようにとの命が下っていたのは、ちょうどその頃であった。練兵場に行くという砲と別れ、風見と共に庁堂に着いた時、彼は長い脚を揺らしながら、使者から託された木簡を、煩わしそうに眺めていた。

「おお、お前達か。穏やかな兄もついに腹を立てたようだぞ」

 可笑しそうにそう言って、木簡をこちらに向かって放り投げた彼を風見がたしなめる。

「造様からの御命令ですよ。軽んじられませんように」

「ふん。仲の良い誼でお前が行ってはくれないか。国府はどうも窮屈で好きじゃない」

「我儘を申されますな。こう何度も御呼びなさるということは、何か大事なお話があるのでしょう。早くお伺いした方がよろしいかと思いますよ」

「どうだかな。大方、好き放題な振る舞いばかりしている吾に、兄も心中穏やかでいられなくたったんだろう。わざわざ釘を差されに行くのも面倒なことだ。第一、明日にでも戦になるという時に、浦を空けられるか」

「そうは言いましても。やはり」

 しつこく食い下がる風見に、武項の駄々も次第に治まってきた。

 何だかんだ言っても、彼らは仲の良い兄弟なのである。兄に会いたいと言われれば、断れはしない。

「お前も行くか?」

「いえ。今、二人が揃って浦を空けるのは止めておいた方がいいでしょう。代わりに海里をお連れ下さい」

 風見はそう言って、海里を振り返った。

「造様にお会いしたことは?」

「先代には国府でお会いいたしました」

 かつて一度だけ会った、先代の造。優しげな印象というくらいしか記憶になくて、顔はうろ覚えだ。

「その話なら、父から聞かされたことがあるぞ。玖波の優秀な青年に会ったと、ひどく喜んでいた。なんだ。海里は兄に会ったことがなかったのか」

 武項にそう問われ、海里は頷いてみせる。

「ならば丁度いい。紹介も兼ねてお前を連れていこう」


 初めて会った造の印象は、彼の父と同じものであった。優しげな目元が先代にそっくりである。とてもじゃないが彼が、覇気に満ちた武項の兄であるとは思えなかった。

「武項、無茶をしてはいけないぞ」

 造は風見のような口調で弟を気遣った。

 彼の武項への溺愛ぶりは、東国中に聞こえ渡るほど有名な話である。年が多少離れているせいもあって、同母弟への愛情は半端ではない。先代の遺言や周囲の反対を押し切って、造の座を武項に譲ろうとした程である。結局、武項が嫌がったために実現することはなく、浦の郡司に納まったが、それも彼の若さでは到底あり得ない話だった。

「兄上こそ、また体が細くなったのではありませんか。きちんと栄養を取って、少しは体を動かさねば」

 武項は相手が造であるにもかかわらず、兄として彼に話しかけていた。造の方もそれを嗜めることもせず、にこやかに微笑んでいる。

「武項はいつも元気だね。そろそろ落ち着いて、妃を娶ったらどうだい」

「今はそれどころではございません」

 武項はあっけらかんと話を流してしまう。造はそこで少し表情を改めた。

「随分頑張っているようだけれど、何か欲しいものでもあるのか?」

「いいえ。吾はただ腐った政治を粛清しているだけです。決して、兄上の地位を脅かすものではございません」

「お前が望むのであれば、いつでもここを譲るが?」

 造は試すような物言いでそう問うた。武項はそんな兄を見て眉をひそめる。

「お断りです。私は窮屈なことは嫌いだ」

 本気で面倒そうな顔をした武項に、造はくつくつと笑いだした。

「お前は本当に可愛いな。幼い頃とちっとも変らない」

 明るくて、物をはっきり言えて、決断が速い。彼は幼子をあやす様な口調でそう続けた。下手をすれば頭を撫でてしまいそうな勢いに、武項も頭を掻いて照れる。

 傀儡であったとはいえ、先代の造本人ばかりは、政治に勤しんでいたと思いこんでいた。そのため造は、実質、武項ともう一人の弟の父親代わりでもあったと言えよう。妃であった母親を早くに亡くした武項にとっては、そばにいない父親よりも兄の方が依るべき存在だったのである。

「武項、決して無理はするな。戦に命の保証はないのだ」

「わかっております。私には風見も砲も、そして海里も付いている。御案じなさるな」

「中ノ海里、か。やはりお前が手懐けていたのだな。私の元に引き入れるはずだったのに、横取りしたな」

 造はいたずらっぽい口調で武項を責めた。すると武項はにやりと口角を上げてみせる。

「早い者勝ちでございます」

「まあいいだろう。海里。お前の手腕、この機にとくと見せてもらおうか」

「兄上。それでは」

 勅命を頂けるのですね。

 暗にそう問いかけた武項に、造は無言で傍らにあった筆をとると、つらつらと文字を書き記した。武項は恭しく両手を上げて、造から木簡を受け取る。

 内容は見ずともわかる。玖波の粛清だ。

「火種は浦のすぐそば。良からぬ噂の温床だ」

「お任せ下さい。東国のため、我らは死力を尽くして戦うつもりでございます」

 武項の意気揚々とした態度とは反対に、造は少しだけ心配そうに眼差しをこちらに向ける。くれぐれも無理はするな。彼は消え入るような声でそう告げた。


 国府から戻った足でそのまま庁堂に向かった海里は、そこで風見とじっくり策を練ることにした。

「葉那の言う通り、玖波やその近辺は最悪の状況だ。国府や浦から追放された役人を引き受け、悪政の限りを尽くしている。今更、まともな話し合いは通じないだろうね」

「けれど、私達は勅命を頂きました。玖波を潰した所で、誰に言い訳する必要もないでしょう」

 夜も更けており、実動部隊を率いることになる砲や、総大将の武項は先に休んでいた。風見と二人きりという事もあって、意図せずも海里の気は大きくなる。

「堂々とこのまま正面から攻め込めば、」

 海里は身を乗り出すように風見に詰め寄ったが、彼は静かに首を振った。

「駄目だ。玖波に真っ向から挑むには、確実に勝つためには、彼らより多くの軍勢を用意しなければならない。そうなるとまだ足りない」

 風見は珍しく言葉尻を強めた。焦っているのだろう。海里は、難しそうな顔をしたまま机に広げた地図を睨む彼から目を離すと、ゆらゆらと揺れる篝火の炎を見つめた。

 一箇所に固定されない、ちらちらとした明かり。少し風が吹けば天辺の向きはあっさりと傾き、強風が吹けば一瞬にして消えてしまう。それを見ているうちに、海里はある策を思い付いた。

「いっそのこと、佐間を手中に入れてしまうのはいかがですか」

 風見は、何を今更と言わんばかりの訝しげな表情を浮かべる。

「佐間には力がない。だからこそ玖波に頼らざるを得ないのです。より強大な権力をぶつければ、彼らは必ずこちらを選ぶでしょう」

「確かに一理ある。だが、あそこは古くからの石賀の子飼いだ。奴の意が深く浸み込んでいる彼らにその理が通じるかい?」

 おそらく今なら通じる。海里はそう確信していた。

「浅海に続いて、葉那までもが玖波を裏切ったことで、石賀はより強力な忠誠を佐間に求めたはずです。となれば、彼らの生活は玖波に雁字搦めにされていると、想像に難くありません。智殿はそれなりに優秀な人間です。このままでは佐間がどうなっているのか、きっとわかっているでしょう」

 海里の熱弁に風見はついに頷いた。

 舞台は整った。いよいよ、海里の真価を見せつける機がやって来たのである。


 翌朝、二人は武項にこの案を出し、説明を受けた彼もそれを実行することに決めた。

「では、総攻撃は一旦止める。我らが軍を配置し終えるまでに、お前達で裏を固めよ」

 武項はそう告げると、砲を伴って戦場となる玖波との境へと赴いた。残された風見に与えられた役回りは、彼の代わりに浦の庁堂を仕切る他、部隊間や各郡との連絡等、全体の繋ぎとなることである。大役だが彼になら任せておける。武項はもちろん、海里も彼の力を信じていた。

 本来ならば、彼の助けに回るはずであった海里だが、今は自らが提案した策を実行すべく、勇を伴って佐間へと馬を飛ばしていた。

「懐かしい街道ですね。最後に通ったのが、随分昔に感じられます」

 彼は目を細めてそう告げた。

 何故、勇がここにいるか。それは海里が浦の手で救われたあの時、彼もまた彼らの手で助け出されていたからである。海里が捕えられると同時に、立飛達の手に落ちた勇は、土牢よりもはるかに酷い河川敷の岩に繋がれた。そうして海里の刑が終わり次第、斬首に処せられることになっていたのだったが、そうなる前に砲が彼を救いだしたそうだ。

 この話を聞いたのは一月程前で、実際に勇と再会したのは、ついこの間だ。

 人気のない河原で両手両足を鎖で繋がれていた彼は、海里を憎んでいた者達によって手酷い拷問を加えられ、助けられた時はほとんど虫の息だったらしい。砲の私邸で匿われるように横になっていた彼を目にした時、海里は衝撃のあまり膝をついてしまった。あらかた治っていたとはいえ、生々しい傷跡は全身に残っていたのである。

「海里様。ようやくお会いできましたね」

 海里に気付いた勇はそう言って弱弱しく笑った。いつもと変わらぬ柔和な笑顔。だが、額には大きな傷が付いていた。

「安心しろ。もう命に関わることは無いだろうとの見立てだ」

 砲がそう言うと、勇も首を縦に振って見せた。

「もう少しだけ時間を下さい。そうしたらまた御仕えさせて頂きます」

 彼の言葉に思わず目頭が熱くなった。すまなかった。そう口にしようとしたが、喉が熱くて声が出て来ない。何も知らずにいた自分が情けなくて、憎かった。浅海の事ばかり気にかけて、勇の身を案じることなど忘れていたのだ。彼がこんな目に遭ったのも、全ては自分の身勝手の所為。許してくれなど、おこがましくて言えるわけもなかった。

「どうかされましたか」

 黙り込んだ海里を不審に思ってか、勇はそう問いかけてきた。

「あ、いや。何でもない」

「もうすぐ佐間です。流れ矢に御注意を」

 勇の言葉に海里ははっと気を引き締めた。そうだ。今は戦の最中。感傷に浸っている暇などない。


 海里の思惑通り、智はあっさりと浦についた。

「まさか、佐間が中ノ殿に縋ることになろうとはな」

 智は自嘲的にそう言うと、手元にあった藁をむんずと掴む。

「このまま突き進めば、行きつく先は滅亡だ。その前に打つ手があるのならば、どんなことでもしよう」

「それが正しい選択です。どうか伊佐様達にも、」

「ありがとう。父達には第一線から下がってもらう。私が自ら指揮を執り、武項様達と合流しよう」

 ぼろぼろの掘立小屋は、浦の使者と一郡の代表が話し合う場としては、相応しいとは言い難い。だが二人は真剣に向き合い、そして固く手を握った。智は武項に全面的に協力することを約し、海里の言う通りに軍を動かす事を受諾したのである。

 海里は会談が成功するやいなや、飛ぶようにして武項のいる本陣に入った。息も絶え絶えに報告をする海里の背を、武項はそっと擦り、そしてこう告げた。

「よくやってくれた。ここからは我らの出番だ」

 

 浦軍が戦を仕掛けたのは、明け方のことであった。

 罪状は国府への反逆心を明らかにした事。戦の準備を整え、国府に対する牽制を行ったことを罰するというものだ。

 元々、剛腕な石賀に含みを持つ人間は少なくない。進軍するにつれてどんどん軍勢は膨れ上がり、東国中の兵達が集まったのではないかと思えるほどにまで大きくなった。一方で迎え撃つ玖波側も相当数の兵を用意しており、両者の激突はまさに史上最大の戦火を巻き起こした。

 だが、時の流れは既に変わっている。

 若き将軍が率いる軍勢は、まさに破竹の勢いだった。流れに任せたまま突撃し、相手が怯んだ隙にどんどん矢を射かける。そうして相手を防戦一方へと追い込んだところへ、また大量の兵を送り込む。じりじりと後退を始めた玖波軍に、更に追い打ちをかけたのは、背後から攻撃してきた佐間軍であった。智は海里と約束した通りに行動したのである。

 要所の固めを命じられていた佐間が裏切ったことで、無理矢理戦に駆り出されていた兵達は、蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまい、戦力を欠いた玖波軍はあっという間に崩れ出した。戦意を失いだした兵らを次々と蹴散らした浦軍は、雪崩のように相手の本陣がある屋形に攻め込んだ。

「突撃ぃ」

 砲のその命令で兵達は我先にと突撃を始める。その先頭に立っていた武項は剣を振り回しながらこう叫んだ。

「いいか、石賀を逃がすな。谷田もだ。主だった奴らは全員捕らえよ」

 豪華絢爛を誇る屋形もこうなっては形無しだった。兵達の泥足で床は汚され、屋形中に漂っていた香料の香りも土煙や血の臭いで消え去った。石賀の自慢の品々は悉く破壊され、鉄壁の守りを誇るはずだった物見櫓と大屋根は、幾らもしないうちに黒く燃え上がった。そして石賀本人も、酷くみすぼらしい身形で砂利の敷かれた庭に引きずり出されたのであった。

「殺せぇ。さっさと殺せぇ」

 発狂したかのようにそう叫びまくる彼に、武項は冷ややかな眼差しを向ける。

「今までお前はどれだけの人間にそうして来たのだ。騒がずとも、お前の命は残りわずか。それまで精々、己の行った罪を悔いることだな。おい、谷田はまだ見つからんのか」

「申し上げます。谷田の姿、どこにも見当たりません」

「よく探せ」

「はっ」

 その頃、谷田は既に身の安全を確保していた。危険をいち早く察した安住と共に、石賀を見捨て、奈須へと逃れていたのである。

「逃げられたか」

 武項は悔しそうにそう言ったが、彼以上に石賀が顔を歪める。裏切られたことが余程衝撃だったのか、彼の眼には悔し涙さえ浮かんでいた。

「仕方がない。兎も角、こいつらを浦に連れて行け」

 こうして、総勢数十名が浦と国府とに連行されたのであった。


 捕虜の取調を任されたのは海里だった。その姿は普段の彼からは想像できないほど激情に任せたものだったが、これは初めて表舞台に立った興奮からではない。浅海への想いを打ち砕かれたことの憎悪が、今になって形になって表れたせいである。

 情け容赦ない取調べは底を知ることがなく、時には風見が止めに入ることさえもあった。それが最も熾烈を極めたのは、立飛と丈のときである。

「海里、その辺にしておきなさい」

 風見が慌てて口を挟むが、海里の耳には届いていない。海里は手に持った剣を、震えて声も出せない立飛の喉元に突きつけた。

「浅海をどうした」

 海里はそう問い詰めるが、一方の立飛は血の気が引いて真っ白な顔をしているのだ。答えられるはずがない。

 感情に支配されてしまった海里を止めるべく、風見はむんずと海里の肩を掴む。思わず、何をすると言いたげな眼差しを向けてしまったが、それでも風見に楯突くような真似はしなかった。

「そのままでは立飛は何も答えないよ。もう少し落ち着きなさい」

 かつて彼が武項に言ったのと同じ言葉を聞かされた。仕方なく剣先を地面に戻し、天に向かって大きく息を吐く。それでも気が落ち着かなくて、一旦その場を離れることにした。

 頭から水をかぶってみるも、冷静さが戻らない。浅海を手にかけた人間かもしれないと思うと、海里の心は瞬時に怒りに燃え上がってしまうのだ。

「まだまだ未熟だな」

 感情に捕らわれ過ぎである。風見が目を光らせていなければ、立飛に刃をつきたててしまうかもしれない。そんな心根の弱さがつくづく嫌になる。

 彼を怒りのままにどうにかしても、浅海が帰ってくるわけではない。そうわかってはいるが、ともするとそちらに流されてしまいそうな自分に嫌悪を感じた。

 玖波の粛清は海里にとって浅海の敵討ちであると共に、彼女を失った悲しみを思い出す拷問でもあった。未だに生死のわからぬ浅海を想う度、息が出来なくなるほどの吐き気に襲われる。その苦しみから逃れようと、海里はがむしゃらに務めを果たした。結果、玖波にあった膿は全て出し切られたのだが、それを喜んだのは周りの者達だけであり、海里自身はますます自分を見失う羽目になったのである。


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