第7話 異国
星明りさえろくに届かない獣道。浅海はこの道なき道を、ぼろぼろになりながら進んでいた。
腕は細かい木の枝で傷だらけ。足は落ちていた小石や枝で所々裂けている。傷ついた箇所からは血が滲みだしていたが、感覚が麻痺しているようで、痛みは感じない。
早く、早く。浅海は呪詛のように何度も何度も繰り返しそう呟く。
『夜明けの前までに』
月下で告げられたその言葉は、まるで呪いでもかけられていたかのように、浅海を一心不乱にさせた。そこに意思はない。ひたすら与えられた糸に縋って動き回るこの姿は、傀儡そのものだった。言われるままに事を運び、命ぜられるままに故郷の地から、いや、犯した罪から逃げ出していた。
頑張れ。そう自分に言い聞かせ、壊れかけている精神をどうにか持ちこたえる。この行動が何を引き起こすのか、冷静に考えればわかるのかもしれない。けれど実際には、それを考える余裕など皆無であり、ただ前に進むだけが精一杯であった。 数刻前に描いていた甘い夢とは正反対。孤独と恐怖への旅路である。
わずかな時の中で判断を迫られ、この手段を選んだのは事実だし、躊躇わなかったわけでもない。だが確信はあった。こうすることに全てを投げ打つ価値がある、と。正しいかどうかの答えが出るのは先の事。そしてその答えを出すのは、浅海ではない。
どれくらい走ったろうか。夜明けまでには、まだ時を要しそうである。
九つめの目印が目に入るなり、浅海はぜいぜいと息をつきながら、そばの木にもたれ掛かった。ひゅうひゅうという聞きなれない音が、口から洩れる。動きを止めた所為か、腹は痛み、喉は何かが絡みついているかのように苦しかった。渇きを潤すように、何度も唾を飲み込むが、気休めにもなりはしない。水が飲みたかったが、近くに水音は感じられなかった。
もう少しだ。首を動かすのも億劫で、浅海は目だけで、幹に付けられた白い木札を確認した。教えられた印は全部で十。残りはもう一つ。
北へ走ったのか、南に走ったのか。そんなことはわからなかったが、道は間違ってはいないようである。寄りかかった体をよろよろと起こすと、浅海はもう一度足を動かし始めた。
最後の印を見つけたのは、それから程なくのことだった。ふらふらになりながら最後の木札に手を伸ばしたが、根元に結われていた麻縄に躓いて盛大に転んだ。
涙目になりながら体を起こしたその時、縄の先にいた大きな黒い生き物と目が合った。思わずぎょっとしたものの、それが逃走用に手配されていた馬であると気付くのには大して時間はかからなかった。
馬はこちらを見ながら、ふんっと訳知り風に鼻を鳴らした。慣れた黒馬ではないことに若干不安はあったが、その仕草が妙に人間じみていたせいか、仲間が出来たような安心感で何となくほっとする。
それにしても、さすがは彼らが用意しただけの馬だ。そんじょそこらの農耕馬とは、醸し出す迫力が一段も二段も違う。すらりとしたその体躯からも、賢そうな色を映した瞳からも、さぞかしの名馬であろうことが容易に察せられた。
「お前は行先を知っているの?」
もちろん返答はない。けれどその瞳は、まるで浅海の心情を理解しているかのように澄んでいた。
「北西に進むのよ。お願いね」
微笑みかけながらそう告げると、浅海は剥がした印に目を向けた。だが暗闇の所為で、書かれている文字はよくわからない。何とか目を凝らそうとしたが、疲労で苛々していたことも手伝って、全く解読不可能だった。
浅海は繋がれていた縄を解くと、縋りつくようにしてその馬上に上った。手綱を握り、今度は北西を目指した。
急く浅海の心を理解してくれたのか、はたまたこれが名馬の実力なのか。とにかく、彼女は信じられない速度で大地を駆けた。そのお蔭で、日が昇るころには東国の国境を越え、奈須の関所も難なく抜けることに成功したのだった。そうして西へ西へと進み、山を越え、川を渡り、走り続けること丸一日。頑張ってと、何度も叱咤激励しながらどうにかここまで来たが、ついに屈強な馬にも限界が来てしまったようである。
駆ける速さがどんどん遅くなったかと思うと、いくらもしないうちに歩みへと変わり、最後には崩れるように地に着いてしまった。当然乗っていた浅海も、どさっという音と共に柔らかい土の上に投げ出される。
「痛っ」
木の根にしたたかと肘を打ちつけ、浅海は患部を抱えて悶え打った。
どうやら骨に直撃したようで、腕がびりびりと痺れる。打ちつけた箇所の少し上の辺りを強い力で握り締めて、少しでも痛みを分散させようと無駄な努力をしてみたが、あまり効果は無い。歯を食いしばって耐えること十数秒、ようやく落ち着いて呼吸が出来るようになった。
ぶるるっという荒い息遣いが耳元で聞こえ、上を見上げると、くりっとした黒瞳と目が合った。自分も疲れているだろうに、彼女は心配そうな眼差しをこちらに向けてくれていたのである。
「大丈夫よ。ありがとう」
浅海は無理に笑顔を作ると、埃で白くなっている彼女の鼻面に触れてみた。指で軽く払ってやると、汚れの下からは本来の黒色が見えてくる。
「綺麗だったのに、ごめんね」
すっかり埃っぽくなってしまった縦髪。ふさふさだった茶色の毛の間には泥や砂利が入り込んでおり、最初に撫でた時とは打って変わってざらざらしている。そして、真丸の瞳には疲れ切った色がありありと映されていた。
長旅であったわけではないが、ほとんど休み無しの行程は、さぞかしきつかったろう。深い川を無理矢理渡らせ、足場の悪い岩場を走らせ、そして人目に付かないためにほとんど道なき道を進ませてきたのだ。彼女が弱音を吐かないのをいいことに、ついつい無理強いをさせてしまった。
「私のせいでこんな目に遭うなんて、あなたも相当運がないわね」
ぶるっと鼻を鳴らした彼女が、気にするなと言っているように思えるのは、単に自己弁護をしたいせいだろうか。汚れた毛に指を絡ませながら、浅海は自嘲的にくすりと笑んだ。
故郷から離れ、仲間から引き離された彼女の気持ちはよくわかるつもりだ。もう戻れない。家族や友人に会う事はもちろん、東国の地を踏むことも出来ない。それがどんなに大事なのかは、こんな状況ではまともに判断出来やしない。在るはずだった未来は消え、残されたのは厳しい現実だけなのだ。後悔はしていないが、不安は心が押し潰されそうな程に大きかった。
選ばざるを得なかった道ではないかもしれない。小さな幸せなら、他のものでも代用出来たのかもしれない。
「ごめんなさい」
浅海はもう一度そう呟くと、膝を抱えて頭を垂れた。今度の言葉は、目の前の彼女に対してだけ向けられたものではない。自分が捨てて来た全てのものに、そしてきっと傷ついているに違いない海里への謝罪である。
大木の根元に座して寄りかかった浅海の視界には、鬱蒼と繁る見慣れぬ樹木ばかりが映っていた。
既に夕暮れも終わりかかりだ。一日もあれば着くだろうという、彼の言葉が正しいのであれば、ここはもう東国や奈須の領域から脱しているはずだが、それも全ては浅海の方向感覚が信頼できればの話である。仮に全然見当違いの道を進んできてしまったとあっては、目的の地に辿りつけるわけがない。
「きっと大丈夫」
くっついたら離れなくなりそうな瞼を、何度目かに引き離した時、浅海は無意識にそう呟いていた。何の根拠もないが、そんな自信だけはたっぷりあった。もっとも、強烈な睡魔に襲われて、考える力を失くしているだけかもしれないが。
「あなた、だぁれ?」
夢の入り口辺りでうろうろしていた浅海は、鈴の音のような美しい声で、はっと気を取り戻した。
疲れていたせいだろうか。人が来る気配など全く感じなかった。ぱっと目を開いた浅海は、相手を識別するより先に身構える。敵か、それとも味方か。反射的に腰に手を伸ばしたが、その先にあるはずの短剣がない。戦う術がないことに冷や汗がすっと背をつたったが、よくよく相手をみるなりその緊張は一気に解れた。
目の前に現れたのは、ほっそりとした白い足を惜しげもなく晒した少女だった。桜の花びらのような白い瞼を何度もぱちくりさせながら、彼女は無邪気にこう続けた。
「こんな処で眠ると、風邪をひいてしまうわよ」
にっこりと笑った彼女は、まるで花の精か何かに見紛うほど愛らしかった。その容貌にまるっきり毒気を抜かれてしまった浅海は、とぼけた声でこう問い返した。
「あなたこそ、どなた?」
「私はね、菫。今年で十四になったの」
ぼけっとしたままの浅海に、菫はこれまた天女のような微笑みで答えてくれた。そして聞いてもいないのに、ぺらぺらと話し出す。
「今日はね、久しぶりに一人でお散歩しているの。誰にも見つからないように、ウタにもわからないように、そっと屋形を抜け出したのよ。兄上は神殿に降りていて、今夜はきっと遅くなるだろうから、私もちょっとくらい帰るのが遅くなっても平気なの。それが何だか楽しくて、周り道しながら帰っていたら、あなたを見つけたのよ」
話が噛みあわないとは、こういう相手に対して使う言葉であろう。はぁ、と曖昧に返答をしたのも、正直何と言えばいいかわからなかったからだ。独特のゆったりした甘えたような口調が手伝って、彼女の言ったことは半分程度しか理解できなかった。
もし、普通の娘がこんな話し方をしようものなら、お前は馬鹿かと言いたくなるに違いない。だが、彼女の場合にはそれがしっくりきており、更に可愛く見えた。
「そうだ。あなた、おなか空いていない?さっき色々採ってきたの。良ければどうぞ」
思いついたように両手をぱちんと叩き合わせると、彼女は手元の篭を差し出してきた。
「遠慮しないで。おいしいわよ」
その笑顔の可愛いことといったらなかった。考える余地もなく、浅海の首は糸で操られたかのように、綺麗に縦に振り下ろされた。
篭の中身は初めて見る物ばかりだった。中には形が奇妙なものも混ざっており、一瞬手を引っ込めようかと思ってしまったが、にこにことこちらを見ている彼女を傷つけるようなことは出来ない。
浅海は、いただきますと小さな声で告げると、差し出されたものにそろそろと手を伸ばした。果物らしきものの、中でも出来るだけ見たことのあるものに近いものを選び、おっかなびっくりで口にしてみる。
「おいしい」
正直な感想がぽろりと零れた。口の中に広がったのは、思ったよりもずっと甘い味。柔らかな甘みと水分を得て、浅海はようやく自分が無事生きていることを実感した。
「でしょう。たくさんあるから、どんどん食べてね」
浅海が喜んで食べたことで、菫は気を良くしたようである。彼女は籠から次の品物を取り出すと、ほら、と突き出してきた。そうして、むしゃむしゃと食べる浅海を嬉しそうに眺めていたが、突然思いついたようにこう尋ねて来た。
「ところで、あなたはだぁれ?」
何の脈絡もなく、再度問い掛けられたのは、先程と全く同じ問いである。突然回答権が回ってきたことで、ぎくりとした浅海は大きな塊を一度に飲み込む羽目になった。
「私は、」
「このままここにいたら、獣に襲われてしまうわよ。そうなったら、危ないでしょう」
げほっとむせ返って、涙目になりながらも答えようとしたのであるが、彼女に人の話を聞く気は欠片もないらしい。浅海の言葉など耳に入らないかのように、菫はまた勝手に話を始めた。
「ここはね、本当は危険な場所なのよ。兄上もいつも言っているもの。一人で森に入ったりしてはいけないよって。けど、こんなに綺麗な所じゃない。たまには一人でお散歩したくなるの。あなたもそう思わない?」
思わない。口にこそ出さなかったが、顔にはそう書いてあったに違いない。はっきり言って、ただの薄暗い樹林である。ここにそれほどの魅力があるとは、到底思えなかった。
「それにちょうどね、この位の暗さが好きなの。すっかりの夜でもなく、日の強すぎる昼でもなく。なんか安心するのよね」
ええ、と相槌を打ってしまったのは、彼女の微笑みのせいだろう。意味不明な台詞だというのに、その美しい笑みの所為で、さも会話が成り立ってしまう様に思える。まるで毒のような代物だ。
浅海は思考までその悪影響に取りつかれないように、頭をぶんぶんと振ると、無理矢理彼女の話に割って入った。
「あの」
「なぁに?」
一段と甘ったるい声が返ってくる。だが浅海は、彼女が無駄話を始める前に話題を切り出すことに成功した。
「それで、結局ここはどこですか?」
「んん。あなた、知らないの」
初めて聞く低音と、しっかりした口調である。菫は形の良い眉をわずかに寄せて、知らないことを責める様な目で浅海を見た。
「この地は辰国の、それも兄上の所領よ」
「辰、国…」
やっぱり。そう発しそうになった言葉を。唾と共にごくりと飲み込む。
間違ってはいなかった。目的地に辿りついていたのだ。たったこれだけのことを確かめるのに、随分な回り道をした気がする。夢の中にいるような彼女のふわふわしたおしゃべりに付き合ったせいか、どっと疲れが出て来た。
菫は、黙り込んだ浅海を胡散臭そうに見ながらこう続けた。
「そしてここは兄上のもの。それを知らない者が、どうしてここにいるの?」
「道に、そう、道に迷ったのです」
随分苦しい言い訳だが、浅海は割り切ってきっぱりと答えた。
「私は、ここより遥か西の国からやってまいりました。故郷は戦火の絶えない地。私はそれに耐えきれなくて。それで逃げ出して来たのです」
何事も初めが肝要だ。ここを逃してはいけないと直感がそう教えていた。辰国に入り込み、信用を得られなければ、話は一つも進まない。
値踏みするような視線が頭の先から爪先まで、じっとりと走る。浅海は下唇を噛むと、俯いて顔を陰らせ、表情を悟らせないようにした。決して偽りを見抜かれてはいけない。
「あなた、家族は?」
「ついこの間、戦で亡くしました」
尋問のような問いに、感情を押し殺した苦しげな声色でそう答える。そして、これ以上は話したくないという空気を最大限に醸し出した。
「そう」
浅海の意図が伝わったのか、菫の方でも質問は打ち止めにしたようだった。彼女は一言そう告げると、前触れもなくその白い腕をこちらに伸ばして来た。何事かと体を固くした浅海の目尻に、ぴやっとした感触が走る。
「泣かないで。私はあなたの味方よ」
そう告げる口調には、元の柔らかさが戻っていた。彼女は自分こそ泣きそうな顔をしながら、浅海をじっと見つめて来る。
「私は先代の長の娘。私も両親は既にないの。だからあなたの気持ち、よくわかるわ」
「ありがとう、ございます」
「元気を出して。私にできることならいくらでも手を貸すわ」
彼女はそう言いながら、その細く白い指で浅海の頬をそっと撫でてくれた。人の温もりに、昨夜からの寂しさが一気に限界を超えてしまったようで、瞳には本当に水滴が溜まる。もう一度、ありがとうという言葉が零れたが、これは掛け値なしの本音であった。
「そうだ。あなたが嫌でないなら、ここで一緒に暮らしましょうよ。そうすれば少しは気も紛れるし、辛いことも忘れられるかもしれないわ。ね、そうしましょう。あ、ええと」
「浅海です」
偽りを言うべきだったのかもしれない。けれど、とっさに口を衝いて出たのは本名だった。彼と同じ文字を持つ名前だけは、どうしても偽ることが出来なかったのだ。
菫に連れられるまま、浅海は森を進んだ。既に夜の帳は下りている。菫の灯す松明の光で足元は良く見えたが、進行方向にはただ闇があるだけだ。
これからどうなるのだろう。上手く潜り込めるだろうか。それとも間者と見破られて処刑されるのか。浅海は不安を紛らわそうと皮の手綱をぎゅっと握った。そのせいで息が苦しくなった相方は、ひんっと小さな悲鳴を上げる。
「どうしたの。馬が苦しそうよ」
馬の荒い息を思い切り吹きかけられた菫は、勢いよくこちらを振り向くと、ほんの少し不機嫌気味にそう告げた。浅海は頭にあった懸念を振り払うように、とっさに首を左右に振った。
「いいえ。何でもありません」
死ぬのが怖くて思わず力が入ったなど、口が裂けても言えやしない。当たり障りのない回答を返そうと、浅海は強張った愛想笑いを作り上げた。
「ちょっと疲れてしまって。ずっと休み無しだったから」
事実であるが、多少大袈裟に言ってみる。すると、菫はぐいっと松明を浅海に突きつけると、それを持つように告げた。
「はい、これ。私がそっちを代わってあげる」
貸してといって手を伸ばしてきた菫は、半ば無理矢理松明を浅海に押しつけて、手綱を奪いとった。大丈夫よ、というも彼女は一切聞きいれてくれない。
「気にしない、気にしない。浅海は大変な思いをしてきたんですもの。ね」
菫はそう言うと、癖なのか、首を右に少し傾けて見せた。橙の明かりに照らされているせいか、その仕草はさっきよりもぐっと大人っぽい。そして女の浅海ですらどきどきしてしまうような色気があった。
「こういう時は素直に甘えておくものよ」
「あ、ありがとう」
「私をもっと頼っていいのよ。兄上にもいろいろ頼んであげるから」
文句のつけようのない美しい笑顔でこう言われては、首は縦の動きをするしかない。浅海はもう一度、ありがとうと告げた。
菫に連れられて到着した場所は、松明で照らされた円形の広場だった。ぐるりと周囲をめぐる大木のそれぞれに、人が持つにしては大き過ぎる松明が掲げられており、ここだけ昼間のように明るい。
「さぁ。辰国へようこそ」
ふわっとした挨拶文句を告げた彼女は、可愛らしく小首を傾げながら、右手で中央辺りを差した。
「菫っ」
彼女の口上が終わるやいなや、驚くほどの大声が辺りに響いた。広場に屯していた者達の中の一人がこちらの姿を認めるなり、そう叫んだのだった。彼は勢いよく浅海達の方に走り寄って来て、菫の両肩をがっと掴んだ。
「馬鹿者。どこに行っていたのだ」
「あの、ちょっと、お散歩に」
「こんなに暗くなるまでか」
一方的に責められるうちに、菫の元気は急速に萎んでいく。彼女はしどろもどろになりながら、ひたすら言い訳を続けていた。
「だって…今日は、兄上は神殿に行くって」
「だからって、お前がこんな遅くまでふらふらしていいことにはならないだろう」
「でも」
「でも、じゃない。全く私がいないと」
青年は心底呆れたようにそう言うと、さっと前髪を掻き分けた。と、そこでようやく浅海の存在に気が付いたようである。菫と顔立ちがよく似た美しい青年は、驚いたように目を見開くと、菫と浅海を交互に眺めた。
「あなたは?」
「彼女はねぇ、浅海っていうのよ。西から逃げて来たの」
「西?」
「うん。戦から逃げて来たの」
青年は妹の言っていることを、半信半疑で受け止めているようであった。それはそうだろう。浅海だって、こんな不思議な娘の言い分はまともに受けられない。
「戦で家族も友達も皆失くしたって。寂しいんだって」
そんなことまで言っていない。思わずそう突っ込みそうになったが、彼女がこう言ってくれている以上は、それに乗っかってしまった方が良さそうだ。
「菫さんのおっしゃる通りです。私には身寄りも故郷も…」
浅海はそう言うと唇を噛んで俯いた。瞳からは本物の涙も零れ落ちる。決して偽りではない。浅海にはもう帰る場所は無いのだ。
「そうですか。それは辛い目に会いましたね」
青年はそう言うと、痛ましげな顔をして見せた。作りものなんかじゃない、彼のその表情に、浅海の心は更に熱くなってくる。
「ここは辰国。龍神とそれに仕える巫女が治める平和な国です。あなたさえ良ければ、どうぞゆっくりなさってください」
耳に心地良い、どこか懐かしい声だ。彼が浅海の境遇を心底可哀そうに思ってくれているのがひしひしと伝わって来た。
それから浅海が案内されたのは、辺りでは一際大きな屋形であった。その規模からは有力者のそれであろうと察しがついたが、何と言うか、厳めしいというよりは古ぶるしい。浅海の知っている東国での一般的な屋形に比べて、随分と雑な造りだ。
やたらと大きな屋根を支えるためなのか、壁には大小様々な石が嵌め込まれており、地面より少しだけ高めに作られている入り口には、ひどく段差のない階段がかけられている。その両脇には篝火が灯されていたが、よく見れば岩をくり抜いた割れ目に松明が突っ込まれているだけだ。
「ね。立派でしょう。ここはね、元々父上の居なの。少し前まで私もここに住んでいたのよ。本来なら兄上のものなんだけど、今は別の人が暮らしているわ」
菫は語尾を少しだけ不満そうに言ったが、すぐにくすっと微笑んだ。そして先を進む兄の後を追って、三段の階段を昇る。浅海もきょろきょろしながら彼女に続いて中に入った。
正面に座っていたのは、三人の男だった。彼らの右手側左手側には、それぞれ三人ずつの男女がいて、軽く頭を垂れていた。風格からして、おそらく正面真ん中の男が長だろう。菫の兄は何の躊躇いもなく、長の前で腰を下ろしたが、菫は入ってすぐの布の上に膝を合わせて座った。
「娘よ。菫の隣へ」
どうしていいかわからずに入口でおろおろと立ち尽くしていた浅海を、長と思しき男は、やたらと重々しい口調でそう促した。その間、菫は真っ直ぐに前を見据えたままで、こちらを見向きもしない。
「名は何と言う?」
「浅海と申します」
「アサミか。我はこの国の長、
白髪混じりの短髪に太い眉。容貌だけで充分こちらを威圧する貫禄があるというのに、野太い声で更にそれを強めている。浅海は委縮しながら答えた。
「西から、だと思います…」
「はっきりせんのか」
長は顎に手をやりながら訝しげな顔をすると、細めた目でこちらを値踏みするように見た。
「ほほう」
そう言ったきり、黙り込んでしまった長に代わって口を開いたのは、彼の横にいた男だった。その太い通る声に浅海は思わずびくっとする。
「情けないぞ、父上。正直に言えばいいだろう。おい、娘。我らはそなたを他国の間者と疑っている」
彼は、長をだいぶ若くしたような面立ちであった。頬にある大きな傷跡が恐ろしげだが、よく見れば表情自体は柔和なものだ。
「我は長の長子、
彼はそう言うと、浅海をじっと見てきた。こちらの心中を探り、嘘を見破ってやろうと言わんばかりの視線を無遠慮に注いでくるが、真実を問い質したいにしては賢いやり方ではないだろう。この状況で自分が間者であると打ち明ける馬鹿はいない。そして浅海は、奈須の間者ではなかった。
浅海は心を決めると、原矢をまっすぐに見返して、大きく首を横に振った。
「いいえ。私はそのような者ではありません」
心臓の鼓動は、部屋中に響いているのではないかというほど大きく聞こえる。
「私はただの村娘です」
「真か?」
「はい」
気を張り過ぎたのか、浅海はつい声が大きくなってしまった。それが気に入らなかったのか、原矢は少し口調を強める。
「疑わしいな。そなたが間者ではないという証拠はどこにもないぞ」
「もういいだろう」
そこで突然、今まで口を閉じていた菫の兄が口を挟んだ。
「長、原矢。私はこの娘は嘘を申していないと思う」
「なぜだ?」原矢は彼をじろりと見ながら、苛立たしげに問う。
「この娘はどう見てもただの娘だ。大体、落馬するようなものが間者になれるものか」
「甘いな、
「策なら、尚の事。もう少しまともな者を遣すだろう。それに彼女の怪我はわざとつけられるような代物じゃない」
「しかし、もしこの者が厄介事でも抱えていたらどうするつもりだ」
さらりと言ってのけた樹に、原矢はしつこく詰め寄った。どうも彼の中にある疑いは、そう簡単に晴れそうにないようだ。
「何かあってからでは遅いんだぞ」
「それはわかっている。けれど原矢だって本心ではそう思っていないだろう。本気でそんな心配をしているなら、姉上に伺いを立てるはずだ」
樹の言葉に、幾人かは首を縦に振り彼に賛同するような風を見せた。原矢は苦虫を潰した様な顔をしていたが、隣にいる長は尤もだと言うように大きく頷いている。
「まぁよい。アサミ、そなたしばらくこの村で暮らしてみるがよい」
「父上」
原矢は慌てて抗議の声をあげる。長はそれを押留めるように手を振った。
「原矢。お前が国のことを考える気持ちはよくわかる。しかし、この娘を見ろ。こんなに可愛らしい娘が何の害をもたらすというのだ」
「だが…」
「もし本当に危害を及ぼすものならば、我らが手を出すことも無い。龍神の怒りがこの者に下るだろう」
龍神の怒り?一体何のことだろうか。不思議に思ったが、それを問う事はやめた。これ以上の余計な詮索は藪蛇だ。
長は腕を組みなおすと、それまでよりずっと軽い口調でこう告げた。
「決まりだ。樹、菫。今日よりしばらく、お前達がこの娘の面倒を見よ」
「わかりました」
菫は、如何にも上辺だけの嬉しそうな声でそう言った。けれどちらっと彼女を見れば、その目が笑っていない事は一目瞭然だった。最初に会った時の、あの柔らかい雰囲気は何処にも見られない。
長はそんな彼女の態度など全く気にせず、ほんの少し口角をあげてにやりと笑った。
「誰か気に入った者がいれば一緒になるがよい。それまではこの我侭娘の世話を頼もう」
夏が過ぎ、景色は次第に褪せた色に染まりだした。山の生活だけあって、季の進みは東国よりもずっと早い。夏の暑さからはあっという間に気温は下がり、肌寒いと感じる日も多くなった。
浅海が菫と共に住み始めて、もう一月あまりが経っていた。多少の悩みはあるものの、ここでの生活は思ったよりも快適だった。面倒見の良い大人達も親切にしてくれたし、同じ年頃の友達も出来た。皆、何かと新参者の浅海に気を遣ってくれたが、浅海は出来るだけ人に甘えないように努めていた。
自分の生活は自力でどうにかする。この国に受け入れられた時、そう決めたのだ。
人付き合いはそんなに得意ではなかったが、何とか村に溶け込もうと浅海は自分なりに努力してきた。畑仕事はもちろん、山に入っての果物狩や洗濯など、村の女たちがこなす仕事は進んで手伝ってきたし、何かあれば積極的に相手に声をかけた。もちろん文化や作法は大分違っていて戸惑うことも多いが、教えられたり学んだりを通して、だんだんこの国も習慣も身についてきた。それもこれも、樹が全面的に浅海を支援してくれたおかげである。
この日も浅海は、近くの女達に誘われて森へ薪拾いに行っていた。彼に声をかけられたのは、その帰り道だった。
樹は浅海の帰りを待っていたかのように、通りの途中に一人で立っていた。一緒に歩いていた者達は含み笑いを浮かべながら、一人また一人と足早でその場を去っていく。ついには、浅海一人がその場に取り残され、二人きりとなった。
「元気か」
優しくそう尋ねる彼の手の中には、一輪の花があった。浅海がちらりとそれを見ると、樹はそっと手渡してくれた。
「ありがとうございます」その小さな花を受け取り、浅海は礼を述べる。
「似合うよ」
樹は少しばかり頬を赤らめながらそう言った。その少年のような表情に、浅海の顔も緩む。ここに来てから、彼の纏う穏やかな空気にどれほど癒されただろう。浅海は心の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
他愛もない話をして、軽く笑い合う。二人の歩調は自然と合い、いつしかどちらからともなく遅くなっていた。夕陽に伸びる影はさも親しげに重なって見える。
こんなところを見られでもしたら、また面倒な事になるに違いない。浅海の頭をそう嫌な予感が過ぎた。
「どうかしたのか?」
心配そうに問われ、浅海は小さく首を横に振った。何でもないと曖昧に微笑んでごまかしたが、樹は不審そうな顔をしていた。
「何か悩みがあるのか?あるなら打ち明けて欲しい」
樹は真剣な眼差しを浅海に向けた。だが、優しい彼に告げ口のような真似はしたくない。浅海はめいいっぱい明るく言った。
「いいえ。本当に何でもありません」
樹はそんな浅海に安心したのか、微笑みを返してくれた。浅海はそれを見てほっとしたが、この後に起こるであろうことを思って、内心では盛大なため息を吐いた。そろそろ穏やかな時間も終わりを告げる。そしてまた厄介な彼女の相手をすることを思うと、なんとも気が滅入った。
菫の屋形が視界に入るなり、浅海の考えは的中した。
鼻にかかった様な甘え声が前方から響き渡り、ぱたぱたとかわいらしい足音が近づいてくる。彼女は大きく手を振りながら、一目散に兄の傍に駆けつけた。
「お帰りなさぁい」
菫は機嫌良くそう告げて、樹の腕にまとわりついた。そんな妹に苦笑しながらも、樹は幼い少女にするように簡単に頭をなでてやる。ほんの少しでも、菫が二人を待っていたと考えた浅海は自分の浅はかさを思った。彼女が浅海のために出迎えるなど、絶対にありえないというのに。
「ねえ兄上。今日こそは一緒に夕餉をとりましょうよ」
浅海の存在など頭にないように、菫は甘えた声を出した。自分だったら絶対に出来ない真似事だ。兄にこんな風に甘えたことはなかったし、したくもない。
「残念だけど、またにするよ。今日は用事があるんだ」
樹はいつも通りの文句で菫にそう諭した。
意外なことに、妹に甘い彼が菫のこうした要求に応えることはほとんどなかった。その理由はわからないが、もしかしたら国の掟か何かがあるのかもしれない。 日が暮れてから彼が菫の屋形に留まったのは浅海が来た時、一日だけだ。
「いつもそう。ねぇ、たまには良いじゃない」
菫は尚もしつこく食い下がったが、樹はそれを優しくかわして自分の屋形へと向かってしまった。それを寂しそうに見送った菫は、不機嫌そうにさっさと家の中に戻っていく。いつものこととはいえ自分には一言も声をかけない彼女に、浅海は大きくため息をついた。
「菫。これ、今日採ってきた果物よ。良かったら食べない?」
彼女の後に続いて屋形に入った浅海は、出来るだけ軽い口調で話しかけたが、菫は浅海の方を向きさえしなかった。樹が彼女の要望を叶えなかったことで腹を立てているのであろう。こうなったら最後、しばらく機嫌を直さない。
菫が親切にいろいろ気を配ってくれたのは、ここに来てからの二日ばかりだけであった。出会った当初のあの愛くるしさはどこへやら、最近はその片鱗すらも見られない。と言うよりも、もはや完全に別人にしか思えなかった。
目に見えて悪くなる彼女の態度に、最初のうちは嫌われまいと色々手を尽くしたが、今はもうやめていた。菫は常識では考えられないほど我侭なのである。少しでも嫌なことがあれば、とにかく周りに当り散らすし、自分の望みが通るまでは頑なに態度を改めない。そうして不機嫌を貫き通すものの、何かのきっかけでぱたりとそれも止む。いちいち付き合っていたら、こちらの気がおかしくなってしまいそうだ。
浅海が一月で匙を投げた一方で、菫に長年側近く仕えているウタは、彼女のそんな態度を当然の事として受け入れていた。どんなに当り散らされようと何の文句も言わないのだ。その姿勢が、菫をここまで助長させてしまったに違いない。
「ねえ、浅海。何もあなたまでそんなになるまで働くことはないのよ。兄上に頼めば、充分に生活していけるじゃない」
水を飲んでいる浅海の横で、彼女は眉間に皺を寄せ、腰に手を当てて、突然説教を始めた。その口調はさっき樹に甘えていたのと同じ人物とは思えない。
浅海は口元を手の甲でさっと拭うと、すぐさま切り返した。
「でも、ここにおいてもらっている以上、最低限のことは自分でやるべきでしょう。それが当り前じゃないかしら」
「当り前ね…まぁ、居候のあなたはそうでしょうね。わかっているとは思うけど、私は先代の長の娘なの。みっともない姿なんて周りには見せられないのよ。もちろんこの家もよ。どうしても泥にまみれたいというなら、せめてもう少しきれいな身なりにしてから戻ってきて欲しいわ。この家の主は私なんだから、もっと気を遣ってちょうだい」
随分手前勝手な言い分を繰り広げてはいるが、相手は菫だ。浅海はあまり刺激しないよう、さらりと答えることにした。
「ごめんなさい、これからは気をつけるわ」
波風を立てないようにと素直に謝ったのだが、何かが気に入らなかったらしい。菫は次から次へと言いがかりをつけてきた。
「…あなた本当に自分の立場がわかっているの?大体、みんなあなたに甘いのよ。聞いたわよ、畑には出てるけどそれだけだって。みんなが一生懸命仕事してる中一人だけ手を抜いたり、のんきに鼻歌を歌ってたんですって」
あまりの言い分に、さすがに怒りを堪え切れなかった。浅海はむきになって言い返す。
「誰がそんなこと言ってたのよ」
「誰だっていいじゃない。言われたくないのならば態度を改めることね」
「ただ囲われているだけのお姫様に何がわかるのよ。大体あなたは何様のつもりなの?そんなに偉いのかしら」
浅海が嫌味ったらしくそういうと、菫は怒りの表情をあらわにして怒鳴った。元々顔立ちがとても愛らしいため、そういう顔は全く似つかわしくない。
「誰のおかげでここに暮らしていられると思っているの」
「それは、あなたには感謝している。でもそれとこれとは話が違うでしょう」
「同じよ。私が助けてあげた恩をあだで返すつもりなの」
「そういうつもりはないわ。最初から最後まで言わないとあなたには理解できないのかしら」
「何よ、その言い方。何か不満があるのなら今すぐここを出て行けばいいじゃない」
「言われなくてもそうするわ」
屋形から充分離れたことを確認して、浅海は大きなため息をついた。
先程の子供じみた態度に自己嫌悪に陥る。言い過ぎてしまったのかもしれない。けれどそれは菫だって同じだ。
「機嫌を伺ってばかりいたら、こっちが病気になっちゃうわよ」
うんざりした気持ちを晴らそうと空にそう呟いた。膝を抱えて座り込んでいると、ふと横から優しい声が聞こえた。
「こんなところで何をしているの。菫様と喧嘩でもしたのかしら」
ユキはくすくすと笑いながら、浅海の隣に腰を下ろした。彼女はこの国で出来た一番の友人だ。年は彼女の方がいくつか上であったから、姉妹のように親しくしていた。
「喧嘩というより、絶縁かしらね」
自嘲気味にそう告げると、彼女は穏やかに微笑んだ。
「まあ、あの方の我侭は今に始まったことではないから。一月も共に暮らせたことが奇跡に近いわ」
「限界よ。もう、あんな所にはいられない」
「あらあら。じゃあ、これからどうするの」
「わからない」浅海はそう言って、膝に額をくっ付ける。
「とにかく…今夜はうちにおいで。どうせ誰もいないし」
「母君は戻らないの?」
「母が戻るのは儀式のときだけよ。それ以外のときはずっと一人」
彼女はほんの少し寂しげにそう言った。
同年代で気の置けない友とはいっても、出会ってからの日はまだ浅い。彼女のことも多くは知らなかった。しまった、という顔をしていた浅海の肩を彼女がぽんと叩く。
「気にしないで。いずれは私も母の跡を継ぐわ。そうしたら私も自分の子に寂しい思いをさせることになってしまう。寂しさを知っていれば、その分子供の気持ちをわかってあげられる。そう思わない?」
彼女はそう話すと、勢いよく立ち上がって浅海に手を差し伸べた。
ユキの居心地の良い家で一夜を明かした浅海は、辺りの騒々しさで目を覚ました。
「何事かしら?」
外に飛び出すと、長の屋形の辺りに人だかりがあるのがわかった。手早く身支度を整えて駆け寄ってみると、そこには見慣れぬ一団がたむろしており、楽しげに談笑していた。彼らは皆、ぼろぼろというに相応しい布を身に着け、その上に甲冑のようなものを纏っている。その姿からすると、おそらく武人であろう。物珍しくてきょろきょろしていると、輪の中心部にいたうちの一人が声をかけてきた。
「おう、ユキ。久しいな」
「
彼女が嬉しげに返事をした相手は、いかにもといった体つきの男だった。腕にも頬にもいくつもの傷跡があり、一見すると百戦錬磨の将に思えたが、よくよく見ればまだ表情の所々に若さがある。おそらく年のころは浅海達より少し上な位だろう。 男は太い声でユキに話しかけた。
「今から帰還の挨拶だ。少し待っていてはくれないか」
「ええ、でも」
ユキはそう言うと、ちらと浅海を見た。男は彼女から視線を動かすと、まじまじと浅海を見分する。
「誰だ、この娘は?」
「浅海よ。森で行き倒れになっていたのを、菫様がお助けになって」
「また菫か。あれは厄介ごとを引き込むのが性分なようだな」
「厄介なんて言い方はしないでちょうだい」
彼の大声につられたように、ユキの声も大きくなって、普段より少々きつめに聞こえる。
「浅海は私の大切な友達よ」
「おお、すまなかった」
火明はあっけらかんと言うと、豪快に笑った。そんな彼の様子を見ているユキの顔は驚くほど輝いており、一目で彼が彼女にとってどういう存在なのかが見て取れる。
浅海は気を利かせてこの場を少し離れようと思い、後ろを振り向いた。しかし運悪く、ちょうどそこには昨夜の怒りがまだ冷めやらないような顔をした菫がいた。 浅海も少し顔を歪めたが、彼女も昨夜にもまして不機嫌そうに睨んできた。
菫は腹立たしくなるほどあからさまに浅海から目をそらすと、つんとしながら樹の屋形へと向かった。その存在に気付いた何人かの兵達が、慌てて膝をついて礼をとり始める。やや年かさの男が彼らを代表するように歩み出て言葉をかけたが、彼女は返事をするでもなく、足早に屋形の中へと姿を消してしまった。兵達はそれを見届けると何事もなかったかのように、再び体勢を楽にしたが、そのあまりにもそっけない態度に浅海は腹が立って仕方がなかった。
「なによ、あれ」
「気にすることはないわ。彼女は軍が嫌いなの。あんな野蛮な者達とは口も聞きたくないってよく言っているわ」
ユキにそう言われても、簡単に納得は出来なかった。呆れて言葉も出ないとはこのことだ。浅海に対してだけでなく、皆へあれだけの態度をとっているというのに、誰も何も言わないのは、彼女がやはり先代の長の娘であるからだろうか。
樹や菫が、当代の長とも血縁関係があるらしいことは何となく知っているが、彼らをめぐる人間関係はまだ良くわからない。あまり詳しく聞くことも憚られて、その辺りは曖昧なままだった。
「どうかした?」
ぼけっと考え込んでいるのを不審に思ったのか、ユキにそう声をかけられた。 が、その視線はちらちらと火明に向けられていて、なるほどと事情を察した浅海は意味有り気にこう告げた。
「ごめんなさいね。私は先に戻らせていただくわ。あとは、ごゆっくり」
こちらの意図に気付いた彼女は、さっと顔を赤らめて浅海を軽く小突いた。
「変な気はまわさなくていいのよ」
「お邪魔虫は退散します」
そう言って離れたそばから、背後から聞こえてきた二人の会話に浅海の心はざわついた。無意識のうちに、彼らにかつての自分達の姿が重なっていく。
名を呼ばれ、振り向いたところを抱きしめられる。当たり前だった行動なのに、今では願ったところで叶わない。
「浅海」
ぱっと顔を上げた浅海の目に一瞬映ったのは、間違いなく海里だった。けれどその虚像はすぐに消え去り、現実に目の前にいる樹の姿に変わる。
「何を驚いているんだい?」
海里とは全く正反対の柔らかな声音だ。何で間違えたのか、自分でも可笑しくなる。
「何でもありませんわ」
穏やかな微笑を浮かべる彼につられて、浅海も笑顔を向ける。が、次の一言でその笑みは一気に張り付いてしまった。
「…妹と仲違いをしたそうだが」
「菫から聞いたのですか?」
昨夜のやり取りがまざまざと思い返されて、浅海の口調は自然と固くなった。彼女が樹にありのままを話すわけがない。きっと散々に脚色されて伝わっているのだろう。何を言われたのかを考えるだけで、ずんっと気が重くなった。
「いいや。ウタからだ。あいつのお守りは大変だろう。随分迷惑をかけてしまった。もっと早く打ち明けてくれれば良かった、いや、気付いてやれなくてすまなかったな」
思っていたのと違う答えと謝罪を聞かされ、浅海は拍子抜けしてしまった。
樹は何も悪くない。ただ妹に甘すぎるだけだ。彼には申し訳なさを感じつつも、浅海はここぞとばかりに遠慮なく本音を告げることにした。
「私では菫の相手は務まりませんでしたわ。結局はこうして逃げ出してしまいましたから」
言い方がぶっきらぼうだったからか、樹は一瞬寂しげな顔をみせた。しかしすぐに元の表情に戻すと、不意に浅海の頬に手を触れてきた。思わず顔がかぁっと熱くなる。
「少し、やつれたな」
樹は心底心配そうに弱々しくそう言った。浅海は気分に任せて言いたいことを言ってしまったことを即座に反省した。彼は本当に何も悪くない。八つ当たりもいいところだった。おずおずとその目を見つめると、樹ははっとしたように浅海から手を離した。そして今しがた思いついたかのように話を切り出した。
「ああ、そうだ。今朝方、北へと遠征していた軍が帰還したのだ」
「それなら知っております。さっきユキが親しそうに話していましたので」
「ユキということは、相手は火明だな」
樹はいたずらを仕出かす子供のように、にやりとしてみせる。
「さあ、どうだったかしら」
浅海はわざと曖昧に答えたが、樹は今更とでも言うようにさらりと告げた。
「火明は、原矢の弟で優秀な武人だ。あの二人の仲を知らぬものなどこの村にはいないよ」
「ユキったら。何も教えてはくれませんでしたわ」
「その話は本人にじっくり聞けばいいさ。それより今晩、彼らの無事帰還を祝う宴があるのだ。もちろんお前にも来てもらいたいのだが、どうだろうか」
樹は言いながら次第に俯いてしまったため、最後のほうはくぐもっていてよく聞こえなかった。行ってよいものならば行きたいが、昨晩のことを思うと素直には頷けない。
「気持ちは嬉しいけれど、でも…」
彼は浅海の気持ちを察したのか、すぐに悩みを言い当てた。
「菫のことなら気にすることはない。それにあいつの方こそ来たがらないはずだ」
「そういえば彼女、軍が嫌いだとか?」
さっき知らされたことをそのまま問うと、樹はひどく驚いた様子を見せた。
「菫が自分で話したのか?」
「いいえ、ユキから少し聞いただけです」
「…他には何か聞いているか?」
樹は何かを思案するように目を細めた。浅海が答える代わりに首を横に振ると、彼はどことなくほっとしたような様子を見せた。そして近くなったらまた呼びに来るとだけ告げて、いそいそとその場を離れていった。
樹の侍女と思われる年若な少女二人の手で、真新しい服に着替えさせられ、髪を結われた浅海が出ていくと、待ち構えていた樹は、さっと顔を赤らめた。彼はそっぽを向きながらもごもごと何かを告げていたが、浅海が聞き返すと、何かを誤魔化すように咳払いをした。
「ほら、こっちだ」
樹はそう言って、浅海に手を差し伸べた。
手が触れ合った瞬間、どきっと胸が鳴る。けれどそれは愛しさや恥ずかしさのせいではなかった。海里の時とは明らかに違う。なんというか得体の知れないものへの恐怖の様な感覚だった。思わずひっこめたくなったが、彼を傷つける気がしてそれも出来ずに、緊張感に包まれたまま、大人しく彼の後をついていった。
そうして
周りよりも随分高い場所に設けられたそこには、大衆がひしめく下とは違って、酒や食べ物が整然と並べられていた。辰国での樹の身分の高さが伺えたが、そこで出されているものは、決して豊かではない佐間で用意されるものに比してもそれほど豪奢とは言えないものであった。
「おお、連れてきたか。久しいな。まあ飲め、飲め」
既に出来上がっているらしい原矢は、腰を落ち着けた二人に向かって、酒臭い息を吹きかける。お世辞にも整っているとは言えない彼の顔は酒の力で赤く染まり、一見すると恐ろしいほどだ。浅海が少し顔をしかめたのに気付いた樹は、気を遣って少し自分の方へ引き寄せてくれた。
「酒は飲めるか?」
「ええ。多少なら」
浅海がそう答えると、樹は杯に半分程度の酒を注いでくれた。すると途端に原矢が酒瓶の底を持ち上げて満杯にしてしまう。
「何をちまちまと。酒はこうして飲むものだ」
彼は手酌で杯をいっぱいに満たすと一気に流し込んだが、さすがにその飲み方は真似できそうにない。浅海はおそるおそる口をつけてみたが、あまり好ましい味ではなかった。
「無理をしなくていい、水ならここにある。それよりどうだ、この実は?」
樹は優しく微笑みながら、赤く熟れた果実を差し出した。ありがとうと告げると、彼は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「ほれ、浅海。樹に酒をついでやれ」
原矢はそう言って、浅海に酒の入った竹筒を無理やり渡してきた。がさつに渡されたせいで中身が激しく揺れる。零さないようにしながら軽く目配せすると、樹は慌てて杯を取って差し出してくれた。
「すまないな」
こうしてみてみると、樹はやはり綺麗な青年である。彼の整った顔立ちや少々細身のすらりとした体つきには、綺麗という言葉がぴたりと当てはまる。まあ隣にいる原矢が凡そそういった形容とはかけ離れている容姿だから、より強調されているのかもしれないが。
「何だ、俺の顔に見惚れているのか?」
呂律の回らない口調で的外れなことを言う原矢に、浅海は思わず顔を引きつらせた。そんなことは欠片も有り得ない。浅海はしれっと無視を決め込んで、彼から目を逸らすように、こちらとは真反対に設けられている桟敷へと視線を移した。
「あちらには、どなたがいらっしゃるのですか?」
今のところは誰の姿もない。だが装飾はこちらよりも数段華美で、一目で樹達よりも格上の人間のために用意された席とわかる。
「ああ。あれは」
「待て」
普通に答えようとした原矢を止めたのは、樹だった。その言葉で何かを思い出したらしい原矢は、不自然にあちらこちらを見ながら、今度は歯切れの悪い回答を寄こして来た。
「まあ、偉いお方がいらっしゃるのだ」
当然、納得のいかない答えだ。浅海は無知を良い事に、更に彼らを揺さぶってみた。
「でも原矢様も樹様もこちらですし、長は先程から下に居りますわ」
浅海がぶつけた問いに、樹は黙りこくり、原矢は野生動物のような唸り声をあげた。そんな彼らの様子に、ふっと寂しさを感じてしまう。所詮自分は余所者、彼らの態度はそう言っているようだった。聞かなければよかったのかもしれないと後悔したが、もう遅い。
「すまない…時が来たら話そうと思っていた」
気付かぬうちに暗い表情となっていた浅海に、樹は呟くようにぽつりと答えた。
「姉に会わせるのはもう少し先にしたかったんだ」
姉? そう聞き返した浅海に、樹はしまったという顔をした。
樹の姉ということは、すなわち菫の姉でもあるはずだ。しかし菫は自分の家族は兄しかいないと言っていた。浅海の問いを合図に、三人は誰からともなく押し黙ってしまった。
「もういいだろう、樹。覚悟を決めろ」
しばらくして、何も言わない樹の代わりに原矢が口を開いた。樹は困ったような顔をして見せるが、原矢は首を横に振った。
「お前もそのつもりで、浅海を連れてきたんだろう。俺はそろそろ下で飲むよ」
原矢はそう言うと、さっさと大勢がひしめく中へと乗り込んでいってしまった。再び二人に気まずい沈黙が訪れる。浅海はちらりと樹を見、おずおずと話しかけた。
「ごめんなさい。何か余計なことを聞いてしまったようですね」
「いいや、いいのだ。話しておかなかった私が悪い」
でも、といいかけた浅海を制して、樹はやわらかく微笑む。
「あちらには私の姉が座すことになっているのだ。姉は辰国ただ一人の巫女であり、龍神を静めるという大役を戴いている」
「姉上って。でも、菫は一言もそんなこと言っておりませんでしたわ」
浅海が驚いて聞き返すと、樹は大きなため息をついた。
「事実を認めたくないのであろう。妹は姉を強く憎んでいるのだ」
菫のことである、またつまらないことで意地を張っているのかもしれない。しかし樹の口ぶりからするとそんなに単純なことではないように思えた。どちらにせよ、それは内輪の話であり、他人に聞かせるべき話ではないのであろう。
「巫女…ですか」
そう口にしながら、頭の中ではかつての師を思い出していた。彼女とはもう二度と会う事はできない。そのことを考えると、今でも胸の奥がじんじんと痛む。
「…姉は普通の人間じゃない。彼女が姿を見せるのは、儀式のときか戦に出るときのみだ。それ以外は山の奥にある神殿で暮らしている」
「巫女様が戦に出るのですか?」
「この国で、姉に勝てる武人など一人もいない。一番の側近の火明とて、足元にも及ばないだろう。姉が目の前に現れるだけで大抵の人間は尻込みをするさ。彼女のまとう気迫には異常なほどの凄みがあるからな。私とて姉に会うのは月に一度あるかないか。久しぶりに会うときは声を出すことさえためらわれるよ」
「そんなにすごい方ならば、一度お目にかかりたいですわ」
浅海が好奇心からそう言うと、樹は顎に手を当てたまま、大きく息を吐いた。何かを思いつめるような真剣な瞳からは、彼がひどく緊張しているのがわかる。
「会いたいか?」
「え、ええ」
気圧されるように浅海はそう答えた。
「姉は滅多なことがない限り人に会おうとはしない。だが、そろそろ浅海の事を報告する時機だろうな」
樹が何を言わんとしているのかがわからずに、浅海は小首を傾げた。樹は一度目を閉じ、深呼吸してから、じっと浅海の目を見つめた。
「この国には出自の異なる者も多少は、いる。だが、やはり一度巫女に伺いを立てる必要はあるんだ」
「…もしや、樹様がそれを先延ばしに?」
樹は小さく頷いた。それを受けて浅海は自分の立場について妙に納得してしまった。
この国を訪れた時に連れられて行ったあの長達との議の場。あれはやはり国としては非公式なもの、と言うよりは簡略化されたもので、そこに最高権威者である巫女の意は受けていないのだろう。
本来ならあの時に巫女へ報告が行き、浅海の運命はその場で決められるはずだった。処刑という選択肢もあったわけである。それを樹が一月の猶予をくれた。その間で浅海を見張り、観察し、怪しい動きがあれば即通告する予定だったのだろうが、そんな動きは見られなかったために、今日まで引き延ばされてきたのかもしれない。
「あの、ありがとうございました」
「私はお前を信じただけだ。礼を言われることはない」
樹は例の柔らかな笑みを浮かべてそう言った。菫同様の整ったその顔を見ていると、つい照れてしまう。浅海は頭を振って笑顔を返した。
「樹様は私を守ってくれました」
「…今後も護っていきたいと思っている」
樹は蚊の鳴く様な小さな声でそう言ったが、浅海には届かなかった。同時にユキが二人に話しかけたためである。
「失礼致します。樹様、巫女様からの御言付がございます」
ユキは桟敷の入り口で礼を取ると、よく通るはっきりした声でそう告げた。一人こっそりと熱に浮かれていた樹は、邪魔が入ったことで我を取り戻した。
「姉上から?」
「詳しい事情はわかりませんけれど…ただ」
ユキはそう言って浅海を見た。
「浅海もご一緒にと」
ユキは、浅海達を桟敷の裏手からずっと奥に進んだところにある小さな社へと案内した。
太い二本の木に守られるように作られているその社は、人が三人も入ればいっぱいになってしまいそうなほど小さなもので、入り口には男女がそれぞれ一人ずつ立っていた。一人は今朝方見かけた火明。もう一人は初めて見る顔であるが、穏やかな目元がユキによく似ており、彼女の母親であろうと察しがついた。
「あなたはここで待っててちょうだい」
ユキはそっと浅海にそう耳打ちし、女性とともに樹のみを中へと誘っていった。 手持ち無沙汰になった浅海は仕方なく火明の横に並んで立ってみるが、彼はちらと自分を見ただけで何も話しかけてはこなかった。浅海は気付かれないよう、こっそりと彼を盗み見る。
太い腕にはいくつもの傷があり、見るからに痛々しいが、かえってそれがこの男を屈強な武人らしく見せていた。体が大きくたくましいところは原矢の弟といわれても頷けたが、よく見ればそれなりの顔立ちで、その点で兄にはあまり似てはいないようだ。
浅海の視線に気がついたのか、彼は突然口を開いた。
「俺の顔に何かついているか?」
「いいえ、何も」
つい声が上ずってしまう。そんな浅海に彼は不快そうに言い捨てた。
「ならばじろじろ見るな」
「すみません」
浅海は反射的に謝ってしまった。悪い癖である。状況がわかっていなくても自分から謝罪してしまうのだ。こんなに素直に反応されるとは思わなかったのか、火明は少々呆気にとられたようで、彼なりに弱めた口調でこう続ける。
「何も謝らなくてもいい」
「あなたが怒ったのでしょう」
「怒ってなどいない」
言い返そうかとも思ったが、このまま話しても埒が明かない気がして浅海は口を閉じた。
遠目に宴のかがり火が見える。大分離れているためか、あの場の喧騒はここまで届いては来ない。宴の輪から離れてこんな暗がりにいると、樹から聞かされたことが急に怖くなった。彼が守ってくれなかったら、浅海はここにこうしていられなかったのかもしれないのだ。
気を取り直すように頭をぶんぶん振ると、ユキ達が消えて行った入り口に目をやった。彼らが奥に消えてからしばらく経つが、戻ってくる気配は一向に感じられない。中で一体何をしているのだろうか。浅海は小さなため息を漏らした。
「待ちくたびれたか」
突然火明が口を開いた。
「せっかくの姉弟水入らずの一時だ。今しばらく辛抱しておけ。いくら弟でも樹は戦に出るわけではないからな。そうそう星涙様には会えんのだ」
「星涙様?それが巫女の御名前ですか?」
聞いたことのない名にそう問うと、火明は呆れたような顔をした。
「お前、一族の巫女の名を知らなかったのか?」
「名前どころか、その存在すら今日初めて知りましたわ」
「なるほど、それでこの呼び出しというわけか」
火明は慌てて言い訳をする浅海に苦笑すると、自分の腕についている傷をなでた。
「あの方はこの国の巫女であると同時に、我ら武人にとっては一団を率いる将であり、武神のような存在だ」
「随分持ち上げるんですね。あなたの憧れの方なのかしら」
「笑わせるな。そんな陳腐なものではない」
火明はそう言って空を仰いだ。それはまるで天空に座す、神を崇める様な仕草だった。
「あの方自らが誰かを呼び出すなど、滅多なことじゃない。いくら戦に出ていたとは言え、お前の存在を今まで気付かなかったわけもないからな。今宵の理由は知らんが、星涙様のことだ。決して無駄なことは為さらない。覚悟しておくことだな」
きっぱりとそう言われ、浅海は急に寒気を感じた。出自がわかり、間者として処罰されるのかもしれない。そんなことが頭を巡り、嫌な汗が背中を伝う。浅海は身震いする身体を抱きしめた。
「戻ってきたぞ」
彼の声に顔を上げて社のほうを見ると、確かにユキと樹の姿が見えた。樹は目が合うなりこちらに駆け寄ってきて、何も言わずにいきなり浅海を強く抱きしめた。
「すまない。少し外してくれ」
樹はユキ達にそう告げると、浅海を抱く腕に力を込めた。抱きしめられる力が強くて少し息が苦しい。浅海は彼の尋常ではない行動に驚きつつも何とか問いかけた。
「樹様、どうされたのですか」
彼は何も答えない。
樹の温かな体をこんなに近くで感じるのは初めてだった。それに加えて、乱れた呼吸が彼の複雑な思いを代弁しているかのようでどうも落ち着かない。浅海はどうにか腕を振り解くと、両手で彼の顔を挟んでじっと見つめた。故郷にいた頃、泣き喚いた浅海自身がそうやってもらったように。
「黙っていたらわかりません」
切れ長の瞳の端がうっすらと濡れている。
樹様、と呼びかけてはみたものの、浅海はそれ以上何も言えなくなった。彼の瞳には何かを諦めたような空虚な色が映っていたのである。
「これを持っていけ」
もう一度浅海を抱きしめた樹は、耳元で微かな声でそう告げると、懐にずしりと重い短剣を滑り込ませてきた。何故と口を開きかけた浅海の唇を人刺し指で制する。彼は怪訝な顔の浅海をじっと見つめ、その手をとると、一言、油断するなと言い聞かせた。
浅海はユキの指示のまま、社に入った。小さな社と思っていたのはどうやら洞窟の入り口らしい。大きな岩に挟まれた小さな入り口には上から白い幕が垂らされている。
足を踏み入れた瞬間にひんやりとした空気を全身で感じて、浅海は思わず体を縮めた。足音が反響してやたらと大きく聞こえ、どことなく不気味である。浅海は硬直しそうな首を無理に回して辺りを見たが、ユキの持つ小さな火だけではほとんど何も見えない。
「怖いの?」
ユキがからかう様な声でそう尋ねた。小さな声であるはずなのに何倍もの大きさに聞こえる。
「そんなこと、なくはないわ」
浅海は正直に答えた。ユキはくすりと笑い、手にしていた明かりを浅海の目の前にかざしてくれた。
「ほら、よく見てごらんなさい。ただ暗いだけ、何もありはしないわ」
確かに洞窟には岩以外何もなかった。二人が歩いているところに至っては小石一つも落ちてはおらず、歩くにも何の危険もなさそうである。
「ここは祭りで使う仮の祭壇に向かう道。今はこの先に巫女様がおられるのよ、国中で一番安全な場所なんだから安心なさい」
「巫女の祭壇がこんな奥にあるの?」
「仮のものだけどね。巫女様がいつもおられる神殿ではないから」
ユキはそう言って明かりを足元に戻すと、再び歩き出した。
「私たちが巫女様のお姿を眼にすることが出来るのは祭祀の時くらいよ。普段は神殿で龍神に祈りを捧げているの。私も話したことは数えるほどしかないわ。まぁ軍事に携わるものや、長達は別だけれど」
「どんな方なのかしら」
「お会いになればわかるわよ」
ユキはそう言うと、浅海に向かって静かにするように合図をした。
彼女は持っていた明かりを横の岩の上に乗せると、何も言わないまま、浅海の衣服の乱れを直し始めた。何事かときょろきょろしてみると、前方にまた白い幕が垂れ下がっているのを見つけた。
「私の役目はここまでよ。巫女様に粗相をしないようにね」
ユキは緊張を解すかのようにわざとおどけてそう言うと、浅海の背中を強く叩いた。彼女の心遣いを無駄にしないよう、浅海は深呼吸をしてどうにか気を落ち着ける。ユキはそれを見届けると、凛とした声で奥に向かって声をかけた。
「お連れいたしました」
返事はなかった。けれどユキは構わずに布をくぐって中に入っていき、浅海もそれに続いた。
中は今までより横幅が狭い空間で、ユキが明かりを高く掲げて辺り全体を明るく照らすと前方に扉のようなものが見えた。その扉の横には女性が一人立っている。彼女が片手を挙げると、ユキは深い一礼を取ってその場を去ってしまった。声をかけようとしたが、あっという間に彼女の足音は遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなった。
一人見知らぬ女性と取り残された浅海はその場を一歩も動けず、ただただぼうっと立ち尽くした。
女性はそんな浅海を手招きすると、自分の近くに呼び寄せた。そうしてすぐ後ろの重そうな岩戸を開いた。ぎしぎしという音が鳴り響き、中からはえもいわれぬ香りが薄く漂ってくる。それは咳き込みそうな程に濃く、そして妖しげだった。
戸の向こうは思ったよりも随分狭くて、小さな明かりが二つあるだけだった。かなり薄暗くて、ぼやっとしか見えない。女性は明かりのうちの一つを手に取ると、暗がりでは全く目立たなかった更に奥のもう一つの戸を照らした。目配せでそれを開けるように命じられた浅海は、恐々と取手に手をかける。
岩戸を少しずつ向こうに押しやると、先程の香りが更に濃くなった。あまりの息苦しさに、げほっと咳き込んでしまう。その弾みで浅海はつんのめるようにして中に入った。
「では、これにて」
女性はそう告げると、そそくさと出て行ってしまった。
真っ暗な空間で、今度こそほとんど何も見えない。唯一確かめられたのは、視界いっぱいに幕が垂らされていること。そしてそのために、中の様子が全くわからないことだった。心細さとわけのわからない恐怖でどうにかなりそうだったが、浅海は何とか目をこらして幕の奥を見つめた。
心臓が恐怖に跳ね上がるのを必死に抑え付ける。緊張で乾く喉を潤そうと何度も唾を飲み込む。そうするうちに急に辺りが明るくなった。どうやら向こう側で明かりが灯されたらしい。篝火で照らされた人の影が、幕にくっきりと映しだされた。
「入れ」
決して低くはないが重々しい声が洞窟中に反響した。氷よりも冷たいその声に、浅海の身体は固まって動けなくなった。
「入れと言っている」
同じ言葉を繰り返され、ようやくはっとして、ぎこちない動きで幕をくぐった。 相手の姿を見ようとするが、身体が思うように動かない。何だか心が落ち着かず、鼓動はばくばくと早まるばかりだ。
「顔を上げろ」
そう命じられ、かちかちの首を時間をかけて少しずつ上に向けた。やっとのことで顔を上げた浅海の目には、一人の女性の姿が映った。
真っ白な装束に身を包んだ巫女は、目をそらすことも許されないような恐ろしいほどの美しさだった。浅海は呼吸も瞬きも忘れて彼女を見つめた。
絵に描いたような顔立ちとすらりとした体躯という姿形はもちろんのこと、放つ気配すらも研ぎ澄まされている。俗なものをはるかに通り超えた存在に思えた。どこか人間離れしているような、とにかくこの世にあってはならないような美貌だ。
ただただ彼女に魅入ってしまった浅海であったが、その姿を見つめているうちに、体温が失われていくような奇妙な感覚に支配された。彼女の放つ独特の気配で周囲の空気が張り詰め、身体の表面が痛い。
「お前、巫女か」
星涙は浅海を見るなり、少し驚いたように問うた。しかし凍りつくようなその視線に射すくめられ、浅海は固まったまま動けない。何か言おうとしても声が出てこない。腕を動かそうにも動かないのだ。すると彼女はおもむろに浅海から視線を外し、傍らの剣を手にした。
「答えろ」
浅海は勇気を振り絞って、どうにか震える声を絞り出した。
「昔、巫女様に仕えておりました。」
それを聞くなり、彼女は意味有り気な笑みを浮かべる。
「浅海と言ったか。生まれはどこだ」
「西の、」
一瞬迷ったが、偽りを口にした。けれど彼女はゆっくりと首を横に振る。
「私に小細工は通用しない。お前は西国の者ではない、そうだろう」
星涙は切っ先を浅海に突きつけると、苛立ったように問い詰めた。
直感で彼女との力量を悟った。たとえ抵抗を試みようと到底敵わない。剣が振り下ろされれば間違いなく自分の命はないだろう。そしてその冷たい瞳を見ればこれは冗談などではなく、本気であることがわかる。全身を冷たく嫌な汗が伝い、危険の警鐘を鳴らすが、為す術など何も思いつかない。
「答えろ。生まれはどこだ」
「東国の佐間でございます」
浅海はそう呟くと、初めて彼女の瞳を見た。深い闇のような黒い瞳の中には炎のような紅がちらついている。その鋭さに射すくめられ、浅海は再び凍りついた。星涙はそんな浅海の恐怖を弄ぶかのように嘲笑う。
「思った通りだ。お前は私を殺しに来た。いや、この国を滅ぼしに来たのだ」
「そんな、こと、は」
「私が怖いのか、それとも死が恐ろしいのか」
篝火に煌々と照らされる剣の切っ先が不気味に揺らめく。浅海はもう無我夢中だった。あまりの恐怖で何かがおかしくなったのか、星涙を睨み付けながら、拳を握り締めて歯を食いしばる。すると途端に全身に切り裂くような痛みが走った。
「ほう、私の縛を解こうというのか。できるものならやってみるがいい」
すると星涙はほんの少し目を細め、口の端に笑みを浮かべる。
助けて。
浅海は心からそう願ったが、星涙はそんな思いを嘲笑うかのように剣を頭上に振りかざした。切っ先の紅い光が、容赦なく自分に近づいてくる。
殺される、そう思った瞬間、緊張は極限に達した。何かを口走ったような気がしたが、それすらも一瞬の後には忘れてしまった。泣くことも動くこともできずに、浅海はひたすら自分の本能に身を委ねた。
しばらくして気が付いたときには、既に体は軽くなっていた。星涙を見やってみても特段の変化は見られない。だが、先程まで彼女が振り上げていた剣は無造作に床に転がっていた。
「縛をはね返したか」
星涙は静かに浅海を見つめながらそう呟いた。
何のことだろう。そう思ったが身体の異変のせいで、それどころではなかった。全身が鉛のように重く全く力が入らない。このままではまずい。そう思ったのを最後に、視界は砂嵐に閉ざされた。
何か冷たい感覚に、浅海はようやく我を取り戻した。はっと気がつくと全身はびしょ濡れで、目の前には空の手桶を持った星涙が憮然とした表情で立っていた。どうやら彼女に水をぶちまけられたらしい。星涙は床に手桶を置きながら浅海を見下ろした。
「気が付いたか」
その声にさっきまでの恐ろしさが思い出され、身体が自然と強張る。星涙は浅海の感情に気付いたのか、あっさりとこう告げた。
「安心しろ。もう、お前を手にかけるつもりはない」
そんなこと、すぐに信じられるわけもない。浅海は恐る恐る彼女の手元に目をやった。
何もない。件の剣は彼女の手を離れ、そばの壁に立てかけられていた。
「何故です?私を殺すのではなかったのですか」
浅海は硬い声でそう尋ねたが、星涙は目を細めただけで何も言わない。その代わりに手元に転がっていた竹筒を投げて寄越した。
「水だ」
計り知れない緊張と疲れのせいで、異常に喉が渇いている。まさかこの期に及んで毒殺はないだろうと、浅海は受け取った水を一気に流し込んだ。冷たさに胃の辺りがぎゅうっと締め付けられるようだ。
星涙はこちらを一瞥すると、おもむろに立ち上がった。篝火の台を手に取り、浅海の隣に置く。多少明るくなったせいで、少しだけ気分が落ち着いた。彼女も表情こそ穏和とは言えなかったが、その振る舞いについては先程よりはずっと棘がない。
不意に妖艶に笑んでみせた星涙は、はらりと落ちる黒髪を無造作に払った。その様はやはり溜息が零れるほどに綺麗だ。彼女は明かりに照らされる浅海をまじまじと見つめると、意外にも嬉しそうな声でこう言った。
「私の縛が破られたのは初めてだ。着いてこい」
外は夜明け前のようでまだ薄暗かった。日が出ていないせいか肌寒く、浅海は自然と身を縮めた。朝特有の凛とした空気は好きだったが、これは少し寒すぎる。
星涙は道なき道をさっさと進み、浅海は必死にその後を追った。幾度か見失いそうになったが、彼女はそんな浅海に構うことなくどんどん先へと進んでいく。
そのうちに夜が明け、眩しい朝日が差し込んできた。光に照らされる森林は柔らく輝いて、気分が洗われていくような清清しさが体中に広がったが、それも長くは続かなかった。次第に森林は深くなり、日の光など全く届かなくなってしまったのである。
そこでようやく、ここがただの場所でない事がわかった。単なる鬱蒼とした深い森とは何かが違う。異常に気味が悪い。樹木はそれ自体が結界を創るように隙間なく繁り、まるで何かを封じ込めているようだ。加えて、星涙から醸し出されるぴりぴりした雰囲気が、辺りの空気と混じり合って肌を突き刺してくる。闇の中を進んでいるように思えて、気分は見る見るうちにどんよりと滅入ってきた。
「水の音」
しばらくして聞こえて来た音に、誰に言うわけでもなく浅海はそう呟いた。どこから聞こえてくるのかは定かではないが、確かに水の流れる音が聞こえる。歩みを進めるうちに次第にその音は大きくなり、ついには轟音となって耳に響いてきた。 更に行くと、その前方には篝火の灯された小さな社が見えた。
そこは洞窟の入り口よりもずっと小さな社であった。女性二人が入っただけで窮屈だが、造り自体はきちんとしていて、奥には小さな出窓もある。何気なくそこから外を覗いてみた浅海は、予想だにしない景色に小さく悲鳴を上げた。
「ここ…ここって、崖、の上…」
慌てふためく浅海に、星涙は冷たい視線を注ぐ。
「それがどうした」
「危なくないのですか」
「馬鹿者。ここは龍神の力により守護される神域、どこよりも神聖な場所だ。お前はここで待て」
星涙はそう命じてさっさと社を出ると、元の道を更に奥に進んで行った。一人残された浅海はしばらく呆然としていたが、怖いもの見たさにもう一度窓に近づいてみる。
やはり間違いない。ここは崖の上だ。反対側には、これまた物凄い滝が勢いよく流れていた。相当な高さのようで、水はおそろしく激しい流れで真下へ落ちていく。あまりの高さに足は竦み、鳥肌が立ってきた。
もしこの小さな社が崩れ落ちようものなら、間違いなく自分はこの激流に飲み込まれてお終いである。少しでも安全な場所へと後ずさりしたその時、ふと滝の下に橙の明かりを見つけた。
「あれは?」
怖さと好奇心を秤にかけた結果、勝ったのは後者だった。浅海は一度目を瞑って覚悟を決めると、壁沿いにそろそろと窓に身を寄せた。
どうやらあの明かりは儀式に要する篝火のようである。それらに囲まれるように祭壇が設えおり、星涙がその真ん中に坐していた。ただ、通常のそれと違うのはまるで生き物のように炎がどんどん成長していっていることだ。
独特の橙はとどまることを知らぬように大きくなり、あっという間に巨大な火柱となった。ついには辺り一面を飲み込んでしまうのではと思うほどの大きさになっている。そして浅海の恐怖を煽った極め付けは、耳を劈くような何かの鳴き声だった。地を揺らすほどのその音に社はもちろん樹木までもが震動し、滝の水も大きくうねりだす。
我慢できなくなった浅海はその場にへたり込んでしまった。
「何をしている」
びしょぬれの格好で戸口に姿を現した星涙は、床に張り付いている浅海に向けて、奇妙なものでも見るような視線を投げた。
「あっ、あの」
最初に彼女とあった時の再来如く、上手く声が出ない。彼女はもごもごする浅海には構わずに、近くにあった棚から白い布を取り出して濡れた身体を拭き始めた。 白い巫女の装束は彼女の身体にぴたりと張り付き、見るからに寒そうだが、星涙はそんなことを気にする様子もない。彼女はその長い髪を滴り落ちる滴をあらかた手で絞ると、布で雑に拭った。
「臆したのか」
嘲る様な口調にむっとしたが、その通りすぎて何も言い返すことはできない。
「巫女の儀式くらい見たことがあろう」
「あの巨大な炎が儀式だと?」
やはりここは他国なのだ。東国ではあんなことはしなかった。せいぜい篝火を焚いて、祝詞をあげるくらいである。怪訝そうな顔をした浅海をじっくりと見た後で、星涙はおもむろにこう問うてきた。
「お前、この国の巫女にならぬか」
口調こそ軽かったが、目には真剣な色が映っていた。浅海は予期せぬ事態に目を丸くした。
巫女になる。それは遠い昔に自分に誓った言葉である。一度は諦めたその思いを、まさかこんな形で遂げる機会を得ようとは思いもよらなかった。あの時なら、きっと即答しただろう。だが、今は…。
「なりたい。けれどその資格がありません」
「資格?」
「はい。私はかつて慕っていた巫女様に捨てられました。そしてその道を諦め、普通の娘の様に恋をしたのです。今や二人で生きる願いこそは絶たれましたが、それでも彼を想う気持ちに変わりはありません」
浅海の告白に、星涙は不快と言わんばかりに片眉を釣り上げる。取るに足らない下らない言い訳に聞こえたのであろう。今にも斬り捨てられそうな勢いで睨み付けられ、浅海はまた小さく縮こまった。
「捨てられた云々はどうでもよい。最初の理由を聞かせろ。お前は何故巫女に仕えようと思ったのだ?」
「…力が欲しかったのです」
彼女から発せられる気配に耐え切れず、浅海はがむしゃらに答えた。彼女の雰囲気にのまれないよう、とにかく声を出してみたのである。
「巫女様のような不思議な力を得て、誰にも負けないような力が欲しかったのです」
最後のほうは怒鳴ったといってもよかった。星涙は煩そうに顔をしかめたが、文句を言うわけでもない。その代わりのように浅海を頭から足の先までじろじろと見てきた。
「能力がないわけではないようだ。お前さえ望めば、私の持つ力を分け与えることも出来よう」
そう言いながら手のひら全体で浅海の髪に触れた星涙は、今度はその細い指で浅海の首筋を撫でた。水よりも冷たいその感覚は、まるで氷の刃を突きつけられているようである。
「どうする?」
どうしよう。再度の問いかけに、浅海は数秒間だけ迷った。
東国を出るときに交わした約束を果たすためには、これは絶好の機会かもしれないのだ。
けれどそれは、星涙はもちろんこの国自体を裏切ることになる。間者というものがそういう宿命を帯びていることは重々承知だが、この一月の間に受けた恩を仇で返すような真似は浅海には出来そうになかった。
与えられた使命と自分の望み、そのどちらを取るかで今後が大きく異なる。大切なものは何か、何のために自分はここにいるのか。そして誰を裏切ることになるのか。考えても答えはすぐには出てこなそうだ。ならば、いっそ前に進んでみることにしよう。
浅海は首筋にある彼女の手に自分のそれを重ねると、はっきりと答えを出した。巫女になる、と。
星涙に連れられて、奥へ奥へと進んでいくと、やがて石段に差し掛かった。荒削りな石段はただ積み重ねられているだけであり、降りるのにも一苦労だ。そうしてようやく視界が開けた瞬間、眼前に激流となって水が流れ落ちる大きな滝が現れた。
ここはさっきまでいた小さな社の、つまりはあの崖の真下のようだ。思ったよりも広い空間で、滝に向かって祭壇が拵えてあった。なるほど、これならあれだけの炎を作りだせるのも頷ける。祭壇の左手には森へと繋がる小道が伸びていて、いくつもの小さな篝火が灯されていた。
「あれが神殿だ」
篝火の道の先に在る社を指して、星涙はそう言った。あれほどの急な道を辿ってきたというのに、彼女は息一つ切らさない。浅海はぜいぜいする呼吸を整えながら、神殿に向かう彼女の後を追った。
神殿の壁に使われているのは何本もの太い木で、入口の階段も長や樹の屋形にあったそれよりずっとしっかりしたもののようだ。今までに見てきた、村にあるどの建物よりも丈夫そうである。
閂で閉じられた正面の扉を入ると、一番奥には神殿らしく、祭壇やら儀式に必要そうなものが一通り揃えてあった。彼女はそれを背にして腰を下ろす。
「そこに座れ」
長の屋形より少し狭い位の広さの中には、あの独特の香の香りが立ち込めていた。ここでは息苦しい程ではない。浅海が言われたとおりに腰を下ろすと、星涙はすぐに話を始めた。
「ここが我ら一族の聖域だ。だが一族のものですら近づくことはそう許されていない。仮に余所者が足を踏み入れようものなら、即座に私が斬り捨てる。最も普通の者であれば、近寄ろうとはしない。お前も肌で感じるだろう、この異常なほどに乱れた気の流れを。人間は本能で危険を察知し、回避する。それができないのはよっぽどの馬鹿か命知らずだ」
確かに気分のよくない場所である。心が始終ざわついて落ち着かない。一刻も早くここを立ち去らねばならない、そう急かされているような気がしてくる。
「逃げたいか」
星涙は口角を少し上げると、あの挑むような笑みを浮かべた。逃げたい、と喉元まででかかっていたのは、おそらく本能だろう。浅海はそれを押しやるように唇をきつく噛んで、はっきりと告げた。
「逃げたりなんかしません」
その答えに満足したのか、星涙は薄い笑みを浮かべ、手元にあった酒筒を浅海に手渡した。
「巫女の証だ。飲み干せ」
口をつけると、辛いような苦いような味がした。そうして一気に飲み干した瞬間、喉が焼け付くように熱くなった。浅海は思わず喉を両手で押さえたが、その熱はすぐには冷めてくれない。
「これは神酒。お前にはまだきついだろうな」
浅海は目に涙を浮かべながら、げほげほとむせ返った。見かねた星涙が水を寄越してくれる。それも一気に飲み干すと、ようやく人心地がついた。
「あの、お聞きしたいことがございます」
星涙が平気な顔で同じ神酒をどくどく飲むのを眺めながら、浅海はそう問うた。
「どうして私を巫女になさろうと?東国の間者であると、既におわかりなのでしょう」
「奇遇だな。私も同じ話をしようとしていた」
彼女の答えに、浅海は怪訝そうな顔をして見せる。すると星涙はそっと酒を置き、ゆっくりと話し始めた。
「私は東国の者の手にかかって命を落とし、そしてこの国は亡びる。占はそう告げた」
「それが私だというのですか」
浅海は思わず身を乗り出した。しかし星涙は構わずに話を続ける。
「初めは読み違えたのかと思った。いつもははっきり聞こえる声が、この時ばかりはくぐもっていたから。しかし何度尋ねても同じだった」
「巫女にも間違いはあります」
「そんなことは言われずともわかっている。だがどうしても解せなかった。龍神の加護を受ける私がそう簡単に命を奪われるはずがないのだ。私を倒せるとすれば余程の強者か龍神のみだろう、そう高をくくっていたときにお前が現れた」
「…私には、何の力もありません」
「ああ、けれど試してみる価値はあるだろう。そこで私はお前に縛をかけたのだ。結果、お前はそれを跳ね返した」
浅海は否定しようとしたが、星涙がそれを代わった。
「正確にはお前の首飾りに込められた念が、跳ね返してきたのだ」
「これは…大事な方に戴いたものです」
浅海は胸元を見た。巫女から受け取った管玉の間に、海里から貰った翡翠が輝いている。二人が護ってくれたのであろうか。
「それには強い加護がある。肌身離さずにいることだな」
星涙はそう告げると、再び酒をあおった。
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