第6話 浦

  新月にもかかわらず、夜空から零れる星明りのせいで、辺りは暗闇になり損ねていた。

 深い紫に染まるだけの夏の夜は、正直、逃亡には向いていないのだろう。ちらちらと落ちてくる小さな光を恨めしく思うのなど、今宵が初めてだ。

「何を恐れることがある」

 海里は天を睨むと、そう呟いた。

 予想よりも明るいとは言え、よっぽど近づかない限り、顔を判別することは困難だ。それに様々な状況を想定して巡らせたあらゆる策は、完璧であると言える。幾日も費やして練り上げたそれらを破れる者など、そうはいないはずだ。

 だが、頭にある計略や自信とは裏腹に、胸の動悸は一向に静まってはくれなかった。海里は初めて、失敗というものに、そしてその後ろに控えるものに恐怖を感じていた。

 向こうに二人、それにあそこに一人。夜警の兵をざっと数えて、海里は細く息をついた。これで見咎められずに出るためには、通れる道筋が限られてくる。

 佐間との縁談がまとまってからというもの、屋形の警護は一団と厳しくなって、こうして夜中に自由に出歩くことはままならない。立飛の考えなしの振る舞いを制するためなのか、それとも海里の行動を怪しんでのことなのか。理由は定かでなかったが、とにかく厄介なことに変わりはなかった。

 もう一度数を確認して、一番突破しやすそうな場所を吟味する。彼らの前に姿を現すのはあくまでも最終手段であり、如何に見つからずにここを抜けるかが重要なのだ。海里は覚悟を決めると、屋形の東方に向かってゆっくりと足を進めた。

 わずかな音も気になるほどの静かな闇夜。心臓の鼓動がやけに大きく聞こえ、どうしても気持ちが焦る。潜めているはずの息は荒くなり、唾を飲む回数が多くなる。

 慎重に慎重を重ね、ゆっくりと足を進めたが、やはり事はそう易々とは運んでくれないらしい。屋形を抜けるまで後一歩というところで、海里は背後の気配に気がついたが、はっとしたときにはもう遅かった。

「こんな夜更けにどこへ行かれるのですか」

 完全に背中を取られて、不覚にもびくりと反応してしまう。だが、不意を衝かれた動揺は大きかったものの、海里の全身は落ち着くことを命じていた。

 そう、声の主はわかっているのだ。海里は呼吸を整えると、ゆっくり後ろを振り向いた。

「お前こそ何をしている、立飛」

「兄上が屋形を抜けるのが見えたので」

「後をつけたということか」

 苛立たしさを隠せず、つい口調が荒くなる。兵達に気を配りすぎたようで彼の尾行には全く気付かなかった。自分の迂闊さに苛立ちは更に増していく。

「兄の後を追い回す年でもなかろう」

 海里は煩わしげにそう告げた。立飛が自分を兄だと思っていないことなど充分承知していたが、これ以外に気のきいた言葉が出てこなかったのである。

「それはそうです。互いにもう子供ではありませんからね」

 立飛はそう言うとくすくす笑い、まるで嘲るかのように告げる。

「私ももう妻を娶ります。これで正式に玖波の跡目として認められましょう」

 彼は手にしていた松明を海里の顔に近づけると、強気な視線を注いできた。立飛にしては随分挑発的な態度だ。珍しい彼の行動に、海里の神経はますます逆なでられた。

「ああ、実に喜ばしいことだ」

「佐間は今後の玖波にとって要となる場所、押さえておいて損は無いでしょう。それに浅海もそれなりに可愛らしい娘だ。まぁ多少の不満には目を瞑って、今後の見返りを期待することにしますよ」

 立飛は前に垂らした長い髪を掻き揚げると、まるで海里をからかうかのようににやけた顔をした。その表情が非常に憎々しくて怒鳴りつけたくなったが、海里は必死に押し留めた。これは自分を怒らせて隙を作るための立飛の計略なのだ。感情を荒立てれば荒立てるほど立飛の思う壺になる。海里はぎりぎりと奥歯を噛みしめた。

「お前は玖波の司となる男だ。東国の娘であればそれを望まぬ者はいまい」

 様々な感情をぐっと堪え、抑揚のない声でそう言った。

 冷静であれば立飛などいくらでも言い包められるのに、今はとにかく余裕がなかった。動揺が邪魔をして冷静さを保てない。いつもであればすらすらと出てくる切り返しの言葉が今は全く思いつかなかった。そんな海里を嘲るかのように立飛は乾いた笑みを浮かべ、悠然とこう言った。

「兄上、一つご忠告させていただきます。人のものを奪うことは罪、万が一それを犯した場合は相応の罰を与えられることになりましょう」

「何が言いたい?」

「浅海は私のものでございます。努々、お忘れの無いよう」

 誰しもが騙されてしまう可愛らしい笑みを浮かべながら、立飛はそう言った。しかし、彼のその言葉は張りつめていた海里の理性をぷっつり切るのに充分だった。

「ふざけるな」

 今まで余裕を見せていた立飛の表情があっさりと凍りつく。怒りが露になった海里の声は普段よりも数段低く、視線は刃物のような鋭さで立飛を捕えていた。

「浅海がお前のものだと?馬鹿な冗談を言うのはやめろ」

 海里は立飛の胸倉を掴むと、彼の背を後ろの幹に思い切り叩きつけた。立飛は苦しそうな呼吸を漏らしたが、海里は構う事なく彼の首を更に締め上げる。

「いいか、浅海は私のものだ。誰にも渡しはしない」

 そう告げる海里の目には殺意に近い光が宿っていた。ぞっとするほどの恐ろしさである。

 息苦しさというよりもむしろ恐怖のせいであろう。立飛の顔は次第に歪んでいき、ついにはその表情から色味すら消えていった。

「浅海をどうするつもりですか?」

 目を見開いて硬直する立飛は消え入りそうな声でそう問いかけてきたが、海里はそれを関係ないという一言で一蹴する。

「とにかくこれ以上お前に構っている暇はない。さっさと屋形に戻れ」

 海里は立飛から手を離すと、煩わしげにそう言った。立飛はうっすらと涙を浮かべながら、げほげほと首を押さえて咳き込む。

「浅海はお前のものになんかならない」

 涙目で海里を睨みながら立飛はそう吐き捨てた。その言葉に海里は片眉を釣り上げる。

「どんな手を使ってもお前から浅海を引き離してやるからな」

 その言葉を背中で受けながら、海里は急いで馬を駆らせた。察するに、今宵の策はどこからか漏れていたようだ。今この瞬間にも浅海に危険が迫っている、そう考えると激しい後悔が海里を襲ってきた。

 そもそも、彼女を連れて東国を抜け出そうとしたことが馬鹿げていたのかもしれない。共に在りたいというのは自分の我侭にすぎず、浅海は時の流れに身を任せたほうが幸せだったのかもしれない。何の力もない自分が浅海を幸せにするなど、大それた望みだったのであろうか。考えれば考えるほど気持ちは落ち込み、吐きそうな気分になった。


 二人が落ち合うのは、浅海が初めて玖波の屋形を訪れたときに連れて行った場所だ。その辺りの樹木は案外に細くて人が隠れることは不可能であり、近くには岩だらけの川も流れている。高い樹木に囲まれた中にぽつんとある小さな岩の上、そこは二人を追跡する者達を欺くために海里が考え出した絶好の場所であるはずだった。

「策を知ってしまえば、捕えるのにうってつけの場所だな」

 海里は自分の策が穴だらけであることを今更ながら思い知らされた。あれほどあった自信はどこへ消えてしまったのか、今では不安しか残っていない。

 唯一の希望は浅海に持たせた武器、海里自身の短剣である。考えすぎかとも思ったが、いざという時のための使い方を教えておいて正解だったかもしれない。それに様々な場合を想定して逃げ道も複数教え込んである。相手が海里の策を全て読みきっていない限り、浅海の無事は確保されるはずだ。

 無事でいてくれ。必死で先を急ぎながら、海里はそれだけを願い続けた。

 けれどその必死の思いは、いくらも経たないうちに無残に打ち砕かれた。浅海の姿は指定の場所近くのどこにもなかったのである。

 

 岩近くの木々の間、その付近。あらゆる物影を見、隠れられそうな所は徹底的に調べたが、彼女はどこにもいなかった。嫌な予感が頭をよぎり、争いの痕跡を調べてみたがそれもない。浅海がここに来たのかさえも定かではなかった。海里は休むまもなく彼女に教えた逃走経路を探しにかかった。  

 一つ目の方法として指定した川辺、これを選ぶのは相手の人数が少なかった場合である。彼女はこの岩陰に隠れながら下流に隠した舟に乗り込む予定であった。

海里は彼女に教えた通りの経路を、川辺を下流に向かって歩き出そうとしたが、思いとどまった。直感的にここではないと思ったのである。そしてなぜか体は上流に向かって歩き出した。上流に行けなどという話は一言もしていないが、何かに引き寄せられるようにそちらに足が進んだのである。

 そうして少し歩いたところで、海里は前方にきらりと光るものを見つけた。慌ててそちらに向かおうと駆け出したその時、足元に水とは違うぬめりを感じた。しゃがんで指先でそれをなぞって、星明りにかざす。血、だった。まさか浅海ではと思うと、いてもたってもいられなくて足を速めるが、剥き出しの岩がごろごろあって思うようにはいかない。苛々しながら進んでいると、更に先に何者かがうずくまっているのがわかった。

「おい」

 海里はそばに寄るなり、その男に話しかけた。彼は腹部を刺されたようで、息も絶え絶えだ。男の顔には勿論見覚えがある。

「丈、話せるか?」

「おお、何とかな」

 丈は苦しそうに返事をした。どうにか手当てをしようと彼の腹に突き立てられている剣を抜こうとしたが、それを目にした瞬間海里の手は止まった。

 見慣れた剣の柄を見紛うことは無い。これはまさしく浅海に護身用として手渡した自分の短剣であった。父から貰った大和の特徴のある短剣。これを有するのはこの辺りでは海里ただ一人である。

 何があったのか、聞かずともわかる。しかしそれでも海里にとっては彼女が犯したであろう罪よりも、浅海の安否のほうが大事であった。

「浅海はどこだ?」

「知らねえよ」

 丈は吐き捨てるように答えた。

「答えろ」

 海里は相手が重傷を負っているにもかかわらず、激しく揺さぶる。

「浅海はどこに行ったのだ?」

「だから知らねえって言ってんだろう。あの女、俺を刺して馬に乗って逃げたんだよ」

 丈は苦々しげにそう言うと、海里は彼を掴んでいた手を離した。反動で丈の体が岩に打ち付けられる。

「痛えだろう。何すんだよ」

「黙れ」

 海里はそう怒鳴り、浅海を追うために走り出そうとした。しかし不運なことに、四方から金切り声が飛んできたのはそれと同時のことだった。

「あそこだ」

「隣に誰かいるぞ」

 一瞬の迷いだった。そのせいで判断を誤った。逃げ遅れた海里は、駆けつけて来た立飛の仲間や玖波の兵達によって、その場に取り押さえられてしまったのである。

「丈、無事か?」

「突然いなくなったから探しに来たんだ」

 彼らは口々に丈に声をかける。海里は二人掛で両脇から押さえられ、身動きを取ることが出来ない。

「離せ。私は何もしていない」

 海里がいくら言っても彼らは聴く耳を持とうともしない。どうにか離れようともがいて頭をあげたとき、立飛の呆然とした顔が目に映った。松明の明かりに映されているというのに、彼の顔は青ざめて見える。

「兄上…丈を手にかけたのですか?」

 立飛は震えながら海里を揺さぶる。

「私は何もしていない」

 濡れ衣を晴らそうと海里がそう叫んだ瞬間、彼は拳で海里の頬を殴りつけて激しい剣幕で罵った。

「人を手にかけておいて己の罪を認めないとは、人道に外れる行為だ」

 立飛の目にはうっすらと涙が浮かんで見える。

「このまま玖波の屋形に戻ってもらうぞ。公正な場でお前を裁いてやる」


 幽閉されている牢の中で海里は途方に暮れていた。

 何が起きたのかがさっぱりわからない。結局浅海はどこにもいなかったのである。あの騒ぎの中でも姿を見せなかったばかりか、行方の噂すら立っていない。ただ一つの手がかりが、丈に突き立てられていた海里の短剣だけだった。浅海と彼の間で何かがあったのは間違いないだろうが、そんなことは後回しでいい。ただ、彼女の安否だけが気がかりだった。

 そんなことをぼんやり考え込んでいると、急に外が騒がしくなった。誰かと牢番たちが揉み合う声が聞こえる。罪人である海里に会うことは何人たりとも許されてはいないはずであるが、突然がしゃりという音が鳴ったかと思うと意外な人物が姿を現した。

「智殿」

 海里は思わず彼の名を呟いたが、彼は冷ややかな視線を浴びせかけるだけである。

「こんな牢獄に何の御用ですか」

 まともに顔を見ることも出来ず、海里は床に視線を落とした。すると智は呆れたようにこう告げてきた。

「お前への処罰は明日下るそうだ。覚悟を決めておけ」

「…ご忠告ありがとうございます」

 驚きに一瞬息が詰まったが、海里はどうにかそう答えた。そうなることを予想していないわけではなかったが、いくらなんでも今晩の事件が明日裁かれるなど異例である。これだけでも今回のことが明らかな策略であったことが伺える。海里の試みは事前に漏れており、玖波側はそれにそった新たな策を立てたということだろう。

「罪状は知っているのか?」

 そう問う智は努めて穏やかに振舞っているようにみえた。その心中には堪え切れない感情が渦巻いるだろうに、おおっぴらにはしていない。彼は息をつくと、海里から視線を外して牢の格子をなでた。

「私が聞いている分で言えば、浅海の誘拐と丈への暴挙だ」

 どちらも自分ではない。けれど、それを言い訳したところで状況が良くなるわけもない。海里は投げやりに返した。

「どうせ明日になればもっと増えます。確実に私を亡き者にするために」

「だろうな。そしてそうなればお前と話す機会もなくなってしまう」

 智がそう答えると、二人は互いに押し黙った。重苦しい空気が続き、松明のはぜる音だけが妙に大きく響く。

「浅海のことで謝罪を述べよ、と?」

 ようやく言葉を発した海里に、智は静かに首を振ってみせる。

「佐間に痛恨の痛手をもたらせた私を、たった一度の謝罪では到底許せないということでしょうか」

 そう続けながら海里は、改めて今回の策を後悔した。浅海を思うと自分がこんな形でも生きていることさえ腹立たしくなってくる。智は海里の心情を察したのか口調を多少柔らかにした。

「早まるな。私がここに来たのは妹の行き先を聞くためだ」

「どういうことですか?」

「浅海は行方不明だ」

 予想外の答えに海里は眉をひそめる。智はそんな海里の顔色を伺いながら続けた。

「妹が行きそうなところは全て探した。もちろんあの付近も、佐間も玖波もだ。葉那に聞いてもわからぬという。もうお前しか、あれの居所がわかる人間がいないのだよ」

「それを私に確かめるため、危険を冒してまでやってきたのですか」

「ああ。お前と浅海が犯した罪は、あれが見つかった後でたっぷりと償ってもらう。しかし今は浅海を探すことが先決だ。答えてくれ、あいつはどこにいるのだ?」

 智は格子を揺さぶる勢いで海里に詰め寄った。しかし海里には答える術がない。彼以上に浅海の居場所を知りたいのは自分なのだ。

「わかりません」

 海里がきっぱりとそう答えると、智の形相が変わった。

「いい加減にしろ。お前程の者が未だに二人で逃げ出すなどという子供じみた夢を見ているのか」

「何と言われても知らないものは知らないとしか言えない」

「海里…それは本心なのか?」

 智は胡散臭そうに海里を見る。逆の立場であれば、海里とてこんな言葉信じないだろう。けれどこれが真実なのだ、他に答えようはない。

「智殿。私は浅海を連れて逃げ出すことに失敗しました。しかし失敗も想定内、それ相応の策を講じて浅海に言い聞かせてあります。どの策をとったとしても全て佐間へ戻る手筈となっているのです。けれど現実に浅海はどこにもいない。浅海に最後に会ったのは、丈でございます。私は丈と話すまもなく、立飛に捕らえられました。ですから今一度、奴に事情をお尋ねください」

 海里は智の目を見つめながら真剣に訴えた。しかし智から注がれる視線はさらに鋭さを増しただけである。

「丈は浅海を見ていない。そして奴を刺したのはお前だそうだ」

「嘘だ」海里は思わず叫んだ。

「私が駆けつけたときは、既に丈は怪我を負っていた」

「しかし短剣はお前のもの。丈はお前に不意打ちされたと証言した」

 図られた。海里は悔しさに格子を壊さんばかりに握り締める。

 こうなれば浅海の行方不明は、十中八九、玖波側によるものだろう。とすれば、彼女は自分を陥れるための道具として利用され、そして…。

「何れにせよ、お前は明日確実に処刑される。その前に真実を話してくれないか」

「…先程お話したことが全てです」

「つまり、お前も浅海の行方は知らぬと」

「はい」

 これが最後と言わんばかりに慎重にそう尋ねる智に、海里は力なくそう答えた。 智は大きな溜息を吐くと、これ以上の尋問は無駄だと悟ったのか、くるりと背を向けて去って行った。お前はもう少し賢い男だと思っていた、という言葉を残して。


 玖波の屋形から大分離れた原っぱの中の刑場。ここが、海里が最期を迎える場となるらしい。いくら罪人であるとはいえ、一郡の嫡子としては相応しからぬ場所だ。

 近頃、ここでは毎日のように血が流れている。海里自身、何度もその場に見聞役として立ち会っていた。呻く者、泣き叫ぶ者、諦める者、声を出すこともままならない程に弱り切っている者。様々な人間の最期の姿を見てきたが、まさか自分がその立位置になるとは思ってもみなかった。

 薄暗い牢にいた所為か、朝日はいつも以上に眩しかった。ぴんと張った日差しの強さに、海里は反射的に目を細める。これから処刑される身としては、複雑な気分になるほどの爽やか過ぎる青空だ。吸い込まれる様に青々とした空を仰いだまま、海里は思わず足を止めた。

「おい」

 上を向いたまま立ち止まった海里に、左側にいる男がそう怒鳴り付けてきた。彼は顎でしゃくって、右側の男にも前に進むように命じた。両脇を屈強な男二人に挟まれて、海里は無理矢理前に進ませられる。

 

 まだ誰も何も言葉を発していない。それなのに麻縄で両手をきつく縛られ、牛馬のように引かれる海里に一斉に注目が集まった。

 土牢に閉じ込められていたから、服は土埃で汚れていた。昨晩、無理に引き摺られた時の擦り傷から滲み出た血も付いている。これまで見てきた何十人という罪人と同じ醜い姿だ。こんなみっともない身形で玖波や佐間の者達の前に晒されるのは、予想していた以上の屈辱感だった。

 数多の視線が突き刺さってくるが、その中には一つたりとも憐れみの色を映しているものはない。好奇、蔑み、憎しみ、そして下卑た笑い。皆、海里が処される事を今か今かと待ち望んでいる。都人の息子として持ち上げられていたのが建前で、陰ではいつも蔑みの的であったことがよくわかる光景だった。

「最後の最後まで余所者か」

 海里は誰にも聞こえる事の無い掠れ声でそう呟いた。

 死を目前にしたからなのか、抑え込んでいた感情が沸々と噴き出してくる。

 寂しい。悲しい。愛して欲しい。そんな感情を周りに見せた事は一度もなかったが、心の奥底には確かに存在していた。

 海里は間違いなく東国で生まれ、育ったのだ。言葉も風習も身についているのは東国のそれだ。ただ他の者と違うのは父親が都人であるという事だけ。玖波の司の娘である母親と祝言を挙げることを拒んだ男であるというだけだ。だが、それは海里が拒まれるに充分な理由であったのだろう。

 そもそも生まれてきた事が、過ちだったのかもしれない。海里の誕生を喜んだものなど一人もいなかった。母は喜ぶ間もなく、命を落としたのだ。

 父に捨てられ、叔父に疎んじられ、東国の人間として認められることもない。成長するにつれて風当たりはどんどん強くなり、周りは敵だらけといってもよかった。羨望と嫉妬が渦巻くだけの世界での愉しみは、野心を持つことで周囲を見下し、つまらない優越感に浸ることだけだった。誰にも何の文句も言わせない。そう固く決意してひたすら力をつけることだけが生きる支えだった。

 そんな色褪せていた世界を、鮮やかな色で染めてくれたのが浅海である。彼女は、野心に塗れてどろどろに汚れた海里の心をあっさりと浄化して、下らない毎日をばっさりと断ち切ってくれた。どんなに感謝してもし尽せないというのに、彼女は海里が何かを返す前にいなくなってしまった。

 だが、これで良かったのかもしれない。最期に会えないのは寂しいが、自分の最期を見せることもしたくなかった。

 この場に浅海がいなくて良かったと、海里は心底そう思っていた。彼女にだけは何があっても、こんな姿を見せたくはない。もし、彼女から憐れみや軽蔑の眼差しを注がれたなら、それこそ迷うことなく爪で喉を掻っ切ってでも死を選ぶだろう。

「海里、あなたって本当に我侭ね」

 いつだったか彼女が何気なく告げた言葉が鮮明に思い出された。海里は眼前にくっきり浮かぶ彼女に、ふっと笑む。

「私と権を秤にかけるつもり?私は他の全て失ったとしても、あなたは失いたくないわ。どちらも手に入れたいというのは本当にあなたらしい結論ね。とっても我侭。でも私はあなたのそんなところも大好きよ」

 かつて、いつか都に行きたいという望みと打ち明けたとき、浅海は海里の腕に甘えながら、上目遣いでそう答えた。

 大人びた回答とは真反対のその子供っぽい仕草を愛しいと思い、絶対に手放したくないと思った。権力を欲することが馬鹿らしくなり、彼女とどこかで平和に暮らしたいと思い始めたのはあの時からである。

「それが過ちだったのか」

 考え込んだ結果、海里はそう声に出してしまった。両脇の二人が怪訝そうに自分を見る。

「何でもない。気にするな」

 男達にそう言って、海里は改めて周りを見回した。夢から一転、現実がここに在る。

 正面には玖波の重臣達が下卑た笑いを浮かべて座しており、右には智を含む佐間の面々、左には石賀を担ぐ近隣の役人達がいた。どの顔を見ても哀れみの表情は見られない。自分がどれほどこの地において厄介者であったのかを、また深く思い知らされた。


 判決に異議を申し立てるものは誰もなかった。それどころか喝采を上げるものさえもいた。

 負うべき咎は三つ。一つ目は立飛の妻となるべき浅海を攫おうとした事。二つ目はそれをどうにか防ごうと奮闘した丈に短剣を突き立てた事。そして最後は浅海の命を奪った事。どれも海里には身の覚えのない出鱈目な理由だった。

「申し開きの言葉はあるか」

 わざとらしいほど張り切った声でそう問いかけてきた判官に、海里は首を横に振った。申し開きなどしたところで、聞き入れられるわけがないのだ。

 東国を出て西へ向かうと決めたのは二人の意思である。だが、それを皆にわかってもらう必要なんてなかった。残りに関しては呆れてものが言えない。丈を刺したのは海里ではないし、浅海を殺害する理由など海里にはないのだ。

 第一、どうして浅海が生きていないといえるのだろうか。考えたくもないが、その答は一つしかない。彼女は既に玖波の手にかかってしまったのだろう。そうでないならば浅海の殺害などという馬鹿馬鹿しい判決が下るはずもない。

「よって、中ノ海里をこの場でもって刑に処す」

 判官の真面目ぶった声に対して頭を垂れたのは、判決について諦めたからではない。浅海の最悪の答えに行き着いてしまったからだ。

「兄上、残念です。あなたは私の誇りでした」

 立飛はどこからかつかつかと海里に近づいてきて、気の毒そうにそう言った。けれど、その瞳には隠すことなく喜びの色が映っている。

「しかし犯した罪は償わなければならない。太古からの掟です」

「ああ、そうだな」

 海里は生返事をしながら、何とはなしに前方に目をやった。これまで何かに付けて海里を立ててきた者たちが、にやつきながら自分を遠巻きに眺めていた。浅海の両親は虚ろな表情でどこかをぼうっと見ており、その隣では智がこちらの方をきつく睨んでいる。彼らには申し訳ないことをしてしまった。彼らの心情を思うと、胸が壊れそうなほど痛む。

 浅海が何と言おうと海里が突き放していれば、彼女がこんなに早く命を失うことはなかったのだ。それこそ立飛と祝言を挙げ、それなりの暮らしをすることが出来ただろう。けれど、今更何を言っても無駄だった。浅海はもう二度と戻って来はしない。

「これより中ノ海里の刑を執行する」

 判官がそう声を張り上げると、群集は再び沸き上がった。彼らの高揚の原因は海里への恨みか、それとも単に石賀の陰謀に乗せられてのことか。おそらくはどちらも違う。

 確かに海里の生意気な態度に腹を立てていた連中もいるだろうが、それが最大の理由なわけではないのだろう。彼らは皆、海里の父親である都人に受けた屈辱を晴らし、そして遠く離れた都という存在に頭が上がらないという現実を覆したいのだ。そのために都人の肩書きを有する余所者を、単に罰したいだけなのである。海里を処刑する事で、自分達が都人に勝るということを証明したいのであろう。

 結局のところ、この場での海里は東国の者たちの都に対する恨み辛み、そして妬みを着せられて体よく鬱憤晴らしに使われる、ただの玩具に過ぎない。

「縄を」

 判官は海里の両脇にいた二人にそう指示した。二人は海里を大木の元に移動させると判官に言われた通り、海里の首に縄を巻きつけ、その反対の先を木に巻き付けた。

 二人がこれを思い切り引っ張ったとき、海里は浅海の傍に行くことが出来る。そう考えれば不思議と恐怖はなかった。先に浅海を旅立たせてしまったことを心中で詫びながら、海里はそっと目を閉じた。


「待て」

 水を打ったように静まり返っていた刑場に突然、そう大声が響いた。びくりと反応した執行役が縄を取り落としたせいで、それまで締め付けられていた首元が急にすっきりする。

「何者だ」

 邪魔をされたことで気分を害した石賀が、声の主を怒鳴りつける。

「この状況を見てわからぬか。如何なる者も邪魔立ては許さんぞ」

 彼は顔を真っ赤にして侵入者に指を突き立てたが、相手は一向に意に介していないようである。顔を頭巾で隠したその男は、彼らを完全に無視して海里のそばにつかつかと歩んできた。

「大丈夫かい?」

 男はそう尋ねながら、小刀で海里の首の縄を切った。

「着くのが少々遅れてしまいました。申し訳ない」

「あなたは?」

 海里もまた、石賀達同様この状況を飲み込めなかった。困惑気味に尋ねたが、男は何も答えない。

「ほれ、その者を捕らえよ」

 焦った判官がそう命じ、武装した兵達が男を捕らえにかかったが、それは叶わなかった。男はさっと剣を抜き、近付こうとする者達に切っ先を向けたのである。

「私は造様の使者です。むやみに斬りかからない方が身の為ですよ。」

 男は高らかにそう告げた。造という言葉に石賀は顔を歪め、他の者は固まった。彼は涼やかでありながらも堂々とした声でこう続ける。

「我が名は風見。本日は造様の勅命により、参りました」

「風見だと?貴様、武項の」

 石賀の眉間に更に深い縦皺が刻まれた。風見はきっと睨み返す。

「昨晩遅く、国府に密告が入りました。どうやら、その通りだったようですね」

 彼は剣を構えたまま続けた。

「聞けばこの男が罪を犯したのは前夜。それをろくに調べもせず、日が高くなる前に刑を処すのは明らかに不当でありましょう」

 風見の威圧感の前に、反論できる者は誰もいなかった。皆押し黙り、さも自分の責任ではないとでも言うようにわざとらしく視線を逸らしている。

「誰も答えぬところを見ると、思うところがありそうですね。判官、なぜこんな裁きの場を設けたのですか」

「それは…訴えがあったからでございます」

 判官は目を伏せながら、弱弱しく答える。

「どのような?」

「その者、海里が罪を犯したと…」

「ほう、どんな罪だ?」

 判官の返答に、風見ではない誰かが更に問いかけた。風見より更に凛とした、俗人とは異なる声。只者ではない。海里は聞いた瞬間にそう思った。

 風見は声のした方をちらりと見やると、ゆっくりと頭を垂れた。つられて海里もそちらに目をやる。するとそこには、すらりとした一人の男が腕を組んで立っていた。

「来られないのではなかったのですか」

 風見は少々嫌味っぽく男に声をかけた。

「お前だけでは心配だったからな」

「…武項。貴様」

 憎々しげな石賀の声が響く。彼は血管が浮き出るほどに頭に血を上らせていた。

「ここがどこか知っての振舞か」

「無論だ。無法地帯の玖波に、正式な裁きの場があるとは思わなかったぞ」

 武項の皮肉たっぷりの回答に、石賀はだんっと片膝をついた。その隣で判官が青ざめながら彼の袖を引っ張る。

「出て行け。今すぐに、だ」

「風見が言っただろう。不当な裁きは認めぬ。もちろん、造の許可は得ている」

 武項の堂々とした声色に、石賀は唇をぶるぶると震わせた。判官や玖波の執行役などは、こちらが哀れに思うほどたじろいでいる。

「話を戻すが、海里の罪状とは何だ。この様子を見る限り、相当な大罪であるようだが」

 武項はそう言うと、冷めた目で海里のすぐ裏にある大木を見た。

「昨晩犯した罪でもう極刑を執行するにはそれなりの理由が必要だ。石賀、貴様に答えられるのか」

 まるで、この裁きのからくりを全て把握しているかのような口ぶりである。このまま沈黙を守れば、裁いた側の状況は間違いなく不利になる。石賀もそう考えたのであろう。彼は腹を決めたように武項の問いかけに答えだした。

「海里は三つの罪を犯した」

「証拠は?」

「証人がいる」

「なるほど。して、海里は罪を認めたか?」

「ああ、認めたぞ」

 石賀は一瞬詰まったが、やけくそにそう怒鳴る。だが武項の目は涼しげである。彼は顎に手を当てると、可笑しそうにこう言った。

「そうか。ならば仕方あるまい」

「ふん。認めるのなら、」

「馬鹿者。お前の下らぬ言い分を認めるくらいなら、私自らここまで足を運ぶわけがなかろう」

 武項は石賀の言葉を遮ってそう言い放つと、前触れもなく立飛の方に向き直った。突然のことに動揺した立飛は、思わず後ろに手をつく。

「お前が今回の首謀者だろう」

「おい。立飛に何をする」

 石賀が狂気染みた声を挙げたが、武項はまるで聞こえていないかのように無視をした。

「答えろ」

「わ、私が、何を、」

 余程、気が動転しているのか、立飛の答えは途切れ途切れだ。

「証拠は全て揃っている。素直に吐いた方がいいぞ」

「な、何のことだか」

「ほう。この武項に白を切ろうとはいい度胸だ。しかし、いつまで持つかな」

 武項はそう言って剣を抜き、立飛に突きつけた。立飛が情けない悲鳴を上げ、近くにいた者達は一斉に離れようとする。

「止せ。無礼にも程があるぞ」

 石賀が横から口を挟んだが、武項は切っ先を逸らそうとはしない。それどころか、むしろ剣線をぐいっと喉元に近づけた。

「立飛。私はお前を罰するだけの正当な理由とその許しを得ている。いいか、これは脅しなどではないぞ」

 それを聞くと立飛はますます青白くなった。どうやら彼には武項から目を逸らす力さえ残っていないようだ。何か言おうとしているが恐怖で声が出ていない。

「武項様、そのままでは聞ける話も聞けません」

 状況を見かねた風見が声をかけるが、武項は微動だにしなかった。やれやれといった風に風見は武項に近づき、彼の手を押さえる。

「お納めください。このままでは埒が明かない」

 そこまでされてようやく武項は剣を少し引いた。風見は彼に下がるように頼むと、高座に座る立飛の目線に自分も高さを合わせる。

「立飛とやら、真実を告げて下さい。そうすれば命は助かります」

 風見がふっと表情を和らげると、安心したのか、立飛は人形のように何度も頭を下げ出した。そして大きく唾を飲み込むと、ようやく口を開きだした。

「か、海里は、罪を、犯しました」

「何の罪ですか?」

「私の妻を、浅海を、奪おうとしたのです」

「他には?」

「丈に、怪我も負わせました」

「他には?」

 再度同じ質問を繰り返した風見にびくついたのか、立飛はまた震えだした。小さく首を横に振ると、小声で、それだけですと言った。

「そうですか。よくわかりました。確かに海里の罪は重い。けれど、逃げたのは浅海という娘も一緒なのでしょう。海里だけが裁かれるのは不自然ではありませんか」

 風見が冷静にそう返すと、立飛は一旦口を噤んだが、少ししておずおずと答える。

「浅海の姿はどこにも見当たりません。きっと海里が」

「殺したと、そう言いたいのですか。」

 立飛は小さく頷く。この期に及んで平然と嘘をつく彼の様子を、海里は苦々しく見ていた。丈に負傷させたのは海里ではない。立飛がその事実の一切を知らないはずはないのだ。それに海里が浅海の命を奪ったというのならば、この場自体あり得ない。もし彼女を手にかけたならば、海里は迷うことなくその場で後を追っている。

「海里が浅海を殺した証拠はあるのですか」

「それは…」

「ないのだとしたら、この裁きは明らかに法を蔑ろにしている。違いますか、判官?」

 急に話を振られた判官は見るからに硬直しており、話になりそうはなかった。風見は今後の判断を求めて、武項を見る。武項はこくりと頷き返すと、緊迫した口調でこう告げた。

「石賀、ついに貴様も終わりだ」

「何を馬鹿な事を。貴様こそ、ここがどこかわかっているのか。」

 自信たっぷりにそう言った石賀と武項の視線が、がちりとぶつかる。そして石賀が右手を挙げたのを合図に、玖波の兵達が一斉に立ち上がり、彼の前に壁を作った。

「無防備に乗り込んで来た事を後悔するといい」

 優位に立ったと思い込んだ石賀は、壁の向こうでげらげらと笑いだした。だが、武項の不敵な笑みもますます大きくなる。

「吾が何の準備もなく、乗り込むとでも思うのか?」

 武項がそう告げるやいなや、見物人の間から悲鳴が飛び交いだした。彼らの後ろには、この場をぐるりと取り囲むように数十名の兵達が矢を構えていた。その数は石賀が引き連れてきた玖波の警護兵より、優に数倍はいる。

「貴様。初めから戦を仕掛けるつもりだったのか」

「そうしたいというのであれば、希望に沿ってやってもいい。さぁ、どうする?」

 その口振りは、今すぐの開戦も辞さない覚悟で溢れていた。おそらく近くにまだ兵を用意してあるのだろう。現段階では明らかに武項が優勢だ。石賀もそれを察して、この場は退くことを選んだのだった。


 裁きの場から、海里は馬に乗った。行く先は浦郡である。

 正直、何が起きたのかがはまだよくわからなかった。武項と風見、そして彼らの引き連れていた兵達の後を、ただ言われるままに着いていくだけだ。これから我が身がどうなるのか。彼らの目的は何か。疑問符は山のようにあったが、そんなことを考える余裕などは、どこにもない。

 浦の領地に入るなり、武装した大勢の兵達に出迎えられた。戦の前の緊張と興奮で熱くなっていた彼らは、戻って来た武項を見るなり大歓声を挙げた。武項はそれを厳しい表情で応対すると、兵達を鼓舞するように腰の剣を高々と掲げる。

「いいか、皆。今日にも戦になるやもしれん。一瞬たりとも気を抜くな」

「おお」兵達が腕を振り上げて呼応する。

「敵は所詮、古狸。恐るるに足らず。我らは正義のために戦うのだ」

 威勢よくそう告げた武項に、海里はついつい見入ってしまった。人を惹き付けるに充分な容姿と行動力。若き浦の司には活気が満ち溢れていた。

 見ればその側近も集まっている兵達も若者ばかりだが、皆、あまり良い格好はしていない。鎧甲冑を身に付けているのはほんの一握りで、後はそれぞればらばらな身形である。おそらく、彼らは富裕な豪族達の子弟達ではなく、これまで虐げられてきた下級役人や、百姓達の息子達なのだろう。鎧すらも揃えられず、野良着のままの者もいれば、着古した着物をこの日のために仕立て直したような軍服を身に纏っている者もいた。

 誰の顔にも、負けを恐れない強気さと、新しい流れに身を投じられるという嬉しさが満ち溢れていた。この戦の先に必ずや希望があると、そう信じ切っているに違いない。彼らのきらきらした瞳からは、それがひしひしと伝わってきた。

「では風見、海里を頼んだぞ。砲を連れて私もすぐに向かう」

 武項はそう言うと、そのまま兵達と共に戦の本陣へと行ってしまった。指示を受けた風見は、こちらに背を向けた主に軽く一礼した。


 海里が案内されたのは、武項が向かったのとは反対の屋形の正殿だった。

「ここは武項様の私邸の一部です。この場を訪れることが出来るのは限られた者のみ、気を張ることはありませんよ」

 風見はそれだけ告げると、後は終始無言だった。

 聞こえていたのは廊下の板が軋む音のみ。次第に細くなる廊下のせいもあって、なんだか息苦しく感じたが、着いた先はもっと息の詰まりそうな所だった。屋形の 最奥であろうこの場所は、男二人が並ぶと非常に窮屈だ。突き当たりにある重そうな扉を、風見が押し開くと、ぎいっと不快な音が狭い廊下に響いた。

「さぁ。どうぞ」

 彼は体を扉に預けたまま右手を伸ばして、海里に入るよう促した。

 室内には調度品もほとんどなく、部屋と言うよりはただの空間だった。壁の所々には染みの様なものが浮かんでいて、黒い床の一部、扉の開閉に当たる部分は傷つけられて白くなっている。司の私邸という割には、随分と殺風景で古びた部屋である。

 風見は思い切り息を吸い込むと、再度、体全体を扉に押し当てて力任せに戸を閉めた。背後でまたしても不快な音を立てて閉まる戸を、彼が嫌そうに見ているのが目に入る。

「もう少し、軽いものに修理したいのだけれど、ね」

 扉の仕組みが気に入らないのか、風見の言葉にはうっすらと嫌味が込められていた。

「武項様は屋形の手入れにこれっぽっちも気を回さない御方ですから」

「そう、ですか」

 魂の抜けた様な海里に、風見は寂しげな微笑を浮かべる。

「海里。あなたが混乱、いや、気落ちしている理由はよくわかります。例の娘、浅海といいましたね。彼女の行方はわからないまま、あなた自身は処刑されるところだった。そんな中なのに、突如浦に連れて来られても、正直どうしていいのかすら、わからないでしょうね」

 その言葉に、海里はようやく小さく首を縦に振った。

「それも当然の事。本当ならば、時間をかけてゆっくり落ち着くべきなのでしょう」 

 風見はまるで何もかもを見透かしているようだった。起きた出来事も、海里の心情も、今後の時勢の行方も、それこそ全てを、だ。むしろ彼が一連の全てを策謀したのではなかろうかとさえ思える。

「浅海の行方が気になるでしょうが、大丈夫。きっと彼女は無事です」

「…どうしてわかるのですか?」

 きっぱりと言い切った風見を、海里は思い切り睨みつけた。慰めの言葉なんていらなかった。現に浅海はどこにもいないのだ。

「何の根拠もないのに、いい加減な事を言わないで頂きたい」

 相手は浦の武項の右腕、風見である。決してこんな無礼な口を叩いていい存在ではない。海里はそんなことお構いなしに、ただ感情のままにそう詰め寄ったが、風見の反応はいたって冷静なものだった。

「根拠はあります。私達は今日のような機会を逃さないよう、絶えず玖波の周囲に間者を置いている。それこそ玖波の屋形の内部にもね。不穏な動きがあればすぐにでも察せられた状況下で、彼らの報告の中には浅海に関わるものは一つも無かった。とすると、彼女が行方知れずになったのは、玖波に関わりの無い場所でということになるでしょう」

「では、浅海は」

 この後に続くはずだった言葉は、ぐっと喉の奥に押し込まれた。

 頭を過ぎったのは、海里にとって望まざる形の答え。だが考え得る限りで、最もあり得る答えだ。信じられなくて、信じたくなくて、海里の視界がぐらりと揺れた。強い吐き気に襲われ、海里は咄嗟に口元に手を当てる。

「大丈夫ですか?」

 真っ青になった海里を気遣って、風見がそう声をかける。丁度その時、武項が一人の男を連れて部屋にやってきた。


「待たせたな」

 武項はそう言うとどかっと床に座り込んだ。示し合わせたように武項の右に風見が、左に男が腰を下ろす。

「紹介しよう。海里、これは浦の武人で砲という。まあ将軍には程遠い若さだが、私の軍事面での側近だ」

「噂は聞いているぞ。優秀だそうだな」

 砲はにかっと笑って見せ、海里に向かって手を差し出した。無視するわけにもいかず、海里もそれに応じた。

 砲は武項と並んでも何ら遜色がないほどの容姿で、また体格も優れていた。硬くなった肉刺や傷跡からは、相当鍛錬を積んでいるものと思われる。若くはあるが、武項が重きを置くのも頷けた。

「どうした。顔色が良くないぞ」

 武項は心配そうにと言うよりは、不快そうにそう尋ねた。

「戦の前で緊張しているのか?」

「武項様。海里はまだ」

 ちっとも心情を察そうとしない彼に、風見が横から口を挟む。

「ああ。例の件か」

 残念だったな。武項がそう続けた瞬間、彼以外の三人の顔がさっと変わった。風見と砲が揃って、嫌悪感露わな眼差しを武項に向けたが、彼は一向に気にする様子はない。

「娘が逃げたのであろう。まぁ、死んだという報告は受けていないし、安心していいのではないか。どちらにせよ、大事の前の小事。気にすることはない」

「小事、ですか?」

 大きく動揺したせいで、海里の声は震えていた。確かに彼にとっては些細な出来事であろう。けれど、海里にとっては命を失っても惜しくないほどの大事だったのだ。

「海里。今は緊急事態と言っても良い状況です。出来れば、すぐに我らに力を貸して頂きたい」

 反論しようとしたわけではない。けれど、風見はそう言って海里を遮った。思わず彼を見つめたが、風見は小さく首を横に振って見せた。その目には必死な色が浮かんでいる。海里はそれに抑え込まれるようにぐっと気持ちを堪えた。

「お前はその程度の男なのか?」

 拳を握りしめて小刻みに震える海里に、武項は呆れたようにそう言った。彼は腕を組み直すと、値踏みする様な目で海里を見つめる。

「お前が混乱する気持ちもわからないではない。だが、我らが戦覚悟でお前を助けだした意図を理解することすら出来ないのか?」

 ぶっきらぼうにそう言った武項の目には、隠すことなく苛立ちの色が映っていた。そして、おそらく無意識のうちなのだろう。彼の手は傍らの剣にそっと伸びている。

 答え如何によっては、この場で斬られるに違いない。そこまでわかってしまったというのに、不思議と恐怖はなかった。彼が求めているであろう答えは、既に出ている。

「私を利用したのでしょう」海里は無表情のまま、淡々とそう答えた。

 武項自らが玖波に乗り込んで来た理由。処刑されるはずの自分が、生きてこうして浦にいる理由。細切れながら情報は手元に在る。ばらばらだった点を繋ぐなど、造作もない事だ。

「罪人の私をあんなに派手に連れ出したのは、挙兵の合図だった。内紛でも裏切りでも、玖波に付け入る隙を見つけられれば、何でも良かった。そういうことでしょう」

 海里はわざと口調を変えた。これでどうだと言わんばかりに、自信たっぷりにそう続けた。その口調は安住の講義に意見する時のそれと同じ、相手を見下すような言いぶりである。そしてそれを言い終えた時、海里の心の内で何かが変わった。

 ようやく出された答えに武項は、それでこそ我らが欲した中ノ海里だ、と満足そうに笑った。彼の隣では、風見がほっとしたように長い息を吐いている。

「我らがいくら声を張り上げたところで、腰の重い年寄り連中は動かない。だが、あれだけ正面から喧嘩を売れば、我らが本気である事が東国中に伝わる。そうなれば玖波に敵意を持つ連中も動きやすくなろう」

 武項は悪びれる風もなく、きっぱりとそう言った。それがあまりに明け透けな物言いだったせいか、風見がすかさず補足を入れる。

「海里。我らがお前を利用した事には違いありません。けれど戦を仕掛けると同時に、あなたこちらの手中に入れることもまた、狙いだったのです」

「私を浦に?」

 風見だけでなく、武項と砲も大きく頷く。

「お前の力、浦に欲しい」

 食い入るような彼らの眼差しが、如何に真剣な頼みであるかをよく物語っていた。それに絆されたわけではない。だが、海里の首は、ゆっくりと縦に振られた。

「わかりました。お引き受けいたしましょう」

 そもそも海里に選択の余地などあるわけがない。これだけの面々が直々に話を切り出すということは、断れば即刻消されるということだ。一度失いかけた命に今更惜しさは感じないが、それでも何の大成もないままで死ぬよりかは、武項の下で玖波に鉄槌を下してからの方が良いだろう。

「私でお力になれるのであれば、是非」

 海里の答えに三人は、そう言うのを待っていたとばかりに、満面の笑みを見せた。

 所詮、計略の中で踊らされただけだろう。だがそれでも、誰かが自分を欲してくれているということは、少なからず海里に力を与えた。海里は、すかさず今後の方針を問う。

「こちらから戦を仕掛けるのですか」

 頷く武項の眉間に皺が寄る。

「先代の造である我が父は非常に無能な男であった。豪族に良い様に利用され、国府はもちろん東国全体が一部の者の食い物にされてしまった。それはお前も知っているだろう。兄に造が代わった今、東国の建て直しが必要なのだよ。手始めは諸悪の根源である、玖波だ。海里、お前は石賀の企みを何処まで知っている?」

「私は所詮厄介者。それ程多くの事はわかりませんが」

「構わん。知る範囲で教えてくれ」

「石賀のというよりも彼の側近である谷田の目論見は、国府との繋がりを取り戻すことです。造様が代わられてからは、やはり彼らもやり辛いようですね。武項様のお力で政権が元の場所に戻ったことで、玖波から離れていくものも多いのでしょう。だからこそ手始めとして、元々属郡のように扱っていた佐間との連携を強固にし、背後を固める積もりなのかと。それに加えて、浦を取り囲むように各郡の司との仲を緊密にしているとの噂もございます」

 海里は一気に言ってのけた。もともと玖波に対する情などは一切ない。更に言えば、今は、誰に対しても何の感情もなかった。どこで戦になろうがなるまいが、どうでもいい。

「ほう。では向こうもそれなりに戦の準備は出来ているというわけか。それで玖波にはどれくらいの蓄えがある?」

「そうですね。国府に届け出ている数の、少なくともざっと三倍でしょう」

「成程。そうなると、持久戦は期待できませんね」

 風見が腕を組み直して砲を見る。彼はううんと呻って、指で空気に数を書き始めた。

「兵数はどうだ」

「国府に出している兵が戻って来るとすれば、おそらくは東国の総数の三分の一か。もしくは半分弱でしょうか」

「国府の兵は気にするな。彼らの半数はこちらに寝返った。気掛かりなのは玖波に常駐している兵数だ」

「であれば、玖波単独での常駐兵は百程度でしょう」

 海里がそう告げると、武項は苦々しげな顔で頬杖をついた。

「国府にも出さなかった隠し玉だ。はたして、どの程度のものか」

「玖波の将たちは、侮れませんからね」

 風見の意見に、砲も大きく頷いて見せる。

 国府、そして浦。東国を支える大黒柱は間違いなく浪海の周囲を取り巻く一帯であったが、それでも全ての統治が収束しているわけではない。そこには、国を維持するために必要不可欠である軍事力が欠けていたのである。

「我らがいくら新兵達に訓練を執り行おうと、所詮は訓練。常に隣国や山賊などの脅威に晒されてきた奴らとは、経験が違う」

 武項は苦々しげに呟いた。

 玖波の強さは、峰を越えた先が他国であったが故のものである。国境近くは、常に争いの火種が至る所に巻き散らかされているもので、玖波の住民達にとって、戦は日常の一環と化していたのだ。戦を重ねるうち、次第に武器や技術も高度になり、いつしか東国一の軍事士族になったのである。

「けれど、それでも倒せるとお考えなのでしょう」

「ああ。勿論だ」

 武項の自信あり気な言葉に、問いかけた砲の顔にも、にやりとした表情が浮かぶ。


「和睦だと?」

 鎧、甲冑を身に付けた武項の元に、玖波からの使者が遣わされたのは、その日の夕刻の事であった。

「今更、何を言う」

 苛立った武項は目の前に在った椅子を蹴り飛ばすと、そう怒鳴った。

「既に兵は集まった。最早、後になど引けぬ」

「はっ。しかしながら玖波側には戦の意はなく、今後の友好を望むという事です。中ノ殿につきましても、処分はそちらにお任せすると」

「馬鹿な」

 武項はそう吐き捨てると、憤怒の表情を浮かべた。彼の隣では砲も似た様な顔をしている。

「図られましたね」

 今にも暴れ出しそうな二人の傍らで、風見だけが冷静だった。

「今戦をすれば、玖波はたとえ負けずとも窮地に陥るのは必至。それならば政務で武項様と存分に渡り合った後に、叩き落そうという考えでしょうか」

「そんなものは奴の都合だ。攻め込むのであれば、今しかあるまい」

「駄目です。相手が和睦を申し込んでいる以上、豪族達の覚悟も緩みましょう。そんな中で無理に戦を押し進めては、あなた様ご自身に危害が及ぶ可能性もございますよ」

「構わん。戦に臨むからには、命を落とす覚悟は出来ている」

「馬鹿な事を。お忘れですか?あなた様の望みは東国の立て直しです。自ら危地に臨むなど、狂気の沙汰だ」

 最後の方は叱責に近い口調だった。風見は真剣な眼差しを武項に向けながら、こうも続ける。

「いいですか。元々、相手が仕掛けてくるのを待つという策でしょう。玖波が攻め込んで来なければ速やかに軍を解き、次の機を待つと。違いますか」

「けれど風見様。これだけ高まった士気を無駄になさるというのですか。戦に想定外な事は付き物だ。俺はこのまま攻めるべきかと」

 押し黙った武項に代わって、砲がそう自論を説いたが、風見は頑として首を縦に振らなかった。彼は両手を広げて、血気に逸る二人を制した。

「無駄な血を流すことが良いとは思えない。勝てるべき時に然るべき策で勝つ。そう取り決めたでしょう」

「ではこの機を逃し、また待つのですか。その間にも東国はどんどん疲弊しますよ」

「そうならないように海里を得た。とにかく現段階での戦は避けるべきです」

 風見の有無を言わせぬ迫力に、掴みかからんばかりの勢いであった砲は、急に大人しくなった。彼に賛同気味であった将達も、武項と風見を交互に見やり、じっと決断を待っている。

 当然、和睦だろう。海里は場の空気から一早くそう察した。いつもより回転が鈍い頭でも、この位の計算は出来るものだ。

 もしここで武項が強硬策を取り、玖波に敗北でも喫すれば、それこそ最悪の事態になる。玖波の独裁性が強まるばかりか、武項達はおろか彼の兄である造も、今の立場から引き下ろされかねない。反逆者として処刑されることだって充分あり得るのだ。

「今回は捨てて、もう一度機が熟するのを待つべき、か」

 武項は、風見の言い分を纏めるようにそう言った。一見すると決断を悩んでいるように思えたが、側近たちはその言葉で彼の意を察したようである。

 砲は残念そうに舌打ちをすると、手にしていた小手を地面に投げつけた。武項はそんな彼の肩をぽんぽんと叩く。

「今回は仕方がない。風見の進言が当たっていそうだ」

 宥めるようにそう言う主に、砲はぶすっとした顔のまま頷いた。


「すっかりご機嫌斜めだね」

 風見が何とはなしにそう切り出したのは、書庫へ向かう回廊を歩いている時であった。

「彼も決して頭の切れは悪くない。でも、そこはやっぱり武人だからかな。こうしてぶつかることは少なくないんだ」

 彼の声には少しも棘がなかった。何と言うか、年の離れた兄が駄々をこねる弟に言う様なそんな感じである。上辺の言葉だけでなく、彼が砲を信用しているということがひしひしと伝わってくる。

「私は風見様に賛同でした」

「おや、それは光栄だね」

 海里がそう言うのを期待していたかのように、風見はにっこり微笑む。その細面の顔は、どことなく儚げな娘を思わせた。間違いなく男性であるというのに、照れくさくなった海里はそっと目を伏せる。

「確実な勝利のためには、引くことも大事かと」

「私もその通りだと思うよ」

 わかってくれてありがとう、風見は嬉しそうにそう続けた。


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