第2話 雷鳴

 月夜の浜辺に潮騒が響く。絶え間なく打ち寄せる波は宵闇に黒く染まり、弾ける泡はまるで黒真珠のようだ。

 深紫の空の片隅に浮かぶのは、見事な円を描いた銀月。その明かりが柔らかく降り注ぐ砂浜には、浅海の影だけが寂しげに伸びていた。

 悔しさ、寂しさ、そして怒り。

 今の気分はそのどれかがぴたりと当てはまるわけではない。むしろ、ごちゃ混ぜになっているが故に、単体で感じるよりももっと重い負の感情だった。


 浅海は邪魔な履物を脱ぎ捨てると、素足のまま浜辺を思い切り駆けた。が、やはり足元が悪い砂浜のこと。上手く走れず、幾らもたたないうちに思い切り地面に転がってしまった。

 さらさらとした砂が舞い上がり、けほっと咳き込む。両手を広げて大の字に寝そべりながら、浅海は天の月を睨んだ。



 季は晩夏。今宵は年に一度の大社の大祭である。

 流石に大祭というだけのことはあり、そこらの村祭りとは規模が違う。今宵の祭祀を司るのは東国の造その人であるし、守人には高名と名高いどこぞの巫女をわざわざ呼びつけているそうだ。

 桟敷には造をはじめ、各郡の司がずらりと並んでいた。浅海の父、伊佐がやたらと造の近くに座しているのは、彼の隣にいる玖波の石賀が有する絶大な権力のお陰であろう。実質はともかく、表向きは盟友同士。二人が並ぶのは至極当然なことであろうが、脆弱な佐間の司が造にあれほど近いところにいるのは、何となく不自然に思えた。


「東国の御柱、大社様に感謝せよ」

 造は杯を右手で振り回しながら威勢良くそう告げた。赤い顔をして大声で笑う姿は、普段の弱弱しいそれとは正反対だ。普段からああやって堂々としていれば、石賀の傀儡になどならないものをと、心中で毒づく。

 既に酔いの回りきった各郡の司や大勢の臣下が、彼の言葉にもっともらしく頷き、拍手喝采で盛り上げてやる。本音を隠しながら上手く立ち回る者達が集うそんな桟敷を、浅海は輪から少し離れた所から冷めた目で眺めていた。

「大社様、万歳。造様、万歳」

 意味もなく繰り返されるだけの言葉だというのに、造も司達も満足そうである。

見ているのも馬鹿らしくなり、浅海は視線を少しずらしたが、その行動は確実に失敗だった。その先には余計に苛々するものがあったのである。

 砂煙が立ち昇り、楽が鳴り響く高矢倉。神炎と呼ばれる篝火にぐるりと周りを囲まれたそれは、煌々と赤く照らされ、こちらの気持などお構いなしに、年頃の娘達と共に華やかに夏の夜を彩っていた。


 宴が最高潮を迎えようとしているこの時分、こんな外れをうろうろしているのは、浅海くらいのものである。同年代の娘達などは『我こそ一番』とでも言う顔をしながら、輪の中心で浮かれ騒いでいるだろう。むんとした夜気と熱気で吐き気がするほど空気が淀んでいるあの場には、とてもいられなくて、浅海はさっさと引き揚げてきたのだ。

「何が楽しいのかしら」

 人垣の間からちらちら覗く篝火を横目で見ながら、小さく呟く。


 心ときめく出会いを求めて、二月も前から着物や髪飾りを選び抜き、最高の装いで宴へと臨む娘達。飾り玉も違えば、髪の結い方もまた人それぞれ。その気合いといったら浅海などとは雲泥の差である。

 晴れやかな表情を浮かべながら、楽の音に合わせて歌い踊るその姿は、確かに数段綺麗に見えたが、だからといって自分もそうなりたいとは思わない。頬を紅潮させてはにかむ彼女達の心情など、少しもわからなかったし、嬉々としてはしゃぐ笑い声を聞いていると、神経がぴりぴりするだけだった。

 とは言っても、浅海も今年で十五になる。大人でこそないが、何も知らない子供でもない。今日がどういった意味を持つ日なのかも充分にわかっていた。

 重い頭に手を伸ばすと、いくつも垂れている飾り玉がじゃらじゃらと喧しい音をたてた。


 こんな格好、したいわけじゃなかった。

 余計なものは何もいらない。身に纏うのは最低限のものだけで充分だ。したくもない化粧をして、重苦しくて派手な衣装をしている自分の姿は、滑稽でとても馬鹿馬鹿しかった。

 

 浅海は力任せに玉を外すと、ぽいっと地面へ投捨てた。

 柔らかな砂の所為で飾り玉はぼとりと張合いの無い音を立てて転がる。捻じ込んであった簪を乱暴に外すと固く結った髪がばさりと解け、数刻ぶりに自由となった黒髪が何事もなかったかのようにすとんと背に流れた。

 締め付けられた感覚から解放されたからか、はたまた潮風が体を冷やしてくれたおかげか。涙と怒りで火照った頭もようやく落ち着いてくる。

「こんなはずじゃなかったのに」

 言葉と共に、浅海は体の中に溜まった不快な空気を一度に吐き出した。



 造直々の依頼の書が届いたのは、いつものように浅海が佐間の社を訪れていたときのことだ。

「どうして御受けにならないのですか。大祭の守人ですよ。とても名誉なことではございませんか」

 真昼の一番暑い時刻、断りの返事と共に使者を早々に返してしまった巫女に、浅海はそう口を尖らせた。

「せっかく、巫女様が皆に認められる機会だというのに、もったいないとは思いませんか。あなた様はこんな処で収まる様な御方ではないでしょう」

 不満顔を浮かべたままの浅海に、巫女は柔らかい笑顔を見せる。

「浅海。わかっていると思うけれど、巫女はね、権力者に認められるためにいるのではありませんよ。誉れなど必要無いの」

「それは、そうですけれど」でも、もったいない。浅海は胸中でそう繰り返した。

 確かに彼女の言い分は尤もだとは思う。けれど彼女の理想を広めるためには、その優れた力をもっと多くの人に知ってもらった方が良いに決まっている。綺麗事だけで生きて行くことの難しさは彼女だって良く知っているはずだ。

 何かが燻ぶる浅海の心中を察したかのように、巫女はこう続けた。

「いい?巫女は自分の意志で神にのみ仕えるもの。時の権力に翻弄されるものであってはならないのですよ」

 わかっております、とぶすっと答える浅海に苦笑しながら、彼女は造から贈られてきたばかりの管玉を手渡してきた。いらないと頑なに拒絶する巫女に、無理矢理使者達が押し付けて来たものである。浅海はそれを膝に乗せると、手元に在った磨き布を桶の水に浸した。

「大社は東国の御柱。その守人には、私以外にもふさわしい方はたくさんいるわ。私はね、こうして小さな平和を少しずつ守っていくことが役目なのよ」

 手慣れた調子で玉を扱う浅海に、巫女はそう言って微笑みかけた。その笑顔がとても晴れやかで、浅海も思わずつられて表情を緩ませたが、口からはつい本音が飛び出していた。

「でも…結局、平和なのは佐間だけです」

 玉に視線を落としながら、浅海は何気なく言葉を続ける。

「玖波は圧政を敷かれたままです。領民は日に日に飢えて、その日を生きるのも苦しんでいると聞いております。もし巫女様が大社で権威を得れば、石賀も少しは態度を改めるのではありませんか。巫女様のお力がもっと広く知れ渡れば、もっと権威を得れば、東国全土の平和に繋がりますわ」

 そこまで言ってしまった瞬間、しまったと思った。案の定、巫女の顔は曇り、目つきが鋭くなる。

「すみません、余計な事を申しました」


 慌てて謝罪をしたが、もはや遅かった。巫女は無言のまま、浅海をまるで汚らわしいものでも見るかのように眺めていた。

「出て行きなさい」

 静かでとても落ち着いた声だった。けれど、それは穏やかな彼女が初めて見せる激怒だった。余計な事は何も言わない彼女に、自分が口にした言葉の意味の重さを思い知らされる。呼び掛けることすらも躊躇われ、ただおろおろするしか出来ない 浅海に、彼女は最後こう告げた。

「もう二度と、ここには来ないでちょうだい」

 その後、何度社を訪れても、彼女は頑として会ってはくれなかった。戸を開けることすらしてもらえず、浅海は十度目でようやく諦めることに決めたのである。何年も通い続けた場所を突然失くした寂しさは本当に大きかったが、自分の播いた種だ。諦めるしかなかった。

 


 忘れよう。巫女への憧れを綺麗さっぱり洗い流して、周りの娘達のように普通に恋をしよう。楽しく過ごせればそれでいい。

 無理矢理自分にそう言い聞かせて、浅海はようやく身を飾ることに精を出し始めた。その手助けをしてくれたのは、もちろん葉那である。

 従妹でもあり、親友でもある彼女は、元々浅海が社に出入りすることを良くは思っていない。恋をして、毎日を楽しく過ごすことこそ、生きる醍醐味だと言う彼女は、浅海が巫女に憧れるのを奇異な眼差しで見ていたのである。

 彼女にとっては、浅海が意に沿う相手を見つけ、普通の娘のように過ごすことが一番なのだ。二人で恋話に華を咲かせて、けらけら笑い合いたいのである。放っておくと部屋に引き籠ろうとする浅海を、葉那はとにかく色んな場に引きずり出した。

「社に行けないのが何なの。そんなの別に大したことじゃないでしょ。それよりも、ほら。今度の大祭、ちゃんと綺麗にしていくんだからね」

 明るくそう告げて、片目をぱちりと閉じて見せた葉那は、どきりとするほど素敵だった。

「いいこと。今度こそは意中の人を見つけるのよ。あなたが恋も知らないまま嫁ぐなんて、私は認めないわから」

 浅海にこんな恰好をさせた張本人である葉那は、支度をしている間中、しつこいほどにこう言ってきた。

「あなたはただの娘じゃない。佐間の司の一人娘よ。多分、想人と結ばれることはない。でもね、だからこそ今楽しむべきなの」

 両肩を掴まれ、それが義務だと言わんばかりの迫力で告げられたその時の言葉が、何度も頭の中を巡る。今までは軽く聞き流してこられたのに、今回ばかりはずしりと重く圧し掛かった。

 

 浅海が欲しいものと、葉那が求めるものは、水と油ほどに相容れない。彼女は女である幸せを求め、それを叶えてくれそうな相手を見つけることに喜びを感じている。けれど浅海が欲しいのは、自分が、自分だけが、特別であるという証だ。そしてそれを叶えてくれる力をもっていたのは、巫女だけであった。


 浅海が跳ね上がるように立ち上がったのは、何気なく高矢倉に視線を遣った時だった。

「まさか」

 いるわけがない。自分の目を疑って、思わず息をのんだ。


 梯子を伝って降りてくる、すらりとした長身の女性の姿に、しばし釘付けになる。間違いない。佐間の巫女だ。目にしている光景が信じられなくて思考は停止したものの、体は勝手に動いていて、気付いた時には勢いよく走り出していた。

「巫女様」

 ぜいぜい言いながら、必死で声を張り上げる。誰もいない浜辺には浅海の声がこだまするが、周りの騒音が喧しくて、あちら側の彼女には絶対に聞こえていないだろう。浅海は恥ずかしげもなく裾をたくし上げると、速度を上げて彼女の元へ駆けた。


 ようやく彼女を捉まえたのは、宴の輪と浜辺の間にある林の中だった。巫女は、おそらく浅海の姿に気付いていなかったのだろう。こちらを見つけるなり、彼女はあからさまに進路を変えた。だが、そうはさせまいと浅海は無理矢理彼女の前に回り込む。

「お久しぶり、ですね」

 久々の再会に気まずさがずしっと圧し掛かってきたが、勇気を振り絞ってそう告げた。だが彼女は、厄介な事に巻き込まれたかの如く眉間に皺を寄せると、浅海と目も合わせずに踵を返そうとしたのであった。

「お待ち下さい」

 浅海は息が上がったまま、彼女の前で両手を広げると、通せんぼうの格好をする。

「まさか、いらしているとは思ってもおりませんでした。どうして教えてくれなかったのですか」

 めげずに言葉を続けたが、やはり応答はない。浅海は咄嗟に彼女の装束の裾を掴むと、逃がさないとばかりに固く握った。

「お答えください」

 はっきりと言ったつもりだったのに、出てきた声は頼りないほどか細かった。喉はからからに乾いており、掠れた声を絞り出すのが精一杯だったが、それでもどうにか言葉を続ける。

「あの時、つい弾みで言葉が過ぎてしまったことは謝ります。本当にすみませんでした。でも、それなのに」

 浅海はうまく出てこない声の代わりに、彼女の袖を握る手に力を入れた。するとその時、ぱしりと音がして、手の甲に鋭い痛みが走った。


「放してちょうだい」

 叩かれたということを認識できたのは、そう告げられた後であった。誰の声かわからずに、思わず左右を横目で伺ったが、目の前の彼女が発した言葉であることなど考えるまでもない。

 こけた頬に、青白い表情。そして色素が抜けてしまったかのように白っぽい唇。明朗快活という言葉がぴたりと当てはまる彼女であったはずなのに、今、浅海の目に映っているのはまるで別人だ。

「あなたは、誰…?」

 見慣れぬ姿と、彼女らしからぬ振る舞いに、浅海は思わずそう言いそうになった。

 巫女は、浅海を頭の先から爪先までじろりと一瞥すると、その薄翠の目に嘲笑の色を映した。

「随分、綺麗な格好ね。流石は佐間の姫君様」

「話をはぐらかさないで下さい。私はあなた様がここにおられる理由をお聞きしているのです」

 嫌味ったらしい言葉にむっとして、つい口調が荒くなる。

「この間、おっしゃっておられたことは偽りだったのですか。大祭の巫女は決して引き受けないと、あなた様は、はっきりとそうおっしゃいました。そして受けることが誉だと言った私を叱責したではありませんか。それなのにどうして?どうして、ここにおられるのですか。あなた様だって、結局は権に目が眩んだのではありませんか」


 勢い任せにべらべらと話したものの、声は次第に小さくなっていった。話している途中で、謝罪がいつのまにか責めに転じてしまっていたことに気が付いてしまったのだ。これでは火に油を注ぐどころではなく、油の中に火種を投げ込んでいるようなものである。顔を見る勇気もなく、浅海は俯いたまま返答を待った。

 緊張の所為か、答えを聞くまでの間はとても長く感じられたが、時にしてみれば数秒もなかったに違いない。そして実際に答えを聞くのはほんの一瞬で済んでしまった。巫女は少しも迷うことなく、持ち前のさばさばした口調でこう告げてきたのである。

「話す必要なんて無いでしょう。あなたになど関係ないのだから」

「関係ないって、だって私は」

「私がいつ、あなたを必要としたかしら?」

 巫女はそう繰り返すと、くつくつと白けた笑い声を立てた。

「浅海、ごめんなさいね。けれど、もうあなたの戯言に付き合う気はないのよ」

 彼女は心底煩わしそうにそう言い捨てると、浅海を小馬鹿にするように首を少し傾けて見せた。その所作が信じられず、浅海は思わず目を疑う。


 目の前にいるのは、本当に彼女なのだろうか。姿はもちろんのこと、口調も、声も、何もかもが違う。無性に悲しくなり、喉の奥が熱くなったかと思うと、あっという間に涙が溢れてきた。彼女の透き通った薄翠の瞳がぼやけて見える。

「泣けば、どうにかなるとでも思っているの?甘えるのは、もう止めにしたらどうかしら。あなたもいつまでも子供ではないでしょう」

 涙に咽る浅海に、巫女はゆっくりと一語一語噛み砕くように続けた。

「我儘を通すだけではなく、自分の立場というものを考えなさい。あなたはね、十分恵まれている、そうでしょう。権力に守られて、今までもこれからも、恵まれた生活を保障されているわ。そんなあなたが巫女になりたいなんて、冗談もいい加減にしてちょうだい。生きることが辛くて、その状況をどうにかしたいと思っているのに、それでも何もできないで命を落とす人が大勢いるのよ。飢えにも寒さにも苦しめられたことのないあなたが、これ以上何を望むの」

 巫女の低い声はじんわりと体を巡り、胸にぐさりと突き刺さった。彼女が言わんとしていること、それは今まで自分が目を背け続けてきたことだ。

 

 佐間の司の家に生まれ、今まで苦労というものをしたことがない世間知らずの娘。生活は豊かで、衣食住に不自由したことなど一度もなかった。けれどそんな自分を、彼女はいつだって大らかに受け入れてくれていたではないか。それなのに、今になって…。

「あなたには、あなたの道がある。私には、私の道がある。私達が共に過ごしたのは、それが偶々一点で交わっただけの話。だからいつまでも戯れが続くわけはなかったの」

 そう言って彼女はこちらに背を向けると、再び梯子に手を掛けた。そして数段進んだ後で一度動きを止め、今度はこう言った。

「浅海、これだけは覚えておきなさい。望みは全て叶うとでも思っているのなら、それは誤りよ」



 巫女が去ってしまった後、一人取り残された浅海はふらふらと大岩に寄り掛かった。彼女を追いかけて、縋りつく気力はもうどこにも残っていない。幼い頃から一心に慕い、憧れてやまなかった存在の彼女に、二度も完全に突き放されたのである。受けた傷は自分で思っている以上に深かった。

「全部を欲しがっているわけじゃないのに」

 ぽたぽたと落ちる雫が、白い袖を鼠色に染めていく。


 神の声を聞き、類稀な霊力を持つという巫女。佐間の社に落ち着く以前の彼女は、特に社を定めることのない、いわゆる流巫女であったと聞いている。国や郡といった枠に囚われず、病や怪異に悩む人々を救うため、各地を転々としていたそうだ。

「浅海、あなたも自分の意志を持ちなさい。どんなに辛いことがあろうと、生きたい道を選ぶことが本当の幸福よ。私もね、苦しむ人を少しでも減らしたい、そう思って色んな地を巡ってきたの」

 輝くような笑顔で巫女にそう告げられた時、幼いながら全身に鳥肌がたつほど感動したことを、浅海は今でもはっきり覚えている。彼女と言う人間が大好きになった瞬間だ。自らの意志のままに行動することの素晴らしさをまざまざと見せつけられ、浅海の中で何かが弾けたのである。巫女になりたいと思ったのも、まさにその時だった。


 巫女と過ごした数年が走馬灯のように脳裏に映り、また悲しくなってくる。思い出すのは、笑顔の彼女ばかりだ。あんなにも優しかった彼女が自分を拒絶したなんて、未だに信じられなかった。



「何が駄目なのですか」

 突然、そう叫ぶ若い娘の声が辺りに響いたのは、浅海が同じ言葉を呟いたのと同時の事であった。

 静寂の中、物思いに沈んでいたのを思い切り妨害されたのである。あまりに驚いたせいか、涙もぴたりと止まってしまった。ぱちぱちと何度か瞬きをして残っていた水滴を払うと、浅海は声のする方に顔を向けた。すると人影が二つ、こちらに向かって進んでくるのがわかった。

「お願い。待って下さい」

「私に構うなと告げたはずだが」

 情感たっぷりの泣きそうな娘の声と、それとは正反対の冷めた口調。どうやら、こんな日には付き物の男女の面倒事らしい。

 さっさと逃げようかとも考えたが、それはやめて岩陰に隠れた。下手に動かなければ見つかることもないだろう。息をひそめ、存在感を出来るだけ消しながら、浅海は二人の様子をそっと伺う。


「父との約束を、違える御積りですか」

 すぐそばでそう聞こえ、浅海の眉間には皺が寄る。運の悪いことに、彼らは浅海のいる岩の反対側で足を止めてしまったようだ。

「元より、そんな話は無かったと思うが。そなたの勘違いではないのか」

「そんな…酷い。私がどれほどこの日を待ち侘びていたか。あなたにはおわかりにならないのでしょう。あなた様と想いを交わすこと、それがどんなに私の幸福か」

やたらと言葉に強弱をつける口調は、青年の気を引くための手管であろう。如何にも女らしいさめざめとした泣き言に、他人事ながら思わず悪態をつきたくなる。

「父はあなた様を高く買っております。ゆくゆくは跡目を任せられる人物だと」

「郡と娘を餌に私を釣るつもりか。残念だが、食いつく気にはなれないな」

「荒居では、いえ、私ではあなた様を満足させられないとおっしゃるのですか」

 娘の言葉に、浅海は思わず目を丸くした。


 荒居と言えば、玖波と並んで国府に次ぐ権を有する郡である。政幕から完全に外れている佐間などとは違い、東国の中枢を担う郡と言っても良かった。そうなるとこの後ろにいるのは、美しいと評判の陽という娘であろうか。つい首を伸ばしたくなってしまったが、そこはぐっと堪えた。

「あなた様が望むものがあるなら、何でも叶えて差し上げます。それこそ荒居でも、東国での栄職でも、欲するままに致しましょう。そんな私に何の不満があるというのですか」

 聞いていて呆れ返るほどに馬鹿馬鹿しい誘い文句だったが、確かに荒居の姫であれば、出来ないことは何もないだろう。けれど、どうにもむかっ腹が立つ物言いである。

「あなた様程の能力がある方が権を手にすれば、それこそ何でも叶いましょう。私であればそのお手伝いが出来ますわ。どうぞ、もう一度お考えになって」

 感情が昂っているようで、娘の言葉は相当演技がかっていた。これに騙される男は正真正銘の馬鹿だと失笑を堪えながらそう思っていた矢先、浅海ははっと身に覚えを感じた。彼女が告げている言葉は、浅海が巫女に言ったのと大して変わらない。浅海が勝手に押しつけた価値観と何ら違わなかったのだ。

 

 ずっと心の奥に引っかかっていたものが、ようやく解けた。

 巫女は浅海の中にある、つまらない自尊心を見抜いていたのだ。そして微温湯につかり過ぎた浅海がそれを捨てられるだけの勇気がないことも。だから道を違えたのである。もし浅海に全てを投げ打ってでも、巫女として生きる覚悟があったなら、彼女もこんな別れ方は選ばなかったのだろう。


「巫女様が私を見限るのも当然ね」

「見限られたとは穏やかじゃないな」

考え込んでいる所に声が頭上から降ってきて、浅海は情けなくも、ひいっという小さな悲鳴をあげだ。まさかばれていたとは思わなかった。予想外の展開に心臓は跳ね上がりそうな位大きく弾む。

 目の前に現れたのは、青年が一人。娘の姿はどこにもなかった。

「ごめんなさい。出そびれてしまって」

 ぱっと立ち上がって軽く頭を下げたものの、すぐに疑問が涌いてきた。

何で自分が謝る必要がある。そもそも先にここにいたのは浅海であり、彼らが後から勝手に来たのではないか。そう反論しようかとも思ったが、今夜はまた誰かと言い争うのはごめんだった。

「立ち聞きするつもりはなかったのです。余り聞いていませんでしたし、どうぞご安心を。あの、もうお一方は?」

「とうに去っているが、気付かなかったのか」

 あなた達に興味はありませんから。そう言ってやりたいのを飲み込むと、浅海はそろそろと頭を上げて、上目遣いで彼の様子を窺った。


 年の頃は浅海よりいくつか上であろう。そんなに長身というわけではなさそうだが、それでも小柄な浅海よりは頭一つ分高く、鍛錬してあるのであろう体つきはたくましい。どことなくきつそうな印象を受けるのは、細い眉と切れ長の目のせいだろうか。理知的で端正な顔立ちは、この辺りの人間とは一風異なっていた。何と言うか、誰も寄せ付けないような独特の雰囲気に妙に惹かれ、浅海は青年から目が離すことが出来なかった。

 魅入られたようにじっと見つめる浅海に、青年は薄い笑みを浮かべる。月光に照らされたその表情は、ぞくりとするほど綺麗だった。

「随分、落ち込んでいたようだな。佐間の姫君」

低いが、重苦しさを全く感じさせないその声に、浅海の鼓動は不意に高鳴った。うるさく騒ぐそれを必死になだめようとするが、味わったことのない感情に頭が追いつかない。異性の声を魅力的だなどと思ったのは、生まれて初めてだ。

「私を御存じなのですか?」

 青年は答えない。代わりに浅海のすぐ隣に背を預けた。

「そなたは、巫女になりたいのか」

「あなたこそ、盗み聞きですか」

「きゃんきゃん喚く声が聞こえただけだ」

 青年はくつくつと笑いながらそう告げた。あのみっとも無い様を見られていたのかと思うと、情けなさに溜息が出てくる。あの時は、巫女に取り縋ることに必死で周りに人がいるなど考えもしなかった。

「…なりたかった。でも、今となっては過去のことです」

 喉に刺さった何かを吐き出すように、小さく呟いた。答えに窮したのは仕方がないだろう。今さっきのことを即座に割り切れるほど、まだ人間が出来ていない。どうにかそれだけ答えるのが精一杯だった。

「諦めた、というのか」

「仕方ないでしょう…きっぱりと決別を告げられてしまったのですもの」

 そう答えると、浅海は視線を地面に落とした。

 瞼の裏に、はっきりと映る巫女の冷たい表情。彼女にそんな顔をさせたのは、他ならぬ浅海自身だ。残されたのは、切り捨てられたという傷痕と、そうさせてしまった自分への後悔。そう思えば思うほど胸がきりきりと痛み、涙が零れそうになる。

「私は本気であの方に憧れておりました。でも私は到底あの方の足元にも及ばない、つまらない人間だったのです」


 そこが限界だった。大粒の涙が次から次へと頬に線を描いて行く。まるで涙と共に力が抜けていくような感覚に襲われ、浅海はその場にへたり込んだ。

「同情でもして欲しいのか」

 泣き崩れた浅海の頭上から、うざったそうな青年の声が浴びせられる。

「この場で涙を流して何になる」

「別に、あなたに慰めてもらおうとは思っておりません」

 浅海は、ぐしゃぐしゃになった顔のまま青年を睨みつけると、思い切り怒鳴り付けた。

「だけど、慕っていた人間にあんな風に突き放されて。それでも平静にしていられるなんて、出来るわけがないじゃない。」

 一度沸き起こった感情は、もう止められなかった。胃のあたりで沈んでいた、鉛のように重苦しい感情。それは怒りと言うよりはむしろ悔しさだ。浅海は感情の赴くままに、それを彼にぶつけた。

「あなたになんか、わからないわよ。関係無いんだから、放っておいて」


 砂の間に埋もれた手の上に、ぽつりと水滴が落ちる。何事かと見上げれば、今度は額に大き目の雫が降ってきた。

「雨か」

 そう呟いて天を仰いだ青年に倣って、浅海もまた上を見上げた。ぽつぽつと落ちる間隔は一気に短くなり、あっという間にどしゃぶりになる。蒸すような暑さこそいくらか和らいだが、その代わりにどうしようもないほどの湿気が襲ってきた。

「今宵の晴天を祈った巫女の願いは、聞き入れて貰えなかったようだな」

 青年はまるでこうなることが当然であったかのようにそう言った。


 この時期であれば当然である天からの恵みも、今宵ばかりは最高に不要なものだ。宴を成功させられないとなれば、巫女はその力を疑われる。まして大社の大祭となれば、造自身が彼女を罰する可能性だって充分にあった。

 雷鳴が轟き、稲光が夜空を覆う。浅海はごくりと唾を飲み込みながら、ぱっと高矢倉を振り返った。すると大火は見る見るうちに小さくなり、矢倉の篝火に至っては、既に光を失っていた。


「待て」

 反射的に矢倉に向かって駆け出そうとしたその時、浅海の腕は青年にしっかり掴まれていた。

「放して下さい。巫女様をお救いしなければ」

「馬鹿者、あの一帯が雷の中心だぞ」

 青年は本気で引き留めてきたが、それに従うつもりなどさらさらなかった。そんなことは言われなくてもわかっているのだ。夜の闇よりずっとどす黒い暗雲が、矢倉の上空に蠢いていることなど、一目でわかる。だが、だからこそ、あの上にいる巫女が危険なのである。浅海は無理やり彼の手を振り解くと、一目散に飛び出した。


 桟敷の手前まで来たところで、雨は急激に強さを増してきた。視界はほとんど閉ざされ、これでもかというほど打ち付ける雨粒が肌に痛い。着物はびっしょりと濡れてやたらと重く、布地から伝わる冷たさに浅海の体は自然と震える。既に大火は横殴りに降る雨にあっさりと消されており、視界を照らすのは、時を空けずに発する雷光だけである。浅海は感覚だけを頼りに夢中で梯子を上ると、最上段に辿り着くなり、巫女の姿を探した。

「巫女様」

 手でひさしを作って、何度も何度も端から端を見回すが、人の姿はどこにもない。

 こんな狭さではどこかに隠れることなど出来ようはずもなかった。手摺に寄りかかって階下を見ても、降り注ぐ雨の中には誰もいなかった。

「無事に逃れたのならいいけれど」

 まるで簾のように太い雨を呆然と眺めながら、大きなため息をつく。寒さに歯の根が合わなくなり、浅海は両手で体を抱きしめた。その時である。まるで昼間のような明るさに包まれたかと思うと、そのすぐ後に地響きのような雷鳴が轟いた。

余りの音の大きさに、思わず耳を塞ぐ。しかし同時に、背中に激しい痛みのような熱さを感じた。


 おそるおそる振り向いてみると、そこにはまるで生き物のようにうねる炎が巻き起こっていた。そればかりではない。柱は赤々と燃えあがり、今にも崩れ落ちそうだった。恐怖に後退りする浅海に追い打ちをかけるように、雷は再度同じ場所めがけて落ちてくる。

 どうしよう。そう思った時には既に、浅海は衝撃で飛ばされていた。


「危ない」

 誰かがそう叫んだのはわかったが、それ以上何かを考える余裕などはなかった。崩れ落ちる手摺を必死に掴んだが、ふわりと体が落ちていくのが感じられる。

「叩きつけられる」

 浅海は直感でそう思ったが、衝撃は予想外に軽かった。硬い土に打ちつけられるはずであった浅海の体の下には、温かな何かがあったのだ。けれどそれを安心したのも束の間、浅海は引き抜かれるほど強く腕を引っ張られ、そのまま地面に倒された。そして気付いたときには誰かの下敷きになっていたのである。

「大丈夫か」

「ええ、何とか」

 背中を強く打ったらしく、多少息が苦しい。浅海は咳き込みながらも、どうにか返事をした。ゆっくりと顔を上げて相手が誰かを確認すると、驚いたことに目の前にはあの青年の姿があった。彼は浅海から身体を離して立ち上がると、手を伸ばして起こすのを助けてくれた。


 いまだ雷雨が鳴り止まぬ中にあるというのに、火は一向に消える気配を見せていない。ばちばちと激しい音を鳴らしながら、辺りを不自然なほど明るく照らしている。恐怖に体を震わせながら、ようやく立ち上がった浅海は、知らずのうちに青年の胸にしがみ付いていた。赤いうねりの中で黒い塊となって燃え上がる矢倉。それを改めてこうして見ると、自分がいかに無謀なことをしたのかがわかる。

「全く、無茶もいいところだ」

「だって」

 巫女様が心配だった。そう続けるはずだったのに、喉に貼り付いてしまったかのように声が出てこない。この期に及んでもまだ言い訳が出てこようとするのに自分でも呆れてしまう。すると案の定、青年は息を荒く乱しながら、こう怒鳴り付けてきた。

「もう少しで命を落とすところだったのだぞ。わかっているのか」

 その大声にびくっとして、体はぎゅっと委縮する。

「見てみろ。巫女は既に逃げ出している。お前がしたのは無茶で無駄なことだ」

 青年の言い分は最もだ。浅海はしなくていいことを、むしろ馬鹿馬鹿しいようなことをして、勝手に危険な目に遭ったのである。それを助けて貰っただけでも、大変な幸運と言うべきだろう。

「ごめんなさい」

 蚊の鳴くような声でそう告げると、しゅんと俯く。すると青年は浅海の肩をそっと押しやって二人の体を離した。温かなぬくもりが消え、何となく名残惜しい。

「あの、」

「馬鹿な娘だ」

 青年がいなければ、あのまま地面に真っ逆さまに落ちていたはずである。礼を述べようとした浅海を、彼はぶっきらぼうにそう遮ったが、行動ばかりはその口調の冷たさとは裏腹である。彼は自分の体を盾に、浅海を雨からも炎から遠ざけてくれていた。

 初対面の自分に、彼がどうしてそこまでしてくれたのかはわからなかったが、浅海は胸の奥がぎゅうっと締め付けられるような感覚に襲われた。それが気恥ずかしくて、静かに視線を落としたのだったが、その先には彼の右腕に出来た大きな傷があった。

「あなた、その怪我」

 よくよく見れば彼の衣服は所々焼け焦げ、右腕に至っては赤くなった腕が剥き出しになっている。おそらく浅海を庇った際に、火の粉を浴びたのであろう。

「ごめんさない。私の所為で」

「こんなもの、大したことはない。気にするな」

 青年は何でもないようにそう言ったが、気にしないわけにはいかない。浅海は彼の腕を手に取ると、持っていた布を雨に濡らして、それをきつく巻きつけた。

「もともと濡れていたから、効果があるかわかりませんけれど…剥き出しのままでは、よくありません」


 青年はてきぱきと手当てを施す浅海を見ながら、不意に口を開く。

「ほう、姫君にも手当の心得位はあるのか」

「これでも巫女様の下で、修業をしておりましたから」

 巫女という言葉を告げる時、一瞬ためらったが、それでも一度言ってしまえばあとはすらすらと繋がるものだ。

「薬草の扱い、病気の診方、そして祈り方。一通りのことは、皆、習いました」

言っているうちに色んなことを思い出し、次第に声が小さくなる。すると青年は、 そうか、と告げただけで余計なことは何も言ってこなかった。浅海の気持ちを察してくれたのかはわからないが、今はそう思っておくことにする。

 いつの間にか雨足は弱まり、空から落ちる雫は細い糸のような姿に変わっていた。浅海はぐっしょりと濡れて顔に張り付いた髪を払いながら、笑顔を彼に向ける。

「戻ったら、薬草できちんと手当なさってください。でないと傷が長引きます」

「ああ、感謝する」

「感謝するのは私の方です。本当にありがとうございました」

「これに懲りて、もう無茶はしないことだな」

 青年はそう告げながら、薄い笑みを浮かべる。その表情を見た時、浅海の心は大きく波を打った。どきりと心臓が高鳴り、顔が熱くなってくる。そんな自分の変化を見られるのが嫌で浅海は慌てて地面に目をやった。青年は軽く笑ったとおもえば、そのまま林の方に歩み去っていってしまった。


 青年が去って行った方をぼうっと眺めていると、どこからか自分の名を呼ぶ声が聞こえてきた。あの甲高い声は間違いなく葉那だ。はっとしてそちらを見れば必死にこちらに駆けてくる彼女の姿が目に入った。

「馬鹿浅海。どこにいたのよ。こんなに心配かけて」

 正面から勢いよく抱きつかれ、浅海は思わずよろける。だが、そんなことを気にする彼女ではない。

「大丈夫?どこも怪我してない?」

 まるで親が迷い子になった小さな子供にするように、葉那は浅海の体をぺたぺた触ってきた。

「こんなに着物を汚して。何してたのよ」

 涙を流しながら叫ぶように言う彼女を、逆に撫でてやる。

「平気よ。ちょっと転んじゃっただけ」

 気が強い分、すぐに感情的になる葉那をこれ以上刺激しないよう、浅海は穏やかにそう告げた。雨のお蔭で涙していたことを彼女に知られずに済みそうだ。あんなにたくさん泣いたことを彼女に知れれば、更に騒ぎ出すに違いない。巫女はああ言っていたが、浅海が涙するのを見たことがある者は、そう多くないのだから。

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