天境線

@mukumimihana

第1話 序 辰国

 東の大国の北西には奈須国。その奈須より、更に西へ西へと進んだ先、そこには龍神のみを唯一の神として崇める小国があった。その名を辰国という。


「そろそろ行くよ」

 はしゃぎ回る少女に優しく声をかけると、彼女はにっこり微笑んで真っ直ぐに樹の元に駆け寄って来た。

 少女は差し出された兄の手を嬉しそうに握ったが、その視線が定まることはない。あまり宮の外に出たことの無い彼女にとっては、珍しいものばかりなのだろう。きょろきょろとせわしなく顔を動かす愛くるしい妹に、樹の頬も自然と緩む。

「ほら、すみれ。早く行かないと父上や母上が心配するよ」

「うん。でももう少しだけ」


 蝶よ花よと育てられ、充分すぎるほどの愛情を受けて育った菫は甘えるのがひどく上手だ。樹はいつもの手に乗せらないよう、彼女を抱きかかえてさっさと馬に乗せた。

「重くなったな。大きくなった証拠だ」

 樹がそう言うと、菫は満足げに大きく頷く。

「菫、早く大人になりたいの。そうすれば今よりもっと姉上様に会えるのでしょう」

 菫は足をぶらぶらさせながら、そう言ってはにかんだ。樹は無邪気な妹の頭を優しく撫でてやる。

「菫は姉上が好きなのだな」

「うん、大好きよ。兄上も父上も母上もみんな大好き」


 長の末の娘である彼女は、必要以上に手をかけられているせいか年の割に幼い。もう七つになったというのに、何もわからぬ幼子のような印象である。こんな妹をもった樹は必然的に大人びて、こちらは十三であるというのにもう少し上に見える。

「じゃあ早く姉上の元へ行こうか」

 日の暮れないうちに、滝の高台に到着しなければならない。遅刻しようものなら父から大目玉を食らうことは必至だ。何しろ巫女の厳命によって、父は今回の菫との同行を渋々諦めたのだから。可愛い愛娘を一時でも手放したくなかった彼も、どうやら今回ばかりは従わざるを得なかったらしい。


 父の菫への愛情のかけ方は異常といってもよかった。菫が何か悪さをしようと決して叱ることなく、逆に彼女によって被害を被った側を厳しく叱責するのである。樹とて何度妹のために頬を殴られたことかわからない。菫がほんの少しでも不快な顔を見せようものならば、父は容赦なく樹を殴り飛ばし、継母である妃も樹に辛く当たるのだ。その度に原矢が間に入って樹を庇い、重臣の多くも父を嗜める。しかし一向に彼らの態度が改まることはなかった。

 両親の妹への溺愛ぶりは確かに呆れるものがある。しかし不思議なことに、それでも樹には彼らを恨む気持ちなど一片も生まれなかった。両親の振る舞いは菫を可愛がるゆえのものであり、当の菫には何の罪もない。人一倍気の優しい樹は、自分を犠牲にすることを何とも思わなかったのである。


 樹達はいくつもの林を抜けると、今度は細い一本道を進んだ。

 途中何人かの村人に出会い、簡単に挨拶を交わす。皆が徒歩でそこへ向かっている中、樹は自分達だけが馬上にいることを何となく心苦しく感じていた。もちろんそんなつまらないことを気にしているのは彼だけであり、周りの者達にして見ればそれが当たり前の光景だ。長の直系である樹達は、その血統ゆえに他とは違う扱いを受けてしかるべきなのである。


 ようやく神殿への入り口である社にたどり着くと、樹は馬から降りた。ここからは誰もが徒歩で進まねばならない一族の聖域である。一人では降りられない菫を抱きかかえて下ろすと、樹は馬を近くの木に繋いだ。

滝のうちつける音が何重にもこだまするこの辺りは、霊森とでも呼ぶべきなのだろうか。鬱蒼とした森の中は日の力など全く及ばない。暗い闇にのみ込まれてしまいそうな恐怖に、樹は背筋が冷たくなるのを感じた。

「兄上、お顔の色が悪いわ」

 真っ青な顔をしている樹を案じてか、菫がそっと声をかけた。いつもであれば彼女の愛くるしい顔を見れば元気が出るのだが、今ばかりはそうも行かない。樹は兄としての体面を保つため、どうにか弱弱しく微笑んで見せた。

「ああ、何でもない。心配するな」

 兄の返事に、菫はにっこり笑って、手に持っていた布を樹に渡した。

「濡らしてあるの。気持ちいいわよ」

「ありがとう」

 樹はそう言うと、菫の頭をいつものようにぐしゃぐしゃと撫でた。彼女は嬉しそうにきゃっきゃと笑い声をあげる。この場の雰囲気に気圧されない妹が、少しばかり恨めしい。

「菫はここに来るのは初めてだろう。怖くはないのか?」

「うん。だって兄上が一緒だもの」

 彼女はそう言って樹の手を握った。小さなその手は樹のそれよりも体温が高く、少々汗ばんでいる。

「兄上と遠くにお出かけするの、ずっと楽しみにしていたのよ」

 意気揚々と樹の手を引く菫に、彼は思わず苦笑を漏らした。彼女の元気な様子を見ているうちに不思議と恐怖も薄れてくる。


 仮にもここは一族の聖域であり、実の姉が巫女を務める場でもあるのだ。いつかは長としてここで儀式を執り行わねばならない日が、樹にもやって来る。何も怯えることはない。樹は気を取り直して、明るい口調でこう話しかけた。

「菫、ここには遊びに来たのではないよ」

「知っているわよ。姉上に会いに行くのでしょう」

「それはそうだが、私達は大切な儀式のために行くのだ」

「儀式?」

 菫は大きな瞳を更に大きく開いて、樹の顔を覗き込んだ。とても可愛らしい仕草ではあるが、やはり彼女の年齢を考えれば少々幼い。菫の顔立ちがそう思わせるのかもしれないが、恐らく彼女自身の甘えん坊の性格によるところが大きいのだろう。彼女の年齢で既に戦に出ていた姉とは、全てが大違いである。

「父上や母上はもうあちらに行っているの?」

「ああ、そうだ」

「早く行きたい。姉上にお会いするのは久しぶりよ」

 菫は目を輝かせて話したが、その姿のどこにも姉の面影を見ることは出来なかった。

 母親が違えば、ここまで違ってしまうものなのだろうか。くりくりとしたその目も、ぷっくりとした唇も何もかもが姉とは似ても似つかない。性別が異なる樹と菫でさえも多少似通ったところがあり、片親だけとはいえ血のつながりを感じさせる容貌をしているというのに不思議なものである。最も愛らしい顔立ちの菫に似ているといわれるのは、樹にとってあまり喜ばしい話ではないけれども。


 女神のように美しく、それでいて誰も寄せ付けないような気高さを備えた姉。彼女は巫女になるべくして生まれてきたような存在である。彼女が放つ気には凍えるような冷たさがあり、まさに水を好む龍神がこの世で纏う仮の姿そのものに思えた。

 樹が少しばかり彼女を苦手としているのは、彼女独特のその気配のためだ。この場の雰囲気に気圧されてしまうように、彼女を目の前にすると恐怖とはまた違う感情、強いて言えば圧迫感のような息苦しさに上手く呼吸が出来なくなってしまうのである。

 彼女の威圧感を思い出すだけでも体がうすら寒くなってきた。そんな樹に何かを感じたのか、菫は恐々と問いかける。

「兄上は姉上がお嫌いなの?」

上目遣いに樹を見上げる菫に、樹はゆっくりと首を振った。

「そんなことはない。菫も姉上も私の大切な家族だ」


 高台には既に幾人かが到着しており、樹達の到着を待っていた。彼らに迎えられながら、樹は菫の手を引いて神殿へと向かう。

 途中の所々に灯されている篝火は、滝の飛沫を浴びているにもかかわらず決して消えることなく煌々と揺らめいていて、見るからに妖しげな空気を醸し出していた。菫が怖がってはいないかと彼女のほうを見たが、何のことはない。彼女は好奇心からか、辺りをぐるりと見回していた。


 樹は誰にも悟られないように小さく息を吐き出した。ただでさえ猛々しい炎に逃げ出したくなるというのに、時折水の底から聞こえる龍神の鳴き声も聞こえてくるのだ。この場にあるものすべてが恐ろしく感じられて、正直、内心は相当びくついていた。神をこれだけ身近に感じてどうして畏怖を抱かずにいれようか。そう言い訳を考えてみるも、余計に自分の弱さが情けなくなってしまった。


 樹は動揺を悟られないように注意を払いながら、そばにいた男に声をかけた。

原矢はらや、姉上は?」

「巫女なら既に滝へ行かれたよ。長ももう行っているはずだ」

「そうか、ならば我らも向かおうか」

 原矢と連れ立って歩きながら樹は辺りに目をやった。

 すぐ近くの崖下には龍神の住処である清流があり、龍神を鎮める場としては充分にふさわしい凛とした空気がこの一体を支配している。どことなく嫌な臭気が鼻につくのは、儀式の際の生贄のためであろうか。

「それにしても、儀式のたびにここに来るのは多少気が滅入るな」

 原矢はこめかみに手を当てながらそう話した。彼は樹より十ばかり年上の青年で、長の側近の息子である。小さいうちから慣れ親しんできたため、樹にとって兄のように気さくに付き合える唯一の人間だ。

「そう言うな。始祖がこの地に根付いてから欠かすことなく行われてきた儀式だろう」

「わかっているよ。一族が奈須からの解放されたのは龍神様のおかげさ」

 言葉を飾らない彼の明け透けさが、樹は好きだった。時にそれが長の気に触ることもあったが、原矢はそんなことを気にするような男ではない。簡単に言えば短絡思考、よく言えば豪放磊落な彼を、樹は心から信頼していた。

「俺達が選ばれた一族で、龍神の血を受け継ぐ唯一の者だというのは確かさ。巫女を将に据えた俺達に、戦で勝てるものなんかいやしない。彼女のおかげで確実に領土は広がっているよ。つまるところ、俺達を従わせることができるのは龍神と巫女だけってことだな」

 原矢は自信たっぷりにそう話し、豪快に笑った。


 彼もこの地の者たちの例に漏れず、龍神の力を信じきっている。もちろん樹もそれを疑うことなく育ってきたのであるが、どうにも気が弱い彼にはそこまで確固たる自信を持つことが出来なかった。姉のように力があればこんな迷いは生まれないのかもしれない。激しき龍の血を抑えることができる姉のように強ければ。



 星涙せいるいは祭壇の前で剣に祈りを捧げていた。奇妙な高揚感に支配されると同時に、わずかな恐怖も感じる。何とも言えない感情が心を渦巻いて、どうも落ち着かなかった。戦の前ですらこんな思いをしたことはない。

「これは儀式だ」

 星涙は声に出して自分に言い聞かせた。そう、これはれっきとした儀式。占によってもたらされた結果に、巫女として従うだけである。

「巫女様、ご気分が優れませんか」

 心配そうに自分を見つめるフユに、星涙は首を振って見せた。

「何でもない」

 今の星涙の言葉を額面通りに受け取る者は皆無だろう。けれど、フユはそれ以上何も言わなかった。彼女もわかっているのだ。星涙が何を考え、実行しようとしているのかを。


 忘れえぬ忌まわしい記憶は、確実に星涙を支配していく。思い出そうとしているわけではないのに、どうしようもなく心は黒く濁っていく。

「一年か」

 目を細めて、自分の姿を剣に映した星涙は、決して忘れ得ぬ昨年の今日へと思いを馳せた。

 あの時味わった痛みは、この一年、一度たりとも忘れたことはない。だからこそ今まで以上に、巫女としての修行も武術の鍛錬にも励んだのだ。

 何の感情も読み取れないその顔は、彼女自らが被った仮面。こうしていれば氷のように冷たい瞳の奥に、決して消えぬ憎しみの炎が宿っていようなどと誰も思わない。


「準備が整いました」

 緊張しているのか、フユは震える声でそう告げた。

 無理もない。これから行うのはただの儀式ではないのだから。

 星涙は確認のため、ちらりともう一つの祭壇を見た。炎が未だ猛々しく燃え上がっているところを見ると、どうやら龍神はこちらの願いを聞き入れるようである。星涙は薄い笑みを浮かべ、静かに告げた。

「では、始めようか」


 星涙は重々しい足取りで白い天幕で覆われた祭壇に昇ると、臆することなく、燃え上がる炎の中に榊をくべて祝詞をあげた。

 通常であれば、この後は贄を龍神に捧げる番である。今回の儀のために用意された贄が滝へと投げ入れられるのだが、今回はそれらしきものはどこにも見当たらず、代わりに喜多や彼の側近たちが祭壇近くに控えていた。

 星涙は静かに祭壇を下りると、二つの篝火によって照らされる岩へと向かった。そしていつも通り、置いてあった彼女自身の剣を手にした。

「これから龍神に贄を捧げる」

 彼女が低い声でそう告げると、高台から儀の様子を眺めていた人々の間には大きなざわめきが走った。なにしろ、辺りには何もないのだ。どうするのだ、とさざめく彼らを余所に、彼女は無表情のまま小さく頷いてみせた。すると人々がより一層驚いたことに、喜田きたとその側近達がどこからか長とその妃を祭壇の前へと引っ張り出してきた。

 二人は何事かと大声で抵抗を見せていた。

「何のつもりだ、星涙」

「そうですよ。無礼にも程があるでしょう」

 妃はキンキン声で怒鳴り散らしたが、星涙は淡々と返事をする。

「占に従うまでだ。巫女である私は龍神の望みを叶えねばならない」

「何を馬鹿なことを。離せ、お前達私を裏切るつもりか」

 長は怒りを露にしながら、じたばたと暴れた。けれど彼は数人がかりでがっちりと押さえ込まれていたため、明らかに無駄な抵抗である。

「長であるあなたが、占に背くとおっしゃられるのか」

 星涙は侮蔑の篭った声で、長を非難した。しかし命の危機に際して冷静でいられるものなどいようか。長は目を剥いて怒り、顔を真っ赤にひたすら抗議を続ける。

「こんなことをしてただで済むと思っているのか。」

 尚も喚き散らす二人を無視すると、喜田達は用意してあった縄で二人を縛った。 長は恨みがましい目で星涙をきつく睨みつけたが、既に彼の頭上には炎の明かりに紅く輝く剣が振りかざされている。

「龍神の望みです。叶えて差し上げてください。」

 誰もが気付かないほどのほんの一瞬、星涙は薄ら笑いを浮かべた。

 長が星涙のその表情に恐怖したその瞬間、真っ直ぐに剣が振り下ろされ、彼の体に一筋の赤い線が描かれた。真っ赤な血が星涙の白い衣を汚し、妃の悲鳴が耳障りに響く。しかし星涙は気にすることなく再度剣を振りかざすと、同じことを今度は妃に繰り返した。

 こうして民を苦しめ続けた二人の命はあっけなく絶たれたのである。


 星涙は剣を足元に置くと、彼らの体に神酒をかけて簡単に祝詞をあげた。その後、喜多とその側近達が、ついさっきまで長とその妃であった者達を滝壺へと押しやる。水飛沫が上がり、重いものが落ちる音が響いた。

 岩の上には衣を赤く染めた星涙と、二人を引きずったせいか不自然に掠れて見える赤い跡だけが残っている。人々はざわめくことすら忘れ、ただただ星涙と二人が消えた滝壺を呆然と見つめるばかりだった。今しがた何が起きたのか、誰にもわからなかったのだ。そして、樹とてその例外ではなかった。

 あっという間に星涙は長とその妃の命を絶ったのである。それも皆の、そして彼らの幼い娘の目の前で。彼には、今さっき起きた出来事が現実か夢か定かではなかった。


 樹は蒼白な顔のまま隣にいる妹を見た。彼女は目を見開いたまま皆と同様に滝壺を見つめていた。頬からは赤みが消え、その顔には驚きが浮かんでいる。

 父と母が一瞬のうちに消えてしまった、おそらく彼女はそれ以上の事態をのみ込めていないのだろう。

 彼女の目を塞いでやらなかったことが今更ながら悔やまれた。しかし誰がこんなことを予測できただろうか。巫女が長と妃を贄にすることなど、彼女から事情を打ち明けられた者でなければわかるはずもないのだ。

「兄上、父上と母上は死んでしまったのですか」

 菫は樹の手をぎゅっと握ると小さくそう尋ねた。小刻みに震えるその姿が痛々しい。けれど樹には答えることが出来なかった。何も言えなかったのである。

「皆の者、これは龍神のお告げだ」

 喜田が声を張り上げてそう叫ぶと、人々は思い出したかのようにそれに習って歓声を上げた。

「そうだ。俺達を苦しめる奴はもういないぞ」

「傲慢な長はいなくなったんだ」

 信じられないことに、人々は互いに手を取り合って喜んでいた。

 樹は菫を抱きしめると、出来るだけ皆の声が届かないように取り計らった。けれど割れんばかりの歓声はそんなことでは到底塞ぎきれない。たまらずに抱きしめる力を強めた樹の胸に冷たいものが伝った。菫の涙である。

「菫、戻ろう」

 樹は声も上げずに涙を流す菫を抱き上げながら、ひっそりと人垣を抜け出した。

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