第3話 炎上

 玖波くばから佐間に使者が遣わされたのは、大祭から数日後の事であった。

 夏の強い日差しが照りつける中、たった二人の供とやって来たのは玖波の嫡子本人。まさか彼が来るとは思っていなかった伊佐は、青年を見るなり縁台から転げ落ちた。

「これは、これは、中ノ殿」

 したたかに打ちつけた腰をさすりながら、伊佐は苦笑いを浮かべて青年に向き直る。前もって使者の名を告げてくれれば良かったものを、と内心で思ったが、とても口には出せない。

 青年はまだ立ち上がれないでいる伊佐に手を伸ばすと、ぺこりと頭を下げた。

「突然の来訪をお許しください。何分、父より火急の知らせを伝えよと追い立てられましたもので」

 丁寧な口調であるにもかかわらず、恐ろしく冷めて聞こえるのは、その性格によるためだろうか。人と馴れ合うのが大嫌いという性分なだけあって、彼には一種独特な冷たさがあった。


 青年はその名を中ノ海里という。幼少の時より学を好み、若干十六歳にして、既にその才を東国中に鳴り響かせている彼は、玖波の司の実の甥だ。

『将来は東国を担う大物になるに違いない』

『いやいや、石賀殿が手放すわけはなかろう』

 その優秀さを褒め称え、世間はそう口々に彼を持て囃し、石賀自身も常に自慢の種にしていたが、それが彼や皆の本心ではないことなど誰もが知っている。

『だが、結局は余所者に過ぎない』皆の言葉には、そう続きがあるのだ。

 

 東国には珍しい『中ノ』という姓。それは彼の父である都人のものである。

 海里の父親は、遠く西の大和出身の豪族だった。王族の縁者であるにも関わらず、訳あって東国に流れてきた人間であったのである。

 たまに伝え聞こえてくる西の情勢から察するに、どうやら大和では大王の跡目を巡り、血で血を洗う様な抗争が繰り広げられていたそうだ。武力をもってして、どうにか決着はらしいが、時の権力者はこれを機に反対派を一掃しようとした。結果、傀儡政権を維持するのに不都合が生じる者は、纏めて政界から追放されたのである。

 彼もその憂き目にあった一人であった。幸い、濡れ衣を着せられて処刑されるまでには至らなかったが、こうして最果ての東国に追いやられた。現大王とは別の人間を推していたというのにそれだけで済んだのは、彼の一族が神事に携わる職を戴いていたからであろう。

 遠い縁故を伝って、この国に流れ着いてきたその男を、造は喜んで受け入れた。というのも、遥か西の国政など造にとっては大したことではなかったからだろう。

大和とは一応、形ばかりの盟約を結んでいたが、だからと言って特に何かがあるわけではない。ごくたまに兵を借りたいと申し出がある位だ。あまりにも距離が遠すぎるため、その情勢がどんなものであっても、東国の民達にとっては些事でしかなかった。

 だから大王が誰になったとしても、何ら関係は無い。その大王を選ぶ政治闘争が大和の豪族にとってどれほど大事であるなど、わかるはずもない。もしわかっていれば、争いに敗れた男をあれ程高待遇に扱う事など出来やしない。造にしてみれば、面白い話をたくさん聞かせてくれる貴重な友人を得て満足だ、程度の認識だったのである。


「大王が代わりさえすれば、私も復権できよう。その暁には必ず恩返しをしてやろう」

 東国にいる間中、彼は事あるごとにそう大口を叩いていた。

 もちろん、真かどうか確かめる術などありはしない。けれど、かつて西で権勢を振るっていただけあって、彼の知識、手腕は確かに一級品だった。まだ若く、凡才な造によって、少しずつ傾きかけていた治世は、彼の忠言や発案によって見る見るうちに回復したのだ。

 造は彼を師と仰いで、どんどん彼の話に引き込まれていったが、面白くないのは古参の者達だ。彼らはすっかり蚊帳の外に追いやられ、挙句には無能呼ばわりされたのである。

 それまでずっと執ってきた政を古臭いと一笑され、ならばお前がやってみろと言えば、彼は思いも寄らぬ方策を編み出して見せた。それは政治の方針に留まらず、灌漑や田畑の肥し方など、生活に直結する仕組みにまで及んだ。たまたま天気に恵まれたと言えばそうかもしれないが、その年は稀にみる豊作だったから、余計に手がつけられなかった。古参の者達は苦々しい顔で、涼やかな目元の男を眺めるほかなかったのである。

 余所者に大きな顔をされるだけでも腹立たしいというのに、所詮は田舎者よと嘲笑われる始末。しかし言い返そうにも、彼を論破出来る者などいなかった。

大王が交代し、彼が大和へと呼び戻されていくまでの、一年と少しの間。彼らはずっと煮え湯を飲まされっぱなしであった。彼がようやく西へ戻って行った時、その背に向かって無言で罵詈雑言を飛ばしていたのは言うまでもない。彼がいなくなることを惜しんだのは造と、玖波の一の姫だけである。


 玖波の司の愛娘である彼女は、透き通るように白い肌をした、中々の美人であった。ぎらぎらした熱血漢の弟、石賀とは対照的で、一見しただけで実の姉弟と見抜ける者は少なかった。美しさよりもその儚さの方が勝っていた彼女は、あまり人の注目を浴びる事は無かったが、偶々国府を訪れていた時に彼と出会い、そして恋に落ちた。

 男にしてみれば戯れだったのかもしれない。その証拠に彼は、甲斐甲斐しくその身の回りの面倒を見てくれた身重の彼女を捨てて、さっさと大和へ戻ってしまったのだ。そればかりか、玖波の司が断腸の思いで正式に娶るように要請しても、答えを濁すだけだった。

「私も、共に」

 既に彼との子を身籠っていた彼女が、そう告げたかどうかは誰も知らない。はっきりしているのは、男は一度も後ろを振り向くことなく、颯爽と馬で駆け去って行ったことだけだ。元々病弱であり、出産すら難しいと言われていた彼女は、別れの辛さから更に病を重くし、息子を生むとすぐに亡くなった。

 

 母を亡くし、父もいない。玖波の者達がそんな海里の処遇に困ったのは言うまでもない。司にしてみれば、愛娘の忘れ形見であると同時に、憎らしい都人の息子である。

 一時的とはいえ、自分を政界から追放したばかりか、愛娘まで死に追いやった、憎んでも憎み切れない男。日に日にそんな父親に似てくる子供を、司は心の底から可愛がることは出来なかった。表情やちょっとした仕草、そしてその声。娘の血を引いているのは確かなのに、成長するにつれて姿形は、あの男そのものになっていったのである。結局、祖父は海里をろくに抱く事もせず、この世を去った。

 こうなると跡目を継いだ石賀が、海里を養育する義務などどこにもなかった。甥を大事にしようなどという優しさは、全く持ち合わせていなかった石賀のこと。邪魔者でしかない海里を玖波から追い出すことも十分考えられたが、ある理由から彼はそう出来なかった。

 もし、もしも、都人の言葉が真であったら。彼が大和で権力を得、玖波にその恩恵をもたらせてくれるとしたら。間違いなく、海里はその時に必要となる。

 権力に目がない石賀には、どんなに低い可能性であっても、それが全くの無であるとは言い切れない限り、彼の息子という存在を疎かにすることは出来なかったのである。

 

 実際、都人は海里の存在を蔑にしていたわけではなかった。彼は息子の成長に合わせて、事あるごとに相応の品を送りつけて来たのだ。それらは都でしか得られない様な高価な品物ばかりで、石賀がいくら息巻いても、実子の立飛に与えられない様な希少な物もあった。

 横取りしてしまうことも出来ないではなかったが、海里はその都度、父親に文を出して礼を述べていたので、強引にどうこうするのも躊躇われた。石賀にしてみれば、いちいち告げ口をされているようで、海里のその行動を癪に思う事もあったろうが、彼の側近である谷田やたは逆の発想を授けた。谷田は事あるごとに石賀にこう告げたのである。

「海里様は金の卵でございます。多少、その管理に手間がかかろうと、黄金の鶏が生まれるに越したことは無いでしょう。孵化したのが、つまらぬただの鶏であれば、そう」

 捨ててしまえばいい。

 さすがに、そこまで最後まではっきり聞いたことはなかったが、谷田の言葉は欲深い石賀の心をぐっと掴んだのである。そうして都人に恩を売れるせっかくの機会を最大限に生かすべきと考え直した石賀は、あまり高いとは言えない可能性を捨て切れずに、実子の立飛たちひではなく、海里を嫡子とすることまでやってのけたのだった。

 

 支度を整えた伊佐いさが客間に入ると、そこには既に佐間の主だった者達が揃い踏みしていた。彼らから注がれる遅いと言わんばかりの視線を受け流し、伊佐は上に座した海里をまじまじと眺める。

 海里は、若い頃一度だけ会ったことのある彼の父親とよく似ていた。知的な目元や、品の良い薄い唇。不思議なほどに母親の面影は見られない。

「どうかなさいましたか」

 海里は訝しげな顔を伊佐に向ける。その灰色がかった瞳には、焦った伊佐の顔が映っていた。

「あっ、いいや。すまない。話を続けてくれ」

 伊佐は慌てて海里から視線を逸らすと、床の木目をじっと見つめた。

相変わらず気の小さい男である。少しくらいの動揺は上手く取り繕えばいいものを、とその場にいた全員が内心で思ったが、誰も表には出さなかった。いくら婿入りで今の地位に収まったとはいえ、伊佐は紛れもなく佐間の司なのである。


「例の大祭での一件は、御存知でしょうか」

 ゆっくりと腕を組みかえ、吐き出すようにそう告げる海里に、伊佐や智はもちろん一同が一斉に頷いた。

「高矢倉は落雷で崩れ、再開は叶わず。そして責めを負うべき巫女の姿はどこにもありませんでした」

「大社の大祭が台無しになり、挙句巫女が逃亡するなど、前代未聞の事だ。咎は軽くはなかろう」

 伊佐は、それが何よりの大罪だと言わんばかりにそう言った。だが海里は、伊佐が心中では『たかがそれだけの事』と思っていることを見抜いていた。そして彼がそれを決して口には出さないことも。

 かの巫女を造に推薦したのは石賀なのである。面目が丸潰れとなったあの出来事を何事もなかったかのように話すなど、命知らずもいいところだ。もしそんなことを口にしようものなら、石賀は佐間に大軍を送り込むに違いない。

「我が郡でも、今日にでも捜索隊を出すつもりだったぞ」

 伊佐の口から出て来たのは、明らかに今考えついたとわかる単純な言い訳だった。思わず言った本人も、周りの者達も顔を引きつらせたが、言葉は止まらない。

「だが、玖波を差し置いて我らが先陣を切るわけにもいかないだろうよ」

 早口でそこまで述べた彼に、海里は口の片端を上げて歪んだ笑みを見せた。不敵なその顔は、やはり父親そっくりだ。

「ご安心ください。つい先日、ようやく発見いたしました」

「何と。それは真か?」

 伊佐は思わず身を乗り出した。他の者達も目を見開いて海里を見つめる。

「真でございます。まぁ、多少時間は要しましたが」

 海里は語尾を少し低めた。それが石賀の怒りを代弁しているようで、伊佐の背にはつうと冷たいものが伝わる。

 

 玖波では捜索隊を組んで、山狩りまで行ったと聞いていた。その数、大の男が数十人。既に東国中には手配が回っており、主だった関や港から逃亡を図ることも不可能であった。こんな状況であったのに、女一人を捜すのに何日も費やしたとあっては、探索隊の怠慢であると石賀が怒り狂うのは当然だろう。

「そうか。それは良かった。何の尽力も出来ず、済まなかったな」

「いいえ。巫女一人捕えるのに、他の郡の力まで借りるわけにはいきませんから」

 海里は苦笑いを浮かべながら困ったようにそう答えた。

「玖波で完結できる話であれば、そうするに越したことはないでしょう」

 言外に余所の助力は不要と匂わせているのは、石賀の意をそのまま伝えるためであろう。自尊心の高い石賀には、いくら命令という形を取ろうと、他者に助けを求めることなど出来なかったに違いない。

「まぁ、なんだ。ともかく巫女は捕えられた。今回の一件もこれでもう終いになろう」

 伊佐は何とも重苦しくなってしまった空気を入れ替えようと、努めて明るく言った。

「中ノ殿もさぞかし骨が折れたことだろう。落ち着いたら、また勉学に励むといい」

 その言葉こそは強気であったが、尻込みした口調といったらなかった。うっかりすれば床に平伏してしまいそうな程におどおどした様は、とても息子よりも年若い青年を相手にしているとは思えない。

 

 隣で二人の会話を聞いていたともは、父の情けない態度にあからさまに眉をひそめた。何でこんな奴に謙る?彼の顔には隠すことなくそう書いてある。

 智からすれば、たとえ都人の子息とはいえ、海里はいくつも年下の青年だ。そんな彼になめられるのは癪だし、そしてまた智自身も賢さを自負しているため、天賦の才と謳われる海里は常に目の上のたんこぶだった。

「して、中ノ殿。そなた本当は何の用件で来たのだ」

 智は挑発的な物言いで口を挟んだ。

「まさか玖波の嫡子ともあろう男が、わざわざ伝書鳩のような真似をしに来たわけではあるまい」


 息子のあまりに無礼な口の利き方に、せっかく活気を取り戻した伊佐の顔は、再び色味を失っていった。彼は、おい、と声をかけるのが精一杯だったようで、とてもそれ以上の叱責には至らない。

 頼りない伊佐に代わり、横にいた阿木の叔父が顔をひきつらせながら、口を慎めと叱った。けれどあからさまに彼を見下していた智は、聞く耳をもたない。喧嘩腰で言葉を続けた。

「だって、おかしいでしょう。石賀様は仮にも嫡子を、中ノ殿を遣わしてきたのですよ。それが、ただ言付けを伝えに来ただけだなんて誰が信じます? これは佐間に対して何か別の意図をもっていると考えるのが筋ではありませんか」

 息巻く智と海里の冷静な視線が、かちんとぶつかる。智の目には、海里に対する強い敵愾心が色濃く映っていた。


 いかにも、全てを見抜いているぞと言わんばかりの堂々たる演説を聞かされ、海里はつい表情を歪めそうになった。

 面倒な男。海里はようやく智をそう認識した。

 彼が事あるごとに張り合ってくるのは知っていたが、特に意識をしたことは今まで一度も無かった。透けて見える智の嫉妬になど、これっぽっちも興味はなかったのである。


 石賀の言い成りの頼りない司と、見識ばかり高いその息子。どちらも今後の海里の人生には何の影響も与えない男達だ。所詮、この程度の人間では自分の敵とは成り得ない。その場凌ぎの対応をしておいたところで、それを気取られる事もないだろうし、たとえそれを察せられたとしても何ら問題は無い。そう思って存在すら気に留めなかったのであるが、ここまで食ってかかられると、さすがに煩わしい。

 

 試してみようか。海里はふとそう思いついた。

「…智殿の言う通りでございます。私が来たのは他に用向きがあっての事」

 言いだし辛そうな風を装い、そっと視線を床に落とす。いかにも自分はまだ何かを隠している、そう見えるように演じてみせた。

「やはりな。では、本題を聞かせてもらおうか」

 そう言ってにやりと笑った智に、海里は小さく息をついた。

 感情をここまで相手に悟らせてしまっては、成功する策も失敗するだろう。そんな呆れを表には出さず、海里は用意してきたものとは別の要求を突き付けた。


「佐間の姫君にお目通りを」

 海里がそう切り出すと、場にいた全員が固まった。伊佐は青ざめ、それまで自信満面だった智の顔も強張った。

 浅海が弟子を自称して、社に出入りしていたのを知らぬ者は佐間にはいない。それを考えれば当然の要求だったが、佐間の者達にしてみれば、触れられたくない部分であるに違いなかった。海里とてこの話題は出さずに済むものならば、避けるつもりだったのだ。けれど、智や伊佐の本心を知るには打ってつけの手段であることには間違いがない。


 さぁ、どう切り返す? 海里は内心でそう愉しみながら言葉を続けた。

「姫君は巫女と親しかったとか」

「あ、浅海は、」

「浅海は、妹は、もう随分と社には行っていない」

 途中で言葉に詰まった伊佐の代わりに、智がそう答えた。父親ほどではないにしろ、彼の声も上ずる。

「あれは、あの晩も、そこらの娘達と一緒だった。おそらく、いや、絶対に巫女の行方など知らなかっただろう」

「智殿。念のため、私が本人に確認をしたいのです。会わせて頂けますか」

 丁寧な物言いだが、有無を言わせぬ圧倒的な威圧感だ。さすがに東国一の秀才と謳われる男なだけことはある。その表情からは彼が言わんとしていることの意味が全く読み取れなかった。佐間の純朴な人間達には無い、研ぎ澄まされたような独特の雰囲気は、父親譲りのものに違いない。

 智は、海里の気迫に飲み込まれそうになった自分に腹を立てた。負けん気を前面に押し出して、彼を睨みつける。

「浅海は…あいつはあの晩、巫女には会っていない。それが事実だ。それともなにか、中ノ殿は、あの二人が会っているところでも見たと言うのか」


 焦りから来る強気な態度で詰め寄ってくる彼に、海里は心中で盛大な溜息をついた。

 やはり、この程度の頭だったか。月並みな返答であるばかりか、感情をそのままぶつけてくる短絡ぶりは、海里がわずかに期待していた論理的な話し合いには程遠い。敵ではない、と改めて認識した。

 困ったような伊佐と、一人息巻く智を交互に見遣ると、海里はそれまでよりか幾分柔らかく告げた。

「どうも私の言い方が悪かったようですね。私も父も、今回の件に姫君が関係あるなどとは考えておりません」

「ふん。ならば最初から、そう言えばいいものを」

 鼻を膨らませて語気を荒げる息子に、伊佐はおろおろとうろたえた。智はそれが気に入らないようで、じろりと父親を睨みつける。

「誤解を招いたようで申し訳ない。ただ、もう一つの石賀の命令を果たす際に、姫君について多少気掛かりがあるのです」

「もう一つ?」

「ええ」

 片方の口角を軽く上げる海里の微笑は、何とも綺麗であった。生まれもった、都人の血統とでもいおうか。作り笑顔とは思えぬほどに整えられた表情は、美しい半面、怖ろしくもある。

「中ノ殿。それは一体」

「社を、焼き払うのであろう」

 智は伊佐の言葉を遮ると、声高にそう言い放った。思いも寄らない発言に、一斉に智へと視線が集中する。周りの注目が心地良いのか、彼は饒舌に言葉を続けた。

「巫女は捕えられた。ならば既に誰もいない空の社を祀っても、何の意味もない。しかしながら以前、浅海が社に出入りしていたのは、紛れもない事実だ。中ノ殿は、浅海が社を焼くことに意を唱えると、そう考えておられるのだろう」

 そう言って一段と笑みを大きくした智に、海里はぴくりと片眉を動かしたが、すぐに微笑み返した。


  決して賢くはない。けれど馬鹿でもないようだ。上手く使えば、使い様はいくらでもありそうである。

「焼き払うのですか」

 乗り気な智とは反対に、伊佐の顔は曇っていた。絞り出したような声も、海里への反意で濁っている。

「何か不都合でも?」

 わざとそう問うた海里に、伊佐は何でもないと苦しそうに告げた。

 やはり彼は巫女への背徳となる行為に、踏ん切りが付かないようである。石賀の手前、そうせざるを得ない事はわかっていても、どうしても良心が咎めるのだろう。

「明日、日の高くなる前に私自らが行います。どうか何事もなく執り行えますよう、伊佐様からもお力添えを頂戴したい」

 これ以上の議論は、時の無駄。そう判断した海里は、有無を言わせぬ口調で告げた。

 

 おそらく、伊佐も智も社には来るまい。彼らに命ぜられた民達も同様だろう。だが、彼女は、佐間の姫君はどうだろうか。崩れ落ちる矢倉の上で見た、浅海の意志の強そうな瞳。海里はそれを思い出して、ふっと笑んだ。



 夜半過ぎの凄まじい雷鳴で、浅海はぱっと目を覚ました。

 ばちばちと屋根を打つ轟音。ばしゃばしゃと音を立てて樋から流れ落ちる雨水。大祭の、あの日よりもずっと激しい降りだ。

 一瞬の明るさの後には、またすぐに真っ暗闇。雨足はこれでもかと言うほど強くて、滝のように地面を叩きつけていた。小窓から外の様子を伺うも、あまりの土砂降りでろくに見えない。


 浅海は額に右手を当ててみた。熱はない。気だるさはあったが、目眩のするほどの苦しさは、嘘のように消えていた。

 起き上がろうと体を動かしたが、力を込めると、背中が妙に痛んだ。寝てばかりいたせいで硬くなってしまったようである。あれから、もう何日経ったのか、熱のせいでいまいち記憶ははっきりしないが、ずっと床の中であることだけは確かだ。


 あの晩、浅海を心配して泣き喚く葉那を宥めながら、馬を飛ばして屋形に戻った。それは覚えている。彼女を支えながら夜道を走るのはなかなか難しくて、途中何度も転倒しかけたのだ。そうしてようやく帰って来たと思ったら、泥だらけの娘と涙を流す姪を見た阿木に、こちらが卒倒しそうなほど大きな悲鳴を上げられた。

「その後は…わからない」

 思い出そうとはしてみるが、頭は靄がかかったように、はっきりとしなかった。気付いたら自室の床の中で、ひどい熱と吐き気に見舞われていたのだ。


 あまり時を置かずに、外は幾度となく明るくなる。耳を劈く様な雷鳴は龍の叫び声のようで、狂ったように降り注ぐ雨は天の怒りのようだ。宵闇を裂く様な黄金の明かりは不気味で、浅海は思わずぶるっと体を震わせた。

「怖い」

 思わずこぼれた言葉に、自分で驚いた。


 雷なんて慣れっこのはずだ。夏になれば、毎日のように夕立はやってくる。こうして、夜に来るのも珍しい事じゃない。幼い頃は泣いて母に縋ったこともあったが、今はもう何とも思わなくなっていた。むしろ、夜空を照らす稲光を綺麗だとさえ思っていたほどだ。

 それなのに、どうしたのだろう。今晩は何かが違った。一人でいるのがやたらと怖かった。雷が鳴る度、体がびくりと反応して背が冷たくなる。何か嫌な予感というか、胸騒ぎが止まらない。耐えきれなくなった浅海は思わず部屋を飛び出した。

 

 母のところにでも行こうか。

 そう思ったが、この年で母親と寝るのはやっぱり躊躇われる。行くあてもなく、ふらふらと廊下を進んでいた浅海が思わず足を止めたのは、うっすらと明かりの洩れる居間の前であった。壁の向こうから、たまたま母のびくついたような声が聞こえてきたのである。


「伊佐様、浅海は本当に大丈夫なのでしょうか」

「何の話だ」

 酌をしながらそう問いかける阿木に、伊佐はぶっきらぼうに問い返した。多少酔いが回っているのか、彼にしては若干口調が荒い。阿木はそれを宥めるように、穏やかに切り出した。

「昼間いらした玖波からの遣いは、その、例の件でしょう」

「ああ。まだ口外はしていないだろうな」

「勿論でございます。特に、浅海には」

 阿木は言い難そうに告げた。


 自分の名が出たことで、浅海はすぐ壁にぴたりと耳を付けた。しかし、一段と声を低めた伊佐の言葉は、雨音のせいで途切れ途切れにしか聞こえて来ない。

「国府でも、神職者達が相当数罰せられたそうだ。しかしまぁ、明日で全ては終わる。中ノ殿は昼過ぎに取り掛かると言っていた。これでもう何も案ずることはあるまい」

 社、そして神職者。それらの言葉で、直感的に巫女の話題であろうと察しが付いたが、内容はさっぱりわからなかった。戸をがらっと開けて中に入って行きたい衝動をどうにか堪えて、浅海はじっと息をひそめる。

「怖ろしい結末でしたわね…」

「ああ。だが、もう佐間には関係の無いことだ。案ずるな」

 それならばいいのですが、と告げる阿木の声には、疑いの色が濃く現れており、酔った伊佐は彼女のそんな態度に敏感に反応した。彼は少し語気を強めてこう告げる。

「何を気に病む?中ノ殿も、何事もないとそう断言していた」

「それは佐間に対してですか。それとも、」

「どちらもに決まっているだろう。第一、中ノ殿によれば、石賀様は浅海の名など一言も出さなんだそうだ。お前はどうにも神経質すぎていかんな」

「そうなるのも当然でしょう。娘の命に関わることなのですよ」

 呆れたように言った伊佐の言葉が終らぬうちに、阿木は突然泣きそうな声を上げた。

「浅海は、罰せられてもおかしくない立場にいたのです。それを心配しない親がどこにいますか」

 激高した妻に、伊佐がおののくのが壁越しにもわかった。彼は、まぁまぁと阿木を宥めると、それまでとは打って変わって優しい言葉を掛けた。

「阿木。儂とて浅海が心配に決まっておろう。だからこそ、全てが終わったことにこれほど安堵しているのだ。お前にも何事も無かったことの喜びをわかって欲しい」

「伊佐様」

「ほら、お前も呑め」

 子供のように鼻を啜りながら泣く阿木に伊佐は酒を勧めた。すぐ後に、器同士の触れる音が鳴る。どうやら二人の言い合いは収束したようだ。それはそれでほっとしたが、もう一つ大事な事があった。これだけは、是が非でも確かめねばならない。


 中に入ってしまおうか。そう思った浅海は戸に手を伸ばしたが、結局引込めた。浅海には言うなと、さっき、父はきつくそう言っていた。

 もし自分が聞くことで、何か問題があるのだとしたら。そう思うと、出した手は勝手に戻ってきてしまうのだ。何度もそうこうしているうちに、阿木は再度口を開き始めた。

「もう一つ、お話がございます」

「何だ。今宵はやけに喧しいな」

「ええ。けれど可愛い娘の将来のため。もう少し現実的なお話を」

「と、言うと?」

「浅海の嫁ぎ先でございます」

 阿木がそう言うなり、伊佐はげほっと咳き込んだ。しかし彼女は構わずに話を続ける。

「今回のような事、もう懲り懲りでございます。あの子が、その…罰せられる姿を、何度夢の中で見たか。その度に私が叫んで飛び起きるのを、あなた様も知っておいででしょう」

 阿木の絞り出すような声で、浅海の背にぞわっと寒気が走る。母がそんなに苦しんでいたことなど、何も知らなかった。何も知らないまま、自分だけが辛い目に遭っていたと思っていた。浅海は今更ながら、自分がどれほど危うい立場にいたのかを思い知らされた。

「娘を手放すのは寂しいです。けれど、それでも、また浅海が馬鹿な事を言い出さないうちにさっさと嫁がせてしまいたい。あの子が安全だという事を、目に見える形で確かめたいのです」

「ああ、そうだな。まぁ、それも、なんだ。案ずるな。儂にも考えはある」

 考えがあるというのは伊佐の常套句であるが、実際に何かの案があったことはほとんどない。浅海が思った通り、阿木は逃げ口上を口にした彼に詰め寄った。

「どのような考えがおありなのですか。具体的にお聞かせください」

「それはまた、そのうちに、な」

「いいえ、今お聞かせください」

 煮え切らない伊佐に、阿木は鼻息荒く詰め寄った。伊佐が体を引くのが、がたりという音でわかる。

「あの子は、それでなくても難しい状況にあるのですから」

 尻すぼみになる阿木の言葉で、伊佐にもようやく彼女が何かを伝えたいと思っている事がわかったようである。

「片田舎であろうと、司の娘であれば、それなりの家柄の相手でないと釣り合いが取れません。けれど佐間はそれほど裕福ではない。浅海を妻にして得をする領家など、限られてまいりましょう。それに今回の事も併せれば尚更です」


 入婿である伊佐に対して、阿木が歯に衣を着せないのは常である。しかしここまではっきり物を言うことには浅海も驚いた。さすがの伊佐も不快感を露にしたようだ。

「それは佐間が貧乏で、格も低いと言っているのか?」

「そう受け取るのならば、お受け取りください」

「佐間は良き郡だ。儂の誇りだ。いくらお前でも言葉が過ぎるぞ」

「これは事実でございます。あなた様が佐間にいらしたとき、我が父に泣いて喜ばれたことをお忘れですか。この地は東国の外れ、何の権力も余所に誇れるほどの取り柄もない。いくら穏やかで平和な郡であるとはいえ、こんな佐間の娘を誰が好き好んで妻に選びましょうか」


 阿木は一歩も引かぬといった態度で伊佐に詰め寄る。ここまで言いたい放題言われて黙っている父ではないはずだが、今回ばかりは母の言うことが正論過ぎて何も言い返せないようだ。それに阿木が言ったことは、佐間に来る前に伊佐自身が嫌というほど悩みぬいた問題なのである。

「娘には、幸せになってもらいたい。あなた様もそうでしょう」

 畳みかける様な阿木の言葉に、伊佐は長い長い溜息をついたのち、言い辛そうにこう告げた。

「もちろんだ。まぁ、いずれにせよ、巫女への道は断たれた。彼女がああなった以上、浅海も、もう二度と巫女になりたいなどとは言わないだろう。焦ることはあるまい」

「そうだといいのですけれど。あの子はあれで強情な所がありますから」

「なに。彼女の末路を知れば、浅海も諦めざるを得ないだろうよ。あんな無惨な最期、誰が自分の子供に味わわせたいものか。社も明日には焼かれる。あれが何と言おうと、もう儂は絶対に、巫女になるなどという世迷言を許しはせんよ」


 いつ、どうやってその場を離れたのか、記憶が無かった。気付いた時には、自室へ向かう廊下を歩いていた。

 あれほど喧しかった雨音は、全く聞こえなかった。というより、何の音も耳に入らず、何も見えなかった。暗闇の所為なんかじゃない。頭の中はただひらすらに真っ白だったのだ。

 ぼうっとしているせいか、体は勝手にあちらこちらにぶつかった。前を向いて歩いているはずなのに、いつのまにか斜めに進んでしまうのだ。どんっという衝撃は、それなりの威力があり、激突の度にはっとするものの、それでもまたぶつかってしまう。三度目に痛い目を見たのは幸運にも自室の前だった。浅海は滑り込むように中に入ると、扉を背にしてずり落ちるようにしゃがみこんだ。

 がたがたと震える体を抱きしめながら、浅海は暗闇の一点を睨み続ける。


「確かめないと」

でも、どうやって? 欲するものを手に入れる手段はどうしようか。それを考える浅海の頭には、鮮明にある場所が思い浮かんでいた。

 


 明け方になった頃、浅海はようやく動き出した。結局、あれからずっと布団の上で膝を抱えて座っていた。当然、一睡もしていない。眠れるわけがなかった。胃の辺りが、鉛でも詰まっているかのように重かったが、手足は勝手に動いて小窓へと体を移動させる。

 外は未だ暗かったが、薄ぼんやりと様子は見てとれる。幸いなことに、人の姿はないようだ。さすがにこんなに早くからでは、誰も起きていないのだろう。

 そっと廊下に出て裏口の戸を慎重に開けると、ひんやりとした風が頬を撫でた。昨晩の雨のせいか、連日の暑さが嘘のように涼しかった。

 浅海はもう一度辺りを確認すると、足音を立てないよう、湿った土の上を慎重に進んだ。そんなに長い距離ではないのに、息を殺しているせいか、やけに長く感じる。ようやく乗りなれた黒馬のもとに着いた時には、大きな息を吐き出した。

「おいで」

 そう言って顔を両手で挟んでやると、黒馬は嬉しそうに鼻を鳴らした。しんと静まりかえる中では、結構大きな音に聞こえたが、気づいた者はないようだ。

「いつものところよ。行きましょう」

 小声でそう告げると、彼女は浅海の意図を察したように目的の方向に鼻面を向けた。


 

 高台に着いた時には、もう日が昇りかけていて、空は菫色へと染まり出していた。眼下に広がる暗い世界も、次第に色を薄め、ぼんやりとだがその様子を伺える。社はここをもう少し下った先だ。ここからでは、それはまだ小さな黒い塊にしか見えない。 

 浅海は黒馬を大木の根に繋ぐと、近くの岩に腰を下ろした。きちんと乾いている事を確認したはずなのに、座ってみると体はぴやりとした。外気に冷やされていたせいだろうが、岩は予想よりずっと冷たかった。

「くしゅん」

 抑えたつもりのくしゃみは、思ったより辺りに響く。既に秋口に差しかかっており、朝露で冷やされた空気は肌寒かった。浅海は両腕を手でさすって温めながら、じっと東の山間を見つめた。

 もうじき、橙の光が佐間の郡を照らし出すだろう。山頂が白い光で覆われると、そこからは一瞬だ。世界は色を取り戻し、生命が活気づく。まるで金の粉を撒き散らすかのような朝日が靄を割って地上に届く様は、いつ見ても美しくて気高い。

 鶏が鳴き、皆が動き出すまでのしんとした時間。浅海はこの時刻が大好きだった。ぴんと張った清々しい空気で肺が満たされると、体の中に淀んだ負の感情が洗われるような気がして、寝不足の気持ち悪さが少しだけ癒える。

 

 本当は直接社に行くつもりだった。夜明け前から社に籠り、そこに現れた者達全てを掴まえて、話を聞くつもりだったのだ。でもやっぱりなかなか勇気が出なくて、こうして寄り道をしてしまった。

 真実が知りたい。けれどそれはきっと聞きたくない事実だ。


 社は武装した兵達による物々しい警備が敷かれていた。見知らぬ者達が入り口を固めており、小さな社に溢れんばかりの人数が屯している。

何者だろう。その身形を見る限り、東国の兵であるとは思うが、どこの誰かまではわからなかった。

 下手に近づいて、捕えられでもしたら面倒だ。そう考えて木蔭からしばらく様子を伺っていたが、日は容赦なく昇って行った。このままこんなことをしていたら、あっという間に昼になってしまう。浅海は意を決すると、彼らの前に飛び出した。

「何者だ」

 一人がそう叫ぶなり、すぐさまこちらへ数名が飛んできた。あっさりと両脇を固められ、喉元に剣先を突きつけられる。

「名を名乗れ」

 やっぱり無謀だったのかもしれない。一瞬そう後悔したが、後戻りはもう出来ない。浅海はゆっくり息を吐き出すと、平静を装って涼しい顔をして見せた。

「それはこちらの台詞、あなた達こそ何ですか。ここは佐間の社、武人のあるべき場ではないはずです」

 その強気な態度に、彼らは顔を見合わせてひそひそと話をし始めた。値踏みするような視線が嫌だったが、ここで取り乱しては相手に付け入る隙を与えるだけだ。浅海は薄笑いを浮かべてみせ、必死に余裕を演じた。

「私は佐間の者です。薬草を切らしてしまったので、頂きたいのです」

「駄目だ」

「けれど、妹が怪我を」

「駄目なものは駄目だ。さっさと帰れ」

 男は拒絶の一点張りだった。急ごしらえででっち上げた話とはいえ、聞こうとしない男を、浅海はきっと睨みつける。

「大体、あなたこそ誰よ。名を名乗りなさい」

 不安と恐怖でぴりぴりしていたせいで、あっさりと苛立ちに負けた。口調が荒くなった浅海につられてか、男も次第に声を荒げ出した。

「小娘が。口の利き方を知らないようだな」

「失礼はそっちだって同じでしょ」

「何だと。佐間の田舎娘の分際で大口を叩きおって」

 だんだん二人の声は大きくなり、やがて大声での怒鳴り合いになった。

「少しくらい入れてくれたっていいじゃない。この分からず屋」

 浅海が激情に任せてそう叫んだとき、社の中から一人の兵が飛び出してきた。小走りで近づいてきた彼は、浅海の正面の男に何やら耳打ちを始めた。すると正面の男は苦虫を潰したような顔で、ようやく許しを出したのであった。

「よかろう、入るがいい」

「はぁ?何よ、急に」

 突然言葉を翻した男に、浅海は思わず喧嘩腰な口を叩いた。けれど今度は男は反論してこない。

「いいから、さっさと行け」

 何となく釈然としなかったが、せっかく許しが出たのだ。彼の気が変わらぬうちに、さっさと入ってしまった方がいいだろう。


 それじゃ、と男にくるりと背を向けて、ずんずんと階段に向かう。騒いでいるうちに、捕えられるかもしれないという不安は消えていた。我ながらずいぶん単純な性格である。

 階段の前にいた二人の兵は、目を伏せながら浅海を上へと促した。剣先は下げてあったが、やはりその切っ先にはびくびくしてしまう。緊張で鼓動は早まり、さっき消えたばかりの不安がまた沸々と湧き上がってきた。

 

 慣れた階段のはずなのに、わずかに軋む音にも敏感に反応する。いつもの倍の時間をかけて段を昇りきると、浅海はそっと中を伺った。

 暗がりの中には人の気配があった。けれどそれは巫女のものじゃない。浅海は怖気づく前に、思い切って戸を開け放した。

 灯された篝火で相手の姿がはっきりと映し出される。

「あなたは」

 浅海はそう呟くと、口をぽかんと開けたまま固まってしまった。中にいた青年は、そんな浅海に微笑を浮かべる。

「もっと早く来るかと思っていた。随分と遅い御出座しだな」

 青年は壁にもたれ掛かりながら、からかう様にそう続けた。何故、彼がここにいるのか。その理由は一つしかない。

「あなたが中ノ様なのですか」

 浅海は緊張でからからになった喉から、ようやくそう言葉を絞り出した。

「如何にも。佐間の姫君、待ちわびたぞ」

 聞き覚えのある低い声にどきどきしながら、ごくりと唾を飲み込む。

 

 嘘だ。思わずそう言いそうになったが、彼が本人でないなどという証拠はどこにもない。


 何か言わなければと思ったが、言葉が出てこなかった。浅海が戸惑っていると、海里は腕を組み替え、事務的な口調でこう問うてきた。

「一応、尋ねておく。お前は巫女の逃亡経路を知っていたか」

 知っているはずはないか。浅海の答えを待たずに、海里は小さくそう続けると、壁から離れ、祭壇の前まで移動した。

「巫女はとうにお前を見限っていた。そうだろう」

 相変わらずの人を嘲笑うかのような口調に、感情がざぁっと波立つ。だが、正体を知った今では、あの日と同じように楯突くことは出来なかった。何と言っても彼は唯の青年ではないのだ。


「どうした。今日は大人しいな」

 当たり前だ。仮にも玖波の次期継承者に、生意気な口など利けるはずがない。

 無言のままの浅海に、海里は懐から取り出した布を手渡してきた。見覚えのあるそれは、あの晩、浅海が彼の腕に巻きつけたものである。海里はちらりと腕に視線を落とすと、淡々とこう告げた。

「感謝する。お陰で大した怪我にならずに済みそうだ」

「いえ。お礼を申し上げるのは、私の方。あの晩は大変申し訳ないことを」

 つっかえながらも何とかそう言うと、海里はふっと目の色を和らげた。たったそれだけなのに、浅海の胸は不意に高鳴ってしまう。

 複雑な感情、慣れぬこの胸の痛み。それらが何を意味するのか、わからないわけでない。けれど、こんな時にそれを認めるわけにはいかなかった。

 

「こちらを見ろ」

 いつの間に距離を詰めていたのか、海里は目の前にいた。

 彼は浅海の顎に手をかけると、無理やり顔を上げさせる。真っ直ぐに彼の目を見つめると、その灰色の瞳には泣きそうな自分の表情が映っていた。浅海はそこに映る自分を、きっと強く見据えた。

「私は、あなた様に会いに参りました」

 そう告げた後、一瞬だけ、海里の目に喜色が浮かんだ気がした。けれど、それはまるで浅海の気の所為であったかのようにすぐに消えて、あっと思った時にはもう元の灰色に戻っていた。

「知っている。社を焼き払う命を受けた中ノ海里に、用があるのだろう」

 海里は抑揚のない声でそう言った。その表情はどことなく寂しそうに翳っている。


 浅海はぎゅっと着物の裾を握り締めた。事実を確かめる。そのためにここまでやって来たのだ。

「私は何も知らされていないのです。昨晩、両親の会話を耳にして」

「それで慌てて飛び出してきたということか」

「…はい。だから教えていただきたいのです。何があったのかを」

 海里は少しばかり逡巡した後、きっぱりとした口調でこう言った。

「巫女が処刑されたのは昨日だ。捕えられたのはその半日前。彼女はぼろぼろの姿で、突然玖波の南関に現れた」

 玖波の南関、そこは玖波と浦の境である。社のある北関とはそれなりに距離があった。

「彼女にとって不幸だったのは、玖波の役人に先に見つかったことだろう。もし、あれが浦の人間であれば、彼女ももうしばらくは生きながらえたかもしれない」

 海里はすっと目を細めると、ここで一旦言葉を切った。気にはなったものの、浅海は余計な口を挟まず、彼の次句を待つことにした。

「捕えられるなり、引き摺られるように郡府まで連れて来られた。そこから先はあまり口にしたくはないが。彼女は当然、相応の裁きを受けた」

 罪人としての裁き。それが如何なるものか、聞かずともわかる。浅海は背が凍る思いに、そっと自身を抱きしめる。

「石賀は容赦しなかった。まぁ、それはそうだろう。推薦者としての面目を潰され、挙句の果てに捕えるまでに幾日も要したのだ。今までの鬱憤を晴らすかのように、彼女は手酷い拷問を受け、」

「そうして、処刑されたのですね」

 自分のものとは思えない低い声で、浅海は海里の言葉を補完した。 最後を言い淀んだ海里とは対照な、あまりにも冷静な態度。涙一つ出て来ないのは、どうしてだろうか。

 

 海里は無表情のまま祭壇に手を伸ばすと、そこにあった管玉を手に取った。

「それをどうして?」

 海里がかざして見せたものを、浅海は怪訝な顔で見つめた。ここにあるはずのない代物である。透き通った翠色の玉がいくつも、連ねられている高価な首飾り。それは今回の宴のために、造の息子である武項が贈ってくれたものだ。

「矢倉の焼け跡に残っていた」

 海里はそう告げると、首飾りを放って寄こした。上手い具合に手の中に落ちてきたそれはひんやりと冷たかった。


 これに触れたのは、二度目だ。一度目はそう、最後に社に行ったあの時である。巫女に命じられ、浅海の手で清めを行ったのだ。あの時の穏やかな彼女の微笑を思い出しながら、浅海は見覚えのある玉の一つ一つを、何度も何度も丁寧に指でなぞった。

「巫女が捨てていったものだ。処分はそなたに任せよう」

「いいのですか?」

「そなたが要らぬというなら、石賀に渡す。どうする?」

 頂きます。そう答えた声は小さくて、海里には届かなかったかもしれない。だが、彼は薄い笑みを浮かべると、浅海にくるりと背を向けて祭壇の前に立った。そうして少しの間黙り込んでいたのだったが、不意に硬い声でこう問うてきた。

「お前はどうして巫女になりたい?佐間の姫君が、何故、現世を捨てるようなことをしたいのだ?」

 表情はわからない。けれど、好意的な問いでない事はその口調から察せられた。

「かの巫女は失態の責から逃れただけでなく、大切な宝玉も、社も、そしてそなたさえも捨てた。全ては自分が生き延びるためだけに、だ。そなたはそんな女のどこに惹かれた?」

 海里は吐き捨てるようにそう言うと、勢いよくこちらに向き直った。彼の灰色の瞳には、それまで冷静さの内に隠されていた荒々しいほどの情の昂りが、くっきりと映っている。

「答えろ」

「…力が欲しいのです。誰にも負けないくらい強い力が」

 浅海は、海里の目を見つめながら、ゆっくりとそう答えた。誤魔化しが利くとは思えなかったこともあるが、それよりも彼には本音を打ち明けてみたくなったのだ。

「私は誰よりも強くありたい。女の身で何を言うとおっしゃられるかもしれませんが、これが私の答えです」

「力、か。なるほど。お前の言い分はわかった」

 海里にそう言われて、浅海の頬はぱあっと紅潮した。だが、理解してもらえたと喜んだのも束の間、彼の顔に浮かんだ冷笑を見て、すぐさま自分の勘違いに気付いた。


「では今度はこちらから問おう。奴らに何の力がある?口先だけの偽りで民を惑わす罪人だろう」

 海里の言葉に力が籠る。彼は苛立ったように眉間に皺を寄せながら、吐き出すように続けた。

「奴らは自らを選ばれし存在と称する。全く笑わせてくれるものだ。巫女とてただの人間。様々な知識を有すること以外、普通の者と何も違わない。そうではないか」

 嘲る様な海里の声に、浅海は頭からどばっと冷水を浴びせられたような気分になった。けれど、火照った心はそれをあっさりと弾き飛ばし、さらに燃え上がる。

「貴方様は、巫女様のお力を信じてはいらっしゃらないのですか?」

怒りで唇が震え、上手く声が出てこない。衣の裾を破らんばかりに掴みながら問いかけると、海里は小さく首を傾げて見せ、ふっと笑みを浮かべた。

「巫女の力など所詮紛い物。もし仮に神を鎮めることが出来たとしても、この世の邪念には敵いはしない。この世で通じる力でなければ、無力と同じだろう。そなたも巫女などやめておくことだな」

 これまでとは打って変わって、重く、暗い声だった。巫女というより、神に仕える者達全てに向けられる悪意のようなもの。それが隠されることもなく、ありありとこちらに伝わってきて、鋭い剣のように浅海の心に突き刺さる。

 

 黙り込んだ浅海に、海里は顎をしゃくって戸口を差した。

「さて、そろそろ刻限だ。外に出てもらおうか」

「嫌です」浅海は首を横に振った。

「私はここを護ります」

 浅海はそう言うと、祭壇の前に回り込んで両手を広げた。かなり無謀な行動だということはわかっている。相手は中ノ海里だ。逆立ちしたって敵う相手ではない。けれど素直にこの場を明け渡すことはしたくなかった。

「面倒をかけるな。どうしてもと言うのならば、無理やり引きずり出すぞ。」

「そうですか。では引きずり出されるまで、私はここに留まる事に致します」

 ほんのわずかに表情を緩めた海里に甘えたのかもしれない。浅海の口からは、信じられないような言葉が飛び出していた。無論。彼がそれを許すはずはない。

「出ろ」

 一転して強い口調になった海里は、浅海の腕を乱暴に掴むと短くそう命じた。灰色がかった彼の眼はその色味を強めて、鋭さを増している。

「ここで灰になりたくはないだろう」

 脅迫めいたその言葉にも、浅海はゆっくりと首を左右に振った。そして海里の眼を真っ直ぐに見つめながら、巫女のような口ぶりでこう告げた。

「社は神の住い。あなたはそれを焼き払えるのですか」

 正論を言っているという自信からか、言葉は予想外に力強かった。けれど海里はそれを全く無視して、無理矢理浅海の腕を引っ張った。

「離して下さい」

 引き剥がそうともがいたが、彼は決して力を緩めない。離してと喚くも全くお構い無しで、海里は浅海を文字通り外へ引きずり出した。そうして社から少し離れたところでこう命じたのだった。

「火を放て」

 命令にすぐさま反応した兵達が一斉に火矢を放つ。びゅんっという風切音が続け様に聞こえ、小さな火がぽつぽつと社に灯った。


「やめて。お願い。火を消して」

 まだ間に合う。今ならまだ消える。必死に縋るも海里は一向に聞き入れる様子を見せてはくれなかった。兵達も泣き叫ぶ浅海を一瞥しただけでお構いなしだ。

やがて炎は次第にその大きさを増して、巨大な火柱が立ち上がった。社は音を立てながら崩れ落ちていく。

 成す術をなくした浅海は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、その場にへたり込んだ。涙を拭うこともなく、ただ赤く燃える社をじっと見つめる。巫女と過ごした日々が走馬灯のように頭を駆け巡り、涙がとめどなく溢れてきた。


「ここで巫女様は祈りを捧げていた」

 黒い焼け跡の中、祭壇のあった場所にしゃがみ込みながら、浅海はそう呟いた。

既に兵達の姿はなく、辺りは何事もなかったかのように静かだ。ただ違うのは社がなくなったことだけ。しかしそれすらも既に日が落ちたこの時分では定かではない。しんと静まり返る夏の夜は、いつものように暑いはずなのに暑さは全く感じなかった。

 ほんの一月前まで巫女と笑い合っていたその場所は、跡形もなく燃え落ちてしまった。既に炭となってしまった祭壇を力任せに叩くと、堪え切れなくなった滴がぽつりと落ちる。 

 

 何が悲しいのかはよくわからなかった。思い出の地が焼けたことか、それとも巫女を失ったことか。そもそも彼女に見捨てられたことか。どれが一番の原因と言えるわけでもないが、一つ一つが積み重なったせいで、大きな痛みになったことは確かだ。

 目の前は真っ暗で、頭の中は真っ白。涙はちっとも止まる気がしなかった。ひたすら漏れ出す嗚咽のせいで、息苦しくて仕方がない。

 幾度目かにむせ返ったとき、浅海は腕に温かさを感じた。はっと顔を上げると、すぐそばに海里の姿があった。

 無言で横に片膝を付いた海里は一瞬泣きそうな顔をした。いや、そう見えたのかもしれない。彼の灰色の瞳には、浅海自身の泣き顔がくっきりと浮かんでいた。

 何も考えられないまま、彼の目に映る自分の姿を見つめていると、ぐらりと視界が傾き、体は、海里の腕の中にすっぽりと収まっていた。

 そっと頭を撫でてくれる、その温もりに耐え切れなくなった浅海は、濡れた顔を彼の胸に埋めながら、幼子のようにわんわんと泣き喚く。すると海里は、しがみつく浅海の背に手を回し、力強く抱きしめてくれたのであった。

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