第3話

 その、一週間後。

「れなさん」

 夕食を食べながら、真央が何気ない調子で言った。

「最近、悦子さんと会ってないんじゃない? こないだまであんなしょっちゅう、いろいろしてたのにさ。喧嘩でもしてるの?」

 子どもは鋭い。

 れなは、幸太にそっくりの、真央の猫みたいな一重の目が大好きだが、今は少し、怖いと思った。

「ううん、喧嘩なんてしてないよ。えっちゃんは最近、忙しいんだって。会いたいけど、なかなか時間作れないの」

 答えながら、自分の声や言葉が不自然じゃないかを同時にチェックする。嘘が得意でないれなは、迷ったり戸惑ったりすると、すぐに顔に出てしまうのだった。

「そうなんだ。いっしょに遊園地行くの、楽しみにしてたのにな」

 さいわい、真央には怪しまれなかったようだ。大人びているとはいえまだ小学生なんだから、れなの深いところにある秘密になんか気づくわけがない。えっちゃんが昔男だったことだって、きっとこれからも知らないままだろう。

 真央は真央で、自分の友達と、れなには一生見せないような秘密を築いているかもしれないけれど、それはそれでいいのだ。

 れなは、「母」と呼ばれたがらないだけあって、いかにも母親らしい過干渉を嫌っていた。幸太に対しても、「妻」を全面に押し出すことなく、浮気を疑うそぶりを見せたことなど一度もなかった。むしろ、浮気されるなら、結局それまでの関係だということなのだ、とドライに考えている。

「遊園地なら、今度私が連れていってあげるよ。久しぶりに、三人でいこう。ね、こうちゃん」

 テーブルの向かいで黙々と食べていた幸太を誘ったら、珍しく無視された。

「幸太、今日、不機嫌」

 真央がそっと囁く。

 れなは注意して見ていなかったから気づかなかったが、そういえば、朝からほとんど口をきいていない。部屋の掃除をしているときに、何かまずいものを見つけたのだろうか。

 れなは何を見てもあまり激昂しないほうなので、幸太が怒りそうなものが何か想像できなかったけれど、十年以上穏やかに続いてきた夫婦の関係にひびが入るのではないかと不安になった。

「どっか、調子悪いの?」

 幸太が無口になるのはどこか痛いときも同じだということを思い出して尋ねたら、ぼそっと低い声で返された。

「胸糞悪いわ」

「えっ」

 さすがに、れなも動揺して眉間に皺を寄せる。

「おまえの中学時代の卒アル、みた」

 これまでそんな昔のものには興味がなかったらしいが、今日はたまたま、開いた引き出しの中にあったのでめくってみたそうだ。

「そしたら、なんかどっかで見たような顔の男がいんの。崎村悦司って、なあ、誰だよ」

 おおかた分かっているだろうにわざわざ訊くのは、怒っている証拠だ。幸太はついに気づいてしまったのだろう。えっちゃんが、生まれつきの女性でないことに。もう、二十年以上前の話なのに。

「あれはえっちゃんだよ」

 今さらそれがどうした、とれなは言いたくなった。

「べつに、生まれつき何もかも正しくなくたって、いいじゃない」

 娘の前だということも忘れて突っかかってしまう。真央は、気を遣ったのか、足音を殺して、子ども部屋に消えた。

「そういうこと言ってんじゃねーよ。おまえ、あのコとやたら仲いいの、昔惚れてたとかか?」

 娘がいなくなったことで、遠慮なく見当違いの怒りをぶつけてくる幸太。彼の中でえっちゃんはきっと、妻の女友達という安全な存在から、女の皮をかぶった男という危険な存在に降格されたのだろう。身体の変化はあったものの、えっちゃんは生まれてから今までずっと、生粋の女性の心で生きているのに。

「何でこうちゃんはそんな分からず屋なの? だいたい、もうずっと前のことなのに、今ごろ卒アル引っ張り出してきて不機嫌になるの、おかしいよ」

 喧嘩になると普段より幼い口調になるれなは、意見を主張したりマイナスな意思表示をしたりするのが苦手なのだ。

 やましいことが何もないかといえば、決してそうではないから、れなのほうが分が悪いけれど、えっちゃんの性同一性障害のことはまたべつの問題だ。普通に自分の性を受け入れて、男であることを楽しんでいる幸太に、あれこれ言われたくない領域の話だった。

「……なら、もういいけど」

 しばらく不毛に言い争った末に、幸太が疲れたようにつぶやいた。

 こんなふうにすねてしまったら、数日だんまりが続くのを、れなは経験上知っている。彼がドアを閉めて自室にこもってしまってから、密かにため息をついた。夫婦喧嘩はめったにしないので、こんな想いをするのは年に数回だ。

 以前のれなはこういうとき、無理やりにでもえっちゃんに会いたくなって、えっちゃんが出るまで電話を鳴らしていた。昔から、誰からも愛される人間だったから、ちょっとでも誰かに背を向けられることに耐えられないのだ。

「れなのそういうとこが、憎くてうらやましい」

 と、えっちゃんには冗談まじりに言われていた。

 しばらく、「彼女」のことなんて考えもしなかったくせに、夫とうまくいかなくなったとたんに思い出して、また会いたいと感じるなんて、勝手すぎる。分かっていても、れなはえっちゃんのことを考えてしまう。

 初めてキスしたときのこと。女のコの身体になったえっちゃんとお祝いのお酒を飲んで、ベッドに入った夜のこと。いやらしい思い出しかないわけじゃない。素面で泣きながら語り合ったこともあった。激しい喧嘩はしなかったけど、険悪になったときだってある。それでも友情が長く続いたのは、お互いに、「このヒトがそばにいないと」とすがる気持ちが、ひとかけらずつあったからだろう。

 別れると決めたのだから、何があったってぐっとこらえて、二度と恋しいと思ったりしないことだ。れなは、自分に言い聞かせて、まだえっちゃんのアドレスが残っているケータイをそっと閉じた。



 どこかで、何かが震えている音が聞こえる。

 グールルル、グールルル。

 胎動みたいな、鈍くて重くていとおしい響きの音。

 それが自分の手の中にあると気づいた瞬間、れなは安堵して目を開けた。

 震えていたのは、ケータイだ。ちょっと横になっていたら、そのまま寝てしまったらしい。液晶画面を見ると、「えっちゃん」と表示されている。

 夢の続きみたいなふわふわした気持ちが一気に冷却され、れなの身体を鋭利にした。

 出なきゃ、いいや、出ちゃいけない。

 せめぎあう気持ちの中間で、無機質なバイブの音が続いている。

 ーーひとこと、だけなら。

 えっちゃんとは会わない、思い出すこともしないと決めていたはずなのに、指が誘惑に負けて、二人をつなぐボタンを押してしまった。

「もしもし……えっちゃん?」

『…………』

 自分からかけてきたくせに無言の相手。

「何か、用?」

 できるだけ感情の混ざらない声で問いかけても、返事はない。

「もう、切っていい?」

 確認したら、ようやく声が返ってきた。

「あたし、今から死ぬの」

 ふ、と息を吐いている音が混じった、安らかな声だった。

「さよなら、れな」

 おそらく、自殺の予告だった。

 背後に水の音が聞こえている。

「待って、えっちゃん、ちょっと待って! 何してるの!」

 れなは、小さなケータイを壊しそうなほど握り締めて叫んだ。

 ツー、ツー。

 通話は一方的に終わっていた。

 言いたいことだけ言って電話を切ったえっちゃんは、これから命を絶つのだろうか。れなが最後の話し相手だったのだろうか。

 誤解を招きやすい性格のせいで友達がいないえっちゃんには、現在恋人もいない。家族だって、生きているけどいないようなものだ。えっちゃんが別れて困る相手は、今のところ、れなしかいなかったのかもしれない。

「えっちゃん!」

 電話をかけ直しても相手が出なくて、れなの声は悲鳴になる。

「どうしたの、れなさん」

 真央が気づいて駆け寄ってきた。

「えっちゃんが、えっちゃんが」

「えっちゃんに何かあったの?」

「今から死ぬって……」

 娘の前で、れなはしゃくりあげて泣いた。涙で汚れていく顔を覆い、その場に崩れていく。

「泣いてないで早く行かなきゃ。こうちゃん、車、車!」

 両親が喧嘩していることだって知っているだろうが、真央はそんなのおかまいなしに父親をせき立てる。今は、非常時だ。

 水の音がしたから、どこにいるのだろうと一瞬考えて、れなはすぐに思い出した。

「えっちゃん、きっとお風呂だ」

 中学生のころ、いつか自殺するとしたら、お風呂場で手首を切るのと話していた。当時から、悲しくなると死ぬことばかり考えているえっちゃんだった。

 幸太は無言でえっちゃんの家に車を走らせてくれて、最短時間でえっちゃんのマンションに到着した。

 誰かに見つけてもらうためか、ドアの鍵はかかっていなかったから、三人で押し入って浴室に駆け込んだ。

 えっちゃんは、大きめのナイフを手に、たまっていくお湯をぼんやりながめていた。睡眠薬か何か、飲んでいるのかもしれなかった。近くにたくさん、錠剤の抜け殻が落ちている。

「えっちゃん!」

 名前を呼んで揺さぶったら、目を開けたまま崩れ落ちて、手から刃物が落ちた。

 とりあえず救急車を呼んで、その後しばらくは、ドラマのような場面が続いた。



「ごめんね、別れるなんて、言わなきゃよかったね」

 ベッドで意識を取り戻したえっちゃんに、れなは化粧のはげ落ちた顔でわびた。化粧しなくてもきれいだけど、目元とか細かいところに年齢が現れている。

「いいの、あたしも大人げなかった。幸太さんにも迷惑かけちゃったし」

 命に別状はないと聞いて先に帰った幸太と真央のことも気にかけているえっちゃんは、マジの不倫には向かないタイプだ。

「別れようって言われたのに、いつまで経っても気持ち切り替えられなくて、もう、生きててもしょうがないって思っちゃったの。お店も、やめちゃった、し……」

 しゃべっているうちにしゃくりあげ始めたえっちゃんは、作り声が崩れて地声になっている。鉄壁の防御がとけたみたいに、みっともなくて無防備だ。

「ごめん……」

 まさか、仕事までやめてしまうなんて思わなかったから、れなは「彼女」をぎゅっと抱き締めてわびるしかなかった。

 過去を捨てて今だけに生きようなんて、苦しい過去をともにした者の前で、なんて身勝手だったのだろう。

「えっちゃんだって、昔の自分をちゃんと背負って生きていこうとしてるのに、私、バカだった。平凡な主婦に早くなりたいとか、そんなことばっか思って。いいじゃんね、ちょっとくらいイタイ過去あっても。えっちゃんに会ってなかたら、私、今も『ボク』とか言ってるような、性別迷子だったかもしれないもん」

 えっちゃんだって、たぶんそうだ。

 理解者がいなきゃ自殺しちゃうかも、といつもつぶやいていた。手術する勇気が出たのも、れなのおかげだと言ってくれた。大人になってふっきれて、傷ついたときにはれなと肌を合わせたのも、お互いにとっての「措置入院」みたいなものだった。特効薬はないけど、重なっている間に傷が癒えていくようで、いやらしいことはしないときも、手をつないでいるだけで気持ちよかった。

「幸太さんや、真央ちゃんには悪いけど、あたし、やっぱり、れなが欲しい。ないと死んじゃう」

 耳元で、低めの声に囁かれて、れなも「私も」と答える。

 バレたら離婚の確率が高いし、ひょうひょうとしてるように見える真央だって深く傷つくだろうけど、れなはトカゲじゃないから、しっぽを切って身体だけで生きるなんてやっぱりできない。

 そういう酷薄なことができるなら、えっちゃんから電話があったときに、聞かないふりをすることだってできたんだから。

「これからも、私たちの黒歴史、だいじにしよ」

 私、今でもときどきは、自分が女だってこと忘れたくなるの。

「いいよ、じゃあ、れながはずした女のコの部分は、あたしが拾ってつけとく」

「そんな、ウィッグやイヤリングじゃないのに」

 自殺しようとしてた人と冗談を言い合うなんて、不思議だ。

 いい年して、お互いまだ中二病の感性をずるずる引きずっているけど、その不毛な部分が二人を生かしているのだから、これからもだいじに共有しなきゃ。

 病院のベッドでこっそり抱き合って、「生きているかぎりお別れしない」と、れなは初めて、えっちゃんに、前向きな誓いの言葉を囁いた。

            


                 終

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

サヨナラえつこ。 池崎心渉って書いていけざきあいる☆ @reisaab

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る