第2話

 えっちゃんのいなくなった日々は、あまりに平穏で、二次元的な味気ない平面で綴られていた。

 真央の学校での話を聞いているときとかは楽しいし、テレビを見て笑ったりはするけど、急に老けたような寂しさが、日に何度も襲いかかってくる。

 もう四十半ばだし、既婚者だし、子どももいるし、いくら若く見えて美しいからといって、これから誰かと恋愛したりすることはもうないのだろう。最近は疲れ気味で触れてくることもほとんどなくなったこうちゃんと二人で、一生の終わりをめざして退屈な日々を重ねるのだろう。平均寿命からいえば、まだやっと半分を過ぎたくらいなのに。

 えっちゃんとの長年に渡るイケナイ火遊びが、れなにとっての最後の恋愛だったのだ。おそらく。

「そんなの、やだぁ」

 ぱたんと椅子の背にもたれかかって、駄々をこねるようにつぶやく。

 自分から別れを切り出したくせに、もう会えないとなると、急にえっちゃんが恋しくて愛しくてたまらなかった。理屈っぽいしゃべり方も、可愛いものが大好きなところも、オシャレアドバイスがいきすぎて友達をなくしたりするところも、そばにいるときはちょっとうざかったりしたのに、離れると突然、何もかもかけがえのないものに思われてきた。

 こういうことってよくある、きっとすぐ治まる、とれなは自分に言い聞かすけれど、息をするたびに胸が苦しくなって、それより先に死んでしまいそうだ。

「狭心症かも……」

 小さな胸を押さえたら、あまりに冷たくて、血が通っていないように思われた。

「血管なんかないみたいだ。人形?」

 ずっと前、幸太に言われたことがあるけど、本当にそうだったらどんなによかっただろう。

 愛されて飾られていればそれでよくて、複雑なことに悩んだりしなくてすむのだから。

 今はさすがに、本気でそんなふうに思うことはなくなったけれど、十代のセンシティブだったころは、毎日のように考えていた。中学生でえっちゃんに出会ったのはちょうど、弱っているときに宗教の勧誘にあうのと同じような効果で、れなを変えたのかもしれない。

 初めて会ったころのえっちゃんは、茶色く染めた髪を長く伸ばしていて、田舎ではとても目立っていた。当時、そういう髪型のミュージシャンがちらほら出てきていたから、真似をしているんだろうということになっていたが、実際はもっと複雑な理由が潜んでいるのを、れなはまもなく本人から聞かされることになる。

 れなとえっちゃんが仲良くなったのは、れなが保健委員で、えっちゃんが保健室を避難所にしていたからだった。えっちゃんは、出席をとられるときに「悦司」と男の名で呼ばれるのがいやで、朝の会をいつもサボッていた。「男らしくしろ」が口癖の教師が担当の教科も。

 保健室のソファに横になって、長い髪をいじりながら、えっちゃんは宣言した。

「大人になったら『悦子』って改名する、悦っていう字自体は好きだから」

 事情を知らなかったころのれなは、冗談かと思って笑ったのだが、えっちゃんは、思い詰めた真剣な顔をしていた。

 不良でもないのに髪を伸ばして、ヒールのある可愛いサンダルをはいていたりするえっちゃんは、校内では「変人」として有名で、一部の男子からいじめられていた。美形なのに陰気だったから当時はあまりモテなかったし、友達はれな一人だけだった。

 れなはえっちゃんのきれいな長い髪や、憂いを感じさせる頬から細い顎へのラインが好きだったから、いつもそばにいていろいろ話を聴いた。本の話とか、映画の話とか、飼っている猫の話とか、音楽、政治、社会問題。将来の夢と、恋の話だけはしなかった。二人とも恋愛には疎かったし、先のことを想うのは、えっちゃんがいやがった。

 ずっと押し隠していただろう秘密をいろいろ打ち明けてくれたのは、中学校卒業が間近に迫った一月のある日だ。保健室のおばちゃん先生も、風邪か何かで朝からいなくて、静かな部屋で二人きりだった。えっちゃんは、勝手に棚を開けて、紅茶を出してきて二人ぶんいれ、れなの前で憂鬱そうに肘をついていた。いつもみたいに、弾んだ声でおしゃべりしない。

「えっちゃん、今日はどうしたの? ……生理?」

 学ランの男子生徒にそんなものがあるわけなかったけど、えっちゃんなら可愛いナプキンを持ち歩いていても違和感がなかった。

むしろ、女のコのアソコがついていると告白されても納得できそうだった。

「まさか」

 首を振って少し笑ったえっちゃんは、「そうだったらいいのに」と、短いつぶやきを追加した。冗談じゃないっぽい口調だった。

「あのね、れな」

 れなだからいうけど、あたし、いつ女のコに戻れるんだろうってずっと悩んでるの。

 もとは低い声を、無理に少し柔らかくしてしゃべるえっちゃんが、このときはほぼ地声だった。顔はほとんど女のコみたいだから、喉だけ呪いをかけられているように見えた。

「えっちゃん、私と逆だったらよかったね」

 れなは声を落として、囁いた。

 誰にも打ち明けていなかったけれど、れなは、「女のコでいることがつらい」と思いながら生きてきた女のコだ。けれど、だからといって「男になりたい」と思ったことはない。「女のコは損だ」とか、気むずかしく訴えたいわけでもない。単に少し、窮屈で苦しいだけ。やりたいことをしようとしたとき、正面ではないヘンな角度からじろじろ見られて、気持ち悪いだけ。

 こういうことを、不美人な女のコが言えば、鼻で笑われて攻撃されるし、れなのような美少女が口にしても、ちゃんととりあってもらえない。

 頭は悪いけどこのテのことはうっすら分かっているれなは、秘密を押し隠して、「フツー」なふりをしてきた。男のコの格好がいやなえっちゃんと違って、スカートをはいたり可愛い髪型をするのはいやではないれなは、周囲の誰からも疑われずにきた。

 でもえっちゃんには、ちょっとバレていたのだ。最初から、何となく気づいていたらしい。

「れなのこと、完全には理解できないけど、あたしとちょっと似てるかなって思ってたんだ」

 えっちゃんは微笑んで、れなの髪を優しく撫でた。

 その日、どうしてだか分からないけど、触れるだけのキスを初めてしたのを思い出した。同志を見つけた、という悦びのキスだったのかもしれない。

 れなとえっちゃんが、これよりもっと先に進んだ肉体関係を持ったのは、えっちゃんが身体を女のコにした二十一歳のときだった。れなは失恋して自棄になっていたし、えっちゃんが本当の自分に戻ったことへのお祝いの気持ちもあった。えっちゃんは、男の身体だったときは、誰にも裸を見せたがらなかったけれど、手術してからは、明るいところでもおっぱいを披露してくれた。「ストリッパーになりたい」と冗談めかして言っていたけど、何割かは本気かもしれなかった。実際、れなの天然の小さな胸よりも、えっちゃんの人工のDカップのほうが、ずっときれいで本物のオンナっぽかった。

 れなは、えっちゃんの女のコの部分と自分を交わらせるのが好きだったので、何度も何度もえっちゃんと寝た。男とヤるときに比べて、理解し合えない感覚が少なかったし、ずっと穏やかな気持ちになれた。

 女である自分を肯定できなかったれなは、女であることを愛するえっちゃんと抱き合うごとに、自分を好きになっていける気がした。えっちゃんも、れなとのセックスから何かを得ていたに違いない。だからこそ、二人は互いを必要とした。

 お互いに本命の恋人がいた時期があったにもかかわらず、愛でも恋でもない不思議な関係が続けられて、気づけば二十年以上も経ってしまった。

 れながおしまいにしようと突然持ちかけたのは、もしかしたら、このまま過去を持ち続けることが怖かったからかもしれない。十代のころから現在までの間に、れなはいつのまにか、違和感を覚える心を捨ててしまっていた。今ではすっかり、そういう繊細なことに揺れたりもしないで、女の枠に見事収まって生きている。しだいに老いてきた両親に介護が必要になったり、娘が思春期にさしかかったりと、やっかいな人生イベントが次々起こるから、アイデンティティに悩む時間など、とれなくなっているのだ。それ以上に、「もう性別とかどうだっていいや」という開き直りに近い気持ちがわいてきてもいる。

 結婚したからかもしれないし、子どもができたからかもしれないが、れなはもう、十代のころのようには苦悩していなくて、えっちゃんにべったり依存しなくても生きていけるようになったのだ。そうなってみると、必死すぎたあのころが「黒歴史」のように思えて、すべてを知るえっちゃんと二人で会うのが気恥ずかしく感じられる。

(単に、セックスだけやめればすむ話だったのに)

 真央と幸太のためにシチューを作りながら、れなは、「浮気相手」と普通なら呼ばれるようなヒトのことを熱心に考える。もう終わったことだし、自分からわざわざ別れを切り出したのに。

「……れな」

 ふいに、後ろから声がした。

 腕が伸びてきて、胸の下あたりに絡みついてくる。

「こうちゃん……」

 この触れ方は、「セックスがしたい」というサインだ。

「ただいま」

「おかえり……」

 建設会社で働いている幸太は、ときどき早く帰ってくることがある。今日もそうだったようだが、考え事をしていたれなは、気づかなかったのだ。

「だめ」

 服の中に手を入れられて、おたまから手を離さずにれなは緩く首を振る。本気で拒否しているわけではないが、「めんどくさいなぁ」とちょっと思っている。キッチンで欲情されるという、新婚みたいなシチュエーションもちょっと恥ずかしい。

「真央ならとうぶん帰ってこねーよ、今日は部活のあと、あゆみちゃんちに寄ってくるらしいから」

「もうっ」

 二人の濃密な時間のためにわざわざ、真央に予定を訊いたのかと思うと、その必死さに笑えてくる。お互いもう、枯れていてもおかしくないくらいの年齢なのに。家族計画を抜きにしたふれあいを、今も定期的に持っている。

 真央が生まれた後、「二人目は男の子がいいな」と幸太は言ったけど、結局、それ以降子どもはできなかった。今となっては、二人の行為は完全に、睦まじくいることを確かめ合うためだけのものになっている。

(こうちゃんでよかったな……)

 脱がされていきながら、れなはぼんやり思った。

 十代のころは、「一生結婚しないだろう」と予感していたのに、あっさりくつがえったのは、幸太に出会えたからだ。

 れながこれまで関わってきた男たちには、正解が一つしかなかったけれど、幸太はそもそも、解自体を用意していないような男だった。

 他のヒトたちは、ヤンキーだろうがまじめ系だろうが、「オンナというものの正しい形」みたいな答え合わせ表を持っていて、れなにそれと合わないところがあると、とがめてきた。どんなに新しいものが好きな男でも、根っこのところは結局保守的で、おとなしそうな膝丈のスカートや、小ぶりで上品なアクセサリー、黒髪セミロングなんかが大好きだった。ひどいのになると、まったく逆の路線のれなに、それらを模倣するよう命じてきた。

 内面においても、女はいつも控えめに微笑んでいるだけの人形でいてほしかったらしくて、れながちょっとでも複雑な面を見せたりしたら、露骨にいやそうな顔をした。だから、れなは本音を隠して、悩みなんかない分かりやすいオンナのふりをしてきた。その結果、誰とも深い関係にはなれず、どの恋も短期間で終了した。はためには恋多き女に見えていたかもしれない。

 えっちゃんだけは本当のことを分かってくれていたから、「苦労するね」と慰めてくれたけれど。

 幸太とつきあい始めたときも、どうせそうなるだろうとれなは諦めていたが、幸太は、これまでと違うタイプだった。ほわんとしたピンクの清楚な下着ではなく、派手で挑発的なランジェリーを好み、肉じゃがや炊き立てのごはんなどの「おふくろの片鱗」を求めない男だった。

 れなはおかげで無理せずにすんだし、煙草を吸っている彼に寄り添っているだけで安らぎを覚えた。幸太は温かい布団のようで、潜り込んでいるうちにでられなくなったれなは、彼のプロポーズを受け入れた。おなかにはすでに真央がいた。

 キッチンから寝室に移動してひたすら抱き合った後、ベッドにうずもれたれなは、改めて自分を幸福だと思う。こめかみに短いキスをくれてから、さっさと服を着てキッチンに行った幸太が、シチューの続きを作っているらしい音が聞こえてきた。

 えっちゃんがいないと、歯の詰め物がとれたように違和感を覚えるけれど、えっちゃんに会えなくても、れなの日々は丸く収まっていく。夫がいて娘がいて、もうじゅうぶんに大人のれなには、思春期の痛みの記憶なんて、前世の出来事のように不要なものなのかもしれなかった。

 えっちゃんとの別れは、子どもが成長の過程で、持ち歩いていたぬいぐるみを手放すようなものだったのかもしれない。

 ならばこれですべてうまくいったのだと安堵できるはずなのに、れなの胸にはなぜか、嵐の前の波打ち際が存在して、ざわざわ押し寄せているのだった。

「今ごろ、何してるんだろう」

 幸太が気を遣ってかけていってくれた薄い毛布を剥ぎ、ケータイを探して画面をのぞく。えっちゃんのアドレスはそのまま残してあった。とはいえ、あの夜以来メールは一度も送っていないし、向こうからも何の音沙汰もない。

 急に別れを切り出したりしたから、怒ってしまっていても不思議ではないし、その逆に、案外何事もなかったかのように、仕事に打ち込んでいるかもしれなかった。忙しくなる、と言っていたし。

 えっちゃんの働いている美容院を、通りすがりのふりをして少しのぞいてみようかとも思ったが、目が合ったら気まずいから自分で却下した。別れを突きつけたくせに、恋しくなったら近寄っていくなんて、愉快犯みたいだし虫がよすぎる。ぜんぶきれいに忘れて、家庭のことに打ち込むべきなのだと、れなは自分に言い聞かせた。

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