サヨナラえつこ。
池崎心渉って書いていけざきあいる☆
第1話
「えっちゃん、もう、別れよ」
本人に言う勇気はまだないから、鏡に向かって、自分相手に言ってみた。
眉を寄せて、あるいは、呆れたような顔で。もしかしたら、涙が必要かもしれないし、名残惜しそうな顔のほうが円満に終わらせられるかもしれない。
とにかく、「別れる」というのは、もう決めたことだった。このままずるずると今の関係を延長していたら、えっちゃんもれなも、ダメになる。お互いもう四十半ばだし、れなには夫も子どももいるんだから。
頭ではじゅうぶん理解していることのはずなのに、えっちゃんと別れる瞬間を想像すると、れなの大きな瞳は、破水したように潤んでくるのだった。
「れなさん、どうしたの?」
今年十二歳になる娘が、不思議そうに尋ねてきたのを、れなは振り返らずに「何でもないよ」と追い返した。娘に「ママ」「お母さん」などと呼ばれないことを選んだのも、れなだ。夫はあまりそういうことを気にするほうでなかったし、単純に「いつまでもオンナでいたいのだろう」と、陳腐な解答を見つけてくれたに違いなかった。
本当の理由はもちろんそんな分かりやすいものではないし、口下手なれなは説明する気もないけれど、えっちゃんだけはちゃんと理解してくれている。
れなが、「女として生きていくのが怖い」とずっと思っていること。今でこそ、背中の開いた服なんかを着て女っぽく楽しんでいるけど、昔は死んでしまいたいくらい、自分の性に嫌悪と違和感を抱いていたこと。
これらを解説なしで分かってくれるから、れなはえっちゃんのことが好きで、十代のころから長年に渡ってよりかかり続けてきたのだ。それが、不毛で狡猾なことだと何となく気づいていながら。「彼女」の優しさと弱さに甘えてきた。
「えっちゃん……」
鏡の中に呼んでも、姿は見えない。もうそんな、病んだ感傷に浸る時期もとっくに過ぎている。れなはもう、中学生ではないのだから。大人になったことを認めて、引きずっている過去にはサヨナラしなければ。
「彼女」とは、今夜会う約束をしていた。夫にも、「出かける」と言ってある。えっちゃんとれなが二人きりになることに、夫は何の警戒もしていない。彼にとってえっちゃんは、「妻の大親友の、オシャレな美容師の女性」でしかないからだ。
えっちゃんにその昔、ペニスがついてたことや、学ランを着ていたことなんか、つゆほども知らない。むしろ、知らなくていいのだ。えっちゃん自身、男扱いされていた時期のことは「黒歴史」と呼んで忘れたがっている。
れなも、わざわざ掘り返したくなかったので、学生時代の話なんかは今更しない。もう、三十年以上前の話だし。いつまでも思春期の思い出にひたって、ちっぽけな武勇伝ばかり語るのなんて、今が充実してない証拠だとれなは常々思っている。
そろそろ、シャワーを浴びて、出かける準備をしよう。ぬるい関係に終止符を打つ、重たい話をしに行くのだ。気合いを入れた格好をしていかないと、向こうの反応に負けてしまうかもしれない。いつも「天使」と呼ばれているようなれなが、今日は悪魔になる決意をしているのは、それだけ、えっちゃんに未練がある自分に気づいているからだ。
告白して恋愛を始めるよりも、別れを柘植て関係を断ち切ることのほうが、勇気がいる。特に、大人ーー中年、と言われてしまうような年ーーになってからは。
れなは、口唇を結んだまま、シャワーを終えて、鏡台の前に座った。結婚したときに母が買ってくれたこのドレッサーに向き合うと、やましいことまで照らされてしまうような気がする。えっちゃんのことは母も知っているけれど、二人の関係がどんなものなのかは、把握されていないと思われた。えっちゃんとれなは、表向き、あくまで普通の友達だ。
「さて、と」
短く気合いを入れて、すっぴんの顔の上に自分を作り始める。いちからの「創生」ではなくて、あったものを呼び戻す再現の作業。装うことを特別視するなんて、女のことがよく分かっていないおっさんみたいでイヤだけど、別れ話の支度は間違いなく特別なものだ。
れなは、緩いパーマを当てた髪を、頭の上に持ち上げて結う。濃い茶色と淡い金色が不規則に混ざっているカラーリングは、髪のことにうるさいえっちゃんもたくさんほめてくれた。もともと、えっちゃんはれなの顔が大好きだから、会うたびにいいところを見つけてくれるけど。ときどき、嫉妬されているように感じて、怖いときもある。
でも、そこで「嫉妬されてる」と思いこんでしまったら、「女の敵は女」を踏襲してるみたいで陳腐だし、えっちゃんは決して心の狭いコじゃないから、「いいなぁ、の言い方がちょっとヘタなだけだ」とれなは思うことにしている。
三十分もかければ、れなの白い顔の上の芸術は、すっかりできあがっていた。切れ長の、横に広がった目を、くっきりふちどるスモーキーなアイメイク。紅い口唇の赤を抑えてパールピンクを載せ、厚い下口唇を強調するようにシャドーを入れる。もう若くはないけれど、誰からも美人だと言われるれなは、そのことを自分でも知っていて、楽しんでいた。
「じゃあ、こうちゃん、お留守番お願いね。コンビニ行くときは、真央も連れてって。一人で煙草買いに行かせたりしないでね」
可愛い声で夫に言い残して、家を出る。夫の幸太は、れなの黒いワンピースの背中が開いているのを見て、短く口笛を吹いただけで、何も言わなかった。
「いってらっしゃい、れなさん」
娘の真央の、大人びているけどまだあどけない声だけが耳に残って、タクシーに乗るれなの小さな罪悪感になっている。
「クリスタルシャーリーホテルまで」
えっちゃんとの待ち合わせ場所は、最上階のカフェだ。時間に余裕を持って現れるえっちゃんのことだから、もうとっくに来ているかもしれない、と考えながら、れなはこってりふちどった目を閉じた。
「れなぁ」
アルトそのものって感じの低い声が、うれしそうに弾んでいる。
えっちゃんはもうすっかり女だから、たぶん、他の客もウェイターもウェイトレスも、「彼女」が昔男だったなんて、考えもしないだろう。えっちゃんは、三十年以上かけて、本来与えられるはずだった性に、自分の身体を近づけていったのだ。その努力はすさまじくてすばらしい。
素直に感動した数秒後、「いけない」とれなは首を振る。生まれつきの女ではないえっちゃんに対して一瞬感じた、「優越感」みたいな何とも醜いものを自覚して、自分の片頬をつねる。
れなだって、時間をかけてゆっくり女になっていったのだ。えっちゃんといっしょに、泣いたり傷ついたりしながら。
「ごめんね、待たせて」
可愛く謝りながら、先に来ていたえっちゃんの向かいの席に腰を下ろす。
「ううん、ぜんぜん」
快く遅刻を許してくれるえっちゃんは、相変わらず細くてきれいだった。ライトブラウンの髪を肩まで伸ばし、前髪だけ残して、不規則で細かいウェーブを入れている。今日みたいに、眼鏡をかけていないときは、緑系と茶系をうまく融合させたアイシャドーがきらきらしていて、二重の丸い目が強調されていた。きゅっととがっているような肩には、ぴしっとした印象の服がよく似合う。
れなは既婚者だし浮気するつもりはないけれど、もしも自分が男だったら、えっちゃんをカノジョに選ぶ、とときどき妄想する。その妄想の中で、れなは、えっちゃんの口元についたナポリタンの切れ端を、口唇で取ってあげるのだが、現実にはそういうことはできない。えっちゃんはどじっ子ではないからだ。どちらかというと、しっかり者。
いきなり別れ話もなんだから、最初はまったり、お互いの近況なんかを伝えあう。
二十一歳で身体を変える手術をしたときに、家族とは縁を切ったから、えっちゃんは今、白いお城みたいなマンションの一室に一人で住んでいた。小さな一軒家に家族三人で暮らしているれなのことをうらやましがったりするが、本心では自分の生活を気に入っているのだろう。新しく買った北欧製の家具の話をしている顔が、いきいきしていた。れなが、「やっぱり別れないでずっと見ていたい」と迷い始めてしまうくらいに。
「それでね、れな。あたし、この冬からお店のチーフを任されることになりそうなの。新しいコも入ってきたし。前の店長ともめたりしたこともあったけど、やめずにがんばってきてよかったなって思ってるんだ」
「ふうん」
仕事の話が一段落したところで、れなはえっちゃんを見つめた。「なに、どしたの?」と、グロスをたっぷり塗った紅い口唇が不思議がる。
この口唇とキスしたこともあったのを今になって思い出して、れなの頬は熱くなった。今別れを告げればもう二度とすることもないだろうけれど、あまりに惜しいような気さえする。レズビアンではないのに、同性のえっちゃんとする口づけはとても気持ちよかったからだ。性転換手術をして以来ずっと打っているヒアルロン注射で、イクラみたいにぷるぷるになった口唇のせいだけではないだろう、きっと。
「よかったね、えっちゃん」
デザートのガトーショコラをぜんぶ食べ終えてから、れなは遠回しに話し始めた。
「これから忙しくなるだろうし、あんまり会えなくなるかもね」
やんわりしすぎているから、これでは伝わらないだろう。案の定、えっちゃんは首を振った。
「そんなことないよ。休みはこれまでどおりちゃんととれるし。真央ちゃんと約束してた遊園地にも行けるよ」
そういえばそんなこともあった。
えっちゃんのことを気に入ってべったり甘えている真央が、最近リニューアルオープンした遊園地に行きたがったのだ。れなは絶叫系の乗り物に乗ると酔ってしまうし、幸太は人混み自体が好きじゃないから、遊ぶのが好きなえっちゃんにねだったのだろう。二人が小指を絡めて約束しているのを、れなは複雑な想いで見つめていた。そのころにはすでに、えっちゃんとの関係のことを迷い始めていたから。
「あのね」
紅茶を一口飲んで、れなはさらに、傷口にメスを入れるように話を進める。悲しいことを言うのは、自分だってつらい。けれど、このままこの説明しづらいおつきあいを続けて、二人とも五十とか六十になったりしたら、と考えると勇気が出るのだ。いくらなんでもそんな年になってまで、夫と子どもを欺いていたくはないし、落ち着いたおばあちゃんにいずれなるのが、れなのささやかな夢だから。実現のためには、どこかきりのいいところで、えっちゃんとの縁を切らなくてはいけない。
はっきり別離しなくても、やましいことだけやめることはできそうだったが、それだと、ことあるごとに思い出して、また過ちを犯してしまいそうだ。だから今こそ、他に意味の取りようがない言い方でちゃんと伝える。
「もう、お別れしよう、えっちゃん」
鏡の前で練習したほど冷静ではいられなくて、声が震えた。
「え?」
えっちゃんの目が大きく開く。もとは奥二重だったのに、ちょっと手を加えてくっきりきれいな形にした二重の目。顎の骨を削ったりするついでにやってもらったのだとか。それをへんに隠してナチュラルぶらないところが、れなは大好きだった。れな自身も、濃いメイクを好み、ゴシックティストの服を好んで着たりして、ナチュラルなヒトからはほど遠かったから。
仲間だと思っていたから、ぜんぶ許してしまったのだ。じゃれあいの延長で、ホテルまで行ったりして、レズビアンのやるようなセックスをした。えっちゃんはペニスを取ってしまっていたし、れなにはペニスは生えてこない。二人とも、胸を触れ合わせてクスクス笑ったりしている間は女子高生みたいだったけど、性器の濡れ具合を確かめ合ったあたりからは、つい本気になってしまった。れなが真央からのメールで自己嫌悪に陥ったのは、翌日の早朝だ。
「何で……?」
放心した顔で理由を求められて、れなは言葉を選びながらゆっくり答える。
「キライになったとか、そんなんじゃない。でも、でも、でもーー!」
でもの先に正しい答えなんてない。周囲の客にいやがられないように、声を殺して時間を稼ぐ。
どうしてもっとしたたかな性格に生まれなかったのだろう。浮気をして平然としている奥さん、れなのまわりに何人もいるのに。
「これ以上えっちゃんといると、私、甘ったれが加速していって、綿あめ造る機械にでもなっちゃいそうなの。真央にもこうちゃんにも、これ以上隠し事していたくないし!」
最後のほうは、喧嘩するときの中学生女子みたいな、きんっとした声が出てしまった。
何も言わずれなを見つめるえっちゃんの大きな大きな可愛い形の目に、静かに涙が満ちて、頬に透明な川を造る。
「れなのうそつき! 『えっちゃんといるときがいちばん安らぐ』って、いつも言ってたくせに」
「それはたしかにそうだし、嘘じゃないけど……でももう、いけないって思うの。私たち、行き過ぎちゃってるもん、ただの、親友にしては」
普段あまり自己主張することのないれなは、うまく気持ちを伝えられないもどかしさにかぶりを振る。
「……分かった。帰るね、もう」
えっちゃんは、話し合うのを諦めたのか、カタンと小さな音を立てて席を立った。怒っているのではなくて、悲しんでいるような顔で最後に一瞬、れなを振り返った。
れなは目をそらし、「彼女」を追いかけなかった。
一方的に別れを切り出すなんてずるい、と分かってはいたけど、ここですっぱり断ち切らないと、この先もうどうしようもなくなりそうで怖かったのだ。
周囲の視線の中で泣くほど若くもない自覚があったから、れなは涙をこらえて店を出た。伝票は、えっちゃんが先に出るとき持っていってくれたらしい。「お連れ様にお支払いいただきました」と言われたれなは、胸が苦しくなってその場にうずくまりそうだった。
「お連れ様」だなんて。
れなの人生の伴侶は幸太だし、えっちゃんとは、どんなに深く心が通じ合っていても、不毛な関係しか築けない。ある意味では至極あたりまえだ。れなもえっちゃんもお互いを好きだけど、それは友達としてだし、ときどきキスしたりセックスみたいなことをしたりしたけど、次会ったら普通に会話して笑っていた。
これまで、この特殊な関係について思い悩むこともなく、何十年もいっしょにいたのに、どうして急に別れたくなったのか、れな自身にもはっきりとは分からなかった。
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