一の十二

 目的の旧三年四組まできっと同じ光景がならんでいることだろう。彼は不気味な光景をそう何度も見たくないので、隣の組を探ろうとした彼女へ目的の場所を指差す。

「さっきといい、まるで場所を知ってるみたい」

「ちょ、直感だよ」

「もしかして、『見える』人なの?」

「そんなばかな。幽霊とかお化けとかいるわけない」

「その割には召喚術を信じてた」

「あれは神崎さんが悪い。役者でも目指した方がいいよ」

 泉が指示した場所。鶴一はごくりと唾を飲んだ。彼女にそう言われてしまったこともあるから、その戸の向こうに力を感じていた。広い教室ににやりと闖入者が待っている絵が想像できる。

 もしかすれば待ち伏せていて、開けるのを今か今かと待っているのかもしれない。さっきあの教室で鶴一に触れかけて、できなかった。今度こそはともうすでに腕を伸ばしていて、開けた途端に。

 泉が助けてくれるとわかっている、信じている。けれど悪い想像は悪い体験を思い出させる。人では到底抗えない、大きな熊のようにすら思えた影。あの時泉が助けに入ってくれたから助かったものの、もしなければどうなっていたか。

 揺り戻される恐怖は当時よりも増幅され、戸に伸ばした手をためらわせた。空いていた手で無意識にぐいっと上着の襟を広げる。息が乱れる。戸が遠くなっていく感覚を覚える。

 なにも言わずに神崎が、戸に伸びていた鶴一の手に触れた。彼女の身体が近づき、淡く甘い香りとほんのり暖かい手が鶴一をどきりとさせて今に戻した。警戒することは大切だけれど、怯えてすくめば前には進めない。

 二人で相槌を打ち、合わせて戸を開いた。ここもまた滑りが悪い。でもそれだけではない抵抗感があったから、鶴一は弱気な心を振り払うように思いっきり力を込めた。戸はいきなり滑りが良くなり、柱に当たって戸を大きく鳴かせた。

 なにもいなかった。影はどこにも見当たらない。がらんとしていて、さっきの教室となんら変わりない。使い込まれた跡と感謝の文字。神崎が敷居をまたげば、鶴一もついていった。

「『見えた』んじゃないの?」

 そんな風に言っているけれども、声は微かに震えていて、いなくて良かったという安堵も隠せていなかった。ただスリルが好きというわけでもなさそうだ。好奇心が旺盛なのも、なにかを追いかけて作っているのではないかと鶴一は思えた。

「だから、オレはなにも見えないって。心霊番組なんか、全部やらせだってわかってる。だから観ない」

「そんな」

「テレビなんて大抵やらせだよ。まあ、演出って言えば聞こえいいけど」

「そんなこと言いながら闖入者探しちゃってる」

「実際に見たんだから。オレは実際に見たものは信じろって教えてもらったの」

「誰に?」

「昔お世話になったお姉ちゃんに」

 それは当然こまのことだ。彼女も好奇心が旺盛で、あの廃工場潜入も実は彼女についていったものだった。あそこはこの廃校舎よりも年数が経っていないはずなのに痛みがここよりも激しく、役目を終えた機械もそのままにされていた。もちろん電気など通っているはずはないから動かなかった。こまは「工場見学」など適当に歌いながら周っていた。

 教室の中を見回すけれど、やはりどこにも影はなかった。いないということを頭で判断してしまったからか、一気にこれまで感じていた妙な雰囲気も感じなくなった。鶴一は脳の機能に感心する。思い込みはすごいものだと。

「他の教室はどうする?」

「ま、まあ……今日はこのくらいで勘弁してあげようか……」

 鶴一の提案に彼女はそう答えた。やはり声は震えていて、視線も落ち着かない。できれば一刻も早く立ち去りたいという表情を隠しきれていない。自分が提案し、誘ったのだから、最後まで一応恰好だけはつけて欲しいと鶴一は思う。けれど同時に自分と同じで怖さを感じているところに親近感も覚えた。

 心霊番組を観ないのは怖いからだ。鶴一は絶対に認めようとしないけれど。絶叫マシンだって乗れやしない。

「いや、でも、もうちょっとだけ」

 泉のあては外れたけれど、ここで引くような鶴一ではなかった。この教室にいないだけで、確かにどこかにいるはずだと信じていた。すごく怖いけれど、今ここで終わる可能性があるならば、勇気を振り絞って餌になるしかない。

 まさか鶴一がそう言うとは思っていなくて、神崎はもうそれはとてもおかしなくらいに顔の筋肉を動かした。可愛い顔が台無しになっている。でも今の鶴一はそれについてツッコミを入れたりはせず、真面目に、

「やっぱり全部周る必要があるんだろう」

「え、いや、でも……」

「こんなの滅多にないんでしょ?」

「め、滅多にないけど……そ、そうだよねっ。うん、滅多にないんだからっ」

 ぐっと拳を握り、改めて決心を口にする神崎。でもやはりきょろきょろしている。けれどそれは恐怖からのもののように見えなかったから、鶴一は尋ねる。

「なにか気になるものでも?」

「ここ、お姉ちゃんが使っていた教室なの。確か。旧三年四組。だからなにか残してないかなって……」

 寄せ書きが集まった壁を見つけ、彼女はしゃがんでそこに顔を近づける。不用心だからやめさせようと考えた鶴一だったけれど、彼女のどこか懐かしさと物憂いものが混ざった表情になにも言えなくなった。それに無粋だとも思った。

「あっ」

 見つけたのだろう。彼女が姉の文字に指を差し、鶴一に示す。そしてポケットから携帯端末を取り出し、写真に撮る。彼女に見るように促された気がするから、鶴一も寄せ書きに顔を近づける。

 そこには。

(旧校舎さん 今までありがとうおつかれさま 泉ちゃんから解放されたね 神崎小毬)

 唐突に現れる「泉ちゃん」という文字に、きっとクラスメートは誰もが首を傾げたことだろう。泉中のことを擬人化していると思われて、電波扱いされたのかもしれない。けれどこのように寄せ書きに参加しているし、みんなと仲が良かったのだろう。

「ふふ、泉お姉ちゃん、どれだけ校舎いじめてたんだろう」

 もしかすれば今でも比べれば大人しくなったのかもしれない。そう考えると旧校舎が可哀想に思えてきて(実際忘れられていた)、同情する鶴一。

「お姉さん、これはなんて読むの?」

 中学一年生の鶴一には、「小毬」の「小」だけが読める。けれど次がまったく見当もつかなかった。神崎は教えてくれる。

「こまり。小さいが『こ』で、次が『まり』って読むんだよ。手まりのまり」

「へえ、可愛い名前だね。今はどうしてるの? 大学生?」

 あまり興味はなかったけれど、話をついつい広げてしまう。すぐ次に行かなければならないのに。

「……」

 神崎は黙ったままこめかみをかき、それから困ったように微笑んで、

「……死んじゃった」

 痛々しい笑顔だった。彼女はまだ姉の死を乗り越えられていないような、そんな。よほど姉のことが好きだったのだ。それがわかるくらいに彼女の瞳はどこか遠くへとあった。

「もうすぐ四回忌なんだっ。お姉ちゃん高校一年生の時ね、事故にあっちゃって、はは……」

「ごめん、悪いことを訊いた」

 どうして話を広げてしまったのだと自分を責めた。彼女の様子から気づけたかもしれない。難しいことで、仕方がないことだけれど、それでも鶴一は辛いことを思い出させてしまったと詫びる。

「ううん。もうすぐ四回忌なんだよ。そんな前のことを気にしてたらだめだよ。お姉ちゃんだって同じこと言うはずだよ、きっと。お姉ちゃんは振り向かない。抱えながらもしっかり歩けるんだから、わたしと違って、こまちゃんは強いんだから」

「えっ」

 大きく開いていた戸が叩きつけるような音を出してしっかりと閉まった。そしてがちゃりがちゃりと鍵が掛けられる。誰もいないのに。

 ならば犯人は影、闖入者しかいない。鶴一は神崎の出した名前に引っ張られながらも、なんとか目の前のことに集中しようとする。目を凝らす。締め切られた教室。二人の目の前に人型の影が現れた。泉の読みが当たった。

 声にならない声を影が出している。なにを言っているかは定かではない。ここから立ち去れということだろうけれど。鶴一はそんな力がないけれど、泉に念を飛ばす。

 影は二人にずるずると近づいてくる。また腕を伸ばしてくる。泉が来てくれるはずだけれど、やはり怖いものは怖い。足がすくんでしまって、そこから一歩も動けなくなった。それは神崎も同じ。

 闖入者の腕が明後日の方向を向いた。泉がやって来た。闖入者の前に立ちはだかり、腕を払っていたのだ。

「ようやってくれた」

 さっきの記憶が残っているのか、闖入者は少したじろいだ。しかしすぐに覚悟を決めたのか、姿を大きな影の熊へと変えた。穴持たずの、人などあっさり仕留められるような熊に。人食い熊だ。

「わしの後ろへは行かさん。ツル、絶対に動くんじゃないぞ」

 人食い熊となった闖入者が泉に飛びかかる。それを星纏った彼女が受け止めた。その余波で彼女の星が教室中に飛び散ってまぶしくなった。神崎には闖入者しか見えないから、やつが透明な壁に当たったように見えている。けれどまぶたを眩しそうにしているから、星の光は捉えられているようだ。

「おまじないだっ! すごく効いてる! 星も流れてっ!」

 何度も突進してくる闖入者を泉は受け止めたり弾いたりして、宣言通り絶対に後ろへと行かせなかった。あんなに恐ろしい闖入者相手に圧倒的優位に立っている。鶴一は思わずぐっと拳に力を込め、彼女を応援した。

 闖入者と泉の力はぶつかる度に高まって、余波の風と星の眩しさが混ざりに混ざる。そして闖入者のとてつもない突進を泉が受け止めた時、とうとう凄まじい突風が起こって窓ガラスを一斉に割った。

 二人は泉のすぐ後ろにいたおかげで、もろに突風を受けずに済んだ。受けていれば壁に叩きつけられていたかもしれないし、もしかすれば窓から外に投げ出されていたかもしれない。それくらいの恐ろしい余波だった。

「たまげた力じゃ。だが、わしは負けるわけにはいかんからの、こまっ!」

 鋭い右ストレートが闖入者を捕えた。殴り飛ばした身体は教室の壁を壊し、廊下、さらにまた壁を壊して向かいの教室で止まった。連なった破壊穴が威力の凄さを表している。

「泉さんっ」

「まだじゃ。まだ動くでない」

 けれど泉は構えを解いた。そうして両手を大きく横に広げ、向かいの教室にいる闖入者へ叫んだ。

「こまっ! 正気に戻るんじゃ! これ以上ここの生徒たちに危害を加えてはならん。二度とその姿から戻れなくなる!」

 鶴一は彼女が確かに闖入者を「こま」と呼んだことに気がついた。あまりに突然のことで混乱してしまううけれど、なんとか話を整理しようとする。闖入者は動く気配がなく、泉は言葉を続ける。

「あの言葉、あれはこまがいつも覚えようと口癖のように繰り返していたやつじゃったな。あの教科書に残っていた文字もお前のものじゃとわかったよ。いたずらだってお前がいた頃のもので……それにお前は実に隠れるのが上手かった。わしが何度も見つけられんくらいに。

だからもしかしてと思い、お前が一番好いておったこの教室だと思ったのじゃ。一年、二年と今の本校舎じゃったから、とても喜んでいたの。気づくのが遅くなってしまった。すまん。

こま、色んな未練でその姿になってしまったのかもしれん。しかし、わしもきくもお前のご両親も、そして友人たちもみなこまのことを覚えておる。誰か一人でも覚えていれば、お前の存在はなかったことにはならんのじゃ」

 ぐるると闖入者の唸り声が響いた。泉の言葉に反応しているようだ。人の言葉を忘れてしまったのだろうか、ただ唸り続けるだけだ。

「こまは確かにここにいた。しかしお前はもうこの世のものではないのだ。ずっと居続けることはできんのじゃ。無念な最期であったとしても、神崎小毬はもうこの世にいてはならんのだ」

 神崎の姉の神崎小毬は彼女の友人で、こまと呼ばれていた。そして鶴一の味方になってくれたあの女の子も、こまと呼ばれていた。彼女は泉中の制服を着ていて、いつもにこやかで好奇心旺盛で鶴一を引っ張ってくれた。

 どう考えても同一人物としか思えなかった。けれどそれを認めてしまえば、もう彼女は亡くなってしまっていて、二度と会うことはできないのだ。鶴一は否定したいがために首を横に振り続け、

「うそだ、うそだよ」

 とうわ言のように繰り返しながら力なくひざを折ってしまって、尻もちをついてしまった。天井を見上げ、溜まる間もなくぼろぼろと涙がこぼれ始めてしまった。いきなりのことに神崎が彼のそばに寄り添って心配する。

「うそだよ、こまちゃんが、そんな、うそだ……」

 彼女が高校生に上がってしばらくし、それからいつもの公園に来ることがなくなったのは、もうすでに亡くなってしまっていたからだ。鶴一は忙しさで忘れられたのかもしれないと寂しさと怒りと諦めを感じていたけれど、そのほうがとても良かった。それならば生きてくれているのだから。

「お姉ちゃんを知ってるの?」

 すぐそこに神崎の顔がある。よく見てみれば、幼いけれどもどこかこまの面影のある顔立ちだった。もう少し時間が経てばより似てくると思えるくらいに。

 ダメ押しの記憶が蘇る。こまの制服に着いていた名札だ。そこに「神崎」と載っていたことを思い出してしまって、鶴一は彼女の質問に重く頷きそして嗚咽がひどくなった。

「そう言えば、お姉ちゃんが言ってた気がする。いつも一人ぼっちの男の子がいて、遊んでるって……確かツルくん……そっか、恩島くんのことだったのか」

 闖入者がまだ人食い熊の姿でゆっくり戻ってくる。ずんと重さを感じさせる一歩で。泉の説得は続く。

「こちらに来ないでくれ。こま、心を引き裂かれるような出来事にあったとしても理を破ってはならん。周りにぶつけてもならん。もう今、人であることを忘れつつある。熊のままになってしまう。それでは延々と休むことはできん、さまよい続けることになるぞ」

 闖入者は止まらない。真っ直ぐに泉へと向かってくる。もう説得は難しいと思ったか、泉は軽く構える。いつ飛びかかってきてもおかしくはない。闖入者の姿が一瞬だけ熊から人に戻り、それは女の子の姿だった。顔立ちもはっきりと見せた。鶴一はもうそれでこまだと認めざるを得なかった。間違えている気がしなかった。

「止まれ、鎮まれ。小毬ぃっ!」

 無意識のことだった。身体が勝手に動き出してしまっていて泉の前に立ち、闖入者の進路に立ちはだかる。鶴一だ。ごしごしと上着の袖で涙を拭き、強いまなざしをぶつける。そしてさっきの彼女と同じように、両腕を大きく横に伸ばした。

「こまちゃん、オレだよ、鶴一だ! こまちゃんなんでしょ、それならこんなことやめてよ! 泉さんが言った通りなら、熊のままのこまちゃんなんて嫌だよ!」

 彼の言葉によって、神崎もあの闖入者の正体が亡くなった姉だと知った。そしてそれが確かであるように感じた。彼女は己の直感を信じた。だから彼女も彼の隣に立ち、同じく腕を広げて呼びかけ始めた。

「こまちゃん! わたし、きくだよ! もし本当にこまちゃんなら、どうしてこんなところで影になって、熊になって、人にケガさせるようなことしているの!?」

 二人の呼びかけむなしく、闖入者は歩みを止めようとはしない。ぎろりと目らしきものが光って、一直線に二人を刺して身体をこわばらせた。泉も鶴一も妹も、みんなすでに忘れてしまったらしい。長くさまよううちに。

「小毬、止まらんか。この二人なんじゃぞ。鶴一にきくなんじゃぞ」

「こまちゃん!」

「こまお姉ちゃん!」

 闖入者の甲高い咆哮が三人に当てられて、身体にびりびりと刺激を与えた。尋常ではない音圧に圧され、人である鶴一と神崎は体勢を後ろへ崩して転んでしまった。さらに神崎はそのまま気を失ってしまう。その中でただ泉だけが微動だにせず、真っ直ぐに闖入者を見つめる。

「小毬という真名まで忘れて失くしたか……やむを得ん。こんな別れになってしまうとは、それも二回ともな……」

 泉の星がこれまでよりも段違いに増えた。どんどん瞬き、教室を真夏の真昼間以上に眩しくする。鶴一はあまりの眩しさに目がくらむ。

最高の一撃を放とうとしているに違いない。けれどそんなものを闖入者に食わせてしまえば、追い出すだけの話にはならない。跡形もなく消し飛んでしまうだろう。

「泉さんっ!」

 音圧によって転んでしまった二人の間を通り過ぎ、泉は闖入者との距離を詰めた。鶴一は眩んだ目を必死に凝らし、通り過ぎる時の彼女の覚悟を決めた表情を見た。その先を想像し、なんとかやめさせようと喉を焼いた。

「こまちゃんなんです、こまちゃんなんですよ!」

 ぐっと彼女の握り拳にどんどんと力が込められていく。それは闖入者も同じだ。殺気をどんどんと鋭くさせていっている。お互い、次が渾身の一撃になる。

「なんとか、なんとか、こまち――」

「わかっておるっ!」

 それははっきりと言葉を発していないくらいのひどく厳しい怒声だった。あまりの迫力に鶴一は身体をびくりとさせ、黙ってしまうしかなかった。彼女は背中だけを彼に見せ、こちらへは向かなかった。

「だが、真名を呼んでもわしの力が及ばず縛れんのじゃ。追い出しても外で暴れるかもしれんし、永遠にさまよい続けることになる。もうどうすることもできんのじゃ。ならばいっそのこと、わしの力で痛みもなく一瞬で消す方がこまのためだ」

 その道理はよくわかる。けれど鶴一は絶対に諦めたくなかった。友人にとどめを刺すだなんて、そんなあまりにもひどい結末は嫌だった。こまは救われるのかもしれないけれど、泉には永遠に消えない傷を残すことになる。彼女が自分自身をどうしようもなく嫌ってしまうかもしれない。

 泉には笑っていて欲しい。鶴一は決死の覚悟で彼女の前に立ちはだかり、眼差しで意を伝える。そしてくるりと反転し、闖入者と相対する。もうそれは闖入者が腕を振り下ろせば鋭い爪が彼を引き裂いてもおかしくない距離だった。でも彼は膝をひどく震わせながらも退くことも折れたりもしない。

「こまちゃん!」

 闖入者はぐっと眼前の彼を睨みながら動かない。己のタイミングがあるのだろう。けれど鶴一は聞いてくれているのだと感じ、想いを言葉に乗せていく。

「オレだ、鶴一だ。こまちゃんはツルくんって呼んでたけど。知らなかったんだ。こまちゃんが高校生になって、ちょっとするとなにも言わずに公園に来なくなって、オレ、高校の新しいものに上書きされたんだと思って、こまちゃんが嫌いになったんだ。あんなにも仲良くしてくれたのに、こんな簡単に忘れられるような人だったんだって。口だけだったんだって」

 彼の後ろにいる泉は構えを解いていない。星の瞬きは少し抑えられているけれど、すぐ一気に解放できるようにしてあるようだ。鶴一の言葉に耳を傾けているけれど、瞳はとても冷めていた。

「ツル、これ以上刺激するのは危険じゃ。下がれ」

「下がれるわけないでしょ。介錯だなんてそんなこと、オレは認めませんからね」

「わしでも従わなければならん道理というものがある」

「うるさいです。そんな道理に興味なんかありません」

 きっと泉に言えば、彼女は気が済むまですれば良いと少し呆れの交じりの仕草をした。長年生きてきて長年人と別れてきているから、泉と鶴一の感覚にずれが生じるのは当然のことだった。

「こまちゃんが死んでしまったなんて思いもしなかった。絶対どこかで生きていて、二十歳になるだろうから、きれいな晴れ着できれいなこまちゃんがいるって思ってた」

熊の姿が揺らめいた。わずかだけれど、姿を保てないように輪郭が揺らめいたのだ。鶴一の声をより聴くためか、熊には似つかわしくない大きな耳ができた。鶴一は確かに届いているという手ごたえを得、より素直に熱を込める。

「オレ、お墓参りに行くよ。お別れの言葉も言うよ。こまちゃんのこと、忘れられないからずっとお線香をあげにいくよ。こまちゃんが望むなら、毎日でもいい。いつもこまちゃんは公園に、オレに会いに公園に来てくれたんだ。今度はオレがそのお返しをするよ。こまちゃんのおかげで寂しくなくなったんだ――」

 闖入者の姿が大きく崩れた。熊の身体のあちこちがぽろぽろとこぼれ、その姿を保てなくなった。

 一番伝えたいことを、一番の想いを身体のあらゆるところから絞り出して叫ぶ。

「だからオレがこまちゃんを寂しくさせないよ!」

影の黒さは細やかな粒になってばあっとと床に広がった。その真ん中には影でなく生きている人と変わらぬ姿の女の子がいて、それはすぐに、

「こまちゃん!」

 通っていた高校の制服を着、三角座りで脚に顔をうずめている。ぐすぐすと鼻をすする音が静かになった教室に響く。気を失っていた神崎も雰囲気の違いに勘付いたのか、意識を取り戻し、目の前の光景を見た。

「お、お姉ちゃん?」

 目を疑うような光景に彼女は立ち上がることも忘れ、四つ這いのままで姉へと近づいた。妹がそばに寄っても、彼女はまだ顔を上げようとはしない。闖入者であったときの記憶を一気に理解してしまったのかもしれない。

「なんと……」

 鶴一が起こしたことは泉であっても初めてのことで、ただ素直に感嘆するしかなかった。彼女は構えを解き、星をすべてしまった。

「想いが道理を壊したのか、こまのとげを抜いたのか。わからないけど……泉が歳をとったのには違いない……」

 とどめを刺すと決心した罪悪感から、彼女はこまと距離を取り、離れて若い男の子と女の子の様子を眺めていた。二人は三角座りのままのこまに寄り添い、落ち着くのをじいっと待っていた。

 床に散らばった影だったものは、もう彼女を覆うとはしなかった。闖入者の正体はこまであったけれど、その原因となっていたのはこれだったようだ。この世に未練を残した彼女に取り付いて、彼女の思いを悪い方向へと増幅させていたらしい。あまりに広く散らばったから、泉は自分の足元にあったそれを拾って観察する。

「恨み辛みの塊か。こまが死んでしまった所はきっと同じような人が多いんだな。飲み込まれてさまよい続けても、わずかな記憶でここまで帰ってこれた。すごい子だよ、こまは」

 泉が独りごちる。割れた窓ガラスからは湿った風が入ってきて、彼女の長い髪を揺らす。

 ようやく少し落ち着いたのか、女の子はかすれた声を出す。

「ごめん……ごめん……」

 紛れもなくこまの声だった。よく似ているけれど妹よりは幾分落ち着いた声質で、鶴一の心を撫でる感じはあの頃のままだった。そしてちゃんと顔を見せて謝らなければと思って、彼女は顔を上げた。ぼろぼろに泣き崩れているけれど、こまの美人な顔立ちがそこにあった。

 生きている二人は、死んだ者との思わぬ再会に思わず涙した。

「ごめんね……ごめんね……あたし、あたし、ケガさせて、ケガさせようとして……っ」

 妹よりも長い髪を一本に束ね、先っぽが床についてしまっている。そして全体的に痛みが目立ち、はねていた。鶴一の知る彼女はくせ毛ではない。長年さまよい続けてしまったからかもしれない。

「悪いことをしたって気持ちがあって、それにあの影に操られていたみたいなものでしょ。オレは大丈夫です。須藤だってしばらくしたらけろっとして帰ってきますから、そのときに」

「わたしも大丈夫だから。ほら、どこもお姉ちゃんがやったケガなんてないから」

 優しい言葉がより彼女の涙腺を刺激し、年上ということを忘れてえんえんと声を上げだした。そして長年、溜りに溜まった思いをこぼしていく。

「あたし……嫌だったの。みんなにおっ、お別れも言えないままにいなくなっちゃうのっ、嫌だったのぉっ!」

 突然の事故に突然の死。ほんの少しの猶予も与えられずに死んでしまった彼女は、残してしまったみんなへの別れが言えなかったことを強い未練とした。彼女がぽつりぽつりと言うには、それがあの影と呼応し、彼女の身体(霊体)を覆って闖入者になったとのこと。

「死んじゃってから、どうしてたの?」

 神崎。いや、こまも神崎だからこれからは「きく」とするべきだろう。妹であるきくがこれまでのことを疑問に思い、尋ねた。彼女が亡くなって四年が経とうとしている。その間のことだ。

「わけもわからなくうろうろしてた。影には色んなのが混ざってたから、はっきり学校もここも家も場所がわからなくて。だからここが見えたときはとても嬉しくて、はしゃいじゃって、それがきっと……」

 このような泉ふざけもどきということになったと言いたいようだった。もしかすれば須藤もケガをさせるためにしたわけではなく、幼い子供のように加減がわからず、ただ自分の楽しみを優先させた結果なのかもしれない。その先にケガするということがこれっぽっちも想像できずに。

「でもよかった。こまちゃんも元に戻ったし、これで解決だね」

「うん。まさかお姉ちゃんが幽霊になってまた会えるなんて、わたし、信じられないよ」

 泣いてすっきりすれば、次はただ喜びと嬉しさを表す。涙を拭い、こまはにっこりと生前のままの笑みを作り、あの頃よりも大きくなった二人の頭を撫でた。懐かしい手の感覚に鶴一はついつい甘えてしまう。

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