一の十一

 その言葉に茨野は己の感情を爆発させた。地面を何度も強く踏みしめ、額に青筋立てて唾を飛ばす。鶴一に指まで差す。

「ずるい? ずるいだと!? お前の方が圧倒的にずるい! やったことを認めずしらを切り続け、挙句の果てに俺を脅して蹴落として! 俺はあんなやつらにこんな扱いを受ける……学級委員長だぞ、俺は!」

「あいつらもあいつらだけど、そんなんだから嫌わ……目をつけられるんだろ」

「うるさい! 俺は勉強もできて運動もできてばかをまとめられるんだ。これまでのように!」

 口論しても無駄だ。彼は鶴一の話を聞こうともしない。ここで退いてくれることが一番だったけれど、どうやらそうもいかない。三人の上級生は今か今かと出番を待っている。

問題になるからひどくやられることはないだろうけれど、それでもかなり痛い思いをしなければならないことは決まっている。抵抗を試みてはみる。でもきっと鶴一では敵わない。

「まあごたごた話はここまでだ。どちらにせよ俺たちはこいつの面倒を見てるからよ、それに今のでもっと気に入らなくなった。確かに筋の通らなそうなやつだな、お前」

 筋が通っていないのはそっちだと心の中で叫ぶ鶴一。とにかく今すぐにでも逃げたいけれど、ここで逃げれば神崎も目標にされてしまうかもしれないし、闖入者を捕まえるチャンスをなくしてしまう。

 そこで彼は覚悟を決めてこっそり神崎に提案する。

「オレはここにいる。だから隙を見計らって中に入ってくれ」

 それは泉にも掛けた言葉だった。鶴一がいなくても、神崎がいれば十分に餌になってくれる。

「でも、そんなの……」

「中に入りたいんだろ」

「そこまでして入りたくないよ……」

「もし闖入者がいれば、神崎のおまじないで今度は倒せるかもしれない。そうすればこんなの、オレはなんともないから」

 首を横に振り続ける彼女に業を煮やし、鶴一はぽんと軽くだけれど身体を押して促した。そして気が引けるけれど、自分で思うかなり怖い表情を彼女にぶつけた。

「早くっ。オレなりのおまじないを掛けてあるから」

 すると小刻みに頷いて、走っていった。そして泉も唇を噛み、彼女についていった。そしてどこかの茂みに身を隠す。小柄な神崎で良かった。目を凝らしてもなかなか彼女を見つけられない。

「ほう、女だけ逃がしたか」

「オレの問題ですから」

「ま、女に傷つけると色々と面倒だからな」

 そういう心配しかしないことに鶴一は苛立った。でもこういう心配しかしないからこそ、こうも下級生に対して破廉恥なことができる。大人に近い体格をしておきながら、その力の使い方を間違えている。茨野と似た性格ならば、叱られることもないのだろう。

「しかし、なんでこんなとこに来たんだお前は」

「こういう廃墟に興味あるんです」

「うそだな。どうせまたなにかしらうわさを真似るためのことをしに来たんだろ。そんなに人を驚かせるのが楽しいか、ええ?」

 じりじりと三人が迫ってくる。まるで壁だ。茨野は実際に加わらず、壁の後ろでしめしめとにやついている。鶴一はそんな彼に鋭い睨みを飛ばす。勝ち誇っているから、まったく効果はなかった。むしろ彼をもっと上機嫌にさせる。

「さて、と。まずは……」

 上級生の一人の拳が、鶴一の頬に入った。手加減しているはずなのに、茨野のものより痛く、頭の中が揺らされ、そのまま尻もちをついてしまった。あまりに瞬間だったので、声を上げる間もなかった。

「謝ってもらおっか」

「おいおい三渓ちゃん。顔はだめだよ顔は」

「あ、そうだな。でもこいつは転んでくれたとか適当に言ってくれるだろ。これからそうさせるんだから」

 恐ろしい宣言だ。でもこの間に闖入者の件が解決できるなら安いと思えた。須藤に比べれば、この程度の痛みなどなんのことはない。とにかく場を動かして、より廃校舎内に入りやすくするようアシストすることを考えた。

「おいおい、あいつのためとか言っといて、ただ痛めつけたいだけじゃないのー?」

「そんなわけあるか。これは正義だぜ? みんなの平和な学校生活を脅(おびや)かす悪を成敗する、正義の行いだ」

「成敗! いいねぇー。そうだよねえ、正義の味方は悪をチョー裁くもんだよねえ」

「丘珠(おかだま)? 気づいてなかったのか。だから俺たちにはいつもお咎めがないんだよ。正しいから。そういうもんだろ、正義って」

 鶴一は名札を確認する。今殴ったのが三年生、三渓。四角い顔をしている。顔はだめだと言ったのが三年生、沼田。丸い顔をしている。へらへらした口調の「チョー」とか言ったのが二年生、丘珠(おかだま)。顎が細い顔をしている。

 鶴一はその顔を絶対忘れないよう、刻んだ。その様子が彼らを逆なでした。

「その目ぇ、なめてんのか!?」

 沼田の蹴りが横腹に決まった。三渓への忠告の通り、彼は制服の上から痛めつける。一瞬息ができなくなって、鶴一は蹴られた部分を手で押さえて苦悶の声を漏らす。これまでも色んな痛みを受けてきたけれど、明らかに彼らのものは段違いだった。

「チョーすげえ、沼田さんの正義キックチョーヤバい。チョー痛そうだよ」

 鶴一は痛みに耐えながらずるずると制服を汚すことを気にせず、玄関から退いていった。本当はかっこよく立ち向かって気をひきたいけれど、どうやらそうはいかない。だからできる限りのことをと考えた。

「ああ? あっさり逃げちゃうわけぇ? それ、チョーかっこわるくねえ? 男なら戦おうとか、俺たちを殴りたいとか思わないわけぇ?」

 距離を取っていく鶴一にゆっくりと丘珠が近づいてくる。そうして思いっきり鶴一の尻を蹴った。骨に当たったような感覚がし、これまでの二発よりもひどい痛みを覚える。「ぎゃっ」と短い悲鳴を上げ、その場でのたうちまわった。そうでもしなければ痛みに引っ張られ続ける。

「俺の正義キック、どうすか?」

「えぐい所狙うよなあ。それに、もうちょっと手加減しろよ。一気にすごい痛みをやると、これからのが大したものじゃなくなるし、心が折れるかもしれないだろ。それじゃあ面白くない。こう、スープみたいにだな……」

「なんすか、じっくりことこと煮込むんすか?」

「そうそれ」

「じゃあまず殴るんじゃなくて、デコピンとかしっぺとかで良かったんじゃないですか。ねえ、三渓さん」

「くだらねえこと言ってんじゃねえ。ほら、続きだ続き」

 時間稼ぎとか、アシストとか、そんなのはくだらないことだと鶴一は思い始めた。あまりの痛さの前に。そもそもどうしてここまで闖入者を追うことに執着するようになったのか。すごく面倒なことだ。

 須藤が大ケガをさせられたらだろう。けれど、彼は別に死んだわけでもなく、後遺症が残るわけでもなく、もう少しすれば変わらず学校へと帰ってくる。それならば別に良いじゃないかと思う。

 そしてなぜ神崎のアシストをしないといけないのか。彼女はただ楽しんでいるだけだ。己の好奇心を満たすことばかり考えている。お詫びだと言っていたけれど、信じられはしない。趣味も悪く、あんな演技をして鶴一を怯えさせた。

 どうして泉と近い存在である闖入者の捜索を手伝わなければならないのか。泉が一人でやるべきことだと改めて思う。それも餌にするような手を思いついて。

 逃げたい。もう謝るなりなんなりして、この場から今すぐにでも逃げ出したくなった。こうなったのもすべては泉のせいだ。彼女がいたずらなどをしなければ、こんなことにはならずに済んだのだ。

 どのように謝れば許してくれるのか、それだけを考えそうになって。

 いけない、と鶴一は激しく続く痛みの中考えなおした。

「違う……」

 心の声が漏れ出る。三人が「ん?」と興味を示す。

「オレが決めたことだ……」

「はあ?」

「オレが決めたことや!」

 ぐっと脚に力を込め、ひどく重く感じる身体に鞭入れて立ち上がる。痛みはまだ引かない。頬も横腹も尻も泣き言を上げている。けれど鶴一は両足でしっかりと立ち、三人を見据える。

「誰でもない、オレが、須藤にあんなものを仕掛けたやつをこらしめたいと思ったからだ……」

「なに言ってんだ」

「面倒くさくなんかない、須藤は味方になってくれたんやっ!」

 力を振り絞って三人に殴りかかる。すごい気迫で拳を振るうけれど、三人にとってそれは避けるに容易く、あっさりとかわされてしまった。でも鶴一は諦めない。当たるまで何度でもと続ける。

「よしよし、ちょっとはやる気出たか。その方が面白い」

「それに、友達に頼まれたんや!」

「ははは、関西弁かよ!」

 当たらない、何度やっても軽く避けられる。たまに足を引っ掛けられ、転んだりもする。けれど諦めずに立ち上がってまた殴りに掛かる。最初は楽しんでいた三人だけれど、あまりにしつこいので少々苛立ちを見せ始めた。

 そんな時、鶴一の拳が三渓の胸に入った。凄く浅い手応えだったけれど、とにかく一発与えることができた。鶴一は少しやりきったように笑う。

「はは、当てられてやんの」

「でもチョー浅い」

 囃し立てる二人の声。しかし三渓は当てられたことに余裕をなくし、口をひどく歪ませて拳を握った。これまで手加減していたのは鶴一もわかるから、相当な覚悟をしなければならないと心に決める。夢中になって気づいていなかったけれど、玄関から相当に離したし、神崎と泉がすでに中に入っていることを願う。

「調子に乗ってんじゃねぇっ!」

 避ける力はなかった。飛んでくる拳を目で捉えられているけれども、身体がいうことを聞かない。

このコースだと顔の真ん中に入るから、もしかすれば鼻が折れてしまうかもしれない。鼻が折れると元の様に整形すると聞いたことがあった鶴一は、それもまた痛そうだとのんきなことを考えていた。

 結局茨野には負ける形になってしまったけれど、これで彼に対して怯えてはいけない。鶴一は決して屈服などしたりしない。負けても折れはしない。須藤も泉もこまも、一応神崎もいる。家に帰れば父も母もいる。美味しいご飯がある。

 とうとうすぐそこにまで拳がやって来て、すぐに現れるであろう痛みに覚悟する。ぼたぼたと信じられないくらい鼻血を流し、息もし辛くなるだろう。好きな形の鼻だから、ちゃんと元に戻ることを願って、その瞬間を待つ。

「待てっ! お前ら!」

 拡声器でも使ったのかというくらいの大声に、廃校舎にいた鳥たちが驚いて一斉にばあっと空へ散った。制止の声とその鳥たちの羽音が三渓の耳に入り、咄嗟に拳を止めた。誰もがその声の主を探す。

「年上が寄ってたかって年下を嬲るとは、恥を知れ、恥をっ!」

 鶴一にとって信じられない光景だった。廃校舎の陰から出てきたのは、長い黒髪と誰もが憧れそうな顔立ちにスタイル。そして誰よりも泉中の制服を長年着こなしてきている女の子。

「せ、泉さん……?」

 腰に手を当て、凛としたたたずまいで三人と茨野を睨む。全員彼女の方を見ている。見えているのだ。

 何度も目を瞬きさせ、なにかの間違いでないことを確かめる。けれど彼女は本当にそこに実在していて、隣には怯えながらもぎりぎり鋭い視線を放つ神崎がいた。泉の腕を掴んでいる。彼女が掴めている。

「な、なんだ女か……」

「でもこんなやつ見たことないぞ。丘珠?」

「俺も知らないっす。こんなキレ可愛いの、知らないっす」

 興味は完全に泉へと向いていた。ぐっと視線が集まり、腕を握っていた神崎が少し彼女の後ろに隠れた。そんな様子に気づき、優しく、鶴一にするように頭を撫でてやる。

「お前ら、さっさとその子に謝ってここから去れ! そして二度とこんなくだらんことをするな」

「なんでお前にそんなこと言われなきゃならねえんだよ」

「そんなみっともないことをわしの目の届く範囲でやられたくはない。そして、お前らより年上だからじゃ」

 その年上という言葉に反応し、三人は笑い始めた。

「なんだ、卒業生かよ。高校生ですか? もしかして大学生? なのに中学校の制服着て? はははっ!」

「まあしかしチョーいいおっぱいに脚ですよねえ。触ってみたいっすねえ」

「大人の魅力ってやつを教えてもらうのも、悪くないねー」

 下品な話題をなるべく聞かせたくなかったのか、泉が神崎の両耳を押さえて聞こえづらくした。そして三人には軽蔑の眼差しを向ける。

「ひい、その目、チョー怖――」

 丘珠が茶化すために言いかけた言葉が途中で止まる。泉から発せられるただならぬ雰囲気を動物的な直感で察してしまったのだ。それはそうだ。彼女は人でなく学校、それも百年近く生きてきているのだ。

「もう一度言う。さっさとツルに謝ってここから去れ。すれば悪いようにはせぬ」

 明らかに異質な、そして味わったこともないような圧力に三人が圧されている。泉より体格が大きく上回っているというのに。その眼力は鶴一にまで届き、自分に向けられているものではないのに背筋を凍らせた。

「わしの言葉がわからない、飲めないのであれば……っ」

 あの闖入者に対しての強さを見ていた鶴一は、思わず三人の心配をしてしまう。言うとおりに退かないと、彼女は怒りにまかせてついつい人には耐えられない攻撃を加えるかもしれない。

「せ、先輩方、退い――」

 三渓が堪らず泉に飛びかかった。生半可な相手ではないと思い、表情も真剣そのものだった。鶴一が受けかけた拳よりもさらに速いものが繰り出される。狙いが正確なので、敵意は誤魔化されない。

 泉は神崎を少し遠くに離れさせ、その拳を堂々と待つ。

「あっ」

 三渓の渾身の一撃はかわされた。そしてそこからが鶴一の目にははっきりと見えず、一つ瞬きをすればすでに彼女の拳が彼の顎の寸前で止まっていた。間合いをきっちりと縮めた右のショートアッパー。よほどの拳圧だったのだろう、三渓は腰が抜けて尻もちをついた。

「最終警告だ。どうする? 今のをまともに食らっておれば、しばらく美味しく飯も食べられなくなっていたぞ」

 三渓が一番の実力者だったのだろう。残りの二人は完全に怯えきり、顔をくしゃくしゃにした。沼田は「ひいひい」と丘珠は「チョーチョー」と鳴き声のように続けている。腰が抜けた事実に呆然としている三渓は、立ちはだかる泉に視線が合っていなかった。

「もちろんお前もじゃ茨野。こんな手を使いおって……自分で喧嘩もできんのか。気に入らんことがあるならば、己の拳を使えっ。この、ふにゃちんが!」

 名前を出された茨野はもうひどく身体を震わせて、今にでも泣きそうになっていた。

 鶴一は今回も自業自得と思いながらも、相手が泉で、ある意味可哀想に思った。でも別に助けようだとかは思わない。徹底的に落ちれば変わるだろうと、彼を無関心のリストに入れた。

 もうそれからは早かった。完全に戦意を喪失した鶴一討伐隊は我先にと、どたばたしながら廃校舎の敷地から出ていこうとする。がくがくと膝が震えていたせいか、門を上手く登れず、何度か落ちる。

「さっさとせんか!」

 泉がいたずら気味に一喝すると、ぎこちないながらも登り切り、そして横断歩道を渡って裏門から現泉中の敷地へ逃げていった。そこは彼らにとって安全地帯のように思えたのだろう。

「ふうー、まったく。余計な体力を使ってもうたわ。これで逃げられたらどう責任取ってくれるのじゃ」

 汗をかいていないのに、額の汗を拭う仕草をして息を吐く。きっと、朝飯前というのはこういうことを言うのだろうと鶴一は納得する。少し離れていた神崎がまた泉に近づき、腕をぎゅっと掴んだ。そしてまた撫でてやる。

「おーよしよし。怖かったのう」

 そのまま痛めつけられてふらふらの鶴一のそばに寄ってきた。

「いやあ、すまん。もっと早く出たかったのじゃが、色々と久しぶりでな。時間が掛かってしまった。普段からちょっとは慣らしておくものじゃな。しかし、よう頑張った」

 ぽんぽんと制服についた汚れを叩き、それからぴしりと整えてくれた。

「うむ、このくらいなら痕にもならんじゃろう」

「せ、泉さん……どうして、なんで……」

「言った通りじゃ。こういうこともできる」

「それに、こんなひいきなことして……」

「ひいきではない。誰であろうと同じことをしておる。わしは泉じゃぞ? みなを見守っておる」

 すぐそこに闖入者がいるのかもしれないのに、彼女は見て見ぬふりなどしなかった。行動に移した。そして見事に救った。鶴一には今、彼女がとても光り輝いて見えた。この感覚は、まるでこまに対するものだった。

 神崎になるべく聞こえないよう、泉は鶴一の耳に近づいてこっそり話す。

「まったく、無茶をせんでくれよ。闖入者など気にせず逃げてくれても良かった」

「そんなのできませんよ。ここにいるかもって思ったら、そんなチャンス逃したくないでしょ」

「あ、ああ、そうじゃな。ありがとう。やる時はやる男じゃのう、ツルは」

 彼女は耳から離れた。本当に漏れてないか、鶴一はそこが気になってしまう。

 実は二人を前にしてかっこいいところを見せたいという気持ちも少しだけあった。チャンスを逃したくないという気持ちにうそはないけれど、そういう思惑もあったのだ。もちろん話すこともなければ、悟られないよう細心の注意を払う。

「大丈夫か、ツル」

「まだちょっと痛いですけど、大丈夫です。行きましょう」

「あの、わたし、見捨てるようなことして……ごめん」

 いまだに彼女の腕を掴んだままの神崎が謝った。どうしてここまで泉になついているのか、彼にはわからなかった。

「オレが行けって言ったんだから」

「でも……」

「気にすんなって。ほら、そこに闖入者がいるかもしれないんだから」

 ここで長話していては良くない。鶴一は先導して廃校舎へと入ろうとする。すると、

「あ、じゃあすまんの。わしはここまでじゃ」

 泉が言った。どういう意味であるかは鶴一にはすぐにわかった。今の状態を解くということだ。本当にここまでで帰ってしまうわけではない。

「あっ、あの、ありがとうございました」

 ぱっと握っていた腕を離し、神崎は泉に頭を下げた。そうしてまたそんな彼女の頭を泉は優しく撫で、柔らかく微笑んだ。

「気をつけるんじゃぞ、きく。もちろんツルもな」

 わざわざ疑われないために門を登って道へと消えていった。そうしてしばらく待っていると、鶴一以外には見えない、いつもの彼女になって戻ってきた。

しばらくじいっとしていた鶴一に神崎は疑問を抱いていたようだけれど、痛みが引くのを待っているのだろうと思いついたか、なにも言わなかった。

 そういうわけで二人と見えない一人で廃校舎へと入っていく。廊下は灯りが点かないのは当然で、さらにあまり陽が入らず、薄暗くて不気味だ。物などもすべて外に出されてしまっているので、がらんとしている。

 大きく口を開けて食べものを待っているかのような。

そして廃墟だけではない感覚を覚え、直感的に鶴一は闖入者がいると判断した。脚を進める。

 まずは一階を探し始めようとするも、

「三階じゃ」

 言葉少なく泉が言った。彼女はすでになにか確信を得ているようだ。でも鶴一はそれについては尋ねず、神崎に提案する。

「あの、三階からでどう?」

「三階?」

「そう。一階から上っていくより、最上階の三階から下りていったほうがその、きれいじゃないかな」

「うん、わかった。恩島くんがそう言うなら」

 すごく素直に従った。鶴一の行動のおかげか、泉がなにか言ってくれたおかげか。鶴一は知らないけれど、とにかくあっさり受け入れてくれて楽に感じつつもつまらなかった。

 コンクリートで作られた階段だから、木のように軋むことはない。ひびが目立つけれど、人の体重で壊れるようなものではない。闖入者が飛び出てくる可能性はあるけれど、建物の心配をそこまでしなくていいぶん、気をそちらへ回せられた、

 現在の本校舎と特殊教室棟に似た造り、いや、向こうが似せたのだろう。階段の踊り場の上の方には窓枠があった。どれも割れてはいなかったけれど、特殊教室棟のものより汚れていて、なにかのフィルムを貼っているかのようだった。

 今日もまた天気はより崩れるらしい。階段を上っていると、遠くからごろごろとした雲の不機嫌そうな声がした。

「今日も荒れそうだね」

「闖入者のせいかな?」

 神崎がそう言ったのに泉は不服そうに、

「わしでもできんのだから……」

 届かないのにツッコんでいた。貴重な彼女のそういう言葉に、思わず鶴一は吹き出してしまう。神崎は眉をひそめた。

「そんなにおかしいこと言った?」

「いいや、ちょっと……思い出し笑いしちゃって」

「まったく……緊張感ないんだから」

「リラックスだよ、リラックス」

 廃校舎は今のところ素直に三人を通している。目的の三階まであと少し。とにかく誘き出せれば泉がなんとかしてくれる。そう考えて鶴一はどんどんと上る。神崎は口ではああも言っていたけれど、やはりどこかに恐怖を感じていて、きょろきょろそわそわしている。泉、また彼女の腕に掴まりたいと思っているかもしれない。

 暴走気味の好奇心が暗く冷たい廃校舎の雰囲気で冷まされてしまった、と鶴一は考えて気を紛らわせることにした。

「そう言えば、泉さんとは知り合いだったの?」

「あ、うん。お姉ちゃんのお友達だったの。わたしも会ったことあるんだ、小さい頃」

 小さい頃に会ったことがあるというところに鶴一は引っかかった。それはさっきのように誰でも見える状態のときだったのだろうかと。いや、そもそも姉の友達ということは。

「ああ、きくの姉はツルの一人前にわしが見えていた子じゃ」

 彼女はとても懐かしむように言った。

 鶴一は驚き、そして「へえ」と声を漏らした。でもそれはちゃんと神崎との言葉に繋がっていたから、怪しまれることはなかった。反応があったと思い、彼女は続きを言う。

「うん。まさか恩島くんも知り合いだったなんてびっくりした。恩島くんに先に行けって言われたあとに茂みに隠れながら進んでいたら、いきなり現れて。それも中学校の制服のままだし、全然見た目が変わってなかったし、もうほんとびっくりして声を上げそうになっちゃった」

「仕方がないじゃろう。いっちょうらなのじゃ。それにわしは見た目も変わらんからの」

 鶴一とは違ってからかうようなことをしないのは、反応してくれないからだろう。いや、これはこれで遊んでいるのかもしれない。そう思って彼女を咎めるために肘で突こうとする。

 とても複雑な表情をしていた。泉は自分の中に渦巻くものを抑えるためにわざと口数を増やしていた。なにかの確信は、闖入者の正体についてだ。けれどそれはうそであって欲しいと願ってもいる。

 三階。三人はその階層へとついに足を踏み入れた。

 泉は気づかれないようにするため、階段を上りきった所で止まる。そして鶴一に一言、

「手前から四番目。旧三年四組」

了解し、鶴一は頷く。

 でも神崎はそれが聞こえないから、恐る恐る一番手前の引き戸を開けた。埃まみれの戸は、滑りも悪く、ひどく耳障りな響きとともに開いた。鶴一も一応その中を見ておく。

 やはり教室の間取りだ。けれど現在の教室と比べて少し広いようにも思えた。それは生徒数が多かったためなのか、机や椅子など、物がすべてなくてがらんとしているからなのかは、鶴一には判断がつかなかった。

 長年、そして多くの生徒たちが使った跡が残っていた。そして落書き、ではない。この校舎がなくなる時だろうか、手向けとして残された感謝の文字が壁にあった。

「みんなに好かれてたんだね」

 神崎が感想を漏らす。けれど薄暗い教室の壁に文字が並んでいれば、それはやはり不気味であるとしか鶴一は思えなかった。彼女は暖かさを感じていようとも。それを口に出せばきっと冷たいと軽蔑されてしまうので、彼はそれに対してなにも言わなかった。

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