一の八
と残して彼の前から消えた。
屋上の自分のテントの前にまで飛び、吹き荒れる雨風に打たれる。彼女は全身を濡らし、そしてその場に崩れこんで泣いた。自分のふがいなさを嘆き、何度も地面を叩き続けた。
そのあと風と雷はおさまったものの、一晩中雨は降り続けた。
泉は鶴一の見たという影を延々探したけれど、結局見つけられずに朝を迎える。闖入者は見事に泉中を住処にしてしまっていた。
けれど彼女は休まず見回り続けたのだった。
鶴一は強い子だった。昨日、目の前で友達が大きなケガをしてしまっても、休むことなく学校へ来ていた。けれどショックであることには変わらず、あまり眠れなかった。
天気はまだ昨日の嵐に引っ張られ、重い雲が空に漂う。
幸いにも須藤のケガは命に関わるものでもなければ、後遺症が残ることもないらしい。ただしばらくの間入院生活を送ることになって、それが本人にはちょっと辛いらしい。
このことは須藤の両親が、昨夜家に訪ねてきたことから知った。そして息子と同じように気の良さそうな両親は、鶴一を疑うことなくただ感謝し続けた。
「ありがとう」
その言葉に悪意はない。けれど鶴一を苦しめた。こんなことになる前に、あの影を止める方法があったかもしれないと考えてしまう。
そして今朝学校に来てから、泉を一度も見かけていない。その場の感情に任せてひどいことを言ってしまったと思っている。謝りたい。でも、怯えた心が会いたくないとも言っていた。
休み時間に職員室へと呼ばれ、昨日のことについて、現場に最初に現れた先生に事情を訊かれた。昨日のうちにしなかったのは、先生たちもばたばたしていたことと、鶴一の精神的ショックを考えてのことだった。
馴染のない先生なので、椅子に座って腕を組んでいるだけで怖さを感じた。
「うん、で、君が階段から降りてくる時に、彼を見かけた?」
「はい。廊下から出てきて、一階に降りようとしているところでした」
「声を掛けたりは?」
「一緒に帰ろうと思って、呼ぼうとした瞬間でした」
「本当に瞬間?」
「それは、どういう意味ですか?」
引っ掛かる質問に胸の鼓動が早まる。
「正確に知っておく必要がある。本当に呼ぼうとした瞬間だったのかと」
疑うつもりでないと仕草や表情を作っている。しかしあまりに下手なものだったので、鶴一は少し先生への視点が合わなくなる。
「ちょっとでも声を出してない?」
犯人はあの影。でもそんなことを言って信じてもらえる相手ではない。泉のことだって一笑されるに違いない。でもあんまりな扱いを受けているので、鶴一は勇気を振り絞って返す。
「それは、オレが原因かもって、そういうことです、か?」
その通りに決まっている。
「いやいや違う。言っただろう、正確に知っておく必要がある。それだけだ」
ある程度素直に認めてくれるのならば、ほんの少し声を出したことを認めるところだった。実際、須藤の「す」ほどは声に出していた。けれどこうもはぐらかされてしまうので、彼はうそを言うことにする。
「いや、何も出していません。呼ぼうと思った瞬間に、須藤は落ちたんです」
先生がふうと鼻から息を漏らす。
「本当に?」
「はい」
迷うことなく言い切る。正直鶴一はこの先生に対してもううんざりだった。これから二年生、三年生と上がっていく間で関わっていく時間が増えるのだろうけれど、きっとその中でも好印象を抱くことは難しくなった。
「わかった。ありがとう」
「失礼します」
職員室から出、自分の教室に戻って自分の席に着く。隣にある須藤の席はぽかんと空いてしまっていて、でもみんなはあまり気にしていないようだった。触れないようにしているのかもしれないし、元々興味を持っていないのかもしれない。
ちらりと視界に神崎の姿が入ると、昨日の放課後での話を思い出してどきりとした。そして歯を食いしばる。あの召喚術の話はどうしてもうそのように思えなくて、須藤の仇の一人として認識していた。
闖入者を呼んだのは神崎、もしくは彼女の関係者。
授業中、ずっと授業のことは頭に入れず、彼女に対する覚悟だけを固めていく作業をし続けていた。一歩進んで一歩退き、けれど次は二歩進むというようにゆっくりと。
昼休みも終わったとある授業中、一度彼女が鶴一のことを見た。鋭い気配が漏れてしまって、それに気づいたのかもしれない。いつも通りの柔らかい表情だったけれど、見つめる目は釘を刺すようだった。
「誰にも言ってないよね」
口に出さずとも聞こえてくるようだった。もしかすればこのクラスで彼女のああいう面を知っているのは、鶴一だけなのかもしれない。ああいう風にオカルトの話題で豹変するなど、きっと誰もついてこられはしない。
今日も彼女は復習を教室でするのだろうか。どちらにせよ須藤についてのことを問わなければならない。タイミングを見計らって引き留めるしかなかった。
「か、神崎さん」
踏ん切りがついたのはきりぎりのことで、ホームルームが終わって放課後、掃除の時間になってのことだった。これで自分が狙われることになると覚悟し、冷や汗を流しながら呼び止めた。
「あ、うん。どうかした?」
昨日のことがあったからか、彼女は幾分フランクな声色と言葉遣いだった。
「今日も、その、復習したりする?」
すると彼女は察したようににやりと不気味な笑みを浮かべた。当然周りにはあまり見られぬよう、鶴一だけにそれを向ける。
「恩島くん、したいの?」
嫌らしく質問を質問で返してくる。ここで引いていてはペースを握られてしまう。それは昨日の経験でわかっている。鶴一は心に炎を宿して消えないよう、薪をくべ続ける。
「昨日教えてもらったことでわからないところがあって」
「うん。わかった。場所は?」
それをまったく考えていなかった。とにかく話をすることばかり考えていたからだ。鶴一は自分にとって有利に働く場所を考える。万が一のときも保険が効くような。
泉のいる屋上は開いているとも限らない。やはりここまで一度も会っていない。呼ぶのもなんだか気まずかった。
教室は二人きりになる。これが一番危ないように思えた。候補からすぐに外す。
図書室。ここに決めることにした。誰もいないということはないはずで、それならば彼女も表立った動きをすることができないだろう。鶴一はすぐに提案する。
「図書室、図書室で」
「うん。わかった。じゃあわたし、先に行ってるからね」
彼女は少し嬉しそうに教室から出ていった。なにもないのであれば、なかなか男の子にとっては嬉しいシチュエーションだ。女の子と二人で仲良く勉強するなどと。後姿の揺れる髪からは甘い匂いがしそうだった。
手汗がほうきにぐっしょりついてしまうくらいだった。はやる気持ちを抑えつつ、己の掃除当番をいつもより早くこなす。でも雑ではない。
やる気満々なように見えるから、他の子たちも知らず知らずに引っ張られた。このくらいの年齢では面倒なことを頑張る子を煙たがるけれど、茨野を打ち負かした効果がこんなところに、彼自身には知らず現れていた。
「ん、なんか早く終わったね」
「そうだね」
「ははは……」
そんな空気を掃除が終わっても感じ取ることはできなかった。そうしてみんなが教室から出ていくより早く、荷物をまとめて飛び出した。
前へ進むことだけに視野が向いてしまっていたから、誰かと肩がぶつかってしまう。
「あっ、ごめん」
相手は茨野だった。別の場所での掃除から帰ってきている途中だった。彼はぶつかった相手が鶴一であることに気づいていて、その表情は暗かった。
茨野は目を合わせることもなく、一言も発することなく、ただ微かに頷いてそそくさと離れていった。都落ちのようになってしまって、今度は彼が前の鶴一と同じようなことをされているようだ。たまにそんな唾を吐きたくなる雰囲気が彼の周りで立ち込めている。
自分が招いてしまった結果とはいえ、鶴一は彼の小さくなった背中を見て気の毒になる。
「みんなあいつに賛成したくせに」
お節介なことだ。プライドの高い彼をひどく傷つけるかもしれない。けれど今のことが解決して、それでもこの嫌な空気が流れ続けるのならば、次はそれをほんの少しでも換気したいと思った。
「なに思ってるんだ、オレは。こんな面倒なこと」
すぐに忘れた。そんなことよりもまずは目の前のことだ。鶴一はしっかりとした足取りで図書室へと入室した。図書室は本校舎の一階、端に位置していた。
図書室はそう広くなく、蔵書も多くはない。けれど憩いの場や勉学に励む場としている生徒が数人いた。カウンターには年上の図書委員が座っていて、仕事の合間に本を読んでいた。入ってきた鶴一を一瞬見やるも、すぐに活字へと目を戻す。
一人用の机などはなく、長机が並んでいる。神崎の姿を探す。するとすぐに見つかった。
奥に三つ、窓と平行に並んでいるものの、一番窓から離れた机にいた。そしてさらに人目につかないよう、鶴一から見て一番向こう側の端に。まるで鶴一の考えを読んでいたようで、全身に鳥肌を立てる。
「お、お待たせ」
机に教科書とあの復習ノートを広げていた彼女に近づき声を掛けると、すぐに気づいて顔を上げて目線を合わせられる。咄嗟に外し、隣へと座った。
「思ったより早かったね」
「上手く進んだから」
「息を合わせてやればできるってとこかな」
「そういうことじゃないの」
こういう他愛のない話をするためにわざわざ縁のない図書室に来たわけではない。もちろん復習をするためでもない。けれどあんなに覚悟を決めたつもりなのに、すぐに本題へと入っていけなかった。
「わからなかったところってどこ? できる限りわたし、頑張るけど」
「えっ、その、えっと……」
「もしかして持ってきてない? それでもここならどこかにあるから」
とっくにわかっているはずなのに、彼女は復習のことばかり発言する。それが鶴一に気味の悪さといら立ちを与えた。彼は覚悟よりもそれに耐えきれなくなって、息混じりの小さな声で弱々しく言った。
「復習じゃなくて……泉ふざけの、こと。聞きたいのは」
その単語をこんなところで口に出したことに驚き、彼女は慌てて誰かの耳に入っていないことを確かめる。みんな自分のことに夢中になっていて、その様子から彼女はふうと息を漏らした。
「こんな所で、それにこれ以上知らない方がいいって言ったよ」
「同じクラスの、オレの隣の席の須藤、わかる?」
ただひたすらに押し切っていくしかないと考え、なるべく彼女の発言に反応しないように努める。
そしてそこで一つテンポが遅れて思ってしまう。須藤がどうして大ケガをさせられてしまったのかということを。彼の特徴は好奇心の旺盛なところだ。だから鶴一の知らないところでいたずらについて調べていたのかもしれない。
魔法使いを頭に置きながら調べていると、偶然にも彼女の言う召喚術に行き当ったのかもしれない。だからあんな目に会わされてしまったのだろう。
これ以上知らない方がいいという言葉は、忠告ではなく警告。
自分なりに合点がいくことばかりのように思えたので、もう彼女が関係していないとはまったく思えなくなった。疑いは確信へと変わった。
「うん」
「今日、休んでたけど、わかる?」
「うん」
「どうしてかわかる?」
神崎は困った表情で口を動かす。
「ケガをした、とか……」
「先生なにも言ってないのにそういうの知ってるのか」
「詳しくはわからないけど、そういううわさってすぐに流れてくるから」
手応えを少し感じていた。昨日のような豹変を今のところ抑えられていると思った。やはり彼女は大人しい女の子で、強気に出れば気圧されるのだと。
「昨日、学校の階段で落ちたんだよ。オレの目の前でね、二階から途中の踊り場まで。神崎さんが教室から出たあとのことだ」
「だから恩島くん、先生に呼び出されてたんだ」
「あいつ、好奇心旺盛で。いたずら、泉ふざけにも興味持ってたんだよ。昨日オレが神崎さんに言った、魔法使いの話もあいつが考えたやつなんだよ」
そこまで聞くと、彼女はとても表情を暗くした。持っていたペンをノートの上に置き、ぽつりと漏らす。
「それは、だめだよ」
「だめ?」
「きっと泉ふざけについて調べ過ぎたんだよ。だから引っ張られちゃった」
そのあまりに無責任な物言いに鶴一は激昂しそうになった。がたりと椅子を鳴らして立ち上がり、拳を震わせて彼女を睨んだ。けれどここは図書室で、周りからじろじろと見られることによって冷静さを取り戻し、すぐにまた着席した。
「じゃあ神崎さんはどうなんや」
「え?」
「神崎さんだって調べ過ぎてるんじゃないの。みんな知らない泉ふざけって言葉も知っているし、魔法使いじゃなくて召喚術とか言ってるし。いらない席にほうきユニオンズにしたってそうだ。明らかに絶対に誰よりも、もしかすれば須藤よりも知ってる。なのになんで、君はこうやってのんびりと今日も復習なんてできてるの……っ」
加減を忘れ始めていた。鶴一はとにかく彼女に認めさせることだけしか考えていなかった。あんなに怖がっていたのに気分が高揚していく。今はもうあとのことなどどうでもよかった。
「わ、わたしは……」
「それとも、なにかケガさせられない理由でもあんの?」
どう答えるべきかわからない様子で口をもごもごさせている。触れられたくないところに近づいていることがわかる。言いかけて、でも止めて、を繰り返す。
「関係してるんでしょ。今回の泉ふざけに、いいや、もうふざけで済まないんだけど。須藤がもしかすれば死んでいたかもしれないんだから、殺人未遂だ」
「あ、あの……」
「君があの影を召喚したのか? それで君の命令であの影は動いているのか? どっちだ」
ふるふると彼女は首を横に振って否定した。瞳はとても揺れていて、目の前の鶴一に視点が定まっていないようだ。
「今のは……召喚したけど、制御から離れてどうしようもないってことか?」
「そんな、そんな……」
「今さら大人しくいつもの神崎さんだからって許すと思うな。オレは、須藤があんな目に会わされて黙っていられるほど、面倒くさがりやないっ」
踊り場で血を流して倒れている須藤と、それをしばらく見ていた影の姿を思い出す。あのケガはとても痛々しく、その場で死んでしまったと感じてしまうくらいだった。運が良かったから、あんなに軽いもので済んでいる。
あの影は輪郭こそぼやっとしていてわからなかったけれど、鶴一の感覚では確かに身体を震わせているように見えた。それはいたずらに成功し、楽しんでけたけたと笑っている時のようなものだった。
「わたしは、おまじないを知っているから……」
「おまじない?」
「そう。巻き込まれないためのおまじない」
なかなか認めようとしない彼女に苛立ちながらも、とりあえず続きを聞くことにする。そこでまたおかしなところがあれば、突き、より動揺させれば良いと考えた。
「どんなの?」
「やらなくちゃ、だめ?」
「ああ。オレも知っちゃった方に入るなら、見ておきたい」
「……わかった。でも、ここじゃできない」
机に出してあったものをすべてカバンにしまうと、彼女は立ち上がった。そうして外へ出るために歩き出した。鶴一は逃走の可能性を抱き、すぐ後ろにつけた。女の子の足の速さならば、彼でも十分に追いつける。少し足の速さには自信を持っている。
その距離感のおかげで、一年生、それも入学したてで恋人ができたのだと思われ、図書室にいるすべての人の視線が刺さる。どうやらこの場では全員そういう相手がいないらしい。
視線は二人が出ていくまで続いた。
小さな彼女についていく。回り道をするでもなく、目的地に向かってまっすぐ歩いている。渡り廊下へ入り、校庭で部活動に励む運動部の声や音が大きくなる。重苦しい鉛雲の下できいんと金属バットがこだました。
歩きながら鶴一は少し振り向き、教室のある棟の屋上を見た。泉のテントがある場所だ。金網の柵の所にぐっと目を凝らす。けれど彼女の姿はどこにもなかった。
はっとしてすぐに神崎へと目を戻す。逃げてはいなかった。変わらぬペースで歩き、そうして渡り廊下は終わって特殊教室のある棟へと入っていく。特殊教室棟は教室棟に比べて古く、外装も黒ずみ汚れている。内装も年数を嫌というくらい感じさせる。一階にある音楽室からは吹奏楽部の練習が聞こえてきた。
彼女は階段を上り始めた。踊り場の上の方についている小さな窓からはあまり光が入って来ず、さらに灯りも点けられていないから薄暗い。先への侵入を拒むような雰囲気だけれど、神崎は気にせず足を踏み入れ、気分が高ぶっている鶴一も続いた。
くすんで小さなひびがある階段を上り続けると、やがて最上階にたどり着く。これ以上上は屋上になる。生徒が入られない場所だから、目的地はこの階層になる。
でももしかすればと一瞬思い浮かんだけれど、結局彼女は屋上へは進まず、この階層を進んだ。すると先には教室名の書かれた札のない教室があった。痛んでぼろぼろの引き戸には鍵が掛かっているはずだけれど、彼女は片方の戸の端と端を持ち、勢いよく手前へ引っ張った。
戸の間に隙間を作ったかと思えば、スライドさせる。中に入れるようになった。古い鍵と老朽化のせいで、こういう手段で開けられるようになっていた。大きく開けると飛び出たままの鍵の突起がもう片方の戸に当たって引きずるようになるので、ぎりぎり人一人分確保すれば彼女はもう触らなかった。
自分で作ったものの、神崎は胸を少し苦しそうにしていた。ついついその様子を鶴一は凝視してしまって、彼女から、
「なに見てるの……」
と注意を受けてしまって目を逸らす。これもまた泉のせいだと彼は責任転嫁した。彼女が言った「脱げばすごい」の破壊力は、思春期少年にとって凄まじい印象を残していた。
神崎が教室に入ると、今度は鶴一だ。小柄な体のおかげか、制服をこすりつつも問題なく通過する。
戸はそのままに、二人きりになった。
名前をなくした教室は前までなにに使われていたかわからないくらい、色んな物に溢れていた。備品置き場として使われているのか、新旧混ざったほうきや机、さらには何年前のものかわからないくらいの教科書なども置かれていた。掃除もされていないので、窓はすりガラスのようになっていて、床も少し足跡が残り、埃があちこちにあった。
幸いにも虫の亡骸、ネズミの亡骸などはなく、少し鶴一はほっとする。
「それで、おまじないはここでしかできないの?」
「うん。ここだけ」
彼女は古ぼけた机の上に置いてあった教科書を手に取る。日に焼けた表紙から、なかなか古いものであることがわかる。理科の教科書。少し彼女から貸してもらい、名前を確認してみる。
年数が経ってしまっているせいか、横書き仕様の名前欄に書かれていたであろう名前はかすれてしまってはっきりと読めなくなっていた。かろうじて読めたのは、二文字目らしき所にある細い「山」みたいなものと、四文字目らしき所にある小さな「求」だった。もっと目を凝らせば、さらに三文字目らしき所に「ハ」
これではさっぱりだった。
彼女に教科書を返すと、ドッグイヤーの付けられているページが開かれた。
「このページを開きながら、呪文を唱えると、おまじないの出来上がりだから」
あんまりにも簡単なものだったので、拍子抜けする鶴一。開かれたページの内容は、中学一年生である彼にとってまだ知らないものだった。
「いい? 続けてね」
「ああ」
真剣な表情のまま、彼女は呪文を唱え始めた。鶴一はごくりと唾を飲んで聞く。
「等速直線運動、記録タイマー、東は五十、西は六十、0.1秒、五か六、電気、波がある」
唱え終わり、彼女はどうだとばかりに鶴一のことを見た。そうして次は鶴一が唱えるべきだと勧めてくる。どうにもこのような内容で効果があるとは思えなかったけれど、一応機嫌を取るついでに唱える。
「と、等速直線運動、記録タイマー? 東は五十、で、西は六十。0.1秒、五か六、電気……波がある」
唱えていて途中からばかばかしくなり、我慢できずに指摘してしまう。
「こんなの、効果あるわけない」
「あるよ。だってこれでこれまで守られてきたんだから」
とにかく話が前に進まないので、もう一度同じ質問をすることにした。
「召喚術は、神崎さんがやったのか?」
戻され、しまったと顔を一瞬動かしてから黙り込んでしまった。がしっとさらに問うために彼女の小さな肩を掴み、高圧的に質問をぶつける。
「どうなんや、召喚術はあるのかないのか、君なのかそうでないんか! あの影はなんや!?」
彼女を軽く揺さぶる。すると顔を上げ、大きな目にうっすらと涙をため始めた。罪悪感を覚える鶴一だったけれど、今は気にしていられなかった。なんとしてでも知りたいのだ。
「あ、る……」
「ん?」
「召喚術はあるもんっ!」
きっと激しく鶴一を睨みつけ、肩を掴んでいた鶴一の手を払う。そして数歩分の距離を取り、敵対心を大きく露わにした。
「召喚術はある! でもわたしじゃない、わたし召喚なんてしてない!」
「うそを吐くな! 神崎さんじゃなけりゃ、誰がやるっていうんだよ!」
「でもわたしじゃない!」
「今のおまじないみたいに、怪しい変なことをしたんやないのか!」
「そんなわたし、呼んでいたずらしようなんて思わないもん!」
「そういうつもりがなかったとしても、勝手に動いてしまって収拾がつかなくなってんだ!」
「知らないもん、召喚術の方法なんて……」
えぐっえぐっと呼吸が乱れだすと、彼女はぼろぼろと大粒の涙を流し始めた。そしてみっともないと思って、必死に落ちてくる涙を拭い続ける。制服の袖がどんどんと濡れていく。けれどなかなか止まらない。
「知らない?」
「うっ、うん……わかんないんだもん、召喚術があるかどうかも、わからないんだもん……でも、きっとあるもん……ひっく」
彼女の涙で少し落ち着きを取り戻し、今の言葉をよく噛んで飲み込む。そうすると、召喚術の存在は彼女の頭の中の話のようにしか思えなかった。確信を得るため、優しく質問をした。
「もしかして、召喚術っていうのは、神崎さんが考えたもの?」
横隔膜を痙攣させながら、認めたくないようにだけれどこくりと頷いた。
「神崎さんなりに、須藤みたいに色々調べて考えて、召喚術って?」
これにもまたこくりと頷かれて、もう耐えきれずに鶴一は膝を折ってしまって汚れることをいとわずに床に腰を落としてしまう。
「な、なんだー。まったく、どうして召喚術なんてオレに言ったの?」
「だ、だって……そういうの好きそうだって、思ったから……仲間だって嬉しくなっちゃって……泉ふざけの話をした時の恩島くん、とても興味津々で……魔法使いだって、わたしと近いこと考えてたし……っ、えぐっひっ、えぐっ」
演技でここまで泣けるとは到底思えなかった。雰囲気に似合った幼い泣き顔を晒し続けている。鶴一はこうして彼女がただのオカルト好きの女の子であることをはっきり理解した。関係者ではない。
同じクラスの子が関わっていなくて、ある意味ほっとしたところもある。
「ごめん、ごめんなさい。かなりきつく言っちゃって」
そうなればもうただ平謝りに徹する。
「わたしも、ごめんなさい。嫌なこと言っちゃって……反応する恩島くんを見ていたら、なんだかちょっと、面白くなって……」
あの豹変した神崎は鶴一をからかうための演技だったに過ぎない。かなりの完成度に、ひどく動揺してしまった自分が恥ずかしくなる。
見た目もそうであれば、中身もまだまだ幼かった。自分が鶴一よりもこの事に関して物知りであることを誇示したかっただけなのだ。須藤のこともあまり真剣に捉えなかったから、ああも逆なでするようなことを言ってしまった。
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