一の六
「怪しい、実に怪しい」
ぐうっと迫ってくる。
迫られている彼を助けられない泉は、「じゃ、聞き込み任せたぞ」とだけ残してその場から消えた。こうしてなし崩し的に彼女に協力することになった。友達の頼みだけれど、やはり気は乗らないまま。
「あれだよ、自分なりに今回の事件について考えて、それが口に出ちゃったんだな。独り言独り言」
「へえ、恩島、こういうのに興味あるんだ。むしろ嫌ってそうなのに」
「ま、まあここまで色々続くと、嫌でも色々考えてしまうからな、うん」
須藤はあごをさすり、演じているように訊いた。初めて見るそういう仕草に、鶴一は少々後ずさりしてしまう。
「この事件、どのようにお考えで?」
「模倣犯じゃねーの」
「模倣犯?」
「誰かがうわさをなぞってやってるだけじゃないのか」
須藤が首を傾げ、頭をかく。眉を片方だけ上げて。
「んん? 恩島、うわさって本当にあるって考えてたの?」
「えっ」
余計なことを言ってしまい、冷や汗を背中に流す。泉の存在に勘付くことはないだろうけれど、熱心に調べ始められるとそれは厄介だ。友達に使うべき単語ではないだろうけれども、厄介を使わざるを得ないと鶴一は感じる。
「い、いや、お前が思っているような幽霊とか妖怪とかじゃない。先輩とかじゃないかって」
「先輩?」
「そ、そうそう。うわさって、遥か昔の先輩が始めたことで、それが今でもどこかで継承されてやってるんじゃないかって考えてんだ」
「そんなまさか……人ができるようなことじゃなかったんだよ」
「それだけの歴史がある集団だから、催眠術とか、それはもうオレたちでは想像できない方法があるんだな、きっと」
彼は自分で言っていてとてもばかばかしいと思っている。けれどそれを表に出してしまえば台無しになる。真剣に、真面目にそう考えていると思ってもらうため、必死の形相を作ってまで言った。
「なるほど……つまり魔法使いだ」
「へっ?」
「だってそうでしょ。そういうことができるのは、魔法使いだけだよ」
須藤は鶴一の想像以上にファンタジーな頭を持っていた。きっとそういう物語も好きなのだろう。そういえば、教室でもたまにファンタジーものと思われる小説を休み時間に読んでいた記憶があった。
「泉中には隠されているけど、魔法使いを育てたり集めたりするところがあるんだ。そうか、それなら学校の運の良さも納得だ。守っていたんだよ、だから学校はこんなに強運なように見えるんだ」
なかなかの想像力だった。鶴一がきっかけを与えただけで、ここまで話を繋げてしまえるのはある意味才能だ。須藤はぱしんと手を叩き、瞳に星を宿らせていた。
「いや、まさか恩島がそんなすごい考えを持っていたなんて。尊敬するよ」
鶴一としては逆に尊敬したい気分だった。
「うん。幽霊とか妖怪説も十分あるけど、魔法使い説もかなり力あるなあ。いやあ、泉中って面白いなあ」
納得したように頷けば、もうさっきのことは忘れてしまったようだ。目の前に輝く宝を見つけて。
ほっと溜息を吐き、とりあえずやり過ごせたと鶴一は安堵する。るんるん気分の須藤の背中を追い、教室へと戻った。一組の前に集まっていた群衆も人が少なくなり、そしてそれはチャイムで完全になくなった。
あのあと一組は先生に事件のことを報告したらしいけれど、やはりいつもの通りに真面目に取り合ってはくれなかった。先生たちは大人で、そんなことがあるはずがないと思い込んでいた。
「むしろなにかやましいことがあるから、そんなもの見ちゃうんじゃないのか」
適当な言葉は一組の静かな怒りを買うことになった。あとでそれを聞いた鶴一も、この発言にはがっかりした。
鶴一がこの先生の発言をいつ知ったのか。それは昼休み、一組に話を聞きに行った時のことだった。友人である泉に頼まれたのだ、一応行動していた。内心、文句を垂れながら。
「いきなりほうきが増えていたの?」
別のクラスの知らない子に話しかけるのは多少辛いものがあったけれど、相手も事件のことを知ってもらいたいのか、特に壁もなく話してくれた。
「教室で暴れているやつがいて、それで掃除用具のロッカーにぶつかったんだ。それで偶然開いちゃって、ほうきがすごい量倒れてきて」
やはり泉の方法とは違った。それに十分人でも可能な仕掛けだった。前日の放課後か、当日の早朝に仕掛けておける。うわさに似ているからみんな驚いてみせたが、それがなければくだらないいたずらとして処理されるに違いない。
「そっか」
「今クラスで犯人探しが盛り上がってるよ。ん、須藤? あ、二組の疑われたっていう」
話は当然のように広がっていた。改めて自分が犯人ではないことを主張する。
「あ、俺は疑ってないよ。君、そんな風に見えないから」
苦笑いで返してきた。そんな態度に不信を覚え、鶴一は内心悪態をついた。
「まあ、犯人が人であれなんであれ、うわさは人をケガさせるようなことはしないらしいから……盛り上がった方が思うつぼだと思うけど」
続けて聞き込みを行っても、結局みんな同じことばかり言うので、なにも新しい発見はなかった。泉にとって役立ちそうな情報もなさそうにも思えた。
やはり泉と同じような存在相手に、人である鶴一ではどうにもならないように考えられた。すべては本人の頑張り次第。彼女がちょちょいと本気を出せばきっとすぐに解決される。
どうせただ構って欲しいだけなのだ。だからこそ別のことをせずに、泉のまねをしたいたずらを仕掛けてくる。遊びだ。子供っぽい泉に惹かれて子供っぽい闖入者がやって来ただけなのだ。
そう考えるとより鶴一のモチベーションは下がった。
昼休みが終わると、空を覆っていた重い雲から雨が降り始めた。霧のような雨が学校を濡らしていく。窓に当たるしずくを時たま見ながら、鶴一は授業を受け続けた。
授業を受けていると、たまに泉がやって来た。落ち着かないのか、各教室を周っているらしい。色んなところを覗き、異常がないことを確認すると出ていく。鶴一がうとうとしていると、ちょっとだけ眠気を覚ませてくれた。
「ま、退屈じゃものな、この授業は」
叱ることはなかった。
隣の須藤は授業を聞くふりだけをしている。頭の中でずっと空想を働かせていた。ノートに筆を走らせているのも、確かに板書も写しているらしいけれど、それだけではない文字数だった。
こうも熱中できるから、いつか泉を見ることができたならばきっとすごく喜ぶに違いない。質問攻めにして、彼女をへとへとにさせるかもしれない。泉はそういうタイプだとどのような対応をするのだろうか。意外と大人しくなるのかもしれない。
泉はこういう雨の時、どうなるのだろうか。雨に打たれて濡れるのだろうか。そして屋上のテントで過ごすのだろうか。あのテントは貰ったものだと言っていた。ではその前はどこで過ごしていたのだろうか。
授業が退屈なので、鶴一はそういう疑問を浮かべていってしのいだ。
人と変わらず食べて寝るとも言っていた。ならば入浴は必要ないのだろうか。彼女から異臭がしたりなどはしない。いつも黒くて長い髪や泉中の制服はきれいにされている。泉中に風呂などはないはず。
ついついその延長で入浴中の彼女を想像してしまって、鶴一は慌てて消し飛ばす。普段の彼女からは考えられない艶やかな雰囲気だった。顔もスタイルも良いのだから無理はないけれど、鶴一はとても恥ずかしくなった。
静かに時間が流れている。いたずらが起こっていない証拠だ。願わくはこのまま闖入者が飽きてしまって、出ていってくれれば一番良い。
時間が経てば経つほどに雨脚が強くなった。折りたたみ傘ではちゃんとした雨よけにならないくらい降っている。クラスのみんなもそんな雨の状況を見、気分を落としていた。けれど一部は部活が休みになると確信してか、嬉しさを隠せていなかった。
風もどんどん強くなり、まるで嵐のような天気になった。昨日はあそこまで晴れていたのに、ここまで急に変わると、やはり自然の力を感じる。
ぴかっと雷の光が窓に飛び込んできた。音はしばらく経ってからやって来た。教室内はざわっと混ざって一瞬盛り上がった。
「春雷(しゅんらい)だな」
授業中の先生が言った。
「しゅんらい?」
前のほうの席の子が尋ねた。鶴一も知らない単語だった。
「春の雷だ。ここまでくるともはや嵐だけどな。春が来たことを教える雷で、これに驚いて冬眠していた虫が起きてくるとかで、虫出しの雷とか言うな」
「先生、もうとっくに春で、虫もいるんですけど」
「それは私にではなく、考え出した人に言ってくれ」
春雷で無理矢理に起こされた虫は、不機嫌になったりはしないのだろうか。もしそうなのであれば、出てからしばらくはとても攻撃的になるのかもしれない。鶴一のこれまでの経験から、思い当たる節はなかった。
先生が一旦話で止まってくれたおかげで、鶴一は最新の板書に追いついた。なるべく読みやすいように丁寧に書いていれば、遅れてしまっていたのだ。この先生はなかなかに早いので差がよくつく。
色々と別のことをしながらも問題なく書けている須藤の技術が知りたいところ。彼は速さと丁寧さを両立できていた。そのおかげかもしれないけれど、なかなか成績優秀なところがある。鶴一もよく助けられている。
「ほほう、この子、なかなか面白い子じゃの」
泉だった。またここにやって来たのだ。もはや見回りではなく、ただの暇つぶしのようになっていた。けれど千里眼はちゃんと使っているはず。
彼女は須藤のノートを覗き、その感想を言う。
「魔法使いじゃて。今回のいたずらを魔法使いの仕業と思っておる。ほほう、なかなかの発想力じゃのう」
どうやらその発想の源が鶴一だと知らないようだった。彼女は須藤に近づき、目を凝らしてノートに書かれていることを逐一鶴一に報告する。
「『泉中には表に知られていない、魔法使いの集いがある。昔から色々と不思議なことが起こるのは、この魔法使い集団が動いていたからだと思われる』これはなかなか、面白いのう。魔法使いか、確かにわしもある意味魔法を使っておるから、魔法使いと言えなくもない。じゃが、魔法使いは西洋の香りがするからの……うーん」
鶴一が相手にせずとも、彼女一人で盛り上がっている。ここまで近づかれているのに、須藤はやはり気づく気配すらない。彼の求めている存在はすぐそばにいる。
「妖術使い。そうじゃ、妖術使いのほうが良いの。いや、妖術であるとわしは妖怪ということになるな……それはちょっとなあ……」
彼女は果てしなくどうでもいいことを延々と考え続ける。鶴一としてはもうどこかへ行って欲しかった。そういうことを視線で訴えるも、やはり彼女はお構いなしに居続ける。
「まあ、良いか。今ここで結論を出さずとも、ゆっくり練れば思いつくじゃろうて」
今度は教室の中をうろうろし始める。そして生徒たちの顔をちらちらと見ていく。学校らしく生徒の名前と顔を覚えようとしているのかもしれない。もしかすると、これまでの生徒たちも全員覚えていて、たまに思い出にふけったりも。
「ツル。あの娘じゃが」
そばに寄ってきた泉が、右斜め前の方向に座る女の子を場所で差した。名前は神崎きく。幼さが目立つけれど、なかなか可愛らしい顔をしている娘だ。鶴一も話をしたことくらいはある。
泉が険しい顔をした。そしてとても言いづらそうにしている。鶴一は嫌な予感を覚え、心の準備をする。
闖入者についてのことだ。彼女はもしかすればなにやら怪しい儀式なり、こっくりさんのようなことをしてしまって、闖入者を召喚してしまったのかもしれない。さらにそれに気づいていて、いたずらを闖入者に仕掛けさせているのか。
まさか身近に関係者がいた。鶴一はまったくそういう考えが浮かんでいなかったので、驚きを隠せなかった。それもそういうことをしそうにない、大人しそうなクラスメート。
思春期少女になると、怪しい儀式にはまってしまうものか。いわゆる中二病。周りからすればばかばかしいことだけれども、本人にとってはそれが真実のようになる。空想だけならば問題なかった。
しかし、彼女は行動に移してしまった。
今現在も真面目に授業を受けている。自分が犯人であるという自覚があるのならば、とてつもない落ち着きように見える。そうであるならば、彼女には魔女という名称が似合う。
鶴一はこれからどうするべきか悩む。彼女が魔女であるならば、未知なる力で鶴一をいとも簡単に返り討ちにできるだろう。すると安易な接触は控えるべきだ。やはりここは泉に任せるべきなのだ。
思い込んでしまうと嫌な想像が働き続ける。鶴一はわしわしと自分の頭を触り始めた。
彼女の狙いはなになのだろうか。たかがいたずらだけに召喚したのだろうか。
そこではっと鶴一に浮かんでしまったのは、泉だった。彼女は入学前から泉の存在を知っていて、泉になにか危害を加えるために行っているのだと。
彼は聞いていた。彼女が小学校高学年での転入生であると。この泉中に入るために、家族ぐるみで計画を実行に移している。そこまでするのだから、後ろにはもっとすごい組織がいるのかもしれない。
適当に思いついて須藤に話してしまった、魔法使い説がこういう風に繋がってしまった。
そうなれば泉にすべてを任せるわけにはいかなくなった。一人で立ち向かえば、とてもひどいことが起こるかもしれない。けれどどう対抗すれば良いのか、鶴一はまったく思いつかなかった。
ちらりと泉を見やる。彼女はまだ険しい表情のままだ。ひしひしとなにかの強い圧力を感じているのかもしれない。きっと彼女にとっても初めての経験だ。
声をあまり出せない鶴一は、ノートの端にペンを走らせた。
(神崎さんが、どうかしましたか?)
指先が緊張のあまり震えてしまって、それは筆跡にも表れてしまった。
目を細め、とうとう彼女は口を開いた。
「脱げばすごいぞ」
あんまりにも意味がわからず、ぽかんと口を開ける鶴一。彼女は補足のために続けた。
「あの娘、更衣室で服を脱いでいるところを見たことがあるが、すごいのだ。あんなに幼い顔で背も低いのに、胸が大きくて、つまりとても発育が良いのじゃ! どうやら普段は抑えるための下着かなにかであまり目立たんようにしておる。年々みなの発育が良くなっているなと思っていたが、まさかこれほどまでとはのう……食べ物の力はすごいものだのう。ん? ツル?」
指先の震えは別の感情からのものに変わっていた。色々と考えてしまった自分がばからしくなってしまって、その矛先は泉へと向かった。
「く、くだらんことを……」
「え?」
「くだらんことしてないでさっさと見つけんかい!」
先生の声だけしていた教室に、鶴一の怒りの叫びがこだました。その一瞬の炸裂で教室の空気が凍りつき、誰もが一斉に鶴一のことを見た。春雷よりも力があった。
怒りに震えていた彼も、その視線で我に返ってとてつもなく恥ずかしくなった。椅子から立ち上がってしまってもいた。
「恩島、なんだって?」
先生が眉をぴくりぴくりさせながら言った。
「な、なんでもないです……」
「なんでもないことないだろう。え? もう一回言ってみろ」
運の悪いタイミングだった。先生が教科書で調べものをしている時に言ってしまったのだ。そうなれば先生が腹を立てるのは当然のこと。
鶴一は座ることを許されぬまま、もう一度さっきの言葉を言わされることになる。
「え、えっと、早く見つけてください。です」
「んん? そんな風にはこれっぽっちも聞こえんかったがなあ」
男らしい腕を組み、仁王立ちしている。鋭い視線はひどく鶴一を怯えさせた。
考えていた中でトップクラスに厳しい状況に、入学してすぐに遭遇してしまった。いかにして切り抜けようかと必死で頭を回してみるものの、どうやったってこれでは。
「もういい、そこで立ってろ。それと、あとで職員室に来るように」
「は、はい……」
しばらくの間、その場で立たされながら授業を受けることになった。そばにいた泉が何度も謝っていたけれど、そんなものは耳に入ることはなく、鶴一は恥ずかしさと悔しさと怒りに満ち溢れていた。
授業のあと、職員室で休み時間をすべて潰されるくらいにこってりと先生にしぼられた。その様子は嫌でも目立つので、もう逃げ出せるならばすぐにでもそうしたかった。
鶴一の視界は涙でにじんでしまった。
職員室から出ると、目の前にとてもおろおろした泉がいた。彼女を無視し、鶴一は自分の教室へと歩みだす。涙はもう上着でこすって飛ばしていた。
「すまん、すまんかった」
口も利きたくはなかった。そこまで無視されても、彼女は声を震わせながらついてくる。
「授業でひまそうにしていたから、ちょっと楽しませてあげようかと思って、その……」
歩みを早くして振り切ろうとする。それでも彼女はついてきて、言葉を並べる。
「ごめん、ごめんなさい。泉、ツルにひどいことをしてしまって」
ふうと鼻から息を吐き、結局彼女に一言もかけることなく、目も合わせることなく教室の中へと入った。
これ以上はもっと怒らせるだけになると考えたか、泉は教室の中へ入ることはなく、どこかへと消えていった。
鶴一のいらいらは時間が経っても収まらず、それは須藤にも伝わっていた。彼もおろおろして話しかけることはなかった。
そうして最悪の学校は終わる。
さっさと帰りたい気持ちでいっぱいだった鶴一だけれど、掃除当番がある。ほうきを取り出していると、担任の先生から例のことで小言を貰い、それがさらに彼を苛立たせた。
掃除中の彼の前に泉は現れなかった。窓に打ち付ける雨はさっきよりもひどくなり、雷も頻度が上がっていた。
あまりの激しさに、自分の感情とリンクしているのではないかと鶴一は考える。でもそれはあまりにくだらないことなので、すぐに否定した。ひどく感情を大きく揺さぶってしまったので、頭が疲れてしまったのかもしれない。
「あ、あの……」
ほうきで教室のほこりを掃いていると、一人の女の子が恐る恐る声をかけてきた。神崎だった。鶴一よりも背が低いのに、背中を丸めてしまってより小さくなっている。
「わたし、なにかした……?」
気づかぬうちに視線を送ってしまっていて、それが気になったのだろう。勇気を振り絞って尋ねたのだ。
「い、いや、なにもしてない」
無意識に圧力を掛けてしまっていた自分を、鶴一は反省する。彼女のせいではない。
確かに彼女は平均的な胸の大きさに見えた。泉が見たものを一瞬想像してしまい、鶴一はひどい自己嫌悪に陥る。その様子はおかしく、神崎をよりおどおどさせた。
「ほ、本当に?」
「本当、本当」
「でも、その、なんか怖いものあったから……」
「あ、いやっ、その……あれなんだ」
咄嗟のうそが思いつく。
「実は最近目が悪くなってきてて、こう無意識に睨みつけちゃうことがあるんだ。嫌な気分にさせてごめんなさい」
もちろんそんなことはなかった。鶴一の視力はすこぶる快調だ。ぐっと凝らすことなく黒板の字だってはっきり見える。
「そう? それなら……わたしこそ、ごめんなさい」
そうして彼女は掃除を再開した。一応信じてくれたようなので、ほっと胸をなでおろして鶴一も再びほうきでほこりを掃く。
彼女に不快な思いをさせたのもまた、泉のせいだった。
でも鶴一はずっと彼女に対して怒りを抱き続けるのもひどいことだと思うようになり、少しずつ頭を冷やしていった。次会ったときはすべてではないけれど、反省を促す意味を込めて少しだけ許すことにした。
雨風そして雷の音のせいでわからないだけかもしれないけれど、今日は今のところ騒ぎが起きていないように思えた。掃除が終わると、みんな帰っていった。
神崎はここが集中できるのだろうか、自分の席に着席し、机にノートを広げて筆を走らせていた。
こっそりと覗くと気づかれ、
「あ、復習……家だとなまけちゃうから、ここでしてるの」
普段の授業で使っているノートではなかった。ぺらりと表紙を見せてもらうと、そこには「復習用」と無地の表紙に太めの油性ペンで書かれていた。
女の子らしい、丸っこくて可愛らしい字。彼女に似合っている。
「復習か……したことないや」
「わたしもたいしたことしてないよ。授業で写したノートを、復習ノートに写しているだけだから」
そう言いながらも、授業中引っかかったところを調べたり、再び解いたりしている。鶴一にとってそれはとてもたいしたことだった。
「いつもここで?」
「ううん。色々場所を変えてるの。図書室とかでも。恩島くんも、するの?」
窓の外を見る。このひどい天気では、持ってきた折り畳み傘も壊れてしまうかもしれない。壊れなかったとしても、びしょびしょに濡れて家に戻ってしまうことになる。学ランの上着もズボンも撥水効果がある素材で作られているけれども、これでは効果をなさない。
「雨が落ち着くまでちょっとやろうかな」
「じゃあ……」
彼女が席を立ち、前の席を動かして自分の席にくっつけた。対面席になった。
「こうしたほうが、わからないところもすぐに教えあえるから」
その期待には応えられそうにないと、情けないことを考えながら鶴一は向かいの席へと座った。鶴一には彼女のような復習ノートを持っていないので、今日やった授業のノートを開き、目を通すだけにした。
そうしてしばらく無言の時が流れた。
嵐はまだまだ収まりそうにない。
「あの……」
先に口を開いたのは、意外にも神崎だった。休憩のためにペンを置いていた。
「あ、うん」
返事をすれば、つられて鶴一も休憩に入った。ただノートを再び読んでいただけなので、別に疲れてもいなかったけれど。
「あの、『泉(いずみの)ふざけ』ってどう思う?」
鶴一にとって聞いたことのない単語だったけれど、それがなにを差しているかはなんとなくわかった。
「あっ、みんなが『うわさ』って呼んでいる、あれのこと」
予想的中だった。
「あのいたずらって、泉ふざけって言うの?」
「うん。今ではあまり呼ばれなくなったんだけど。まるで悪ふざけのようなことばかりだから……」
「それで泉ふざけ。へえ、そんな名前があったとは。なんでその名前を?」
泉は自分がしていることをそう呼ばれていると知っているのだろうか。間違いなく知っているに違いない。さればどう思っているのだろうか。
「えっ、ああ、ゆ、有名だから、この辺りで」
「詳しい人がいたんだ」
「う、うん。そうなの」
妙に詰まった返事だった。
普段ならば面倒なので適当に流すところだけれど、鶴一はもうちょっと話をしていくことにした。彼女が魔女であるという事実無根の空想が蘇った。
「えっと、それでオレがその泉ふざけをどう思ってるかって?」
「恩島くん、『いらない席』に巻き込まれてたから」
またもや新出単語が飛び出してきた。でもこれはすぐに増える机のことであるとわかる。泉ふざけでは各いたずらにもちゃんとした名前が付けられていた。
「あっ、あの机がいつの間にか増えていた、あれ、増える机……」
「なんとなくわかった。じゃあ、もしかして増えるほうきは『いらないほうき』なの?」
「ううん。あれは『ほうきユニオンズ』」
「ほ、ほうきユニオンズ? なんでまたそんな名前?」
「わかんない。でも、そう呼ばれているから……」
その言葉にうそはないようだ。多分、彼女も調べているだろう。けれど結局ほうきユニオンズの由来ははっきりしなかった。泉がもしかすれば知っているかもしれない。
「考えた人のセンスがわからん。じゃあ、話を戻すよ」
こくりと小さい顔で彼女は頷いた。セミロングの髪が少し揺れた。
「そうだなあ、変な事件だとは思うよ」
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