一の四

 本当の名を誰にも知られず学校に縛り付けているがゆえ、大きな力が使える。

 敷地内であれば天候でさえ操作できるようなレベルであるらしい。

 彼女は自分自身を学校とだけ称しているけれど、まさに神様だ。祀られてもおかしくないくらいの力を持っている。分厚い雲が現れたと同じく、鋭い風が吹いた。

 鶴一はやり過ぎてしまったと、そしてこれからの悪いことばかりが浮かんでしまって、逃げることもできなくなるくらい脚を震わせた。さらにぽきりと折れてしまって、床にしりもちを着く。泉を見上げる形になるけれど、それでも表情が上手く捉えられない。

 膝丈くらいのスカートが風に吹かれているけれど、中がどうであるとか考えられはしない。

 雲が威嚇を始める。ごろごろと。もしかすれば狙った場所に落とせるのかもしれない。そんなものを食らってしまえば、鶴一などすぐに死んでしまう。ケガどころではなく。

「じょ、じょ、冗談です、からぁ……」

 視界がじわじわと水の中に沈んでいく。にじむ。ぱくぱくと鯉のように口を動かし、しきりに冗談であることを伝える。

 鋭い瞳の光が鶴一に刺さる。これまで感じたことのない圧倒的な力に、鶴一はどうしてあんなことをしてしまったのかと自分を責めた。少し調子に乗ってしまったがために、こんなことになろうとは夢にも思わなかった。

 ようやく彼女の表情がわかり、暗く口角を上げていた。目の前の者をどういたぶろうかと考えているようだ。

 鶴一に覚悟などできるわけがないまま、彼女は自分の両手で自分の顔を覆った。そのまましゃがんで彼の眼前に迫る。

 これが合図になると鶴一はもうぐうっとできるだけ身体に力を込めるしかなかった。まぶたを強く閉じてその時を待つしかない。暗闇がより一層恐怖を煽って、

「なんちゃってっ!」

 彼女のふざけた声がしたけれど、それでもまぶたを開けることはできない。

 するともう一度、

「なんちゃってっ!」

 やるなら早くしろと心の中で彼女に唾する。するとぽんと肩に触れられる感覚があり、それから叩かれた。

「なんちゃって、なんちゃって」

 呪文なのだろうか、何度も何度も肩を叩きながら言っている。

 怖くてたまらないから、鶴一は暗闇に引きこもり続ける。けれどそれは無理やりに終わらされた。まぶたを開かされてしまったのだ。感触から彼女の指だとわかり、眼前に彼女の顔が広がった。

「おい、なんちゃって、じゃぞ」

 鋭い眼光はどこにもなく、普段通りの彼女の表情。

「おい、ツル、おい。なんちゃってってわかるか?」

 肩を持ち揺さぶってくる。その揺さぶりのおかげか、頭がゆっくりながらにちゃんと働くようになった。なんちゃっての意味を理解した。暗雲がうそのように消えて去って、屋上にはまた眩しいくらいの陽が照っていた。

「え、ええ……」

「ほう、良かった。しかしわしを謀るとは、よくやったのう。なかなか恐れを知らんと見える」

 感心し、歯を見せる。彼女は冗談の仕返しを冗談で返しただけだった。

「まあしかしなんじゃ、腰を抜かしてしまうとは予想外じゃ。すまんの、やり過ぎた」

 鶴一にとって、そのような真面目な反応は恥ずかしさを増すだけだから止めて欲しかった。いつものようにからかってくれたほうが何倍もましだった。そうすれば簡単に誤魔化せる。

「あ、あの怒ったり……」

「するわけなかろう。むしろ久しぶりに引っかけられてしまって面白かったぞ。たまにならばいたずらされるのも楽しいものじゃのう、ひひひ」

 鶴一の手を取って立ち上がらせ、汚れた服をはたいてくれた。尻もなので、彼は女の子に触られたと思ってちょっと恥ずかしくなる。本人はまったく気にせず、その様子は面倒見の良いお姉さんのようだった。

「ま、あやつらが来たとしても無理に呼んだりはせんよ。ん、ケガはないかの?」

「だ、大丈夫です」

「良かった。そうそう。これに臆することなく、隙があればわしにいたずらを仕掛けるのじゃぞ。そのほうがわしは楽しい。いたずら合戦じゃ、そうじゃ、これは良い」

 一人勝手に瞳に星を瞬かせていたけれど、鶴一はまだ揺れが残っていた。きっと夢に出てきてしまうだろうと思ったので、今晩はいつもより寝る前の水分摂取は控えようと決めたのだった。

 おかげでその晩、ベッドの中で事故は起きなかった。

 

 とある日の休み時間。ぼうっとしていると須藤、須藤優太(すどうゆうた)が話しかけてきた。あの机騒動の時、一緒に机と椅子を廊下に出してくれた子だ。優しげな顔立ちがとても印象的で、みんなからもそう認識されている。小学校は同じでなく、このクラスになって初めて知り合った。

「なんか疲れてるね」

「え、まあ色々あってなー」

 ぐでえと机に伏せる体勢になる鶴一。

 いたずら合戦を思いつかせてしまってからというものの、泉は目標を彼だけに定めて色々と仕掛けてきていた。

今朝も男子トイレの小便器で用を足していると、「わっ」と声を掛けられて驚いてしまっていた。彼女はそんな場所でも気にせず堂々と入ってくる。思春期少年に辛いいたずらだ。

 そうしたおかげか、あれ以来クラスでいたずらは起こっていない。熱を冷まさせる期間というのもあるだろうけれど。

「色々、か。どんなの?」

 訊かれたことに、ぼかして答える。

「近所の姉ちゃんにおもちゃにされてるんだよな。なんかいたずら仕掛けてくんの」

 捉え方によればやらしいことのようにも感じられるので、須藤はそういう回路を働かせてしまう。ほんのり頬を赤くし、一歩だけ後ずさりする。

 そんな様子に鶴一は呆れてため息を吐く。

「想像してるようなことじゃないぞ。てか、そんなのだったら言わんわ」

「だ、だよねえー」

「いたずらは本当に子供のいたずらそのまま。出されたお菓子にからしが混ぜられてたとか、かばんの中にせみの抜け殻が大量に入ってたりとか……」

「せみ? 今、春だよ」

「そうだよ、朗らかな春だっていうのに、去年取ったかどうか知らんけどせみの抜け殻。かばん開けたら、どばぁーっとよくここまで溜めてたなってくらいに詰め込まれてたよ」

 掃除当番で教室からは離れることがあったから、その間に仕掛けられたのだろう。家に帰って開けてみれば、その言葉通りに大量のせみの抜け殻が入っていた。部屋で「ぎゃっ」と悲鳴を上げてしまったけれど、両親がいなかったのが幸いだった。

 泉は鶴一もいたずらを仕掛けて来いと、引っかけたあとに言う。でもあの恐ろしい光景が浮かんでしまって、そんなことをする勇気が湧いてこなかった。絶対に怒ったりはしないと信じているけれど、それでも本能がやめろと囁き続ける。

「すごい子供っぽいお姉ちゃんだね」

「やめる気配も全然ないし、はあ、飽きるまで耐えるしかなさそうや」

 須藤が思わず感想を述べる。

「やっぱり自然な関西の言葉だ。テレビとかで聞くのと違う。すごいなあ」

「これでも大分こっちの言葉になってるよ。今帰ったらエセだって指差される」

「それでも?」

「それでも。ちょっと違う感じには敏感で。だからもうオレのは関西弁じゃなんでもなくて、変な言葉になってる」

 己の知らない世界を想像し、そして彼は興味を持った。須藤は関西に行ったことはない。だから本当にそこの地元の言葉を聞いたことがない。

 そこで別にそれでも構わないと思わないのが須藤だった。

「いつか行ってみたいな、関西。恩島のと比べてみたいよ」

 好奇心が旺盛であると気づいたのは、授業中のある出来事によるものだった。

 社会の授業。須藤の隣の席に位置する鶴一は、なんとなく横を向いて彼の姿を目に入れた。須藤は今先生が授業で話している所とまったく違うページを開いていた。

 授業に面白味を感じられないことからの行動だと思ったけれど、どうも様子がおかしい。彼はとても真剣な表情でその違うページの内容を読み、さらにこっそり補足説明用の教科書も開き、ノートに書いていた。

 いけないことをしているという自覚はあるから、たまにちらりちらりと先生へ目をやる。安全を確保できていると判断すると、また戻る。

 面倒だけれど、仲の良い子なのだ。鶴一はノートを小さく破り、そこに文字を書いて折りたたんで彼の机に投げた。内容は

(なにやってんだ)

 すぐに気づいてくれた須藤は紙を広げ、内容に目を通してから筆を走らせ、また折りたたんで鶴一に返した。

 鶴一も先生の目を気にしながら、紙を開く。

(面白そうなところ見つけちゃって、やめられなくなっちゃった)

 こういう出来事から、鶴一は彼のそういう性格を知ったのだ。同じようなことは、別の教科でもあった。それに図書室で本を読んだり、借りたりすることも多かった。小説ではなく、百科事典のようなものを好んでいた。

 本当はこういう性格の須藤こそ、泉が見えるべきなのだと鶴一は強く思う。泉が言っていた、これまでの人たちとも合致する。

「なあ、須藤は見えないものっていると思うか?」

「見えないものがいるって、なにかのなぞなぞ?」

「いや、そうじゃなくて。ほら、幽霊とか妖怪とかお化けとかそういうのだよ」

 顎に指当て、しばらく唸って彼は答えた。

「いてほしいなあ。だってそのほうが面白いもん」

 とても泉と気が合いそうだ。けれど彼は机を運びに来た彼女に気づくことはなかった。たまにふらりとクラスに現れた時も、まったくの様子だった。見えているならば絶対なにかしらの反応をするはずだ。

「え、まさか見えるの? いるの?」

「そんなあほな。いるわけない、そんなの」

 鶴一は友達にうそを吐いてしまった。でもそれは悪い内容ではない。正直に話すことではない。

「いるぞ、ここに」

 呼んでもないないのに泉が現れ自分に指差している。

 さっさと帰って欲しいので、そういう風に言いたいけれど、須藤に誤解を与えかねない。急に回した頭でなんとかしようと考え、それとなく手で帰るように合図を出した。手を振ったのだ。小さく。目立たないように。

「ん、なにしてるんだ?」

 いきなりの手の動きに須藤は疑問を口にする。上手く隠すことができていなかった。慌てて鶴一は、

「手首のストレッチだよ、ああ」

 振る動作を止め、もう一方の手も使ってぐぐっと手首を曲げて筋を伸ばした。適当にやってみたけれど、ペンを握っていた疲れがあったらしく丁度よく気持ちいい。

 そんな様子を泉はにこにこしながら見ていて、お構いなしに口を動かす。

「お前の友人かの。ほほー、なかなか良い子ではないか。わしのことは……見えておらんようじゃの」

 彼の目の前で、鶴一にやったように指を一本立てて動かす。見えていないから、指の動きに瞳はついて行かなかった。やはり彼女を見つけられる存在は、かなり珍しいのだ。

 泉が前に言っていたことによると、この長い学校の歴史でも両手で数え切れるくらいの人数としか出会ったことがないらしい。百年ほどで十人未満。十年に一人より少ないことになる。さぞ退屈だったろう。

「残念じゃの。ツルに付き合うくらいであるから、見えてもおかしくはないけど」

 鶴一はその言い回しに反論したい。しかし今は言えない。それを彼女もよくわかっているからこその発言だった。

「まあ、いつか見えるようになるかもしれんの。これまでの者たちと近いものを感じる。きっかけさえあれば、もうほいほいといけそうじゃ」

「おーい、恩島? 聞こえてるか?」

 泉に集中してしまっていて、須藤の声が耳に届かなくなってしまっていた。「ああ」と反応すると、彼は「本当に疲れてるなあ」と心配してくれた。

 泉は教室の時計に指を差していて、そろそろ休み時間が終わると教えてから帰っていった。いつもの通り徒歩。ぱっとテントまで一瞬で飛べるのに、彼女はあまり使わない。基本的に歩く。

「恩島、もし幽霊とか見かけたら教えてよ。僕も見てみたいから」

 授業開始のチャイムが鳴る。彼の約束にただ鶴一は困って相槌を打つしかなかった。

 春の陽気な暖かさが授業中、何度も眠気を誘って一人耐え続ける。こんなときこそいたずらを仕掛けて眠気を吹き飛ばして欲しいと勝手に願う、鶴一だった。

 

「おい、恩島。お前、あそこの掃除が甘かったって先生言ってたぞ。ちゃんとしろよな」

 鶴一を悩ませる問題が、クラスで増える机騒動が起きてからあった。それはあのリーダー格の男の子、茨野(いばらの)がよく突っかかってくることだ。

 事件当時、早朝に学校へ来ていた鶴一を疑い、いや、もう犯人と決め付けて先生にまで言いつけた彼だ。

 茨野は鶴一が犯行不可能という状況であったのにも関わらず、まだ彼は犯人であると凝り固まっていた。取り巻きにも常々そう言っているのが、鶴一の耳にも入ってきていた。

 彼も本当に鶴一が犯人だとは思っていないだろう。けれどそれを認めないのは、最初から彼が気に入らなかったことと、共通の敵を作ることでクラス内での立場を上げるためなのだ。

 集団がより集団らしくなるのは、好きなものを見つけたときではない。敵を見つけたときだ。自分たちを脅かすかもしれない、異なるものを見つけたときだ。それを茨野は利用するため、鶴一を敵とした。

 そしてそれは見事な効果を示した。あの事件はクラス全員の共通事項として知られているから、なおさらに。茨野は敵を示したものとして、クラス内での立場を上げた。

 クラスメートの大部分が彼の傘下に入ったわけではない。彼の取り巻きは男の子だけで、その人数もすごく多いわけではない。けれどあまり面倒事に関わりたくないと、自分まで敵にされたくないと、みんなは考えた。

 結果、茨野はリーダー格から、自薦もあり外面の良さもあり学級委員長に就任した。肩書きもリーダーになった。取り巻きや事なかれ主義のみんなが賛成の手を上げる中、鶴一は手を上げず、それに須藤も付き合ってくれた。

「上げてよかったんだぞ」

「僕自身、彼が苦手なんだ。でも、ごめん……」

 自分を責めるようにうつむき机だけを見つめ、鶴一と目を合わせられなくなった。彼が振り絞ったその勇気に鶴一はぽんぽんと肩を叩き感謝した。

「めっちゃ嬉しいよ。こんなのちょっとした流行だって、すぐ去るさ」

「ごめん、ごめんよ……」

「気にするなって。疑われる行動をとったオレも悪いんだから」

 こうしたことは学校自身である泉にもすぐ入ってきた。だから彼女は自分がしてしまったことだと気を病み、屋上へと呼んで彼に解決の手伝いをすると言ってきた。

「これはオレの問題です。泉さんがどうこうなことじゃないですよ」

「じゃが、わしのいたずらが元であろう。こうなってしまうとは、すまん、これはわしの問題でもある。ツルは友人だから、なんとかしたい」

 今日は少し天気が悪く、屋上を照らす陽は少なかった。そして季節にしても肌寒かった。老朽化でところどころ床に細かいひびがあり、鶴一はその一つをぐりぐりと踏んだ。そんなことでひびはなくなりもしなければ、広がることもなかった。

「泉さんは学校でしょう。そんな人がひいきを作っちゃってどうするんです。見守ってくれるだけでいいんです」

 それでもと彼女は言ってくる。彼女はひどく心配しているようだった。

「どーんと構えてくださいよ。このくらいのこと、長い歴史でなかったわけじゃないでしょ。諱をここに留めているおかげで荒まないなら、それに当てられてあいつも飽きて終わりますよ」

「しかし……」

「ちょうどいい経験にします。男なんです、一人でも乗り越えていかないと」

 無視されるとか、殴られるとか、そういうことはない。向こうが嫌っているならば、鶴一も関わらないようにするだけだ。

きっとエスカレートすることもないと考えているけれど、それでも内心怖さがないと言えばうそになる。この地域に越してきた頃の、からかわれていたことがよみがえる。それを振り払うため、こまのことを思い出せば幾分楽になった。

 鶴一が授業で朗読するとき、詰まったり読み間違えたりすると、茨野を中心に嫌な笑いが起きた。きっと睨みたくなる気持ちを茨野にも、そしてそれを適当に注意する先生にも持ちかけたけれど、授業中であるから我慢した。

「ばかか、まともに読めないでやんの」

 限りなく小さな声だった。読み終わって座ろうとしたときに聞こえてきた。鶴一はとうとう我慢できずに声がした方向を鋭く睨みつけてしまう。茨野はにやにやと余裕の笑みを浮かべていた。

 お咎めがないならば今すぐにでも殴りたくなる。今がだめならば授業のあと。でもこれで手を出してしまえば、間違いなく鶴一が悪いと判断されてしまう。茨野は上手く被害者をやる。

 須藤はまた自分を責めている。声を出しておかしいと訴えることができない自分を恥じている。

 そういう彼の様子が鶴一には一番堪えるものだった。そしてとても親しみを覚えるものでもあった。

「おい、あの机はどこから持ってきたものなんだよ」

 茨野の取り巻きの一人が鶴一に近づき言った。他人の判断を自分がしたと思っているような顔つきの群れの中心には、やはり茨野がいた。余裕の笑みを崩さない。

「あの机って?」

 わざととぼけると、苛立ちを隠さず口調を強くし、

「お前が教室に持ってきたやつだよ! うわさのまねして!」

「うわさのまね? ああ、机が増えたやつか。そんなこともあったな」

 落ち着いた態度を崩さないようにする。彼らに負けたくはなかった。

 思い通りの反応をしないから、取り巻きたちは顔を歪める。

「とぼけんじゃねえよ! あんなんでみんな怖がらせて楽しいか、ええ!?」

 犯人はすごく楽しんでいた。今の言葉を泉にも聞かせてやりたいと思い、内心笑いが起こる。もしかすればどこかで聞いているのかもしれない。ならば地団駄を踏んで怒っているだろう。想像するとよりおかしかった。

「それは犯人に言ってくれよ。オレには関係ない」

「はあ? お前が犯人だろうが」

「オレが犯人? オレが?」

 わざとらしく肩をすくめる。取り巻き集団の苛立ちが、茨野も巻き込んで上がっていくのがわかる。

「どうやってオレがあんなことできるんだよ。テスト中に増えたの、お前たちも見ただろ」

 無理筋だとしても、そこで引き下がってしまえば自分たちが負けになる。そういう面倒な心理が働いて、前へ前へと進もうとする。鶴一としては、茨野に乗せられてしまっている時点で負けていると思うのだけれど、彼らがそんなことに気づくことはない。

「いんや、お前だ。お前が方法はわからないけどやったんだ」

「わからない?」

「ああ!」

 このあとになにも起こらないのであれば、腹を抱えて大笑いしたくなる鶴一。あまりに無茶苦茶な流れにもう怒りは失せてしまった。取り巻きは許してやることにする。哀れだからだ。

 目標は茨野だけに絞って良さそうだった。

「じゃあ、それだとオレはテスト中に誰にも気づかれずに机を運んでこれる力を持ってることになるな」

「ああ?」

「だってお前たちが言ったんじゃないか。オレにはそれができるんだろ? なあ、茨野、お前もそう思ってるんだろ?」

 名指しされた彼が意図を把握できぬままに、ぎこちなく頭を縦に振った。

「それなら、そのよくわからない力で自分たちがオレになにかされるって思わないのか? これだけの力なんだぞ、もしかしなくてもすごくひどい目に会うかも」

 ようやく気づくと、集団の雰囲気が変わった。想像力が働いてしまう。鶴一がそんな力を持っているはずはないけれど、本人からこういう風に言われてしまうと、万が一を想像してしまった。

「今オレにこういう風に言っちゃって、あんさんらは無事に家に帰れるんか?」

 演出のために使ったことのない言葉づかいをする。

とうとう集団は耐えきれなくなってしまって、

「そんなの、あるもんか!」

 否定してしまった。それを待っていた鶴一は、得意げにふうと息を漏らす。

「じゃあオレやないじゃないか」

 引っ掛かってしまったことに彼らは歯を食いしばって悔しそうにする。完全に破たんしてしまっても諦める集団ではない。中心の茨野は今にも暴れそうなくらいに顔を真っ赤にし、鶴一は頭の中で下品に大笑いを始めた。

「俺たちになにかできるやつじゃないんだよ! あんくらいのいたずらしかできない程度なの!」

 自分たちがなにを言っているのか自覚があるのだろう。きっとない。鶴一が犯人であらなければ、これまでのことがすべて崩れ去ってしまう。気の小さい子もいるだろうから、自己嫌悪に陥るかもしれない。でもそんな気分を味わいたくないので、絶対に譲らない。

 集団を崩れさせてはいけない。ここまで築くのにわざわざ鶴一を敵にしたのだ。茨野が直々に鶴一の前にまで出てきた。

 鶴一はこまと泉を胸に抱いた。さっきは大笑いしたけれど、こうして目の前にすると大柄の茨野はすごく強そうに見えた。震えそうな膝を我慢させる。

「そんなこと言っていいのか?」

「オレは話の筋を整えただけだ。結果、オレはあんなことができないってわかっただろ」

「テスト中のはそうかもしれないな。でも、一回目は状況的にお前で間違いないんだよ。そしてあんなうわさをまねたことをしたから、本物のうわさを引っ張ってきたんだ」

 だんと鶴一の机を叩いた。その響きにクラス内の雑談が一瞬止まった。須藤も身体をびくりとさせ、おろおろとし始めている。誰もが暴力の香りを感じていた。

 それは鶴一も例外ではなく、一気に気を引き締めさせられた。

「お前のくだらない欲のせいで、本物のうわさがやってきてみんな巻き込まれたんだよ! だからお前が犯人なんだ、謝れよ、ほら、クラス全員に謝れよ!」

 水を得た魚のように、取り巻きたちが謝罪要求のコールを始めた。それが始まる前に、「さすが茨野」という声もあった。

 鶴一は心を強く持とうとした。けれど続く「謝れ」というコールが気丈な心を削っていく。他のクラスメートたちは耳を遠ざけるのみ。

「おい、お前たちもこいつが犯人だってわかってんだろ。謝ってもらえよ、ほら」

 茨野が扇動すると、関わりたくなさそうにしていたみんなもコールに混ざっていった。最初はおどおどしたように微かな声だったけれど、している内に慣れていったのか、取り巻きたちと変わらない大きさになった。

「おい、もっと静かにやれよ」

 響き渡ることを恐れ、茨野が諌める。すればすぐにコールは小さくなって、廊下には漏れないくらいになった。しかしその囁き声のほうが鶴一により圧迫感を与えた。

 四方八方から刃物を突き付けられ、じりじりと迫りくるよう。嫌な汗が鶴一の背中に流れ、それにはこまも泉も効果がなかった。とうとう膝が震えだす。精神が後ろへ引っ張られてしまい、見えているものがすごく遠ざかった。

「謝れ」

 席を取り囲まれる。

「あやまれ」

 茨野が勝ち誇ったように顔を歪ませている。

「アヤマレ」

 大げさかもしれないけれど、大勢の民衆の前で断頭台に上る気持ちを鶴一は味わっている。犯行を否定する訴えを叫んでみても、もうみんなはギロチンに掛けられることだけを望んでいる。有罪が覆るはずがないのだから。

「アヤマレ、アヤマレ、ハヤク、アヤマレ」

「オマエガスベテワルイ」

「ニドトスルナ」

「コウナルッテカンガエナカッタノカ」

「バカ」

「ダマッテナイデ、サッサトアヤマレ!」

 ここから逃げ出せれば楽になれるだろう。でもそんなことはできない。脚がいうことを聞いてくれない。

 それよりももっと楽になれる方法があった。謝ることだ。謝ることによって、みんなの気が済むのならばそうするべきだと考えた。ずっとこんな鋭い感覚を受け続けるのは、もうたくさんだった。

 心の中で首を振った。鶴一は泉に言った言葉を思い出した。ここで屈してしまえば、学校である彼女にひいきの存在を作らせてしまうことになる。学校は中にいる人たちすべてに公平であらなければならない。

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