一の二
ぱっとまぶたを開けた。生松に怒られたわけでもなく、罪悪感からでもない。気配を感じたからだ。前の生松は本に集中しているようだ。疑われないようにちらりと後ろの引き戸のほうを覗く。
あまりのことに声を上げそうになった。なんと泉が堂々と机を持って入ってきていたのだ。うんしょうんしょと運んでいる。
明らかに目立っているのに、誰も気づいていない。一番後ろの席の子たちは、すぐ後ろを通られているのにまったくだ。そこまでテストに集中しているのだろうか。いや、終わってしまって暇をもてあそんでいる子だっている。
朝置いていた場所に机が戻された。さらに椅子もだ。一仕事したとばかりに額を拭い、目が合った鶴一にウインクをした。そして持ってきていたスケッチブックに筆を走らせ、見せた。
そこには、
(ばれておらんじゃろ)
と書かれていた。
そこまでやられてしまうと、さすがの鶴一ももしかしてのことを浮かべてしまった。いわゆる妖怪の類だ。あの怖いものの仲間だ。泉はあのような姿をしているけれど、そうなのだ。だから消えたり、こんな行動をしたりしても見つからないのだ。
彼の中で辻褄が合ってしまって、途端に怯えと変わる。これまでの人生で一度も見たことがなかったのに、いないものだと信じていたのに、現れてしまった。
(ようやくわかってくれたようじゃの)
やはり早朝に学校へ行くべきではなかった。より一層自分を責める。握っていたシャープペンシルの芯が折れた。紙に押しつけてしまっていた。飛んだ芯の破片がゆっくり舞う。
視線を合わせ続けてはいけないと前を向き、テスト用紙に助けを請うた。黙ってテスト用紙は問題を貸した。でも今の彼が一問でも解けるはずはなかった。
ぽとりと机の上に折りたたまれた紙が落ちた。視線を上げると泉がいて、にこっと笑った。とても可愛らしいものだったけれど、そう思える余裕はどこにもなかった。
そしてまたも堂々と、さらに今度は机の間を通り抜けて生松の前をも通り過ぎ、前の引き戸から帰っていった。
残り時間はあとわずか。わかりきったオチがすぐそこに迫っている。これで彼への疑いは晴れるだろうけれど安堵感はない。恐怖が増しに増す。この世のものではない存在との遭遇は、望んでいない彼にやってきたのだった。
テストが終わりになれば、いつの間にか増えていた机にクラスは騒然となった。生松も含めてだ。置いたのを誰か見たかという話に展開する。
そんな中、鶴一は泉が置いていった紙を開いて確かめる。
(鍵は開けてある。昼休み屋上にて待つ)
すぐにぐしゃりと握り潰し、ポケットへと入れた。ひどいことをされるに決まっているので、当然呼び出しには応じないことにした。鶴一はもうがたがたと震えてしまって、具合が悪くなった。
ぎゃあぎゃあ騒がしいクラスの中、須藤を頼り保健室へと肩を借りて連れていってもらった。若くきれいな女の人の養護教諭がいて、説明すればベッドを貸してくれた。学ランの上着を脱ぎ、横になる。
しばらく興奮が続いていたけれど、やがて眠りへと落ちた。
「ひひひ……」
聞き覚えのある声によって眠りから覚まされてしまう。まぶたを開けて瞳だけを動かせば、そこに泉が立っていて見下ろされていた。声を漏らしそうになる。しかし彼女の手で口を覆われて阻止された。手には肉感も温感もあることが不思議に思えた。
「ここに来るのを見たからの、お見舞いに」
ベッドはカーテンで囲まれていて、外から中の様子をうかがうことはできない。すぐ向こう側には養護教諭が仕事をしている音がしていて、やはり入ってきた泉にはまったく気づいていなかった。
「いやあ、どうじゃった? 素晴らしい盛り上がりだったじゃろー」
差しているのは当然、増えた机のことだ。彼女はいたずらな笑みを浮かべ、自分のやった事を誇示する。またくるりと一回転した。
「というわけじゃな。わしのことはお前しか見えておらんのだ」
手が口から離され、鶴一は限りなく小声、もはや息だけのようにつぶやく。
「おばけ……」
その単語に鋭く反応し、彼女は眉をひそめた。
「おばけとはなんじゃおばけとは。おばけではない。学校であると言っておろうが」
鶴一がふるふると首を振る。ようやく彼の様子がおかしいことに気づき、落ち着かせるように彼女は言葉を掛けた。
「取って食ったりはせん。いたずらはするが、怪我などさせん。生徒を見守る存在なのじゃ。ここができてずっとそうして暮らしてきたのじゃ」
「本当、ですか……?」
不思議な確かさがあり、声を震わせながら尋ねる。それに彼女は大人の女の人と変わらない大きさの胸に手を当て、誓う。
「当然じゃ」
けれど彼女のおかげによりクラスで疑われることになったことを思い出す。あのリーダー格の口ぶりを再生すれば腹が立った。
きっと今は増えた机のことばかりで頭がいっぱいになってしまって、鶴一に追及したことを忘れているはずだった。そうしてさらに自分が音頭を取ることで、クラス内の立場を上げようとしているのだ。
「じゃ、じゃあ謝ってください」
目をぱちくりとさせ、言葉の意味をわかっていない。
「あんなことしたせいで、オレが犯人だって疑われたんですよ」
あの朝の教室のことは知らなかったのだろうか。彼女は初めてしょんぼりとした表情を見せ、詫びた。
「それは悪いことをしてもうた。すまん。お前のせいにしようという気持ではなかったのじゃ、それだけは信じてくれ」
演技をしているようではない。深く頭を下げてから彼女は踵を返した。ベッドを囲うカーテンに手を掛け、寂しそうに言った。
「嫌な気持ちにさせたのじゃ。お前がそう思うのも仕方がない。もう現れぬよ……」
カーテンを開けようとしたその時、鶴一は思わず起き上がって手を伸ばし、声を出してしまっていた。それは彼女の背中があまり小さく見えたからだった。
「あのっ」
引き留めてしまった。すれば手を止め、カーテンが開かれることはなかった。振り向かずにじいっとその場に留まっている。鶴一にとっては願ってもないことだったのに、それを自身でふいにしようとしている。
大き目の声を出したのに、養護教諭は仕事に夢中なのかやっては来なかった。
「もう、しませんか?」
こくりと黙って頷いた。あんまりに可哀想に思えてきてしまって、ため息吐いて流すことに鶴一は決めた。彼女が言うとおりの存在ならば、久しぶりに話すことができた人間が彼なのだ。それがわかったときの嬉しさはすごくとびきりのものに違いない。
鶴一が同じ立場ならば、きっと耐えきれないことだろう。話し相手くらいにはなれるかもしれない。いたずらも寂りょう感から来るものなのだ。いたずらをしているときにだけ少し忘れることができるのだと考えた。
「現れても、構いませんよ」
「えっ」
「もうしないなら、現れても良いってことです」
「それは泉と友達になってくれるということ?」
頷いて肯定すると、それをちらりと見た彼女はぱあっと表情を明るくして近づき、鶴一の手を取った。声がすごく若くなって、幼さが出た。
「本当? 本当?」
瞳に真冬の夜空のように星がたくさん瞬き、ぐいぐいと確かめてくる。押されながら鶴一は何度も頷く。すればとても気持ちが高ぶり、泉は大きく万歳をして「わーい」と気持ちを爆発させた。すごく大きな声だけれど、聞こえているのは鶴一だけだ。
「泉とツルは友達、オーケー?」
「お、オーケー」
「わああ。あ、泉は大体この本校舎の屋上にいるからね。本校舎の。暇があったら来て。じゃ、具合が悪そうだから泉……わし、帰るの」
確認が終わればマイペースに帰っていった。開けたカーテンはしっかりと閉め、足音が遠ざかっていった。けれど扉が開く音はまったくせず、きっとすり抜けたのだ。学校自身であるならばその程度は造作もないこと。
あれよあれよと鶴一はこの世のものではない友達ができてしまった。正直恐怖をなくせてはいないけれど、あんな笑顔の女の子が悪い人のようには思えなくなっていた。
そう思うと気分は良くなっていて、養護教諭に声を掛けた。ここから時計は見えないけれど、陽の柔らかさからまだ午前中だと考える。ここで眠り続けることを選ばず、授業に戻ることを選択した。
現れた養護教諭は彼の血色が良好であることを確かめると、問題なしとして「うん」と言った。そのあと流れ作業のように「無理はしないでね」と付け足した。
鶴一はお礼を言い、自分のクラスへと戻った。途中に泉とまた会うことはなかった。
泉とまた会ったのは昼休みのことだった。鶴一はあの手紙に書かれていた内容を思い出し、本校舎の屋上へと向かったのだ。不要になったたくさんの机が屋上への入り口の踊り場に置かれていて、これ以上の侵入を拒むかのよう。
屋上へは行けないようになっていると先生は言っていた。鍵を掛けていると。けれど屋上への扉のノブに手を掛けて捻ってみれば、抵抗なく動いた。いともたやすく屋上へと入ることができ、鶴一は気づかれないように静かに開け閉めした。
学校で最も空に近い場所。浮かぶ雲は陽を隠せず、辺り一面はとても朗らかだった。泉の姿はなかった。
けれど鶴一は入ってすぐの所から一歩も動くことなく、軽くきょろきょろとしてから帰ろうとした。
「おいおい、せっかくの屋上なのに散歩くらいせんのか?」
ぽっといきなり彼の眼前に泉が現れた。あまりに急だったので、驚いて「わっ」と声を出してしまう。泉は彼に背を向け、てくてくと歩き始めた。じいっとその場で立っていると、彼女は手招きした。
「ここじゃ。基本的にわしはここをねぐらにしておる」
エアコンの室外機の間や、様々なパイプを潜り抜けた先、受水槽のすぐそばにテントが張ってあった。結構長い間使っている証拠が外から見てもあちこちにある。それより鶴一は不思議に思う。
「あの、ねぐらって……」
「そうじゃ。これは友人がくれたものでな」
「……寝るんですか?」
その発言に彼女はけたけたと笑った。何度も訊かれてきた質問なのだろう。とても嬉しそうに答えた。
「もちろんじゃ。わしだってずっと起きていたりはせん」
「でも、学校そのものなんですよね?」
「そうではあるが、食べるし眠るぞ。飯はよくみんなのものを食べておる」
つまり盗み食い。そして鶴一は思い出した。以前、自分の弁当のおかずがいつの間にか減っているような気がしたことを。そのことを容疑者に確かめてみると、
「わからんの。一々覚えておらん」
罪の意識がなければこんなものだった。
幽霊や妖怪ではなく神様に近いものらしい。ここで暮らし、創立からずっと見守ってきたのだ。
校長が熱弁していたことを思い出す。空襲で辺り一面が焼野原になった時も、学校の敷地はすごく被害が少なかったと。さらに色んな災害でも比べて被害が少なく済んでいると。そういう運の良さがあると強調していた。縁起の良い学校だと自信満々に。
「ああ、空襲が一番大変じゃったな。落ちてくる爆弾をな、打ち返したんじゃ」
「オレ、なにも言ってませんけど……」
「ツルはわかりやすいのう。まるで昔いた柴犬のようじゃ」
犬と比べられることもだけれど、なにより泉は呼び名を変えなかった。鶴一は抵抗を諦めない。
「ツルじゃなくてですね……」
「ん、なにを言っておるツル」
「そんなにツルと呼ぶんなら、オレ、タメ口ききますよ?」
彼女は顎をさすり、眉を片方だけ上げた。
「おう、構わんぞ。友人じゃからの、これまでもそうであった」
目論見が見事に外れてしまって拍子抜けしてしまう。次にどうすれば良いのか考えるけれど、浮かんだ内容はあまりに彼にとって唾するものだったので消すことにした。彼女が人をここまで招待したのは久しぶりのことなのだ。
「むむ、弁当を持ってきておらんのか?」
そう言われて気づく。朝からなにも食べていないことに。そろりと家を抜け出すことにばかりに囚われてしまい、朝ごはんも食べず、弁当も持ってこなかったのだ(母がまだ寝ていたのでそもそもない)。
気づいた途端に腹の虫がひどく鳴いた。食べものが欲しいとごねている。けれど別に鶴一本人はあまり興味なかった。なければないで凌げられる。
「大丈夫です」
「大丈夫ではないし、タメ口でもないぞ。まったく、中学一年は十二、三歳じゃぞ。食べないでどうする。背も低ければ痩せておるではないか」
軽く説教すると、テントの中へ入っていった。中からごそごそとなにかを探す音がし、それが止めば次はなにかを注いでいる音がした。それも止んで出てくると、彼女はカップ麺を持っていた。丁寧に割り箸も上に乗せて。
「三分であるが、実に美味いのは二分四十二秒じゃ。せっかくなので、とても良いものをご馳走しよう」
カップ麺はきっと誰からか盗んだものだ。生徒ではないだろうから、先生の誰か。そしてあの注ぐ音はポットである。魔法瓶でも熱湯を維持するのは難しいだろう。つまり動力、電気が必要のはずだ。
その他色々気になることがあるけれど、鶴一は口に出さなかった。
しかし泉はすぐにそんな彼の気持ちを察する。伊達に長く生きているわけではなさそうだ。
「カップ麺は職員から拝借したのじゃ。いーっぱいあるからのう。湯は電気を拝借してポットを動かしておる。線などなくてもできるのじゃ。ポットのある部屋まで行って使っても良いのじゃが、それはちょっと面倒なのでな。だからテントの中には便利なものを集めてあるのじゃ。動かんでも良いように」
「ど、泥棒……っ」
盗み食いだけでなく、カップ麺に電気の窃盗。きっとほかにも色々あるはずだ。そういう感想が漏れるのも仕方がない。
鶴一は食べられることを待っているカップ麺に少し目をやった。美味しそうな匂いが漂い始めていて、唾が溜まる。けれど人のものだからまずい気分にもなる。
「泥棒ではない。拝借じゃ、借りておるのじゃ」
「返せないものばかりじゃないかっ」
「うぐ……」
少し口ごもるけれどすぐに、
「供えられたものじゃ。わしはみんなを守っておるのだから、これくらい貰ってもばちは当たらんっ」
そんな発言を無視し、ばっとテントの中を覗く。するとそこにはらしくない、文明の利器たちがあった。電気ポット、液晶テレビ、さらにノートPCまで。その隣にある寝袋がかなり浮いてしまうくらいに。逆転している。
「ええい、人の部屋を勝手に覗くとはすけべなやつめ。なにか文句があるのか」
「これ、どこから……?」
「決まっておろう、ここからじゃ。わしは泉中の敷地から出られんからの。神通力で欲しいものを出せれば苦労はせんのじゃが、あいにくそこまでではないからの」
鶴一は呆れてしまった。あんなに恐れていた存在が、ここまで俗っぽいとは一かけらも想像していなかったからだ。力はあるけれど、その気質はなんら人間と変わらなかった。
「だってみながおらんときはひまでひまで仕方がないのじゃーっ!」
電源線が必要な機械なのに、それがなくても稼働している様は奇妙だった。鶴一にとってはそれだけでも相当な神通力である気がした。テレビの信号も同じようにまかなっているらしく、点けると映像が映った。確かに彼女が学校そのものであると信じられるような力の数々だ。
戻してくるように言っても、きっと彼女は首を縦に振らない。そして戻せば戻せばで、増える家電というように名前を付けられる出来事になるかもしれない。その前に消えた家電として当時話題になっただろうけれど。
「んん、ツル。できたぞ」
カップ麺のふたを大きくはがし、鶴一に差し出す。きらきらとした瞳で見つめてくるのと空腹で、彼は受け取って割り箸を割り、渋々麺をすすろうとした。
「いただきますをせんか」
「い、いただきます」
彼女が発見した二分四十二秒は特に効果を発揮しているような気がしないけれど、空腹の腹にこれはとても美味しかった。
「お、美味しいです……」
「じゃろうじゃろう」
花が咲いたような万弁の笑みで大きく頷いたあと、
「共犯じゃな、これで」
下品さが溢れる笑みでもって鶴一は迎えられた。箸を止めようとしたけれど、食べものを欲しがる身体は言うことを聞かなかった。ずるずると麺が勝手に入っていく気分になる。鶴一は罪悪感を覚えながら汁まで残さず食べ尽くした。
「ごちそうさまでした」
「容器はわしが処分するからの」
そう言われたので彼女に返す。テントの中にごみを入れる袋があり、それはちゃんと分別されていた。臭いが漏れないようにするためか、袋の口にはクリップがされてある。
テントから出てくると、泉は大きくあくびをした。目をこすり、とても眠たそうにしている。
「眠たそうですね」
「久しぶりに早起きしたからのう、ちょっと寝不足じゃ」
「寝不足って、何時間くらいですか?」
「八時間くらいじゃの。わしは十時間くらい寝ないとすっきりせん」
年寄りだからと思っていた予想は外れ、ロングスリーパーだった。今朝は六時くらいに目を覚ましたとして、八時間ならば昨夜は十時に寝たことになる。鶴一にとってはまだまだ起きている時間だ。
「早起きのせいで夜遅くまで起きてられんかったしのう。せっかくのドラマも見れんかった。ま、録画しておるがの」
「それなら止めておけばよかったんじゃ」
「なにを言っておる。いたずらはわしの娯楽の一つなのじゃぞ」
そこまで聞き、鶴一が間抜けな声を漏らす。彼は自分が友達になれば、寂しさも薄れていたずらをしなくなると考えていた。自分の存在をアピールするため、構って欲しいためにやっているのだと。
「むむ、その様子じゃともしかして、わしが寂しさを紛らわせるためにいたずらをしているとか思っておったのか?」
無言の肯定で返す。
「そんなわけなかろう。お前、いたずらの楽しさをわかっておらんな。仕掛けたものに驚く姿はとても面白いのじゃ。趣味の一つと言って構わんな。そうじゃそうじゃ、実際に見せてやろう」
「いやいや、もうしないって約束したじゃないですか」
彼は確かに「もうしないなら、友達になる」と言い、その条件を彼女は飲んだはずだ。だからこうして屋上にいるのだ。けれど彼女は首を傾げた。
「もうしないというのは、お前に罪をかぶせることじゃろ。安心せい、ツルがばっちり巻き込まれないように気をつけるからの」
ディスコミュニケーションだった。主語をはっきりとさせなかったから、こういう食い違いが起きてしまうのだ。それぞれが自分にとって良い内容で受け取ってしまっていた。鶴一はいたずらに対して、泉は鶴一が疑われたことに対して。
それを指摘することを鶴一は諦めた。面倒なことになりそうだからだ。けれどよく考えてみれば友達になることが一番の面倒なことなのかもしれない。寂しそうに見えたからといって、どうしてあんなことを言ってしまったのか。彼は頭を抱える。
「そうじゃな、今日はもうやってしまったしの」
その辺りは考えてセーブしているらしい。騒ぎを大きくすればするほど、彼女にとっても良くないのだ。ささやかなくらいが一番楽しめるのだ。
「ツルは一年じゃし、同じ学年のが見やすいの。よし、四組にしよう。一年四組にほうきを贈ってやろうぞ。確かあそこにほうきでチャンバラする者がおったからのう、ひひひ」
下品な笑みを浮かべて彼女は一人で盛り上がってくるっと回った。鶴一は深くため息を吐くしかなかった。
翌日の放課後。掃除当番ではなかった鶴一が真っ直ぐに帰ろうとしたところ、教室の後ろの入り口付近で手招きをする泉がいた。彼女には誰も気づかず触れられず。嫌々ながら鶴一は彼女に近づいた。
「掃除当番ではないようじゃの。では、四組に行くぞ」
周りから見れば鶴一一人で歩いているようになっている。一年のクラスはすべて本校舎四階にあり、一組から五組まで並んでいる。二年は三階、三年は二階と、学年が上がる度に一階層下がることになっている。職員室は二階。
音楽室や美術室、理科室などの特殊教室は本校舎から渡り廊下の先にある校舎、特殊教室棟に集まっていた。体育館も同じ渡り廊下から入ることができる。古くからあるおかげか、街の割にはそこそこ広い校庭を持つこともできている。
一年四組の前にたどり着くと、泉は止まるように合図した。そして前の廊下にはそこそこの本数のほうきが立てかけられていた。通り過ぎる人が誰も気にしていないので、これも彼女が自分と同じように見えなくしているらしい。あの授業中に机を運んだ時と同じだ。誰もあの時、机だけが浮いていると指摘しなかった。
「さて、こいつを」
それらをすべて持つと、教室の中に入っていった。やはり誰も気づかない。教室では掃除が行われていて、ほうきを持って掃いている。その中には小学校から付き合いのある男の子もいた。けれど向こうは面倒くさそうにしているからか、廊下に立つ鶴一を見つけられなかった。
掃除用具入れのロッカーにたどりついた泉は、持っていたほうきの半分をその中に入れた。手もほうきも仕切りをすり抜けられるようになっているらしく、ロッカーを開けることはなかった。一つ目の仕掛けが終わると、彼女は振り向いて廊下で待つ少年に対してわくわくするように歯を見せた。
そうしていると一人の男の子、鶴一に気づきもしなかった男の子がロッカーへと向かった。さぼるためかわからないけれど、一足早く自分のほうきを片付けようとしている。
瞳を輝かせる泉を捉えることができぬまま、ロッカーに手を掛けて開いた。すると彼の方にばらばらと数本、ほうきが倒れてきた。あんなに気だるそうだったのに、それを回避する動きは素早かった。
床にほうきが倒れていく音がクラスに響くと、全員がそちらを向いた。ほうきがロッカーから倒れただけなのに一気にしいんとなった。うわさはすでにこのクラスでも広まっていたらしい。
「お、おい……こんなに入ってたか……?」
そんなわけはない。ほうきは今教室で使っている分で、残っていたとしても一、二本くらいのはずだ。そういう本数にされている。しかし今倒れてきた本数はそれを遥かに上回る。
顔面蒼白な男の子の様子は、小学校から付き合いがある鶴一でも初めて見るものだった。彼はそういうものが来れば逆に返り討ちにしてやるとも言っていた。けれどあれでは到底それは成しえないだろう。
おかしさが鶴一の中でわずかに静かに湧き上がっていた。
教室内で掃除していたメンバーが集まり、倒れたものも含めてほうきを外に出した。そうして全員でロッカーの中にほうきが一本もないことを確認し、閉めた。
鶴一は離れて見ていて、無視すればこれ以上発展することがないのにと思った。その反応こそ、泉にとって良い燃料になる。
まさにその通りで、彼女はとても楽しそうに怯える子たちを笑っていた。
「いいか、開けるぞ?」
その間に泉は一本だけほうきを入れておいた。だから開けてみると、あるはずのないほうきが中に存在していて、瞬間ひどくざわついた。そしてまた閉められる。泉はまた追加する。開けられる。増えている。また瞬間ひどくざわついた。繰り返される。
泉中の四階の一の四のクラスのロッカーのほうきがあり得ない現象で増えていく。
これはただごとではないとクラスのボルテージがどんどんと高まり、信じられないからお互いに頬をつねったりしている。小学校から付き合いのある子は近くの男の子の脚を蹴り、その痛がるリアクションから現実と判断した。
鶴一は中学になってもああいうところは直らないのかと呆れた。離れて最初は憂鬱になったけれど、良い機会だったのかもしれない。
「ほれ、最後に大盛りじゃ」
閉まったロッカーに手を掛けたまま震えている子を横目に、泉は残りのほうきをすべてロッカーに入れた。これで最初から収まっていた本数と大差がなくなる。今か今かと群衆の前に立ち、待っている。顔を見たいのだ、決定的瞬間の。
「うわあっ!」
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