ツルセン!~学校が友達だった少年~
武石こう
ツルくんの友達は学校
一
桜の季節。色々なイベントがあるけれど、彼、恩島鶴一(おじまつるいち)にもそれはあった。入学式だ。とある県とある市にある公立中学校、泉原(いずみのはら)中学校に新一年生として入学したのだ。
同じ小学校の子もいればそうでない子もいる。式典で隣のパイプ椅子に座っていたのは見知らぬ子だった。だからといって鶴一は「よろしく」と気軽に挨拶できる子ではない。色々と考えてしまうのだ。
式典が終わって各クラスへと移動になる。クラス分けの紙を眺め、鶴一は憂鬱になった。
仲の良い子が全員別のクラスになっていた。まるで操作されたかのように思えるくらい、彼だけが一人。そんな状況に友達は、
「別にクラスが違うだけじゃん」
と言うのだけど、鶴一はため息を隠そうともしなかった。
泉原中学校はなかなか歴史が深く、校長曰く創立百年近いとのこと。式典で何度も繰り返して言っていたので、適当に聞いていた鶴一も十分に耳が残った。むしろそこくらいしか覚えていない。
長い歴史をここまで推す校長だが、間違いなくその歴史に詳しくはない。百年生きているわけではないし、ここに赴任してきたのも自ら立候補したわけではないからだ。だから適当に泉原中学校、略して泉中(いずみちゅう)の問題を出せば答えられはしない。
流れてきたうわさによるとまだ赴任してきて二、三年ほどだという。百年分のたった二、三。人で例えるならば爪、良くて指。爪で健康状態がわかるというけれど、あの校長はそんな働きをするような感じではない。弱い部分を隠し続けてきただけの頼りなさが漂っていた。
泉中の制服。男子は黒い学ランに女子は限りなく黒に近い濃紺のセーラー。学ランは当然のこと、セーラーもかなりシンプルなデザインだった。赤いリボンも落ち着きを示すための重さが色に入っている。男女とも左胸に名札を付けていて、それは入学年度で決まる。三つの色をロケット鉛筆のようにローテーションしている。
鶴一の学年は前年の三年生が付けていた、緑。二年生は赤。三年生は青。この名札の色を見ればすぐに何年生であるかわかる。
一年生からすると、二、三年生はもはや大人にしか思えなかった。身体の大きさだけではない威圧感のようなものがあった。実際そんなことはない。でも立ち向かってはいけないもののように感じられた。鶴一も同じだったので、面倒を起こすまいと誓っていた。
クラスが別になってしまうとこれまでの友達とは自然に付き合いが減った。代わりにクラスメートとの交流が増えた。それはそれで楽しいと思えたので、鶴一的には問題ない。クラスの一員であることの証明にもなる。
そのおかげなのか鶴一は妙なうわさを聞くことになる。校長の話にはないうわさを。
「泉中って、出るらしい」
うわさ好きの子はどこにでもいるもの。そしてそれがこういう内容ならばみんな興味を抱いて聞き耳を立てる。鶴一はあんまり聞きたくはなかったが、合わせてその場に居続ける。
「出るって、学校の怪談的な?」
「そうそう。結構有名な話なんだって」
鶴一は間に口を挟まない。オカルトや超常現象に関わりたくなかった。好きではない、怖いのだ。見えないものが襲い掛かってくるなんて、見えるものでも身体が比較的小さくてなかなかどうにもできないのに。
「怪談なんてどこにでもあるっしょ」
その意見に鶴一は物言わず全面的に同意した。どこにでもあるうわさだ。トイレの花子さんであるとか、動く人体模型であるとか。挙げたらきっときりがない。
「いやいや、ホントだって。いるんだよ、この学校には」
「どんなのがあるんだよ」
「一番有名なのは机、いつの間にかクラスの机が一つ増えるんだってさ。実際に姉ちゃんのクラスで起こって騒ぎになったって」
「そんなばかな。どういうことだよ、それ」
うわさを広めようとする少年は唾を飛ばす勢いで熱弁する。そんな様子に信じ始める子もちらほら現れ始めていた。
鶴一は否定している子を応援し続ける。
「朝来ると机が一つ増えてたんだって。まあそれなら誰かがやったと思うだろ。で、邪魔だから机を外に出したんだよ。それで授業が始まったんだけど、その授業が終わるとその出されていたはずの机がまた教室内の同じ場所にあったんだって」
危害を加えられるわけではない。だからそこまで怖いようには思えないかもしれないけれど、中学、それも一年生には効果抜群だった。うわさを話す少年もわざとおどろおどろしく演出したことも、その印象をより強める結果になった。
否定し続けていた子も明らかに動揺し、それは鶴一にも及んだ。絶対うそだと念じる。適当に話を作っているだけなのだ。
「まだあるんだよ。増えるほうきとか」
増えるほうき。それはその名の通りの話だった。教室の掃除用具のためのロッカーにあるほうきがどんどん増えていくというもの。誰かが入れていると思い、連続で開けてみても増えているのだという。
それからも様々ならうわさが語られる。けれどすべてケガをするようなものではなかった。机といいほうきといい、驚かせるためのものだけだった。
そういう類のものは命を狙ってくるものと鶴一はレッテルを貼っていた。テレビとか本で現れるのもそうだ。そこではっとして嫌なイメージを振り払うために首を振る。あれも創作の話なのだ。
「ひええ、ホントかよ……」
防波堤も崩れた。否定していたのに、今ではすっかり信じていた。泉中ではおかしな事が起き、それを起こしている何かがいるのだと。落ち着かないように頭をかき続けていた。学ランの肩に少しフケが落ちる。
この話はここまでで終わった。それから誰もうわさを話そうとはしなかった。言ってしまえば自分たちが巻き込まれてしまうかもと考えたのだ。今は軽いものだけれど、口軽く言いふらしたりしてしまうと、もっとひどい目に会うかもしれないと震えたのだ。
それはうわさを広めた少年も同じだった。自分から話した内容なのに、本人も恐れていた。話せば話すほどに想像してしまってより怖くなったのだろう。
授業中、鶴一はうわさのことを頭の中で回してしまう。だから嫌になって「おばけなんてないさ」を延々ループして頭の中の平穏を取り戻そうと頑張った。でも頑張れば頑張るほどにイメージは具体的になってしまう。
その夜、鶴一はなかなか寝つけなかったので、ホットミルクを多く飲んだ。すると慣れないことに腹が戸惑ってしまって壊れた。より眠れなくなってしまった。
「ふはは、お前を食べてやるぞぉぁっ!」
「な、なんでっ!?」
大きな影が鶴一に迫って凄む。舌なめずりをする。
逃げたいけれど鶴一の背は壁になっていてどこにも行き場がない。そして前にいる大きな影を倒す力などどこにもない。それに脚が棒のようになっている。
「われの話を聞いたからだぁ」
「お、オレだけやないぞ! みんな、みんな聞いてたし……あっ」
そこまで言ってみて気づく。察しの良い鶴一に大きな影は満足そうに腹の部分らしきところを、これまた手らしきものでぽんぽんと叩いた。それだけで十分に意味は通じた。
棒になっていた脚が折れ、その場で鶴一はへたり込んでしまう。頭の位置が低くなってしまったものだから、より影が大きく見えた。大きな口はきっと一飲みすることができる。
でもそうはしないだろう。じっくりと食べるのだろう。そんな習性を持っているように感じられる眼光だった。
「いひひひひ……ちょっと小さくてちょっと痩せているが、そのぶん味がしっかりしていることもあるだろうからなぁ」
「美味しくないから、絶対にオレ美味しくないから!」
「それを判断するのはわれの舌なのだぁ」
距離がどんどん近づいてくる。べろんと出された舌が早く味を感じたいために暴れはじめる。あの場で聞き続けてしまったことを鶴一は後悔するけれど、時間は過去に戻らない。今現在そういう技術は開発されていないのだ。
「ひいい、ひいい……」
視界が水の中に沈む。すぐにでもこぼれそうだ。とうとう大きな影が彼の身体を口に入れ始めて、
「うわぁっ!」
景色が変わっていて、そこは彼の部屋だった。動いている音を出さない、デジタル式の置時計が時間、日付、気温、さらに湿度を示していた。朝の六時前だった。窓からは寝ぼけた陽の光が差し込んでいる。
夢だった。大きな影はやはり実在せず、彼の恐怖心が生み出した存在だった。ほっと安堵する。けれどすぐにはっとしてベッドの中を確認する。セーフだった。あまりの怖さに決壊していてもおかしくなかった。
もう一眠りすると起きられないかもしれないし、さらに眠気がひどく飛んで行ってしまったから鶴一はベッドから出ることにした。おさがりの小さ目の液晶テレビの電源を入れる。どこも朝の番組をやっていた。
あまり面白く感じられなかったのですぐに消した。ニュースなどを見ていても特に興味を引かれることはなかった。芸能人に熱愛が発覚と派手に報道されていても、その芸能人を知らない。遠い所で事件があったと報道されていても、「へえ」と本当に軽く思うだけだった。
思い立って鶴一は制服に着替えた。じいっとしていてもなにもないので、早く学校へ行くことにしたのだ。そろりと学校指定のかばんを抱えながら外へと出る。心配させないように台所には置手紙を置いておいた。ゆっくりと鍵を閉める。いざ登校。
校門は締まっていたけれど、その隣にある鉄格子の扉は開いていた。ノブを捻ると抵抗なく。もしもならば上らなければならないところだった。きっと部活の朝練のため開けてあるのだ。
低い塀と鉄格子だけで囲われている敷地。簡単に突破できそうなのに、外とはくっきりと分かれさせられているよう。漂う空気まで違う。閉じ込められているのか、守られているのか。
そんなことはまったく気にせずに鶴一は自分のクラスの近くへとやって来る。すると音がしているのがわかった。
身をすくめながら、一体どこだろうと耳で探る。そしてそれは彼のクラスからであることを当てる。一年二組。こんな時間に誰だろうと、鶴一は恐る恐る開いていた引き戸から中を覗く。
そこには一人の女の子がいた。確かに学校の制服を着ている黒く長い髪の娘だ。彼女が教室の中に机と椅子を一つ、運び入れていた。
きっと彼女はうわさを知っていて、クラスを驚かせようとしているのだ。そのためにわざわざこんな早朝にクラスにやって来て、どこからか持ってきた机を置いている。
鶴一はほっとしながらも、ちょっと怒りたくもなった。気を取り直し、クラスに脚を踏み入れる。
まったく気にも留めずに彼女は作業を続ける。そうして一番後ろの窓側に、クラス定員より一つ多い机が設置された。意外とみんなはクラス内を気にしないから、騒ぎになるのはきっと全員集まってからだ。誰も必要としない机が異様な存在感を示し始めるのだ。
「お、おはよう……」
強くは言えない。だからまずあいさつをする。
彼女は鶴一を見た。見知らぬ娘だった。まだクラス全員を覚えていないから見落としがあるのかもしれない。でもそれにしても一度も見た記憶のない女の子だった。
背は鶴一より高く、顔立ちも同じ一年生のようではない。二、三年生と似ている。そして美人だった。誰でも憧れそうなスタイルに顔立ち。きっと学内でも有名人に違いない。鶴一が疎いだけで。
一言も発さずに彼女がじいっと鶴一を見つめる。あまりに熱心なまなざしだから、鶴一はなんだか恥ずかしくなる。瞳を見ていられないので視線を逸らす。名前を確かめようと名札へとちらりと。
名札がなかった。だから名前はもちろん、学年もわからなかった。でも鶴一は先輩であることを疑わなかった。新入生へのあいさつ、洗礼のためにわざわざ机を運んできて脅かせようとしたのだと推理した。
彼女は鶴一の目の前にまで近づいてきて、彼の眼前に指を一本立てた。逸らしていた視線もついついその指にピントを合わせてしまう。すらっと節の目立たない白くて長い指。
すうっと彼女が動かすと、鶴一の視線もついていく。上下左右。なにかの検査のように真剣な表情で彼女は色々と試す。そうして仕上げのようにぱんと手を叩いた。早朝の学校に火を入れるような音に彼はひるんだ。
「レアじゃ、久しぶりにレアものを引いた」
ぽんぽんと軽く彼の肩を叩けば、瞳に星を宿した。
「ほうほう、間違いない」
意味のわからない言葉が並び、鶴一はあっけにとられる。かろうじて返せた言葉は、
「なにしてるんですか?」
だけだった。
その質問に彼女は運んできた机を指差し、
「見ておったんじゃろ。あの机を運んでいたのだ。なのにまさか見つかってしまうとは、こんな時間に来てなにをするつもりだったのじゃ」
妙に古臭いというか、年齢を感じさせる話しかた。中学生でこんな言葉遣いはふざけているときくらいにしかしない。中学生だけではない。年配の方でもそうはいない。言葉遣いに合わせるように、ちょっと声質にも年齢を感じられる。
「お、そうじゃそうじゃ自己紹介せんとわからんよな。わしは泉(せん)。お前の名前は?」
泉というのは名字なのか名前なのか。名字のようには思えなかった。自己紹介を返さないほどに鶴一は常識がないわけではないので、口を動かす。
「恩島です」
「おじま、なにじゃ? どんな字じゃ?」
催促されて黒板に行き、チョークで自分の名前をフルネームで書かされることになった。消すのに楽なよう、端っこに小さく書いた。泉は一文字ずつ声に出した。はっきりと通る声の持ち主なのだ。
「お、じ、ま、つ、る、い、ち。恩島鶴一! ほおーっ、珍しい名字の字じゃのう。恩でおと読むのか。難読じゃのう、おんじまでなくおじま。きっとなかなか素晴らしいご先祖様がおるのじゃろうて。そして鶴一。良い名前だ。のう、ツル。そうは思わんか?」
馴れ馴れしい接近に、鶴一は面倒さを漂わせる。それだけではない。ツルと呼ばれたことに少し嫌悪感を抱いた。
「ツルは止めてください」
「どうしてじゃ。わしはツルと呼ぶぞ」
「鶴なんて、女っぽい」
「なんとま。丹頂(タンチョウ)はとてもありがたいものじゃぞ。アイヌの方ではサロルンカムイと呼ばれて、神の扱いを受けているというのに」
神聖なものであろうと関係はなかった。鶴一はそれでも気に入らない。鶴はどうしても女の人を意味しているようにしか思えなかった。だから彼はいつもそう呼ぼうとする人に提案をする。
「どうしても略したいならイチでお願いします。それが気に入らないなら鶴一です」
「いーやーじゃな。響きが気に入らん。イチではお前だけではなくなる、やはりツルじゃ」
また反論するのは面倒くさい。鶴一は不服そうに唸って黙った。それを通ったことだと判断し、泉は何度も嬉しそうに「ツル」とつぶやいた。
なぜかわからないけれど、犯行現場を見られたのに彼女はとてもうきうきとしていた。このままいたずらの犯人であると突き出されるかもしれないのに。
「うん、ああ。どうして机を運んでいたのか気になるのか?」
「それは、もちろん……」
「お前、うわさは知っておるか?」
差すものは間違いない。昨日聞いたばかりの話だ。鶴一は頷く。
「ほうほう感心感心。入って日が浅いというのに、もうクラスで広まっておるのじゃな。地道に活動を続けてきたかいがあるわい」
自供した。犯人で間違いない。けれどこうもあっさりと発見してしまうとは、鶴一は運が良いのか悪いのか。
一連のうわさはきっと生徒が代々受け継いで行ってきたものなのだろう。そうやって泉中のうわさを作り上げたのだ。ここまで続いていて、最初にやり始めた先輩はさぞ喜んでいるに違いない。
もしかすれば今の代は泉だけれど、次は鶴一になるのかもしれない。なぜならば見てしまって、犯人を知ってしまったからだ。鶴一はそんな面倒なことをしたくはなかった。人を驚かせて楽しみを見出せないこともある。
「オレ、黙っておきますから。だから、あの……できればやりたく、ないんですけど……」
「やる? なにをじゃ」
「いたずら、を」
「ん、手伝ってくれるのか?」
おかしな方向へ飛んだ。手を振って否定する。
「残念じゃがノーサンキューよ。いたずらはわしにしかできんからの。人間にできることじゃあるまいて」
泉は変なことを言う。自分も人間であるはずなのに、よくわからない理由を出した。思わず首を傾げ、鶴一の頭にはてなが浮かんだ。変わり者の先輩だ。美人なのに変わり者。
「うお、そうじゃそうじゃ。わしがなにかわからんものな、そういうおまぬけ顔も仕方がないことよ」
くるりと軽やかに一回転し、それから自分自身に親指を差しながら言い放った。
「わしは学校、泉原中学校そのものじゃ」
意味のわからないことを言う。鶴一が出会ったのはよりにもよって頭のおかしい先輩だった。だからだ。だからこんなばかないたずらをなにの抵抗もなく実行できるのだ。
「まあ、知っての通り昔は尋常小学校であったがな。とにかく、わしは泉中なのだ」
彼女は臆さず続けた。良くも悪くも鈍い精神を持っている。その神経を羨ましく思わないこともない鶴一。
彼女は先輩。気を悪くされると後々なにがあるかわからない。適当に乗ることにした。
「すごいですね。まさか泉さんが泉中だなんて」
「お前、うそをつくのが下手じゃのう。これまでのやつらよりもだめだめじゃ」
ぐうっとさらに近づき、彼女は睨む。失策を悔やむ気持ちと、彼女から香る心地よい匂いにうっとりしたい気持ちが混ざって困惑する。
「おかしいのう、みな好奇心丸出しですぐに信じてくれたものじゃが。ちゃんと見せてやるしかないということか」
がっくりうなだれ、鶴一と距離を取る。そこから気を取り直して彼女が顔を上げた。
顔を上げた彼女がその場にいなければおかしいのに、いなかった。思わず目に力を込めてクラスを見渡してみるけれど、泉の姿はどこにもなかった。慌てて廊下に飛び出してみても同じことだった。
寝ぼけてしまっていたのかもしれない。先ほどまでの彼女は夢の中の存在。あまりに早起きしてしまったので、勝手に頭の中で作り上げてしまったのだ。そういう風に処理をしようとした矢先、
「ほいっと」
泉はさっきと同じ場所にまた立っていた。そうして手になにかを握っている。わかりやすいように鶴一に見せつける。
一枚の紙だ。じいっと覗き込んで確かめると、国語のテスト用紙であることがわかる。そこには漢字を書いたり読んだりせよとの問題がある。そして見覚えがある。つい最近習ったばかりの漢字があるのだ。
「抜き打ちテストじゃな。今日国語があるじゃろ。そこでやる予定のテストじゃ。あ、これ以上は見せんしやらんぞ。ずるはいかん、ずるはいかんからな」
「どうやってこれを……?」
「職員室の生松(いくまつ)の机から拝借してきたのじゃ。あいつ、これをにやにやして作っておったぞ。そういう性格のやつじゃからのう」
「いや、そうやなくって……」
こんな時間の職員室はまだ鍵が閉まっている、もしく誰か来ていたとしても、入ってきた泉に気づくはず。それも勝手に先生の机からテスト用紙を持ってきているのだ。怒られるに決まっている。
「学校であるわしにかかれば簡単よ。鍵が掛かっていようと中に人がおろうと。敷地内ならば間もなく参上できるし、ほとんどがわしのことを見られぬ。どうじゃ、これで信じたじゃろう。わしが泉中であると」
混乱の度数が一気に上がる。彼女の言葉を咀嚼できない。いきなり消え、いきなり現れテスト用紙を持ってきて。これもまだ夢の中の出来事であると信じたくて頬をつねる。彼は確かな痛みを感じた。冗談ではない、すべて現実なのだ。
「泉と書いて泉(せん)なのだ。本名ではないがの。昔、友人がつけてくれたものじゃ。泉原から取って」
ぺたりとその場に座り込んでしまい、泉を見上げてしまう。泉は情けないものを見る目をし、額に手を当て大きくため息を吐いた。
「まあ良いわ。すぐにわかるじゃろうて。じゃ、またの」
今度は消えることなく、歩いて教室から消えた。最後に引き戸の向こうから手を振られると、振り返してしまっていた。けれど頭の中はもうパンク寸前で、自分の机に着席しても落ち着きはしなかった。
「おい、これって……」
かなりの時間が経ってしまっていた。気づけばクラスにはみんなが来ていて、誰かが震えた声を出していた。続いて女の子が指を差している。
誰もがその先へ視線を集中させた。把握されてしまったのだ、一つ多い机の存在が。
一気にわあわあとクラス内が騒がしくなる。うわさ通りのことが起きてしまい、怯える者や嬉しがる者、大きく分けて二つの炎が燃え始めた。しかし一部に冷静な者がおり、こう言った。
「おい、今日一番早く来たやつ誰だ」
妙な団結力が発生し、すぐに特定された。もちろん鶴一だ。冷静さを取り戻し始めていて、間抜けでない彼はそれがどういう意味を持つかすぐに理解した。だから自分ではないと言い切った。
「オレじゃない」
「一番怪しいのは恩島なんだよ」
「違う。だって昨日の放課後もあるやないか」
「そういうこと言うか。怪しい、やっぱり怪しい。それに昨日うわさについて聞いていただろ。それでやったんだ」
いわゆるリーダー格の男の子が凄んでくる。これ以上言いあっても無駄な時間を使ってしまうだけだ。彼からはそんな雰囲気がありありと伝わってくる。
立ち上がり、鶴一は一つ多い机の元へと歩く。そしてそれを持ち上げた。中に教科書もなにもないのに重い。近くで見てわかったことだけれど、比べて古い型の机だった。
「それは犯人だって認めることだぞ」
一々うるさい言葉にいら立ちを覚える。でも泉に指摘されたことをここで実践し、できる限り隠す。表情を察するに、上手くいっている。
「違う。でも、こんなの置いてたら邪魔だろ」
机を持つと、彼のそばに一人駆け寄ってきた。クラスメートの男の子、須藤(すどう)だった。彼が椅子を持った。
「お前まで疑われるぞ」
「ごめん。でも、これくらいは」
とりあえず一時的に廊下へと置いた。訝しむ視線が刺さり、本数も増えていった。自分の席に戻ってもそれは続き、ようやく和らいだのはチャイムが鳴って担任の先生が来てからだ。
けれどあのリーダー格の男の子が手を挙げ、鶴一がやった前提で報告し、取り上げられてしまった。その瞬間の鶴一は本当に腸が煮えくり返る思いをし、ぐっと拳をきつく握りしめた。
それでも押し殺して担任の先生の質問にひたすら否定を続け、とりあえずその場は収まった。けれどあとで職員室に来るように言われてしまう。これほど面倒なことはなかった。
泉のことを訴えても良かったけれど、彼女は言ったとおりにあれが本名ではないのだ。
それに出してしまえばこの事件が長引いてしまうし、学校全体の事になる。心の中で激しく泉のことを責めつつも、朝早く学校へ来てしまった自分も責めた。最悪の一日に、もう頭痛が起こりそうだった。
表面的な落ち着きを取り戻したクラスで、一限目の授業が行われていた。国語だ。そして驚くことに、担当の生松が抜き打ちテストを行った。発表した時の先生の顔はすこぶる気持ちが良さそうだったのが印象的。クラス全体から静かなブーイングが起こった。
配られたテスト用紙を見てさらに驚くことになる。泉が見せてきたものとまったく同じだったのだ。鶴一はあらゆる偶然を無理やりに繋げ、適当に流すことにした。集中すべきはテストだ。
シャープペンシルと消しゴムにこすられる紙の音だけがクラスにしていた。
様々な雑念に襲われながらも目の前の問題を答え続ける鶴一。意外と覚えているもので、ひどい点数にはならない自信があった。上位に入ることはできないだろうけれど、それで十分に思えた。
教壇の横に椅子を置き、生松が監視している。本を片手に。まさかこれを読みたいがために、やけに長い時間を設定したのかもしれない。国語教師の割には体育教師のような体格をしていて、四十代らしいけれどしわが少ない。
鶴一は大体答え終わり、時計を見る。まだまだ時間がある。空欄があるけれど、うんうん唸ることはない。そんなことをしたって思い出せないものは思い出せない。
この授業が終われば職員室に行かなければならない。思い出してとても憂鬱な気分になる。もし泉を見かけたら、いくら先輩であろうとも文句を言うと決心した。こんなことは止めるように言い、そしてジュースをくらいはおごらせるのだ。
とにかくすることがなくなったので、終わりの時間まで眠ることにした。まぶたを閉じ、精神を落としていく。すればすぐに入眠できる。彼なりのこつがあった。ふうっと上手くいつものように落ちていって。
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