10話 パリ万博の夜1889

Chapter10 "Exposition Universelle de Paris 1889"



 1888年、ガスとうもまばらなロンドン スラム街East Endイースト・エンド

 誰も寄り付かない夜の裏通り。

 似つかわしくない高級な霊柩馬車れいきゅうばしゃが止まっていた。


「神父様、お慈悲じひを、 あぁ、有難うございます…あぁ」

 涙で化粧のくずれた年配の売春婦ばいしゅんふ

 神父と呼ぶ小太りの男の前にひざまずいていた。


「祈りなさい。神のほどこしを受けるが良い。」

 そう言うと、女の胸の谷間へコインを1枚、また1枚、と押し込める。

 恐怖と怪訝けげんな表情を交互に浮かべながら、戸惑う女。

 背後から、鳥の口ばしのようなペストマスクを被った長身の影が現れたことには気付いていないようだ。


「で~わ、でわ。そろそろ頂きましょうか。」

 (!?)

 「さ、差し上げられるようなものは何も…?」

「欲しておられるのです。」

 「えっ? 誰が? うぐっ…」

 ペストマスクを被った傀儡くぐつたちは女を羽交い締はがいじめにして口をふさぐ。


「そなたの中にあるものなのでね。で~わ、でわ。」

 小太りの男は、胸元のケースから鈍く銀色に輝くメスを静かに取り出しながら呟く。


「うがっ… ぐぅ、うぅ、う、ぎゅぁ~あぁ」

 こもった断末魔だんまつまが、紫色の月明かりに溶けていった。


 …チャリ、チャリーン…チャリン…


 石畳の溝に向かって転がり落ちるコイン…

 汚物まみれの新聞の上で止まった。


 かすかに読みとれる "East End 連続殺人鬼切り裂きジャック" という文字が、赤黒く染まっていった。






      △ ▼ ▽ ▲ △

    … 1年後、1889年パリ …


(風がんでいるのに、今日は随分と臭いが少ない。アーサーが言ってた下水処理場の効果? 今年はどの辺りでペストを食い止められるか…)


 パリ北部のいわくつきの貧民スラム街ジュノ通り。

 足早に通り抜ける童顔の看護婦は、金色の髪をかき上げながらひたいの汗をぬぐった。


 殺気立った気配がいつしか人通りに薄れ、さわやかな初春の日差しが足元を照らし始めた。

 彼女は大通りに入るとようやく歩みをゆるめ「1889パリ万国博覧会」と書かれた綺羅きらびびやかな垂れ幕で埋め尽くされた街並みを見上げた。

 貧民街とは対照的に活気に満ちあふれた商店街パッサージュ

 小洒落こじゃれたドレス姿の人々が次々にすれ違う。



 バタン! ドサッ!

 彼女の目の前に、パン屋から青年がりだされてきた。


「何度言ったら分かるんだよ! そんな臭いで入って来られたら商売になんないんだよ!」

 恰幅かっぷくの良い女主人おかみがプンプンとむくれていた。

 青年は服をはたきながら立ち上がると恥ずかしそうに周囲を見回す。


(!?)

 彼女と目が合うと、嬉しそうな笑みを浮かべた。

「メイ、ちょうど良かった! 面白い話があるんだ。」

 「アーサー、久しぶり。」

 メイは青年の脇を通りすぎようと足を速める。

「ねっ、今夜、あそこに行かない?」

 ほぼ完成したエッフェル塔を指差しながら得意そうな笑みを浮かべた。

 「行かない。」

 冷たい即答。


 アーサーは "やっぱり" という表情を浮かべたが、それがメイの嬉しい時のサインであることは、子供の頃から知っていた。

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