第1話 新しい顔

 さて、あのとき──クラスメートの女子を庇って死ぬ間際、とっさに生まれ変わりなどを願った俺は、はたして本当に転生してしまった。

 いや驚きである。なにしろ俺はオカルトなど信じてはいなかったし、厚い信仰心があったわけでもない。剣道師範の祖父の影響でお参りや神棚への礼は欠かさなかったがその程度だ。


 とはいえ日本人的無宗教がまずかったのか、転生先は勝手知ったる日本ではなかった。


 いや、むしろ地球ですらない。


「おはようございます、ちちうぇ」

「おお、テオひとりで起きてきたのか。偉いな」


 本当は「父上」と言いたかったのだが舌足らずになってしまった。


 よたよたと重い尻を持て余しながら歩く俺を、金髪を短く刈り込んだ男性が抱き上げて膝の上に乗せてくれた。節くれ立ったごつい手で、俺の小さな頭をくしゃくしゃと撫でてくれる。


 目の前の木のテーブルには野菜スープの入った木製のカップとスプーン、そして黒っぽいパンが載っている。どうやら簡単な朝食を摂っていたらしい。


「あら、テオもう起きたの?」


 そこで隣の部屋からぱたぱたと足音がして女性が顔を出した。

 こちらはどこか儚げな雰囲気の、淡い茶色の髪を束ねた女性である。


「はい。おはようございます、ははうえ」

「ふふ、おはようテオ。ちゃんとご挨拶できたわね」


 女性は目を細めて、男性の膝の上の俺の顔を覗き込んできた。


 いまさら説明するまでもないが、彼らがこの世界での俺の父母である。


 この世界で俺が──日本での記憶を取り戻したのはつい最近のことだ。当初はひどく混乱して父母を狼狽させたが、彼らの話を横で聞いたり家の中の様子を観察した結果、少しずつこの世界のことがわかってきた。


 どうやら、この世界はおおよそ中世ヨーロッパに近い文化のようだ。


 母は東欧っぽい刺繍の施された服を着ているし、まだ幼い俺に着せられているのはごくシンプルな貫頭衣だ。父はもう少しマシで、丈夫そうな革製のベストを羽織っている。

 家も木と土煉瓦を組み合わせて建てられた簡素なものだ。片隅には竈と調理場が設えられ、藁を詰めたベッドだけは衝立で区切られているが、リビングだのダイニングだのと細かく部屋に分けられてはいない。


 確か、ヨーロッパでは使用人を雇うのがごく一般的──人を〝使う〟のが身分を示すステータスだったと聞いた。この家にそうした人がいる気配はないから、この世界でも庶民階級に属するのだろう。元日本人の俺としては家族だけで暮らせるほうが気楽でありがたいが。


「テオ、ゆっくり食べなさい。ほらこぼしてる」

「あなた、この歳の子がまだ綺麗に食べられるわけがないですよ」


 あれこれと考えながら父の膝の上で黒パンをむぐむぐ囓っていたところ、父が苦笑して口元のパンくずを拭ってくれた。


 なにしろ俺の身体はまだ三歳、前世の記憶があろうと思うとおりに動かせない。最初に木の匙を握ってスープを飲もうとしたときには、父母は「この子は天才ではなかろうか」と感涙していたが(騒がせてたいへん申し訳ない)、まだテーブルマナーは完璧とはいかない。


「ごちそうさまでした」


 そして、のたのたとパンを食べ終わった俺は父の膝から床にべしゃっと落ちて……もとい、飛び降りてから、またよたよたと歩き始めた。


「テオ? あまり危ないことをしては駄目よ」


 皿を片付けたり洗濯物をまとめたりと、くるくると動き回って家事をしながら母が言って寄越す。だが俺が危険な真似をしないと知っているせいか(それはそうだ。他の子供よりは分別があるし)、さほど不安視している様子はない。


(やっぱりないよな……で代用したものか)


 日本の記憶を取り戻してから、ひとつ気付いたことがある。


 この世界には鏡がない。


 確かヨーロッパで平面ガラスに硝酸銀を引いた鏡が発明されたのは十九世紀に入ってからのことであり、それまで俺がよく知る鏡は存在しなかった。さきほども述べたがこの世界の文明水準はおよそ中世ヨーロッパに相当するので、当然ながら鏡もない。


 中世では銀や銅をぴかぴかに磨いたものを使っていたはずだが、中世ヨーロッパでもこの世界でも金属は総じて貴重品だ。庶民の家に鏡代わりにできる金属製品など転がっているはずがなかった。


(だとすると、水しかないか……)


 母は家事に忙しく、父も仕事に出る準備を始めている。

 その目を盗んで何度も背伸びしたり跳び上がったりして俺はどうにか扉のノブを動かし、家の外に出た。


 昨日まで雨が降っていたので、案の定、家の外に置いてある洗濯用のタライにはまだ雨水が溜まっていた。今朝は綺麗に晴れているので、水面には空と街の風景が映し出されている。


 水面を覗き込もうとして、一瞬、顔が強ばった。


 俺はいったい何を知ろうとしているのだろうか。これから映るものがごく平凡な子供の顔であればいい。だが不細工な顔のせいでさんざん虐められた過去がこの世界でもまた繰り返されるとしたら。この世界でも俺は祖父の──今となっては〝前の〟祖父だが──教え通りに真っ直ぐに背を伸ばして生きていけるだろうか?


(……それでも)


 俺は意を決して覗き込んだ。

 転生したこの世界にあるものが希望だと信じて。


「これは……」


 そして俺は目を見開いた。


 かすかに揺らめく水面に映っているのは青空──そして、陳腐な表現をするならば天使のかんばせだった。

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