第22話 幼女にキスされるなんてありえない

 兎莉と一緒に帰路につく。僕は兎莉に制服を貸してしまったため、シャツでの帰宅になったが、六月という若干暑さを感じ始めるこの季節、寧ろ制服無しで帰った方が心地よかった。早く夏服の期間にならないかと、僕は七月の到来を願った。

 七月……七月になったら僕たちはどうなってるだろうか。昌平は生徒会長になれているだろうか。そこは分からないけど、少なくとも僕の骨折は治っていることだろう。あまり先のことを考えてもいけない。それよりも今は目の前の彼女に聞きたいことがあったのだ。


「兎莉、最近僕のこと避けてない?」

「……………………。……避けてないと思う……よ?」


 兎莉は俯きながらそう言う。喋る様子いつもと同じだが、距離が違う。いつもより一歩か半歩程僕らの間には空間があった。避けていないと口では言うが、態度が気持ちを語っていた。


「ショッピングモールで風子が兎莉をからかった一件が原因?」

「……………………」


 兎莉は答えない。しかしそれは十分な答えだ。兎莉は今、何か言い訳を考えているに違いない。一先ず何が原因だったのかは掴めた。だけどその原因があって何で僕を避けるのか、これについては僕も聞きにくかった。返答によっては今晩寝れなくなってしまうだろう。そんなことになったら、球技祭と生徒会長選挙の活動に支障が出てしまう。


「ごめんね、兎莉。今の質問は忘れて」

「…………う、うん」


 兎莉は小さく頷いた。表情は安心しきった様子だった。分かり易すぎるだろ、と僕は幼馴染の将来を心配した。

 僕たちは家に着くまでそれ以来話すことはなかったが、兎莉の家の前まで来たところで彼女は僕が貸していた制服を脱ぎ、僕にお礼を言う。


「……颯太くん、ありがとう…………制服貸してくれて」

「良いって、それより兎莉ちゃんとボタン縫えるの?」

「……もう、颯太くん私を甘く見てるでしょ…………私だって裁縫ぐらい出来るんだよ?」

「あはは、ごめん。明日ちゃんと縫えてるか見せてくれよ。僕も一応裁縫道具持ってくるから」

「やっぱり信用してない……どうして颯太くんは裁縫出来ちゃうのかな……」

「僕は結構手先が器用なんだよ」

「…………そうだったね」


 兎莉は最後に僕に微笑みかけると、手を振り家の中へと消えて行った。

 彼女はああ言うが、やはり兎莉が裁縫するのは心配だ。中学二年の時には兎莉は裁縫があまり得意じゃなかった。糸を針に通すのも一苦労で、僕が何度も手伝ってあげたんだっけ。ミシンを使う授業では毎回糸を詰まらせてたのも相まって兎莉は相当裁縫が苦手なイメージが僕にはあった。まあ、二、三年前のことだから兎莉もきっと生長しているんだろう。

 そんなことを考えながらも、僕は明日裁縫道具を持っていくことに決めた。ごめん、兎莉。

 家に帰っては見たが、特にやることがない。学校から宿題が出ている訳ではないし、かといって授業の予習をする気にもなれない。僕はリビングで横になりながらテレビをつける。

 テレビでは偶然だが、温泉特集の番組がやっていて、レポーターが温泉饅頭をほおばって幸せそうな表情をしていた。僕らの町は温泉が沢山あるわけだけど、別に温泉街と言う感じじゃない。観光客がたくさん来て賑わったり、その相手をするお店の人たちに活気があるなんてことは無い。ただ温泉があるだけなのだ。折角温泉があるのだから、町全体でこの温泉を活かせばもう少し人気の観光地になったりするのかもしれない。

 僕は自分の将来についてあまり考えていなかったけど、町おこしの手伝いをしてみるのもいいかもしれないと思った。兎莉は僕らの町が好きだと言ったけど、僕もこの町がそこそこに好きなのだ。

 温泉の話題がテレビでやっていたこともあり、僕は一つ用事を思い出した。そう言えば、お医者さんの方から、この近くの温泉は体に良いから治療の一環で入ることをお勧めされていた。時間もあるし、近くの温泉に行ってみるとするか。

 僕は着替えとバスタオルを持って、家から一番近い温泉に向かった。


  *


 肩まで湯につかるのは非常に気持ちがいい。一日の疲れが引き飛ぶというのはまさにこのような感覚なんだろうけど、僕は今日そこまで学校で疲れたわけでは無いしなんとも微妙なところだ。包帯を解いた腕は感覚が敏感になっているのか、湯の温度が少し高めに感じた。

 家の近くの温泉は雑木林の中にある。家の裏手の山をしばらく歩くとすぐに湯気が立つ竹の敷居があり、そこが温泉だ。規模としてはかなり小さく、どれくらい小さいかと言えば、男湯と女湯があるのではなくただ小さい岩で囲まれた湯船が一つあるだけだ。近隣にあまり人がいないためここに来る人はほとんどいない。時間帯夕方とあって人はやはりいなかった。そう言えば、この近くにはこの前風子が温泉部に勧誘していた祭さんの家があったはず。ご近所さんなのだからここの温泉で会うことも考えられたが今まで一度も会ったことは無かった。

 誰も来ないと思っていた矢先、敷居の外から足音が鳴る。鼻歌まじりで歩いているのが分かるが、何の歌を歌っているのかは分からない。この近くはほとんど人がいないから鼻歌を歌っても誰にも聞かれないと安心しきっているのかもしれない。実際は、今僕がこうして鼻歌を聞いている訳で、そのことを知ったらきっと恥ずかしくなるんだろうな。出来ればそんな気持ちにはなって欲しくないし、足音の主が温泉に入ってこないように願った。

 そんなことを考えているときに限って、願いとは逆のことが起きるわけで、足音は着々と近づいてきて、竹に囲まれただけの簡易更衣室に入った。その後布のすれる音が聞こえてきて、間違いなく足音の主はこの温泉に入ろうとしていると確信する。

 今更衣室で着替えている人が男性なのか女性なのか分からない。ここの温泉は男湯女湯で分かれてはないけど、混浴じゃない。中に男性が入っていれば男湯だし、女性が入ってれば女湯で、温泉に入る前にそれを確認することにここ近隣では決まっている。


「入ってます!」


 僕は更衣室と温泉を分ける仕切り越しにそう言った。僕の声は少し高めだけど、流石に男の声だと分かると思う。

 僕の声を聞いても服を脱ぐ音が止まらないのを見るとどうやら着替えているのは男性の模様。男同士だとしても少し恥ずかしさを感じる。僕は昌平みたく肉付きが良いわけでは無くどちらかと言えば痩せ気味だ。気にしすぎかもしれないがやはり細い体を見せるのは恥ずかしい。弱気になった僕は、温泉の中に持ってきた白いタオルを握りしめた。

 仕切りをまくり更衣室から入ってきた人物を見て僕は驚愕する。

 その人は僕が知っているが良く知らない人。いつも突然現れて大騒ぎして突然消えていく人。それよりなにより、その人物は……

 僕は手に持っていたタオルで目を隠し叫ぶ。


「ちょっと、ヒメ!? 今は僕が入ってるから女の子は入ってきちゃダメだって!」

「ほえ? お兄様も温泉に入りに来たのかえ? ここは穴場だと思っていたのじゃがの……流石はお兄様なのじゃ!」


 僕の存在に恥ずかしさを全く感じる様子無くヒメ――九重姫乃は温泉へと入ってくる。ヒメの年齢を考えると、彼女は思春期はまだ早いかもしれないが、それにしても少し恥ずかしいぐらいは感じてほしいものだ。

 僕は目を逸らしながらヒメが温泉に完全に浸かるのを待つ。全身が浸かり切ったのを見計らって僕はヒメの方を向いた。

 白く濁った温泉に彼女の透けるような肌、白髪は混じり合い、彼女の存在を曖昧にする。それはまるで温泉とヒメが一体となっているようで目を奪われた。


「なんじゃお兄様? 童のことをジィーっと見つめて。まさか恋かえ? 幼女に恋とはお兄様も中々危険な橋を渡るのう」

「ち、違うよ。それよりヒメ、僕の話聞いてた? 今は男湯だからヒメは入っちゃダメなんだって」

「そうかそうか……なら問題はないのう。童ぐらいの年齢の子であれば男湯に入っても怒られたりせぬ」

「ぐっ……そう言われれば確かにそうかもしれない」


 僕はヒメの意外な返しに顔をしかめた。ヒメは推定だが小学校低学年だ。それぐらいの年齢だとお母さんやお父さんについてお風呂に入ることも無いことは無い。

 別の理由を付けてヒメを追い出そうと思考を巡らせたが、寧ろヒメが居ることをそこまで気にするのは自分が幼女に対して意識しているということになるのではないか、と言う思いが浮かびだした。前々から兎莉あたりに怪しまれているが僕は決してロリコンじゃない。目の前の幼女の裸になんか一切興味など無いのだ。僕は湯で顔を流し気分を一新し、ヒメに向かい合った。


「全く、仕方ないな。もう脱いじゃったんだし、今日は一緒に温泉に入ろうか」

「よし来た! それでこそお兄様なのじゃ! 募る話もあるがまずは温泉で体を温めようではないかのう」

「帰省した実家のお母さんか何かみたいだな」


 僕は家から出ていないので想像だが、僕もいつか家を出て帰ってきたらこんなことを言われるんだろうなと思った。

 ヒメはのっそりと僕の方に近づくと僕の隣に腰かけた。肩が触れ合いそうなほどに縮まった距離に僕の心臓は飛び跳ねるが、決してそれを表に出さなかった。


「お兄様は何で温泉に浸かりに来たのじゃ? 学校では温泉部なるものに入っているようじゃが、これもその活動なのかえ?」

「温泉部とは別だよ。僕この前の文化祭で骨折しちゃってさ、それの治療でね」

「なるほど、そう言えば、お兄様この間ショッピングモールであった時にも手に包帯をしていたのう」


 ヒメは顎を押さえて納得する。見た目は幼女なのに仕草や喋り方から、ヒメの中身はおっさんなのではないか?と思えてしまう。そう考えると妙に愉快で僕の頬は緩んだ。


「そうなんだよ。ヒメはどうして温泉に?」

「童か? 童は特に理由は無いのう。毎日どこかしらの温泉には入っていて、それが偶々今日はここの温泉だった、それだけじゃ」

「へぇ、ヒメは毎日温泉入ってるんだ」

「童は温泉が好きだからのう。ここの温泉はよく利用させてもらっておる。何せ家が近いからの」

「ええ!? ヒメの家ここらへんなの?」


 僕は目を見開き彼女を見つめる。見つめられたヒメはとぼけた様子で首を傾げ、黄色い瞳を僕に向けた。


「そうじゃぞ。知らなかったのかえ?」

「知らないよ! と言うことはヒメって僕とご近所さんだったんだね」


 ご近所さん(約一キロメートル圏内)であるが。最近会った祭さんもご近所だったし、こんな偶然ってあるんだなと思った。


「ご近所と言うことは、またここの温泉で出会うこともあり得るのう。駆け落ちみたいでドキドキするのじゃ」

「こら、変なこと言わない」

「じょうだんじゃ。お兄様は最近学校はどうじゃ? 充実してるかのう?」


 ヒメが目を輝かせ聞いて来る。これは前本人が言っていたことだけど、ヒメは不登校。恐らく何かしらの原因が学校にあるんだろうけど、その理由で思い浮かぶのは悪いものしかなかった。学校に行っていないからこそ、学校で何があったのかが気になるということはあるはずだ。出来るだけ、楽しい話題を持ち出そうと思い考えるが、直近の球技祭の印象が強すぎてそれ以外に学校での活動が頭に浮かんでこなくなってしまった。


「最近僕らは『球技祭』の練習で充実してるかな。今日もその練習してたし」

「きゅーぎさい? 何なのじゃそれは?」


 首を傾げるヒメに球技祭について、説明する。バスケットボールや野球、サッカーなどの球技をする行事だということ。バスケットのルール。その他諸々。説明を終えるとヒメは温泉から立つ湯気を沿うように視線を登らせ、暗くなりかける空を眺める。


「それは楽しそうじゃの。誰かと玉遊びをするなど、童はしたことがないのじゃ」

「そう、なんだ……」

「まあ、あまり暗くなるでない。お兄様はさっき骨折していると言っておったが、それで練習ができるのかえ?」

「う、うん。片腕だけになるからパス練習ぐらいしかできないけど、練習はしてるよ。本番出れるかは……分からないけど」


 そもそも出ない方が良いかもしれないとすら思っているのだけど。僕のそんな気持ちを読むようにヒメは僕の顔を覗き込む。


「お主、本当は球技祭に出たくないなどと思っておらぬか?」

「な、なんだよ急に」

「幼女の勘じゃ。童の見立てではあまりお兄様は運動は得意じゃないのじゃ。だとすればあまり運動をする行事は好まないかと思ったのじゃが、どうかえ?」


 あまりにヒメの言うことが当たっていたため、僕は否定できない。


「図星かの? まあ気持ちは分からんではない。誰にだって向き不向きがあるからのう」

「当たりだよ、ヒメ。正直僕はあまり球技祭に乗り気じゃない。でも球技祭に参加したくない理由は、苦手で恥ずかしくてってわけじゃないんだ」

「ほう、ではどんな理由があるんじゃ?」

「ヒメの言う通り僕は運動が苦手だ。バスケットボールはチームでやるスポーツで、運動が苦手な僕が居たらチームが負けると思う。それはどうしても避けたい」


 これが僕の本心だ。別に去年だったらチームとして負けてしまってもいいかと思っていたかもしれないけど、今年は違う。昌平が生徒会長になれるかがこの球技祭にかかっているのだ。昌平が生徒会長になれなかったら温泉部は廃部になってしまうわけで、そんなもの望んでない。

 ヒメに僕らが球技祭で優勝しないといけない理由を粗方話すと、彼女は納得した様子でコクリと頷いた。


「なるほど、そのような理由があって試合には勝たないといけない。それで運動の苦手なお兄様は参加しない方が良いと……?」

「そうだよ。僕が出たらたぶん負けちゃう」

「では………………何故、お兄様は療養のために温泉などに浸かりに来たのかの?」


 ヒメが妖美な視線を送る。彼女の一言が僕の胸に刺さった。

 確かにヒメの言う通りだ。僕は骨折して球技祭に出れないかもしれない状況で、それは自分が望んだものだったはずなのに、僕は温泉に浸かりに来ている。矛盾している。気持ちと行動が矛盾している。

 昌平は生徒会長になって温泉部の廃止を食い止めようとしている。澄はそのサポートを。風子は人脈を使い新しい部員の勧誘、兎莉は温泉部のホームページ作成と言う別の視点から温泉部を守ろうとしていた。心のどこかで、自分が試合に出ないなどと言う消極的な案などではなく、僕自身が温泉部のために何かしたいと思っていたのか。

 僕が戸惑って固まっているとヒメが続けて言葉を紡ぐ。


「確かに、お兄様のチームが勝つためには、お兄様は出ない方が良いかもしれないのじゃ。しかし、それが正解なのかえ?」

「正解かどうか……?」

「そうじゃ。例えば、お兄様からしたら『球技祭で勝つ』ことを第一に考えているからチームがとにかく勝てばそれでいいだなんて考えているかもしれないがの、そう考えない者もおるのではないか?」


 ヒメの言いたいことは分かった。僕は確かに自分の中で中心となる価値観を持っていて、それを基準に考えていた。それだけしか考えてなかったのだ。何が正解かなんて人によって変わってくるし、同じ正解に向かっているとしても、正解までの道のりまでも大切にする人もいるはずだ。


「童は、お兄様抜きでチームが勝って、温泉部が助かったとしても、あまり納得できないのじゃが、どう思うかの?」

「それも……一つの正解の形だと思うよ」

「正解が幾つもあるのじゃ。こういう時はお兄様はどうしたらいいのかえ?」

「それは……」


 ヒメの問いかけに僕は聞き覚えがあった。それは文化祭の時僕が自分自身に問いかけたもの。温泉部の出し物を手伝うか綾菜先輩を助けに行くか、正直あの状況でどちらが正解だったかと言われれば、どちらも正解だったと思う。結局あの時は綾菜先輩を助けに行ったわけだけど、温泉部の方が無事に人を捌くことが出来たみたいだったし、もし逆に僕が温泉部に残ったとしても綾菜先輩のことだ、上手く乗り切ったかもしれない。僕からしたら綾菜先輩を助けに行くことの方が重要だと感じていたけど、例えば澄の目線に立ってみれば僕が温泉部の店を手伝うことが正解だ。

 今回の球技祭、自分の中ではどうするのが最善なのかもう結論は出てしまっている。勿論僕は出ない方が良い。でも、僕の気持ちはそうじゃないのだ。こんな危うい決断を、彼女の正解が後押しした。


「ヒメ、僕は球技祭に出たい。負けるかもしれないけど、僕も温泉部のために何かしたいんだ。温泉部部員が頑張らないで、誰かに任すなんてことはしたくない」

「それでこそ、童のお兄様じゃ! 本番童も見に行きたいから日にちを教えてくれんかの!」


 ヒメははじける様に笑うと、僕の腕に抱き付いてきた。柔らかい感触に頭がくらくらするが、グッと堪える。なんで女の子の体はこんなに柔らかいんだ。女の子はずるい。


「日にちは今週末の金曜日の五、六時間目なんだけど……ってヒメは僕らの高校の生徒じゃないんだから勝手に見に来ちゃダメだよ!?」

「いいではないか、減るもんじゃなしに。この前忍び込んだ時にもばれなかったから大丈夫なのじゃ!」

「本当はそれもダメなんだからね!? ばれたらきっと酷いことになるから」


 真面目な話、恐らくヒメのお母さんは白結第一の先生だから、ばれたら家で相当怒られるはずだ。ヒメのことだからそれも大丈夫じゃとかいうんだと思うんだけど……彼女の瞳から光が失われるまでの流れが容易に想像できた。


「そこまで言うなら……それでは代わりにバスケットボールとやらを童と一緒にしてくれんかの? 童も…………友人と共に球技などをしてみたいのじゃ!」

「いいよ……骨折が治ったらになるけどそれでいい?」

「勿論じゃ! 怪我している状態で運動しても怪我が悪化するだけじゃからな、わはは!」


 ヒメは、わははと笑い飛ばすと何か思い出したかのように僕を見つめた。


「早くお兄様とバスケットボールをしたいからのう……特別に、お兄様の骨折が早く治るように童がまじないをしてやろう。腕を出すのじゃ!」


 彼女がそう言うので僕は言われるままに骨折している方の腕を突き出す。骨折したせいで肌の表面が敏感になっているためかお湯の熱さにやられて赤くなっていた。

 ヒメは左手右手を順番に僕の腕に添えると、額を近づけ……キスをした。一瞬何をされたのか分からなかったが、額を近づけるという行為と腕に感じる柔らかさでそれを理解した。

 僕が呆気に取られていると、ヒメは不敵に笑みを浮かべた後、スッと立ち上がり背を向けて温泉を後にしようとする。湯から出て更衣室との仕切りをまくろうとしたところで彼女の動きが止まる。白く長い髪が彼女の全身を隠し、温泉から立つ湯気に紛れているようだ。体の向きはそのままに、ヒメは言う。


「そうじゃ、お兄様の話を聞いて少しおかしいと思ったことがあったのじゃ。お兄様……お主は本当なら『温泉部を守る』ことを第一に考えているのではなかったのかえ? 目先の目標も大事かもしれんがの……あまり惑わされてはならぬぞ?」


 そう言うと、ヒメは本当に仕切りをくぐり温泉を後にした。

 彼女の言葉が頭を回る。彼女の言いたいことはぼんやりとだが理解できる。今は温かい温泉に入って頭が回っていないのだ。温泉から出ればきっと見える景色が違って見えるんだろう。

 僕は空にその輪郭をはっきりとさせ始めた月を掴むように腕を伸ばす。腕は先程よりも赤みがさしていなかった。はあ、全く………………女の子はずるい。


    *


 次の日、目覚めると腕に違和感を感じた。

 痛いとかそんな感じではなく、左手に巻く包帯が妙にむず痒かった。骨折した付近の皮膚は敏感になっている。そんな状態だからこそ、昨日温泉で熱い湯に浸かったせいで軽いやけどを起こしているのかと思ったがそうではない。包帯を外してみると見た目はいつもとさして変わらなかった。寧ろ昨日より腫れが引いているように思える。ヒメにあんなおまじないをしてもらった後のことだから、まさかあのおまじないで僕の腕が治ったのではないかと錯覚してしまいそうだが、そもそも僕の腕は治りかけだったわけで、順調に回復していった結果なのだろう。

 朝ご飯を食べ、学校に行く支度を終えると、大事に越したことは無いので一応包帯を巻き家を出る。

 家を出ると幼馴染が門の前に後ろを向いて立っていた。木々が生い茂る季節に若葉色の髪が映えている。僕が扉を開ける音に気付いたのか振り向いて笑顔を向けてきた。全く……

 そんなことしたら、昨日の問いかけを肯定しているのと同じじゃないか。


「おはよう、兎莉」


 僕がそう言うと兎莉もそれを返す。ここ一週間程、挨拶をしても帰ってくることが少なかったから、少し新鮮味を感じた。

通学用の鞄を後ろ手に持ちながら、兎莉が隣を歩く。兎莉との距離がいつもより半歩ほど近い。


「颯太くん……腕の調子はどう?」

「結構いい感じだよ。今日放課後にクラスの人と練習あるんだけど、参加してみようと思う」

「それは……良かったね」


 兎莉は胸を撫で下ろす。胸元を見ると、昨日はじけ飛んだ制服のボタンはきちんと制服に縫い付けられていた。


「兎莉、制服のボタン縫えたんだ。これじゃあ僕が裁縫道具持って来た意味がなかったかな」

「裁縫道具は持って来たんだね…………。そうだよ……私はもう裁縫ぐらい余裕なの。確認してみる……?」


 いつものように視線は少し下に落としながら、兎莉は胸元のボタン付近の生地を摘まみ僕の方へと近づける。

なるほどしっかりと縫えている…………じゃなくって!僕は心中ノリツッコミを繰り広げた。生地が持ち上げられたことによりいつも以上に膨らんだように錯覚させられる胸元と、横の膨らみが強調されたそのポーズに僕は目を逸らす。

兎莉は恥ずかしがりの癖に、自分の今していることの重大さに気付いていないのか!?鏡を見た日には卒倒してしまいそうだし、兎莉にこのことを言うことは出来ない。自然に、自然にこの会話を終わらせるんだ。

 僕は逸らした目を兎莉に戻すと何食わぬ顔で話を続ける。


「良く…………できてるな」

「……颯太くん、ちゃんと見てないよ…………ね? …………適当に言ってない?」


 なんでこういうところに察してしまうのかな!?

 僕の言葉にどこか嘘っぽさを感じてしまったのか、兎莉が疑いの目を向けた。そして更にもう一歩、半歩と僕の方に近付いて行く。彼女の足並みに合わせる様に僕は後ろに引いて行きあたかも社交ダンスを踊ったようになるが、それがまた彼女の懐疑心を膨らませた。


「もう…………ちゃんと見て……。上手に出来てるか……な?」

「うっ…………」


 何でこんなに積極的なんだよ!確かに、中学の頃に苦手だったものが出来るようになったのが嬉しくて見せたくなるのも分かるけどさ…………自分の体格も変わっていることに気付いて欲しい。特に胸のあたりとか。

 あまり狼狽していると兎莉が今の状況に気付いてしまうかもしれない。そう思った僕は、意を決し兎莉の胸元に顔を近づけ、ボタンの縫い跡を注意深く見る。見るべき点は多くない。


「…………ん。良く縫えてるんじゃないか? 縫ったって言われなければ分からないと思うよ」

「そ、そうかな……。私、上手になった……?」

「そりゃあもう。僕より上手いんじゃないかな。兎莉も成長してるんだなぁ」

「なにそれ…………颯太くん、お爺ちゃんみたい」


 兎莉は口を押え、小さくクスクスと笑う。どうやら彼女は僕がちゃんと評価してくれたと満足してくれたようだ。

僕もつられて笑っていると、僕らの家よりももっと学校と逆側に住んでいるお婆さんが向こうから近づいてくるのが分かった。お婆さんの家は結構遠くにあるけど、ここら辺まで散歩することがあってたまに見かける。こんな朝早くから散歩するなんて一体何時に起きたのだと少し気になるところだ。

 お婆さんは僕らを認識すると、しわくちゃの顔で微笑む。


「おはよう。おぬしらは朝から仲がいいのう」

「おはようございます。そう見えますか? 照れます」

「……………………」


 僕らは一言二言言葉を交わすと互いに逆方向にすれ違う。お婆さんが遠く離れるまで歩いた後、僕は兎莉に微妙な笑みを向ける。


「兎莉はもう少し、人と会話するのも上手になった方が良いと思います」

「う、うん…………」


 兎莉は半ばあきらめかけた表情だった。全く、兎莉の人見知りは筋金入りだ。

 しかし、苦手だからと言って、そこで諦めたら終わってしまうのだと僕は思う。


「苦手でも、たまには頑張らなきゃね」


 自分自身に問いかけるように僕は小さく呟いた。



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