第9話 文化祭の始まり


 文化祭当日。

 空は雲一つない青空から太陽が眩しく煌めく。

 それでいて、まだ六月の気候であり気温は高くない。

 絶好の文化祭日和と言っても、過言じゃないだろう。

 僕たちは今文化祭の開会式の真っただ中にいる。

 場所で言うと、学校のグランドだ。

 生徒会長であり、我らが温泉部部長の綾菜先輩が金属の台に上り開会式を取り持っていた。


「君たち! にゅーよーくに行きたいか~!!!」


 それは違います先輩。

 先輩の発言は文化祭には全く関係ないが、雰囲気に流された生徒が興奮のあまり雄叫びを上げていた。

 女生徒も叫んでいるがこの場合雄叫びと言うのだろうか。

 そんなのはどうでも良い。

 兎に角、学校内の生徒のボルテージは最高潮になっていた。


「楽しんでいるみたいだね! ってまだ文化祭始まってないのにそんなテンションで大丈夫なのか!?」


 マイクを固く握り、生徒たちに問いかける。


「盛り上がってるか~!?」

『うおおおおおおおおお!!!!!!!!』

「昨日はきちんと寝れた~!?」

『うおおおおおおおおお!!!!!!!!』

「私は寝れなかったよ~!!!」

『うおおおおおおおおお!!!?』


 最後のは盛り上がっていいのか良く分からず生徒たちから若干困惑した声音で返されてしまった。


「それじゃあ早速だけど生徒会長はクールに去るぜ! 何話すのか考えてきてないからね!!! 後は任せた! 副会長~!」

「あっ! こら、待ってください会長!!」


 副会長は綾菜先輩を追おうとしたが、陸上全国大会レベル走力を悪用した先輩は圧倒的な速さで自分のクラスのもとに帰ってしまった。

 相変わらず、副会長さんは大変だ、と僕は苦笑いする。

 一人残った副会長は台の上に置き去りになったマイクを握り咳ばらいをした。


「んんっ! 諸事情により大きく時間が早まってしまいましたが、これで文化祭の開会式を終わりにします」

『うおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!』


 今までで最も大きな声の圧力がグランドを制圧し、僕らの文化祭が始まった。


            *


「みんな! 私たちの劇は午後からだから、午前中は自由にしていいよ~!」


 開会式終了後に辻綾菜はクラス代表としてそのことを伝える。

 事前に伝えてはいたが、念のためではあるが。

 綾菜の高校は演劇に関してかなり積極的だ。

 文化祭前に演劇をしたいという有志を募り、そしてその全てを採用する。

 抽選は存在しない。

 因みにこれは綾菜が考案したものではなく代々受け継がれる伝統だからこのようなシステムになっている。

 ただ、文化祭の時間は有限なので、多く集まれば集まる程一つのグループの発表時間が減っていくのは仕方ないだろう。

 どの講演も無料かつ一日中何かしらの劇は行われているので、毎年生徒たちは文化祭の模擬店で食べ物を買い、演劇の行われる体育館で演劇を見ながらそれを食べる、と言うのが文化祭の楽しみ方の一つとして定着していた。

 綾菜の回りにいたクラスメイトが綾菜の肩を叩く。


「綾菜ちゃんは文化祭どこ回るの?」

「どこ? って、そりゃあ全部だよ! 生徒会長としてパトロールしなきゃいけないし、私は暇じゃないのだよ~!!」

「そんなこと言って、ただ文化祭回りたいだけじゃないの?」

「ぬはっ! 何故ばれた!」


 わははと周りの生徒が笑う。

 大袈裟におどけて見せる生徒会長はまるで見世物ピエロの様に周りに笑顔を振りまいた。

 辻綾菜は道化師だ。

 それじゃ!とクラスメイトに手を振り綾菜は走り出した。

 走り出す後ろ姿からは見えないが、彼女も笑顔で満ちていた。


 *


 開会式が終わると、どこから湧いてきたのか『温泉研究部』の部長、秋風風子が僕たちの前に現れた。

 どこから湧いたとか言ってるけど、普通に一年生の列からだ。

 こういう言い回しを言いたかっただけだから気にしないで欲しい。

 出会ってそうそう澄と秋風さんは険悪な空気を醸し出している。


「ここであったが百年目! ついに決着の時なのですよ! 浅間澄!!」

「その台詞、一昨年も聞きましたよ? 秋風ふーちゃん?」

「くあああああ!!!! ふーちゃんは禁止!!」


 左手を腰に当て右手の人差し指をビシッと立てて警告する。

 風紀委員がやりそうなポーズだな。

 幼い体躯から繰り出されるそれは、一部の人間からすればそれはもう最高なんだろうなと思う。

 昌平がやられた。


「それは置いておいて『温泉研究部』は文化祭で何を出すのですか? 文化祭当日なんですからお互い種明かししても良いでしょう? それに……」


 言葉を途中で切り、澄は周囲を見るよう僕たちに促す。

 いつの間にか、周りにはギャラリーと呼べる者たちが取り囲んでいた。

 文化祭での真の温泉部を決めるこの戦いは、四月の段階で全校生徒に知れ渡っている。

 二ヵ月もたったから、みんな忘れているかと思ったがそうではないようだ。

 綾菜先輩公認の部活争奪戦は皆の注目の的なのだろう。


「ふふふ…………! そう言うことですか! 良いでありますよ~! 教えてあげるのです!」


 秋風さんもこの雰囲気がどういうものなのか察したようで、不敵な笑みを浮かべる。

 後ろに控える『温泉研究部』部員たちに目配せしてタイミングを取る。


「みなさ~ん! ちゃんと見てますか~!! 風子たち『温泉研究部』は…………」


 秋風さんの、せーのという掛け声でこれまた秋風さん同様幼い体躯の三人の女子部員が一斉に制服の襟に手を掛ける。

 バサッ……

 制服を脱ぎ去った少女達は一瞬のうちにメイド服へと変貌を遂げていた。

 ギャラリーから歓喜の声が上がる。

 四人の少女たちは運動会でやるような組体操『扇』をする。


「メイド喫茶をやるのです!! 場所は西館三階! 階段上ってすぐの教室なのですよ~!」


 最高の笑顔を作り、良く響く高い声でそう言う。

 左右の女の子たちが辛そうになったのを見計らい、組体操を止めて四人並列に並ぶ。


「メニューはお好み焼きなのですよ! マヨネーズでハートとか書いちゃうのです! 希望があったら名前も書いてあげなくもないのです……!」


 字は綺麗に書けないかもしれないです、と小さく呟く秋風さんにギャラリーの一部がときめいていた。


「それではご来店をお待ちしているのですよ~! ご主人様!」


 拍手と声援が鳴り響く中、四人のメイドが深々とお辞儀をする。

 ギャラリーの隅に居た、メガネをかけた怪しい集団が文化祭パンフレットに印をつけているのを発見。

 多分あの人たちは『温泉研究部』のブースに行くんだろうな。

 流石は向こうも温泉旅館の娘だ。

 客引きはお手の物だということだろう。

 ふと隣を見ると、昌平も自分のパンフレットに丸を付けている。


「おい、昌平も行くのかよ。相手の手助けしてどうするんだよ?」

「ちがうっ! これは作戦だ。俺は、奴らのメイド喫茶に行って思いっきり嫌なご主人様になって、奴らを妨害する。決してご主人様と呼ばれたいわけじゃない」

「うん…………分かった」


 昌平がやましいことを考えているのは分かった。

 まあ、文化祭を楽しむことは大切だし、昌平一人がメイド喫茶に行ったから勝敗に違いが出たなんてことはあまり考えられないだろう。

『温泉研究部』の紹介が終わったところで、秋風さんが澄に目配せする。

 こちらも紹介しろと言うことだ。

 紹介と言われても、僕は何も考えていないから澄に任せることになってしまう。

 澄が僕の耳元で小声でささやいた。


「颯太さん、これを持ってください。」


 そう言って、僕は澄からフラフープにカーテンのようなものがついたものを渡される。

 …………?

 これなんだ?

 僕が脳内でそんなことを考えていると澄は透き通った声を響かせる。


「私たち『温泉部』は、西館三階階段から一番近い教室で甘味処を開きます」


 その輪をこちらに、と澄が告げる。

 状況がまだうまく呑み込めていないが、言われた通り先程の布付きの輪を澄の元まで持っていく。

 すると、澄はその輪をくぐり、高く持ち上げるように促す。

 これってもしかして……

 嫌な予感がよぎった瞬間澄は、秋風さんに負けないほど良く響く声で宣言する。


「今から、甘味処で着る仲居服に早着替えします。皆さん三秒のコールをお願いします」

「やっぱり!? と言うか三秒って短くないか!?」

「皆行くぞーーー!!!」

「…………っ!」


 僕の心配を他所に、昌平がコールを始めてしまう。

 澄はああ見えて見栄っ張りだ。

 さっきの秋風さんの早着替えを見て対抗心が湧いて三秒だなんてことを言ったのかもしれない。

 もし、着替えが終わっていなかったら……

 僕はギャラリーの前で肌を露わにする澄を想像してしまう。

 そんなことしたら……『温泉部』への男子の票は集まるかもしれないけど、澄の今後の学校生活に支障が出てしまう!

 昌平がカウントを始める中、僕の頭の中はパンク寸前まで思考が巡っていた。


「さーん! にー! いち!! 颯太! 時間だぜ!」


 昌平のカウントが終わる。

 この状況をどうにかしようと、色々考えた。

 だが……最後に僕がたどり着いた結論は「澄を信じる」と言うことだった。


「ごめん、澄!」


 意を決して、持ち上げていた輪を放す。

 初めに澄の顔が現れ、次に肩とその光景がスローになって僕の視界に入ってくる。

 肩は素肌が露わに……なっていない!

 僕の緊張が切れたと同時に、スロー再生が途切れ一気に澄の全身が現れる。

 現れた澄は少しの乱れもなく、完璧に仲居服を着た状態だった。

 それどころか仲居服を着るだけでは飽き足らず、お盆を片手で持ち、その上にお茶とお饅頭を乗せている。

 どこから持ってきたんだよ、そのお茶たちは。

 澄の頬が嘲るように歪んだ。

 その視線の先には宿敵『秋風』の娘が映る。

 娘は初め目を丸くして驚き、次の瞬間には苦虫を噛んでいた。


「浅間澄……! ついに完成したのですかっ! 温泉娘流奥義、御母手茄姿おもてなし!」


 なんだそれは。

 僕は心の中で突っ込みを入れる。

 温泉娘流って……僕が知ってる温泉旅館の娘とこの町のそれは少々違いがあるようだ。


「ええ、貴方が去年、一年間受験勉強している間に習得しました。当然ですよね、『あさま荘』の娘ですから。『あさま荘』は日本一です」

「ぐぬぬ……地味に『あさま荘』を推してくるのがむかつくのです!!」


 ポケットから取り出した黄色いハンカチを咥え悔しがる。

 その姿を澄はさらに鼻で笑った。


「二度目になりますが、お集りのお客様方。私たち本当の『温泉部』は甘味処を開きます。美味しいお茶とお饅頭を沢山用意しております。お店では部員一同仲居服で、誠心誠意おもてなしいたします故、どうぞお気軽に足を運んでいただければと思います」


『温泉部』の宣伝を終えると、澄は綺麗なお辞儀で話を結ぶ。

 僕と昌平、それに兎莉もそれに続いて頭を下げた。

 ギャラリーからは先程の『温泉研究部』に負けない拍手と声援に包まれる。

 あまり、人に拍手を送られるという状況は体験したこと無いけど、結構恥ずかしいな。

 お辞儀をして地面を見ながら、少々こそばゆい感覚が続いた。


「お互い紹介も終わって、ついに勝負なのです! 浅間澄! いや、偽温泉部!! どっちが本当の温泉部なのかはっきりさせてやるのです~!」

「本物が偽物に負ける道理などありません。さあ、行きましょう。開店の準備です!」


 黒く透き通る髪をたなびかせ、澄はクルリと踵を返す。

 僕は『温泉部』の面々を見回す。

 昌平も澄も、意外なことに兎莉までも表情から自信が溢れている。

 かく言う僕も、負ける気がしなかった。

 文化祭のために一ヵ月以上の準備をしてきた。

 今日に至る過程が、僕の背中を強く支えている。

 さあ、勝負の始まりだ!


 *


 タンッタンッタンッ……

 軽快なリズムのスキップが紅葉色の髪を揺らす。

 文化祭が開始して三十分。

 時刻は九時半を迎えていた。

 この高校の文化祭は学校内開示と一般開示で時間の開きがある。

 学校内の生徒だけによる文化祭が九時にスタートし、その一時間後の十時に一般客が校舎内に入れるようになるのだ。

 この九時から十時までの時間を生徒たちは自分たちだけで楽しむ『学内祭』と呼ぶ。

 学内祭は生徒たちだけで楽しむために設けられているということも勿論あるが、まず生徒で自分たちの出し物に不備が無いかと言う確認をするための面も持ち合わせており、生徒会ではこの時間を『最終準備時間』と呼んでいた。

 この最終準備時間に不測の事態が起きて出し物が中止になるクラス、部、その他団体もわずかではあるがいる。

 リズムを刻む足を止め、てくてくと歩く。

 見回り中の生徒会役員――辻綾菜は危険の匂いを感じ取った。

 本校舎である東館二階、階段を上って一番奥にある日当たりの良い教室で悲鳴が聞こえる。

 あくまで、校舎内。

 走ることなく、早歩きですぐさま現場に向かう。


「何かあった~!? 怪我とかしてない~?」


 いつもの緩い感じで問いかける。

 緩い口調とは裏腹に、目は教室内を見渡し状況の把握に努めていた。

 綾菜が見たところ怪我人は居ないように思われた。


「生徒会長。怪我してる人は居ないんですけど……」


 窓際に集まる生徒たちの一人が前に出て、窓ガラスの方を指さした。

 ちょっとごめんねと集まる人をかき分ける。

 見ると教室後ろのドアのガラスが割れていた。

 鉄のワイヤー入った、網入りガラスだったためガラスの破片はそこまで酷くはない。


「出し物のホバークラフトがガラスにぶつかってしまって……中止になってしまうんでしょうか?」


 綾菜に問う、二年生の女子は今にも泣きだしそうな表情だった。

 生徒会長は神妙な面持ちでしばらく考える。

 ふと綾菜がホバークラフトを見ると、それはバッテリータイプのものであった。

 電気の供給を直接コンセントから行うものではない。


「中止……中止か……。このホバークラフトって充電すれば外でも使える~?」

「え、ええ……。使えなくはないと思います!」

「なら決定~! 丁度、硬式テニス部のコートが空いてるからさ! そこでホバークラフトやりなよ~! 今日は天気も良いし、外の方が絶対気持ちいいよ!」


 口から出まかせで言っているのではない。

 今日行われるすべての出し物とその場所、また使われていない場所をすべて記憶し、そのデータがある上で考えられた結論がこれだったのだ。

 毎年、硬式テニス部のコートは文化祭に参加しない不良たちが勝手にテニスを始めてしまうのが問題となっていた。

 全てのピースが上手くはまる。


「良いんですか……! でも、テニス部のコートですし許可とか……」


 一瞬表情に日が差したが、そんな勝手なことをしていいのかと女子生徒の声が小さくなる。

 自信を失いかけた生徒を綾菜はいつもの太陽のような笑顔で、わははと笑い飛ばす。


「何言ってるのさ! 私は生徒会長だよ。そもそも許可を出すのは私だから!」


 そう言って、腰に下げた鞄の中から一枚の書類とペンを出す。

 借りるね、とクラスの隅にあった机の上で書類をすらすらと書いていった。


「一応、決まりだからやらせてね! コホン! 生徒会はあなた達のクラスがテニスコートを使うことを許可します」


 前に出ていた女子生徒をまっすぐに見つめ、わざとっぽく、演技がかった口調でそう言う。

 そうして、先程書いた書類を手渡した。

「ありがとうございます!」と何度も頭を下げる生徒たちを尻目に綾菜は次の場所へと移動しようと歩き出す。


「それじゃ、ガラスの後かたずけとホバークラフトの移動とか大変だろうけど、役割分担してやるんだよ~!」


 最後の任期となる今年の文化祭では一つの出し物も中止にさせない。

 それが、綾菜の密かな目標になっていた。

 次の問題が起きないように綾菜は校内のパトロールを継続した。


 *


「饅頭二つにクリーム饅頭が一つですね。ありがとうございます!」


 僕は深く頭を下げる。

 そろそろ学内祭が終了して、一般客が入ってくる時間が迫ろうとする中、僕たち『温泉部』のお店は未だに客足が途切れずにいた。

 数えたわけでは無いけど、多分もうお饅頭五十個以上は売れてるんじゃないかな。

 昨日、四人で協力して作ったものが目の前で売れているのを見ると我が子を世に送り出す気持ちと言うかなんというか……兎に角、嬉しかった。

 教室でお店を開くに当たり、準備として教室を大体1:3に区切った。

 1/4の方はお饅頭を置いたり、お茶を作るための準備室になっていて、残りの3/4にはお客さんが座ってお饅頭を食べるために場所となっている。

 僕は注文のお饅頭を取りにいくため準備室の暖簾をヒラリとくぐる。

 中に入ると兎莉がいて、ちょうど兎莉も饅頭を取りに来ているところだった。


「あっ……颯太くんもお饅頭取りに来たの?」

「そうだよ。普通の二個とクリーム一個取ってもらっても良い?」

「……うん。分かった」


 そう言うと、兎莉はすぐに準備室の隅にある茶色い箱からお饅頭を慣れた手つきで取り出す。

 あの箱運ぶの大変だったな……

 朝、昌平と僕とで箱を運んだんだけど、それはもう大変だった。

 箱を台車に積んで学校まで運ぶのは、肉体的にはそこまで大変じゃない。

 だけど『あさま荘』から学校までの道のりはほとんど舗装されていなくて、箱が台車から何度もこぼれそうになるから、すごく慎重になって精神的にきついものがあった。

 兎莉は饅頭を渡そうと一歩踏み出した瞬間、仲居服の裾を踏んでしまった。

 バランスを崩した兎莉は手に持った饅頭を宙に放り投げてしまう。


「……っ! 危ない!」


 昨日の苦労して饅頭を作った記憶が走馬灯のように駆け巡る。

 僕はとっさに宙に浮いた饅頭を目でとらえ、自然と体が動いた。

 一つ、二つ…………三つ!

 全ての饅頭を右手に二つ左手に一つ掴んだ。

 一先ず安心したが、饅頭を投げてしまった本人が躓いた勢いで僕の胸に飛び込んできた。

 不意に甘い香りが鼻を撫でる。

 勢いのついたタックルをくらったような感じになり、僕も体制を崩してしまう。


「いてて……おい! 兎莉大丈夫か……って!?」


 横になりながら、目の前の光景に混乱した。

 まさに、兎莉が僕のことを押し倒したような状況になっていて、誰かに見られたら間違いなく誤解されてしまうだろう。

 お腹のあたりに柔らかい、ふわふわした何かが当たっている。

 何かの正体は分かってはいるが、考えないことにした。

 兎莉は見た目に寄らず結構大きい……っていけない!

 変に意識すると、僕のあれが……


「…………っ!? ごめん……ね? 颯太くん…………」


 兎莉の顔が一瞬で茹で上がる。

 今にも消えてしまいそうなか弱い声で言う兎莉はかなり恥ずかしそうだ。

 潤んだ目で僕を見つめ、目と目が合うのを避けて僕のお腹に顔を埋めた。

 そんなことしたら余計恥ずかしいだろと突っ込みたい。しかし僕にもそんな余裕はなかった。

 たぶん僕が何とかしないと兎莉はこのまま顔を埋めたままでいる可能性が高い。

 兎莉が落としたお盆の上にキャッチした饅頭をひとまず置く。

 僕は兎莉の肩を優しく抱き上げてそのまま立ち上がった。


「ほら、兎莉! 大丈夫だから。ちょっと落ち着いて」

「…………ふぅ。こういうの……初めてだったから……ちょっと混乱しちゃったけど……………………落ち着いた……かも。ありがとう、颯太くん」


 大きく深呼吸をした兎莉は冷静さを取り戻し、足を少しガクつかせながらも一人で立った。

 立ち上がった今もまだ目を合わしてはくれない。

 視線は下を向いてしまっている。

 なおさら僕のムスコもなんとか耐えきったようで本当に良かったと思う。

 冷静になった僕たちはなんとなく気まずい空気を感じながらも精一杯それを押し殺し、何事もなかったように仕事に戻ることにした。

 引き続き、配膳を続けて少し経つと僕は準備室に居た澄から手招きされる。

 来いと言うことだろう。


「何だ、澄?」

「颯太さん、少しお話が……」


 そうして澄は僕の耳元に唇を寄せる。

 軽く息がかかってくすぐったかった。

 他の人には聞こえないような小さな声で囁く。


「お饅頭の売れ行きが思った以上に良すぎます。このままではすぐに在庫が無くなってしまうかもしれません……いえ、無くなります」

「本当か……確かに売れ行きが良いなとは思ってたけど、まさかそこまでだったか」


 僕も小さく返す。

 売れすぎて困るという贅沢な話ではあるが、困るものは困る。

 せっかく学校の正門から遠い西館――それも三階まで来てくれたのにお茶しか出せないなんてことがあったら大変だ。


「なので、兎莉さんには調理室で追加のお饅頭を作ってもらうことになっています。人手が足りなくなるでしょうから、客引きお猿さんもお店に戻るよう言ってあります」

「なるほどね」

「と言うわけで、颯太さん女装してください」

「おう。…………!?」


 と言うわけでという前置きの意味が迷子になりつつある中、僕の頭の混乱は最高潮を迎えた。

 突然何を言い出すんだ、この温泉娘は。


「これにはちゃんとした理由があるのです」

「…………一応聞いておこう」

「兎莉さんがいなくなった後、私と颯太さんと昌平さんでお店を回しますね」

「おう」

「そうなった時、男二人に女一人になります」

「そうだね」

「接客業なわけですから、女の子増やした方が良くないですか?」

「……そんな軽い理由で女装を頼んだの!?」


 思わず、耳元で叫んでしまった。

 澄もたまにこういう冗談言うんだよな。

 いつもボケない人がボケた時のツッコミのし辛さを分かって欲しいものだ。


「軽い理由ではありません。私は本気です」


 冗談でもボケでもなかった。


「颯太さん。『温泉部』の勝利のためです。一肌、いや一枚制服を脱いではくれませんか?」

「と言ってもな……女装の道具なんて持ってないから……」

「道具はあります」


 何とか女装を渋ろうと思ったが、澄は光の速さで僕の退路を塞ぐ。

 仲居服の袖から黒色長髪のウィッグが現れる。

 用意周到すぎだろ……

 何故持っているのかとかの軽い疑問が頭を回って、もしかしたら初めから僕に女装させるつもりだったのではないかと変な憶測が生まれる。

 そうだとしたら尚更女装なんてしたくない。まだ粘れるはずだ。


「でも、僕ムダ毛の処理とかしてないし……」

「仲居の服は長袖なので素肌は見えませんよ。全く問題ないです」

「でも、胸とかないと女装した時不自然じゃないか? 胸の詰め物とか……」

「それは私に言ってるんですか? 怒りますよ」


 まずい、地雷をふんでしまった。

 澄の体から紫のオーラが出ているように感じた。

 背後に般若の面が現れる。

 逃れられぬ運命を前にして心の中の僕は膝をついた。


「いや、違う! ……女装の役引き受けるよ! いやー楽しみだ!」

「そう……ですか。なんだか上手く誤魔化されてしまいましたが今日の所は不問にしておきましょう」


 話が一段落ついたところで、僕は小さくため息を吐く。

 澄は怒ると怖そうだな……

 澄のお婆ちゃんがそうだったし、その血を引いているのかもしれない。

 こうして、僕は泣く泣く女装することになった。

 女性用の仲居服は予備を持ってきていないようなので、兎莉が着ていたのを使いまわす。

 こげ茶色の仲居服だ。

 先程まで兎莉が着ていたからか、ほんのりと兎莉の匂いがするように感じた。

 準備室での出来事が脳裏によぎる。

 …………あまり、考えないようにしよう。

 恥ずかしいし。

 意外なことに仲居服は着るのが難しく、澄に手伝って貰いながら着ていく。

 澄はやはり慣れているようで、てきぱきと着付けをしてくれた。

 慣れてるな、と聞くと「当たり前です。『あさま荘』の娘ですから。」と返され、僕の中の温泉娘の概念が再び更新されることとなった。

 着付けはすぐに終わり、次はメイクに入った。

 澄は袖の中から次々と化粧品を取り出す。

 色々な種類があるみたいだけど、僕は化粧とかしないので違いが良く分からない。

 澄に目を閉じるように促され、僕は目を閉じると、ふわふわした何かが顔に押し当てられていく。

 ふわふわと言えばさっきの兎莉の件もあって、良からぬことを想像してしまいそうだけど今メイクをしているのは澄だからそんなことを考える余地など存在しないな。

 おっと、こんな事考えてるって澄が知ったらまた怒られる。

『あさま荘』の娘なら僕の思考を読むことだってできるかもしれない。

 残念なことに、どう転んでも僕の考えていることは『良からぬこと』になってしまうみたいだ。

 そして、二、三分の後……


「颯太さん、終わりましたよ。どうぞ、鑑です」

「ありがとう、澄」


 澄は袖から小さな手鏡を取り出す。

 その袖は四次元ポケットか何かなのか?

 そんな疑問は置いておいて、手渡された手鏡で自分の姿を映し出す。


「これが……僕?」


 鑑を見て驚愕した。

 そこに映っていたのは毎朝歯磨きの時に見る僕の顔ではなく、整った顔立ちをした美形な女性だった。

 眉毛は細く、頬がほんのりと桃に色づいている。

 目を疑いたくなるが、恐らくこの女性は……僕だ。

 メイクで女性は変わると言うが、男性でもここまで変わるものなのか。

 全く別人じゃないか。

 自分で見ても、自分だと分からないほど完成度の高い女装を見た僕はこれから待っている『女装での接客』に少し自信が湧いてきた。


「澄、メイク上手だったんだな。澄ってメイクいつもしてないような印象だったから、こういうのは苦手かと思ってた」

「あら、颯太さん。いつも私がメイクしていないことをいつからお気づきで?」

「いつからって言われても分からないな。中学の卒業式とかはメイクしてたと思うけど、そういう重要な会以外は基本メイクしてないだろ。いつも見てるんだから見たらわかる」

「いつも見てるだなんて、まさか颯太さんは私のストーカーか何かなのですか?」

「違う、断固違う」


 澄は、ふふふと笑う。

 別に本気でストーカーだなんて思ってはいないだろう。

 澄はこういう冗談が結構好きだったりするのだ。

 僕は、ふと先程渡された手鏡を見てある違和感に気付いた。


「なあ、澄。今の僕って、見た目と声が全然あってなくないか?」

「……そこに気付きましたか。教えなかったら中々面白いことになるかと思っていたのですが」

「いや、教えてくれよ!?」


 僕は準備室から声が漏れない程度の声で叫んだ。

 勿論これも冗談……と言うことにしておこう。

 精神衛生上そうした方が良いしね。


「そう言わずに。それについては、考えがあります」

「考えって……?」

「簡単なことです。話さなければいいのですよ。これで万事解決です」

「喋らないって、それで接客できるのかよ!?」

「大丈夫です。接客の基本は心です。喋らずとも笑顔だけで、これから表で働くお猿さんより良い接客が出来るでしょう。それに、颯太さんはもともと声がそこまで低くないですし、最悪声を作って小声で話すぐらいでしたらばれないかもしれません。これなら大丈夫でしょう?」


 昌平、お前どんだけ信用されてないんだ。

 心の中で親友を気遣うが、確かに昌平がちゃんと仕事をする姿が想像できなかった。

 ごめん昌平。

 兎に角、接客の方針が決まった。

 試しに声を作って返答する。


「…………分かった。やってみる」

「なかなか、良いじゃないですか。そのぐらいの声だったらばれませんよ」


 澄からのお墨付きをもらい俄然やる気になる。

 昌平びっくりするだろうなと内心そのことを想像して笑う。


「では行きましょう。颯太さん、いえ……」


 澄が含みを込めた言い方を珍しくする。

 綾菜先輩がこういう言い回しをするときは大抵何かあるんだけど……

 澄が突然僕の懐に入り胸の所に何かを付ける。

 名札だ。

 澄の綺麗な字……ではなくピンク色さらには可愛いフォントで『楓』と書かれている。


「楓さん。今からあなたは楓です」

「え?ちょっと待って……」


 たぶん颯太の『颯』に似ている漢字を取って『楓』にしたんだと思うが、僕はこれを名乗るのか!?

 手を伸ばし引き留めようとするが、そこにはもう澄はいない。

 僕の抵抗が澄に届くことなく、準備室のカーテンが開かれた。

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