第7話 文化祭前日 その2


 文化祭前日。浅間澄は西棟二階での温泉研究部いびりを中断し、体育館裏へと来ていた。彼女には絶対に外せない用事があった。


「……ということなんです、辻先輩」


 白結第一の生徒会長であり温泉部部長──辻綾菜に用件を伝えると、浅間澄は彼女の顔を伺う。辻綾菜は少し困ったような顔を見せた後、すぐに表情をコロッと変える。


「そうか~私は行けないや! こっちはこっちで色々準備があるのだ~!!」

「そう、ですか……」


 顔を下げ、沈黙する。浅間澄は四月の頭、ライバルの『秋風』に乗せられて温泉部を巻き込んだ勝負に至ってしまたことを今でも悔やんでいた。『秋風』との勝負を受けなければ、きっと今頃、辻綾菜を含めた『完全な温泉部』として文化祭を楽しむことが出来たのかもしれない。文化祭の準備に勤しむ中、常にそのことが彼女の頭の片隅にあった。

 彼女の心境を見透かしたように、辻綾菜は優しい口調で告げる。


「私は今すっごく楽しいよ」

「えっ……」

「少し心残りなことが今日できたけど、後悔してない。私は私なりの考えを持って今ここにいるんだ。楽しくないわけがない。すみすみは何も心配しないで良いよ」


 いつもと打って変わった声音に若干の困惑を感じたが、話の内容をしっかりと受け止め浅間澄は前を向いた。


「ありがとうございます、辻先輩。先輩の方も頑張ってください」

「勿論さ! お互い頑張ろ~!」


 一礼すると浅間澄はクルリと踵を返し、辻綾菜はその背中に手を振った。

 体育館の中では未だ演劇の練習が続いている。辻綾菜は行かなければならない。彼女は演劇の……いや文化祭の主役なのだから。辻綾菜は持ち場へ戻る道すがら一人頬を緩ませた。


 *


 先輩に別れを告げた後、僕たちは一旦家に帰って宿泊の準備をすることになった。澄の家は旅館だから館内着とかは用意があると言っていたけど、流石にパンツやシャツの下着類は用意できないみたいだった。

 昌平は僕たちと家の方向が逆なので遅れるかもしれないと前置きしながら、ものすごい勢いで帰っていったので遅れるどころか、僕より早くあさま荘に付きそうな予感がしてる。

 寧ろ、走りすぎて汗だくになって饅頭作れないなんてなることの方が心配だな。

 あさま荘は温泉旅館だし、汗とかはすぐに流せるからそこら辺は大丈夫か。

 スクールバッグの中身をパンツとシャツに入れ替えて準備は完了だ。支度を終えて家を出ると、門の前で兎莉がキャリーバッグに手をかけて待っていた。


「ごめん兎莉。待った?」

「ううん……待ってないよ?」


 何かデートの待ち合わせみたいなセリフだ、と思った。たぶん普通なら「待ってないよ」を言うのは男の方だろうけど。

 僕らは『あさま荘』の方角へと歩き出す。ここら辺の道は舗装されていない砂利道なので、兎莉のキャリーバッグがガラガラと大きな音を立てる。


「バッグ交換する?」

「あっ……うん。お願いしてもいい?」


 兎莉からキャリーバッグを預かって、取っ手部分を掴み持ち上げる。服だけかと思って油断していたが、案外ずっしりとしていた。まあ女の子は色々用意が必要だったりするんだろう。


「それにしても兎莉、随分速かったね。女の子ってこういう準備とかって結構時間かかるものだと思ってた」

「………………。あはは……着替え持ってくるだけなんだから……男の子も女の子も関係ないと思うよ?」

「それもそっか」


 兎莉はいつものように自信なく微笑を浮かべた。

 その後、高級旅館に泊まれるなんて楽しみだとか、昌平は家が逆方向だし遅れないだろうかとか、たわいもない話が続く。

 そうこうしているうちに『あさま荘』が見えてきた。旅館の入口の前に見慣れた金髪メガネが方で息をしながら立っているのを発見した。遅刻どころか僕らより早いだなんて昌平の脚力はどうなってるんだ。


「ぜぇ……颯太……はぁ……遅い……ぜぇ……な……はぁ……!」

「聞き取りにくいから単語ごとに『ぜぇ』とか『はぁ』とか入れないでくれる!?」

「ぜぇ……全力で……はぁ……走った……ぜぇ……から……はぁ……! 無理な相談だ……ぜぇ!」

「最後の『ぜぇ』はどっちの『ぜぇ』……?」


 昌平は汗を拭いいい笑顔でサムズアップ。いや、どっちなんだ。あさま荘の外で騒がしくしていると、ガラガラと戸が開き澄が現れた。


「皆さん、速いですね。準備はできています。厨房までお願いします」

「了解」

「おじゃましま~す!!」

「ちょっと、昌平さん? あなたは汚いので厨房の前にお風呂に入ってきてもらってよろしいでしょうか?」

「…………汗かいて丁度風呂に入りたかったんだぜぇ! 流石温泉旅館の娘だぜぇ! 気が利くぜぇ……」


 精一杯の笑顔とリフレーミングで澄の言葉を受け入れ、昌平は一人浴場へと向かう。尻窄みの『ぜぇ』と彼の背中に哀愁が漂っていた。

 汗だくの昌平は置いておいて、僕らは当初の予定通り厨房に向かった。


 厨房に入るのは久しぶりだ。最近はもっぱら放課後は小麦おじさんの仕事の手伝いと綾菜先輩の練習に付き合ってばかりだった。澄のお婆ちゃんと接することに慣れてきたとはいえ、久しぶりなのでちょっと怖くなってきた。

 およそ一週間前までは何かにつけて僕と昌平は怒られていた。また怒鳴られるんだろうな……だけど。ここ気を落としていても仕方がない。意を決して、僕は厨房の扉を開けた。


「失礼します! …………誰もいない?」

「はい。今日はお婆様は来ませんよ」

「そう……そうなのか……」


 途端に肩の力が抜ける。厨房に入ったと同時に怒られるのを覚悟していたから全身が強張っていた。昌平はここにはいないけど、いたらきっと昌平も脱力を極めてスライムのように溶けていたことだろう。


「ちょっと緊張して損したよ」

「お婆様もお饅頭作りに参加するかどうか覗ったのですが『自分たちの文化祭なのだから最後は自分たちでやりなさい』とのことです」


 なる程、澄のお婆ちゃんらしい。僕たち『温泉部』と秋風風子率いる『温泉研究部』の対決は、『あさま荘』対『秋風』と言う古くからの対立がもととなって起きたから澄のお婆ちゃんも協力してくれていたわけだけど……あくまで文化祭は学生たちのお祭りごとだ。大人が介入すぎるとそれはもう学生のお祭りではなくなってしまう。澄のお婆ちゃんは、綾菜先輩同様そのことが分かっていて、通すべき筋を通している。素直にカッコいいと思った。

 準備ができたところでパチンと澄が手を叩く。僕と兎莉の視線が一点に集まった。


「さあ、皆さん。お饅頭を作り始めましょう。一先ず、生地を作るところまで。昌平さんがお風呂から上がるまでに仕上げてしまいましょう」


            *


 しばらくして昌平が風呂から帰ってきた。既に着替えは終えており、ピチッと皺のない作業着がよく似合っていた。急いで準備したのか、昌平の身体からは薄らと湯気が立っていた。扉を開けるなり、キリリとした表情で頭を下げた。


「今日もよろしくお願いしゃす!!!! お手柔らかにお願いしゃす!」


 ハキハキと良く通る声でそう言うと、昌平は面を上げて厨房内を見渡した。そして、次の瞬間スライムの様にとろけた身体で水道にもたれかかった。


「婆ちゃん今日いないのかぁ〜! 先に言ってくれよな、澄!」


 昌平は悪態をつきながらも、流れるように手を洗い作業着の帯を結び直す。およそ二ヶ月の修行の末、昌平の所作に迷いがなくなっていた。


「それで、今何してんの? 俺は何したらいい?」

「現在一回目の生地作りを終えたところです。この後、一回目の生地を寝かしている間に二回目の生地を作り、二回目の生地を寝かしている間に一回目の生地を饅頭にして……」


 澄が淡々と説明をしていると、昌平が目線をあちらこちらへと泳がせ、ついには目を回してしまった。澄の説明が下手というわけではないと思うけど、こういう作業工程みたいなものは口で説明しても上手く伝わり辛いのかもしれない。饅頭は生地を作る→寝かす→整形するの三つの手順で作られていて、澄の説明をすごくシンプルに言い換えてしまえば「生地を寝かしている間に他の作業を進めましょう」ということだ。

 説明を聞き終わったところで昌平はポンと手を叩く。


「…………分かんねえから、やること言ってくれ! 何でもすっから!」

「思考停止!?」

「では昌平さん、居間に行ってお婆様の相手をしてきてください。きっと暇してると思うので」

「それは勘弁してくれ……」


 再びスライムになりかける昌平の肩を持ち、彼の身体を支える。こんな調子だけど、昌平はやるべきことはちゃんとやってくれる。頼りになるやつだってことは皆分かっているのだ。


「冗談はさておき、昌平さん。早速手伝ってください」

「よし来た!!」

「……二回目の生地作り……だね?」


 昌平が腕まくりをして気合を入れる。以前よりも筋肉質な腕が姿を現した。饅頭特訓を通して昌平の筋肉はさらに磨きがかかったようだ。肩を組んでみると昌平の身体つきがガッチリしているのが分かった。

 兎莉の一声を皮切りに、僕たちは再び饅頭の生地を作り始めるのだった。



「颯太さん。小麦粉の袋をとっていただけますか? 昌平さんも手伝いなさい」

「おう! もっと命令口調でもいいぜ!」

「お婆さまに」

「誠に申し訳ありませんでした」


 僕らは厨房の隅に置いてある大きな袋を持ち上げる。小麦粉というとスーパーで売っている手に収まるサイズを想像すると思うけど、僕たちが運んでいるのは腰の辺りまでのサイズがある大きなもの。市販されているものではなくて、小麦おじさんに貰ったものだ。

 中身は随分と上等なものらしく、貰ったときに澄が一人で興奮していた。僕は小麦粉に等級があることすら知らなかったのでイマイチ乗り切れなかった。良いものだというけど、実際に買ったらどれくらいの値段になってしまうのだろうか? 澄に聞いてみるのも悪くないけど、お手伝いの時給が最低賃金を上回る可能性を残したまま、その質問はそっと胸の奥にしまった。

 お金のことで思い出した。小麦の値段とは別に、少し気になることがあったのだ。小麦の袋を運びながら澄に問いかける。


「澄? そういえば、『秋風』と売上勝負をするって話だけど、文化祭の売上ってどういう計算になっているんだっけ?」

「あ! 俺もそれ気になるぜ〜! 教えてくれよ!」


 昌平も相槌をうつ。


「あら、まさか颯太さんからそんな質問が出ますとは。案外抜けている部分もあるんですね?」

「俺は、意外じゃないのか!?」

「はい。まず、私たちの高校では文化祭で出し物を行う、クラス、部活には学校から予算が出ます。大体小さい部活では五千円、大きい部活やクラスでは一万円の予算が出ますね」

「ということは、僕たち温泉部は五千円のお金を貰っていることになるの?」


 温泉部は部員合計五人の部活だ。お世辞にも大きい部活とは言えないだろう。予想通り、澄は首を縦に振った。


「そうなりますね。その貰った予算を使って文化祭の準備をし、文化祭で得たお金でその貰った予算を学校に返済します。そうして手元に残ったお金を今回の勝負で言うところの『売上』となります。因みに、光熱費は考えなくて良いそうです。好きなだけ、学校の調理室を使っても良いと生徒会長に確認を取りました」


 なるほど。案外計算簡単だったみたいだ。安く材料整えて、沢山売る。シンプルで分かりやすい……と思ったけど、隣の昌平の頭はパニック状態になってるようだ。確かに『売上』と言いつつも澄の言っているそれは『利益』だから一瞬混乱するのは仕方ない、と思ったけど昌平はそこまで考えてなさそう。


「とにかく、お饅頭を売って貰ったお金から、諸々の経費と貰った五千円を引き算したのが僕らの売上ということになるんだね」

「はい、その通りです」

「学校に返す分以上は売らないとまず勝負の土台に立てないから、饅頭一個百円で売るとして原価は……」

「あら、颯太さん。計算が間違ってますよ?」


 澄は首を傾げる。何か間違ったことでも言っただろうかと発言を振り返るが、どうにもわからない。


「え、どうして?」

「だって、私たち温泉部はまだ一円たりとも学校から貰った予算に手を付けていませんもの」


 ドヤ顔とはこのことを言うのだろう。澄が鼻を高くして決め顔でそう言った。

 予算を全く使ってないってどういうこと? 小麦にお金がかかってないのは知ってたけど、流石にここまで一円も手をつけていないなんてことはないだろう。


「そうなの? さっきまでやってた教室の装飾は?」

「去年の先輩方のおさがりです」

「そ、そうなんだ。じゃ、じゃあ、饅頭に入れる餡子は?」

「あさま荘の裏には畑がありましたね」

「……クリーム饅頭に使う生クリームは?」

「そういえば、そこでパニック状態になっている男の家は酪農を営んでいましたね」

「…………」


 澄がわざとらしく演じて言う。これっていいのかな……

 僕は不正ギリギリなのではないかと思われる『温泉部』の所業に目を細めた。田舎って怖い。普通に自分の家が畑持ってたり、牛飼ってたりするんだからな……僕の家は小さな畑があるくらいだから忘れていた。


「つまり、お金のことはどれだけお饅頭を売れたかだけ考えていれば問題ないです。颯太さん、考えるよりまず行動ですよ」

「……あぁ! ごめん。小麦の袋早く運ぶよ」


 僕は澄にせかされ急ぎ足になる。小麦の袋を運び開封した。

 さて、二回目の生地作りだ。今回は昌平参加しているため、少しは効率よく作業が進むだろう。澄の合図を皮切りに、僕たちは一斉に生地を作り始めた。


 *


「皆お疲れ~! これでひとまず、文化祭前の練習はおしまい!」

「ウェーイ!!」


 三年A組教室の中心に立つ紅葉髪の少女が終わりを告げると、教室内にゆるりとした空気が漂う。日はもう落ちていた。一日がかりの準備を終えた彼らは、まだ本番を迎えたわけでもないというのに既に達成感のようなものを得ていた。

 物品の点検、ステージのセッティング、演技の確認。普段の学校生活では決してしない、一年に一度のお祭りに向けての特別な準備だ。慣れない力仕事は体力を使い、疲れが達成感へと変わっていた。

 紅葉色の髪の少女も同じように疲れを感じている――そんなわけは無い。彼女は普段から先生に頼まれては机運びの仕事を買って出たり、放課後遅くまで残って熱心に演技の練習に励んだりと、こういうことには人一倍慣れていた。


「それじゃあ、綾菜ちゃんまた明日ね!」

「じゃあな生徒会長!」

「おうともさ! 寝坊なんかするんじゃあないぞ諸君! 何てね! わはは~!」


 クラスの人たちを一通り見送ると、生徒会長であり三年A組の学級代表であり温泉部部長の辻綾菜は支度を始めた。帰宅の支度などでは無い。これからの自主練習のための支度だ。

 誰より頑張り、頑張ることが好きで苦にならない──努力の才能に恵まれれた彼女は文化祭前日というシチュエーションに燃えないわけが無かった。


「…………はぁ……」


 長く、大きいため息をつく。誰もいない教室でこんなことをするのは、何故なのか綾菜は自分で自分の行動が分からなかった。

 唯一つ分かるとすれば


「……今日は颯たん居ないんだよね…………」


 その事実だけが彼女の頭の中を駆け巡っていた。


 *


 黙々と饅頭を作り続け七時を迎えた。時計の長針が上を向いたところで、誰かのお腹が鳴った。

 

「…………私」


 兎莉は控えめに手を上げる。俯きながら顔を赤くした。きっかけは兎莉だったけど、数分前から僕らの中にはソワソワとした空気が漂っていた。


「そろそろご飯にしましょうか。皆さん」

「それが良いな。僕もお腹空いた」

「俺も俺も~!!」


 生地に餡子を詰めるのを止めて僕たちは、一旦夜ご飯にすることにした。

 手を洗い、生地にラップをかけ片付けを終え、厨房を出ようと手を掛けた瞬間──扉はひとりでにガラガラと音を立て開く。

 まるで話を聞いていたのではないかと思うほど良いタイミングで澄のお婆ちゃんが現れた。途端に厨房に緊張感が走る。僕と昌平はピンと背筋を伸ばして直立した。


「あんた達、夜ご飯は食べなくていいのかい? 丁度料理が出来てるから部屋まで来なさい」


 お婆ちゃんは少し仏頂面でそう言った。

 僕と昌平は互いに見合わせ、胸を撫で下ろした。第一声から怒号が飛んできてもおかしくないと踏んでいたんだけど、およそ一週間ぶりのお婆ちゃんは想像よりも優しかった。もしかすると、一回距離を取ることで『澄のお婆ちゃんは怖い』という先入観が少し薄らいだのかもしれない。

 しかしながら、少し機嫌が悪く見えるのは気のせいだろうか。


「あ、ありがとうございます!」


 きちんと頭を下げて、僕らは頭を下げた。お婆ちゃんに着いて行くと、旅館の一角にある部屋へとついた。普段お客さんを泊めるための部屋のようだが……僕たちが入ってもいいのだろうか?

 澄を見ると少し首を傾げていた。


「さあお入り! 食事は中にあるからね」

「……お婆様? ここの部屋は予約が入ってたと思われるのですが?」

「ああそうだったね……」


 澄は僕とは違う疑問を持っていたようだ。文化祭の準備もしながら旅館の予約まで暗記しているだなんて、流石『あさま荘』の娘と言ったところだろうか。


「澄、良くそこまで覚えてるね」

「いえ、全部覚えてるわけではありません。毎年この時期に予約を入れてくださる方がいまして、それだから覚えていたのです」

「あの人はかれこれ十年はあさま荘に通ってくれてるねえ」


 澄のお婆ちゃんがうんうんと頷く。

 その後、何か嫌な間をあけてお婆ちゃんは額に青筋を立てて怒り出した。


「今年も来る予定だったんだけど、突然! それも今さっき! 来れないと言い出しおって! 夜には顔を出すとか言ってたけど、全く無礼なやつだねえ!」


 お婆ちゃんの気迫はまるで暴風のように僕らを襲う。自分たちが怒られているわけでは無いと分かってはいるけど、どうしても身がすくんでしまった。昌平なんて涙目だ。さっきお婆ちゃんの機嫌が悪そうだった理由が分かった。


「そういうことだから、料理は食べてしまっていいよ。食べ終わったら、流しまで持ってきておくれ」


 そう告げると、お婆ちゃんは部屋を出て行ってしまった。お婆ちゃんが出て行ったのを見計らって、兎莉は放心状態の昌平の肩を揺すり現実世界に引き戻した。澄は表情を曇らせて、ため息をついた。


「……お婆様はあの方のことが嫌いなわけでは無いのです。寧ろ気に入っているぐらいです」

「そうなの? それにしては本気で怒っているように見えたけど……」

「実際、本気で怒っていましたよ。しかし颯太さん?」

「……ん?」

「お婆様が本気で怒れるのは、相手が他人ではないからです。そのことは承知しておいてください」


 他人じゃないから怒る……か。僕たちはお婆ちゃんに結構怒られていたわけだけど、裏を返せばそれは僕たちのことを他人では無いと思ってくれてた証なのかもしれない。昌平なんてダントツで怒られる頻度が高かったから特にお婆ちゃんのお気に入りなのかもな、と昌平に言おうと思ったがまた放心状態になってしまいそうなのでやめた。


「お料理が冷めてしまいます。早めに頂ましょうか」

「そうだな。僕もお腹すきすぎて早く食べたい」

「……私も」


 兎莉は苦笑いを浮かべながらそう言って席に着いた。僕も兎莉の隣に座る。座敷なので正座だ。

 卓の上にはたくさんの料理が並べられていた。真ん中には里芋の煮物と小豆の水煮。そして一人に一つずつ、小鉢にお麩の辛子の和え物、ねぎの粕汁が用意されていた。

 どのおかずも視覚的にも嗅覚的にも既に美味しいのがわかるし、輝く米はおかずが無くても美味しそうだ。ただ、高級旅館の割に地味な夕食だなと思った。


「「「「いただきます!」」」」


 皆で同じように箸を持って合掌。何を食べようかと迷っていたところ、隣に座る兎莉が声をかけてきた。


「……颯太くん。煮物食べる?」

「うん。お願いしてもいい?」


 すると兎莉は僕の取り皿をさらっと取っていき、お皿に煮物をよそっていく。左手で皿を持ちよそっていく様はさながら旅館の女将みたいで……とても綺麗だった。もしかすると兎莉は温泉旅館の仕事とかに向いているのかもしれない。


「……はい。どうぞ、颯太くん」

「ありがと、兎莉」


 渡された皿を受け取る。豪華じゃないとはいえ、空腹の今、何の変哲もない煮物は一番のご馳走に見えた。里芋、レンコン、鶏肉、ぜんまい、ニンジン……実を言うと、僕はニンジンがあまり好きではない。土っぽい臭さとかがどうしても好きになれないのだと思う。かといって土臭さナンバーワンのゴボウは苦手じゃないから、他に理由があるのかもしれない。

 僕がニンジン嫌いなことは兎莉知ってるはずなんだけど、よそってきたということは……


「兎莉、もしかしてお昼の事少し怒ってる……?」


 お昼のこととは、兎莉に予知のようなことをするように無茶振りしたときのことだ。兎莉は口角を少し上げ、答える。


「えへへ……颯太くんちょっと意地悪だったから…………お返し」

「ごめんごめん、つい出来心だったんだ。それに暇だったし」


 僕は謝りながら、オレンジ色のそれを箸で掴んだ。罪には罰を。僕も罰として苦手なニンジンを食べるとするか。恐る恐る、ニンジンを口へと運ぶ。


「あれっ、美味しい……?」

「颯太くん、ニンジン大丈夫なの?」

「大丈夫……というかこのニンジン凄く美味しいよ! 土っぽさが全くなくて、噛むと味が染み出してくる」


 そして、二つ目のニンジンも口の中へ。甘じょっぱい汁が口の中へ広がり、濃厚な旨味が後から追いかけてきた。

 僕が最後にニンジン食べたの小学生のころだ。もしかすると味覚が変わって食べられるようになったという可能性はあるかもしれないけど、それを差し引いてもこのニンジンは異常に美味しい。大袈裟に言ってしまえば、世界観変わるほどの美味しさだった。

 兎莉は僕の顔を見ながら優しく笑っていた。


「ちぇ……颯太君の困る顔が見れると思ったのに」

「そう言わずに、兎莉も食べてみなよ。僕よそってあげるから」

「あっ……」


 兎莉の前にあった取り皿をさらう。僕は先程のお返しに、箸で兎莉の分の煮物を取った。


「はいどうぞ」

「……………………」

「ん? どうしたんだ?」

「…………ええっと……ね。これじゃあ……間接キスになっちゃうね……?」


 俯き加減にぼそりと告げる。兎莉に言われて初めて気づいた。

 何ということだ……煮物用の箸があるというのに。昌平や澄も煮物を取るのだから、個人の箸で取るのはマナー違反だ。あまりに軽率だっただろう。

 何だか兎莉が心配していることとは別の心配が真っ先に来てしまった。別に兎莉と間接キスすることが特段恥ずかしいという気持ちはないのだけど、兎莉は気にしているのだからマナー違反の話をしたら、それこそマナー違反だ。

 コホンと咳払いをしておどけ気味に僕は続けた。


「ちょっとニンジン食べただけだから、こんなのは間接キスに入らないって! ノーカウント」

「…………そうだね。でも『こんなの』って言われて済まされるのは…………ちょっと怒っちゃうかも?」

「うん。こんなのかどうか決めるのは兎莉の方だもんな……ごめん」

「…………ちょっと違うかも」


 そう言うと兎莉は、不機嫌そうにふて腐れる。マナー違反にならないように気をつけたつもりだったのだけど、また気に障ることを言ってしまったのかもしれない。乙女心は難しい。


 気を取り直して、煮物を食べ進める。里芋レンコン鶏肉ぜんまい……と煮物を次々に口に運んでいった。

 どれも最高に美味しい。鶏肉の旨味が良くしみている。鶏肉って牛肉、豚肉に比べて華やかさが無くて主人公ってより脇役って感じに思ってたけど、こんなに美味しいんだったらもう主人公だ。


「澄、この煮物すごく美味しいね。高級旅館にしては少し地味な感じはするけど、味は間違いなかったよ」

「あら、颯太さん。地味だなんて思ってたんですか? まぁ……仕方がないかもしれませんね。『あさま荘』では豪華で華やかな料理は出しませんから」


 澄は涼しげな表情で言う。地味と言われたら少しはムッとするのかと思いきやそんなことはないようだ。

 これは何か裏があるように思える。


「何か理由があるの? わざと地味な料理を出す理由が」

「勿論です、颯太さん。そうですね……それでは、沖縄に旅行に行くとしましょう。お昼にゴーヤチャンプルーと普通の野菜炒めのどちらかが食べれるとしたら、颯太さんはどちらが食べたいですか?」

「うーん……ゴーヤチャンプルーかな。せっかく沖縄に来たんだから、沖縄っぽい料理食べたいよ」

「そうですよね。旅行に来たのですから、その土地の郷土料理を食べたいと思うのは当然です。これは、沖縄に限らず『あさま荘』にも同じことが言えませんか?」

「なるほど、そういうことなんだ」


 澄の言葉を聞いて納得した。今卓に出ているのは、普段僕が家で食べているような料理たち。何なら煮物は作り置きできる都合で毎晩食卓に並んでいる。この土地に住んでいる人からしたら『あさま荘』の料理は地味で物足りない感じがするけど旅行客の立場で考えてみたら最高の料理なのかもしれない。


「わざわざ遠くから、こんな山に囲まれた田舎に来て下さるのですから『田舎らしさ』のある料理でもてなすのが最良でしょう。よく旅館では華やかな魚の生け作りが出されるイメージがありますが、『あさま荘』ではそのような理由で魚介類はお出ししません。山に来たのに魚が出てきては雰囲気が合いませんから」

「そこまで考えてるんだ……安直に華やかじゃないとか言ってごめんね」

「構いません。ここ近隣に住んでいる方からしたら、華やかさが欠けるのは分かっていますから。ただし、味の方は颯太さんも満足するものになっていると思いますよ」

「勿論! 最高だよ! 今まで食べてきた煮物の中で一番美味しいって自信を持って言えるね」


 正直に思いを告げる。澄は自分が作ったわけでは無いのだろうけど、鼻を高く自慢げだった。普段クールだけど、旅館のことになるとこんなお茶目な一面もあるのだ。


「兎莉もこの煮物は美味しいって思う?」

「うん……美味しいと思うよ。私……結構料理練習してるけどこの味はまだ出せないな……」

「へぇ、兎莉って料理とか練習してたんだ。……そういえば小学校の時、調理実習で食べた兎莉のカレーは忘れられない」

「そのことはもう忘れて…………」


 小学校のことだ。

 僕と兎莉は調理実習で同じ班になって、そのときにカレーを作ったんだけど……兎莉の作ったカレーはとんでもなく不味かった。僕は野菜を切っただけで兎莉に味は一任したんだけど、まさかカレーで失敗するなんて思いもよらなかった。鉄と炭の味がして自分の中のカレーの概念が覆り、頭が混乱したのは覚えている。兎莉も自分のカレーが美味しくないのは分かっていて……他の生徒にばれたくないから、結局僕と兎莉は二人で完食してカレーの存在を抹消したのだ。

 帰り道、ずっと泣きながら謝る兎莉を宥めるのは大変だった。


「だから…………練習したんだよ? もう颯太君にあんな料理食べさせられないから……」

「そう。だったら、今度兎莉の料理食べさしてよ。どれだけ成長したか審査するから」

「ふふふ……楽しみにしててね。昔の私とは、半世紀ぐらいの違いがあるんだから……」

「なんで半世紀?」

「…………。えへへ……何となく」


 なんだそりゃ。

 優しくはにかむ姿は幼馴染の間柄で、見慣れている僕でも少しドキッとしてしまう。兎莉は性格はこんな感じで引っ込み思案だけど、外見は美少女だ。

 それから僕たちは黙々と目の前の絶品たちを平らげていった。口に入れるものすべてが美味しくて、まるで夢でも見ているようだった。昌平なんて何杯お代わりしたか分からないぐらい米ばっかり食べていた。美味しいからその気持ちも分かるけどね。


「「「「ごちそうさまでした!!」」」」


 手を合わせ、終わりを告げた。

 僕たちは満足したお腹と心のまま食べ終わった食器を流しに運び、その流れでお饅頭を作っていた調理室に戻る。

 流しに運んだ時に澄のお婆ちゃんがいて、さっきの話に出てきたおじいさんはどうなったのかと聞いてみたところ「あいつは来るよ。同じ爺さん婆さんの私が言うんだから間違いない。気持ちは良く分かってる」と言われた。この言葉の意味は良く分からないけど、すごい自信で言っていたし、きっとおじいさんは来るんだろう。

 片付けを終えたところで、僕らは再び厨房へ向かう。厨房へ続く廊下で、澄は振り返った。


「腹を満たしたところで皆さん眠くなってしまうかもしれませんが集中して作業の続きをしましょう」

「「うん!」」

「Zzzzzz……」

「…………あの頭お猿さんの金髪はわざとやってるんでしょうか?」


 澄の怒りの鉄拳が、歩きながら居眠りをする昌平に飛んで行ったのは言うまでもない。ごたごたとしたリスタートになったけど、再び僕らは明日に向けて、最後の一段へと足を掛けるのであった。

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