第4話 生徒会長は褒められたい
饅頭作りの特訓が始まり、一ヶ月と少しが経った。平日は勿論、土日も返上して僕たちは練習に明け暮れた。気付けばもう、五月下旬になってしまっている。文化祭は六月頭だからもう十日間くらいしかない。
問題の饅頭作りだが……ここ最近は昌平以外六時に帰してもらえる程度には成長していた。帰宅時間が早まったことで、少しは心に余裕が出来てきた気がする。今ではあの辛かった十二時帰り思い出話にできるくらいだ。まあ、悪い思い出だから、あんまり思い出したくはないけども。
饅頭作りの練習はこれからも継続してやっていくことにはなるけど、文化祭に向けてやらないといけないことは他にもあった。
──ということで、昼休みを迎えた僕たちは文化祭に向けての諸問題について話し合っていた。教室は、購買やら部室やらでクラスメイトは出て行ってしまいポツリポツリといくつかのグループが席を合わせて昼食を食べている。温泉部は窓際後方で机を合わせていた。
「衣装についてですがあさま荘の仲居の和服を着るのはどうでしょう? 売るのは温泉饅頭ですし、何より温泉部らしい服装だと思います」
澄は背筋をピンと伸ばして提案する。手には何やらメモのような紙を持っており、事前に考えをまとめてきたらしい。
現状、僕たちは文化祭で温泉饅頭と飲み物を提供するカフェのような出し物をしようと考えている。所謂、甘味処というやつだ。
店内の内装は今のところ茶色を基調にした和風な雰囲気にすることにしているので、そのような雰囲気であれば中居服は映えるだろうなと僕も思った。
澄の提案に僕の向かいに座るツンツン金髪の昌平が肩肘をつきながら反論した。
「確かに、良いと思うんだけどさ〜? 許可とかいるんじゃねえか? 澄のおばあちゃん許してくれなそうじゃね? 家の看板を背負うのはまだ早いとか言って」
「許可ならもうとってあります。というよりも、お婆様が仲居服を進めていたのですよ」
「良し、制服はそれで行こうぜ!」
「昌平、熱い掌返しだな」
途端に姿勢を正しく、調子付いた声で昌平が言う。この一ヶ月かそこらで、昌平は完全にお婆ちゃんの忠実なしもべと化していた。
「し、仕方ねえだろ!? 澄のばあちゃんが進めてきて、それを断ったってことになったら…………俺は定時退社したい」
「昌平くん、目がマジだね……」
血走った眼で訴える昌平に兎莉は後ずさりをした。昌平、おばあちゃんのことトラウマになりすぎてるな──そんなことを思いつつ、僕も今の澄の言葉で中居服の案が確定だと感じたので人のこと言ってられなかった。
僕はあさま塾(勝手に命名)の優等生に視線をやる。
「確かに、昌平の言ってることは分かるよ。また、十二時帰りは流石に……ね? これは経験した者にしかわからない」
「あはは…………ごめんね、居残りしたこと無くて」
「それでは、決定ですね。当日は仲居服を着るということで」
当日着る服が決まったところで、澄は先程持っていた紙にメモを書き留める。話し合いの結果、というかただの確認だけども、決定したことをまとめてくれているのは有難い。しっかりとしたまとめ役がいてくれて本当に助かったと思う。
もし澄がいなかったら……僕がまとめ役になっていたのだろうか?昌平はちゃらんぽらんだし、兎莉はどちらかと言えば引っ込み思案だからな……
そもそも澄がいなかったらなんて考えるのが間違っている。僕達一人でも欠けたらそれはもう『温泉部』じゃない。考えるだけ野暮だと言うものだ。綾菜先輩は今回参加してないけど、先輩の参加=子供の喧嘩に大人が混じることになるため仕方がないよね。
「そういえば材料ってどうするの? 普通に市販のを使ったら、いくら粉物といえど結構原価行っちゃうよね」
「そうですね。材料については私に心当たりがあります。ですので颯太さん。私と付き合ってくれませんか? ……放課後に」
スラリと伸びた黒髪を指で遊ばせ、艶やかな視線を送ってくる。間違いなくわざとやってる。全く、どこで覚えてきたんだか。澄はもっと自分が美少女だっていう自覚を持った方が良い。
「ドキッとするような言い方はやめてよ。了解。僕たちの予定は決まったとして、兎莉はどうするの? 僕らが食材調達している間、流石に特訓漬けというわけにはいかないよね? もう十分できているだろうし」
「…………それなら、私はレシピ作りをしてるよ。文化祭で普通の温泉饅頭だけじゃ味気ない……でしょ? 厨房はあさま荘のを使わせてもらえるかな……?」
いつも以上に自信なさげに兎莉がそう言った。表面上自信がなさげだが、目には力強い光が灯っているように見える。分かりづらいけど、兎莉には確信があるようだ。幼馴染だから何となくそこら辺は分かるんだ。
「分かりました。兎莉さんがそういうのなら、お婆様に話は通しておきましょう」
「俺はどうしたらいい?」
「……昌平さんは兎莉さんの料理の味見でもしていて下さい。誰にでも出来る簡単なお仕事です、それならチャラメガネでも大丈夫でしょう」
「なんか俺の扱いひどくね!?」
「兎に角、方針は決まりました。私と颯太さんは材料調達、兎莉さんと昌平さんが文化祭のレシピ作り。それぞれいつもの饅頭特訓の後に動けるよう、お婆さまに提案します。頑張りましょう」
「「「「おーーー!!」」」」
温泉部の雄叫びがクラス中に響き渡る。次の瞬間クラスの注目を一斉に浴び、兎莉が天を仰ぐのであった。
*
放課後。僕たち四人は一先ずあさま荘に向かった。お婆ちゃんの部屋に着くと、僕らは彼女の前にで正座する。そして昼休みに立てた計画を澄が真剣な眼差しでおばあちゃんに話した。
「かくかくしかじか……ということになりました」
「そういうことになったのかい……」
お婆ちゃんは目をつぶり、ゆっくりと頷く。感慨深い面持ちを浮かべるお婆ちゃんはどこか寂しげだったが、同時に嬉しそうでもあった。
少しの間、そうして目をつぶっていると思うと目を開ける。
「分かったよ。あんたたちも少しは出来るようになってきたから今まで程のスパルタは必要ないかもしれないねぇ? よし、澄、颯太! あんたら二人はしばらく用事がある日は練習に来なくていいよ! その代わり、畑中さんの所でスジを通すんだよ」
「は、はいっ!」
「よっしゃあっ!!!!」
「こらっ!! 昌平! あんたは全然上達してないんだから、今まで通り特訓だよ!」
「うげえええっ!! なんでだーーーっ!?」
喜びで掲げた握り拳をそのままに昌平は崩れ去った。昌平、ドンマイ。
あさま荘での特訓の後に澄の言う用事とやらに付き合うつもりが、練習そのものが消えてしまうとは……こんなこと僕も予想できなかった。一応、用事がない日は僕らも練習に参加しないといけないみたいだけども。
昌平を叱ったお婆ちゃんは妙に楽しそうな表情を浮かべた後、何かを思い出した様に手をポンッと叩いた。
「そういえば、兎莉! あんたはもう練習に来なくてもいいよ。もう私から教えることはなにもないからねえ」
「えっ!? 私まだおばあちゃんが言うほど上手ではないと思うのですけど……?」
「それは嫌味かい? 私は素直にあんたの実力を評価したつもりだよ」
「すごいね、兎莉!! 最初から上手だとは思ってたけどここまでとは……僕にもあとで教えてよ」
素直に褒められた兎莉は顔を真っ赤にして俯いてしまった。澄や綾菜先輩ほどとまでは言わないけど、兎莉はもう少し自分に自信を持てたらいいのになと思う。
詰め寄る僕の前に手でバリアを張って兎莉は苦笑いした。
「あはは、颯太くん近いよ……? 私、褒められ慣れてないから少し照れちゃうな。でも、おばあちゃんがそう言うなら……自信を持ってもいいのかも」
「そうですよ、兎莉さん。自信を持ってください」
「うん、そうするね。おばあちゃん! ええっと、私の練習はなくなっちゃったけど……文化祭のまでの間、厨房をお借りしても良いですか?」
皆に褒められて自信がついたのか、兎莉は思い切って自分から自分の意志をおばあちゃんに伝える。澄のお婆ちゃんは兎莉から自分でこうしたいと言われることを想定しておらず、呆気にとられたようだった。
軽く頬が緩む。まるで我が子の成長を見守る親のようにお婆ちゃんは微笑んだ。
「さっき、澄が言ってたメニュー作りとやらだね? 勿論、大丈夫さ。好きなだけ、厨房は使いな。ただし『秋風』に絶対負けない最高のメニューを作ること、良いね?」
「はい……!」
小さく拳を握る。幼馴染の成長に僕は少し安心するのだった。
「ここまで言われたら、俺も味見頑張んなきゃいけない気がしてきたぜ~!」
「味見って頑張ることなの……?」
「話もまとまりましたし、今日はもう練習に入りましょうか、お婆様? 明日からそれぞれ練習量が減るかと思いますから、今日はいつも以上に、熱いご指導よろしくお願いします」
「そうだね。澄、あんたも同学年の兎莉に負けないように鍛錬に励みなさい。さあ、練習に入るよ!」
「はいっ!!」
文化祭まではあとおよそ二週間。握り拳を掲げる僕達は気合いを入れ直し、自分の出来ることに全力を尽くすと誓った。
*
キンコンカンコンと終わりのベルが鳴る。五十五分の授業を六時間分こなし、時刻はすでに十六時を回っていた。春分の日は遠の昔に過ぎ、日に日に長くなる日照時間のお陰で午後四時といっても空は未だ青かった。
学校が終わり、帰宅する者、部活動に行く者が校門付近で入り乱れているが、僕達はあえて言うならば後者だった。
「では、兎莉さん。昌平さんを任しましたよ」
「う、うん……。不本意だけど、頑張るよ……」
「自分、泣いても良いっすか?」
「行きましょう、颯太さん」
真顔で血涙を流す昌平を尻目に俺は澄の跡をついて行った。目的地がどこなのか全く伝えられていないのは少し不安だけど、澄の事だから大丈夫だと思う。
因みに兎莉は饅頭作りの特訓に若干の余裕が出来たことで一ヶ月放置しっぱなしだった学内の足湯の清掃に向かうそうだ。学内の足湯は別に僕たち『温泉部』が所有しているわけではないのだけど、名前からしてこんなにももっともらしい部活があれば僕たち『温泉部』が清掃係になるのは仕方がない。
『あさま荘』とは逆方向──昌平の家の方角に俺たちが歩くこと二十分。目的地は、何の変哲もない畑だった。
僕はおかしいなと首を傾げる。余程変なところには連れてかれないと思ったんだけど。
「澄? 目的地ってここ? ただの畑のように見えるんだけど」
「あら、颯太さん。察しが良いですね、ここはただの畑ですよ」
「うん、見ればわかるよ」
「実は、ここの御宅では小麦を育てているのです。文化祭で饅頭を作る以上、小麦粉は必須です。そこで先日、小麦粉を譲ってもらえるように交渉したのです」
なるほど、話が見えてきたぞ。つまり、僕がここに連れてこられたのは力仕事というわけか。
僕は腕まくりをして力こぶを作るポーズをとるが、そんな男らしいこぶなんて作れなかったので恥ずかしくなってやめた。
「流石、澄。用意周到だね。じゃあ、僕たちはその小麦粉を持って帰れば良いんだよね。僕も一応は男だし、力仕事なら任せてよ」
「……持ち帰る? 確かに、力仕事はしてもらうつもりですけど……と来ましたね」
澄の向けた視線の方を俺も向く。
丁度、澄のお婆ちゃんぐらいの歳であろうおじさんが杖を突いてこちらに向かって歩いてきた。
「おお、浅間さんのところの嬢ちゃん! 来てくれたかい! それで、こちらは?」
「はい、先日お話ししたお手伝いの部員の颯太さんです。本日はよろしくお願いします」
「そうかい。颯太くん、はじめまして。私のことは、まあ適当に小麦おじさんとでも呼んでくれ。早速だけど作業服に着替えてもらうよ」
「はい」
「はい…………はい?」
勿論、後者の「はい」が僕のものだ。正直言って困惑していた。僕は再び首を傾げ澄に目配せすると、澄はクスクスと小さく笑う。
「あら、颯太さんどうかしましたか? 荷物運びをしに来たと思ったら、作業服に着替えろと言われてどういうことかと困惑している顔をしていますよ?」
「そこまで分かってるなら、説明してくれ……」
「働かざる者、食うべからず。という言葉をご存知ですか? それとも等価交換」
澄の一言でピンと来る。どうやら僕は勘違いをしていたようだ。確かに力仕事は力仕事なんだが……
「ええっと、つまり小麦は無料で貰えるってわけじゃなくって、貰う対価として労働を払うってこと?」
「そうですよ。察しが良くて助かります。先日、小麦農家のおじい様が腰を痛めたという話を昌平さんから聞いて、この案を考えました。おじい様は畑作業が進んで助かりますし、私たちは小麦が貰えて助かります。win‐winというものですね」
「策士だね……まあ、澄らしい。さて、畑仕事か……あんまりやったことないから上手くできるか分からないけど、とにかく全力を尽くすしかないか!」
「その意気です、颯太さん。颯太さんの男らしい姿、見せてくださいね?」
畑中さん改め、小麦おじさんに連れられ家の中へ。中に入ると、今日使うであろう作業服を手渡された。
深緑色のいかにもって感じの作業服だった。部屋を借りて着てみると、何と驚いたことにサイズがぴったり。たぶん小麦おじさんの普段着てるやつだと思うけど、何という偶然だろう。
外に出る前に、玄関の姿見を覗いてみる。分厚くガッチリとした作業着はどうにも僕にはあっていないように思えた。何というか……顔だけ小さいラグビー選手のようだ。
玄関をくぐると、すでに着替え終わった澄が待っていた。
「颯太さん、遅かったですね。女の私より着替えが遅いとは、乙女ですか?」
「断じて違う。というか、澄……」
僕は澄を下から上までじっくりと観察する。僕と同じく深緑色の作業服を着ていてそのシルエットは普段の彼女からは想像できないほどに膨れ上がっているのだが……
「その恰好めちゃくちゃ似合ってるね」
「当たり前です。『あさま荘』の娘が作業着一つ着こなせないで勤まりますでしょうか?」
「『あさま荘』の娘はどこに向かおうとしてるの!?」
「ほら、君たち! こっちに来て早く作業に移ってくれ~」
無駄話をしていると、小麦おじさんに催促される。小走りでおじさんの所まで行くとおじさんは今日の作業の説明を始めた。
説明によると、今日は畑の水やりと虫よけだそうだ。確かに腰を痛めたら、少し屈むのも辛そうだし、手伝いに来て良かったかもしれない。
早速作業に入り、澄はシャワーノズルのついたホースで水を撒き、僕は後をつけながら黄色い液体をハンドスプレーで撒いていった。どうやら黄色い液体は小麦おじさんお手製の殺虫剤らしい。
「作業服が似合ってるからかかもしれないけど、澄は随分作業がかなり様になってるね」
「そうですか? 畑仕事は家のも手伝ったことがありますのでそのせいもあるかもしれませんね。颯太さんも良いスプレーさばきです」
「スプレーさばきとは」
澄が随分と手慣れた様子で長いホースを操りながら言う。というか、澄の家にも畑があったことを今知った。まさか『あさま荘』で出している野菜は自宅の畑から取っていたりするのだろうか。
その後も僕たちは黙々と仕事をこなしていく。ホースで作物を潰さないようにこまめにホースを移動させないといけないんだけど、慣れてきた僕たちはアイコンタクトでそれらの連携が取れるくらいにまでなっていた。二人で一つの作業をするのはあまりすることがないから、新鮮で何だか楽しかった。
作業が一通り終わり、残すは片付けのみ。時間を忘れるほど集中してきた僕たちは、徐々に緊張感が解けてきた。
「お疲れ様。そういえば、最初粉物なら材料費が安く済むって話だったけど、まさかタダにまでなるとは思わなかったよ」
「そうですよね。本当に運が良かったです。しかし……もともとの値段が安いので二千円ほどの節約になるといったところでしょう」
「マジか……時給換算とかしたら怖いからやめておこう」
「文化祭での『売り上げ』と言うことを考えると、この方法しかありませんので仕方がありませんね」
自分たちのポケットマネーを出して費用を出してしまった場合、多分最後の売り上げからその出した費用を引くことになる。だからこそ、無料で材料を手に入れることに意味がある。
自腹で小麦を買って、それを貰ったものとして申請してももしかしたらばれないかもしれないけど、そんな不正をして勝っても本当の意味で勝負に勝ったとは言えないしね。
そんなことを考えながら、片付けを進めていき……
「終わったーっ!! 案外広いもんだね、畑って。水やりぐらいもっと早く終わると思ってたよ」
「お疲れ様です。私もそう思います。家の畑はもっと小さいので、正直畑仕事を甘く見ていました。不覚を取りましたね」
澄が額の汗をぬぐいながらそう言った。僕と澄は同じ作業をしていたはずなのに、澄の方はあんまり疲れていないように見える。汗はかいているが辛そうな表情をしていない。
「それでも、しっかり仕事をやり切った澄はすごいよ。僕なんか途中からホース持ちだったし、あんまり役に立たなかったかも」
「そんなことはありません。颯太さんの仕事は無駄ではありませんよ。それに、颯太さんという男性の目があったからこそ、私は緊張感を持って最後まで真剣に取り組めたのかもしれません。颯太さんはちゃんと役に立ってます」
「そ、そういうものなの? ありがとう。少し心が晴れたよ」
僕たちの声が聞こえていたのか、報告に行く前に家の中から小麦おじさんがひょこっと杖を持って現れた。
「おお~! もう終わったのかい? やはり、持つべきものは若さだねえ?」
柔和な笑顔を浮かべ、杖を両手でつきながらそう言った。老人の笑顔はなぜこんなに優しく見えるのだろうか。僕や昌平が笑うのではこうはいかないと思う。
小麦おじさんは畑の様子を見て、問題ないことを確認するとポンポンと僕の肩を叩いた。
「兎に角、お疲れ様! また明日、今日と同じ時間に頼むよ」
「はい」
「はい…………はい?」
勿論、後者の「はい」が僕のものである。
流石に二回目ともなると僕は苦笑いをするしかない。
「あら、颯太さんどうかしましたか? 仕事が今日だけだと思ったら、当たり前のように明日も作業ということになっていて困惑している顔をしていますよ?」
「その読心術、僕も欲しいな……」
その後、この畑の手伝いというミッションが文化祭直前まで続くということを聞かされて、僕のテンションは底辺まで下がるのであった。
*
時刻はもう十九時を回っている。辺りはもう暗くなっていた。
「颯太くん、今日は本当にありがとうね。これはお土産、うちの漬物美味しいから家族で食べてよ」
「ありがとうございます! それでは、また明日よろしくお願いします」
僕はお辞儀をして踵を返す。畑中さんの家を出た所で、疲労した腕をググーっと伸ばし、小さくあくびした。本当に今日は疲れた。帰れると思ってからの追加作業というのは想像以上に体力と気力を持っていかれた気がする。
実は、澄が取り付けた小麦おじさんの家での仕事自体は十八時には終わっていたのだけど、終わった後に僕だけ農具の片付け等の力仕事を頼まれてしまった。良いように使われすぎな気もしたけど、ここで断るのもそれはそれで後味が悪い気がしたので僕は仕事を引き受けた。空も暗くなりかけていて危ないから澄は帰宅するように言ったんだけど、何故か頑なに澄は自分も居残ると主張。最終的に小麦おじさんから「何かあったらおばちゃんに悪いから」と説得され澄は唇を尖らせながら帰宅した。
砂利道を歩きながら夜空を見上げた。名前の分からない星々が輝いていた。
「それにしても、小麦おじさんと澄のお婆ちゃんが同級生かぁ……世の中不思議な縁があるもんだな」
僕はそう呟き、感慨に耽る。小麦おじさんとの作業中「お嬢ちゃんは浅間のおばちゃんにそっくりだよ。頑固なところとかね」から始まり、彼と澄のお婆ちゃんが同級生であることを教えてもらった。どうやら澄のお婆ちゃんは学生の頃からあんな感じの性格だったらしい。
僕の住んでる町はお世辞にも都会とはいえない。多くの人は大人になれば仕事の多い都心部へと出て行ってしまうのだろうけど、それでも外の世界に出ないで一生ここで暮らす人もいる。小麦おじさんと澄のお婆ちゃんはその後者だった。そして、そんな物好きたちはこの狭いコミュニティーの中で力を合わせて生きているのだ。
「僕も将来、おじさんみたいになるだろうな」
きっと、大人になっても僕はこの町にいる。そんな気がしていた。僕は趣味という趣味もないし、やりたいこともない。人が多くいる土地で沢山お金を稼いで……というような欲もない。別に人生を悲観しているというわけではないのだけど、何ともそのような人生の目標というようなものが僕にはなかった。
この人間同士の距離が近い──閉じたコミュニティーでの生活に不満はない。だから、僕はこの先もこの町で生きていくんだと思う。予想だけど、大人になった僕の横には兎莉がいる。兎莉も僕と同じだ。生まれたときからずっと一緒だから分かってしまうのだ。兎莉とは一生ご近所付き合いしていくんだろうなという確信があった。
「そして、そんな生活も悪くない」
ご飯を作りすぎたから、野菜が採れすぎたから他の人に分けたり、服が破けたから縫えるご近所さんに頼んだり……そんな時代錯誤な生活を想像しながら、僕は一人帰路に着いた。
周囲を囲う雑木林から蛙なのか虫なのか鳥なのか、はたまたその全てなのか謎の鳴き声が忙しなく響いていた。騒がしい演奏を聴いているような気分だ。
僕の家は学校から見て、今日手伝いに行った小麦おじさんの畑の逆側に位置している。だから当然、途中で学校を通ることになるんだけど、校舎が見えた所で僕はあることを思い出した。
「そういえば筆箱忘れたんだった」
家に筆記用具があるから宿題をすることはできるけど、せっかく気がついたのだから回収しないわけにはいかない。昌平だったら筆記用具忘れたから宿題できない、ラッキーとか言いそうだけど、僕はそこまで不真面目にはなれなかった。
職員室は明かりがついている。幸い先生たちは結構な人数残っていたので、職員室でカギを借りて筆箱を回収した。
夜ご飯は小麦おじさんの所で食べさせてもらったからお腹は空いていないのだけど、お土産ももらっちゃったし、お風呂にも入りたいし早く帰ろう。
そうして僕が学校の校舎から出た、その時だ。
学校の時計塔を照らす明かりのすぐ下に人影が見えた。
見えただけじゃない、何か喋っている。声が聞こえる。
「こんな時間に誰だ……?」
気になった僕はゆっくりと近付いてみることにした。近付いて行くにつれてその声はだんだんと大きくなっていき、人影は輪郭を結んでいく。
橙色の髪を輝かせる、凛々しい立ち姿。僕はその人影の正体を知っていた。
『心はあなたを求めているのに、その思いに私は気付いているのに!どうして!ああ、どうして!一歩踏み出すことが出来ないのだろうか!』
一筋の明かりがまるでステージライトの様に彼女を照らす。
見間違える程いつもと雰囲気が違ってはいるが、彼女は間違いなく綾菜先輩だった。
「綾菜先輩……? こんな遅くまで何をやっているんですか?」
「………………えっ!? 颯たん!? なんでここに!?」
綾菜先輩は、僕がいきなり声をかけたことに驚き、飛び上がった。
いつもらしくない。
まあ、こんなくらい時間に声をかけられたら誰でも驚くか。
男勝りな先輩でも一応は女の子なのだと実感する。一応とかすごく失礼。
「僕は澄と農家の手伝いをしてから、学校に忘れ物を取りに来たんです。それより先輩は……随分芝居がかった独り言ですね?」
「違う。芝居がかった、ではなく芝居そのものだよ! 文化祭、私のクラスは演劇をすることになってるのだ~!」
「そ、そうだったんですか」
先程まで怯えたような様子だった綾菜先輩だが、すぐにいつも通りの明るい笑顔で話し始めた。
どうやら先輩は演劇の練習をしていたようだ。先輩は諸事情で僕たち『温泉部』の出し物に参加しないことになったのだけど、だからと言って先輩が文化祭で何もやらないわけがない。きっと綾菜先輩のことだから他の部、クラスからも勧誘があったことだろう。彼女が暇になるなんて、僕には想像できなかった。
疑問をぶつけてみると、どうやら沢山の部活に助っ人をお願いされたけど、結局先輩は自分のクラスの演劇に出ることを決めた、という事らしい。人気者は大変だ。
「それで、こんな遅くまで練習をしてたのですね」
「その通り! 私、今回の劇の主役を任されちゃってね~。大変なんだ、これが」
「セリフが長いとかですか?」
「いや、セリフが長いってのもあるけど、私この戦乙女の役になりきるのにちょっと苦戦しててね……」
綾菜先輩が苦笑いしながらそう言った。どうやら先輩が当てられた役は先輩の性格に合致しないものだったようだ。綾菜先輩っていつでもありのままってイメージだから役になりきること自体苦手なのかもしれない。
「……なんとなく分かります」
「分かるって何だい、分かるって! そうだ、颯たん私の練習に付き合ってくれない!? 丁度相手役がいなくて困っていたんだ~!」
「ええ!? 僕なんかじゃ練習の相手にならないですよ。それより真っ暗じゃないですか。ええっと、女の子が夜遅くまで外に出あるいてたら危ないですよ」
そもそも綾菜先輩を襲うような不審者はこの近隣に居ないと思うが、一応言ってみる。澄には同様の理由で先に帰宅してもらったわけだし、何かあったらその瞬足で絶対に逃げ切れるであろう彼女にも言わないと何とも失礼な気がした。でも、面と向かってこんな台詞を言うのは……
「颯たん、自分で言ってて赤くなってる! 可愛い!」
「か、からかわないでください!」
「じゃあ、颯たんが私のことを送ってくれれば問題ないよ! いや、でも颯たんと私の家方向が逆だね。私が送ろっか?」
「どうしてそうなるんですか」
「まあさておき、とにかく演劇だよ〜! 少しだけでいいから練習手伝って!」
「…………まあ良いですけど」
僕はしぶしぶだが、綾菜先輩の話に乗ることにした。帰っても宿題くらいしかすることないし、寄り道したっていいだろう。心配なのは漬物くらいだ。漬物くんも少しくらい常温でも大丈夫だと言っていた。よし、大丈夫。
心配をかけるといけないので、最近買ってもらった携帯電話で家には連絡を入れておこう。僕は制服の右のポケットに手を入れて携帯電話を取り、家への電話番号を打ち込む。噂によると番号を打ち込まなくても電話帳から電話を掛けられるそうだが、やり方を知らないので手打ちしている。自宅にしか掛けないし、それで事足りてしまっていた。必要は発明の母と言うけど、不必要は未発達の父になりえそうだ。
「はい、これ颯たんの分!」
綾菜先輩はガサゴソとバックから紙を取り出し、渡してきた。
それは緑の表紙がついた演劇の台本だった。表紙にはかなり崩した字体で「辻綾菜」と書かれている。タイトルは『帝国騎士と戦乙女』だそうだ。ペラペラと中身をめくってみると、マーカーで所々に線が引っ張ってあって、とても使い込まれた雰囲気を出している。
「台本ですか。それで僕はどこを読めばいいんですか?」
「台本にマーカー引いてあるでしょ! そこは私が読むところだから、颯たんは引いてないところ読んで~!」
「分かりました……って、先輩は台本読まなくて大丈夫なんですか?」
「ふふふ……! 私を侮ってもらっては困るよ、颯たん! もう、そこのページの台詞は全て頭に入ってるのだ~! めちゃくちゃ読み込んだからね!」
綾菜先輩は自慢げに胸を張った。見ると開かれたページはかなり強い折り目がついている。先輩が言う通り、相当読み込んだんだろう。
「綾菜先輩って運動も勉強も何でもできちゃう天才なんだと思ってたんですけど、陰ではこんなに努力してたんですね」
「お!? 颯たん急にどうしたんだ? 私を褒めても部費が生徒会から出るくらいしかないよ!?」
「普通に出てるじゃないですか!? それとそれは生徒会長の職権乱用です。先輩も頑張ってるんだな、と。ただ……思ったことを言っただけです」
僕がそう言うと、綾菜先輩ははにかんで素直に喜んだ。太陽の様にパアッと表情が明るくなる。えへへ、と笑う先輩はとても可愛らしかった。
上機嫌そうにその場でクルクルとスキップする先輩は、そのまま喋り始めた。
「全く、褒められるのは嬉しいものだよ〜! 私このために努力しているようなものだし!」
「…………?」
僕は予想外の返答に呆気にとられた。きっと鏡を見たら口をぽかんと開けていることだろう。僕は開いた口を右手で物理的に戻す。
目を輝かせた彼女はその場で回りながら続ける。
「テストで百点取るのも、陸上競技で新記録を出すことも全部、皆に褒められるためにやってることなんだよ! そのために努力して、それを見た友達がまた私のことを褒めてくれる、正の連鎖、プラススパイラルだね!」
綾菜先輩は回転を止めると、振り向いて無邪気に笑いかける。嘘偽りのない、先輩の本心の言葉であると感じた。
いつも楽しいことに一直線、全力少女な綾菜先輩。意外なことに、彼女の原動力は『褒められる』事らしい。僕も小学生の頃は、やれ勉強が出来ただの運動会の徒競走で一番だっただのと褒められて、嬉しかった記憶がある。高校生になり最近は褒められることがめっきり減って『褒められる』事が今の僕にとってどれほど嬉しいことなのかは分からないけど、先輩はその嬉しさを今でも大切にしていた。
「プラススパイラルですか……。でも先輩、だったらこんな夜遅くまで一人で練習するんですか? 今は僕がいますけど、僕がいなかったら誰も先輩の努力を見てくれませんよ」
僕は素朴な疑問を聞いてみた。綾菜先輩はまるでこの質問が分かっていたかのように即答する。
「颯たん甘いね! 甘々だよ! 私は勿論皆に努力を見せてるよ! でも、皆に見せてる努力だけじゃ結果を出すのは難しいんだよね。結果が出ればまた褒めてもらえる。だから私は皆の前だけじゃなくって、陰でも努力をしているのだ~!」
その言葉を聞いて僕は自分の間違いを知った。綾菜先輩は『陰では努力している』ではなく『陰でも努力している』のだ。僕は綾菜先輩とは出身中学や学年が違うこともあって普段の先輩を知らない。愚かなことに、僕は『温泉部』としての先輩しか知らなかったということだ。
「先輩はすごいですね。部活の時は唯の元気な先輩ってイメージでしたけど……今はちょっと尊敬しちゃいます」
「ちょっと~? もっといっぱい尊敬してくれてもいいからね、颯たん! 崇め奉れ〜! 特に、私は颯たんに褒められるのが嬉しいんだから!」
「何ですかそれ」
「色々さ! さあ、練習を初めよう~!」
その声はまだ寒さの残る春の夜空に澄み渡る。拳を高く掲げた先輩はさながら勇者の様に、僕の目にはとてもまぶしく映った。
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