第3話 姫登場
わずかに開いた廊下の窓から吹く心地よい風が顔を撫でる。
朝の日差しがまぶしく、小鳥のさえずりの聞こえる理想的な朝だった。
それはそれとして、僕と昌平は廊下に立たされていた。
何をどうしてこんなことに……と言いたいところだけど、普通に寝坊したため、このような事態になっている。
寝坊の理由は明白──昨日の特訓だ。
澄から『鬼の女将』とは顔合わせだけだと言われて僕たちは気が緩んでいたけど、僕が『秋風』の名前を出したところで女将は急変。結局、昨日は時計の針がてっぺんを超えるまで僕たちは解放されなかった。
僕が昨日のことを思い出しつつ気分を悪くしていると、同じく隣に立たされている昌平が喋り出す。
「颯太、昨日の特訓でへばっちまったのか? 寝坊だなんて、お前らしくない!」
「その言葉、昌平にそっくり返すよ」
昌平は何故か楽しそうにへらへら笑う。最初、廊下に立たされているこの状況を楽しんでいるように見えた。ただ、よく考えてみたら昌平は結構な頻度で廊下に立たされているので、この程度の罰じゃへこたれないのかもしれない。昌平、もう少し真面目になってくれ。
「にしても、すげえよな! 兎莉のやつ!」
罰を受けている最中だというのに、感覚がイカれてしまった昌平は興奮気味にそう言った。兎莉がどうしたのだろうか。
「ん? 兎莉がどうかした?」
「饅頭作りだよ。澄は饅頭作りとか出来そうなイメージだから、出来るのは分かるけどさ。兎莉まで出来るのは意外だったな~!」
「それか。澄のおばあちゃんもかなり驚いてたよね。それで上手だった澄と兎莉は昨日八時解散だったわけだし」
昌平に言われて昨日の兎莉を思い出す。昨日の兎莉は何かが取り憑いたかのようだった。素人目に見ても、以前から饅頭を作る機会のあったであろう澄よりも上手かった。
まさか、兎莉のやつ家で隠れて練習してたのか!?
そう言えば文化祭の出し物を饅頭にしようという話になったとき、兎莉は「誰か饅頭の作り方は分かる?」と聞いてはいたが自分が饅頭を作れないとは言っていなかった。変に買い被りすぎかもしれないけどね。
「く~! 俺らも早く上手くなって、早く帰れるようにしようぜ! これじゃあ体が持たない」
「自主練とかもするか……と言っても場所がないからどうもできないな」
「ならば、
「本当か! って、誰だお前!?」
見るといつの間にか俺と昌平の間に一人の少女が座っていた。
小さい体躯に不釣り合いなほどに伸びた純白の髪。スラリと伸びたそれは全身を包み込んでいて、妖精か何かの類に見間違えるほどに幻想的な雰囲気を放っていた。年齢は……小学生低学年ぐらいだろうか。
「お前、とは失礼な奴じゃのう」
少々不満げな表情で、少女は僕たちを見上げる。
瞳は黄金に輝き、まるで蛇のそれのようにこちらをじっと見つめていた。瞬間、僕の身体は強張り、動かなくなる。
それが蛇の様な眼によるものなのか、単に少女の持つただならぬ雰囲気によるものなのか分からない。
どちらにせよ、僕は目の前の浮世離れした少女から目が離せなくなっていた。
少女は薄いピンク色に染まる唇を開く。
「妾は、姫乃。
「…………」
「すごく警戒されてるのじゃ。ヒメはヒメじゃよ。怪しいものではないのじゃ」
姫乃と名乗る少女、もとい幼女は両手を上げて身の潔白を表現する。いくら可愛いからって、怪しいものは怪しかった。
こんな子、知らないな……もしかして、秋風さんと同じように、どこかで見たことがあるかもしれない。
いや、少し違う。今回は姫乃ちゃん本人というより、姫乃ちゃんに似た人を知っているような感じがする。
僕は自分の記憶の中から姫乃ちゃんを探そうとするがどうにも浮かんでこない。僕の学校でのコミュニティーは非常に小さい。他学年の生徒はもちろん、同学年の生徒でも顔の分からない人がいる。二クラスしかないのにだ。
考える僕の肩を小突き、昌平が話しかけてくる。
「颯太、もしかしてこの子って、先生の子供さんじゃないか? 確か他学年に九重って苗字の女の先生がいた気がするぜ?」
「そ、そうかもしれない! どっかで見たことあるって思ったらそういうことか。えっと……姫乃ちゃん? お母さんは学校にいるのかな?」
「ふふふ……それは言えぬのう~! 秘密じゃ! 姫乃の秘め事じゃ! わはは!」
「ダジャレかよ……」
少女は明るく弾けるような笑顔でそう言った。
ともあれ、疑問が解消されてスッキリした。きっとこの白髪幼女はお母さんを追いかけて学校まで来てしまったのだろう。
正解の余韻に浸る僕に、昌平が今度は小声で話しかけてくる。
「颯太、どう思う……?」
「どうって、一旦職員室に連れて行った方がいいんじゃないかな」
「違う! 姫乃ちゃん、かなり……可愛くないか!?」
「…………ガサゴソ……ってない!?」
僕はポケットの中からあるものを探そうとするが、見つからない。焦る僕を見て、昌平が謎の世紀末の雑魚キャラのようなポーズをとる。
「ははは! 俺を通報しようとしたって無駄だぜ! 俺たちの携帯はすでに先生に没収されているからなあ!! ひゃっはー!」
「なら、先生に直接伝える」
「ホント勘弁してください。マジすいませんでした」
勝利を確信した昌平であったが、即座に土下座の体勢をとった。実を言うと、昨日澄の家で十二時回ってから「勘弁してください。もう帰らせてください」と二人で土下座をしたので本日二度目の土下座だ。
僕らの話が良く分からない姫乃ちゃんはコクリと首を傾げ僕の顔を覗き込む。
「どうしたのかえ? 妾の顔に何か付いているかの?」
「いや、何でもないよ。姫乃ちゃんはどこから来たのかな?」
「ヒメと呼ぶのじゃ!」
ビシィっと人差し指を立てる。僕はその気迫に圧倒されて、少し後ずさりをしてしまった。訂正し話を続ける。
「ごめん、ごめん。ヒメはお母さんが何所にいるかとか分かるかな?」
「それも秘め事じゃ。というか、童は迷子では無い。ただ、散歩してたらここに迷い込んだだけじゃ……」
ヒメの瞳からドンドンと光が失われていった。
「それを迷子っていうんだよ!?」
「お兄様達、ヒメと遊んで~!」
「遊ぶ、遊ぶ~!!」
「どういう切り返し!? 昌平はマジで通報するよ!!」
ダメだ。昌平まで小学生みたいになっている。因みに、ここは高校で、僕らは絶賛廊下に立たされている途中である。
「お兄様たちは、御饅頭作りの練習がしたいのじゃろ? ならば、妾とこれで遊ぶのじゃ!!」
そう言ってヒメは後ろを向きごそごそとし始め、何かを取り出した。
手に掲げる灰色の物体。それは今ではあまり見ないけど、幼稚園小学校の頃に見知ったあれだった。
「これは……」
「……粘土?」
「その通り! これは粘土じゃ。お兄様達、粘土で御饅頭を作るのじゃ!!」
自信満々にヒメは灰色の球体を掲げてそう言った。
おままごとかよ! 内心突っ込んだが、ヒメの年齢的におままごとはしても変ではないのでぐっと堪えた。
子供の面倒を見る気持ちで、僕は半信半疑でヒメから渡された粘土に手を伸ばした。
「粘土なんかで練習に……って触った感じすごい饅頭の生地に似てるよ、昌平!」
意外や、意外。ヒメから渡された粘土は饅頭作りの練習できそうなぐらい生地と似た感触だった。
「これマジ!? じゃあ失礼して……」
「こら。さり気なく、ヒメに触ろうとするんじゃない」
「分かった、分かった。出来心だ。どれどれ……本当に生地に似てるな! 何か、昨日の特訓のことを思いだして…………気分が悪くなってきたぜ……」
昌平は額に手を当て、顔を青くした。「気分が悪くなってきたぜ!」と言いつつ少しテンション高めに聞こえたのはきっと気が狂うほど昨日の特訓がきつかったからだろう。人は限界を超えるとこうなってしまうのか。
「ああ……目の前に澄のおばあちゃんが見える~」
「昌平、おばあちゃんのことかなりのトラウマになってるね……」
「それで、どうするのじゃ? ヒメと一緒に遊んでくれるかえ?」
ヒメが潤んだ瞳で上目使いに聞いてくる。その仕草は直視できないほどに、抱きしめたくなるほどに愛らしく、思わず顔をそむけてしまった。僕にはその毛は一切ないと断言できるけど、それでもそうせざるを得ないほど、幼女の純粋無垢な可愛さは圧倒的だった。昌平が幻覚のお婆ちゃんとイチャイチャせずに今のヒメを見ていたら興奮で血の海が出来ていたことだろう。
「分かったよ。ヒメ、一緒に粘土しようか」
「よし来たのじゃ! これっ! お兄様達のぶん!」
こうして僕たちは、教室の前の廊下で年甲斐もなく粘土遊びを始めることになった。
まずは粘土を手に取って、球状に丸める。そして、澄のおばあちゃんに教え込まされた手の動きを今一度頭に浮かべながら、粘土を広げていった。
均一に……均一に。
餡子を包んだ時に、程よい甘さが口に広がる丁度良い厚さに伸ばしていく。まだ、上手に出来ないがその方が練習し甲斐があるってものだ。
そうして、僕たちは時間を忘れて粘土をこね続けた。
そう……授業の時間だってことも忘れて……
ガラガラと教室の扉が開いた。
「もう入ってきていいぞ……ってお前たち何やってんだっ!!!!」
「やべっ!」
「粘土なんてどこから持ってきたんだ!!!!?」
「す、すいません! それは、ヒメが……ヒメ?」
周りを見渡してみたがヒメの姿が見当たらない。僕が知らないうちに逃げたのだろうか?この後、先生に大目玉をくらった僕たちだったけど、結局突如現れた美幼女は見つからなかった。
*
放課後。放課後になった。なってしまった。
「はぁ……」
一つ、大きなため息をつく。学校が終わったということは、またあの地獄のような練習が待っているということだ。
疲労もあって、今日の授業はほとんどまともに受けていない。ノートにみみずみたいな落書きがあったことから分かるように、半分は寝ていただろう。ごめんなさい先生……
少し伸びをしてみると、節々がギシギシと音を立てるのが耳に伝わった。だけど、授業を犠牲に半日ゆっくり休めたから、身体はそこそこに回復しているみたいだ。まだ身体の調子は本調子ではないが、これで十分。
練習は辛いものになるだろうけど、ここで諦めることはできない。温泉部がなくなったら先輩は困るだろうし、澄や昌平もそうだと思う。僕と澄も入部の動機はどうであれ、温泉部がなくなるのは悲しい。
僕は頬をパチンと叩き、精一杯己を鼓舞した。帰りの支度を手短に済ますと、勢いよく立ち上がる。
「今日も帰って、特訓だ! 行こう、澄!」
「あら、颯太さん。随分とやる気があるようで。昨日は散々にしごかれたというのにそのやる気……もしかしてマゾですか?」
澄は若干引き気味に言う。
「違う、断じて違う。早く上手にならないと、こっちの体が持たないからさ。やる気を出さざるを得ないんだよ」
「ふふふ、向上心があるのは良いことです」
澄が不敵に笑った。何だかいいように遊ばれている気がする。ふと隣を見ると、兎莉が困った顔をして昌平の肩をさすっていた。
「……昌平くん。もう、学校終ったよ?」
「う~ん……むにゃむにゃ……」
昌平も僕と同じく授業中に寝ていたのだけど、まだ起きてないみたいだ。昌平は僕以上にしごかれていたから、相当な疲れがたまっているのだろう。
澄は眠った金髪を見て呆れたように言う。
「昌平さん、起きませんね。物語で、眠り姫を起こすのは王子様のキスと言います。どうですか?」
「どうですかって、僕に向かって言わないでよ。絶対しないからね」
「そうですか、では私が……」
「……って、ちょっと!? 本当にやるつもり!?」
一歩、二歩と昌平に歩み寄る。そして澄は俺の心配を他所に顔を昌平に近づけて……
ゴンッ!
鈍い音と共に昌平の悲鳴が響いた。
「いってええええ!!? 澄!? お前、人がせっかく気持ちよく寝てたところをな!」
「おはようございます、昌平さん。さっきのは頭突きですよ」
「ああ、おはようございます……って違ああああう!!」
「元気そうで何よりです」
澄は上機嫌そうに微笑を浮かべた。彼女は人をいじるのが好きな面がある。容姿や立ち振る舞いに反して、意外と中身は真面目じゃないのかもしれない。同じ中学校だったというのに、僕は澄のことをあまり分かっていなかった。
昌平に頭突きをお見舞いした澄に兎莉が苦笑いする。
「あはは……澄ちゃんって意外と武闘派だよね? 空手とかやってたし」
「あら、兎莉さん。良くご存じで。でも、私が空手をやっていることは誰にも言っていなかったはずですが……?」
澄が疑いの目で兎莉を見た。兎莉は俯き加減で暫し黙ると顔を上げてゆっくりと口を開いた。
「…………。ええっと、たまたま帰りに見ちゃったんだ。澄ちゃんが武道館に通っているところ。もしかして、皆には内緒だった?」
「いえ、隠すほどのことではありませんから心配ありませんよ。努力は隠れてするものというお婆様の教えなのです」
隠そうともせずに、自信気にそう答える。澄のやつ、空手なんてやっていたんだ。女子で空手をするって結構珍しいと思う。だけど、澄が武道を心得ていてもなんら不思議ではなかった。道着を纏う澄の姿を想像してみるが、やはり似合っているように思えた。試験の成績もいいからまさに文武両道の体現者だ。
兎莉はそわそわとしながら言葉を返す。
「……そう? なら、良かった」
「ええ。さて、昌平さんも無事起きましたし、行きましょうか」
「無事じゃないけどな!?」
頭にこぶを作った友人がやった本人を見ながら、そう叫んだ。
*
僕たちがあさま荘に着いた頃、あさま荘の裏口にはすでに澄のおばあちゃんが腕組をして陣取っていた。
うっ、プレッシャーがすごい……!もうすでに帰りたくなってきたけど、饅頭作りの方法を教わらなければ『温泉部』が廃部してしまう。覚悟を決めなければならない。
僕たちは、綺麗に横一列に並びお婆ちゃんの前に立つ。きちんと挨拶することは基本だと、僕たちは教わっているのだ。
「「お願いしますっ!!」」
「おお! 男二人組、今日は元気が良いねえ。昨日、私が散々にしごいたというのに……やっぱり若いっていいねえ?」
「昨日の俺達と、今日の俺達、一緒にしてもらっちゃあ困りますぜ~! な、颯太!」
昌平は手でゴマをすりながらそう言う。まるでその姿はお代官様に擦り寄る小役人の様。小物感が半端じゃなかった。
「う、うん。何より、昨日とは心の準備というか……心意気違います」
「そりゃあ楽しみだ。さあ、中にお入り」
おばあちゃんから許可が出たため、靴を脱いで玄関を上がる。昨日は靴を揃えてなくて大体十分位叱られたのだった。今日はしっかりと揃えて中に入ろう。
裏口から入ったので真っ直ぐ進んだ突き当たり。そこが僕達の戦場──厨房だ。
「失礼します」
教えられた通り、一礼してから中に入る。既に材料は用意されていた。
「良し。厨房に入るときはまず、挨拶から。きちんと守れてるねえ」
おばあちゃんがうんうん、と頷く。昨日このことについてもこっぴどく叱られたので忘れるなという方が無理な話だ。
「それじゃあ、今日の特訓を始めるよ。覚悟をし!」
この日の特訓も昨日と同じく、生地作り。
学校にいる間も、生地をこねる練習を昌平と一緒にやってたからか、少し慣れてきた気がする。兎莉ほどとはいかなくても、それなりに出来るようになったかもしれない。
隣を見てみると、澄が慣れた手つきで真っ白な生地を練っていた。そう言えば、澄って空手とかやってるって言ってたけど、手とか綺麗だよな。武道家の手はゴツゴツしたイメージがあるけど、澄のはスベスベしてる感じが、見ただけでひしひしと伝わってくる。なんだか気持ちよさそう。って、なんてこと考えてるんだ、僕は。
「こらっ、颯太!! うちの孫の手ばっか見てる暇があったら、もっと生地を良く見な!」
「す、すいません!!」
こちらの考えが見透かされたようにお婆ちゃんの怒声が響く。こ、怖すぎる……!
震え上がる僕を見て、澄が微笑を浮かべていた。これみよがしに手を見せびらかしてくるので、顔から火が出そうだった。
しかし、めげてても仕方ない。気を取り直して、生地に向き合うことにした。
よし、今日は調子がいいぞ。心なしか上手く生地が手に馴染んでる気がする。昼間に粘土で自主練習したのが生きているのかも。この調子で今日はすぐに帰るぞ! 一度エプロンをギュッとキツく縛り気合を入れ直した。
「よし! 頑張るぞ!」
「生地を前に大声を出すんじゃないよ! 唾が入ったらどうするんだい!」
「あはは……すいませんでした」
訂正。やっぱり、調子悪いかもしれない。
*
通学路。
季節はまだ春。三寒四温という言葉があるように、暖かくなったり寒くなったりして春は段々と夏へと向かっていくものだ。あれ、三寒四温って冬のときの諺だっけ。とにかく、今日はやけに空気が冷たかった。
朝の寒い風に煽られて遠くの蔵から湯気がゆらゆらと揺れる。僕たち住む町は温泉が多く、至る所に無人で無料の露天風呂が設置されている。
特に多いのは足湯。簡易的に入れるそれは地域の人からも人気が高く、だからこそ自然と数が増えていった。
雑木林に周囲を囲まれた通学路を歩きつつ、最近部活動すなわち温泉に入っていないことを思い出す。
疲れがたまる今日この頃、足湯ぐらい入りたいとは思うけど、寄り道して学校に遅れたらそれはそれで疲れたことになりかねないので、僕は自分の温泉欲をグッと抑えた。
隣を歩く幼馴染が心配そうな眼差しを向ける。
「颯太くん、昨日も十二時帰り? なんだかとっても眠そうだよ……?」
「うん、そうなんだよ。昨日は結構良い線行ってたと思ったんだけどね……」
そう。昨日、僕は結局早く帰れなかった。一瞬調子がいいかと思ったけれど、世の中そんなに甘くなかったみたいだ。もちろん昌平も一緒に居残り練習だったので、もしかすると今日も昌平は廊下に立たされてしまうかもしれない。僕には起こしに来てくれる幼馴染がいてくれて本当に良かった。
通学路の途中にある『あさま荘』の前まで来たところで、兎莉は思い出したように口を開いた。
「そういえば、澄ちゃん今日、日直だから先に行くって」
「そうなんだ。澄は偉いな……僕だったらあまりの疲労で日直仕事サボっちゃいそう」
「あはは、澄ちゃんって体力あるよね。私たちも学校に行こう? 寝坊しちゃったから遅刻しちゃうよ?」
兎莉が僕の顔を覗き込むようにしてそう言った。兎莉が起こしに来てくれたとはいっても、時間的にはギリギリだった。
「そうだね。朝起こしに来てくれる優しいお隣さんがいてくれて、本当に良かったよ」
「えへへ、褒めてもなにもでないからね。ほら、颯太くん口じゃなくって足を動かして」
不意に微笑む幼馴染に僕の心臓は跳ね上がった。兎莉も改めて見るとやっぱり美少女だ。昔から何をするにもずっと一緒だったから全然意識したことなかったけど、僕って女の子に恵まれてるのかもしれない。昌平が僕を羨ましく思う気持ちが少し分かった気がする。
*
僕のクラスである二年B組は本校舎の二階の突き当たりにある。校門からは少し遠いからちょっと急ぎ足で教室に向かったのだけど、それは杞憂だった。先生はまだ教室に来ていない。
「間に合った……! 今日は廊下に立たされないぞ」
「あはは、そうだね。何だかんだで結構余裕だったかも」
彼女がそう言った矢先、一限目の先生が教室に入ってくる。余裕かと思ったけど、時計を見てみると案外ギリギリだったらしい。先生が教科書で机をバンバンと叩くと、授業がスタートした。
一時間目は社会。僕はプリントの穴埋めをしながら遠くの空を眺めた。昨日は一限目受けられなかったから、本当に授業の有り難さが身に染みるなと思う。椅子に座れるから体力使わないし、先生の隙を見て、睡眠だってとれる。ハッキリ言って快適だ……ってこんなことをしていると結局昨日と同じになってしまう。いくら疲れているとはいえ、学生の本分は勉強だ。いつまでも授業を睡眠に充てるのは誇れることではないだろう。
予習をしていないのと疲労感の相乗効果で授業は頭に入ってこないけど、それでも僕はプリントに黒板の板書を写した。そんな感じで午前の授業を消化しきると、ついに待ちに待った昼御飯の時間がやってきた。もしかするとやってきてしまった、かもしれない。
いつものように二年B組の温泉部員たちは机をくっ付けると、澄が大きな風呂敷に包まれた重箱をドカンと机の上に置く。僕は席に着くとゴクンと唾を飲み込んだ。
食事は確かに疲労を回復するのにとても重要だと思う。特に、甘いものは疲労回復にいいとも聞く。だけどだ
「颯太さん、どうぞ」
「ああ……いただきます……」
僕は澄から手渡された白い物体に目の光を曇らせてかぶりつく。程よい甘さが口のなかに広がり、味は非常に美味しい。食べた断片を見ると、そこには黒い物体が詰まっていた。
僕の不満気な表情を見て、兎莉が首を傾げた。
「颯太くん饅頭嫌いだった? 昨日はいっぱい食べてたのに」
「いや、嫌いって訳じゃないんだよ……でも、流石に二日連続昼饅頭だけってのは辛いというか……美味しいんだけどね」
何を隠そう、僕は昨日から御饅頭しか腹に入れていない。昨日の昼は澄が持ってきたお饅頭。昨晩は澄の家でお饅頭。朝はお弁当として持たされたお饅頭。そして……今日のお昼は昨日より三段増えた重箱いっぱいに詰められたお饅頭だった。
この奇妙な光景を見たクラスメートに「温泉部って饅頭食べ続ける修行とかするのか……?」「生徒会長が作った部活だけあって内容もぶっ飛んでるな……」と勘違いされてしまったけど、強ち勘違いではなかった。
「あはは……確かに飽きが来ちゃうかもね。それでも美味しく食べられてるのは、やっぱりおばあちゃんの腕のお陰かな?」
「だよな……ホントに同じ人間が作ったのか怪しく思えてくるよ。僕じゃあこんなに美味しくならない」
「当たり前です。お婆様のお饅頭は世界一なのですから。比べてはいけないと思います」
饅頭をお茶で流すと、澄は自分のことのように自慢げにそう言った。確かに大げさじゃなくって、澄のおばあちゃんは日本一の職人だと思う。外の世界を大して知らない僕だからこそ自信を持ってそう言えた。
「それもそうだね。……ところで昌平って今日学校来てない?」
「私も気になってたところかも」
「私もあのお猿さんのことは知りません」
僕は今朝から思っていた疑問を口にした。澄と兎莉の反応を見るが、各々首を横に振り彼女たちもまた昌平のことについて知らないようだった。ということは本当にお休みか。
まさか寝坊を通り越して学校を休むのは意外だった。昌平のことだからいくら寝坊したところで学校には登校すると思っていた。昌平は怒られ慣れているし、先生たちも昌平を怒り慣れている。いつもみたいに軽く怒られるだけだから三時間目くらいにケロッと学校に顔を出すかと思っていたんだけどね。
そんなことを話していると教室の扉ががらがらと開いた。視線をそちらにやるとそこから話題の人が現れた。酷くやつれた印象を受ける昌平は何やら額に擦り傷を、目の下には隈を携えていた。
あさま荘の修行だけならあんな怪我をするはずがない。
「えっ!? 昌平どうしたの!? やつれてるし……それに怪我まで!?」
僕は友人の姿に驚きすぐさま駆け寄る。昌平が肉体的にも精神的にも辛い状況になっているのは明らかだった。
「…………めっ……られた」
「どういうことでしょう? 昌平さん」
「めっちゃ……れた」
どうやら意識が朦朧としているようだ。普段から昌平はおかしいけど、今日は一段とおかしい。昌平の友人であり日常的に彼の愚行に次ぐ愚行を見ている僕が言うんだから間違いない。
「落ち着いて話して、昌平。誰にやられたの?」
「黒の悪魔……」
「だんだん訳が分からなくなってるよ……?」
見るからに重症そうな昌平だったが自分の席に着くと頭を抱え、叫んだ。
「くあぁぁぁあ!! 聞いてくれよ、みんな!!」
「わあ!? 何だよいきなり!」
「昨日、帰りが遅かっただろ? だから朝起きれないって思ってさ~!」
突然泣きつくように昌平が迫る。
「お、おう……。確かに俺も今日寝坊しかけた」
「そこでさ、天才的なひらめきだとは思うが、学校に泊まった訳よ!! 寝袋で!」
「…………?」
寝袋で学校に泊まった? 昌平は一体何をやっているんだ。段々と話が見えてきて、僕の中の心配がどんどんと薄らいでいく。
「それでさ、朝起きたらカラスの野郎が俺の持ってきてた朝ごはん食べてたんだよ! それでカラスと一悶着あってこのザマだよ! その後、学校に無断で泊まったことがバレて生徒指導室に閉じ込められて、今に至る」
………………割とどうでも良かった。
「……皆さん(兎莉と颯太)、御饅頭でも食べましょうか」
僕たちは冷たい目で昌平を見ながら、饅頭を口に運んだ。呆れて言葉が出ない今、飽きるほど食べたお饅頭が丁度良かった。
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