彼女の素顔(2)
その昔、狐の世界では千年生きれば仙狐と言われるようになり、尾は九つに裂け、万象の力を得ると言い伝えられてきた。早い話が「悟りの境地」に至ることで、自然の摂理に少しだけ干渉できるようになる、というものらしい。
実際のところ「悟りの境地」に至った狐は、見たことが無かった。与えられるのか目覚めるのか知れぬ「万象の力」とやらも、何とも嘘のように聞こえる。そもそも一介の狐ごときが千年も生きれないだろう……と、若かりし頃の私は心底正直信じていなかった。
天寿を全うできれば、それまで。そう、生き物としての命運はそれまでなのだ。
人間の残した食べ物を漁るために山の中から人里に降りた私は、とある神社に住み着いた。
その神社の神主や参拝客やらが優しく接してくれたこともあり、私は数千年あまりの間、それとなく生きながらえてしまったようだ。
そして、私は今朝「その時」を迎えることになった。
★ ★ ★ ★ ★
朝、目覚めて直ぐ、尾に違和感を感じた。まるで最初から何も生えていなかったかのような違和感。
目覚めて間もない私は、微睡んだ半開きの目で尾を眺めた。
確かにある。くたびれた尾。それは、あるべき場所に付いてた。
なんだ、ちゃんとあるじゃないか。と思い、まだ眠たかった私は目を閉じようとした瞬間、ぎょっとした。
くたびれた尾が、目の前に九つもあったのだ。
尾が九つに裂けている姿を初めて見たとき、私はまだ夢の中に居るんだなと回らない頭で漠然とそう思い、脱力した様子でその様子を眺めていた。
今、寝てるのか起きてるのか、はたまたここは既に「あの世」なのか。
何千年も生き続けた今、この瞬間が現実なのか。それとも夢の世界なのか。それが分からなくなる瞬間が幾多とあった。そう、この瞬間でさえも。
「朝起きて尻尾に感覚が無いのを感じ、飛び起きてみれば自慢の尻尾が九つに分かれ、更には痛みを感じなくなっていた」
狐の間では良く耳にする話ではあったが、それが自分の身に起きるなどとは思いもしなかった。
何故このように裂けてしまったのか理由は分からなかったが、幸い出血はほとんど無いようだった。ただ、裂け方としては根元からパックリと九つに裂けており、裂けた尾の一本の太さもまばらではあった。正直なところ、根元がどうなっているのかは怖くて見る気が起きなかった。
裂ける痛みを感じなかったのが不幸中の幸いか。常に腫れ物のような痛みを感じる敏感な尻尾が裂けた時に痛覚があれば、私は間違いなく失神、あるいはそれ以上の激痛で「あの世」行きだったのかもしれない。そう考えただけでもゾッとする。
痛みが無かったせいか、私は素早く冷静になった。これは、既に起こってしまったことなんだと、自分に言い聞かせた。そうだ、裂けてしまった事はしょうがないと諦めるしか他なかった。尾が一本に戻る事は無いだろうし、痛みが無くなったのは逆に良かったと考える事もできた。
私は後で知ったが、尾が九つになったときに絶命しないことが仙狐になる時の儀式、試練のようなものだったらしい。大半は寝ている最中に想像を絶する痛みによって瞬時に絶命してしまうようだ。それを事前に知っている長寿の狐達は、「一度寝たらそのまま永眠。二度と目覚める事のない眠り」が、いつ自分の身に降り掛かってくるのかの恐怖で、眠れぬ日々を過ごす。場合によっては不眠による衰弱死もあったりと、難儀な試練であることは間違いない。
この時、私は初めて自分が無知であったことを本当に良かったと思った。
尾が裂けた傷が癒え、私は「新しい感覚」で尻尾の操作ができるようになった。
痛覚は以前として無くなったままで、どうも自分の尻尾でないような感じはぬぐえなくなったが、自分の思い通りに尻尾が動かせないのは、それはそれで不便なので、まだ良しとしよう。
その「新しい感覚」となった尻尾を動かす事だけではなく、運命をも動かせる力を備えていた。
言い伝えの万象の力、とまではいかなかったが、それでも運命の線のようなものを少し操る事くらいできる。一見すれば便利な力ではあった。
しかし、私はその力をほとんど使わなかった。正しくは、使いたくは無かった。その力は使えば使うほど運命の線が交錯し、拗れ、やがては「面倒な事」になることが多かったからだ。
そういった点で、私はこの力に向いてないのだろう。
それまで私がどれだけ生き続けていたかなんて考えもしなかったし、興味も無かった。毎日起きて食べ、また寝る。それの繰り返し。命尽きるまで、それを必死に繰り返す。ただそれだけの日々。例えそれが無意味だとしても、私は死を選ばず、誰からも邪魔されず、それをひたすらに繰り返すだけ。
私はこの時、初めて自分のこれまでを振り返った。そして、身をもって実感していた。私は何となく、千年ほど生きていたんだな、と。
そして私は、こうも思っていた。
「もうあと、千年ほど生きたら何かがあるのだろうか」
その思いは、ただの興味本位だろうか。……いいや、違う。これは私の目標みたいなものだ。ただ、生きる事しか出来ないのなら、それを目標にすればいい。
私は「永く生きる事」を目標に掲げた。しかしそれは傍から見れば、滑稽なことなのかもしれない。生きる事は当たり前。その上で目標を立て、それに向かって努力をする。それが目標だ、という者もいる。生きる事を目標にするなんて、何て愚かなことだろうか。
それでも私は自分が生まれた事の意味を、生き続けることの先に見つけられるような気がしていた。生きていれば、そのうち良いことがあるのかもしれないというのは短絡的な考えかもしれないが、私にはそれしか手掛りが無かった。
時の流れに身を任せ、私はその時を待ち続けた。
それからどれくらいの時間が流れただろうか。
本当に色々な出来事があった。幾多の生物との繋がりを通して、世界の全てを見れたのかもしれない。それが、誰かの言う世界の一部だとしても、私にとってはこの場所で起きた事が、世界の全て。それでも、良いのだ。
私を愛してくれた人々や村の行く末を眺め、時代の流れや生物の生死を感じ、そして素晴らしき景色の数々を見据えてきた。
森羅万象とも言える、この世のありとあらゆる「流れ」を、自分の目で確かめながら生きてきた。それは時として辛く悲しい現実もあったが、今になっては全て輝いていたんだなと、私の心がそう語りかけてくる。
時として私を愛してくれた人間がいた。時として私を邪険にした人間もいた。そんな人間達と相成れた時代もあった。それもまた輝いていた時代だった。今思えば、最も輝いていた瞬間だった。
そんな輝ける時代をゆっくりと思い出しながら、今の私は静かに最期の時を待っている。
人々が繁栄していた一昔は手入れも行き届いていた稲荷神社。今は当時の様な活気も無く、ただ荒廃した村の外れにある稲荷神社。その片隅で雨風を凌ぎながら、彼女は最期の時を迎えようとしていた。
正直に告白すると、もうずっと前から体中が鉛で覆われたかのような重さと疲労感を感じていた。
初めのころは少し体調が悪いんだろうと思っていた。沢山寝ればそのうち治るだろうと考えていた。しかし、治るどころか、身体の重さと疲労感は日に日に増していった。
それでも毎日、身体を引きずって食事を捕っていた。しかし、それももう叶わない。今までは生きるため、食べるために精神で持ちこたえていたが、身体はずっと前から限界を超えていたみたいだ。もう、前足をピクリとも動かせない状態だった。
脚を、体を、尻尾を引きずりながら歩き回ったせいか、その体の殆どに泥を被っていた。その姿が一層彼女を見窄らしく見せていた。身体の毛は使い古した雑巾の様にヨレヨレになり、昔は立派だった自慢の尾は泥で汚れ、今や見る影も無くなっていた。
今の彼女は、自分が汚れていると感じる余力すら残ってはいなかった。
彼女の命は、風上に置かれたロウソクの炎のように、突風が吹いてしまえば消えてしまいそうなか弱い火のようだった。
息も切れ切れになり、遂には気力も失せ、精神も弱り、何もかもを失ったような虚無感。その中に不思議な心地よさ、安心感が彼女を包んでいた。それは死、そのものを垣間見た瞬間だった。
まさに大往生に相応しい最期の時、彼女は悟った。
私は、紛れもなく今、生きているということを。
ああ、神様、仏様。願わくば、あの輝いていた時をもう一度だけ、もう一度だけ。
決して叶わない願いを胸に、彼女は涙を零す。
そして、安らかに彼女は笑った。
やがて雨が降り、それは土砂降りになっていき、その土砂降りは永遠に続いた。
やがて、天変地異とも言える程の洪水が村を飲み込み、それは神社や彼女の亡骸も全て流し去っていった。
そこにはかつて村や神社があったという事実が分からなくなるくらい、洪水によって酷く抉られた惨状だけが残っている。
そこに何があったのか。それを知るものは、今や誰もいない。
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