【クトゥルフ連作短編集】邪神耳袋

甲斐ミサキ

アザトースの顕現。ショゴスあるいは屍解鬼にまつわる話

第一話:神棚の間

 これはアラトの上司、常盤庚辰ときわやすたつが叔父さんから聞いた話である。

 終戦間近の霧生ヶ谷は、連合国最高司令官総司令部、いわゆるGHQからの命令で、京都、奈良、鎌倉、御所と同じように、戦略的占領において重要な歴史的遺産を保護するために主な攻撃対象からは外れていた。とはいえ、あくまで歴史的価値を主眼に置いたもので、住宅街や防空壕、農村は爆撃の対象にされ、住民は戦々恐々としていた。

 少し前までは昼夜問わずに宙を紅く染め上げていた炎も薄れゆき、その頃は爆撃も散発的になりつつ、誰が聞いても雑音交じりの大本営から流れるラジオをもってしても敗色的な空気を払拭するものにはなりえなかった。

 叔父さん一家も穴熊のように篭っていた防空壕から這い出し、我が家へと戻っていた。耳に聞こえるのはヒグラシの鳴くこえのみ。蚊帳の中に入り込む蒸し暑い空気に寝苦しさを覚えながらごろんごろんと寝返りを打っていた叔父さんがふと横を見てみると、一緒に寝ていた母がいない。厠にでも行ったのであろうか、弟はこの暑さにも関わらずすうすう寝いっている。

 なにやら音が聞こえてきた。否。

 音、というよりはなにか人間の発声機能では表現し得ない言語を無理やり声にした、そんな感じだった。

 気配を感じ、隣を見ていると弟が煎餅布団から起き上がり天井を見上げている。

 釣られて叔父さんも見上げた。

 五色十色入り混じった、なんとも名状しがたい極彩色の紐のような蚯蚓みみずのようなものが蠢き固まり天井を覆いつくしている。得体の知れない塊が襖の隙間から部屋の外へと漏れ出している。そして漏れ出た襖の先から不思議な言語が聞こえてきていた。

 弟が寝ぼけ眼でかくりと立ち上がり、部屋の外へと歩いていく。叔父さんも何かに引っ張られるように弟に続いて部屋を退いた。

 二人が導かれたのは四畳ほどの床の間だった。祖母、祖父、母、疎開してきた従兄弟らが一堂に会していた。神棚の前で祖母が手を合わせもごもごと経を唱えている。

 「威ー安、威安ー」

 「威ー安、威安ー」

 どうして皆がこんな夜遅くに床の間に集まって御経さんを唱えているんだろう、叔父さんが母に問うと、何やら床の間に行かなくては、そんな気になったという。

 お前達も手を合わせなさい、母に言われ、弟と一緒に手を合わせ目を瞑った。

 相変わらずお経が続く。

 「威ー安、威安ー」

 「威ー安、威安ー」

 床の間の天井も極彩色の渦で覆われている。「ソレ」が段々と部屋中を、自分達を侵食していく。

 「威安ー、威安ー、愛坐当主、愛坐、当主」

 「威安ー、威安ー、愛坐当主、愛坐、当主」

 叔父さんもその声に合わせ、お経さんを唱えてみた。

 「いあー、ん。いあーん。あうぃざぁーと、おおすぅ」

 「いあー、ん。いあーん。あうぃざぁーと、おおすぅ」

 眠い目を擦りながら、あくび交じりに弟も真似している。

 いよいよ極彩色の渦は自分達を包み込み、目の前で合わせている掌さえも見えなくなってしまった。

 「いあー、ん。いあーん。あうぃざぁーと、おおすぅ」

 「いあー、ん。いあーん。あうぃざぁーと、おおすぅ」

 「威安ー、威安ー、愛坐当主、愛坐、当主」

 「威安ー、威安ー、愛坐当主、愛坐、当主」

 祖母を始め、祖父も母も従兄弟達もいつの間にか一心不乱に唱えている。

 やがて、

 どれぐらい経ったのだろう。祖母の声が緩やかに止み、それを同じくしていつの間にか霧のように渦のように部屋中を覆っていた極彩色が消滅している。

 母が立ち上がり、床の間の襖を開ける。

 襖向こうは完全に焼け落ちていた。

 曙光の中広がる風景はB-29が残した爪痕だった。

 叔父さん達はまるで爆撃音を聞かなかったという。



歴史改変後の「神棚の間」

第弐拾一話:血判経典

https://kakuyomu.jp/works/1177354054881029941/episodes/1177354054885428553

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