A02
あれは今から――僕の体感で、だけど――数ヶ月前のこと。
こんな世界じゃなく、元々僕が住んでいたごく普通の現代日本。
高校からの帰り道のことだった。
ただ、本当にただ、友人たちと一緒にだらだら話して歩いていたはずで。
「そーいやヨシト、相変わらず桜井ちゃんばっかり見てたなーお前」
「俺も思った。マジ見過ぎだわ~、桜井ちゃんぜってー気付いてるぞアレ」
「え、ええ!? 見てないし! そーゆー勝手なことを言……」
そんなふうに、話の内容が僕に及んだところで――
ブツン、とテレビの画面を消したかのように、視界が真っ暗になった。
同時に足が地面から離れ、全身が宙に浮いたみたいな感覚を覚える。
「なっ、あっ、うわあああああっ!?」
訳のわからなさにパニックを起こし、手足をバタバタさせることしかできない。
何がどうなってるんだ!?
しかし次の瞬間、僕の手足はガッと何かを捉えていた。
より簡潔に言うと、地面の上に寝転がって手足をバタバタさせている感じになっていた。
「いってぇ! な、何だ?」
とりあえず地面があったことに安心しつつ、慌てて起き上がる。
けれどそこはもう、さっきまで歩いていた場所じゃなかった。
だだっ広い草原。草と地面以外に見えるのは、森へと続いているらしい木々と、あとは青空だけだ。
何だこれ、どこのド田舎だ? ていうか僕一人? 皆はいないのか?
「どうなってんだ……?」
首を傾げたそのとき、目の端に何か変なものが映った。
ん? と思いそちらの方を向くと、そこには。
「……え?」
日光を浴びてキラキラと輝いている、水の塊のようなものがぷよぷよと動いていた。
大きさはバスケットボールぐらいだが、球状ではなくぷよぷよとアメーバ的な形状を取っていて……って、え? 動いてる?
「うわああああっ!?」
腰を抜かす、というのは本当にあるらしい。
情けない話だけど、大してデカくもないこんなものにビビってしまっていた。
ただ一つだけ言い訳させてもらうなら、目の前のそれが単なる水の塊ではないと本能的に感じたから驚いたのだと思う。
生物。そう、こんな生物いるはずがないのに、明らかな生命感を僕は感じ取っていたのだ。
ヤバいどうしよ動けない逃げられない――
「ほいっ」
半分泣きそうになっていた僕の前に、いつの間にか誰かが立っていた。
そしてその何者かは、小石でも蹴るかのように水の塊を軽く蹴り飛ばした。
バシャア、と崩れた塊は、もうそのまま本当の水みたいに地面へと染み込んでしまう。
何が何だかわからないが、やっつけてくれた、ということなのだろうか。
「あーあ、ちょっと濡れちゃった。お風呂入らないとなー」
「あ……あの」
「何? ていうかあんた、ミニスライム見て叫ぶとかそれでも男なわけ?」
やれやれ、と肩をすくめたその人物は女性だった。しかも、何だろう、コスプレイヤーってやつなのか?
歳は僕と同じぐらい。鎧みたいなものを着ているがやたら露出部分が多く、これで防御力は大丈夫なんだろうか。まあただのコスプレにそんなの求めてもしょうがないけど。
「旅人か何か? それにしちゃ荷物もないし闘えもしないし」
「いや旅人っていうか……え、今のは? ていうか誰……ここどこ?」
「あーもう、いっぺんにごちゃごちゃ言わないでよ」
面倒くさそうに頭をかく彼女。
そう言われても、だって僕にはわけわかんないんだから。
何かそういう映画とかの撮影なのか?
だとしても何故そこに僕が?
「ファレンさん、何ですの急に駆け出して。ってあら、そちらの方は?」
「さあ。いい歳して迷子なのかもね。ミニスライムにビビって叫んでたから助けてあげただけ」
「この腰の抜け方具合はファレンさんを見て驚いたのではなくて?」
「どういう意味よクメルパ!」
「……また増えた」
今度はふわっとしたワンピースみたいな服装に、長い杖っぽいものを持っている女の子だ。クメルパ? 変わった名前だなあ。
しかし何なんだ、コスプレ会場かここは。
「それにしても……変わった格好をしてらっしゃるわね。ここいらでは見ない服」
「遠方国からの旅人にしちゃ弱っちいにもほどがあるから、ただの変人でしょ」
「いや僕は……ってあれ?」
いつの間にか二人の横に、もう一人の女の子が立っていた。
何だろう、ちょっとボロい布を巻いたみたいな変わった服を纏い、ぼーっとしたような顔で僕をじっと見ていた。
どれだけいるんだこの子たちは。
「ん? 何よサリサ」
「サリサさん?」
「…………」
サリサと呼ばれた彼女は、ぼーっとした顔のまま僕に近付いてきて、ぐいっと顔を寄せてきた。
「うわっ!? え、何?」
「……すんすん」
ドキッとしたが、彼女はどうやら俺の匂いをかいでいるらしい。
いや、これはこれでドキッとするんだけど。女子にこんなことされた経験ないしさ。
「何してんのサリサ。腐ってるかの確認?」
「人間は食べられませんわよ」
僕を何だと思ってるんだこの二人は。
「……すんすん」
「あ、あの、ええと」
「人間の……匂いじゃ……ない」
彼女がそう呟いた途端、後ろの二人がそれぞれ拳と杖を僕に向けた。しかも結構睨んでる。えっ? ……えっ?
「何よモンスターだったのそいつ!? 人に化けてたわけ?」
「サリサさん、離れるか攻撃するかなさい。魔法に巻き込んでしまいますわ」
「いやいやちょっと待って! 人間だから僕! ていうかモンスターって何!? さっきのヤツ!?」
さっきから何言ってんだよこの人たちは!
映画だかコスプレだか知らないが役に入り込みすぎだろ。
なんで関係ない僕まで……。
「モンスター……でも、ない」
再びぽつり。
「はあ? どっちなのよサリサ」
「知らない……初めての……匂い」
「サリサさんが初めてかぐ匂いなんて、珍しいですわね。やはり遠方の国から来たということかしら」
「そうじゃ……ない。人の匂い……じゃ……ない。……あなた……何?」
かくん、と首を横に倒して尋ねてくるサリサ。
人だよ! 何好き勝手なこと言ってくれてるんだ。
ていうかホントに何なんだろうか。僕もこの状況に参加しろってこと?
「あの、その前にちょっといい?」
「何よ人間モンスター」
「足さないでくれよ! じゃなくて、ここ、どこ? 設定じゃなくてマジの方で」
「設定って何ですの? どうもよくわからない人ですわね」
「……謎……生物」
「いいから教えてくれないかな!」
どうも調子狂うなあ、この三人は。
「どこって言われても、ここは――」
言いかけた彼女、ファレンがふいにパッと横を向いた。
その方向は森――そこからガサガサと音を立てて、何かがこちらに近付いて来る。
またさっきみたいな水の塊か、と思ったのも束の間。
「GRUUUUU……」
それは。
「え」
「GRUUHHHHH……」
それは、明らかに生物だった。
けれど僕は、それが何なのか理解することができなかった。より正確に言えば、そんなものの存在を受け入れられなかった、ってところか。
虎やライオンのような四足歩行の獣……しかしその身体は赤と黒の斑毛で覆われていて、まるでハ虫類の色彩だ。
極めつけはその頭部。目や鼻に対して口が大きすぎる。涎をダラダラと垂れ流し、物を喰うためだけに生きているような醜悪さを感じさせる……。
「なっ、あ……」
あっけにとられる僕に構わず、三人はその怪物へと視線を向ける。
「あっれ、こんなトコでずいぶん強そうなのが出て来たじゃない」
「……レア……モンスター」
「一帯のボスかもしれませんわね。わたくしが焼きましょうか」
「毛皮ぐらい売れるかもしれないし、あたしがやるわ。右に追い込んで」
「では。『其は天 其は空 万物是れ自在なり』」
クメルパが何がブツブツ言い出すと同時にファレンが駆け出す。そのファレンに向けて怪物も走り出したが、その動きはすぐに阻害される。
「『
クメルパが叫んだ途端、炎の球のようなものが怪物に向けて放たれる。
それは怪物にはギリギリ当たらず、怪物の左側に落ちて小さく破裂した。
炎を本能で避けるのか、右側にバッと移動した怪物――しかしそこにはファレンが絶妙のタイミングで走り込んでいた。
「破ッ」
ズンッ、とファレンの拳が怪物の胸にめり込む。ゴボォ、と声にもならぬ息を吐いて怪物は倒れ込んだ。一撃。
「……何だよ今の? 映画のセットか? そりゃそうだよな、あんなのあるわけないし。変な怪物に、それにまるで魔法みたいなさあ」
「みたい……じゃなくて……魔法」
ぼけーっと俺の隣に立ったままのサリサが言う。
「魔法、って」
まだ言ってんのかよ、んなアホな。
そう思っている僕がもちろんいるのだけれど。
一方でどこか……これが映画でも夢でもないのではないかという恐ろしさが、僕の背筋を凍らしつつあった。
「ここは……アルドレン地方……」
「ごめん全然わかんない」
「パゥリノー大陸……北西……」
「だからわかんないって!」
信じたくない。いや、信じるとか信じないとかじゃない。
そんなことあるわけがないじゃないか。
だけど今、たった今体験した数分間の出来事は、あまりにもリアルすぎて。
「なんかもっと、あるだろ!? 日本じゃなくても地球だろ、どっか違う大陸に来てるとか、いやそれでも意味わかんないけど、でもとにかく――」
「この世界……他に大陸……ない、けど」
サリサが少しも僕を騙そうとしていないことは、この独特のしゃべり方においても明らかだった。
加えてその無表情が少し、僕を気遣っているというか、心配でもしているかのような顔になっていて。
……何だそれ? おかしいのは僕の方だってのか?
「おーいサリサ、ちょっとコレ解体してみてよー」
「ん……今行く……」
サリサがファレンの元へ歩いていき、小さなナイフを振るうと獣の首から血が噴き出す。
その様を虚ろな目で見ながら、一人残された僕は。
「は、ははは……」
物語の主人公たちがあっさり受け入れていた状況を、まったく受け入れられずにいた……。
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