第8話 トラウマと兄への想い
結局、仕事は延期という話になり、緋鞠は再び引きこもりに戻ってしまった。
中学生という事もあり、仕事自体は強要する必要もなく、ちょうど区切りの良いところで終わっていた。
レッスンは華月だけで行う毎日で、緋鞠は大好きだった生放送や食事時に顔を見せる事は無くなり、完全に部屋の中で佇んでいるようだ。
「緋鞠、行ってくるぞ。帰りに何か買ってくるけど、食べたい物や欲しい物はあるか?」
「.......」
返事はなく、こんな状態が一週間近く続いているのであった。見兼ねた俺も声を掛けるだけでそれ以上は何も出来ない。
「緋鞠ちゃん。私だけでも中に入っちゃダメかな?」
ドアノブに手を掛けようとした音に反応したのか、扉に何かをぶつける音が響く。
「私に関わらないで!!!」
緋鞠とは思えない程の大きな声で、拒否された事がショックだったのか、華月からも笑顔が消えて暗い表情で学校に向かうように小さな声で、挨拶をして玄関から去っていく。
その後ろ姿が気になり、華月を追いかけるように急いで付いていくが、既にエレベーターで下の階に移動したらしく、呼び戻そうとボタンを押すも駆け足で学校に向かう妹の姿を見ながら、申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまう。
何故、高所恐怖症というだけで克服した筈の引きこもりに戻ってしまったのかが不明である以上、俺が関与出来ないのも事実である。
仕方なくアルプロに向かうと仕事に身が入らず、社長から直々に呼び出しを貰う嵌めになる。
社長室に入ると、目に入った外の景色は俺の心を移すように雨で潤っていた。
「君がボーっとしているなんて珍しいね。緋鞠君の件と関係があるのかい?」
「すいません。兄妹なのに私は、妹達の事を何一つ理解出来ずに今回のような不始末を起こしてしまいました......」
申し訳なさに何度も頭を下げながら、社長の慰めにも安堵など出来なかった。
それ程までに緋鞠が再び引きこもってしまった事を悔やんでいるのだと、自分でも自覚しているのだと思う。
社長室から出て、自分の席に戻ると受付から連絡が電話に入り、静かに受話器を耳に当てて内容を聞こうとする。
「樹さんですか!? 華月ちゃんが今、フロアに来ているので早く来てください!」
まだ下校時間には早く、学校に向かう時に傘を持っていかなかった事から、状態はほぼ想像はしていた。
「華月!!!」
受付嬢の元へ向かうと、全身びしょ濡れ状態の華月が俯いて立っていた。
「兄...ちゃん.......」
俺の顔を見るなり、膝を着いてその場に倒れこんでしまう華月に近づいて、必死に名前を呼びながら揺するが、反応がないまま気絶していた。
事務所に連れて戻ると、仕事仲間の女性に濡れた服を脱がして、肌に付いた水滴などを拭いてもらう。
医者に掛かる事を勧められた為、早退という形で華月を病院に連れて行こうと、車に相手を寝せて走らせようとする。
「華月まで。どうしてこんなーーー」
やはり俺の知らない過去が二人を苦しめているのだろうか。
今は華月を救わねばならないと、荒っぽい運転になりながらも掛かり付けの病院に着くと同時に、相手を背中に抱えて受付まで走っていく。
平日で雨という事もあり、診察まで時間が掛からずにいつもお世話になっていた主治医のような先生に気絶している華月の容態を診てもらう事が出来た。
息を吞みながら、華月の捲り上げた服から晒した肌に聴診器を当てて検査している先生を見つめている。
「単なる疲れですね。落ち着いて休んでいれば治るでしょう。ただ体温の上昇が見受けられるので風邪の危険性も垣間見て、薬を出しておきますね」
その言葉に安心すると、寝ている華月の頭を撫でながら先生に感謝の言葉を送る。
会計で薬を受け取ると真っ直ぐ自宅に戻って、華月を自室に寝かせると夜の買出しに向かおうと再び、外に出て車を走らせる。
緋鞠も含め、華月の晩御飯には栄養のある軽食を作る事にした。
家賃が高いだけに数分で辿り着けるスーパーマーケットにて、食材を買い漁りながら自宅に戻ろうとすると、携帯に緋鞠からの連絡が舞い込む。
「もしもし。緋鞠か? 今、自宅に帰る途中ーーー」
「華月ちゃんが...家から出て行ったから......」
言いたい事を告げると直ぐに連絡を絶たれてしまう。
その言葉は本当らしくマンションの入り口で、華月が顔を青ざめながら何処かに向かおうとしているのが、すれ違い様に見えた。
駐車場に急ぎ、車を停めて華月の後を追うと近場にあった公園の木の下で、表面に手を当てて何かを呟いていた。
「華月! まだ安静にしてないとダメだろ!?」
後ろから肩を掴んで正面を向かせると華月は涙を流しながら、目を虚ろにしていた。
「ーーーごめんなさい...私が悪いの.......」
意識がはっきりしていないのか、俺に対して謝っているようには見えない相手を抱いて、自宅に戻ると緋鞠が玄関前で待っていた。
「.......お帰りなさい」
緋鞠は顔を合わせにくい表情をしていたが、相手の頭を一撫でして華月の自室に入るとゆっくりと抱いていた華月を寝せて、後ろから付いてきた緋鞠と共に安静になるまで手を握っている。
ようやく落ち着きを見せたように静かに寝息を立て始める華月を確認すると、揃って廊下に移動する。
「兄さん。私の部屋に来てくださいーーー」
相手に袖を握られると、強引に引っ張る相手に連れられて緋鞠の部屋に入る事になったが、いつ見ても自分の知らないグッズやポスターに覆われたオタク趣味全開の内装に目を奪われてしまう。
「.......そこに座ってください」
緋鞠が指差すベッドに疑いなく座り込むと、相手が沈黙を一定保った後に背中を向けて、着ていた衣類を脱ぎ始める。
「ひ、緋鞠!? 兄妹だけど、血も繋がっていないからってそんなーーー」
「何をエッチな想像をしているのか、わかりませんがちゃんと見てくれなくては話が進みません.......」
下着姿で這い寄る緋鞠から目を逸らしながら、ベッドの片隅まで下がりながら追い詰めたという様に顔を近づける相手の肩を掴んで自分から離す。
「兄さん。これは重要な話ですので、ちゃんと私の姿を見てください!」
言われるがままに頷く事は出来ないが、緋鞠の真剣な表情を見ると唾を吞みながら、相手の肌を見つめる。
「どう...ですか......?」
恥ずかしそうに顔を赤らめている緋鞠の身体を見ると、育ちの良い豊満な胸に目がいってしまうが、純粋に色白い肌であると感想を告げる。
「......兄さん。兄さんは本当に変態ですね。ココです! ココを見てください!!!」
相手に見せられるように腹部を顔の目の前に寄せられると、頭に当たっている膨らみの感触が伝わり、気づくのに数十秒掛けてしまった。
「傷......?」
腹部に薄く何かで切ったような痕が残されていた。傷自体は目立つものではないが、その部分だけ反対の肉付きが少し変わっていた。
「小さい頃に私は華月ちゃんと外で遊ぶのが大好きだったの。だけど、私は華月ちゃん程の体力も無く、それでも手を引くお姉ちゃんを追いかけて遊びまわっていたの。
そんなある日に木登りをしていた華月ちゃんを見て、私にもこれくらいなら出来るってその時は思っていたのかもしれない。でも結果はこの傷が証明してくれている。
木の枝に手を掛けた瞬間に脆くなっていた幹が折れて案の定、私は病院に運ばれたの。木の枝がココに刺さった程度なのに今じゃ、その思い出のせいで高い所がダメになっちゃった。
笑ってもいいんだよ? 自分でも華月ちゃんに少しでも追いつこうとして、馬鹿をしたって頭ではわかってるけど、今でも窓から見下ろした景色に足が竦んで動けなくなるのは、どうしようもないくらいあの出来事が怖くて仕方ないからだと思う」
普段は余り話さない緋鞠が、真剣に打ち明けた事。そして華月が気にしていた事。
全ては過去に起きた災難が原因で負い目を華月は今も感じているのだろう。
今朝の緋鞠の大声で自分を恨んでいると勘違いしたから、その事を俺に伝えようと学校を抜け出して、アルプロまで来たに違いない。
「兄さん。私がこの一週間を無駄にした事を怒ってくれても構いません。ですが、華月が私のせいで兄さんに迷惑を掛けた事は怒らないでくださいーーー」
相手の発言にため息をつくと、指を相手の額に向けると少し力を込めて、ピンと叩くように中指をぶつける。
「痛......ッ!? な、何をするんですか!?」
「バ~カ。この程度でお前らに怒る程、俺はお前の引きこもりも華月の無茶振りも受けてきた訳じゃないだろ。その程度で一々怒ってられるか」
額を抱える相手に上着を被せると、部屋を出て台所へと移動していく。
服を着込んで後を追ってきた緋鞠は、食事の支度をしている俺に声を掛けようとしているようだが、中々言葉を言い出せずに後ろに佇んでいるように額を押さえながら、む~っとしていた。
「緋鞠は、もし俺が飯の準備を忘れて引きこもっていたとしたら、俺を恨むか?」
「.......恨みます」
即答で笑いも出ない声の低さに驚きながらも質問を変えようとするが、上手い例えが見つからずに静かな時間が流れる。
「ーーー兄さんの言いたい事はわかります。私が仕事を投げ出した事もその程度の問題だと、そう言いたいのですね?」
「そうだ。だから、もっと俺に迷惑を掛けろ。それでいてワガママでもお前達は許されるんだ。俺と違ってまだまだ人生経験の少ない緋鞠と華月にはその資格がある。だからもっと無理なお願いもしたっていいんだーーー」
相手に作り掛けのスープの味見をさせようと、小皿に掬い上げて飲ませようと渡す。
「今でも私は華月ちゃんにも迷惑を掛けてるし、兄さんだってーーー」
「じゃあこうしよう。もし、緋鞠がそのスープにケチをつけるなら俺も今以上に厳しく当たろう。文句が無いなら、今までよりもっと甘えろ。いいな?」
煮込んだスープのアクを取りながら、困惑している緋鞠を横目に口を付けた事を確認すると膝を着いて、涙を流し出す妹の姿を微笑みながら、目の前の料理に集中している。
「ーーーズルいです兄さんは。私が兄さんの料理にケチなんて付けられるわけないじゃないですか」
作っていたスープも完成し、一段落過ぎたところで泣いている緋鞠に腰掛けて、俺の胸に顔を付けて暫くの間、泣いていた相手の頭を撫でていた。
夕暮れ時に見せた晴れ間を見つめながら静かにまた一歩、妹達に近づけたと確信を抱いていたが、まだまだ互いの理解を深めなければならないのだろう。
「緋鞠も俺に包み隠す事をしないようにな? 俺はお前の事が好きなんだからーーー」
「---ッ!?」
いきなり俺から緋鞠が離れると真っ赤になった顔で、俺を見つめて口をパクパクと動かす様に何かを言おうとしていたが、興奮状態にあるようで直ぐ様、部屋に走って戻っていく。
「ーーー変な奴だな。俺、変な事言ったか?」
料理を作る為に食材に向かい合いながらも首を傾げるが、思い入れのある言葉に過剰に反応をしたのかと少し笑ってしまう。
「ハァ...ハァ......。に、兄さんがーーー。.......そういう意味じゃないのは分かってる。でもこのドキドキはきっと私、兄さんの事ーーー」
胸を押さえながら、火照った顔を鎮めようとベッドに転がって枕を顔につける緋鞠も分かっていた。
あの言葉は家族としてだと。しかし彼女の中では、それだけではない期待が心の底に根栄えていたに違いなかっただろう。
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