第17話・生きる覚悟と護る覚悟
──晶子の口が、告別式のあった夜から今日帰って来るまでに起きた出来事を、音としてこの世界に紡ぎ出す。
「地面に叩きつけられる事を覚悟した時、カイルさんと出逢った時と同じような強い光が現れて、気付けば庭に」
話し終えた晶子は、その憂慮を宿した瞳で尚之を見つめた。
話した事は、体験した者でなければ信じられないような事ばかり。
けれど。
「ご無事で、良かった……」
受け止めた尚之は、その顔を安堵で歪めた。
確かに、信じ難い話ではある。
しかし、このような場面で晶子が偽りを述べない人間だと知っているからこそ──。
「信じて、くれるんですか……?」
「信じます。晶子様が真実だと仰るなら、私はそれを信じます」
悩む必要はなかった。
「わ、
耳に入った声に、三人は視線を滑らせた。
発言の主は、開かれたままの扉の傍に立つ家政婦。
共に覗く幾つもの見知った顔が、彼女の発言が事実であると伝えた。
カイルは目を細め、晶子は瞳を潤ませた。
上体を起こそうとするのを、カイルの腕が支える。
「皆さん……、ありがとう」
頭を下げる晶子に倣って、カイルも
その後、駆け付けた医師の診察を受けた晶子は、疲れもあって早々に眠りについた。
その頭を愛しく撫でるのは、カイルの大きな手。
・*・*・*・*・*・
「──異世界……」
「晶子ちゃんが、そう言ったのか?」
広々とした部屋に集まった人々は、顔を見合わせる。
いるのは尚之と北条家の家人。そして連絡を受けて馳せ参じた医師と、喬尚の死後、揺らぐ業界と社の手綱を操り、その手腕を発揮した北条グループ会長代理兼社長の高柳誠夫妻。
「はい」
「そうか……」
尚之の返答に、誠は瞼を下ろす。
「別の誰かが言ったのなら一蹴するところではありますが……」
「ええ。晶子ちゃんが言ったのなら、信じるより他はありませんね」
晶子が生まれた時から彼女の成長を見守ってきた喬尚の主治医であった医師の言葉に、誠は応じる。
彼らもまた、晶子が偽りを述べないと知っている人物だ。
「そんな事は、どうでも良いわ。晶子ちゃんが帰って来た事が何より大事よ」
誠の妻である由紀は、娘のように想う彼女の帰還を無邪気に喜ぶ。
それには皆同意見だったが、しかし問題が他にあった。
「カイル君、と言ったか。彼は異世界の人間なのだろう?」
「ええ。あちらで晶子様を保護され、お支え下さったようです」
「……」
彼らの眉間に皺が寄る。
沈黙が、その場を満たした。
「──俺から、晶子を奪わないで欲しい」
そこに、まだ聞き慣れぬ声が響いた。
振り向いた彼らが目に映したのは、扉の横に立つカイルの姿。
カイルは部屋に足を踏み入れた。
「俺の存在が、貴方達の悩みの種だとは分かっている。俺が消えれば、何の問題もなくなるという事も」
カイルは、その場にいる者達に視線を巡らせた。
「けれど俺は晶子から離れる気はない。三ヶ月前に唯一の身内であった祖父を亡くした今、俺にとって大切なのは晶子と腹にいる子供だけ。あちらに未練はないし、何があっても晶子と共にあると誓った。貴方達が望むならどんな事でもする。腕でも脚でも、俺ので良いなら幾らでも差し出す。だから、──晶子とだけは離さないで下さい」
深く、頭を下げるカイルは、ただ、晶子と過ごす毎日を
「勘違いなさっておいでですよ」
カイルの真摯な態度をその目に焼き付けた尚之は、ふっと笑んだ。
「……?」
首を傾げ、顔を上げたカイルは、自分を温かな目で見つめるたくさんの瞳に戸惑いを隠せなかった。
「誰も、貴方と晶子様を引き離そうなどと思ってはいません」
「そうだとも。晶子ちゃんが悲しむような事を私達がするはずがないじゃないか」
尚之に同調するのは誠。周囲にいる人々もそれに頷いた。
ただ、と尚之は言葉を続ける。
「カイル様はこの世界の方ではないので当たり前の事ですが、この世界のどの国籍も持ってはおられない。戸籍を持っておられない。それが難点で……」
「どういう事だ?」
理解出来ないカイルに、尚之は告げる。
「この世界は様々な国がそれぞれの法律によって護られている、と同時に縛られてもいます。ここ日本も同じ。日本国籍を持たないカイル様は、現在『正規の手続きを踏まずに日本国内にいる』状態です。つまり『日本に不法滞在』をしているという事。そしてそれは、発覚すれば『強制退去』を命じられる可能性が高い」
「つまり、国を出るよう命じられるという事、か?」
カイルの言葉に、尚之らは頷く。
「そうです。また、カイル様はどの国にも籍をおいておられない。日本を出たとしてどの国が受け入れてくれるか……」
「状況を、正直に告げる事は出来ないのか?」
それに、尚之は
「『異世界から来た』と?しかしそれを証明する事は出来ないでしょう。この世界は、目に見えぬもの、自分と違うものを否定する事がほとんどです。証明出来なければ信じてもらう事は難しい。それに譬え証明出来たとしても、研究という名目でカイル様は世界から隔離される事になるでしょう」
つまり、どちらに転んでも晶子とは離されてしまう。
カイルの表情が苦しみに歪んだ。
(──晶子と共にいられないのならば、死を選んだ方がずっと良い)
「それを回避するため、皆様に協力を要請するところだったのですよ」
絶望に思考を支配されかけていたカイルは、はっと顔を上げる。
「但しこれは、法を犯す事になりますので……」
それまでの穏やかな表情から一変、厳しいもので顔を覆った尚之は、視線を周囲に巡らせた。
「何、今更な事を言ってるんだ。私達が首を縦にしか振らない事を分かっていて色々と話しをしたんだろう?」
誠が口角を上げると、尚之も表情を緩めた。
「晶子ちゃんの力になれるんなら、何だってやるさ」
「私も、力になりましょう」
誠に続いて、医師も二つ返事で応じた。
「先生には大仕事をして頂く事になるかと」
「望むところです」
「私達も、微力ながら協力させて下さい!」
長く北条邸で働く使用人の言葉に、尚之は頷く。
「是非お願いします」
次々と進む話しに、カイルは瞬く。
──法を犯すという事は、罪を犯すという事でもある。それなのに、誰も反対しないどころか、自分も協力させろと名乗り出て。
「皆、晶子ちゃんや会長──晶子ちゃんのお祖父様を心から慕っているし好いているからね。どんな事をしてでも晶子ちゃんを護りたいんだ」
向けられた言葉にカイルは視線を動かした。
笑みを浮かべる誠が、更に口を開く。
「皆は決して裏切らないし、この事は墓場まで持って行く。安心するといい。皆で君達を全力で護るよ」
告げた誠の瞳に決意が光る。
それぞれと言葉を交わしていた尚之が口を開く。
「──晶子様の帰還は、然程時を置かずして大きく報道されるでしょう。そして、カイル様の事もいずれ明るみとなる。時間はあまりありません。早々に事に掛かりましょう」
「「はい」」
頷き、早速動き出す者達。
晶子と自分を護るために何の迷いもなく動いてくれる人々を目で追っていたカイルの傍に、尚之は歩み寄った。
「カイル様にも色々として頂く事と覚えて頂く事があります。──出来ますか?」
まるで晶子への想いを見極めるかのような瞳を向ける尚之に、カイルは確かに頷いた。
「やる」
『やってみる』でも『やりたい』でもなく、『やる』と。
瞳を和らげた尚之は、頬を緩める。
「では──……」
「あっちで晶子は、よく貴方達の事を話してくれたんだ」
話し合いを終え、カイルは尚之と二人、裏庭に接するウッドデッキに設置された椅子に腰を下ろした。
「私達の事を?」
「ああ。自分の大切な人達で、貴方達も大切にしてくれたと。それから、兄のように慕う人がいるとも言っていた」
「そう、ですか」
尚之は嬉しそうに目を細めた。
しかし、次に、躊躇いがちに告げられた言葉に表情を変える。
「それと……突然消えて心配と迷惑を掛けているにも拘らず俺や祖父さんと過ごす日々に幸せを感じてしまって、貴方達に申し訳ないとも」
軽く瞠目した尚之は、眉尻を下げた。喜びを、楽しみを素直に感じられなかった当時の晶子に想いを馳せる。
「そんな事、思う必要はないのに……」
その言葉に、ジェスが亡くなった当日、出先で二人言葉を交わした際に言って聞かせた事が間違っていなかったと知る。
「晶子様は私の知る誰よりもお優しい心の持ち主です。あの方のお陰で、会長もお変わりになった。会長は、とても晶子様を愛しておられました」
「あの指輪……」
「ええ。あれは会長が生前肌身離さず身に着けておられた物。他二つは、晶子様のご両親が亡くなるまで大切に身に着けておられた結婚指輪です」
カイルは遠くを見つめるように、目を細めた。
──自分の記憶を、呼び起こす。
「光……」
「え?」
唐突なその言葉に、尚之は首を傾げた。
「俺達がこちらに来る時に現れた光、あれは晶子の胸許から放たれていた。……多分、放出源は指輪だ」
「指輪が……?」
「ああ」
晶子は、落下の衝撃に備えて目をきつく閉じていた。そのため、光を感じる事は出来ても発光源までは知らない。
けれど、地面に叩きつけられようとしている晶子を救うためにその手を伸ばしていたカイルは、光が放たれる瞬間を目撃している。
あまりに強い光のため咄嗟に瞼を下ろしたが、しかし僅かな時間、確かに目を開けていた。
「それと晶子が俺の前に現れる前、指輪を握り締めて願ったらしい。──助けて、と」
「!」
はっと、尚之はカイルを凝視した。──それは。
「バルコニーから落ちた時も、子供だけは助けて欲しいと、強く願ったと言っていた」
考えられる事は。
「光は晶子を護るために現れた。晶子を護るために世界を移動させたと考えるのが妥当だと思う」
「ならば……」
「ああ。再び晶子の身に危険が生じた時、光は現れるだろう」
尚之は静かに瞼を下ろした。
「──それ程までに、あの方々の想いは……」
脳裏に浮かべるは、今は亡き、彼女に無償の愛を注いでいた人々。
「俺は、どんな時も、何があっても晶子と共にある。譬え再び世界を変わる事になっても」
けれど、とカイルは尚之を見遣る。
「ここにいる間は、どうか力を貸して欲しい」
頭を下げるカイルに、瞼を上げた尚之は微笑む。
「言ったでしょう。貴方達を離すつもりはないと。それに、もう二度と晶子様を危険な目には遭わせません」
そこから感じ取れるのは、あの夜、護り切れなかったという後悔。
「秋津さん、貴方は晶子を……」
言葉の端々から伝わって来る、想い。
尚之は陽が沈み、星と月が輝く空を見上げた。
「晶子様とは、彼女が会長に引き取られる少し前からのお付き合いです。それからは、ずっと兄妹のように過ごしてきました」
微かに、寂しさが覗く。
しかし、カイルに顔を向けた時にはそれは消え去っていた。
「晶子様は妹です。私にとって何よりも大切な」
強い意思の宿る瞳に、カイルはもう触れる事はなかった。
それから刻を置かずして、晶子の生還は尚之の予想通り、メディアに大々的に取り上げられる事となる。それは、晶子の母・亮子と伯母である公子の一方的な確執まで掘り下げられて。
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