第2話・別れ




 ──桜の蕾が開き始める季節。




 小高い場所の、広大な敷地に立つ邸の日当たりの良い一室で、鎖骨の辺りまである美しい黒髪をそのままに、内面の優しさが滲み出た整った容姿の年若い娘は悲痛な面持ちでベッドの上に横たわる白髪の老人を見つめていた。

 脇に置かれた椅子に腰を下ろす娘の背後には三十代のスーツ姿の男が。ベッドを挟んだ反対側には白衣を着た医師と看護師、少し離れた扉の前には初老の男がそれぞれ静かに控えていた。


 今にもその命の灯火ともしびを消し去りそうな老人は、しかし瞼を持ち上げ、娘の姿を視界に捉えると優しく微笑んだ。

「……晶子しょうこ

 力のない声で、けれどはっきりと愛する孫の名を呼ぶ。

 呼ばれた娘は老人の手を両手でしっかり握った。

「はい。お祖父様」

 覗き込む晶子の頬に空いている手を伸ばす。

「──すまないな。お前を置いて逝く」

「お祖父様……。そんな事を言わないで……」

 ともすれば目からこぼれてしまいそうな涙を必死に堪えながら、老人にすがる。

 そんな晶子の頬を撫で、老人はゆっくりと言葉を紡いだ。

「これは寿命だからな。どうしようもないよ。だが、晶子。お前は一人ではない。高柳や秋津がいる。彼らがお前を支えてくれる。──そうだろう?秋津」

 老人は晶子の背後に立つ男に目を向けた。

 死の淵に脚を掛けながら、しかしその瞳に宿る光は強く。

「はい、会長。我らが、晶子様を力の限りお護りし、お支え致します。ご安心下さい」

 流石、年商三百億を軽く超えるグループの頂点に君臨する男。

 たった一代でその企業を作り上げ、つい数日前まで病床にあってもその手腕を振るっていただけはある。

 老人の治めるグループの顧問弁護士を務める秋津と呼ばれた男は、しっかりと頷いた。

「頼んだ」

 満足げに笑みを浮かべた老人は、再び晶子に視線を移した。

 本当は、呼吸をするのも辛いはず。けれどものこして逝かなければならない愛する孫のために、言葉を発し続けた。

「──晶子。あちらで、亮子と彰君と三人でお前を見守っている。だから晶子は晶子らしく、生きて行きなさい」

「お、祖父、様……」

 とうとう晶子の瞳から涙が溢れて落ちた。

 それを優しく拭ってくれる細くなった手に自分の手を添え、晶子は頬擦りをした。

 晶子の頬に触れる手は、どんどん力を失い。それでも老人は笑みを浮かべて。

「……晶子。お前は私の、誇り。──あの子達の、誇りだ」

 ずるり、と老人の手が滑り落ちる。

「!お祖父様っ……!」

 悲痛な声を上げる晶子に、自然と閉じようとする瞼を懸命に持ち上げながら、それでもやはり笑みを湛えて声を絞り出した。


「……愛しているよ、晶子。私の、可愛い、かわいい……しょ、こ……」


「っっ、私も、お祖父様を、愛していますっ……。愛して、育ててくれて、護ってくれて……っ、ありがとうっっ……」


 瞼が完全に下がり、力も抜けてしまった老人だが、晶子の言葉はしっかりと耳に、胸に届き。

 最期の最期、弱々しく晶子の手を握る事でそれに応えた。



「──午後二時五十三分。北条ほうじょう喬尚たかなり様、ご逝去せいきょされました」



「お祖父様……っ!」

「会長……っ」

「旦那様っっ」

 部屋に待機していた医師が老人の死亡を確認すると、晶子達からその死を嘆く声が上がった。






 ──北条グループ創設者で会長・北条喬尚。

 膵臓すいぞうがんにて、その七十五年の生涯に幕を下ろした。

 気難しく、自分にも他人にも厳しく、恐れられていた喬尚が本当の意味で人々から慕われるようになったのは、晶子が誕生してから。



 その何よりも愛する孫に看取られた喬尚の死に顔は、とても穏やかであった──。






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