あの子になりたくなれない
あの子になりたい。彼女がそう言っていたのは何年前だったかは思い出せない。まだお酒を人前では飲めない頃だったと思う。彼女は文学と東京に詳しく、私と遊ぶ時には私の知らない東京を教えて田舎者で遊んでいる、そんな人だった。私の反応で遊んでいるのは察しがついたけれど、事実私は東京に詳しくなかったので、おとなしく彼女にとっての見せ物として消費されていた。そんな日々に彼女の口から何度も聞いた。「あの子になりたい」と。そんな願望を口に出す人を初めてみたのでずいぶんと驚いたのを覚えている。はっきりと人に興味を持つ人間の存在に気付いたのはこのときだったし、人に強い興味を持つ人間に気付けるくらいには私も人に興味を持てるようになっていたんだと思う。彼女はあまり精神が安定している方ではなくて、自分にないものを他人の人生から見つけては羨ましげに、恨めしげに自分の人生を貧者に例える。自分が弱いほど、自分自身の欠点を正当化できるみたいにふるまっていたし、それでいて自分よりもズルい女の子が自分よりも恵まれていることは許せないらしかった。彼女は本当に自分を不幸だと思っていたのかもしれないけど、私には、自分の能力の欠落に傷つくまでの一連の茶番を楽しんでいるかのようにみえた。してこなかった数々の努力を、できなかったことと言い換えては勝手に傷ついている。彼女がそうして積み上げた負けの数だけ、自分には相手を羨む権利があるかのように。自分の欠点を指折り数えては、そのまま握った拳で人を殴るのが彼女の趣味なんだなと理解した。彼女があの子になりたがるのは、ほんとうに「あの子」とやらになりたいのではなくて、殴る理由を探しているだけだ。カチッと時計の針が重なるようにある日気づいてしまった。その途端に私が彼女に抱いていた幻想はするりと解けて、ただのかわいそうな女性がそこに残った。ものを知らない私にとって「あの子になりたい」は向上心からうまれる感情、あるいは努力のきっかけだったけれど、彼女にとっては逆恨みの免罪符か、わたしかわいそう展のコレクションだった。
魔法が解けてしまった私はもう、誰かになりたいとは言えない。もし口にすればその人への憧れではない、別の感情に塗りつぶされてしまう。呪われた私はもう、あの子になりたくなれない。
短編集:ゆるやかな癒し 遠嵜結乃 @aonorin33
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