腹立たしく思えたら

 感情は空間と癒着して記憶される。見ている世界は言葉を介して感染する。皆で同じ場所に集まって同じこの本を読む時間は、わたしに対して皆になれと言われている気がしてあまりすきになれなかった。

卒業していく先輩を学校から追い出した日の夜、そう言って彼女は国語の教科書を色鮮やかに塗りつぶしていた。

墨塗りの教科書をつくってケラケラ笑ったり、自分に都合の良い言葉になるように朱入れをしたり、詩歌の一連まるごと修正テープで無かったことにしたり。著者への敬意なんて彼女の辞書にないと言わんばかりに自由だった。彼女が一通り遊び終えたあとに私は、どうしてこんなことをしたのかと尋ねた。彼女はわざとらしく思索を巡らせるポーズをとり、やがてゆっくりと語りだした。

わたしね、もっとちゃんと本が読みたかったの。国語の時間にさ、ナカジマ先生が舞姫やってくれたでしょ? あれ、わたしはものすごく嫌いだった。作品もナカジマ先生も大好きなんだけど、人生に一度しか来ないだろうなって思う作品との出会いを、「ここの一文が観光名所なんですよー」ってガイドさん付きで歩かないといけないのが、なんていうんだろう、腹立たしかったの。現国の時間にさ、現代文で舞姫とかこころをやるって知った時、すぐに文庫で買って全部読んだけど、だめだったね。その時に感じた気になるポイントとか、好きだなって感情が、授業の時間で全部塗りつぶされちゃって。もうこの教科書に書いてある文章は、学校の記憶とくっついちゃったから、もう作品として読めないの。好きなように感情を動かされているわけ。それってすっごく悔しくない? 大人になってさ、古典と呼ばれる良い作品を読み返すとあの時と違うものが見える体験ができるっていうけど、きっと私は一生この作品から教室の記憶しか出てこないよ。だからなんだろう、むかついちゃって、もうこの言葉たちが私に感染しないように、全部好きにしてやったの。ほら、見て? もう私の好きなようにしか読めない教科書になったよ。

子どもが描き終えた画用紙を母親に見せるように、彼女は無邪気に教科書だったものを私に見せる。確かに、およそ作品だったところは等しく無残にされている。歴史の教科書でみた、戦時中の教科書みたいだ。

現代文の教科書の亡骸をぱらぱらとめくっているとき、彼女は古典の教科書をひっぱり出していた。それも亡き者にするのかと尋ねたが、彼女は首を横に振った。

古典だけはね、わかんなかった。コバヤシ先生は悪くないんだろうけど、古今和歌集とか、土佐日記とか、単語の意味を教えてもらっても、自分の感情を動かせたって実感がまだないんだよね。だから、これはわたしが大人になるまではこのまま。あのときにコバヤシ先生が何をわたしたちに見せていたのか噛み締めて、ああ、好きにされていたんだなって、腹立たしく思えるようになったら、その時は墨汁に沈める。墨の時代の言葉だもの。

私は曖昧に笑いながら、沈みゆく教科書を思い浮かべた。

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