距離と人形のはなし
彼は私が何も知らないと思っているのだろうし、実際に私は何も知らないのだ。
いや、ちがう。私は彼よりも多くのものをしっている。ただ、彼の知っていることをたまたまいくつか私が知らず、私がしっていることを彼がしらないとう事実に未だ彼が触れないだけだ。そしてそれを意識しない彼の傲慢が、すべての根源なのだ。
私は彼と、それなりに多くの時間をいっしょに過ごすし、その様子は他人からすれば交際していると判断されるにふさわしいものであって、文書や口約束による明確な契約はなくともそういった関係であると考えて差し支えない。そうした関係にありがちなことだけれども、彼は私が第三者と一緒にいることを好ましく思っていない。正確に言えば、彼は私が第三者と一緒にいた話をするとほんの少しだけ空気の温度を下げる。ほんとうにばかばかしい。彼は私の世界を小さくすることで安心を覚えるのだ。彼にとって私は非力であればあるほど扱いやすく、都合のいい人間になる。いや、都合のいい人形になる。
そうそう、ついこのあいだ、彼と夕食を共にした。もう何度目かわからないけれど、ちゃんとしたイタリアンは確か三度目だ。私はスープから肉料理の間まで考えることを耐え、甘いものを食べながら言葉を反芻し、コーヒーが来たころに声に出した。あなたはほんとうに小さな人間だと。彼は私が驚くほどおどろいた顔をして、どうして、と付け加えた。すこしだけかなしい表情をしていて、私が彼に直接言葉を突き刺してしまったのは初めてだったことを思い出した。思い返せば私は、彼に自分の意見を言ったのは初めてだったかもしれない。ただしく言えば、波風をたてることをおそれずに自分の意見を言ったのが初めてだった。彼と話すのはしあわせな日常だったはずなのに、気が付けば言葉に縛られるようで、私がだんだんと小さなハコに押し込められて、彼の家にある家具の一つになっていった。だから私は言葉のなかに、人間にもどるためのちょっとした毒を盛ったのだ。だというのに彼はというと、
と、ここまでくだらない痴話喧嘩を事後報告のように聞かされる私はどうした顔をすればいいのか分からずにいる。私は彼女と会うのは久々のはずだけれども、その経緯はどうやら庇護欲求の強い彼の嗜好だったらしい。とはいえ、彼でなくとも自分の交際相手が元交際相手と二人きりで会っていたらいい顔はしないだろう。
彼女はなんというか、残酷なくらいにやさしくて、ふわふわした女性だ。服装や、ことばづかい、あるき方、縛られず留まらない立ち位置。だからこそ多くの男性は、彼女と同じ時間を過ごそうとむなしい努力を続けることになる。決して縛ることなどできないというのに。彼女が欲しているのは男友達や人脈ではない。ただ肯定がほしいだけなんだ。そして彼女は自分の肯定を手に入れるためなら、相手をありったけの肯定で埋め尽くす。このことに気が付いたとき、僕はおそろしくなって彼女からはなれるようにした。二年前のことだ。
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