第10話 一大決心
【殿山京香(山崎綾乃)66歳 VS 川田源蔵80歳】
「本気が?京香」
「ええ、本気よ」
「まったく、何を考え付くかと思ったら。また、とんでもないことを考えたもんだ」
真は信じられないよという顔をして私に言った。
「あら、理屈から言えば不可能じゃないわ」
私も負けじと言い返す。
「確かにそうだが…、可能ともいえない」と真が言った。
確かに、そうかもしれない。
でも…。
「ええ、でも、やってみないとわからないじゃない。それに出来ないかもしれないからと言って、時間を無駄に過ごすなんて、それこそ今の私にはないわ!」
「はぁ~」と疲れたように長いため息を吐いて、真は私に聞いた。
「で、どこから手を付けるんだ」
「ありがとう真、あなたならならきっと分かってくれるとおもったの」
真は余程の用が無い限り、最近では殆ど毎日ように私の家に出勤してきていた。
事務所は一番上の息子さんが跡を継いで優秀な弁護士を何人か雇い、バリバリ仕事をしている。
私はというと、幸運な事に真の下の息子さんに会社を任せている。だから私も余程の用が無い限り、会社にはいかない。
いずれ真の下の息子さんに私の会社を譲るつもりだ。結果、真はいま事実上、私専属の弁護士兼良き相談相手だ。
「まず、あの山を手に入れなければいけないわ」
「そうだな、だが、もし手に入らなければどうする。よしんば手に入ったとしても・・、」
「水が出るとは限らない。元の様に湖が現れるかは疑問だ!でしょ?」
「ああ、その通りだ」
そう言って真はちょっと呆れた顔をした。
「その時は、その時、後で考えるわぁ」
そんなことは真に言われなくても分かっている。でも、やらなければ結果は分からない。
「まったく、京香、君と言う人には負けたよ」
私は枯れた湖を再生させるつもりでいた。
可能かどうかは分からい。たまたま発展途上国の水がない村に、井戸を掘る番組をぼんやりと見ていた。
その時閃いたのだ。
水脈が有れば井戸を掘る事が出来る。水があるのだから。
だったら水脈を切られて枯れてしまった小さな湖の、元の水脈を見つけ出して掘れば水が湧きだし蘇るのではないか?単純な考えだが私はそう思った。
思ったら、やらずにはおれない私の性格は動き出した。それに理由はそれだけでは無い。
省吾だ。
私がこの世からいなくなった時の為に、省吾の帰る場所が欲しかった。
うぬぼれかも知れないが、私が居なくなれば物欲的な人間社会で、省吾は生きては行けないだろう。
だから、省吾が安心できる居場所を私が生きているうちに用意したかったのだ。
それにもう、私にそれ程多くの時間が残されているとは思わないから、出来るかどうかよりも、やるか、やらないかのどちらしかないと考えていた。
私の記憶では、あの山は代々続く農家の、ちょっとだけ名前を知る程度の人が持っているとおもっていた。
なぜなら、あの湖の場所を教えてくれたのは、当時、小学生だった私の甥と同いクラスにいた、その家の孫娘だったからだ。
だが蓋を開けてみると違っていた。
確かに戦前あの山を所有していたのは、その家であったが、農地解放で他人の手に渡り。
それからまた違う人の元に所有権が移転していた。
私はいつも思う。
不動産の面白いのは売り買いの利もあるが、一番面白いのは、その土地や建物に物語があることだ。
言い換えれば人の数だけ物語が存在する。
とくに、先祖代々人が住み続けているところは面白い話が多く聞ける。
売主本人から聞くこともあるが…。
隣近所の、特にお年寄りから聞く昔話は過ぎ去った遠い昔の人々の喜びや、悲しみ、忘れ去られた古き良き日本人の心の繋がりや、親が子供思う風習。
そして、もう昔話でしか会えなくなった人では無いもの達が、まるで昨日までそこに生きていたかのように、お年寄り達は話してくれる。
勿論、聞いていて楽しい話ばかりではない。
憎しみや、悲しみに満ちた話もある。
生きている時は親を見捨て、この世からいなくなると、どこからか、お金という蜜の香りに誘われて湧きだしたように争が勃発する。
故人の思い出の品は誰の目にも触れることなく業者に処理され、銀行のテーブルの上の事だけの為に、どれ程、自分が苦労をして時間を空けて来たかと、大層な言い訳を延々と述べる人達もいた。
それに、売る人と買う人はよく似ていた。
どこが似ているのかというといわれれば、例えば、分かりやすいところでは家族構成や、その後ろにあるバックグランドが似ている時もある。
或いは、考え方や、家よりも人のこと…。
例えば、持ち主、買い主、果ては不動産業者に、隣近所、銀行員と、あらゆる周りの人の人柄を気にするのが似ている時もある。
または、ものの価値観の置き方、お金の使い方のポイントが似ている時もある。
が、一番似ているのは、その人の醸し出す雰囲気というか、その人の持つ〝気〟だと思う。
だから一般の住宅でも、口ではどれ程この物件を買いたいと言っても、
・・家がいやがっている・・、
と感じるときは、条件がすべて揃っていても契約にいたるケースはすくない。不思議な事だが、なんらかの思いがけない邪魔ものが入るのだ。
逆に不利な条件でも、家が来て欲しいと望んでいる人には、不思議な事に、どこからか人を呼び、チャンスを呼び、助け舟がはいり、最後は円満に契約に至るケースが多い。
少し違う面白さがあるのは収益物件だろう。
一般の住宅とは少し違うのである。
何が違うかというと、売る側よりも、買う側が面白い。ひょいと買うのだ。
「これ、いただくわ」的な感じというところだろうか。
その一番の原因と言うか、大きな要素は不動産業者の、その担当者に最大の信頼を寄せているところだ。
この信頼関係があるからこそ、成り立つと言っても過言ではないと私は思う。
勿論、十分な資金もあるのだが…。
事実、ある会社の現役営業マンが、「伝説の…、あの方には本当に儲けさせて頂きました」と、前置きをしてから話し始める有名な担当者は、亡くなった後でも、その人徳で「うちは、いっさい浮気はしません」と、親から子へと会社に顧客を繋ぎとめた。
次に面白いのは家そのものだといえる。
よく、新築でもそうなのだが、空き家は傷むのが早いと言われる。
たぶんそれは、人がものを食べて生きるように、家が人の〝気〟を食べて生きているからだと私は思う。
気を食べて生きているから、同じ気を持つ人間を家は欲しがるのではないかとも思っている。
自分が息絶える前に…、家は人を呼ぶのだ。
それに家も人間と同じで小さい時から食べなれている、おふくろの味が忘れられない様に、食べなれた人間の〝気〟が家にとっても美味しいのだろうと私は考えている。
だから、売り手と買い手が似ているのは至極当然のことだと私はここでも思う。
それに、こんなことがあった。
息子夫婦と、小学生と幼稚園の二人の孫がいる年老いた母が、嫁の借金で困り果てて、夫が残してくれた自分名義の家を処分したいと言ってきた。
事情を聞くと嫁がパチンコにはまり、パートで稼いだお金は勿論の事。
息子の給料もつぎ込み、それを隠すために金利の高いお金を借り出した。
はじめは、すぐ返すつもりだった。
つまりはパチンコで勝って、返すつもりであったが世の中そんなに自分の思う様に事は運ばない。
とうとう家族の知ることとなり、泣きながら謝る嫁の〝心を入れ替えます〟の一言を信じて、この母親が自分の貯金からお金をだして、そのときは事なきを得た。
子供もいる事だし、これで改心してくれればいいと思っていたら何のことは無い。またやらかしたのである、パチンコによる借金を。
それも、これが4回目。
先の3回で年老いた母親の貯金は0になっていた。
さすがに頭にきた年老いた母親は、息子とは離婚させて、孫は自分が育てる事にしたと二人に言い放ったが、
息子が、「離婚はしない。それなら子供達を連れて、嫁と一緒にこの家を出て行く」と言い出したのである。
「ほとほと困り果てています。ですが、私がここで見放したら、孫は給食費も払えなくなります」とこの年老いた母親は、涙ながらに私に言った。
「お孫さんの?」
「はい、孫の給食費や、孫のおやつに学校や幼稚園で入用なもの。家族の食事代に家で入用なものは、すべて私が少し働いて貰えるお金と年金で賄っています。息子の給料は嫁の借金に殆ど消えて行きます。このままだと家を取られるかもしれません」
「そうなんですか・・、分かりました。全力で、ご協力させて頂きます」と私は約束した。
「お願いします」
年老いた母親は、ほっとしたような顔をして、来たときよりは幾分か顔色ももどり笑顔が少しこぼれていた。
だが、私は少し疑問に思うことがあり、言葉を選びながら、この年老いた母親に、慎重に、ゆっくりと話しかけながら聞いてみた。
「大変失礼なことだとは重々承知しているのですが、今のお話をお伺いしていて、私は本当に中原さんご自身と、それに息子さん一家。
特に、お孫さんのお幸せのお手伝いが出来る事に誇りを感じています。ですから、全力でお手伝いをして、中原さんの満足いく形で結果を迎えたいと思います。そこで、その為にも一つだけ、お伺いしたいことがあります。よろしいでしょうか?」
私の言葉に、〝何か自分に不都合な事を聞かれるのでは無いのか〟という、相手が少し身構える気配を一瞬感じたが、覚悟を決めたのか…、
「ええ、何でも聞いてください。今更、隠す必要も、隠すものもありませんから」と、この年老いた母親は私に言った。
「ありがとうございます。先ほどのお話ですと、お嫁さんが借金なさったのはこれで四回目で、よろしいのですね。そして、その前の三回は、中原さんが全額支払いになられた。息子さんは、お嫁さんと離婚する気はない。
このままだと、お嫁さんが、また借金をして旦那さんが残してくれた家まで取られるかも知れない。だから、そうなる前に家を売って処分したい。
つまり、借金のかたに家を取られて損をするよりは、価値を正当に評価した売買で、お金に替えてしまうとういうことですね」
私はゆっくりと言葉を切りながら、この年老いた母親に言った。
「はい、そうです」
「わかりました。そこで、私がお伺いしたのは、」
「はい」
返事をしながら彼女は、なんだろうという顔で私を見た。
「家を売って得られた代金ですが、また、それを当てにして、お嫁さんが借金をするとは考えられませんか?」
一度ついたギャンブルぐせはそうそう治らない。多分、無理だろう。
目から鱗で立ち直れる人は極端に少ない。
私の知り合いで、競馬が死ぬほど好きで、好きで、稼いだお金は自分の好きに使いたい。だから、結婚はしない。
家も、寝て起きてさえ出来ればいい。
服も、着れるものがあればいいと、結構なお給料をもらいながら小さなワンルームに住み、着た切り雀の人がいる。
まぁ、ここまで徹することが出来れば逆にあっぱれだが…。
だが、どうも、この嫁と息子は、老いた母親のお金を当てにして甘えている。
それに、この母親も甘い。お金は泉のように湧いてはこない。
例え、家を売り、一時的にまとまったお金が手に入っても、使ってしまえば無くなってしまう。
ましてギャンブルなどに使えば、それこそ世間で言う、あっという間だろう。
「それは大丈夫です。今度は隣どうしの賃貸に引っ越して、家計は別にします。隣なら、孫が、孫だけが来ればいいことですから心配はいりません」
「そうですか、分かりました」
・・隣・・、
果たして、それでうまく行くものかと怪しく思いはしたが。
これ以上、私が口をはさむことではない事は十分承知していたので、この話はこれまでにして事務的手続きの説明をし始めた。
今回も、売り主と買い主は似ていた。
この年老いた母親、中原さんの家を買ったのは、物件を見て検討して決めたのは、息子に超がつくほどの甘々の母親本人である。
おまけに契約の当日までのやり取りから、段取り、必要書類に証明書、手付金、仲介手数料、事務手続費用、諸経費のすべてに至るまで母親が用意した。
当日、息子さんは席に座り、サインと捺印をするだけで後は仕事があるからと、あっさりと言ってサッサッと帰って行った。
勿論、内装のリホーム工事代も母親もちだ。
息子に甘々の母親は、「お嫁さんと相談しないとぉ~」と嬉しそうに声を裏返して、重たい見本帳を抱えて迎えに来たご主人の車に乗り込み、いそいそと今から息子宅に向かうのだと言って帰って行った。
旧中原家のリホーム工事も終わり、最後の洗い工事に入った日に現場から電話があった。
それは、いつも洗い工事をお願いしているベテランさんの彼女、北原さんからだった。
北原さんの仕事は丁寧いで、女性目線で気が付くから仕上がりには大いに満足している。
これまでに、お客さんに褒められる事はあってもクレームがつくことは一度も無かった。
それに、昔の風習や仕来りをよくしっていて助けてもらうことも多い。その北原さんからの電話だから、何かあったな、とはすぐに理解できた。
「あのぉ、京香さん。現場に一度来てもらえませんか?」
と、彼女は困惑したような声ですまなさそうに私にいった。
「ええ、お昼一番からでもいいですか?」
「はい、構いません。すみません。お手間とらせてしまって」
「いえ、こちらこそ、すぐに行けなくてごめんない」と言い、私は北原さんからの電話を切った。
「これなんです」
北原さんが眉間にしわを寄せて指さす方向に、ちいさな石臼の上下一組のものが二つ、一組は上の石がなかった。
その石臼は、玄関横の屋根なし駐車場にある雨どいの排水口の真ん前に、無造作にポンポンと置かれていた。
仮にも口に入るものを扱う道具を外に置き、雨風にさらして、おまけに雨水が集中してかかる場所に置いていることが信じられなかった。
昔、子供の頃、祖母が臼は農家にとって、そして家にとって大切なもの。
確か使わない時…、正月は綺麗にしてから床の間に置くものだと言っていた事を思い出す。
たぶん北原さんもその事を知っていて、どうしていいか分からずに連絡してきたのだろう。
「大切なものですし、引っ越しの時に忘れられたのかと思いまして」
北原さんは控えめに言う。私は頷き中原さんにその場から電話した。
「あっ、中原さん、突然お電話して申し訳ありません。実は、お引越しの際に石の臼をお忘れかと思いまして、連絡させて頂きました」
「あぁ~、あれね。一つは漬物石で持って来ているから後のはいらないんです。捨てて下さい」
「漬物石…」
私は絶句した。
(中原さん、それはルール違反です。完璧なルール違反です)
私は、心の中で中原さんの返事が信じられなくて、繰り返し叫んでいた。それをどう勘違いしたのか、私が何も言わず黙っていると…。
「ええ、丁度いいんです」と、中原さんは楽しげな声を出して私に言った。
「そうですか、分かりました。では、こちらで処分していいということですね」
これは多分、何を言っても無駄だと思った。
無理に引き取らせて、ぞんざいな扱いをされるより、こちらでしかるべき対応をする方がお互いの為だと判断した。
「ええ、そうしてください」
はい、と言って私は電話を切った。
ため息がでる。
横で話しのやり取りを聞いていた北原さんの顔が、眉間にしわが寄る以上に暗い顔になっているのが分かった。
「ここのお家、もしかして、言い方へんですけど潰れたんですか?」
「ええ、ある意味潰れたといえるわね」
「そうですか、やっぱりそうなんですね。これを見た時、何となく思いました」
「ええ」
「よかったら、この上下ある分の一組を私が譲って貰ってもいいですか?今時、こんな綺麗な形の物は手に入らないから、捨てるなら頂きたいと思っていたんです」
「ええ、いいですよ。こちらで処分してくれと言われているので問題ないでしょう」
「ありがとうございます。綺麗に洗って大切に使わせてもらいます。でも・・」
「ああ、下だけ残っている分ね。それは、私が神社に持って行くわ」
「そうして下さい。でないと可愛そうです」と北原さんは辛そうな顔でいった。
石臼には、家の神が宿ると祖母から聞かされていた。
「だから、決して、漬物石にしてはいけないよ。そんなことをしたら、家が絶えてしまうからね」と、祖母は小さかった私に教えてくれた。
この家の主は、家の神を外に追いやり捨てた人間は、家に捨てられたのだ。
成るべきして成った結果、その時の私はそう思った。後から聞いた話では、確かに、最初は、お嫁さんがパチンコにはまり借金をした。
そしてその後を追う様に、中原さん自身も、お嫁さんと一緒にパチンコにはまり二人で借金をしていたのだ。
可哀想なのは小さなお孫さん二人だが、私にはどうしてあげる事もできない。
それから、2年後。
毎年会社から出す中原さん宛ての年賀状が、行き先不明で返ってきた時、石臼を外に捨て漬物石にしたのが先なのか、彼女たちがパチンコにはまり、借金をしたのが先なのかは分からないが、彼女たちは完全に家に捨てられたのだと思った。
家は、人間の様に声に出して自分の希望を言わないけれど、何故だか、人が、家の希望するように動かされているなと思う場面に出くわすと、すべてのものは実は意思を持って、生きているのではないかと思わずにはいられなかった。
だから、初め、あの山の持ち主で今年80歳の
☆-☆-☆
「それで、あんたはそう思うのか」
「はい、そう思っています」
「そうか、煙草はキセルに限る。香りが良いからな」
そして最後にキセルを褒め、マイルセブンをほぐしてキセルに入れて一服してからこういう。
これが、今日は、もう帰ってくれの合図である。
それから、また、お決まりの決め台詞がこれでお終いと続く、
「まぁ、また、きんしゃい」
なぜか来なさいが、いつもきんしゃいになる。
「はい、では、またお伺いします」
と、私がいつもものように答えると、
「この次に来るときの土産は、羊羹にしてくれ」
「分かりました。羊羹ですね」
「もお、おじいちゃん!すみません。気にしないでください」
と、孫娘の
「いいえ、私もお買い物の楽しみが増えますから」
悠美さんに笑いかけ、恐縮する悠美さんに見送られて川田家を後にする。
それは、ここ半年近く繰り返されてきた、私と川田源蔵との儀式であった。
その間、
たまに川田源蔵が真に話し掛ける時もあるが、ここ何か月かは殆ど無かった。
「しかし、今時、キセルかと思ったけど、最近ではあれを見ないと帰れなくなったよ」と真が笑いながら言う。
「そうね、それに、あのキセルを入れている取っ手の付いた木箱。手の込んだ細工がしてあるの…」
「ああ、あの時代劇に出てくるような、あれだな。確か、煙草盆というんじゃないか?」と真が、それがどうしたという顔をする。
「何だか、とても大切にしていて、孫娘の悠美さんにも触らせようとはしないわ」
「ああ、確かにそうだな。人間、大切なものを入れていたり、思い出のあるものは人に触らせたがらないから。そんなところじゃないか」
「そうね。そうかもしれないわね」
でも、なにかもう少し違うような気がする。
なんだろう、自分と同じ匂いがする、とでも表現するのがピッタリかも知れない。
不思議なことだが、なぜだか私はそんなふうに感じていた。
☆-☆-☆
「もお!おじいちゃん、失礼よ。毎回毎回、それに売る気が無いなら早くそう言ってあげないと!」
「・・・・・・」
だんまりである。
都合が悪くなると源蔵は、いつも聞こえないふりをする。
本当に年寄りの都合耳とはよく言ったものだと、縁側に座る源蔵を見て悠美は小さくため息をついた。
こうなると何を話し掛けても答えてはくれない。
そろそろ子供達も学校から帰ってくる。
おやつと夕飯の支度をしなければと、一人キセルを手に持ち、庭を眺めている祖父の源蔵を、ちらりと見てから悠美は台所へと向かった。
☆-☆-☆
あれは、何時のことだったか…と源蔵は、目を細めて遠い昔の事を思い出そうとしていた。
伯父夫婦に子供がなく、この家の跡取りとして、いやいや源蔵がこの家に、この土地に連れてこられたのは確か八歳になった春では無かったかと思う。
そうだ、たしかにそうだ。庭の桜の花が綺麗に咲いていた事を覚えている。いま、庭の桜の木は花をちらし、葉が少し色づき始めていた。
連れてこられた当初、言葉のイントネーションの置き方や、言葉そのものが違う喋り方をする源蔵を、周りの大人はそれが可愛いと笑うのだが、源蔵は一人疎外感を持ってしまい、だんだんとしゃべることが怖くなっていた。
加えて食べるものも微妙に違えば、味も母の慣れ親しんだ味では無い。
源蔵は早く父や母、姉や兄のいる家に帰りたくて、帰りたくて仕方が無かった。
それで隠れてよく泣いていたものだ。
でも小さな子供の源蔵にはどうする事も出来ずに、随分と我慢して日々の生活を耐えていた。
そんなある日。
そう、あれは山が紅く燃えるころ、学校でのちょっとした口げんかで使った言葉が可笑しいと、おまえはここの人間ではない。やっぱりよそ者だと何人かに囲まれ指をさされて笑われた。
このとき言い返したくても、また言葉使いがおかしいと笑われるのが嫌で、源蔵は下唇を噛み、手のひらに爪が食い込ませて、自分でも痛いくらい強く握りしめていた。
そして、ここで泣いてはいけないと、涙を見せてはいけないと自分に何度も言い聞かせたが、心の中は悔しくて、悔しくて仕方なかった。
だから源蔵は、今日を限りにここから出て行こうと決めた。
たった今から、家に、父や母、姉や兄の居る家に自分の足で歩いて帰るのだと決めた。
だからもう伯父の家には帰らないと決めた源蔵は、学校を出ると、その足で山に向かった。
家に帰る為に山越えを決行したのだ。
今から考えると随分無謀な事をした。
とてもではないが子供の足で帰れるなどという距離では無かった。
だが、悲しいかな、そこは子供だ。
まして地元の者ではない源蔵が、安易に山を越えること事態が無謀であることなどわかるはずもない。
山に入り、すぐに迷子になった。
行けども、行けども、同じような木々の大群があるだけの西も東も分からない。
そしてとうとう源蔵は、木立が生い茂る薄暗い山の中で、自分が今どこいるのかさえも皆目見当もつかない状態になっていたのだ。
日が暮れかけた木立の中に忍び寄る闇と、見上げる空の燃えるような紅色が混ざり合い、なんとも寂しげな美しさが辺り一面に漂う山の静けさは、ひとりぼっちの源蔵を一層不安に陥れた。
どうしよう、ここはどこなんだろぉ?と、源蔵は何度も心の中でそう自分自身に問いかけた。だが答えなど出るはずが無い。逆に恐ろしさが増すだけだった。
それに木々の隙間から見える空は、必死に闇から逃れようとして紅く燃えているように源蔵には思えた。
それはまるで、この土地から逃れよとしている今の自分のようではないのかと源蔵は思った。
だが空は、いま自分がいる山は、明日になれば太陽に照らされ新しい一日が始まる。でも自分はどうだろう、このまま右も左も分からずに、ただやみくもに歩いて山の中で
それどころか源蔵は父や母にも会えず、そして誰にも探してもらえずに神隠しにあったと思われ、伯父達には可愛いそうなことをしたとやがて忘れられて、このままひとりで誰もいない山の中かで寂しく死んでいくのだろうか?という不安が胸の奥からわき上がり、思わず源蔵の目に涙が溢れ出してきた。
それでも源蔵は、「男の子が泣くもんじゃありません」と言った母の言葉を思い出し、袖で涙を乱暴に拭うと、歯を食いしばり必死で我慢する。
この土地に連れてこられる日の朝、父は固い顔をして一言も言葉を発しなかった。それどころか父は、横を向いて源蔵の顔さえ見なかった。
代わりに源蔵の顔を見た母の目には、薄らと涙が浮かんでいた。
二人の兄は黙って下を向き、家を出て行く源蔵を見送ってくれた。姉は姿を見せなかった。だが姉は、最後に自分の名前を呼んで泣きながら家から飛び出してきて、人力車の後を追いかけて来てくれた。
源蔵も必死になって「お姉ちゃん」と何度も叫んだが、源蔵の名を泣きながら叫んで追いかけてきてくれた姉の姿も直ぐに見えなくなった。
その時の寂しさと不安が、今、同じように源蔵の心によみがえり胸が潰れそうに苦しかった。
誰もいない山のなかでひとりぼっちになってしまった源蔵は、怖くて、首に掛けたお守りを懐からだし強く握り締める。
これを母だと思って持っていなさいと、家を出る前の晩に母が源蔵に持たせてくれたものだ。
母の温もりを思い出し、源蔵の心が少し安心した。
その時、
・・ポチャン・・
という音が聞こえて空気がゆっくりと揺れ動き、静かに、そして源蔵の心の中に響き渡るように不思議な音が広がった。
その音を、美しい水音だと源蔵は思った。
不思議な事にその音は、まるで自分の身体の中から少しずつ湧き上がるようにも思えた。そしてその鮮明な水音が、源蔵の耳の奥へと届き揺れている。
まるで自分の内側から聞こえたように感じた不思議なその音を、源蔵はなぜだかとても心地良く感じていた。
そして源蔵は、お守りを握り締めたままで呼ばれるようにその音のする方に歩いていった。
目の前に広がる木々の群れの間を縫う様に小刻みに前に進むと、うっそうとして暗かった視界が一気に開けた。
源蔵の前には空の紅、山の紅を鏡のように映しだし、まるでそれ自体が生きているかのように、透明な水が微妙な波紋を広げて波打つ湖が広がっていた。
綺麗だと源蔵は思った。
そしてさっきまで感じていた恐ろしさを忘れてしまった源蔵は、暫しその光景に見惚れた。思わず一歩、また一歩と源蔵の身体が勝手に前に進む。
ザザッァ、だったか、ザァーだったかあまりよく覚えてはいないが…。
湖の底から、上へと何かが勢いよく湧きあがった。
それも、細かな光りの集まりと一緒に吹き出してきた。
吹き出した小さくてキラキラ光り輝くものが、今度は下に向かってハラハラと降ってくる。
その光りの舞い散るさまを、源蔵は口を半開きにして、ただただ綺麗だと思って見上げていた。
今度はスゥーという音がして、源蔵は我に返った。
・・龍?・・
一瞬、降り注ぐ光の中に源蔵は、自分を見つめる白銀の龍の姿を見たような気がした。
あのとき源蔵は、どれくらい空を見つめていたのだろうか、気がつくと白い光りは消えていた。
源蔵が白い光りの中に見たと思った龍の姿も、もうそこには無かった。代わりに青黒い闇の色が当たりを覆いだしていた。
『迷子になったのか』
口をぽかんと開けて上を向いていた源蔵は、夢うつつの面持ちの中、ゆっくりと声のする方に顔を向けた。
そこには、えも言われぬ美しい青年が、にこやかな笑顔を源蔵に向けて立っていた。
源蔵は言葉を忘れて頷いた。
『送ってやろう』
美しい青年は、源蔵に向けて左手を出した。
源蔵はなんの躊躇いもなく、その手を取った。
まじかで見るその青年の瞳は、片方ずつ色が違っている。ガラス細工のように美しいと源蔵は見惚れていた。
気が付くと、いつの間にか源蔵は山への入口近くに有る祠の前にいた。
『ここを、真っ直ぐ降りて行けば村に帰れる。よいな』
青年の言葉に源蔵は小さく頷き、ぎこちなく歩き出した。
少し行って振り返り、源蔵は青年にお別れの意味で手を振った。青年は美しい眼を細め、優しく源蔵に向けて微笑んでくれた。
それから少し行って、もう一度源蔵が振り返った時、そこにはもう誰もいなかった。
歩きながら、お守りを懐に直そうとした時、何かがはらりと落ちた。
・・光っている?・・
源蔵は蹲り、小さな手でそれを拾い上げる。
それは、自分の親指ほどの大きさをした白銀に煌く鱗であった。源蔵は無言で、それを母が持たせてくれたお守りの中にそっと入れた。
村に帰りつく頃には、すっかり日は暮れ落ちていた。
みじめな気持で伯父の家へと続く田圃道を、ひとりトボトボ歩いている源蔵を見つけて、同い年のいとこ太一が泣きながら駆けて来た。
源蔵が学校でいじめられていたと聞いた太一は、家に帰っていない源蔵を心配して探してくれていたのだ。
その日から太一は、源蔵を喋り方でいじめる奴がいると飛んできては庇ってくれた。
「あれは、龍の脱皮だったんじゃろう」
源蔵は遠い昔の、あの不思議な出来事を思いだしながら、ひとり言のように呟く。
それから戦争があって、父も母も、兄も姉も皆一瞬にして亡くなった。源蔵が生まれ、源蔵の家族が住んでいた町も、家も、一瞬にして消えた。
源蔵は、とうとうというか、これで本当に自分が帰る家を、家族を完全に失ったのだ。
あの日、その知らせを聞いたとき源蔵は、自分にはもうこの家で、この土地で生きて行くしかないのだと思った。
それは帰る家も、待ってくれている人も、もう自分には誰もいないことを意味していた。
ここにしか自分の居場所がないのだと、戦争が源蔵に思い知らせたのだ。そして戦争は色んなものを変えていった。太一の性格も変えた。
いや、太一は優しかった。優しかったから、醜い欲にとりつかれた人間の餌になってしまったのだ。
太一は、新しい事業を立ち上げようと甘い言葉に騙されて保証人になり、印鑑を押す。
その後は共同事業者と言っていた人物が、太一の名を使い、そこら中から借りるだけ借りたお金を持って姿を消す。後に残るのは、保証人になった太一の返済義務だけだ。
(そんなことを何度繰り返したんだ、太一)
とうとう最後に、どうすることも出来ずに金に困った太一に泣きつかれ、あの山を源蔵が太一から買った。
それで借金を返して、昔の太一に戻ってくれるかと思ったが考えが甘かったようだ。
呼び名が村から町に変わるころ、太一はどこかに姿を消してしまい、二度とこの村に、そして源蔵のもとに戻って来ることはなかった。
(もう、生きておらんわなぁ…、太一)
目を細め、紅く染まり始めた庭の桜の木を眺めながら、ゆっくりとキセルの煙草をふかす。
そろそろ本気の話をしなければいけないと源蔵は考えていた。
ここ半年で、山崎綾乃という人物の人となりは見た。
だが、それで十分信用した訳ではない。まだ不十分だ。もう少し確信が欲しかった。
「どれ、いっぺん出かけてみるか」
源蔵はそういうと、カーンと良い音を立ててキセルの中の煙草の灰を落とした。
☆-☆-☆
「ほんとうにすみません、我儘で…。おじいちゃん、迷惑かけないのよ!大人しくしていてね!」
源蔵は、孫娘の言葉など聞こえていないかのように知らん顔をしている。
悠美は、恐縮しながら京香に向けて何度も頭を下げると、源蔵に向かって夕方迎えに来ると時間を告げてから、外に待たせているご主人と、小さな子ども達と共に、車で源蔵を京香の家に送ったついでの待ち時間で、テーマパークに遊びに出かけていった。
「大きな家だ。それに綺麗に手入れがされている。家も喜んでいる」と源蔵は無愛想に言った。
「ありがとうございます」
やはり、この人と私は似ていると京香は思った。
一週間前、悠美から直接電話があった。
「すみません。祖父が、一度山崎さんのお家にお伺いしたいと言っているんです。いつも来てもらうばかりで悪いからと…。それと祖父は、今回は山崎さんと二人きりで会いたいというんです。その、すみません。弁護士の先生は抜きにして…、もらいたいそうなんです。勿論、私と夫が祖父を山崎さんのお宅まで車で送って行きます」
そう言った悠美の声は、とても緊張していていた。
たぶん源蔵は、私の何かを確かめたいのだろうと思った。私でもそうする。
自分の大事なものを人に譲るのである。誰でも良いわけがない。
まして、お金に困っているわけでもない源蔵には、今すぐにあの山を売る必要など無いのだから。
それでも確かめに来るというのは、多分、八割方の決心と、二割の揺れる気持ちは源蔵の年齢からだろうか…。
若かりし頃なら、私の話など聞いてくれさえしなかったかも知れない。
だが今の源蔵は、自分の年齢を考えると、いつ死んでもおかしくないことに気がついている。
それに、このまま山として物で残して行くのか、売って、自分の面倒を見てくれている孫娘夫婦の、ひ孫たちの将来の役に立つ、お金で残して行くのかを源蔵なりに思案しているのだろう。
そしてそれは、私が、あの山を譲るのに相応しい相手で有るかも勿論含まれている。
その為に私の生活なりを、源蔵は直接自分の目で確かめに来たのだと思った。
これは私の直感である。
長い間、不動産取引をしてきた者の勘だ。
しかし、何とも元気な御老体である。ここに来るのに、いくら自家用車で来るとはいえ、高速道路を使って5時間弱はかかるだろうか…。
それも道が空いていればの話しだ。
どちらにしてもここに来るための道のりには結構な時間がかかる。老いてその行動力と源蔵の体力には舌を巻く、私も見習わなければと思った。
電話を貰った時に、私は恐縮する悠美さんに対して、とても機嫌よく返事をした。
悠美さんには、私と源蔵おじいさんが話しをしている間は暇だろうから。
出て来たついでといってはなんだが、どこかへ遊びに出かけてみてはと?私は悠美さんに提案してみた。
初め悠美さんは遠慮していたが、家族会議の結果、子ども達が自分達も大きなじぃじと一緒に車に乗って行きたいといいだしたのだ。
それなら源蔵が私と話している間の待ち時間に、子ども達を連れてテーマ―パークに行ってもいいかと源蔵に尋ねると、〝行って来い〟の一言で話は決まったそうだ。
「あんたが、あの山の中に有った湖を、もう一度蘇らせたいというのは分かった。だが、あの山は、わしのもんであって、わしのもんじゃない」と源蔵は私に言った。
「それは、どういう意味ですか?」
私は、源蔵が何を言っているのかよくわからなかった。
(断りたいということかしら、なら、私の勘も当てにならなくなったわね)
思わず自分の欲どおしい考えが、先走ってしまったかと思い、内心私は苦笑した。
ちょっと嫌な空気が漂う部屋に、松子さんがお茶を運んできてくれた。
「お土産ではありませんが、ご要望の羊羹です」
私は、源蔵に対して少し皮肉を込めてそう言った。
「おお、これは美味しそうだ。遠慮なく頂くよ」
「はい、ゆっくり召し上がってくださいませ」と松子さんが、お茶と羊羹をテーブルの上に置きながら、にっこりと笑って源蔵の言葉にこたえる。
源蔵は嬉しそうにテーブルに着くと、松子さんが入れてくれた、温かい抹茶入りの煎茶と羊羹を、美味しそうに交互に食べだした。
松子さんは、そんな源蔵の姿を確かめる様に目を細めて、もう一度源蔵に微笑みかけると、急須を置いて静かに部屋を出て行った。
「気の利いた人だ。なかなか良い人を雇とる」と、いつになく機嫌のいい源蔵が私に笑いかけてきた。
「はい、優秀で優しい女性です」
松子さんのことを褒められて悪い気はしない、私も嬉しくて笑顔でこたえる。
源蔵はそんな私に満足したように頷いた。
「お茶をもう一杯いれましょう」
機嫌を良くした私はそう言った。
「これは、すまん。お願いするよ」
源蔵のこたえに、私はテーブルにある急須を取り、源蔵が差し出した湯呑にお茶を入れる。
暖かい湯気がほんのりと立ち昇り、柔らかな渦を軽く巻くようにして、ふわりとどこかに消えていった。
「さっきも言ったが、あの山は、わしのもんであって、わしのもんじゃない。いとこの、太一のもんだ。それをわしが買って、太一から預かっている様なもんだ」と源蔵は言った。
「と、言われますと?」
「太一は気の良い、優しい男だ。優しすぎて人から頼まれると嫌とはいえん。わしとは正反対の気の良い男だ。わしは…、誰も、家族の誰も知らんが、川田の死んだ両親の本当の子供じゃない。
わしの実の父親は、川田の父親の一番下の弟だ。わしには兄二人と姉がいた。わしは一番末の三男坊だ。親戚のばあさん達の一声で、育てるなら小さい方が良いだろう、その方がなつきやすいだろうという事だけで、わしに決まった。
それで、子供のいなかった叔父夫婦のもとに、川田の家を継ぐ跡取りとしてあの家に連れてこられた」
〝連れてこられた〟この一言に、小さかった頃の源蔵の心が垣間見られる。
・・辛かったのだ・・
彼にとってその出来事は、今も昔も、いまだに忘れられない理不尽な出来事として記憶に留められているのだろうと私は思った。
私は、ただ黙って源蔵の目をみて頷いた。
「わしは叔父の家にいることが嫌で、嫌でたまらんかった。そんななか、お国ことばで同級生から笑われて、もう我慢できん。家に帰ろうとして迷子になったわしを、必死に探してくれていたのは太一だ。
それから、ことあるごとに村の風習を知らないわしのことを、太一はいつも助けてくれた。喋り方が可笑しいと笑われるわしを見ては、飛んできて庇ってくれた…」
源蔵は、ふっと優しい目をして懐かしい昔を、時間の向こうを見ているようにしてほんの一瞬静止した。
それから大きく息を吸い、皮肉交じりの笑顔になり、
「だが、戦争が太一を変えた。あれほど働き者で、人の輪の中で生き生きしていた太一を、人の目を恐れ、人の言葉を恐れ・・。自分の耳に心地いい言葉しか聞かせない人間の言いなりになって、頼まれるままに、よく確かめもせずに、保証人になっては印鑑を押していき、親からもらった田畑を次々に騙し取られていった。
それから最後に残ったのが、あの山だ。太一はわしに、あの山を買ってくれと泣きついてきた。山を売った金で借金を返さないと、殺されると言ってな」
そう言って源蔵は大きなため息をついた。
「それで、買われたんですか」
私は静かに源蔵に聞いた。
「ああ、太一には子供の頃随分世話になった。わしは太一が…、正直で、優しい太一が好きだった。それに、もうあの山しか残っていなかったから、売るものが無くなれば、もしかしたら昔の太一に戻ってくれるかもしれんという甘い考えもあった」
「では?」
「ああ、暫くして太一は村からいなくなった。それでも、いつかは帰ってくるかもしれん。その時は、あの山を返してやらねばとおもっとった。だが、太一は帰ってはこんかった。だぶん、もう年だ。わしと同い年だ。もう今頃は、どこかで死んでいるだろうよ」
私はなにも言わなかった、言えなかった。私の言葉など、遠い月日を生きてきた想いに比べれば何の重さも無いように感じたからだ。
「だからもう、あの山を預かっておく理由は無くなった。だがあの山には、わしにとっても大事な思い出がある。売る相手が誰彼というわけにはいかん」
「ええ、当然です。私でもそうします」
「あんたなら、そう言うと思っとった。わしは、あんたになら売ってもいいと思っとる。思っとるが、最後の決め手に何か足りんもんを感じる。自分でも、それが何かが分からん。それで今日、あんたと二人だけで話したいとやってきた」
暫くの沈黙の後、「正直に話してはくれんか、あんたが、あの湖にこだわる本当の訳を」と川田源蔵は私に聞いた。
「分かりました」
源蔵の問いかけに私も正直にこたえようと思った。誠実にこたえよと思った。
そして、私は言葉を選び選び話しだした。
省吾と、あの湖で初めて会った中学一年の時から、もう一度会いたいという思いが届き省吾と再会したこと。
そして、今は二人で幸せに暮らすことになったことを話した。
このことはどうしようか…、とも思ったが、源蔵には隠す必要がないような気がして、これまでに起こった不思議な出来事を私は包み隠さず話した。
ただ、私が名前を変えたことは話さなかった。
それは、そのことは川田源蔵にはなんの関係もないことでもあるし。
もし、公になるようなことが起きた時に、私は、この人のいい老人に迷惑をかけたくはなかったからだ。
そして信じてもらえるかどうかは分からなかったが、年を取らない省吾をこのままひとり残しては死ねないことを、私の不安な気持ちを源蔵に素直に話した。
だから私が死んだ後も、省吾が安心していれる場所が、穏やかに暮らしていける居場所が欲しいのだいうことを話した。
その為にはもう一度、私は、あの湖を蘇らせたいのだと源蔵に話した。
そして、これは源蔵には関係無いことなのかもしれないが、省吾は私の初恋の人なのだとも話した。
私がどれほど省吾を愛し、省吾に愛されて幸せである今、この幸せをくれた省吾を、私は絶対に守りたいのだとも話した。
川田源蔵は、私の話をただ黙って聞いてくれていた。
その目には、私の話を疑う事も、蔑むことも無い、ただ優しい、誠意あふれる瞳の色が温かく感じられて私は嬉しかった。
「その人は、いま、ここにいるのかね」と話を聞き終えた源蔵が、静かに私に言った。
「はい、います」と私は素直に源蔵にこたえた。
「わしに、会わせてはもらえんかね」
「ええ、構いませんが、ただ、とても気まぐれな人ですから…、呼んだからといって、ここに来るかどうかの約束は出来ません。それでもいいですか?」
私は、思わぬ源蔵の申し入れに少し驚きながらも承諾した。
「ああ、それでもいい。会えんかってもいい。本人に聞いてくれるか」と源蔵は言った。
「それでは、少しお待ちください。今、呼んできますから」
私が立ち上がると同時にドアが開いた。
『我を、呼んだか』
「省吾?どうして?」
「ここに?」の言葉が出る前に、省吾は川田源蔵に向かい声をかけていた。
『そなた、また、父、母に会いに行く途中で迷子になったのか?』
省吾はそう言うと、優しい眼差しを源蔵に向けて微笑んでいた。
そして省吾を見た源蔵は、信じられないという様に、ゆっくりとテーブルに手をつきながら立ち上がっていた。
それから省吾の元まで行こうと椅子を引き、ゆっくりと歩き出すが、信じられないといった顔をした源蔵の動きはぎこちない。
どうやら足が自分の思うように前に進まないようなのだ。
思う様に自分の身体が前に進むことが出来ずにいる源蔵が、歯がゆい思いをしていることは、その顔と目を見れば私にもはっきりと分かった。
私は、慌てて立ち上がると、テーブルをぐるりと小走りして、源蔵の右側に回り込んでその身体を支えた。
☆-☆-☆
信じられなかった。
山崎綾乃の話を聞いていて、多分、自分が幼き日に助けられた、あの美しい青年と同じ人物ではないかと源蔵は思った。
思った…が、しかし、年月が恐ろしく過ぎている。
綾乃から年を取らないと聞きながらも、源蔵自身、その話に対して現実的にはピンときてはいなかった。
だが、今、自分の目の前にいる青年は確かに彼だ。
あの、左右が違う色の美しい瞳もなんら変わっていない。これは奇跡だと源蔵は思った。
一歩でも早く、彼に近づきたいのに身体が思う様に動かない。歯がゆかった。
見かねた綾乃が飛んできて自分を支えてくれる。
やっとのことで彼の前にたどり着き、首から下げたお守りを取りだした源蔵は、中に入れた大切な物を、彼にずっと返したいと思って大切に持っていた物を…。
今、やっと返すことが出来ると思った。
源蔵は、自分の中に安堵する気持ちが広がり、なぜか身体が、ふっと軽くなるのを感じた。
「これを返さないと」
取り出した、一枚の乾いて鈍く光る鱗を、源蔵は左手のひらに受け、右手は、左手を下から支えるようにして添えると、目の前の美しい青年に
『そなたは、大切に、これを今日まで持っていてくれたのだな』
「はい」と源蔵はこたえた。
『だがこれは、そなたのもの。我が与えた』
美しい青年は、その左右の色が違う美しい眼を細めて、そっと優しく笑うと…、差し出した源蔵の手を、ひんやりとした冷たい両手で包み込んだ。
次の瞬間。
源蔵の目の前には、紅い夕日と、紅く染まる山々が見えた。
そしていつも顔をクシャクシャにして笑う、源蔵が覚えている大好きな子供の頃の太一が、美しい青年の澄んだ青い瞳の中に見えた。
「源蔵、ありがとう」と、あの元気で自分が大好きだった頃の太一の声がした。
太一!と叫ぼうとして、「源蔵」と反対に呼ばれ、驚いて声のするもう片方の淡い緑の瞳を慌てて源蔵は覗き込んだ。
そこには、別れた日のままの若い父と母が、子供のままの兄達と姉が笑顔でいた。
「源蔵、よく頑張った。川田の家の為に、跡取りとして立派に役目を果たした」と、源蔵を褒めてくれる父の声が聞こえた。
「本当に、よく頑張りましたね」と母の声も聞こえた。
「源蔵、もう帰っておいで」と兄達の声がした。
「そうよ、早く、帰ってきんしゃい」と、おかしそうに笑う姉の声も聞こえた。
みんな、幸せそうに笑いながら自分を手招きし、嬉しそうに声をかけてくれる。
その瞬間、報われたと源蔵は感じた。
苦しくても、辛くても、堪えて生きて来て良かったとそう思った。と同時に、「ぐぐっ…」と堪える様にして声が漏れ、源蔵の目から涙がとめどなく溢れていた。
戦争が終わって、自分には、もうどこにも待ってくれている人も、帰るところも無いのだと源蔵が覚悟を決めたその日から、決して泣くまいと固く心に誓って生きてきた。
まるで、その年月の分だけ堪えた涙が、今、もう我慢することは無いのだと、美しい瞳が教えてくれたことに、自分の心がこたえる様に涙があぶれ出していた。
もういい、もうこれで十分だ。
もうこれだけで、思い残すことはない…とこの瞬間、源蔵は思った。
「綾乃さん。すまんが、あの弁護士先生を呼んでもらえるか。山はあんたに売る。ついでに、弁護士先生には遺言書を作ってもらう。あんたに売る前に、わしが死んでも大丈夫なようにしておきたい」
源蔵は、はっきりした力強い声でそう言った。
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