第9話 優しいお孫さん 

【殿山京香(山崎綾乃)65歳】


「今日はすまないね、無理を言って」と真がにこやかに笑いながら私に言った。


「いいのよ、杉山社長の娘さんの頼みだもの、それに」と言いかけて私は、『彼女は、もう永くは無い…』の言葉を慌てて飲み込んだ。


 杉山社長の娘さんは長年飲み続けたきつい薬のせいと、偏った食生活、加えて毎日の小さな精神的ストレスの積み重ねのせいだろう。彼女の内臓は静かに悲鳴を上げていた。


 だから彼女自身も自分の命がそう永くはないことを自覚していたのだと思う。そんな彼女が最後にもう一度だけ、昔住んでいた家を一目見たい。父親がいて、母親がいて、小さな彼女がいて3人で幸せだった頃の思い出のある家。

 その家を、もう一度自分の目で見て見たい。


 とくに子どもの頃。

 父親と一緒に植えた庭の小さな桜の木をどうしても見たい。彼女の父親が生きていたころは、毎年桜の花が咲くと母親がちらし寿司を作ってくれたのだそうだ。


 その思い出のある桜の木を、もう一度だけ見て見たい。

 たぶん、これが最後。

「もうこの春を見逃せば、私には、あの桜の花がどんなにきれいだったかをこの目で見ることは叶わないだろうから」と彼女は真に言ったという。


 そして、「どうか先生。今住んでいる人にお願いして欲しい」と何度も、何度も彼女は頭を下げ真に頼んだのだそうだ。


 勿論、私に異存はなかった。

 庭の桜はほぼ満開に咲いている。

 今日は朝から彼女の母親の味には程遠いことだろうが、彼女の思い出の一つである、ちらし寿司を松子さんに準備して貰ってもいた。


「安心して、真。お料理は私じゃなくて、全部、松子さんが用意してくれたから大丈夫よ」


 料理音痴の私の腕では、折角のこの大切な日の思い出が台無しになる。私の正直な言葉に、・・「それは助かった」・・とも言えず、真はなんとリアクションしていいのか分からずに苦笑いしていた。 


 松子さんは私より6歳下で、この家に引っ越してきて2年目に真の紹介でやってきた。


 そのころ山崎綾乃で新しく起こした会社の仕事が忙しく、とてもこの広い家の掃除などには手が回らなかった私は、はっきり言って悲鳴を上げていたのだ。


 業者に頼めば済むことだが、どこの誰だかわかない他人を、省吾を守る為の、この家の中に私は入れたくは無かったのだ。

 困り果てた私が真に愚痴を言うと…。


「良い人がいる。その人なら大丈夫だ。安心できる。信頼していい。僕が太鼓判を押すと」と、いつになく真が熱心に私に勧めてくる。

「ただし、住み込みで働かせてやって欲しい」とも言われた。


 正直、私はどうしょうかとは思ったが、真がそこまで熱心に勧める人ならばと一度本人に会うことにした。


 真に連れられて松子さんがこの家に初めて来た日。

 松子さんは正直に、私にこれまでのことを…。松子さんに起ったすべての事を包み隠さず私に話してくれた。





☆-☆-☆


 母一人、子一人。

 6帖一間の小さなアパートで母親と暮らす松子さんは、お父さんの顔を知らない私生児として生まれた。

 子供の頃はそのことで、随分と嫌な言葉を周りの大人たちから遠慮なしに投げかけられたらしいが、元来明るいお母さんに育てられたせいか、それほど自分を不幸だとは松子さん自身は思わなかったらしい。


 高校を出た松子さんは電気部品の工場で働き始め、そこでご主人と出会った。

 丁度、ご主人と出会って結婚の約束をした頃。長年の無理がたたって松子さんのお母さんは亡くなった。


 松子さんがお嫁にいくことを、松子さんの花嫁姿を見ることを誰よりも楽しみしていたお母さんは、まだそのころ恋人だったご主人の手を握り、病院のベッドの上で涙を流して喜び、二人が結婚することを心から祝福してくれた。


 あの時、お母さんに自分の花嫁姿を見せてあげられなかったことは、今でも唯一の心残りだと松子さんは言った。


 だが、松子さんが私生児だという事で、ご主人の母親に猛反対された。

 そのとき、もうその町には松子さんを愛してくれたお母さんも居なかったから…。二人は、二人だけで幸せになる為に駆け落ちしたのだ。

 何とも情熱的な人達だ。



 それから知らない町での二人だけの生活が始まった。

 その後、その地で松子さん夫婦は男の子と女の子の子供さん二人にも恵まれる。


 贅沢は出来ない暮らしだったが、一家四人のつつましやかな笑顔の絶えない幸せな生活は、松子さんにとって生涯で一番贅沢な時間だったと言った。


 でも、その幸せは…、そう長くは続かなかった。


 ご主人が勤め先で大怪我をして働けなくなったのだ。一年契約の契約社員であるご主人に十分な補償など無い。

 貯金が底をつき病院の支払いにさえ困りだす。


 誰も知らない町で頼る人も無く、どうしていいか分からない松子さんには、怪我をしたご主人と小さな子供を二人も抱えて途方に暮れた。


 そのときの松子さんの毎日は、それこそ出口の見えない暗い闇の中をどう歩いていいか分からず、誰にも相談できず、時間だけが待ったなしで過ぎていく恐ろしさは、私には想像できないくらいに苦しかったのではないかと思う。


 きっと、それはご主人も同じだったのだろう。

 心根の優しいご主人は、家族を守るどころか反対に苦しめている自分に耐え切れず。病院の屋上から発作的に飛び降りて帰らぬ人となった。





☆-☆-☆


 ここまで聞いて私は、松子さんになんといって声をかけていいのか分からなかった。

黙ったままで真を見ると、真は無言で私の目を見て・・「なにも言うな」・・という顔をした。


 何故なら松子さんの不幸は、それだけでは終わらなかったからだ。



 それから松子さんは、子供達と三人で生きていくために新聞配達の仕事を始めた。早朝の新聞配達と夕刊の配達は、子供達の為に昼間家にいてあげる事が出来たからだ。


 その日も夜が明けきらない冬の寒い朝、松子さんが朝刊の配達に出かける前に、子供達が起きて来たときに寒かろうと、いつものようにホットカーペットの電源を入れて出かけた。


 そのホットカーペットは新しく買い替えるからということで、知り合いから譲って貰った古いものだったが、子供達の将来を考え一円でも多く二人の為に貯金したい松子さんにはありがたかった。


 でも、それが裏目に出た。

 小さな節約が漏電という炎を連れてやってきたのだ。メラメラと燃え上がる炎と煙は、3歳と5歳の小さな子供たちの未来をあっという間に奪いさっていった。



―どれほど、熱くて、怖かっただろうか…―


 炎の中、母の姿を求めて泣く小さな子ども達のことを思うと…。何気ない日常に潜む、小さな自分の不注意で子どもの命を奪ってしまった母の心を思うと…。

 もうこれ以上は聞いていられない、胸が苦しくなる。



「お茶を入れましょう」と私は松子さんに言った。

…が、

「いいえ、最後まで聞いてください。それで駄目ならかまいせんから。最後まで、このまま聞いてください。私が犯した罪のすべてを聞いてください。お願いします」


 立ち上がりかけた私に松子さんは食い入るような目で訴えてくる。そして、それとは反対に言葉は淡々と口から出ていた。



 それからの松子さんは腑抜けのように暮らしていた。

 それはそうだろう、殆ど時間を置かずに、ご主人と、小さな…。一番可愛らしい時期の子供達をいっぺんに失ったのだから当たり前だ。

 妻として、母として、自分をどれ程責めたのかということくらいは私にも暗に想像がつくことだ。


 だが、世の中には自分の貧弱な物差しで人の不幸を推し量り、有ること無いことを尾ひれはひれを付けて面白可笑しく話す人がいる。


 加えてたちが悪いのは、松子さんが自分を責めてなにも言いかえさない事をいいことに、言葉をどんどんエスカレートさせ、まるで自分が勝者で有るかのように立ち居振る舞い、挙げ句の果てに勝ち誇ったように勘違いしていく人たちがいることだ。


 それらの輩はどこにでもいる。

 無責任な言葉を、噂という一言で片づけて垂れ流す悪魔の様な人…たち。


 その日、その人物は聞えよがしに何の罪もない。もの言えぬ死者さえをも貶めるという、決して人としてやってはいけない悪魔のような言葉を口から吐いたのだ。




 その日、松子さんは身を寄せていた知り合い夫婦とともに出かけようとしていた。

 松子さんを心配したこの夫婦が、少しでも外の空気を吸って気が晴れればと、今日のお昼は外に食べに行こうと松子さんを誘ったのだ。


 が、道を挟んで斜め前の家に住む女は、事あるごとに家の前まで来て松子さんに聞こえるように大きな声で松子さんの噂話をした。


 そして…、その女は、松子さんたちが家を出る音を聞きつけワザワザ外に出てくると、松子さんの知り合い夫婦に挨拶する近所の人数人に向けて、


「ねぇ、ねぇ、あの子達。二人ともご主人の本当の子供じゃなかったらしいわよ。怖いわね。だから保険金目当てに殺しても平気なのよ。だって、ほらぁ・・、ご主人も、もう死んでいるからわからないじゃない」と得意そうに恐ろしい言葉を吐いたあと。


 その女は目を細め、さもおかしそうにニヤリと松子さんを一瞥して、これ見よがしの大きな声で高笑いした。


 そのとき、あまりにも酷い。いや、普段からその女の言葉を許せなかった知り合いのご主人がたまりかねて、「いい加減なことを言うな!この嘘つき女が」とその女に向けて怒鳴った。


 奥さんは「あんなおかしな人の言うことなんか気にしなくていいのよ」と、松子さんを身体で庇いながら言ってくれた。

 だが、松子さんには、この言葉が許せなかった。その笑い声が許せなかった。



 子供達二人が生まれた日。

 松子さんにとって決して忘れることの出来ない二人の誕生日だ。その日、二人の生まれた日を、ご主人がどんなに喜んでくれたか。自分もどれ程嬉しかったか。


 仕事場から着替えもせずに急いで駆け付けて来てくれたご主人が、油の付いた手でガラス越しの生まれたばかりの子ども達を見て、うれし泣きして涙をぬぐうから顔中が真っ黒になって笑った日が汚された。


・・・許せない、この女。絶対に、許さない。・・・


 それから後の事は余りよく覚えていないと松子さんはいった。

 ただ今でもはっきり覚えているのは、一瞬にして自分の目の中に飛び込んで来た、知り合いのご主人が花壇を作ろうとして置いていた煉瓦の山…。


 松子さんは目の前に積み上げられた煉瓦の一つを反射的につかみ、松子さんの後ろでニヤニヤ笑いながら近づいてきたその女を振り返りざまに、相手の顔を力いっぱい殴った。


 殴られてよろめき、倒れて驚いた目で何か叫びながら這うようにして逃げるその女のあとを追いかけて、捕まえ、何度も殴った。相手が動かなくなっても殴り続けた。


 その間。音も、色も、周りの風景さえも、そしてさっきまでいたはずの知り合い夫婦も、近所の人たちもいなく無くなっていたと…、松子さんは、ゆっくりとかみしめるように私に話してくれた。


 そして気が付いた時には、相手に馬乗りになって誰だか分からないくらい顔を殴っていたのだと、乾ききった声で松子さんは私に話してくれた。




「私は人殺しです。人殺しなんです。夫を殺し。子供達を殺し…。近所の奥さんを、たった一言の憎しみから殺しました。裁判を受け、刑務所に入り。罪は償いましたが。私が人殺してあることに変わりはありません」


 言い終わると松子さんは私の目をじっと見た。

 松子さんの目は、瞳は…、小さな子リスの目のように丸くて、黒々として可愛らしく輝いていた。


 でも私は、私の心は、今の話の内容と目の前の松子さんとの間にあるものが飲み込めずにいた。

 余りの事に、正直、私はどうしていいか分からなかったのだ。


 だから、松子さんに対して何を話しかけていいのか、どう返事をしていいのかも分からなかった。


 私は、この沈黙に耐え切れなくなっていた。

 そして、松子さんに私の今の気持ちをどう伝えればいいのかも分からなかった。いや、その前に、松子さんにこの家に居てもらうのかどうかも決められない私が、困って目線をさげたと同時だろうか…。


『そなた、タラの芽は作れるか』といきなり省吾の声がして驚いた。


 松子さんに向けられた省吾の優しい声は、重苦しい空気を破り私をホッと一安心させた。

と同時に私には意味が分からなかった。


 だが松子さんはいきなり現れた省吾が、自分に対してタラの芽は料理できるかと聞いたのだと理解したらしい。

「はい、母に教わりましたから作れます」


 松子さんは、あっけに取られながらも省吾にむかって慌てて返事をした。

省吾は、松子さんのその返事に優しげに微笑んだ。

そして、


『ならば、所望する』

 と省吾はそれだけ言うとリビングの扉を開けて、さっさと奥の別棟の和室に帰っていった。




「なんなの?いまのは…。でも、これって、OKってことよねぇ」

 きっと松子さんに居てもらうかどうかということを私が決められないでいたから、省吾が決めたのだ。

 私は、ほっとしたように真に話し掛けた。


「そうらしいな」

 私と真の会話の意味がよく分からなかったのだろ。

 松子さんはポカンとした顔で私達二人を見た。それから省吾が出ていった扉を見てから、「どうしましょう?タラの芽?」と不安そうな顔をして聞いてきた。

 その日から松子さんは、この家にいる。




 あの日、松子さんが作ってくれた、ほんのり苦い春を告げるタラの芽のてんぷらに添えられた抹茶塩をぱらりとふりかけて、それをほんの少し口にした省吾は、『美味であった』と一言いっただけだった。


 そして…。真も、松子さんも省吾の瞳を見ても狂わない。

 壊れない。

 それは多分、真をみて〝美しき闇を持っておる〟と言った省吾の言葉の意味と同じで、己の罪を自覚する者という意味だからだろうと私は思う。


 己の罪の深さを知っているから、自覚しているから、省吾の瞳はけがれを映す鏡にはならない。人知れず心の奥底に沈めた穢れに、自分の心を飲み込まれることはないのだ。





 松子さんが、杉山社長の娘さんである美香子みかこさんの為に用意してくれたこの日の料理はメインのちらし寿司に、はまぐりのすまし汁。

 鯛の昆布じめ。ひじきの五目煮。レンコン団子に茶わん蒸し。きゅうりのむらさき漬けと、食事の最後に甘い春の桜餅と抹茶。


 どれも料理に合わせて松子さんが選んでくれた、桃色を基調にしたガラス食器や陶器、桜の花びらが描かれた漆器にと美しく盛られていた。


 そして、ちらし寿司には錦糸卵が山盛りにのっている。

 杉山社長は美香子さんの大好きな錦糸卵を、山が出来るくらいたくさんちらし寿司の上にのせてくれたのだという話しを真から聞いて、それを真似たのだ。


 山盛りの錦糸卵を見た瞬間、

「こんなに沢山、ありがとう」

と驚き、そして薄らと涙を浮かべ微笑んだ美香子さんの、痩せて青白くなっていた頬に少しだけ赤みがさしたように思えた。


 だが美香子さんは、もう、それほどたくさんの量は食べられなかった。どの料理も、ほんの一口、二口…と手を付けてから小さな声で〝ごめんなさい〟を繰り返した。


 それから、懐かしそうにリビングに置かれた家具を見て回る。美香子さんは、そのどれにもそっと手を伸ばし、微笑み、愛おしそうに触れていた。きっと、そこには美香子さんだけが知る懐かしい思い出があるのだろう。


 そして、少し疲れたのか美香子さんはソファにゆっくり座ると、うつらうつらしだした。


 まだまだ時間はある。

 起きたら美香子さんが一番会いたかった。お父さんが美香子さんの為に植えてくれた、奥の庭の桜の花を見に行けばいい。私は、そっと美香子さんに薄い毛布を掛け、その眠りの邪魔をしない様に真とともに別室へと移動した。





 ☆-☆-☆


(・・寒い・・)

 肩が冷えて美香子は無意識に毛布をたくし上げていた。

 そして、ここは?どこだろうと、ぼんやりとした頭であたりを見回した。静まり返った空間に人の気配は無かった。


 暫く考えて、ああー、そうか、昔住んでいた家を見たいと秋川先生に無理をお願いして、今日ここに来たのだ。

 そうしたら、思いがけず昔母が作ってくれた錦糸卵の山盛りちらし寿司に迎えられて、嬉しくて、つい、いつもより少し多めに食べてしまった。


 それに、処分されずに置かれていたリビングの家具を懐かしく触り、眺めていたら、なんだか疲れて寝てしまったんだ。

 きっと気を聞かせて一人にしてくれたんだろう。


 美香子は身体を起こして、毛布をゆっくりと丁寧に膝の上でたたみソファの上に置いて立ち上がった。

ひんやりとしている。


 この時期特有の空気感、・・・桜の花の咲く頃の・・・“花冷え”と、よく母が言っていた。


「美香子ちゃん、花冷えの頃は気が付かないうちに身体の芯が冷えて風邪を引いてしまうから、カーディガン着るのを忘れないのよ」

母の目は、そう言っていつも優しく笑っていた。


 そうだ、私はいつもそう言われると、身体の芯はどこにあるんだろう?と思いながら「はぁーい」と元気な返事だけして、外に飛び出していったっけ。


 そう、そうして外に飛び出すと、いつもそこには父がいた。

 あの、桜の木の前で立っていた。


〝美香子ちゃん〟と私の名を呼びながら母がカーディガンを持って追いかけてくる。

 私はそれが嬉しくて笑いながら逃げたんだ。そして、父の大きな手に捕まって…・。


 それから、どうしたけぇ?身体が勝手に動きだしドアを開けて廊下にでる。廊下に漂う空気はヒンヤリとして静かで冷たい。

 自分の履いたスリッパの、小さなパタパタとなる音が響く。


 そのとき、突き当たりにある外に出るガラス戸の向こうに、満開の桜の木の前に佇む人影が見えた。


(お父さん?)

 美香子は一瞬息を飲み、思わずガラス戸に駆け寄っていた。



(・・そんなはずない・・)

 父は、私が小学4年生の時に亡くなった。

 それに、いま私は皺くちゃのおばあちゃんだ。

 父に抱っこされていた小さな可愛らしい子供じゃない。だから、いま父がここに居るはずはないのだ。


 なのに私は、もしかしたらなどという淡い妄想を描きつつ、そっとガラス戸を開けて静かに彼に近づく。

 足元の土の冷たさがひんやりと薄いストッキングを通して広がる。


 やはり違う。

 若い、とても若い男性だ。

 二十歳くらいだろうか?いきなり近づいて驚かれはしないかと私は緊張した。


『そなたの桜』

 言葉と共に振り返った綺麗な瞳の青年は、私に向けてそう言った。

 私は息を飲み、彼の瞳を見つめる。


『そなたの為に、植えられた桜』

「ええ、父が植えてくれました」と私は反射的に彼の言葉にこたえていた。


『そなたと同じ、背丈であったと申しておる』

(えっ!だれが?・・まさか、桜?)と自問自答しながら私の口が勝手に言葉を発していた。

「桜が?」


 何を言っているのだろう。確かに私と同じ背の高さの桜を父が植えてくれた。

 私を桜の横に立たせて、「美香子と同じ背の高さだ。美香子の桜だよ」と言って植えてくれた。


『いままで、どこに行っていたのかと申しておるぞ。一人で寂しかったとな』

「ああぁー」

 そうだ、植えながら父が言ったのだ〝この桜は、美香子の妹だ。一緒に大きくなるんだよ〟と。

 私の脳裏に忘れていた父の笑顔をよみがえる。


『昔の様に、もう一緒に並んではくれぬのかと、妹は申しておるが』

 美しい瞳の青年は、にこやかに笑いながら私に話しかけてくれる。


 なんて、優しい時間なのだろうか。

 喉の奥が熱くなり言葉が出ない。

 代わりに涙が自然にこぼれてくる。


 彼はそんな私に微笑んでくれた。私の涙が止まるまでの時間を静かに待っていてくれていた。

 そして私は、少し時間はかかったが「ええ」と彼に向けて小さな声で返事することが出来た。


 私は、彼の優しい微笑みに見えない勇気を貰ったような気がして嬉しくなり、小走りして桜の木の横に立った。

 そして、父と母の前でよくそうしたように桜と…妹と一緒に並ぶと、そっと桜の木に手を添えてみた。


(・・あたたかい・・)

 それから、私よりも大きく成長した桜の木を見上げて、何の不安も、寂しさも知らなかった頃の私が、父と母に向けてしたように心から笑うことが出来た。

 このとき、忘れてしまっていた大切なものを私はやっと取り戻せたような気がした。



『私の方が、大きくなったと妹は申しておる。私の勝ちだとな』

「ええ、ほんとうに…。大きくなったわ」

 私は、私の何倍にも大きくなった桜の木を見つめた。


『そなたが母親から叱られて、ここに蹲り。小さくなって泣いているそなたを、隠した…ともいっておる』

 私は驚いて彼を見た。

「ええ、ええ、そのとおりです。父が亡くなり。母が父の後を継いで仕事をし始めると。母は、いつも家に居ませんでした。でも、たまに家に居るときは私に向かい…。〝どうしてあなたは何も出来ないの〟と私を責めてばかりでした。私は、母に、ただ今日あったことを話したかっただけなのに。ただ笑って、父がいたときのように母に聞いて欲しかっただけなのに…。父が亡くなってからの母は、私が口を開くと怒ってばかりでした。だから、いつもここに逃げて来て、隠れて、一人で泣いていました」


 そう、不思議なことに、この場所にいれば誰にも見つからなかった。

 彼の言葉で気がついた。この桜が、私の妹が、泣いている私を可愛そうだと守ってくれていたのだということが分かった。


 私の胸の中に切なくて、温かい想いが生まれ柔らかに広がり、とめどなく涙が溢れた。

 風が時間を運んできてくれる。優しかった父の香りを、母の香りを運んできてくれる。


 桜の木がざわめき、花吹雪舞い散る中に私の覚えている笑顔の父と母の姿が見えた。

「お父さん…、お母さん」



『美香子、怒ってばかりでごめんね』と母が言った。

『美香子、もう我慢することは無い。早くお父さん達のところにおいで』と父の優しい声が私にいった。


 もう、私は我慢しなくてもいいんだ。頑張らなくていいんだ。

 そう思った瞬間。私の心と身体がふわりと浮いた。

 そして…。


 私は彼に走り寄ると、その手をにぎって「ありがとう、ありがとう」と何度も繰り返していた。

 私は、なぜだかそうしたかったのだ。

 綺麗な瞳の青年の手はひんやりとして冷たく。そして、とても心地よく。私の記憶はそこで途切れた。


 遠くで…。秋川先生の私を呼ぶ声が聞こえたような気がした。




 気が付くと私は、再びリビングのソファに寝かされていた。

「気がついたわ、よかった」

 京香さんが私を見て泣いていた。


 この人は、強くて、優しい。

 この人がいたから私は、最後に母との良い思い出を作る事が出来た。京香さんのお蔭で母はあれから三年生きた。

 だから本当に京香さんには感謝している。


 それにこの家も、私や母が、そして父が居た頃の様に何も変わらずに住んでくれている。

 秋川先生から、今の持ち主の名前を聞いた時。山崎綾乃という名前を聞いたときは…。

 京香さんの名前では無かったことに疑問を持ったが、来てみると、やっぱり京香さんだった。


 何か事情があるのだろう。

 きっと京香さんは私に会ったことがないから、私が京香さんの顔を知らないと思っているのだろう。でも、私は知っている。


 母が生きていた時、母の口から何度も京香さんの名前がでた。私は母から京香さんの話を聞いている間に段々と〝どんな人だろう〟と思うようになった。

 会いたいと思うようになった。


 そう、私はどうしても京香さんに会いたくて、外に出る事に挑戦したのだ。そして、とうとう京香さんの会社の前まで行くことが出来て…、嬉しかった。


 京香さんが車から出てくるところや、会社から出てきて車に乗るところを何度か見た。見たけど、あの頃の私には京香さんに声をかけるだけの勇気はとうとうだせなかった。


 でも今日、こうして会えたことに、話せた事に嬉しくて感謝した。物思いにふける私の顔を、秋川先生が心配そうな顔で覗き込んで来た。


「大丈夫ですか?」と秋川先生が私に言った。

「ええ、大丈夫です。それより、彼は?彼にお礼を言わないと、妹のお礼を言わないと」

「妹?」

 秋川先生が怪訝そうな顔をしてそう言った。



 ああそうか、これは、このことは私と彼と、妹…、桜の木だけの秘密の出来事なのだ。

他の人には分からない。


 いいえ、多分話したところで信じては貰えない。例え私の話を聞いてくれたとしても、この気持ちを分かってはもらえないだろう。

 それよりもきっと…。また、頭がおかしくなったのだと言われるだけだろう。


 だから話すのは止めておこう。

(・・誰にも・・)

 そう私は心に決めた。


 それに、最期に綺麗な瞳の青年との秘密を持って、誰にも言わずに死んでいくのもロマンチックでいいではないかと私は妙に嬉しくなった。


「ああ、ごめんなさい。なんでもないんです。それより、優しいお孫さんですね」


 私は精一杯の笑顔で京香さんに、いえ、今は山崎綾乃と名乗っている京香さんにそう言った。


 京香さんは、何故か複雑な顔をして「ええ」とぎこちない笑顔で私にこたえてくれた。その顔が何か言いたそうだったが、あえて私は触れないことにした。


 聞けば京香さんも、私に話したくないことを話さなければいけなくなるかもしれない。

 そんなことで私の今の幸せな心を壊したくなかった。

 それに、今更私が京香さんの秘密を知ったとして、何になるというのか…。


 京香さんが違う名前で生きていたとしても、私にはなんの関係も無いことなのだ。

 むしろ、私の口から本当の名前が、素性がばれてしまうかも知れないリスクがあるのは京香さんだ。

 私では無いのだ。

 だって私には失うものなどもう何も無いのだから…。


 でも、今日のこの幸せな思い出だけは誰にも渡したくない。壊されたくない。

 それに、京香さんは私の願いを快く承知してくれた。感謝こそすれ、あら探しをする必要など何も無い。


 だから私は、京香さんを、私がこの世からいなくなる瞬間まで山崎綾乃さんとして接することに決めた。


 それから、暫く休んでおいとました。

 もう、これで私には思い残すことは何も無い。


 そう思って家を出るとき、「山崎さん、今日は本当に、ありがとうございました」と言って懐かしい私の家だった、今は瞳の美しい青年と、強くて優しい、私が憧れたお姉さんが住む家に向かって私は深々とお辞儀をした。






 ☆-☆-☆


「そお、苦しますにいけたのね」

「ああ、眠るようだと医者が言っていたよ」

 桜の花がすべて散り終わる頃。美香子さんは、ご両親のところへといかれた。


 最期に美香子さんが真に言ったのは、真に対して〝ありがとう〟の一言と、省吾に対して〝綾乃さんの優しいお孫さんに、あなたに会えて本当によかったと伝えて欲しい〟だった。



「ああぁー、お孫さんかぁ~。覚悟はしていたつもりだけど、現実にその言葉を人さまから聞かされるのは、正直きついわ。心は昔より輝きだしたのに誰にも見えない。身体はドンドン老いて皺くちゃになる、おまけに、はっきり目に見える。ショックな事だわ。でも、美香子さんが心安らかになれたならそれでいいのよね…。多分。だけど、ああぁー、次は我が身ね。私だって、美香子さんみたいに、いつ最期がやって来るかは分からないもの」


「まぁ、京香は、まだまだ心配ないだろう。それより、美香子さんと省吾君は何を話していたんだろうか?」


「分からないわ。省吾は、なにも言わないもの」

「そうか、そうだな」


 どんなに頑張っても私の髪は白くなる。

 細かなシワは増えてくる。

 肌も弛む。

 このごろは手にも細かなしわが現れ、そんな自分の手を見たくはないのに…、じっと見てしまう。


「どうしても止められなのよね。年を取ること」

 私はため息交じりに呟いた。


「仕方ないさ。人間なんだから」と真がこたえる。

「そうね」


「でも、どうなのかな。例え年を取ることなく省吾君の様に、美しいままで生きたとしても。自分以外のものは、いつか月日が経てば誰もいなくなる。京香が年老いて省吾君を残して死ぬのが怖くて、寂しいように、省吾君もまた、京香が居なくなることを、その、寂しく思っているんじゃないのか」と、真は遠慮がちに言った。


「そうね。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。私には分からないわ」

 実際のところ私には分からない。

 省吾は、いつも私を優しく包んでくれる。出会ったころと同じように老いて行く私を愛してくれる。


で も、それが、私の省吾に対する感情と同じなのかは分からない。ただ、私との約束を果たしているだけなのかもしれない。


「おいおい、それじゃ、どうしてこんなことしたんだ?」

 真の言いたいことは分かる。

 自分の名前も、家族も、何もかも捨てておいて、今更なにをいっているんだと言いたいのだろう。


「それは私の欲望よ。自分が幸せになりたいという欲望。たぶん、人と、どこか幸せのポイントがずれているのかもしれないわね」


 やれやれ困った人だと言いたげな顔をして、「今日は、これで失礼するよ」と、いつものように片手をあげた真はあっさり帰っていった。






☆-☆-☆


「省吾さまは、不思議な方ですねぇ~」

 真が帰ったあと、私に背中を見せてテーブルに置かれた空のティーカップを片付け、テーブルの上を拭きながら松子さんが歌うように言った。


「どうして?」と私は松子さんに聞いた。

「こちらに初めてお伺いした日を、覚えていらっしゃいますか?」と松子さんがいった。


「ええ、覚えているわよ。忘れないくらい覚えているわ」

 私は、松子さんに笑って欲しくてちょっと冗談ぽくこたえた。


「あの時、省吾さまが急に現れて、タラの芽は作れるか?と私におっしゃいました」と松子さんが嬉しそうにいう。

「ええ、そうね。いきなりだったんで私もびっくりしたわ」

「はい、私もびっくりしました」


 松子さんは、まるでその時のことを思い出すかのように目線を少し上げて過ぎた時間を探すように遠くを見た。

 そしてテーブルを拭く手を止めて、ゆっくりと身体を起こし私の方を向いた。


「本当に不思議なんですが…。あのとき、母の顔が浮かんだんです。子供の頃、母と二人でタラの芽を摘みに行った日の母の笑顔を思い出したんです。

 摘んだタラの芽を籠に入れて貰い、私が持ちました。それから、母と手を繋いで歌いながら歩いて帰る道がどれほど楽しかったか。子どもの頃の…。

 自分の忘れていた気持ちを思い出しました。そしたら、主人の顔も、子供達の顔も次々浮かんできました。みんな、どの顔も笑っているんです。私に笑いかけてくれているんです。


 ああ、私は幸せだったんだ。こんなに愛されていたんだ。そして、愛していたんだと…。

 そう思った瞬間に、胸の奥で何かがストンと音を立てて落ちたんです。胸に何か温かいものが入り込んで来たような気がしました。それから、はっとして、『タラの芽!どうしょう。どこに行けばあるんだろう』と、もうそのことだけが心配で、心配で仕方ありませんでした。

 もし、なかったらどうしようかと心臓がドキドキしたんです。おかしいですよね。でも、デパートでタラの芽を見つけた時は、正直、心の底から〝良かった、ここにいてくれて〟と嬉しくなったんです。


 それから支払いを済ませて、タラの芽を大事に胸に抱えて帰る自分が、そんな自分がおかしくて、滑稽で、私、歩きながら…。なんだか本当に楽しくて、楽しくて、我慢出来なくて、ひとりでクスクスと笑ってしまったことを、今でもはっきりと覚えているんです。きっと周りにいた人たちには、ヘンな人だとおもわれたでしょね」

と松子さんはしみじみと言った。




「そう、お母さんの笑顔。ご主人、子どもさん達、とタラの芽・・」

 私は、ゆっくりと松子さんの大切な思い出を言葉にして繰り返した。


〝良かった、ここにいてくれて〟は、その瞬間、タラの芽が松子さんにとって優しかったご主人や子ども達であり。

 お母さんそのものだったから、心から出た言葉なのだと私は思った。


「ええ、ですから、あの方も、きっと省吾さまにお会いになって、ご自分が愛されていたことや、愛していた事に気づかれたんじゃないでしょうか。

 ご両親の笑顔を思い出されたんじゃないでしょうか。私の勝手な解釈ですが、最期の最期に省吾さまとお会いになって、私と同じようなことが起こったんではないでしょうか。


 ですから、来られたときとは違う。あの方がお帰りになるときに見せたお顔の清々しさに、楽しそうな笑顔に思うんです。あの方は、あのとき省吾さまに会われて、お会いできて、お幸せだったんだと思いますよ。


 私は…。

 私は、あのとき、省吾さまにお会いできて本当に幸せでした。母と二人で手を繋いで、笑顔で話しながらタラの芽を摘みに一緒に歩いたことや。主人が、美味しい、美味しいと言って嬉しそうに食べてくれたことや。ケラケラ笑う子どもたちと3人で、タラの芽を道草しながら探したことが幸せでした。


 なのに私は、そんな幸せな、大切な時間をすっかり忘れていたんです。思い出そうともしなかったんです。でも、省吾さまは、その大切な時間を私に思い出させてくださいました。本当に感謝しています」

 松子さんの目に薄らと涙が滲んで見えた。


「そうね、松子さんの言うとおりかもしれないわね。松子さんにとってはタラの芽が、美香子さんにとっては桜の花が、笑顔を、幸せを、思い出す鍵だったのかもしれないわね」

「はい」

 松子さんはそういうと、エプロンで目頭を押さえて、にっこりと私に笑ってくれた。


 その笑顔を見て私は自分に問いかける。

・・じゃ、私はどうなんだろうと・・、


 7年前に父が亡くなり。

 3年前に母も亡くなった。

 名前を替え、家族の前から姿を消した私は、父や母の死に目にも会えなかった。

 いや、会わなかった親不孝者だ。何もかも妹ひとりに任せきりの薄情な姉だ。

 後悔はしていない。


 でも、両親を、妹を悲しませた私が、果たして幸せな最期を迎えられるかは疑問である。まず無理だろう。軽くため息が出た。

 最期の最期に、私は何を見て、何に気づくのだろうか。


「どうかされましたか?」

「いえ、何でもないわぁ。ごめんなさい」

 私は誰に謝っているんだろうか。

 松子さんが、どこか腑に落ちないという顔でこちらを見ていた。





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