第8話 名前を変えて
【殿山京香48歳】
「ここは、ほんとに日本なの?」
私は自分の目を疑い、真にそっと小声で聞いた。
そうしなければ…。普通の声でそんなことを聞いたなら、私はそこにたむろする人の集団に何をされるか分からないと思ったからだ。
「ああ、間違いなく日本だ」
真は素っ気なくこたえた。
それどころか、何の迷いもなく私の前を歩く真の足取りに、真がここに来たのは一度や二度ではないことが何となくだが分かる。
私は真に連れられある町に来ていた。
車が入らない細い路地に入ると、薄汚れた建物がなにしに来たというように私を冷たく見下ろしてくる。
道には、どこからか飛んできたのか分からないゴミくずが吹き溜まりのようにあちこちで渦巻いている。
それに、道行く人は、こちらを見ないで怯えたようにそそくさと通り過ぎるか・・。反対に立ち止まり、私のことをまるで値踏みするかのようにジロジロと遠慮なく上から下ヘと視線を走らせる。
或いは、地べたに力なく座り込んでいる何人かは、下を向いたまま自分のことも、周りの人間も完全に無視しているかのようだった。
その居心地の悪さに、私は走って逃げだしたくなる。
「まだなの?」
私は少しトゲのある声で真に聞いた。
「もうすぐだ。あの角を右に曲がって、真っ直ぐ歩いて5分程の所にある」
真が私にこたえる声も素っ気ない。
「そう、わかったわ」
にしても、あと5分もこの雰囲気を味合わなければいけないのかと思うと自然に私の口からため息が出た。
「我慢しろ!京香」
真の声が小さく怒鳴った。
「ええ、ごめんなさい」
私は慌てて真に謝ったが気持ちが一段と萎えてくる。
だからほんの少しここへ来たことを後悔した。が、こんな事でどうするの、これくらいの事で気持ちが負けていては何も始まらない。私は、大きく肩で息を吸って自分に喝を入れた。
それから気をとりなおし、グッとお腹に力を入れて背筋を伸ばすと真の背中を見ながら〝この町になんか負けない。この人達にも負けない。弱い自分にも負けない〟と心の中で呟いた。
そして私は周りを見ることをやめた。代わりに前だけを見て堂々と胸をはり歩き出した。
真とともに私は古びたビルとビルの狭い隙間に建てられた、まるで昭和一桁時代にタイムスリップしたのかと思う木造二階建て、共同アパートのような古びた建物の中に入る。
中は薄暗い。
建物の中は、まるで時の流れの中からはみ出し、世の中の誰からも…忘れ去られた場所…と、いう言葉がぴったりと当てはまっていると私は思った。
だから、ここには、この建物の中には、明るく眩しい日の光りなど、人が人として生きる為に必要なそんな自然のものさえ、どこからも入っては来ないのだろうとも感じた。
真は無言で玄関に入ってすぐ左手にある二階へと続く階段を上がった。
慌てて私も後に続く。
静まり帰った建物中に、私達二人が階段を一段、また一段と上がるたびにギッギッと鈍い音が鳴っている。
(誰もいないのかしら…。)
人がいるようにはとても思えない冷たい空気の中、私は、ふっとそう感じたことを真に聞こうとしたが、真の背中は無言で〝何も言うな〟と言っているように思えて黙ってしまった。
やがて階段を上がりきり、一番奥の部屋の前まで行くと真が振り返った。
そして、真の目は鋭く光り〝いいな、後悔はしないな。入るぞ〟というように無言で私に問いかけている。
私は、真の目を真っ直ぐに見て〝ええ、後悔などしないわ〟と頷いた。
「こちらが
だが、真のその目は、『京香、名前は名乗るな。口にするな』ときつく私に語りかけている。
私は頷き「初めまして」とだけ彼女に声をかけた。
真が紹介してくれた山崎綾乃さんは、薄汚れたベッドの上で痩せ衰え。お腹だけが…。異常に膨らんでいることが、身体に掛けられた薄い布団の上からでもはっきりと分かった。
とても私と同い年には見えない土色の肌をした老婆の様な彼女が、横たえたままの姿勢で弱弱しく顔をこちらに向けた。
そして私と真に対して、落ちくぼんだその目で必死の挨拶をしてきた。
「もう、末期のがんでね。明日死んでもおかしくない。今日まで生きていたのは娘さんの事が気がかりで、死ぬに死ねなくて生きてるのさ」
私達がこの部屋に入ることを拒むように、山崎綾乃のベッドの脇に立ち、私を見てギロリと睨んだ薄汚れた白衣の…いつ?お風呂に入られましたか?先生…と、こちらが言いたくなるような、汚らしいボサボサ髪の医者が面倒くさそうにそう言った。
そして不意に…。
何も話すことが出来ない山崎綾乃の目から涙の粒が幾つも流れ落ちている。
どうしてこんなことに…。と口に出したい気持ちを私は堪えた。そして自分のバックからハンカチをだすと、彼女の涙をそっと拭いていた。
ボサボサ頭の医者が不機嫌そうに話を続けた。
「この人は二十数年前に娘さんを捨てたんだ。男に裏切られて子供を産んで、育てられなくて捨てた。それからは自分は子供を捨てた鬼だと。最低の母親だと。自分で自分を責めて、自分を殺すように身体を痛めつけて生きてきた。
その結果がこれだ。まあ、それは仕方ない。自分がしでかしたことだからな。本人も納得ずくだ。けど、娘さんは違う。
人間、まぁ…、自分が死ぬとなるといろいろ思うことがある。自分勝手な欲も出る。最後に一目。遠くからでもいい、娘さんに会いたくて出かけて行ってみたら、娘さんが病気だと知った。手術をすれば助かるが、高額な手術費用が掛かる。
そんな金、娘さんにも、今のこの人にも無い。見てのとおり、このざまだ」
ボサボサ髪の医者は憎々しそうな顔をして、ここは病院?いえ診療所・・?とはとてもいえない、窓からは光が入るどころか、手を伸ばせば直ぐに隣の建物の壁に触られる、今にも崩れそうな薄暗い汚れた部屋を見回した。
それからボサボサ頭の医者は京香の目を見据えて、何の感情も感じられない声で言った。
「だが、あんたが自分の欲の為に、この人に金を払ってくれると秋川さんがいう。俺はそれでいい。それで、この人が、この世になんの未練も後悔もなく死んで行けるなら、法律なんてくそくらえだ。俺は気にしない」
そして、何の感情もなく話しているように聞こえるこの医者の声には、あんたは本当にその気があるのか。この先、一度も後悔せずに生きていく覚悟があるのか、という意味が含まれているのだと分かった。
「ええ、覚悟は出来ています。後悔もしません。でなければ、今日、ここには来ていません。ですが、本当に娘さんにお会いする気はないんですか?綾乃さん。あなたの命と引き換えに、娘さんに、お金を用意したのが、お母さんだと知らせなくてもいいんですか?」
目の前の彼女があまりにも不憫で、他人が余計な事をと思ったが、つい口に出さずにはいられなかった。
「いいんだよ。娘さんは育てられた施設のシスターに、この人とは違う名前を貰って生きてきた。それに結婚して、今は小さな子供と、クリスチャンの優しいご主人がいる。この人が母親だという証拠は、もうどこにも存在しないんだ。この人の心の中以外はね」
ボサボサ頭の医師はなんの感情もこもっていない声で、私に言った。だからもう、これ以上は私の立ち入る領域ではないということだ。
「そうですか、分かりました」
私は、バッグから約束のお金を取りだし、彼女の両手にしっかりと握らせてから、そっと離した。
いまにも折れそうな骨と皮だけになった弱弱しいその手を小刻みに震わせて、彼女は私からお金を受け取った。が、彼女のその手は、その重さに耐えきれず。
お金が入った封筒は彼女の胸の上に滑り落ちる。
そして、力なく微かに開く声に出ない唇で、彼女が〝ありがとう〟と言っていることだけは私の目にも理解できた。
「さあ、これ以上、病人に負担をかけるのは酷だ。こっちに来てくれ」
ボサボサ頭の医者はクルリと背を向け、ついて来いという様にサッサと部屋を出て歩き出していた。
私は、彼女に、山崎綾乃に軽く頭を下げて部屋をでた。涙の向こうに見える彼女の澄んだ瞳が悲しかった。
「これが、あんたの欲しい書類一式だ。彼女が死んだら名無しの権兵衛さんで役所には届ける。どうせ無縁仏さんで葬られるんだ。たいしたかわりは無い。安心しろ、俺が約束する。これで、あんたは、今日から山崎綾乃になる。
それから俺は、あんたの本当の名前を聞く気はない。だから言うな、俺の名前も聞くな。ここを出たら俺とあんたとは見たことも、会ったことも無い。まして、話しなんかしたことは無い赤の他人だ。俺の知らない人間だ。いいな。分かったな。
今度、どこかで俺に会おうとも無視しろ。声はかけるな。俺もそうする。
分かったら、とっとと帰ってくれ。俺はこれでも忙しいんだ。ああ、それから礼は言うな。黙って出て行け」
そう言ってまくしたてる様に一気にしゃべると、ボサボサ頭の医者は、シッシッとまるで汚いものでも追い払うように片手をあげ、目はあらぬ方向を向き、私をその場から追い払う仕草をした。
私は、なにも言わず、お金の入った封筒を彼の机の上に置いた。
彼は、一瞬、ピクッと驚いた様だったが、そのまま背中を向けて椅子に座り…。俺に話し掛けるな、早く出て行けというように私達を背中で精一杯無視して、一心に何かを書き始めていた。
私と真は、彼に言われたとおりに、後ろを振り返る事なくこの場所を後にした。
「驚いたか、京香」
「なにが?」
「彼は、半分本物の医者で、半分は偽医者だ」
「それは、どういうこと」
真に、はっきりと言われる前から何となくは分かっていたような気がする。
「昔、彼は大きな病院で優秀な医者の一人として働いていた。わりと有名なところだ。だが、若い彼は優しすぎた。優しすぎて…。法を犯した。だから半分本物で、半分偽物だ」
安楽死。
医師免許剥奪。
即座に二つの言葉が私の頭に浮かんで消えた。私は黙って運転する真の顔を見た。
「軽蔑するか?俺のこと。父親と同じように隠れて法を犯している俺を」
真は自傷するように、〝俺〟という普段使わない言葉で乱暴に言った。
「いいえ、軽蔑なんかしないわ。あなたは、あなたのお父さんとは全然違う。法では救えない人を救っているだけよ。ただそれだけ、私も含めて」
固く口を結んで、真っ直ぐ前を見て車を走らせる真は、何も言わなかった。
前に省吾が、『そなた、美しき闇を持っておるな』と真に言ったことがある。
その時は、省吾が何を言っているのか私には理解出来なかったが、今なら、真が持つ「美しき闇」の本当の意味が理解出来たような気がしていた。
こうして私は、山崎綾乃という新しい名前で生きて行く事を決め。省吾の前でだけ殿山京香…。
いえ、ただの〝京香〟として生きて行くことを選んだ。
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