第7話 すべてを捨てて

【殿山京香48歳】



 朝から雪交じりの雨が降っていた、京香は冷たすぎる空気に身震いしてコートの襟をしっかりと握り、柔らかで暖かなミンクの肌触りに満足すると足早に病院の玄関を出た。

 そしてその先に待たせてあった車に急いで乗り込んだ。


「いかかでしたか?容態は」

「良くないわねぇ。もうお年もお年だし、特に気候がね」と私は合曖昧にこたえた。

「今年の冬はいつもより寒むかったので、お年寄りにはこたえると思います」

「ええ、そうね」と呟くようにいいながら、私は車の窓から病院を見上げた。

「どうされますか?」

「そうね、今日はこれといって用もなから、このまま家に帰ってくれるかしら」

「かしこまりました」


 私の言葉に運転手兼秘書で今年28歳になる物部ものべ君は、エンジンをかけ家路へと車を走らせてくれた。


 今日は、いつもの杉山社長のお見舞いだ。今年72歳になる杉山社長は去年末に引いた風邪をこじらせかけて、年明け早々用心の為に入院していたが、もう年も年なので退院は難しいかもしれない。このままという事も考えられた。


 頭はしっかりしているのだが、身体の方が弱っていて本人の思う様に動けない事が苛立たしいようだ。

 だが私にはどうしてあげる事も出来ない。12年前、独立をした私が、右も左も分からない中で杉山社長には随分とお世話になった。杉山社長の一声が無ければ、どこの銀行も私のことなど相手にしてくれなかっただろう。


 勿論、私も死にもの狂いで働いた。そのお蔭で、今では収益マンションとビルを何件か手に入れる事が出来たし、小さいながらも従業員を雇い、お給料を払い、省吾と二人、都心の高層マンションの最上階に住める幸せも得ていた。


 そんな昔の事を思い出しながら、ぼんやり雪交じりの雨が降る、どんよりとした暗い夕暮れがせまる街の景色を車の窓越しに眺めていると、現実に引き戻されるかのように、けたたましく携帯電話が鳴った。


 一瞬、ビックと私の身体が跳ねて急いで携帯を手に取る。


「はい」

 聞こえて来たのは杉山社長の少し疲れた声だった。


「京香さん、ごめんなさいね、戻ってきてくれないかしら」

 やはり杉山社長は何か私に伝えたいらしい。病室での杉山社長のソワソワしたそぶりを思い出す。


「ええ、わかりました。今すぐ戻ります。では、はい、後程」

 ありがとうの声が聞こえる。電話を切った私は物部君にもう一度、病院に戻るように伝えた。


「かしこまりました」

 彼は何も聞かず、私にそう返事をして車をUターンさせてくれた。病院に着くと私は、帰りはタクシーで帰るから待たなくでもいいと物部君にいった。

 なぜだか長い話になりそうな…、そんな気がしたからだ。



 病室のドアを開けた私に向かい。

「ごめんなさいね、こんな日に二度も来てもらって」と杉山社長は申し訳なさそうに私を見て謝った。


「いいえ、かまいませんよ。今日は予定が無いので自由の身です。時間は気にしないでください」

 私はそう言いながら、杉山社長のベッド脇に置かれた椅子に腰掛けた。


「ありがとう、そう言ってもらえると嬉しいわ」

 特別室のベッドの上で杉山社長は、ほっと安心したような表情を見せて少し笑顔になった。


「実は、あなたにお願いがあるの」と杉山社長は私に言った。

「なんでしょうか」

「娘のことなのよ、あなたも知っていると思うけど」

「ええ」


 今年45歳になる杉山社長の娘さんは心を病んでいる。

 暴れたり、喚いたりなどの暴力的ではないが人と上手く話せないのだ。


 学生時代はそれでも気の合う数人の友人がいたから問題は小さかった。だが、就職してからそうはいかない。気が合うか、合わないかは関係ない。仕事をするか、しないかだ。


 その為にも、苦手な人とでも話をしなければならない。

 本人もこれではいけないと頑張ったのだが、頑張りすぎて、とうとう心の糸がプッンと切れてパニック障害をおこし、人に会うのを怖がり、家から一歩も外に出られなくなってしまったのだ。


 そうなってからもう随分と長い年月が経っていた。

「親戚なんて頼りにならないわ。私が居なくなったら、なんだかんだと言って、あの子から財産を引っ張り出して…。無くなれば体よく放り出されるのが落ちでしょうよ」と杉山社長は私に言った。


 確かにそうかもしれない。

 責任能力のない娘さんを騙すことなど、欲どしい人間にとっては、それこそ昔の人がいう様に赤子の手をひねるよりも簡単な事だろうということは、私に安易に想像できた。


「主人が亡くなって、一番つらい時も、親戚なんて誰も助けてはくれなかったわ。主人の友人たちが、みんな、助けてくれたのよ。他人さんがね、助けてくれたの。感謝してもしきれないくらい。ありがたかったわ…、あの時は」


 杉山社長は、昔を懐かしむようにしんみりとそう言った。

 その経験があったからこそ、私の事も応援してくれたのだろうという事は、これまで何度か話を聞いていて分かっていた。


 それで今日。

 私にお願いと言うのは具体的にはなんなんだろうと思いながらも、杉山社長の思い出の時間が過ぎるのを私は黙って待つことにした。

 ふっと何気なく窓を見ると、外はすっかり暗くなり、雨は完全に雪に変わっていた。





「私の家なんだけどね、あなたに買って欲しいのよ」

 杉山社長は私の手を取り、すがるような目をして私に言った。


「えっ、社長の、あの大きなお屋敷をですか?」

 私は咄嗟に杉山社長の家を思い出した。


 大きな白い塀に囲まれたその家は、表は洋風な造りだが、奥の離れには小さな和風造りの家が建っている。

 その小さな家を取り囲むように、敷地隅の小山から湧き水が溢れて小さな川を作り、家の前の小さな池へと流れ込んでいた。


 それだけではない。母屋と離れの間とを繋ぐ廊下前の庭には、春には見事な花を咲かせる大きな桜の木が一本あった。

 なんでも亡くなった旦那さんご自身が植えた桜の木で、杉山社長はことのほかこの桜を大切にしていた。


「そう、私ひとりで住むには大きすぎる家、娘は私と暮らすのが嫌でマンション住まい。今時はネットでなんでも手に入るから、一人で外に出なくても大概のことはそれですむわ。

 それに、最近は近所のコンビニやスーパーくらいは出かけられるようになったのよ。娘が、私と居たくないというのも、それもしかたないことだわよね。

 母親が居て欲しい時に、仕事、仕事で側に居てやれなかった。たまに顔を合わせれば〝どうして出来なの?やれば誰でも出来る事よ〟と叱ってばかり。

 娘を…、褒める事も、抱きしめてあげる事もしてこなかった。あれは、世間に対して自分が強くなりたくて、なれなくて、娘に八つ当たりしていたのね。

 自分の不安な気持ちを誤魔化していたのよ。今から考えると小さな娘に随分とひどい事をしてしまったと思うわ」


 私は、杉山社長に対して返す言葉が浮かばなかった。

「そうですね」と言えと言われれば言えないこともないが、そう言えるほど私には簡単な答えでは無いような気がしたからだ。


 だから、あえて黙って聞いていた。

「もう、私も年よ。もしかしたら、このままあの世に行ってしまうかもしれない。そうなる前に主人が生きていて、娘が生まれて、幸せだったころの思い出がたくさん詰まったあの家を、私が死んでも愛してくれる人に譲りたいの。

 勿論、正式な売買契約をしてね。ただし、世間の相場は関係ないの。京香さんが支払える金額でいいわ。その代り私が持っている、私名義の収益物件をなるべくよい値で、なるべく早く、売って欲しいのよ」


 社長の気持ちが何となく分かるような気がした。

 自分が知らないところで、あの屋敷が取り壊され、更地になって小さな家が幾つも建つのか、マンションが建つのかは構わないが…。


 自分が死んだら確実に取り壊されることが分かっている今の現状を、なんとしても避けたいのだ。

 どうしても、そうしたいのだ。


 お金や理屈ではなく、社長の心の中の問題なのだろう。

 だから相手は誰でも良いわけがない。

 少なくとも、自分が亡くなった後も自分と同じようにあの屋敷を愛し、慈しんで暮らし、幸せな思い出を作ってくれる人間でなくてはならない。


 その相手に社長は私を選んでくれたのだ。

 胸が熱くなるというのはこういう事かと、今、自分の胸にこみ上げる温かなものを正直感じていた。





「ありがとうございます。社長の思い出の詰まった幸せなお屋敷を譲っていただきます」

 私は素直に杉山社長の申し出を受けた。


「ありがとう、京香さん」

「ですが、社長。一つ質問ですが、収益物件を売るのは構いませんが…」

 もし、このまま社長が亡くなれば物なら査定という世間の実質取引金額とは違い安全ではないのか。


 仮に、今から税金を払う為に現金化するのであれば、財産整理して用意すればいい。なにもすべて処分する必要はあるのだろうか。売ってしまえば、そのお金の金額に税金がかかる。お金という確実な数字に誤魔化しようはない。


 それに、幾ら払える金額で良いとはいえ、私はその言葉にすべて甘える気はない。あの屋敷の代金はそうとうのものである。

 それなのに今ある自分名義の物件を、すべて売るというのは何か意味があるのだろうか…。


「なんでそんなに現金がいるのかってことでしょ」

 杉山社長はいたずらっぽく笑って私に言った。


「ええ」

「あなたに買ってもらう家と、売ってもらう物件で入ってくるお金の半分は娘に。あとの半分は寄付するわ」と杉山社長は真顔でそう言った


「寄付?ですかぁ」

 なんと突拍子もないことを考える人だと私は思った。


「そう、世の中には学校に行きたくても行けない子がいる。私は、娘が小さいころ一緒にいてあげることが出来なかったの。でも、悲しいかな、あの頃にはもう戻れない。娘は小さな子供ではなくて、もう立派な大人。

今じゃ、おばちゃんと言われる年になっているわ。だからね、せめてものも罪滅ぼし、死ぬ前の娘への罪滅ぼしよ」


 杉山社長は、子どものように無邪気な顔でそう言った。その嬉しそうな顔を見ているとなんだが私まで嬉しくなってきた。


「わかりました。早速手配します」

「お願いするわ。それから、お願いついでなんだけど、京香さんの同級生の弁護士さんに会わせてもらえるかしら」


「ええ、構いませんけど」

「もし、良い方なら・・、勿論、京香さんの幼馴染さんだから良い人だと思うのよ。ただ、私と相性がどうかと思ってね。もし相性のいい方なら、娘の後見人をお願いしたいと考えているの」


「そうでしたか、分かりました。そちらの方も、早速手配します」


 母なのだと思った。自分が死ねば、この世に娘が一人になる。もう、気を付けなさいと注意してやることは出来なくなる。

 だからせめて今、娘の為に自分が出来る事をしておきたいのだと思った。






 ☆-☆-☆


「すっかり遅くなっちゃたわ」と私は一人呟いた。

 面会時間をオーバーして雪がちらつく病院の正面玄関前に出ると、人の影も、タクシーさえも止まっていない、暗くて妙に広がる空間が寒々しい。


 さて、どうしたものか。吐く息が白いなかコートの襟を握りしめて私は考える。表通りに出ればタクシーをつかまえられるかもしれない。それとも、もう一度病院の中に戻りタクシーを呼んだ方が早いだろうか。


 私は、呼び出し用タクシーの無線電話が病院の何処にあっただろうかと思い出だそうとした。にしても寒い、身震いする。

どうも寒いのは苦手だと、もう一度病院の中に入ろうとしたとき車のライトに眩しく照らされた。


「社長!」

「物部君!帰ったんじゃなかったの?」

 私は驚いて声をあげた。


「ええ、一旦は帰りかけたんですけど、雨が雪になったんで、もしかしたらタクシーがつかまらないんじゃないかと思いまして、戻って来ました」

「うぅわぁ、ありがとう。嬉しい、助かるわぁー」


 物部君は少し照れながらドアを開けてくれた。私は彼にお礼を言いながら車の後部座席に素早く滑り込んだ。


「うぅー、温かい。生きかえる」

 私の声に、物部君が白い歯を見せて笑っているのがミラー越に見えた。


「ごめんなさいね。遅くまで付き合わせて」

「いえ、構いません。仕事ですから」


 本当に謙虚な若者だ。彼を雇って良かったと私は心から思う。それに雪の降る中を車とはいえ、私の為に気をきたせて待ってくれていた彼に何かお礼がしたくなっていた。


「ねぇ、物部君。もしよかったら、夕飯、一緒にどうかしら?」と私は彼に聞いてみた。


「えぇ、ありがとうございます。でも、家の方がお待ちじゃないんですか?」

 物部君が遠慮がちに聞いてくる。


「ああぁー、息子。息子なら心配いらないわ。用意はちゃんとして来てあるから」

「そうですか、では遠慮なくご一緒させて頂きます」

 物部君が嬉しそうに返事した。



 嘘だった。

 省吾に食事はいらない。二十歳そこそこにしか見えない省吾はいつの間にか私の息子になっていた。人間のように年を取らない省吾、今の私とでは親子にしか見えない。


 これからも私はどんどん年を取る・・。

 でも、省吾は若くて美しいままの時を過ごして行く。残酷な現実がそこにはあったけど、もう後戻りは出来ない。

 出来ないなら前に進むだけ。嘆いていても始まらない。


 それでも一つだけ良いことがあった。加奈ちゃんとの事で省吾の瞳、眼を隠せばいいことに私は気が付いた。

 それからは少しの時間、近場なら二人で出かける事が出来た。省吾の瞳の色が、分からなくなるほどの濃い色の大ぶりのサングラスをかけて、省吾が好きな花見見物に二人で出かけた。


 春には梅、桜、藤の花。

 夏には蓮を、秋には銀杏に楓。

 冬には牡丹と二人で毎年、毎年、出かけて行った。なるたけ人の少ない時間帯を選び、その日を楽しみに出かけて行った。


 そして、そこで時々居合わせた人から声を掛けられるのが、〝若い旦那さんですね〟から〝息子さんとお出かけですか〟に変わっていったのだ。


 ただそれだけのことだったが、こんな風に空気が冷たくて何処までも広がる空間に出会うと…不安になる。

 私の命はいつまで続くのだろうかと不安になる。


 私がこの世からいなくなってしまったら、消えてしまったら…。省吾は、この世界で、醜い欲にとりつかれた人間社会の中で生きていけるのだろうか。省吾を守ってくれていた、あの湖が消えてしまったこの世界で…。




「どうかされましたか?やはり、このまま家に帰りましょうか?」と物部君が不安そうに私に聞いてきた。


「あっとぉ、ごめんなさい。明日の段取りを考えていたの、気にしないで、ところで物部君、何が食べたい?」

 そう物部君に聞く私は、まるで彼の母親のような気持ちになっていた。







☆-☆-☆


『京香、獣の香りがする』

 省吾が香りを確かめる様に顔を近づけてくる。


「ごめんなさい。すぐシャワーを浴びるわぁ」

 物部君は焼肉が食べたいといい、駅の近くのこじんまりとした店に入った。匂いが移らない様にと気にはしたが無駄な抵抗である。とくに髪は匂いを吸いやすいから仕方が無い。


 早く洗い流さないと。

 大急ぎでコートを脱ぎバスルームに向かう。セーターを脱ごうとして、するすると省吾に全身を絡めとられていた。


『我も、共に』

 省吾の唇が私の首筋をかすめる。

「いいけど、その前に服!脱がないと!」

 いつもの事だが、いつのまにか私の身体からはなにもかも消えている。


 ひんやりとした省吾に包まれて熱いシャワーを浴びる。水が、まるで生き物の様になって省吾の肌の上で光の雫となって弾けた。弾けた光の雫は私に触れると、優しく、ゆっくりと流れ落ちて行った。




 リビングのソファで省吾にくるまり、まったりとした夜の時間を過ごす。壁一面のガラス窓から万華鏡のように光る夜の街を眺めるのは、何だか一日の疲れをゆっくりと癒してくれる。グラス越しに眺めるのも私は好きだ。


 時々、省吾の瞳は何を見ているのかと思う時がある。

 緑豊かな山々に囲まれた空の青さを、山の緑を映し出す湖の美しさとは正反対の、昼間の汚れを闇に隠して美しく光る街の人工的な美しさは、省吾の瞳にはどう映るのだろうか…。


 それはまるで、瑞々しい美しさを、若さを失わない省吾の肌と。年を追うごとに、はりを失っていく自分の肌を何とか誤魔化そうとして高価な化粧品やエステに通い。

 老いる時間を食い止めようとする自分のようだと思った。


 それに、若さを、美しさを失っていく私の事を省吾はどう思っているのだろうか。たぶん、聞いても何もこたえてはくれないだろうという事だけは分かっていた。



 省吾は何も聞かない。

 今日、何があったのか。私が何をしたのかも聞きはしない。

 私のいない間、この部屋で、ほんの少しのお酒と静かに過ごし。私の帰りを待っていてくれる。


 ただ、私が一日の終わりに話すことを柔らかに微笑んで黙って聞いていてくれる。

 いつもそうだ。


 そして、最後に私を優しく抱き寄せ、髪を優しくそっと撫でて、ゆっくりと口づけしてくれる。 すると私の心と身体は、一日の疲れを忘れて省吾の腕の中でゆらゆらと揺れだすのだ。


 まるで、水面に漂う水が、光を映してキラキラ輝く様に・・。


 だから、この部屋をでて、あのお屋敷に引っ越したとしても、省吾は何も言わず私について来てくれる。そして省吾は、まるで初めからそこに居たかの様に自分の居場所を見つけて過ごすのだ。


 何も変わらない。

 ただ、私が老いて行くこと以外は…、なにも変わらないのだ。






☆-☆-☆


 春の訪れを聞く頃、杉山社長の望みは殆ど叶えられた。

 まだ少し処分する物件は残っていたが、これも金額と時間との駆け引きで問題は無いだろう。

 娘さんの後見人のことも私の同級生である。旧姓、悠木ゆうきしん

 両親の離婚で母方の姓に変わり、今は秋川と名乗っている、伯父の弁護士事務所を引き継いだ秋川あきかわしんを、社長が気に入ってくれて、こちらの手続きも少し時間がかったが順調に進んだ。


 何よりも、真が社長の娘さんの所に辛抱強く通い。

 初めはドアさえ開けてくれずの完全拒否だったらしいのだが。毎日、決まった時間にマンション入り口前のインターホンを押し、聞いていようがいまいが、杉山社長の娘さんに優しく話しかけ、ほとんどは依頼とは関係のない話しをしたらしい。


 そして、一か月ほどしてマンションの中に入ることは出来たが、部屋の中には入れてもらえず。

 薄く開いたドア越しの会話が何日か続き、とは言っても真の一方的なおしゃべりの様になっていたらしいのだが…。


 それからまた暫くして、これまで何度か話していた真の高校生の娘さんの話しが出た翌日、「どうぞ」といって部屋の中に入れてもらえたのだそうだ。


 こうして時間をかけて、誠実に、娘さんの信頼を得たことが大きかったのだと思う。それに、真は娘さんとの毎日のやり取りを、杉山社長に報告することを欠かさなかった。


 この報告内容が、杉山社長の大きな喜びになっていたことは間違いないと私は思っている。

 真は昔も今も変わらず、か弱き女性は男が守るのが当たり前だと考える男。そして、それが男なのだと真は信じていた。



 杉山社長のお屋敷の売買契約も順調に進む中、私は時間を見つけては引っ越しの準備を進めていた。

 多分、このときの私は何の問題もなくすべてが順調で、気がゆるんでいたのだと思う。


 そう、だから、それは…、そんなある日の朝の出来事だった。


「社長、大きな荷物ですね」

「あっ、物部君、もう来てくれていたの?ああ、これねぇ、そぉ、そうなのよ。引っ越しはまだまだ先なんだけど。いらない物を少しずつ片付けないと、と思ってね」


 急に現れた物部君に驚きながらも私はこたえた。


「手伝います。中ですか?」と物部君が言った。

「ええ、でも大丈夫よ。時間を見て少しずつするから」


 今朝、物部君が迎えに来てくれる前にと思い。処分するゴミを出しにマンション外に出たらところ、既に物部君は車を付けて待っていてくれた。


 物部君は私の手から素早くゴミを取ると、とっととゴミ収集場に持って行き捨ててきてくれた。それから物部君はその足で、既にマンション入り口前に待機していた。

 その素早さに、私はあっけに取られつつも密かに思案した。


(困った、どうしょう)


 これまで、加奈ちゃんの事があってから、どんなに親しくても誰一人として家には入れていない。簡単な用ならマンションエントランスの来客用に用意されたソファですませる。


 もし、込み入った話なら、それがどんな時間帯でも会社の私の部屋でした。


 それに、これは個人的なことだが、用心の為に両親、妹夫婦、甥が来るときには、仕事が忙しく夜も家に持ち帰った仕事をしている。その資料が、あちらこちらに点在していて雑然としているが私にしか分からない。


 変に移動されると困るからということを理由に、ホテルを用意していた。そんな私を、母は「お姉ちゃんらしいわねぇ」と笑い。父は無言で頷き。妹夫婦はホテルに泊まれることを喜んだ。


 唯一、甥っ子の浩一だけは、うすうす気が付いている様だったが何も言わずに私の言うとおりにしてくれていた。



(さて、どうしょうか)


 確かに重いゴミ袋を、物部君に運んで貰うのはありがたい。

 なにより、リビングにゴロンと置かれたゴミの塊がきれいさっぱりと無くなるのは、見た目にも気持ち良い。次の片付けへの気合も入る。ちょっとだけ、と私は物部君の言葉に甘え出していたのだ。


 これくらいなら大丈夫よね。それに、物部君は男の子だし。大丈夫よね。という自分勝手な甘え。


 それが、後で大きなしっぺ返しを連れてくるなどという事を考えずに、少しだけ楽をしたいと思う私がいた。

 甘えたいと思う私は、〝大丈夫よ〟と自分に都合のいい言い訳を頭に浮かべて、物部君を連れてエレベーターに乗り込んだ。


 エレバーターをおり、廊下を通って自分の部屋の玄関ドアを開けた。そして、私がリビングからゴミを持って来て、物部君に渡せばいい。そう思っていたのに…、


「失礼します。ゴミは、リビングですね」

「あっ!・・物部君!」


 言うが早いか。彼はさっさと靴を脱いで上がると、廊下を突っ切り既にリビングのドアを開けていた。

 慌てて後を追う私の目に省吾の姿は無かった。


(あれ?どこいったの…。ああ、水浴びね)


 省吾は、日に何度も冷たいシャワーを浴びる。気が向くと、冷たい水を張ったバスタブから何時間も出て来ない事もあった。仕方ない、龍神様なのだから。


 私は拍子抜けするやら、安心するやらで、全身の力が抜けた。そして、急に緊張感のない私の顔をみた物部君が、不思議そうな顔をして小首を傾げていたが、思い直して大きなゴミ袋を両手に掴むと、


「じゃ、先に降りています」

「あぁ、ありがとう。私も直ぐ行くわ」

「はい」


 物部君は、白い歯を見せて爽やかに笑うとリビングを出て行った。

と、その直後、ドスンと大きな音がした。

 反射的に私は駆け出した。


 そして私の目に飛び込んできたのは、水にぬれて上半身が裸の省吾が、美しいその眼を細めて物部君を見ている姿と、その前に固まって立ち尽くす後ろ姿の物部君の背中だった。


「省吾!」

 私は、省吾を隠すようにリビングに押しやった。


「ごめんなさい。物部君」

 私は慌てて物部君に謝り、素早く物部君の顔を覗き込んだ。彼は、薄く口を開け。瞳は、どこを見ているのか分からないように見開かれていた。


〝しまった〟の言葉が私の頭に浮かぶ。そして、ゴクンと自分の唾を飲みこむ音が、私の耳の中に響いた。


「物部君?」

 もう一度、力を込めて彼の名を呼んだ。


「あ!はい」

 我に返った彼は私の顔を見て〝自分は、いまどこにいるんだろう〟という様なぼんやりとした顔を向けて来た。


 そして、

「あ、あ、すみません」

 と物部君は私の方を見ずに謝ると、慌てて落とした大きなゴミの袋を二つ持ち直し、耳まで真っ赤に染めて靴を履くのももどかしいという様に、慌てて玄関ドアを開けて出て行った。


 私は、大きなため息をつきながらリビングへと戻る。

 相変わらず省吾は我関せずとソファにゆったりと寝そべり。

 片手に持ったグラスを回して光に透ける液体を優雅に眺めていた。





☆-☆-☆


 あれから二か月、毎日はいつものように何事もなく過ぎた。

 物部君は以前よりも少し無口になったのかもしれないが、いつもと変わらず謙虚で礼儀正しい。


 やはり、加奈ちゃんの時のように若いということは同じでも、省吾に対する感情は男と女では違うのだと私は安心しだしていた。そんな風にして物事を自分の都合良く理解した私は、自分の狡さに気づこうともしなかった。


 そして呑気なことに、あの日の出来事をすっかりなかったことにしてしまおうとしていた、あの日。

 私の部屋のドアが突然ノックも無く開いた。


 その日の午後から、真が杉山社長の娘さんの事で私を尋ねて来る予定になっていたから、ノックが無かったことを不審に思いながらも、てっきり彼かと思い顔をあげると…。


 そこには目の焦点が定まらない。何か抜け殻のような物部君がひっそりと立っていた。

なにかが違う?

 私は物部君をみた瞬間、背筋に寒いものを感じた。


「物部君?」

 それでも私は物部君に対し慎重に声を掛けた。


「・・・さん、・・と一緒に死んでください」

(なにをいっているの?)


 声が小さすぎて最初のフレーズが聞こえない。何かがいつもの物部君と違っていた。そして、目線を落とした私の目に映ったのは、キラリと一瞬光ったもの…。


 そう、なぜか彼の手にはナイフが握られていた。私は思わず後ずさりしたが、後ろは窓だ。

逃げ場がない。


(どうするの!)

 心のなかで私は、叫ぶように自分にそう問いかけたとき、甲高い悲鳴が聞こえた。それは、今日ここに来る予定の真を案内してきた、経理担当の早紀子さきこさんの悲鳴だと分かった。


 そのすぐ後ろに真の姿が見える。声に弾かれて物部君がナイフを持ったまま振り返る。


 それからは、まるで映像を見ているような気分だった。真が早紀子さんを押しのけ前に出たと思った瞬間。

 物部君の手にあったナイフは、ガッンとすごい音がして、真に蹴り上げられて曲線を描いて宙を舞っていた。


 次の瞬間。

 今度は、静止画像の様に棒立ちになっている物部君が宙を舞った。真に投げ飛ばされたのだ。


 それも、綺麗な一本背負いで投げ飛ばされたのだ。

 私の目のまで、大きな音を立て壁にぶち当たった物部君は、スローモーションの様にゆっくり床に落ち、動かなくなった。


 早紀子さんは勢いよく真に押しのけられたせいで、入り口ドアにぶち当り、そのまま腰を抜かしてヘナヘナとその場に座り込んでいる。


 そして、その目は恐怖で大きく見開かれていた。

 私も、私自身も一言の声もだせずに机に手をついて立っているのがやっとだった。


「大丈夫か!京香」

 真が叫びかけながら走り寄って来た。


「ええ」と小さな声でこたえながら、私はその場に崩れ落ちた。


 誰かの喚く声と、煩い靴音がする。

 頭がクラクラして、目の前がぼやけて見える。

 段々聞こえていた真の声も、何を言っているのか分からなくなってきた。それでも真は、私を心配して声を掛けてくれているのだろうと思い。


 私は「大丈夫よ」と真に向かって言ったと思う。

 それから、必死になって自分の足で立とうとした。立ち上がろうとした。けれど、それさえ出来ずに私はそのまま気を失った。






☆-☆-☆


 気が付いたのは病院のベッドの上だった。

「気が付いたか」

 真の心配そうな顔が覗き込んだ。


「ええ、彼は?」

 私は、真に物部君のことを聞いた。

「警察だ」


「そう、・・・帰らないと・・・」

「大丈夫か?今夜一晩は、ここに居る方が良くないか?」

 真が心配そうに私に言う。


「いいえ、帰るわぁ」

 私は省吾に会いたかった。いいえ、心配だった。省吾が消えてしまってはいないか心配だった。


「そうか、なら医者に一言いってくる。待っていてくれ、家まで送っていく」

「ありがとう」

〝いいよ、気にするな〟と言うように片手をあげて微笑むと、真は部屋を出ていった。




 このとき私は、もう一人では耐えられなかったのかもしれない。

 それとも、夜の暗さがとめどなく寂しすぎたのだろうか。身体の中がスースーして、私は誰かに守ってもらいたかったのだろ。


 送ってくれるという真の運転する車の中で、私は泣きながら加奈ちゃんのこと、物部君のこと、竹内さんに言われた一言。

 そして、省吾の事を正直に話した。


 私が省吾を、どれほどに愛しているか。

 そして、省吾を残して、自分が老いて行くことをどれほど恐れているかを包み隠さずに真に話した。

 真は、ただ黙って聞いていてくれた。


 車は、ゆっくりとマンション玄関前に停車する。


「ありがとう」と言って降りようとする私に、

「部屋まで送ろう。彼にも会いたいし」と真がいった。

「まさか?どうかしているわ!あなたまで失うの?」

私の顔は恐怖に引きっていたのかもしれない。


「京香、僕は、そんなに柔じゃないよ」と真はおかしそうに私を見て笑った。

 その笑顔を見たら、なんだか少しだけ安心した。


「ええ、でも、」

 それでも私はもう一度だけ、真に思いとどまって欲しくて情け無い声を出していた。


「心配するな。昔、僕に男かと言わせた。あの威勢のいい殿山京香はどこに行ったんだ」

 真は笑いながらシートベルトを外すと、さあ、行こうかという様に、さっさと私の前を歩き出していた。


 リビングのドアを開けると、夜の光りを散りばめた夜景をバックにして省吾が優雅に窓辺に佇んでいた。省吾は、私のよぶ声に振り返り真を見ると微笑んだ。


 私以外の人間に微笑むなんて、こんな事は初めてだった。


『そなた、美しき闇を持っておるな』

 省吾は、真に向かい優しく微笑んでそう言うと。

また、いつもの様に我関せずとばかりに、私達に背中を向けて夜景を眺めはじめていた。


「ごめんなさい。でも、省吾から話し掛けるなんて滅多にないことよ。それに、私以外の人に微笑むなんて、真が初めてだわぁ」

 私は驚きを隠せないでいた。


「どうやら彼に気にいてもらえたようだね。確かに綺麗な瞳だ。吸い込まれて、心を持って行かれそうになる気持ちも分からないではないね」

「ええ」


 それが恐ろしいのだ。人の心を狂わせ、壊す。省吾の美しい瞳の色が怖いのだ。


「京香。悪いが少し彼と二人だけで話をさせてもらえないか」

 暫くの沈黙の後、真が突然私に言った。


「本気なの?」

 私は驚いて真の目を真っ直ぐ見て聞いた。

「ああ、本気だ」

 真の目は真剣だった。


 二人だけにして大丈夫かとは思ったけれども、省吾が何も言わなかったので、私は黙って頷きひとりリビングを出た。






☆-☆-☆


 背後でドアが閉まる小さな音がした。

 京香が出て行ったのだ。

 僕を信じて…。

 それから僕は、ゆっくりと息を二、三度吸ってから、ひと言、ひと言を噛みしめるようにして彼に聞いた。


「君は、神なのか?」

 相手は、僕の問いかけにゆっくりと振り返り。

 こうこたえた。


『我は、我でしかない』


 やはりそうか、あの老婆のいったことは本当だった。

 僕は、自分の心を落ち着かせたくて再び息を深く吸い込んだ。それから、僕は彼に向かって話し出した。


「十二年前、僕は奇妙な老婆に会った」

 僕はそのときの光景と、聞かされた話の内容を間違えまいと一つずつ思いだしていた。



―先生、あんなが、どうしょうもなく惚れてる女の相棒は、人間じゃないかもしれねえぜ。ー


「彼女は精神を病んでいた」

 そう、あの老婆は、何か訳の分からないことをひとりブツブツと囁いていた。既に心が壊れていることは誰の目にもあきらかだった。



―この女は、元は俺の女で山本和美っていうんだが。ある日。あんなの惚れてる女の家に行って。勿論、その前に俺は先生の惚れてる女。あの、殿山京香には指一本触れるんじゃね、とは釘をさしておいた。

 だがよ、先生。和美ってぇ女は、するなって言ったってやめる女じゃなねぇ。それは俺にも分かってた。

 だから若いもんをつけて見張らせていたんだ。案の定。この女、先生の惚れてる女の家に行きやがった。

 どうせ相手の男をたらし込んで、先生の惚れてる女から奪い取るためにでも行ったんだろうってことは想像できたがな。けどな先生、そこでおかしなことが起きた。和美が、先生の惚れた女の部屋に入ったのは確かなのに出てこなかったんだ。

 それどころか、和美の部屋には、この気が変になった。しわくちゃの老婆がいた。おまけにそのババァは、自分が和美だって言いやがる。驚いたぜ。

 だがよ、確かにこのしわくちゃのババァは、和美と同じ場所に大きなほくろがあるんだ。だから信じられないことだが。この百歳かってババァは、本当なら36歳のはずなんだよ、先生。―



「彼女は、邪神に、死ぬほどの苦しみを与えられたと言った。自分を逆恨みした女達が、その老婆を貶めるためにと邪神が約束したのだと言った」


 老婆はそれから程なくして干からびるようにして息を引きとったと聞いた。



―どうせこの女のことだ。今まで散々悪さして、人のものを平気で横取りしてきたんだろう。だから、その恨みをかった。俺が知っているだけでも、和美に婚約者を奪われて自殺した女が一人はいたってことは分かっているだよ、先生。

 だからまぁ、この女のことは仕方ないとして。先生の惚れてる女はどうなんでぇ。大丈夫なのかい。ー



「君は、京香をどうする気だ。幸せに出来るのか」

 怒りを抑えた僕の言葉に、相手は…。

 彼は、ゆっくりと目を細め。


『そなたは、我が与えた機会を自分の意志で捨てた』と言った。



「君が与えた機会を僕が捨てた?僕が、いつ、何処で、何を捨てたと言うんだ」


 思いがけず大きな声を出してしまった僕に、彼の美しい瞳が冷たく語りかける。僕は、彼の美しい瞳を見つめながら、「あっ」と小さな声をあげた。


 そう、あれは故郷で行われる二十歳の成人式だ。

 故郷の誰とも会えない。会いたくない僕は、あのとき京香が、今、何処で、なにをしているのかを知らなかった。


 だから僕にとって、これが京香に会える最後のチャンスだと思った。

 そして、京香の親友で母の幼馴染みの娘である、まどかに、「あのときのことを、京香にひどいことを言ったことを、僕が自分自身の口で直接謝りたい」と言っている。


 だから、なんとか京香を連れ出して欲しい。会わせて欲しいと母を通して頼み込んだのだ。 まどかは初め迷っていたようだと母は言っていたが、最後には「分かりました」と言ってくれたそうだ。


 僕たちの町で成人式が終わった後。

 そこから車で約1時間弱離れた町の神社に、まどかが京香を連れてきてくれることを約束してくれたと母は言った。


 そこなら過去の俺の父のことを知る。俺の顔を知っている人間に会うことはないだろうからと言って、まどかが母に約束してくれたのだと言う。


 だが僕は、まどかが指定した場所に行かなかった。

 いや、行けなかった。

 思わず待ち合わせ場所の最寄り駅で、偶然にも俺のことを知る中学時代の同級生に声をかけられた。


 慌てた僕は「人違いです」と言って反対方向の電車に飛び乗ったのだ。そして、そのままその町を離れた。


「あのとき…」と僕は呟いて彼の顔をみた。


『我も考えた。人は、人とともに幸せになる方がよかろうと。だが、そなたは自らの手で、我が与えたその機会を捨てた。愚かにも見栄という見えもせぬものの恐ろしさに、なんの価値もないものに怯え。縛られ。京香を捨てた。

そして、二度目。そなた自身の想いを捨てた』



 彼の言葉が、僕の胸にグサリと音をたてて刺さる。

 そうだ、その通りだ。

 彼が言うように俺は京香を捨てたのだ。

 自分の心に、京香を好きだと、愛しているのだという素直な想いに従うことが出来ずに…、捨てた。


 そして、他の女を選んだ。

 いや、そうじゃない。そうじゃないんだ。僕は、拒否されることの恐怖におののき、京香を捨てたのだ。


 今更ながら、僕は、自分の臆病な行動に反吐が出た。そして、自分がどうすればいいのかが分からなくなっていた僕は、情け無いことだが彼にこたえを求めていた。



「僕は、どうすればいい」と・・。

 彼はひと言、

『そなた自身で考えよ。そなたが、京香に何をしれやれるのかを』


「僕には分からない」

 僕はひどく落ち込み、投げやりな言葉を彼に言ったと思う。


『そなたの美しい闇がこたえてくれよう』

 そう言うと彼は僕に背中を向けた。

 そして、もう何も僕に話してはくれなかった。僕の美しい闇というものが何なのかを、僕に教えてはくれなかった。


 もう何を聞いてもこたえてはくれない彼の背中に未練を残しながら、僕は静かにリビングの扉を開けて廊下に出た。


・・息苦しい・・

 扉の開く音に隣の部屋から京香が飛びだしてきた。大丈夫という心配そうな顔をして…。


 僕は京香に、僕の心から、とめどなくあぶれ出す後悔という名の思いを悟られまいとして、必死に笑顔をつくっていた。





☆-☆-☆


 リビングの扉がゆっくりと開く音がした。

 私は、慌てて寝室から飛びだす。真のことが心配だったからだ。


「真!」

 私の呼びかけに真は顔をあげ微笑んだ。

 だが、その顔は何だが苦痛に歪んでいるように思えた。


「大丈夫…」

 私の声が小さくなる。


「大丈夫だ。心配するな。俺は、そんなに柔じゃないって言っただろう」

「ええ、」と真の言葉にこたえながらも私のなかにある不安は消えない。


 でも、真はそんな私の気持ちを無視して。

「彼にも会えたし話しも出来た。それに、何より京香を無事に送りとどけた。今晩はこれで帰るよ。明日は無理するな。会社は休んだ方がいい」


 真は私に優しく言ってくれた。

 真が省吾と、どんな話をしたのかを聞きたいが、なんだか怖くてそのことには触れられなかった。


「ええ、そうするわ」

「警察への対応は、僕が全てする。京香は心配するな」

「ありがとう、恩にきるわ」


 いいよ、気にするなといつものように片手をあげた真は、エレベーター前まで送るという私の申し出を断り。なんだか少し寂しそうな背中を向けて玄関を足早に出て行った。


 真の後ろ姿を見送ったあと、リビングへと引き返す。ドアを開けて俯く私の前に、いつの間にか省吾が目の前に立っていた。


『あの者は、そなたを愛している』

 省吾の瞳の奥がキラリと光っている。


「えっ?誰が?真?まさか…」

 私は、悪い冗談を言わないでというように軽く笑って見せた。が、このとき省吾の瞳を初めて怖いと感じた。


『あれは、あの者は、京香をこよなく愛でている。だが、京香は我のもの』

 省吾の今まで聞いたことも無い低い声が、私の頭の中に木霊した。頭がクラクラする。


 そして、

「省吾・・」

 私の声が音を発する前に、省吾の冷たくて甘い唇が私の唇と捉える。

 ゆっくりと捉えていく。





☆-☆-☆


 一週間後、物部君は釈放された。

 そして物部君は田舎から彼を迎えに来た祖母に連れられ、帰って行ったと…。

 彼と、彼のお祖母さんを駅まで見送った真が、その足で私の会社まで知らせに来てくれた。


「じゃ、彼は、物部君は、お祖母さんに育てられたの?」

 私は、初めて聞く物部君の生い立ちに驚いた。


「ああ、彼が幼稚園、小学校とお受験に失敗して。3歳下の弟が私立の小学校に合格すると、母親は弟だけを連れて家を出たそうだ。そのとき、母親が彼に、〝あなたには、時間とお金を費やしたのに何の役にも立たなかった。父親似なのね。だから、あなたは、お父さんといなさい〟と言い残してね」


「そんなひどい事を…」

 私は、まだほんの小さな子どもに、母親がそんなひどいことを言うのかと信じられなかった。


「母親は私立の有名大学出身のキャリアウーマンだったらしい。彼のお祖母さんが言うには、三流大学出身の自分の夫を、誰はばかることなく普段から馬鹿にしていたらしいんだ。だから、たぶん、自慢の息子にならなかった彼は、いらないという事だろう」


「まさか…、そんな。自分の子供でしょう?」


「世の中にはいるんだよ、そういう親が。親の言うとおりに出来たら愛してあげる。出来ない子は愛してあげない。言い換えれば、優秀な子供ならいるけど、そうじゃない子供はいらない。それに、彼は両親の離婚後。半年もしない間に父親が再婚して、新しい母親に子供が出来ると、直ぐに田舎の祖父母に預けられた。

酷い言い方だが、彼は母親に捨てられ。次に父親にも捨てられた。二度、捨てられたんだ」


 物部君の、あの謙虚で控えめな性格は、そんな生い立ちからきていたのかもしれないと真の話を聞きながら私は思った。


「それで、彼の様子はどうだった?」


 そう、私が知りたいのは物部君自身の今だ。

 理不尽に彼を捨てて、自分たちだけが幸せであればいいと平気な顔をして生きている、彼の両親の話などこれ以上は聞きたくは無かった。


「まるで抜け殻だな。お祖母さんの言うことに、素直に〝はい、はい、すみません〟と答えるだけで、何も見てはいなかった。お祖母さんのことも、自分の本当のお祖母さんだと彼は理解してはいないんじゃないかな。これは、今日、彼を見た僕の感想だが…」


「そんな…、」


 私は可愛そうにの言葉を飲み込んだ。

 物部君をそんな状態にしてしまったのは私なのだから、可愛そうになどという軽々しい言葉を、私が使うことは出来ないと思ったからだ。


 私は、彼を、物部君を訴える気は無かった。

 事件のあった直後は気が動転していたので、その事を、真に伝える事を忘れていたと慌てて連絡した。

 あとは私の意思を確認した真が、すべて対処してくれた。


「こういってはなんだけど。仮に訴えていたとしても、彼の今の精神状態では罪は問えないだろうな。それより寧ろ、京香かした今回の対応の方がいいと僕は思うよ。彼のお祖母さんも京香には感謝していた。それに、退職金のことも感謝していたよ」


「当然のことをしたまでよ、彼がそうなったのは、そうなってしまったのは私のせいなんだから」


 ハァー、と力なく長いため息をついた私は、膝に手を置き、頭を垂れて深くソファに沈みこんでいった。


 こうなることは初めから分かっていたはずなのに、それなのに、私は少しぐらいなら大丈夫だと、自分の中にある狡さを見ようとはしなかった。その結果がこれだ。


 まったくもって自分のバカさ加減に腹が立つ。

 そんな私を見て真はしばらくの間なにも言わなかった。ただ黙って、何かを注意深く考えているようだった。




 そして、いつになく真剣な顔をした真が私に向かい話しだした内容は、私には少し理解しにくいものだった。


「京香。もしかしたら僕の考えは間違っているかもしれない。だが、今度のことと、京香から今まで聞いた話を僕なりに考えた。京香はすべて省吾君の瞳のせいだというが。それは違うんじゃないのか。寧ろ、その反対で、そのぉー。

心を狂わせ、壊すと言うのは相手の問題なんじゃないのかな。省吾君では無くて」


「どういう意味?」


 真は何を言っているんだろう。私は失礼なことだとは思いながら、怪訝な目で真を見た。だけど真は、そんな私の失礼な態度を気にすることもなく話し出す。


「なんていうのかな。彼にしろ、その前の彼女にしろ、根底に京香に対して特別な思いみたいなものが有ったんじゃないのかと思う。彼女は多分、京香の様に成りたかった。彼の場合は、京香に母親を重ね合わせていたんじゃないだろうか。だから京香に気に入られたかった」


「でも、それが、どうしてこうなるの?」

 そう、そこが知りたいと私は思った。


「ああー、つまり。省吾君が現れたことで立ち位置が変わったんだと思う。彼女の京香になりたかったは、奪ってしまえと変わった。

 それは、仕事ではどんなに努力しても京香には勝てないけど。省吾君の隣に女としてなら自分の方が若さで京香に勝てる。京香さえ居なくなれば、そのポジションが空くから努力しなくても手にはいると彼女は思った。

 つまり、京香になれるとね。

 それから彼の方、彼の気に入られたいは、多分、弟に奪われた母親の愛情を取り戻したいだ。だが、省吾君を見て勝てないと思った。

 だから彼の、あの時呟いた言葉は、〝お母さん、僕と一緒に死んでください〟だったと考えると辻褄が合う。だから彼は、京香に、母親に気に入られないのなら、愛して貰えないのなら。自分だけのものにしたいなら。

 弟に、省吾君に渡したくないなら。母親を、京香を自分と共に殺してしまえばいい。この世から消してしまえばいい。そうすれば、もう二度と弟に母親を捕られる心配は無い。自分だけのものになると思い詰めて行動を起こした」


「なに?それ。じゃぁ、私は母親の身代わりで。おまけに、若さかなければ女としておしまいってこと?随分、自分勝手じゃない?それって!」

 加奈ちゃんと物部君の顔が浮かんだ。



「そう、身勝手だよ。誰でも心の底に自分勝手な欲望を持って生きている。だが普段は隠して生きている。或いは自分の欲望さえ気づかずに優等生の顔をして生きている奴がいる。彼や彼女の様にね。

 自分のほんとの欲望を、自分の力で、努力で、手に入れるのではなくて。安易な方法で手に入れる事が出来ると思い込み。自分の弱さを正当化し。他人が努力して、苦しんで手に入れたものを、さも自分が奪っていいのだという様に身勝手な事をする。とても自分勝手な理由を言って、自分が欲しければ平気で人のものを奪う。

 時には命さえも平気で奪う。

 だから省吾君の瞳が、その欲望をさらけ出させる鏡だとしたらどうだろう。そして、それを見せられた途端。自分の醜さを直視できずに、誰かのせいにすり替えてしまう」


「さらけ出す、自分の醜さを?」

 私は意味が分からず、真の言葉を繰り返していた。


 真は、私の言葉に頷くと続きを話し出した。

「そう、自分の醜さを誰かのせいにして、本能のままに、欲望のままに行動する。そう考えると悪いのは何も省吾君の瞳では無くて。そんな心の闇を奥底に隠しながら。自分の本当の心を見ようとも、理解しようとせずに。ただ、自分が助かりたいだけの為に人の心を奪う様にして生きている人間の方じゃないのか?」


 確かにそうかもしれない。真の言っていることは正しいのかもしれない。ただ、そうかもしれないけれども…。


「でも、彼の、小さな幼い彼がおかれた立場を考えれば、そんなきついこと言えるかしら」


 それに、真。あなたは弁護士よ。

 そういう人を弁護するのが仕事じゃないの?と、私の目は、きつく責めるように真を射抜いていたかも知れない。


「勿論、彼には同情の余地はある。だが、しかし。今現在、彼は大人だ。母親や父親の支配下で、なにも出来ずに、ただ従うことでしか生きては行けなった小さな子供じゃない。

 苦しくても、辛くても、大人になった彼は自分の力で生き抜ける事が出来たはずだ。彼は自分の考えで、自分の心で行動できる。生きる事が出来る。大人という自由を手に入れたはずだ。

 彼は…、彼は、自分を救う方法を探すことが出来る大人という自由を手に入れたはずなんだ」


 真は苦しそうに顔をゆがめ、絞り出すような声でそう言った。

 中学生の頃。父親が犯した罪が原因で住み慣れた町を離れ。自分の名前を捨てて生きて行くことを選ばなければならなかった真にとって、彼のしたことは歯がゆかったのかもしれない。


 逆をいえば辛かった子供時代に縛られるな、今の自分を生きろ、今の自分を大切にしろ。そして真は、そんな物部君に誰よりも幸せになってほしかったのだ。


 私は、すこし、真のことを誤解していたようだ。


「ありがとう、真。そうね、あなたの言う通りかもしれないわね。それに…。私も、今、目が覚めたわ。今まで省吾の事ばかり悪く考えて、加奈ちゃんや物部君に対しても悪いことをしてしまったという、罪悪感ばかりを感じていたわ。

でも、それは自惚れね。自分を悲劇のヒロインにして、自分の狡さや醜さを、見ない様にしていたのよ。真の言うとおりだわ」


「京香?」


「決めたわ。私、何もかも捨てる。両親も、妹も、可愛い甥も、親友のまどかも。そして自分の名前も。今までのすべてを捨てて省吾と生きていく。私がシワくちゃのおばあちゃんになって、若くて美しい省吾に手を握られて死んで行くまで、省吾だけの為に、自分の幸せだけの為に生きていくわ」


「京香、相変わらず極端だな~。でも、まぁ、それでこそ僕の知っている京香だ」


「ええ、ただし、真。目覚めさせた貴方にも責任があるわ。協力してもらうわよ。いいわね」

 私は、覚悟していなさいという様に悪戯ぽく真に向けて微笑んだ。


「分かったよ」

 仕方が無い。毒を食らわば皿までか・・と、いう様に真は呆れたように笑っていた。 

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