第6話 邪神を呼ぶ邪悪な心

【山本和美36歳】



〝おもしろくなってきたわ。この子、狂いはじめている〟

 年を経てますます濃い化粧をし、胸やお尻と身体をひどく強調する派手な服装の山本やまもと和美かずみは、目の前の宮内みやうち加奈かなを見てにやりといやらしく笑った。


 そして…。

 この子を使えばあの女を、私を貶めた、あの憎たらしい殿山とのやま京香きょうかの息の根を止めてやれるかもしれないと和美は思った。


 思わぬことから会社を辞めさせられた和美は、京香を恨んでいた。


〝私が会社を辞めさせられたのは、あの女、殿山京香のせいよ。あの女が裏で糸を引いていたのよ〟と信じ込んでいた。


 和美にとって自分が一番だ、欲しいものはどんなことをしてでも手に入れる。自分にはそれが許されていると思っている。

 なぜなら自分は特別な存在なのだから、和美は自分が、誰に、なにをしてもいいのだと思っていた。


 そして和美の歪んだ性格は、もし、どんな手を使っても自分の手に入らないものならば、壊してしまえばいいという考えを平気で持っていたことだ。


 たとえそれが人の命であったとしても、自分の目の前から消し去ってしまっても、自分には、そのすべての行為が許されるのだと思っていた。


 だから和美は、自分がしたことなどに何一つ反省する訳がなかった。むしろ和美は、会社を解雇されたのも自分がやったことが原因などではなく、京香の策略にはめられたのだと信じ込んでいた。


 それに加えて、仕事でも容姿でも自分より下だと思っていた京香が、自分より先に主任に成ったことが和美には絶対に許せなかった。



「ねぇ、宮内さん。あなたは信じないかもしれないけど、あの女は魔女なのよ」と和美は辛そうな顔をして、宮内加奈を気の毒そうに見ていった。


「魔女?課長がですか…」と宮内加奈はオウム返しのように和美に聞いた。


「そう、魔女よ、若い男の生気を吸い取り生きている魔女。あなたも知っているでしょう?川本くん、彼も犠牲者の一人なのよ」と和美は言った。



 川本かわもと裕一ゆういち、京香の年下の恋人だった男だ。だから和美は、会社を辞めて何年かは裕一をつなぎ止めていた。京香が裕一と寄りを戻そうとするかもしれないからだ。

 そのときを待って、裕一を使い京香のプライドをズタズタにしてやろうと考えていたのだ。


 だが、和美のその予想は見事に外れた。

 京香は裕一に未練など一つも見せずに、和美が歯ぎしりするほどの勢いで出世していった。


 この男はなんの役にも立たない。


 和美がそう見限って裕一と別れたのは半年前。

 それも、ちょっとした裏社会で顔の利く男と知り合ったからだ。勿論、男にはお金があって和美に贅沢をさせてくれるから、その男の存在はありがたかった。


 会社を辞めてからの和美は悲惨だった。

 同じ業種で働こうとしても何処も門前払いだ。

 やっと違う職種で就職できても、柏原の妻がことごとく潰してくれた。


 それが嫌ならいっそ遠くの違う町に行けばいいのだが、それは出来ない。和美にはどうしてもやることがあった。


〝あの女を、私と同じ目にあわせてやるまで逃げるわけにはいかないわ〟


 それが和美のやること。やらなければいけないとだ。

 今まで和美がこれほどの屈辱を味あわされたのは、後にも先にも殿山京香ただ一人だけだった。


 だから和美は夜の世界で生きることにした。男とはそこで出会った。そして和美は、その男の何人かいる愛人の一人におさまったのだ。


 だからもう、京香を陥れるために、なんの役にも立たない川本裕一など必要ないと見限ったのだった。




 はじめ和美は、この男に頼んで京香をズタズタにしてやろうと計画していた。昔、和美を崇拝する取り巻きの男達数人で餌食にしてやった、同級生の生意気な女のようにしてやると思っていたのだが…。


「ねぇ、私の為にこの女、殿山京香を何とかしてよ」とベッドの上で和美は猫なで声で男に頼んだが…。


「殿山京香…、そいっぁ~、ダメだ」と冷たく断られた。


「どうしてよ!」

 てっきり自分のお願いを聞いて貰えると思っていた和美は声を荒げた。


「いいか、和美。おまえがいう殿山京香って女は、先生の大事な人なんだよ。俺はな、和美。先生には口では言えねぇくれぇの恩がある。だから恩のある人の、大事な人に手出しは出来ねぇ。分かったらとっとと諦めるんだな」と男の大きな手で首を摑まれ、怖ろしいくらい低い声で脅された。


「わぁ…、わ、分かったから手を離してよ…」


 和美は息絶え絶えに喘いだ。だが男は手を離さない。それどころか、ますます手に力をいれて和美を睨み、恐ろしげな顔で言った。


「いいか、俺がおまえみたいな女の考えてることが分からないとでも思うのか。俺をなめるんじゃねぇぞ、和美。いいな、その女のことは忘れろ!二度はいわねぇ!」

 そう言って男はやっと和美の首から手を離してくれた。 



 あの日以来、男の前で京香の名前を口に出してはいない。男のいう先生が誰なのか聞こうとしたが、これもすごい顔で睨まれた記憶が蘇り…、恐ろしくてそれ以上はなにも聞けなかった。


 だが、どうしれも京香に一泡吹かせたい和美は京香の自宅の周りをそれとなく見張っていた。



〝そしたら、この子が現れたのよね〟

 はじめ和美は意味が分からなかった。注意深く宮内加奈の様子を見ていると…。


 宮内加奈は、休日の朝早くから、京香のマンション隣の公園で一人ポツンとベンチに座っていた。


〝なにしてるのよ?あの女のマンションに行くんじゃ無いの?〟と、和美はイライラしながら加奈の様子を見ていたら…。


 加奈は、ひたすらマンション前の道を眺めている。そして京香がマンションから出てくると隠れた。


〝どういうこと?〟


 京香を崇拝している加奈が、京香に声さえかけずに隠れるのだ。その姿に何かおかしいと和美は思った。


 そして京香がいなくなったマンションに、嬉しそうに小走りして入っていく加奈を見て和美はピントきた。

 男だ、間違いない。

 京香が出かけてから、京香の新しい男と加奈は会っているのだ。


 京香の新しい男は、裕一が和美とこっそり会っていたように、今度は加奈と会っているのだと和美は確信した。


〝何処までも男の見る目のない女ね。でも、これであの女の男が川本裕一と同じで、女に、女の身体にだらしない男だというのが分かったわ。なんだかおもしろくなってきたわね〟


 そして和美は何回目かに、加奈がマンションの中に入れなくてイライラしているところに偶然を装って声をかけたのだ。




 客がまばらな喫茶店奥の席で、和美はテーブルに身を少し乗り出してから、向かい側に座る加奈の不安げな目を優しげな振りをして覗き込むと囁いた。


「多分、あの女は、お金でその人を縛っているのよ。川本くんを縛ったようにね。勿論、その人をあなたと会わせないためよ。間違いないわ。だって、あなたの方が若くてきれいでしょう。あの女はお金でしかあなたに勝てないことを知っているのよ。だから…、ね」と思わせぶりな言い方で、加奈とその男が気の毒だと言わんばかりの顔をして言った。


 加奈はその言葉に大きく頷いた。


〝引っかかったわ、この子、案外バカだったのね〟

和美は心の中でほくそ笑んだ。


〝みてなさい、殿山京香、私を怒らせるとどうなるか思い知らせてやる〟



 和美は、心の中で高らかな笑い声を上げていた。

 そして、真剣な顔で和美の話を聞こうとしている加奈に向かって言った。


「大丈夫よ、宮内さん。私にいい考えがあるの。きっとあなたの好きな人を自由にしてあげられるわ。ようは、あの女が、あなたの目の前からいなくなればいいことなのよ」と和美は加奈に囁いた。


「課長が…、私の前からいなくなる?」

加奈は不思議そうに聞いた。


「ええ、そうよ。いなくなればいいの。ねぇ、宮内さん、あの女はお金であなたの大事な人を縛っているの。だからね、お金が無くなればよ、あの女はなにも出来ないのよ」と和美は噛んで含めるように加奈に言った。


「お金が無くなれば…」

あれほど自分を嫌っていた宮内加奈が今はどうだ。自分の言葉を聞きもらすまいと必死に耳を傾けている。

どうやら宮内加奈は、自分で善悪の判断さえつかない状態のようだ…が…。


〝いいえ、違う。善悪なんて、今のこの子には必要ないのよ。この子は男に狂っているのよ。もう、その男のことしが考えられなくなっているんだわ、きっと…〟


 それならそれでいい。和美は、ますますおもしろくなってきたと心躍らせた。



「いい、うちの会社のお客さんは案外見栄をはる人が多いじゃ無い。金額が大きいから銀行に振込んで欲しいと言っても、わざわざ現金を用意してきて…、面倒くさい事に私たちに数えさせたりするわ。あれは、自分がいかにお金を持っているのかを私達にみせびらかしたいのよ。そうでしょう?」と和美が加奈に尋ねた。


「はい、時々、課長のお客さんでもいらっしゃいます。そういう人」と加奈が真剣な顔でこたえた。


「そう、そうなのよ、特にあの女が扱う投資には、そういうお客が多い。多いから…、いいのよ」


「なにが、いいんですか?」と、加奈がまた不思議そうな顔で和美に聞いた。


「いい、振込や現金で集金する人の分は隠しようが無いけどね。こういう見栄をはりたい人は、こちらの手間も考えつつのポーズと、自分のお金持ち度もアピールしたい。だから、時々いるでしょう。現金は怖いけど小切手で、ってお客さん」と和美が言う。


 たが、宮内加奈はまだ和美の言いたいことが理解出来ずにいた。


「もぉ、じれったいなぁー、その小切手を隠せばいいのよ。あの女の経理は宮内さん、今でもあなたが全部やっているんでしょう?」


「はい、やってます」


 加奈が胸をはってこたえたのには、なんだか滑稽で笑えたが、和美はそんな思いも表情も表に出さずに真剣な顔で言った。



「だから、それを隠して、私は知りません…って、しらを切ればいいのよ。分かる?無くなったお金の犯人をあの女のせいにしてやればいいの。それで、あの女は会社のお金を横領したことになって解雇よ」


「そんなこと、出来るんですか?」


「出来るわよ。ようは、あなたがそのお金を、小切手を知らない。知りません。貰っていませんって、突っぱねればいいのよ。そして、絶対にそのお金が見つからないように隠すの。そうすれば間違いなく、あの女はあなたの前から消えてなくなる。そして、その人は、あなたのものになるわ」


 和美の言葉に加奈は大きく頷いた。



〝やっぱり、本当はバカじゃないのこの子。そんなことしても、ばれるのは目に見えているのに気づきもしないなんて、でも、これで時間稼ぎにはなるわ。私が、男を見る目の無い、あの女の新しい男を手に入れる時間をね〟


と、心の中で和美は自分勝手な計画を立てながら、その顔は、目の前の加奈を応援するわというように優しく微笑みかけていた。





 ☆-☆-☆


翌日…。

〝さて、これからどうやって、このマンションの中に入るかよ〟と和美はワクワクした。


 和美の今日の装いは白のワンピースだ。


 ただのワンピースじゃない。胸元が大きく開いて和美の豊かな胸の谷間が見える。それに、和美の身体の線にピッタリと合ったこのワンピースは、男が一点もので和美の為に作らせたブランド物だ。


 今日は、きつい香水は控えた。

 その代わりに、和美の好きな甘ったるい香りのオーデコロンを、手首に少しつけてきた。爪もきれいに赤くネイルされて、小さなスワロフスキーのガラスが細やかに輝く。


〝みてなさい、殿山京香。私に落とせない男なんかいないんだから〟

 和美は、京香に対して早々と勝利宣言をしていた。



 加奈が現れるようになった頃から和美は、京香が仕事に出かけたあとに、ほぼ毎日時間帯を変えてはこのマンションを偵察に訪れていた。


 オートロックの玄関はカギが無いと入れないことは見ればわかる。管理人室はこの時間帯、ほぼ間違いなくカーテンが引かれて閉まっている。


〝ふぅーん、意外、昼間なのに…、〟と、何度か訪れてそのことは確認していた。玄関扉に向かって左奥にあるメールボックスのチェックも忘れなかった。


〝そろそろ帰ってくる頃よね…〟

 案の定、近くのコンビニの袋を持った若い男が帰ってきた。

 男はこのマンション8階に住む浪人生だ。



「お勉強、大変ね。8階の斉藤さんでしょ?」と和美はにこやかに声をかけた。


「はぁ、はい…」

 若い男は和美の笑顔と胸の谷間、そして微かに香る甘ったるい香りに顔を赤らめた。


「私、5階に住む殿山ですけど、うっかりしてカギを忘れて出てきてしまったの。何度もインターホンを押すんだけど、家の者がトイレにはいっているか、寝ちゃってるみたいなんですよ。それに、管理人さんもいないみたいで…。だから、一緒にいれてもらってもいいかしら?」と和美は鼻にかかった得意の甘えるような声で言った。


「あっ、はぁ、はい。いいですよ」と言いながら、男はチラリとカーテンの閉まった管理人室を見て、慌ててズボンのポケットからカギを出すとマンション玄関のガラスドアを開けてくれた。



「ありがとうございます」と言って和美は、その男とマンションの中に入った。


和美はさりげなく男の後ろにつき、エレベーターへと導いてもらった。


〝本当は住人じゃ無いって分かると大変、何事も出しゃばらない、出しゃばらない〟


 エレベーターの中でたわいのない話をし、甘ったるい香りを残して和美は5階で降りた。閉まるドアに男はちょっと残念そうな顔をした。


 それを見て和美は満足したようにエレベーターに残る男に対して微笑んだ。エレベーターが上の階へと消えていくと、和美はクルリと向きを変えて、目の前の部屋番号をさりげなく確かめた。



 和美は、目の前に並ぶドアの向こうから急に誰かが出てきたとしても怪しまれないように、慌てず、ゆっくりとした足取りで京香の部屋のドアへと近づく。


 だが、心配はいらなかったようだ。

 共有廊下はシーンと静まりかえっている。

 誰かが廊下に出てくる気配はない。


 そして、目的の部屋の前で和美は立ち止まり…。

【TONOYAMA】と書かれたローマ字に嬉しそうに微笑んだ。



〝さぁって、これからが勝負だわ。どうやってこの部屋のドアを開けさせる?〟

グズグズしていては誰かに見とがめられる可能性がある。


〝まさか、ドアが開いているとは思わないけど…〟と和美は心の中で思いながら、だが念のためと触れたドアノブがなんの抵抗もなくスルリと動いてドアは開いた。



「信じられない。これは天が私に味方したのね」と和美は嬉しくて思わず声を上げてしまい。慌てて片手で自分の口を押さえて周りを見た。


 誰もいない。


〝良かった〟と心の中で呟き、和美は嬉しくて笑い出したい気持ちを必死に抑えた。


〝笑うのは、あの、バカな女の男を手に入れてからよ。それも、あの女の目の前でね〟

それまでは我慢、我慢と自分に言い聞かせて和美は大きく息を吸いこんだ。


 そして、思い切ってドアを開けると、素早く玄関の中に入り込んで、音を立てないようにそっとドアを閉めた。


 目の前にはナチュラルホワイトの明るい色のフローリングの床が真っ直ぐに伸びている。両端にはダークブラウンの扉がそれぞれ斜めに向かい合うように少しずれて一つずつ。


〝多分、どちらか一方があの女の寝室ね〟 

 覗いてやろうとも思ったが…。

〝いけない、いけない。それはこの次でいいわ〟と和美は自分の心に言い聞かせた。


 玄関から真っ直ぐ前を見て、廊下の突き当たりにあるリビングへと入るガラスの格子扉の枠は、床の色に合わせた淡いアイボリーホワイトだ。廊下の壁もそれに合わせて生成がかっていた。


 玄関先も、廊下の壁にも余計な物は何一つ出てはいない、何も掛かってはいない。余計な物はすべて玄関左の下駄箱と、そのすぐ隣にある小さな収納クローゼットに入れているのだろう。


 唯一出ているものは、下駄箱うえの壁に掛けられた楕円形の大きな鏡だ。丁度、腰から上がよく見える。

 きっと京香が姿見代わりに使っているのだろうと和美は思った。


〝あの女らしいといえば、らしいはね。色気もなにもあったもんじゃない。〟と和美はもう一度玄関周りを見回し、冷たく心の中で呟いた。






☆-☆-☆ 


 はじめて京香を入社式で見たとき、和美は不思議でならなかった。


 和美は、右を見ても左を見ても自分より美しいと思う女がいない退屈な会場で、長い髪を一つにまとめ、殆ど口紅だけか?と思う薄化粧に、お決まりのさえないリクルートスーツ姿の京香が入ってきた途端に会場の空気が変わった。


 ざわめきが一瞬にして止まったのだ。

 少なくとも、そこにいた男性は京香に注目した。が、とうの本人はそんな周りの目を一切無視していた。


 このとき和美は、きれいな顔立ちなのに、女性らしい魅力的なスタイルなのに、その美しさのどれも生かそうとはしてない。


 むしろ面倒くさそうに捨てているとしか思えない京香のその姿に対して、〝なんなのよ、あの、地味な女は!〟とそれだけでも腹立たしかった。


 だが、もっと腹立たしくてショックだったのは、和美自身の目が知らず知らずのうちに京香の姿を追っていることに気がついたことだった。

 それは和美の意に反して、和美の本心が京香を美しいと認めたことだったからだ。


〝なのに、あの女、それを何一つ使おうとはしなかった〟


 そして、和美と京香の二人は配属部署が同じになった。そうなると今度は京香から目が離せなくなった。

 和美にしてみると、男にさえ今までそんなことは無かったのに、四六時中自分の目に入るというか…、気がつくと、自然に目で京香を追ってしまっている自分自身と、京香の姿にイライラし出した。


 京香は、そのとき邪魔だと思うならブローをして美しく整えた長い髪をさっさと一つにまとめた。必要なら小汚い作業服にも着替えた。


 仕事に邪魔だからと、京香は生まれつきの細長いきれいな爪をわざわざ短く切りそろえていた。それを見た和美は、なんてもったいないことをするバカな女なのかと思った。


 生まれ持った美しさはお金を出しても手には入らない。なのにこの女は、その価値さえ知ろうとしないで捨てている。


〝バカなの?この女〟


 自分の美しさを何一つ使う気の無い京香に、和美のいらだちは日に日に増していき、やがて激しい憎しみに変わっていった。






 ☆-☆-☆


〝あんな女、不幸になればいいのよ〟


 上品といえば聞こえがよいが、どう見ても殺風景としかいいようのない玄関を見て、和美の心に京香にたいする憎しみの心が再び怒りとなってわきあがってきた。


 和美は乱暴に靴を脱ぐと、胸をはり、悪びれることなく堂々と廊下を歩いてリビングへとつづくガラスの格子扉を開けた。



 和美は左手にオープンキッチンを見ながら前に進んだ。オープンキッチンの前には、6人掛けの大きなテーブルが縦長に置かれている。


「バカじゃ無いの、家族もいないのにこんな大きなテーブル…」と和美はイライラしながら呟いた。そう呟いた和美には、自分がいましている事に対しての罪悪感などなにも感じていないようだ。


 和美の右手には背の低い家具が壁に沿って置かれていた。この上にも殆ど物は置かれていない。

 壁にはカメラつきのインターホンがかけられている。和美はその前をゆっくりと進み、身体の向きを変えた。


 そこには…、

 右手奥の部屋に置かれたソファには、和美が今までみたことのない左右の目の色が違う、若くてきれいな男が優雅に足を組んで座り和美を見て微笑んでいた。


「きれい…」

 思わず和美の声が吐息のようにもれた。


 確かに、川本裕一も美男子の種類に入ってはいたが目の前の男はそれどころでは無い。


〝超がつく特級品よね〟と心の中で呟いた和美は、目の前に座る男の、陶器のように滑らかな肌と桜色の唇にドキドキした。


「あなた、驚かないの?知らない女が目の前にいることに?」と和美は目の前の美しい男に聞いてみた。


『驚かぬ、そなたが此処にくることは分かっていた』と少し低い魅力的な声で男はこたえた。


 男の言葉に和美はピンときた。ドアを開けておいてくれたのはこの男だ。きっとマンションを何度か訪れていた自分を、どこからか見ていて、男として興味がわいたのだと和美は自分勝手な解釈をした。


 所詮、このきれいな男も他の男となんら変わりは無い。神々しいほどの気品と、近寄りがたいオーラはあるが、外見に騙される必要はなにも無いのだと安堵した和美の顔が、勝ち誇ったように笑った。


 和美は男のギリギリまで近づき、膝をついた。

 そして片手を男の組まれた膝に置き、ゆっくりと男の顔を下から見上げてにっこりと笑うと…。


「ねぇ、あなた、なまえは?」と聞いた。


 男はそれにはこたえず、見上げる和美の顔を上から見下ろし、両手で和美の両頬を包み込んだ。


〝キスしてくれるのかしら…〟

 和美は、とびきりの笑顔を男にむけた。





『そなたの後ろには三人の女がいる。一人は年端もいかぬ子ども、もう一人は若く美しい娘とその母親』

 男は和美の瞳を覗き込んでそう言った。


「あなた、何を、言ってるの?」

 和美は眉をしかめた。


 自分以外にこの部屋に女などいないのに…と、男の言葉を不快に思った。


『忘れたのか、三人とも、そなたが殺した女達だ』


 だが、和美には男の言葉が理解出来なかった。

 和美が不快な顔を強めると、男はニコリと笑ってそのきれいな瞳をより一層近づけた。


 男に両頬をつかまれた和美は動けない。和美が間近で見る男のきれいな瞳の中に見たものは…、


 あれは、小学校二年生のときの大雨が降った翌日だった。

 今日は川の水が昨日の雨で増している。おまけに引き潮の時間も早い。

 学校から帰ってきてからでは危ないから、泳ぎに行くのは休みの日にしなさいと親から言われていたが、和美は祖母に買って貰った新しい水着をどうしてもその日に着たかった。


 着たかったから和美は、自分に逆らうことが出来ない、自分の家からは随分と離れている、気の弱い同級生の家までワザワザ迎えに行き、嫌がるその子を無理矢理に海水浴に誘った。


 結果、その子は引き潮が重なった川の早い流れにさらわれて海へと消えていった。その子が流されたときも和美は助けになど行かなかった。


 知らん顔をして、ひとりでさっさっと家に帰ったのだ。

 夕方、その子を誘っていたことを見ていた近所の人の話で、その子の親が訪ねてきたが、「知らない、途中で私、家にかえったもん」と言って押し通した。


 和美の両親は驚き慌てて、その子の親と一緒にその子を探しに出たが…。

「和美は、なんにも悪いことしてない。おばあちゃんとおったらいい」という和美を猫かわいがりする祖母と家に残った。そして、広い海へと流されたその子はとうとう見つからなかった。



 大学時代、たいして美しくも無いのに、「卒業したら結婚するの、お母さんも喜んでくれてるんだ」と、これ見よがしに自分の幸せを和美に見せつける同級生の女の姿が気に入らず。


 相手の男を軽い気持ちで誘惑してやると、男は一発で和美に傾いた。


 そして…、婚約破棄。

 だが、それだけでは気が済まなかった和美は、追い打ちをかけるように自分を崇拝する男数人にその女を襲わせた。

 そのあと、その女は自殺したと聞いた。それを聞いても和美はなんとも思わなかった。


 それから半年後、その女の母親が死んだと聞いた。もともと心臓が弱く、娘の死でショックを受けたらしい。

 それを和美に話し終えた、名前も覚えていない同級生の女は下唇を噛みながら、和美を睨んだ目が「あんたが二人を殺したのよ」と言いたげだった。


 だが、和美は…、

「あっ、そう。そうなの、でも、私には関係のないことよね。だって、よその家のことだもの」と言ってやった。


 そう、その女と…、多分、母親だろう。よく似た顔の年配の女とが並んで恨めしそうに瞳の中から和美を見ていた。




「なんなのよー、これは、」と叫んで、和美はもがいて男の手から逃れようとした。だが、細くてきれいなその手の何処にそれほどの力があるのかと思うくらい、男の手はびくりとも動かなかった。


『幼き者は、そなたの代わりに死んだ。若き娘も、その母もそうだ』と男が言った。


「どういう意味よ!」


 そう叫びながら和美は、今度は自分の長い爪を男の手の甲に力一杯食い込ませた。


『その様なことをしても無駄だ。逃げられはせぬ。そなたが三人から奪ったものを、今、ここで返して貰う』と男は言った。


「私が、何を奪ったというのよ!」

 この男、顔はきれいだが頭がおかしいのかと和美は思った。


『そなたは自分が生き延びるために、三人の生気を奪ったのだ。つまりは命の時間だ、それを返して貰う。が、残念なことだが、この三人には、もう戻す肉体はこの世にはない。ゆえに、その生気を我に捧げるという。その代わりに、我は、そなたに死ぬほどの苦しみを与えると約束した』


 そう言って男は優しげに笑った。

 そして、その笑った瞳に和美は震え上がった。今、和美は、この男に何をどうされたわけでもない。

 だた、その男の両手で、自分の両頬を挟み込むようにつかまれているだけなのだ、ただそれだけなのだ。


 今のこの状態を人が見たのなら、恋人同士のじゃれ合いに見えたかもしれない。だが和美は、男の…、その瞳のなかにぞっとするくらい深くて、暗い、何処までも続く穴を見ていた。


「あんた!いったい何者なのよー」

 和美の声は恐怖で殆ど叫び声に変わっていた。


『人は時々、我を神と呼ぶ。だが、我は我でしか無い。清き者が呼べば我は神になる。だが、そなたのように邪悪な者が呼べば、我は邪神にもなる』


〝この男、狂っている〟と和美は思った。が、時間を稼いで逃げるチャンスが欲しいと、咄嗟に考えた和美の口からでた言葉は…、


「じゃぁ、宮内加奈はどうなのよー、京香を陥れよとしているのに、あんたが何もしないなんておかしいじゃ無い!」


『あの者は、弱りかけた我の生気を呼び戻すことが出来る美酒を我に捧げた。ゆえに、あの者が苦しまずに夢の中で生きていける場所を与えるまで』

 男の顔が一段と和美に近づいた。


「じゃぁ、京香はどうなのよー、あの女が、清き心だなんて誰が信じるものですかー」


 和美は思いっきりソファを蹴って男から離れようとしたが、足首がグキッと嫌な音をたてて激痛が走った。

…が、その声は男の唇でふさがれた。


『あれは、純粋なまでに我を欲した』という男の声が、和美の頭の中に木霊する。

 そして、和美の意識はゆっくりと遠のいていった。




  


 ☆-☆-☆


 和美が次に目覚めた場所は、夕暮れ迫る薄暗い自分の部屋の寝室のベッドの上だった。


「どういうこと…」


 ぼんやりとした頭でひとり呟いた。それから起き上がろうとしたが身体が重くてなかなか起き上がれない。

 やっと起き上がると、なぜか身体が前屈みになる。


 手も、足も、まるで鉛のように重くて仕方がない、他人の身体のようだ。おまけに手足を動かすたび関節がきしむように痛いむ。それに、目も、なんだか白い靄がかかったようにかすんでいて前が見えづらい。


 やっとの思いでベッドからおりた和美が、足を前に出した途端、左足首に激痛が走り、和美の身体がバランスを失い前のめりに崩れ落ちた。


「いったぁー」

 その痛みに今日の昼間、京香のマンションに行き部屋の中に入ったこと、あの男に会ったことは、まぎれもない事実だと和美は確信した。


「なら、どうして…、私はここにいるのよ」

 いくら考えても、どうやって自分の部屋に帰ってきたのか和美には思い出せなかった。


 そして…、

「もう、いいわ。そんなことどっちだって、あの見た目はきれいだけど、狂った男から無事に逃げて帰ってこられたのなら、もうそれでいいじゃない。それより…」

 さっきから喉が渇いてしかたない。和美は何か飲みたいと思った。


「にしても暗すぎるわよね…」と呟いて、和美は痛む左足を庇いながら壁のスイッチを探した。


 パチン、という乾いた音とともに天井から光りがあふれる。和美の目にスイッチを押した自分の手が見えた。


「どういうこと…?これは…、どういうことなのよー」


 いいようのない恐怖が和美の心を支配した。

 和美は、もつれる足で必死になって寝室クローゼット横の壁にはめ込まれた大きな姿見へと急いだ。


「うそ…、うそ、うそよ!いやぁ・・・。いやぁーーー」


 そこに映っていたのは、真っ白な長い髪を振り乱し、顔も身体も乾ききった枯れ枝のように細く、シワクチャの皮膚が張り付いた百歳の老婆が派手な化粧をして、白いワンピースを着ている姿だった。







☆-☆-☆


 この日、仕事を終えて帰宅した京香がマンションの扉を開けると、柔らかな風が京香の頬を優しく撫でるように吹き抜けた。


と同時に『ありがとう』と小さな女の子の声と、女性の声が微妙に重なり合って聞こえたような気がした。

 京香は慌てて振り返ったが、後ろには誰もいなかった。


「へんね、空耳だったのかしら?」と京香は小首をかしげた。


 それからいつものように自分の夕飯を作り、省吾の酒を用意する。それらをテーブルに並べていると視線を感じた。振り返ると省吾が優しげに笑いながら京香にいった。


『京香、そろそろ蓮の花が咲く頃だ。見てみたい、我と一緒に出かけてはもらえぬか』


 省吾がこの家に来て、そんな申し出をするなど初めてのことだった。今まで、京香が省吾にこうして欲しいと言ったことはあっても、省吾から聞いた事が無かった。

それに…、


『嫌か』と省吾が聞いた。


「え、ええ、勿論よ、省吾。一緒に出かけましょう」

 京香は驚きながらも、省吾に向かってにっこりと笑ってそう言った。


〝それに、本人が行きたいというのだから…。湖は無くなって力を失ったと言っていたけれど、ここでゆっくりしている間に元気になってきたのかもしれない。きっと、そうね〟


 どうやらいらぬ心配はしなくてもいいようだと京香は思った。

 省吾は頷き、また、いつものように手元の本を静かに読み始めた。 

 その姿を見ながら、なんだか今日は不思議なことが起こる日だと京香は思った。



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