第5話 心を狂わせ、壊す 

【宮内加奈27歳】



「課長の彼氏ってどんな人でしょうね、楽しみ」と私が言うと、「そうね」と竹内さんはあまり興味が無いような返事をした。


 今、私は竹内さんと駅で待ち合わせをして課長のマンションに向かっていた。駅から歩いて十五分のところだ。


 5年前、5人の奥様襲撃事件の後、課長はうちの会社が分譲販売していたマンションに引っ越した。


 あのとき、課長のお客さんを卑怯な手段を使い横取りしたけれど、結局酷いしっぺ返しを受けて追われるように会社を辞めた課長と同期の山本和美先輩。あの時は私もひどい目にあった。

 だから辞めると聞いた時は当然の事だと同情さえしなった。そのときに一緒に会社を辞めたのが営業の川本さんだ。


 私が見たところ、課長と川本さんは付き合っていたと思う。

 どうも課長は美人で仕事もバリバリやるけど、男の人に関しては全然見る目が無いと断言できる。


 今回のことも、無口や話し方は、その人の持つ個性だから仕方が無いとして、仕事をしていないという点が私には引っ掛かっている。


 それに、お酒が好きなだけなら好みの問題だけど、仕事をしていないことをひっかけると、まるでしょうもない男の顔が浮かぶ、あくまでも私の想像だが、


・・浮かぶ・・。


 もし、今日、私の想像と現実が一致したならば、なんとしても課長を救い出さなければならない。

 これは私の使命だ。

 このときの私は変に気持ちが燃えていた。




「課長のマンション、うちの会社の分譲よね」

 頭の中で一人大作戦会議に没頭していた私は、竹内さんの声に驚き慌てて返事した。


「は、はい。そうです」


「ねえ、宮内さん。あなた、課長の彼氏さんが仕事をしていないことを気にしていない」と竹内さんが言った。


「えっ!」

「そうなのね」と言って竹内さんが小さくため息をつく。

 ちょっと感じ悪い…と私は思った。


「はい、分かりますか」

 返事する私の声にトゲが隠れる。


「ええ、宮内さんは課長が好きなんでしょう。変な意味じゃなくてね、女性として尊敬している。だから女としても幸せになって欲しい。でも今度の彼氏は、どうも仕事をしない怠け者のようだ。おまけに大酒のみのアルコール中毒かもしれない」


 驚いた!竹内さんの言うとおりだ。

 私の考えを全て言葉にしてくれている。


「分かるんですかぁ?そこまで…」

 私の声は、さっきとは打って変わり竹内さんという人を認めていた。




「ええ、これでもだてに年は取っていないから」と竹内さんは淡々と言う。


「じゃ、竹内さんには包み隠さずお話します。私、心配なんです。前にも課長は変な男に引っ掛かりました。年下の能なしで、仕事も出来ない、ちゃらおの、最低、最悪な男です。今度もそうなら、私が何とかして助け出さなければいけないと思っています」


 私は、竹内さんに腹を立っているわけでは無いのに興奮して語尾がきつくなっていた。



 竹内さんは無言で前を向いて歩いている。

 気分を害したのかも知れない。


 何か言わなければと、「竹内さん!」と口から出そうになったとき、淡々と歩く竹内さんが、課長の住むマンション横の公園で急に立ち止まった。


「あら、桜、ほころびかけているわね」と竹内さんが言った。


 私はその声につられて竹内さんが見つめる方向に顔を向けた。


「えっ、あ、本当だ!」


 可愛らしい桜の花が、ところどころに咲き始めている。なんだろう、気持ちが嬉しくなった私は竹内さんに微笑んだ。


 だけど竹内さんは笑うことなく、私の顔をみて静かに言った。

「ねぇ、宮内さん。人の幸せって…、その人にしか分からないものよ」




 竹内さんの言葉が、グサリと音を立てて私の胸に突き刺さり、胸の奥でチクリと刺すような小さな痛みを感じた。


 そして、そんなあっけに取られた顔をしている私からの返事など聞くこともなく、竹内さんはどんどん私の前を歩いていった。


 我に返った私は大慌てで竹内さんの後を追う。



 やっとマンションホール玄関前で追いついたときには、竹内さんは課長宅の部屋番号を押し、インターホン越しに課長と話をしていた。


 ホールの大きなガラス扉が、ガァーと小さな音を立て左右に開いた。


 竹内さんはサッサと中に入り右に折れて曲がる。

 置いて行かれまいと思った私は、その後に素早く続きた。エレベーターに乗り込んだ私は、息を整えて竹内さんに聞いた。



「怒っているんですか?おせっかいだって」

 私の口が少し尖る。


「いいえ、怒ってはいないわ」

 竹内さんは私を見ることなく淡々と言った。


「じゃ、なぜ?ですか?」

 私は、少しイライラした。


 さっきは確かに少し興奮して、きつい語尾の調子になったことは私がいけなかったと思う。

 けど、これまで竹内さんには私の母と同世代だからと思い、仕事に関しては後輩でも、年上という事を考慮して丁寧に接してきたつもりだ。


 なのに、なんなんだろう?この態度、失礼じゃない。




「私の息子は病気で働けないわ。きっと、そんな息子を世間は怠け者と見るでしょうね。見た目では病気だとは見えないから。でもね、母親からすると生きていてくれるだけで嬉しいの、ただそれだけのことで嬉しいのよ。

 だから課長の彼氏さんが、どんな事情で働かないのかは分からない。

 もしかしたら夢が有るのかもしれない。或いは、宮内さんの思うとおりの人なのかもしれない。それでもあの課長が、それで良いと一緒にいるなら、もしかしたら私と同じで、生きてそこに居てくれるだけで良いと思っているのかも知れないわ。

 だから、人の幸せは、世間の物差しでは測れないと思うの」

と竹内さんは静かに言った。


 その言葉に、私は唇を噛み無言になる。

 何だか、さっき興奮して言ったことが恥ずかしくなってきた。


 ちっぽけな私の正義感。

 押しつけがましい私の正当性を…。

 全部、自分の物差しで決めつけて喚いていた。


 けれど、それでもやはり私は、どうしても納得できずに竹内さんに食い下がる。



「でも、竹内さん。それでもやっぱり私、私は、課長の側に居る人は素敵な人であって欲しいと思います。我儘ですか?」


 いいえ、と言って欲しかった。でも、竹内さんの口から出た言葉は…、


「ええ、我儘ね」

「なぜですか?」

 私の言葉が尖る。


 竹内さんからの思わぬきつい返事に、私は目を大きく見開いて抗議するように竹内さんを見た。



 そのときエレベーターのドアが小さな音を立てて開いた。

 お先にどうぞと無言で竹内さんに手で合図され、弾かれるようにして私は外にでた。


 竹内さんは、エレベーターを出ると何も言わずに歩き出す。

 私の質問に答える気はないようだ。


 課長の部屋のインターホンを押し、「竹内です」と声をかけている。

「はーい」と、課長の声がした。



 そして…、

「宮内さん。答えは自分で見つけないと、人に答えを聞いていては本物は手にはいらないわよ」と前を向いたまま竹内さんは言った。


「えっ!」


 それ、どういう意味ですか?本物ってなんですか?と、声に出す前にドアが空き、満面の笑みの課長の顔が見えて、私は口に出しかけた言葉をグッと飲み込んだ。






☆-☆-☆


 ジーンズにノーメイクのラフな格好なら、近所のスーパーだから1時間ほど。化粧をして、わりとかっちりとした格好なら2、3時間は帰ってこない。


 それに外出は午前中に済ませる。

 この何週間かは休みの度にここで課長を待ち伏せして、探偵まがいの様に後をつけては課長の休日の過ごし方を調べていた。


 今日も、そろそろ出てくるはずだ。 



 マンション前の道から少し死角になる公園のベンチに座り、課長が出てくるのを待っていた。


(課長だ!ノーメイク、近所への買い物、1時間以内)


 私は、課長がマンションから遠ざかって行く後ろ姿を見ながらマンション入り口へと急いだ。



 心臓がドキドキする。


 大きく息を吸ってから課長の家の部屋番号を押す。暫く待つが返答がない。



 もう一度、押す。

(お願い、出て!)


 祈るような気持ちで、もう一度…。


『はい』


 彼だ!私は、飛びあがらんばかりに喜んだ。そして用意した言葉を声にする。



「宮内です。以前お伺いした課長の、京香さんの部下の宮内加奈です。近所まで来たので、お寄りしたんですが、課長は、いらっしゃいますか?」


 嘘がばれはしないかと、心臓が口から飛び出しそうなくらいドキドキしていた。



 暫しの沈黙の後、玄関ホールの大きなガラスドアが小さく音を立てて開いた。

 私はチャンスとばかりに急いでマンションの中に滑り込んだ。





「すみません。急にお邪魔してぇ、課長は、お出かけなんですね。ちょっと待たせてもらっていいですか?」


 彼は何も言わない。

 玄関先で、ただ黙って私をちらりと見ると後ろを向いてリビングへと歩き出した。入っていいという事だろう。


 私は慌てて靴を脱ぎ彼の後を追う。

 彼は、リビングのソファに座り、読みかけの本を手に取ると静かにまた本を読み始めている。

 私のことなど気に掛ける様子もない。


(綺麗な瞳)


 昔、何かで聞いたことがあるけど、実際にそんな人が本当にいるとは思わなかった。そんなことは作り話だと、おとぎ話の世界の中の話しだと信じていなかったけど…。


 だけど目の前の、彼の瞳の色が真実だ。

 右の瞳が澄んだ青色で、左が淡い緑色をしているのを初めて見た時は驚きを超えて感動すらした。


 加えて陶器の様ななめらかな肌と、桜色の唇、亜麻色の美しい髪に、細くて長く伸びた美しい手、今もその手が優雅な仕草でページをめくっている。


 思わず、触れたい、触れられたいと身体の奥が熱くなっている自分に気づいて息が苦しくなり、恥ずかしさで頬がカッと熱くなるのが分かる。


(いけない、今日は、もう、あまり時間がないんだ)


 もう少し彼を眺めていたいけど、今日は余り時間がない。

 もう十分もすれば課長が帰ってくる。


(会いたくない)


 彼の隣に課長がにこやかな顔をして座る姿など、私は二度と見たくないのだ。

 想像しただけで吐き気がした。


(いけない、そんな余計なことをグズグズ考えていたら帰ってきてしまうじゃ無い。それに、そんな余計なことで彼との大切な時間を無駄にするなんて、バカよ!)


 私は、そんな自分に腹が立ってイライラした。でも、時間が無いのも事実だ。チラリと腕の時計を見た。



〝時間なんて止まってしまえ…、止まってしまえ〟と私の心の声が、私の頭の中に何度も命令するのだが、出来ない事実が虚しすぎて、私は胸の奥でため息をついた。




 そして私は、軽く息を吸い込んでから彼に向かって話しかけた。


「あのぉ~、突然訪ねてきて、そのうえ待たせてもらいながら申し訳ないんですが、他にも用が有るので今日はこれで帰らせて頂きます。また、改めて来ます。それから、これ、省吾さんへのお土産です」


 私はドキドキしながら、昨夜家で何度も練習した台詞がスラスラと口をついて出て来ることに満足した。


 それから、顔を上げて私を見ている彼に出来るだけ近づき、今朝、丹念に父に選んで貰ったお酒をテーブルの上に置いた。


「あの、日本酒です。省吾さんが、お好きだと課長から聞いていたので、お口に合うと嬉しいんですけど」と、出来るだけ顔に力が入らないように気をつけながら、昨夜、鏡の前で何度も練習した笑顔をつくり言った。



 彼は、その美しい瞳でテーブルに置かれたお酒と、私を見比べて、


『礼を言う』


 彼は一言、そう言ってからまた視線を落とし静かに本を読み始めた。


 一瞬だったけど、彼の目と私の目があったことに私の心臓がドキリと大きな音をたてた。


 私は大きく息を吸ってから、「はい、失礼します」と言った。

 そして、自分の心臓が嬉しさにドキドキと大きな音をたて続けていることを、彼に悟られないように落ち着いた声で言えたと思う。



 それでも私は、何だか後ろめたい気持ちと、彼の声が聞けた嬉しさとが複雑に混ざり合っていたのか、慌ててリビングを小走りに駆け出した私は、出入り口枠の角に左手を軽くぶつけてしまった。


「いたぁ」と小さく叫んだが、背後にはなんの気配も感じ無かった。


 ちらりと後ろを見ると…。

 彼は、さっきと同じように静かに本を読んでいる。まるで、私などそこにいないかのようにだ。



・・悲しかった・・。


 そして、同時に心の奥底から湧き上がる課長に対しての意味のない激しい怒りを感じていた。



 それからは、休みのたびに課長の留守を狙い彼に会いに来た。彼は、いつも私がお酒を差しだす時だけ、手元の本から目を離し、顔をあげ、私を見た。



 そして…、

『礼を言う』と、私が一番聞きたかった少し低い、私の心に響く声でこたえてくれた。


 でも…、

 それ以外のことで、私がどれ程同じ事を繰り返し聞いても、彼は目を伏せたままで何一つこたえてはくれなかった。


 お酒を渡す一瞬の間以外、彼のなかで、多分、私は此処にいないのだ。きっと…。


 それでも私は、彼の伏せた目の長いまつげを、桜色の唇を、そして優雅な彼の指先が小さな本のうえをゆっくりと行き来する仕草を、ただ黙って眺めていられる時間が好きだった。

 幸せだった。

 このまま時間が止まればいいと思った。






☆-☆-☆


 イライラする。

 どうして出てきてくれないの?開けてくれないの!無意識に、いつもの悪い癖で右手の親指の爪を噛んだ。

 さっきから何度、部屋番号を押しても答えてはくれない。


 目の前の数字が並ぶオートロックのインターホンを、叩き壊したいくらいの怒りが込み上げて来ていた。


(課長だ!課長に違いない。彼に出るなと言ったのだ。私に会うなと言ったんだ。命令したんだ。・・酷い・・)



 彼は籠の鳥だ。出たくても出る事が出来ない、籠の鳥なのだ。年上の女に無理やり閉じ込められた、可哀想な籠の鳥なのだ。


 私が助けてあげないといけない。でないと、あの瞳は永遠に年老いた魔女のものになってしまう。私は、恐ろしい魔女の姿を想像して身体がガタガタ震えだしていた。


 怖い、でも、彼を助け出すために戦わなければいけない、でないとこのままでは彼は死んでしまう。魔女の餌食になって死んでしまう。彼は、私の助けを待っている。


 彼は、私と結ばれるために待っていてくれている。


 そうよ、魔女から彼を助け出すには、どうしたいいか考えるのよ。躊躇う必要なんが無いわ。



 だって、私こそが彼に相応しい乙女なんだもの、年老いた魔女に遠慮なんかする必要なんてないんだから。

 それに、和美先輩が教えてくれたじゃない。


 魔女の弱みを…。


 さあ、考えないと、魔女を、年老いた醜い女をやっつける方法を考えないといけない。






☆-☆-☆


(これで、あの女もおしまい。いい気味)


 私から彼を奪う、あの女を排除しないといけない。もう少しだから待っていてね。

 思わず笑みがもれる。

 長い闘いだったけどやっと終わる。彼にまた会える。嬉しい。




「宮内さん?どうしたの」


「えっ?あっ、なんでもありません。それより竹内さんこそ、どうされたんですか?さっき、帰られたんじゃなかったんですか?」


 私は、魔女をやっつける武器を他人に見られてはいけないと、斜め前の席から立ったままで、こちらの手元を探る目から素早く武器を隠した。


 油断も隙もあったもんじゃない。

 ここは、あの女の、年老いた魔女の、息のかかった下部しもべがごろごろ居る。


 この武器は、そんな下部達に見つからないように大切にしまっておかないといけない。

 とくに、この竹内、この女には気を付けないといけない。魔女の一番の手先だという事は日頃の話す内容や態度から分かりきっている。


 私は、悟られない様に、気づかれない様に、ことさら笑顔を作り魔女の一番の手先に笑いかけた。



「ええ、駅の近くで気が付いて慌てて取に戻ったの、これ、忘れ物」と魔女の手先の竹内が、私にわざとらしく笑顔をむけた。


(その笑顔に、騙されはしないわよ)


 私は心の中で小さく呟いた。そして、その想いを悟られないように、素早くいつもの作り笑顔で魔女の手先にこたえる。


「そうなんですか、どなたへのプレゼントなんですか?」

 私は聞きたくも無いこたえを、魔女の手先に質問した。


「ええ、娘にねぇ。それじゃ宮内さん、お先に」


「はい、お疲れ様です」

 赤い、綺麗なリボンの掛かったプレゼントを忘れる人がいるだろうか?


(私なら、忘れない)


 だって、大事な人への、心のこもった贈り物だもの。

 省吾の美しい姿が脳裏に浮かぶ。

 もしかして、私を監視しているのかもしれない。魔女に頼まれて、きっとそうに違いない。


 私は、ガラス戸を押して出て行く女の背中に、悪魔の羽が生えてはいないかと凝視した。それから注意深く誰も居なくなったオフィスをぐるりと見回した。


 気をつけなくては、これからは今までにもまして用心に用心を重ねなくてはいけない。


 それに、この武器は、魔女を退治した後、今度は彼と私の為に役に立ってもらうんだから、大切に保管して置かないといけないわ。


(誰にも、見つからない様にねぇ)


 私は大切な武器を鍵の掛かる引き出しに入れ、しっかりと鍵を掛けた。






☆-☆-☆


「宮内さん、あのぉ~、ちょっといいですか?」

「はい、なんですか?井ノ口さん」


「あの、この3名様の方の手付金のことなんですが、まだデーター入力されて無いんですよね。小切手入金だという事は確認していますから、どこの銀行に入金されたかなと思いまして。それに宮内さんは忙しそうなんで、通帳見せてくれたら僕が入力しますから、通帳貸して貰えますか」


 とうとう来た!

 私は、魔女の息の根を止める完璧な武器を手に入れる。



 は小躍りして喜びたい気持ちを抑え、平静さを装いながら…。

 ゆっくりと、まるで知らなかった、今、初めて聞いて驚いています。どうしましょう、という気持ちで井ノ口さんにこたえていた。



「なんのことですか?私、そんなお客さんの小切手なんて貰っていません。

そんな人の小切手なんて見たこともありません。

 課長が誤魔化したんじゃないですか。お金に困っていたみたいですから、きっと、そうだと思います。魔が差したんですよ。

 でも、そんな人、会社にいてもらうと困りますよね。辞めてもらわないと、いけませんよね。井ノ口さん」


「えっ?…、ええ」


 思ったとおり、井ノ口さんは驚いている。

 もう一言よ、ぬかりなく言うのよと自分を励ましながら、わざと困った様に顔をしかめ、辺りをうかがうように目をはしらせてから。

 私は、小声でささやくように告げる。


「こんなこと、言いたくないけど」

「けど?なんですか」


 井ノ口さんの声が小さくなっている。周りを気にしているのだと私は思った。


「課長…。実は、ホストとギャンブルにつぎ込んでいるみたいです。止めて下さいそんなことって、私、何度もお願いしたんですけど。やっぱり駄目だったんですね」


 私は、わざとらしくならない様に注意しながら、悲しげな顔をして、「はぁー」と深いため息をつき、ちらりと井ノ口さんをみる。


 井ノ口さんは小さく〝課長が、まさか〟と呻いている。


 みんな騙されているのよ、和美先輩が言ったように年老いた魔女の魔法に騙されているのよ。


 でも、私も騙されていたんだもの仕方ないか。

 でもね、それももうすぐ終わるから安心して、と心の中で私は井ノ口さんに話しかけていた。





 その日の夜遅くに私の携帯電話が鳴った。


 部長だ。

 いよいよ来たんだ。

 私は嬉しくてウキウキしながら電話にでた。



「はい、宮内です」

 私は、はやる気持ちを抑え、平静さを装い電話に出た。


「宮内さん。私、立川ですけど夜遅くにゴメンなさいね。いまいいかしら?」


 いつもの部長の声だ。全然焦っていない。どうして?と、私は不思議に思った。



「はい、かまいません」

 自分でもビックリするくらい大きな声がでた。


「ありがとう。早速で申し訳ないんだけど。明日、いつもより1時間早く出社してもらいたいの。それから着替えずに、そのまま私の席まで来てくれないかしら?」と部長は私に言った。


(やっぱりそうだ。部長は、井ノ口さんから小切手の件を聞いたんだ。だから、焦っていない訳じゃない。けど…、)


(だぶん、部長の声が焦っていないのは、私への配慮。私を怖がらせないようにして、真実の話を聞こうとしてくれているからよ、きっとそうに違いないわ)


「はい、分かりました。朝一番に部長室に伺います」

 私は、はっきりと部長に返事しながら、これでいよいよあの魔女を消し去ることが出来るのだと思った。


「良かったわ、ちょっと二人だけで話したいことがあったのよ。では明日、よろしくね」

 部長の声が、ホッとしたように聞こえた。


「はい、おやすみなさい」と私が言うと…。


「おやすみなさい」と、落ち着いた部長の声がこたえてくれて電話は切れた。



 もうすぐよ、もう少しだから待っていてね、省吾。

 今夜はなんて素敵な夜なんだろうか。私はベッドに転がり、枕を引き寄せ、強く抱きしめると静かに目を閉じた。


 すると、彼の美しい瞳が脳裏によみがえり…。私は、一人微笑みながら、幸せな、最高の気分に酔いしれていた。

 





 誰も居ない早朝の静まりかえったオフィス、そっとドアを開けて中に入る。

 部長は、もう来ているようだ。言われたように、そのままの足で部長室に向かった。



「おはようございます」

 私の声に、いつものにこやかな部長の顔が振り返った。


「おはよう。そこに掛けてくれる」

「はい」


 小走りしてソファに腰を下ろした。部長が近づいてくる。いよいよ魔女退治だ。


 自然に顔がほころんだ、が、次の瞬間。私は自分の目を疑った。



(どうして、ちゃんと鍵をかけたはずなのに)


 部長の手にあるものを見て私の全身が固まる。慌ててカバンの中のキーケーズをつかんだ。


(私の鍵…、ここにある)


 意味が分からなかった。

 でも、言い訳しないと、私が疑われてはまずいんだから。

 魔女を犯人にしないといけないんだからと思うのに、焦れば焦るほど、頭の中が真っ白になって何も浮かばない。


(イケない、このままだとイケない。なにか言わないと…)


 でも、私の口からは、

「そ、それはぁー」と言ったきり、あとの声が続かない。


「ええ、この中にあるものの事で、二人だけで、ゆっくり話がしたかったのよ」と、にこやかに部長が言った。


 その一言で、私は気がついた。

 ああ、私は負けたのだ。

 あの女に負けたのだ。

 うら若き乙女は、年老いた魔女の魔法に負けたのだ。


 あれほど和美先輩に、魔女は恐ろしい魔法を使ってくるから気を抜くなと言われていたのに…。


〝ごめんなさい、省吾。あなたを助けてあげられなくて、ごめんなさい。〟

私の目から、とめどなく涙が流れ出した。




「どうして、どうしてですか!私の方が相応しいのに!どうして、あの女なんですか!あんな、年老いた女が彼に相応しいわけがないのに、彼は籠の鳥なんです。

 逃げられないんです。

 だから私が、魔女から助け出さないといけないんです。

 私が、助けてあげないといけないんです。私が、魔女と戦って助け出して、守ってあげないといけないんです。

 邪魔しないでください。どうして、みんな、わからないんですか!魔女に騙されているんですよ、どうしてよー」


 私は、部長に向かって矢継ぎ早に喚いていた。

 誰も分かってくれない悲しさで、彼を守ってあげられなかった悔しさで、彼の名前を何度も呼びながら大声を出して泣いて、泣き崩れていた。


 部長は、ただ、そんな私の背中を無言で撫でていてくれた。







☆-☆-☆


 この頃、昼なんだか、夜なんだか、身体がフワフワしてよく分からない。

 魔女の魔法に負けた日、疲れ果てて眠りに眠った。どれくらい眠ったのか自分でもよく覚えていない。


 やっと起きあがることが出来て、せめて彼の無事を確かめようと魔女の住むマンションにいったが、もう魔女も彼もそこにはいなかった。


 魔女の勤め先にもいったけど、魔女は、もう、すでにそこにはいなかった。魔法を使いどこかに飛んで行ったらしい。


 それに、みんなも魔法をかけられていて、どこにいったのか記憶を消されたようだった。


 きっと彼も今頃は、私の記憶を消されて魔女を愛していると勘違いして一緒に暮らしているのだろう。


 私は、彼の美しい瞳も、声も覚えているのに…。

 彼は、魔女の魔法にかかり、私の記憶を奪われたのだ。

 きっとそうに違いない。


 でも、いつか魔法は解ける。

 そうすれば、どれだけ魔女が邪魔をしようとも、彼は私のもとに帰って来てくれる。


 それまで、少し寝て待とう。

 なぜって、力を使いはたした私は、とても疲れているから。

 今は、静かに眠って彼を待とうと思った。



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