第4話 独立 

【殿山京香36歳】



「この頃調子いいですよね、課長」と加奈かなちゃんが嬉しそうに私にいった。


「ええ、ありがとう。でも、それは加奈ちゃんが私を下から支えてくれているからよ」

「そんなことないですよぉ~、課長の実力ですよ」

 加奈ちゃんの声に力が入る。


「いえいえ、私の仕事をサポートしてくれる加奈ちゃんあってでございます」

 私がちょっとバカ丁寧にいうと加奈ちゃんは、キラリと目を輝かせて待ってましたとばかりに私にいった。


「そうですかすかぁーー!じゃー!今度、ごちそうしてくだぁさぁーい」


 どうやら加奈ちゃんは、私におねだりしたかったようだ。それくらいお安いご用、可愛いものだと私は思った。

思ったから「かしこまりました、宮内加奈殿!」と随分と芝居がかった調子で私は加奈ちゃんに返事を返した。


 すると…。


「あらぁ、何だか楽しそうですねぇー、お二人とも」と後ろから声がした。


 お昼休みに電話当番をしていた加奈ちゃんと、外から帰った私との会話に入ってきたのは、お弁当を食べ終え早々と自分の席に戻ってきたパートの竹内たけうちさんの声だった。


 振り返るとそこには、朗らかな笑顔を私たちに向けた竹内さんがいた。その顔を見て私は閃いた。


「そうだ、竹内さん。竹内さんも加奈ちゃんと一緒にご馳走させて下さい」と私は竹内さんの顔を見て言った。


「あら、嬉しい。でも、いいんですかぁ?こんなおばちゃんが一緒でも」と竹内さんは冗談ぽく笑いながら私に言う。


 パートの竹内さんは今年50歳になるが、小柄で顔に殆どシワなどはなくて肌もきれいだ。それに、いつもニコニコ笑顔のせいなのか、実年齢よりも10歳以上は若くみえる。

 この竹内さんとの縁も、彼がもたらしてくれた縁だと私は思っていた。



 去年の夏の終わりに彼が私の家に来てから、不思議な事が起こりだした。


 勿論、それまでにも仕事で手を抜いたことはないが、しかし、来る仕事、来る仕事がトントン拍子に決まるのだ。

 契約の嵐といっても過言ではなかった。そのうえ顧客が顧客を呼び、紹介が絶えなかった。


 嬉しいことだが正直な話し、時間がいくらあっても足りないくらい私は自分の仕事をさばききれないでいた。


 それに私の仕事量が増えれば、その分営業アシスタントで私についてくれている加奈ちゃんの仕事も、当然のことだが増える。

 そこで竹内さんには、加奈ちゃんのサブについて貰う為に去年の暮れから来てもらっている。


 竹内さんは、去年の秋の人事異動で昇格した女性初の立川たてかわ部長とは同期入社の仲だ。


 竹内さんは結婚して既に会社を退職していたが、突然の事故で御主人を亡くされ、大学生の娘さんと病気の息子さんの二人をかかえて働かなくてはならないと、立川部長を頼り就職先の相談に来たその日。


 現役時代優秀だった竹内さんを知る立川部長の一声で、加奈ちゃんのサブとして働いてもらうことが決まった。


 竹内さんは部長の推薦どおりのとてもてきぱきした人で、私は自分の仕事に集中できて心底助かっている。家庭に入り、長年主婦業だけをしていてた竹内さんに、仕事のブランクがあるとはとても思えなかった。





「私、課長の家でホームパーティーがいいです!」と加奈ちゃんが嬉しそうに言い出した。


「えっ!」

 私の頭の中に彼の姿が過ぎった。


「駄目ですか?」

 加奈ちゃん目がお願いモードになっている。


〝困った…〟


と、そのとき笑いながら「お料理でしょう、課長の心配は」と竹内さんが私に向けて素早く助け船を出してくれた。


「わかりますか?竹内さん。そうなんです。私、お料理苦手なんです」


「分かりました、それなら私が作って持って行きましよう。なんなら課長のお家で出張料理でもかまいませんよ」と竹内さんが笑いながら私に言った。


「ええぇー、それじゃあ、私がご馳走することになりませんよぉー」

 竹内さんの申し出は嬉しいが、私は慌てた。


「いいじゃないですか、材料費は課長もちで作るのは私」と竹内さんが余裕の笑顔でそう言った。


「それ!良いです。そうしましょうよ!課長」

 加奈ちゃんは大いに乗る気である。

 だが困ったことに問題がもう一つある。彼だ、彼のことが私にとって一番の気がかりだった。






 ☆-☆-☆


 彼が私の家に来て三日目。

 ようやくというか、とても遠慮がちに、私は彼に聞きたかったことを尋ねた。


「ねぇ、あなたの名前、教えてもらえない?」

 この言葉を口にするのに私は三日かかった。


 彼は読んでいた本から目を離して〝ふっ〟と柔らかく私に向けて笑った。


 彼は何故か本を好み、それを知った私は三日間かけて書店という書店をまわり、ありとあらゆるジャンルの本を買い込んだ。


 勿論、本の中身は私が念入りに吟味した。

 本棚に入りきらない分は、リビングにうず高く積まれて山が3つになっている。


 それに彼の依り代である、あの美しい石を入れておくのにコップでは小さくて窮屈なように思え、水の量も少なすぎるだろうと思い、一番大きなサイズのバカラのアラベクスボウルを翌日速攻で購入し富士山の天然水も大量に買い込んだ。


 勿論、ボウルの中の水は毎朝私が入れ替えている。


 そして今、淡く黄色に輝く美しい石は、ボウルになみなみと注がれた水の中にいる。

昼間はリビングに、夜は寝室へと私が大事に移動させている。



 彼は美しい目を細めてこういった。


『我に、人の名は無い』


〝あ!あ!あ、そうだ、私、何てバカだったんだろう。彼は人間ではないのだから、人の名前なんかが有るはずがないのだ。ほんと、私って、バカ〟



「じぁ、私がつけてもいい?あなたに人の名前を…」


 彼は眼を細め何も言わずに私を見ている。

 ちょっと怖い。

 怖いけれど、私はこの申し入れを撤回する気はなかった。


〝なんて名前にしよう。焦るな!もぉーー、浮かんでこない〟


 この三日間、彼の名前を想像して喜んでいたのに、そのどの名前も私の頭の中に浮かんではこない。

 頭の中が空っぽだと言っていい状態だ。


 それを彼に悟られまいと考えるふりをしながら、心の中では焦りまくる私…。


〝ううーん、どうしょう〟


 その時、ふっと声が聞こえた。

 可愛らしい少女のような声が、『省吾しょうごさま、かえでは、もっと強うなりとうございます』とはっきりとした声が私の耳に聞こえた。


〝しょう…ご…さま。素敵な名前…〟


「省吾!省吾って名前はどう?良い名前でしょ!決めた、あなたの名前は、省吾」


 声が聞こえたと同時に私の口は勝手にペラペラとしゃべりだしていた。彼は鋭く眼を細め…、じっと、怖いくらいじっと私を見て言った。


『承知、これで約束は果たされた。そなたの望みは何か』と彼は怖いくらい真剣な顔で私に聞いた。


「へぇ?望み?」


 思わぬ彼の申し出に驚いた私は、奇妙な声で返事してしまい。そして暫くの間、ただ彼の顔を穴があくほど見つめた。



 見つめた結果、

「あなたと、省吾と死ぬまで誰にも邪魔されることなく、愛し愛されて二人で幸せに暮らすこと」

 そう、それ意外に私に欲しいものは無い。


 彼は一段と目を細めて私を見た、


 そして、『承知した』と彼は言った。


 そういうと彼は、また何事も無かったかのように静かに本に目を落として読み始めた。


〝なんだったの?今のは〟


 拍子抜けした私はドッと疲れてその場にヘナヘナと座り込み、ボーっとして暫く立てなかった。


〝でも、言っちゃった、とうとう言っちゃった〟


 自分がずっと言いたかったことが言えた私は、嬉しさが込み上げて来ていた。頬が緩む。

これで彼と、省吾と二人で幸せに暮らせる。


 その時の私は、自分の嬉しさだけしか見えていなかった。

 このことが、のちに人の心を壊し、大切な人達との別れを意味するなどという事を、私はまだ知る由も無かった。



 でも、もし、知っていたとしても、たぶん私は同じことを言い後悔はしなかったと思う。

たとえ省吾以外の大切なものを全て失ったとしても、私は後悔などしない、きっと・・。






 ☆-☆-☆


「まだ何か気にかるような事でもあるんですか?」

 私がちょっと物思いにふけっていたので、竹内さんが心配顔で尋ねてきた。


「あっ!いえいえ」と否定しながら、私はかなり慌てた様子を見せてしまっていた。


「分かりました、課長!彼氏が家にいるんじゃないですか!」

 加奈ちゃんが目をキラキラさせて聞いてきた。


「ちょ、ちょっと!加奈ちゃん!」

 さらに慌てた私の態度に竹内さんが追い打ちをかける。


「あら、そうなんですねぇ。いいじゃありませんか。こういってはなんですが、課長のお年で、そのうえ課長ほどの美人さんとくれば、彼氏の一人や二人いない方がおかしいですよ。それに今時、そんなこと気にする人いませんから」と、竹内さんがあっさりと言ってのけてくれた。


 思わず〝そぉ、そうなんですか?〟と聞き返したくなった私よりも早く、加奈ちゃんが私に鋭い突っ込みを入れてくる。


「そうですよ。私の友達も結婚する前に同棲してた子もいますし、結婚はしないけど好きだから一緒に暮らすって言って同棲している子もいますもん。だからぜんぜん平気ですよ私達、ね~、竹内さん」と加奈ちゃんは、なぜかやたらとニコニコして嬉しそうに言った。


「ええ」と竹内さんが加奈ちゃんの問いかけに笑顔でこたえている。


 が…。


「ううーーん。いやいや、そうじゃ無くて少し変わってて・・、その~」

 まさか、〝加奈ちゃん、竹内さん、あのね、彼は、見た目は人間に見えるけど人間じゃないなんです〟なんて言えないしぃ~、困った、これは困った、どう説明したらいいのかと悩んで私が言葉につまっていると…。


「なにがそんなに変わっているんです?」と竹内さんが不思議そうな顔で私を見ている。

焦った私は…。


「あぁー、竹内さん。そうですねぇー、ご飯は余り食べなくて、お酒で生きているような人なんです。特に、日本酒が大好きで…」と余計へんに思われそうなことを口にしてしまい、私は〝あっ、しまった、誤解されたかもしれない〟と思ったがもう遅い、言葉になって出たあとだ。


 だが、

「あら、そんな男の人いくらだっていますよ」と竹内さんはあっさりと言ってくれた。


〝いやいや、竹内さん、お酒しか飲まないんです。飲め無いんです。だって彼は、省吾は龍神さま、龍だから〟とは流石の私も真実とはいえ、これ以上省吾のことを誤解されるようなことは言えない。


 だから…、


「それに無口で自分からは話しません。こちらから聞けば、機嫌が良ければこたえてはくれますが…。でも、それも殆ど要点のポイント部分の言葉でしかこたえてくれませんし、加えていうと、いつの時代の言葉ですか?みたいな言葉づかいです。


 ううーん、昔の武士みたいな喋り方といいますか、そのぉー、それとぉー、仕事はしてなくて、家からというかなんというか、昼間はずっと家にいます」


 最後の方になると言い訳のような言葉の羅列が続いて、私は段々と自分が恥ずかしくなってきていた。


 私のしどろもどろの説明を聞いていた竹内さんが、私をじっと見て怖いくらい真剣な顔でいった。


「いいんじゃないですか、それでも課長が好きになった人です。なにか、とても魅力のある人なんでしょう。私は気にしませんよ」と言ってくれた。


「私も気にしません」と加奈ちゃんも力強く言ってくれた。


「ありがとう、竹内さん、加奈ちゃん」


 二人の言葉にホッとした私は、なんだか妙に嬉しくなってきていた。でも、それがあんなことになるだなんて…。

 あとから考えると、このときの私は恋する乙女のバカ丸出し状態だったのだと思う。



「じゃ、これで決まりですね。今度のお休みの日はどうですか?」と加奈ちゃんが嬉しそうに私に聞いてきた。


「わかった、加奈ちゃん。その前の日には速く帰って、材料の買い出しと掃除に気合入れるわ!」と私は無邪気にこたえた。


「それじゃ私は、美味しい日本酒を持って行きます。課長の彼氏のお土産に!」と加奈ちゃんが嬉しそうに言った。


 加奈ちゃんの実家は酒屋さんだから、きっと美味しいお酒をチョイスしてくれる。省吾の喜ぶ顔が目に浮かんで、私は幸せな気持ちになっていた。


 そして恋する乙女のバカになってしまった私は、このとき省吾を二人に見せびらかしたいという無意識の欲望に、自分が取り憑かれていたことなど気づきもしかなった。






 ☆-☆-☆


 今日のホームパーティーのメニューは、鯛のポワレ・バジルソース、スープ・ド・ポワソン、ガーリックトースト、グレープフルーツのサラダと、加奈ちゃんが持って来てくれたお父さんおすすめの京の地酒だ。


 加奈ちゃんが省吾の為に持ってきた、お父さんのお勧めは冷やして飲むとグッと美味しくなるお酒らしい。


 私が「加奈ちゃんが省吾の為に、お父さん一押しのお酒を持ってきてくれたわ」と省吾に話すと、省吾は加奈ちゃんを真正面から見て『礼をいう』とひと言いった。


 けれど…、加奈ちゃんは省吾の目を避けるように下を向いてなにも言わなかった。

 加奈ちゃんのその姿に、一瞬、竹内さんが眉を少し寄せて暗い顔をしたように見えたが、私は気にせず二人をキッチンへと案内した。




 キッチンには、前の日に竹内さんから渡されたメモを片手に、私がデパートで買ってきた小鯛が2匹。


 それから菜の花、長芋、バジルの葉、クレソン、セロリにトマトの水煮缶、にんにく、パセリ、玉ねぎ、にんじん、グレープフルーツが所狭しとおかれている。


 昨夜、その殆どの材料を買い込み帰宅した私を見ても、省吾はいつもの様に何も聞かない。ただ黙って重い荷物をキッチンに運んでくれた。



 材料を分け、手早く調理する竹内さんの料理の腕はプロ並みだった。


 まずは鯛の鱗を素早く処理する。

 それから胸ビレの下に包丁を入れ、頭を切り落とし、腹を切り、腹、尾、背と切れ目を入れて素早く三枚おろしにしてから腹骨をそぎ落とし、小骨をとると下準備完了。


 それが終わると竹内さんは素早く手を動かして、付け合せの菜の花と長芋を調理し、バジルソースとバルサミコ酢ソースを用意した。


 それからも竹内さんの手の動きは止まらない。


 切り落とした鯛の頭を綺麗に水洗いし、鯛の骨は尻尾を落として3つに切り、香味野菜とコトコト煮てアクをこまめにとって出来上がったスープをこしてから、塩、こしょうで味を調え、ガーリックオイルで味付たトーストを焼いて添える。


 最後に下準備した鯛の身に塩、こしょうをふり軽く薄力粉を振って、オリーブオイルで綺麗な焦げ目がつくまで焼き上げると付け合せの野菜とソースで飾って完成だ。


 この間、竹内さんの手元を見るのに必死だった私が視線を感じてふっと顔をあげると、そこには壁際に立ち私を見つめる省吾の優しい目があることに気がつく。


 私は、なんだか恥ずかしさと嬉しさで自分の身体の奥が熱くなるのを感じて慌てて下を向いた。



 最後に作るサラダはグレープフルーツの皮をむいて果肉を取り出し、カブを食べやすい大きさに切って、湯がくだけと比較的簡単だったので、竹内さんに教わりながら私がひとりで作った。


 加奈ちゃんは、竹内さんの料理の手順をメモに取るポーズはしていたが、どこかそわそわしてあまり手元が動いていないようで、チラチラと省吾を盗み見ているのが私にも分かった。



 料理が出来上がるくらいになると…。

 省吾はまた我関せずとばかりにソファにゆったりと座り直し、静かに目を伏せて、京都の桜の風景が美しく撮影された春の写真集を一枚、一枚、すらりとの伸びた綺麗な指を優雅に使ってページをめくり、丹念に眺めていた。


 出来上がった料理を、なぜか無口になった加奈ちゃんと私の二人でダイニングテーブルに運ぶ。

 その間も休むこと無く、竹内さんの手は素早く動いてシンクの中の洗い物を次々に片付けていった。


 6人掛けの長テーブルには私と省吾が並んで座り。省吾の前に加奈ちゃんが座る。その横に竹内さんが座った。


 私は竹内さんの料理の腕を褒め、竹内さんは私に料理のポイントを教えてくれた。


 省吾は食べ物には手を付けず、グラスに入った冷えた日本酒を優雅に片手に持つと、目を細めて私を見ながらにこやかに私と竹内さんの話を聞いている。


 加奈ちゃんだけが、ただ黙ったまま淡々と料理を口に運んでいた。この時、私が加奈ちゃんの気持ちに少しでも気づいていれば良かったのかも知れない。


 だけど、このときの私はとても有頂天になっていて、他人に気を配る余裕などないくらい幸せで、いつもと違う加奈ちゃんの様子を見ながら無視していた。


 そう…、気がつかない間に私は、自分の幸せを人に見せびらかしている嫌な奴になっていたのだ。


 何故なら省吾を初めて見たときの二人の目が、特に加奈ちゃんの大きく見開き、息が止まった様に見つめるその目を見たとき、私はなぜか満足してとても幸せな気分になっていたからだ。






 ☆-☆-☆


 今年の梅雨はシトシトとよく雨が降る。

 雨は嫌いではないが、こう毎日だと少し気がめいてくる。

 それでなくてもこの一か月、気になる事が続き、私の気分は空の雨雲の様にどんよりしていた。


「省吾、これ」

 私は、私が買った覚えのない日本酒の瓶を持ち上げて無言で彼に尋ねる。


〝誰から貰ったの〟と、


『加奈という娘だ』と省吾はあっさりと言った。


「今日も来たの?」

 私の声にトゲがあるのが自分でもよく分かる。


『そなたを尋ねてきた。暫くそこに座り、そなたが帰らぬので、また来るといって帰って行った』と、省吾は手に持った本から目を離すことなく、興味がなさそうに言った。


「そう、また来るねぇ」

 私は無意識に深いため息をついていた。


 ここ一か月、休日の度に、たまたま近くまで来たので寄りましたという加奈ちゃんが、なぜか私の留守の時間帯ばかりにやって来ていた。


 はじめは私も加奈ちゃんに対して、「もう少し待っていてくれればよかったのに」と、会えなかったことにただ残念がったが、こう何度もだと意図的なものを感じる。


 それに加奈ちゃんは、どうも私が出かけた直後に尋ねてくるようだ。おまけにたまたま近くに来たからといいながら、省吾の好きな日本酒を毎回持って来ていた。


 ここにきて私は、加奈ちゃんを家に招いたことを、省吾に会わせたことを後悔し始めていた。



 省吾は私と約束をした。

 私は人間ではない省吾を信じている。裏切る事も、裏切られることも無いと信じている。


 逆をいえば人間の男ではないから信じたのだ。信じられるのだ。だから、加奈ちゃんがどんなに頑張っても省吾は加奈ちゃんのものにはならない。


 でも…、

 だからこそ、加奈ちゃんが傷つくのは想像できた。それにこれ以上、私達の大切な時間の中に入って来られて省吾の正体がばれる事が私には怖かった。


 それだけはなんとしても避けたかったから…。


〝いいえ、違う、違うでしょ!京香〟

 信じているとはいえ、これ以上、他の女と省吾が同じ時間を共有するのが一番嫌だったのだ。許せなかったのだ。


 私は、自分の気持ちに正直になろうと決心したはずだ。誤魔化すのはやめよと決めたはずだ。


 なら、この状態は続けたくない。

 終わらせたい。

 はっきり言わなければいけないのだ。だから私は省吾に向かって言った。



「ねえ、省吾。お願いがあるの、私が家に居ない時に、もう誰も、たとえ加奈ちゃんでも、この部屋には入れないで欲しいの」


 彼は顔をあげ、私の顔を正面からじっと見た。


『承知した』


 省吾の声はとても静かだった。

 そして私に向けて片手を伸ばし、こっちにおいでと私を誘う。

彼の、省吾のキスはひんやりとして甘い香りがする。そして、私の身体はクラクラと柔らかな水の中を漂いだしていた。






 ☆-☆-☆


 異変は、ひと月後に訪れた。

 その日の夕方、外出さきから帰った私は立川たてかわ部長に呼ばれた。


 部長室に入ると緊張した面持ちの竹内たけうちさんと、渋い顔をした経理部の井ノ口いのぐち君が部長室のソファに座っていた。


 部屋に入って来た私を見て、二人は少しほっとしたような顔になったが、またすぐに固い表情にもどり、辺りには再び緊張した嫌な空気が漂う。


 私は部屋の奥に置かれたデスク越しに、こちらに背を向け、窓から見える外を眺めているように立つ立川部長に向かい声をかけた。


「お呼びでしょうか」

 そう言った私の声が、緊張しているように少し低くなったのが自分でも分かった。


「あっ、殿山課長。お疲れ様、外から帰ってそうそう悪いわね」

 いつもの、えびすさんを思わせる福ふくしい顔が振り返る。


 この人の…。

 この何ともいえない人を安心させる笑顔は、誰にも真似は出来ないと思った。だが見かけとは違い仕事は切れる。


 おまけに仕事のやり方はとても合理的で隙がない。男でも太刀打ちできないだろう。

 だけど、女性の良いところである細やかな気配りも出来る人だから、顧客や取引先は勿論のこと、立川部長は男女を問わず部下からも慕われていた。


「早速で申し訳ないのだけど、これを見てくれる」と言いながら、立川部長は机の上に置かれた紙を一枚取り上げた。


 私は「はい」とこたえて、その紙を受け取るために竹内さんや井ノ口君の視線を感じながら前に歩みでて、部長の手からその紙を受け取った。


 このとき向い合せの入口側ソファに座る二人が、私の手元を刺すような視線で見ているのを肌で感じた。


 紙には3人の名前と、契約内容に契約金額。そしてそこには、既に私が集金した手付金額が記されていた。


 だけど、どうしたことか既に集金した手付金の金額蘭には、大きく未収金と赤い字で書かれている。

 私は困惑した。


「これ?どういう意味ですか?既に、この3名の方の手付金は小切手で集金しています。もし、まだ銀行で現金化に日にちが掛かっているとしても、かかり過ぎです。集金してから一番遅い方でも銀行の営業日の5日は既に経っています。もう一度、銀行に確認してください」


 私には何が起きたのか分からなかった。


「小切手だったのね」と静かに立川部長が私に確かめるように聞いた。


「はい、小切手です。いつもの様に集金して、その日のうちに宮内さんに渡しています。遅くとも、次の日には宮内さんが銀行に入金に行っています。おかしいです。一番はじめの方は十日以上も経っています。現金化されていないなんてことは有りえません」


 これは銀行の怠慢だ。

 以前にも金額は小さかったが、よく似たことがあった。他銀行から振り込まれた賃貸マンションの家賃が、こちらの通帳に記入されていなかったのだ。


 他にも振込人の名前が記載されていなかったこともあった。

 どちらも銀行を信用して未入金だとお客さんに連絡を入れた結果、大変なトラブルになったことがあったのだ。


 その時の〝なにが、一円まで合わなければ帰れないよ。四日間もほおっておいて。おかしいと思って調べなかったの?おまけにろくに謝りもしないで…。お金に関する仕事は銀行のようにしろだぁー?嘘をつくな、嘘を〟とあのときの腹立たしい思いがよみがえり…。


 私の胸の中にはメラメラと怒りが込み上げてきた。


「今すぐ!銀行に確認の連絡をします」

 怒りにまかせ、踵を返して出て行こうとした私を部長が止めた。


 そして不思議なことに、それまでピリピリしていた部屋の空気が、いきなり気の抜けた炭酸ソーダのようなヘンなん空気の流れに変わる。


〝いったい、なんなの?これは〟

 なにかヘンだと思った私は、その理由が知りたくて三人の顔を見比べた。


 そして…、

「やっぱり…」と小さな声で呟いて、ため息とともに力なく首をたれる井ノ口君の声が私の耳に聞こえた。


「なんなの、やっぱりって!」

 怒りが収まらない私の声は、間一髪をいれずに井ノ口君を威嚇していた。


「あっ!いえ、課長のことじゃなんです」

 井ノ口君は慌てて顔をあげると、大きく手を振り、おびえた様に私を見た。それからなさけない顔をして私を見ると、しおれたように下を向いてしまった。


 その横で、竹内さんが空気の抜けた風船のようにヘナヘナとソファに沈みかけている。立川部長の顔から一瞬、笑顔が消えた。


「なんなんですか、3人とも!こんな大事なこと、ほおっておけないでしょ!ちゃんと説明してください。それに今すぐ銀行に連絡しないと時間が無いことくらい分かるでしょ!」


 カッカと頭に血がのぼった私は、黙っている3人を怒鳴り飛ばしていた。


「相変わらず怒ると容赦ないわね」と、いつものえびす顔を取り戻した立川部長が困った様に私を見て苦笑した。


「なに?笑ってるんですか!部長!」

 こんな時に、ニコニコえびす顔を見せられると逆に腹が立つ。それに相手が誰であろうと、私が今からすることを誰にも邪魔はさせないと思った。


 でも部長はクスクス笑いながらソファに近づき座ると、

「まぁ、殿山課長、ここに座りなさい」

「はぁー、何を言ってるんですか?」

 私は歯ぎしりしたほどに苛立っていた。


「まぁ、いいから。立ったままじゃ、きちんと説明できないわぁ」

「・・・、分かりました」

 なにを悠長に!と思いながらも、一人いきり立っていても仕方が無い。まず、説明を聞こうと部長の横に座る。




「今朝、井ノ口君が契約済や契約予定の書類をチェックしていたの。それぞれの現場の進行状況に照らし合わせながら手付金、中間金、決済金の入金済みのチェックをしていたのよ。


 そしたらね、入金予定の日を過ぎてるいのに入金されていない3件の契約がある。どれも既に工事は始まっている。おかしい、入金が無いのに、なぜ工事が始まるのか?これは何かある、とね、井ノ口君はそう思ったの」と部長は穏やかに言った。


「それはそうです。おかしいことです。井ノ口君は間違っていません。ですから今すぐ銀行に確認します」

 私はイライラしながら言った。


「まぁ、待ちなさい。そんなに慌てないの」

「ですが、部長・・・」

「あなたの気持ちも分かるけど、私の話を最後まで聞いてくれると嬉しいわぁ」


 えびす顔に眉間のシワと微妙な顔の部長を見て、これは他に何か理由があるのか?と思った私は心の中で、自分に〝落ち着け、落ち着け京香、落ち着くのよ〟と言い聞かせてから部長に向かい返事した。


「分かりました。申し訳ありません」

 私は大きく息を吸ってゆっくりとこたえた。


「いいのよ、誰だってこんな大事なことを黙ってほおってはおけないわぁ」


 えびす顔を崩さず、ゆっくりとした口調で話す立川部長のこのやり方は、すぐにカッとくる私には見習わなくてはいけない要素の一つである。


 ここは四の五の言わずに、気持ちを落ち着けて聞くことにした。


「それで井ノ口君は、それとなくお客さんたちに電話してね。入金の有無を確かめたの、そしたら3名様とも既に小切手であなたに渡したという。渡した日にちも契約書通りの日にち。ますます、これはおかしい」


「ええ」…だから今すぐ銀行へ…と、続けて言いたい言葉を私は堪えた。


「で、井ノ口君は宮内さんに確かめたのよ。小切手入金してくれましたかぁ?てね。まだデーター入力が済んでいないようなので僕が直接入力しますから、どこの銀行に入金されましたか。通帳を見せてもらえますかってね。


 今まであなたに関してのお金のことは、宮内さんが全て処理して来たわ。その事でなんの問題も起こらなかった。今まではね」と言った部長の言葉には、どこかトゲがあるように感じる。


〝今まではね…って、どういうこと?いまの部長の言い方じゃぁ銀行に入金されていないのは、まるで加奈ちゃんのせいみたいじゃないの…〟


 そんなことはあり得ないと私は思った。だから…、

「はい、当然です。彼女は優秀な女性です。私の自慢の部下ですから。それに、どういう意味ですか?今まではねって!」


 またイライラの怒りが爆発しそうに語尾があらくなる私を見て部長は、「ふぅー」と深いため息をついた。




 向かい側に座る二人は身体を固くして息を殺し、ことの成り行きを見守っている。どうも妙な話の流れに行っている様で、私の気持ちは不快指数百パーセントに達していた。


「で、宮内さんの井ノ口君への質問への答えが、〝私は貰っていません。そんな人の小切手なんて見たこともありません。課長が誤魔化したんじゃないですか。

お金に困っていたみたいですから。きっとそうだと思います。魔が差したんですよ。

でも、そんな人…、会社にいてもらうと困りますよね。辞めてもらわないと〟て、井ノ口君に言ったそうよ」と立川部長が静かに私に言った。


「えっ・・・」

 それきり私の口からは声が出なかった。


〝加奈ちゃんが、加奈ちゃんが…〟と、何が何だか分からない私は頭の中で何度も繰り返し、自分に問いかけていた。


 しばらくの沈黙のあと竹内さんが、「大丈夫ですか?課長」と声をかけてくれたが、私はなんと返事をしたのかよく覚えていない。


 井ノ口君の「やっぱり」は加奈ちゃんの事をさしていたのだと、このとき初めて私は気が付いた。


 座っているのにグラリと身体か揺れて、力が入らずその場に倒れそうだった。まるで頭をいきなりガッンと思いっきり後ろから殴られたような気分だ。


 そして今の私は、なんとか姿勢を崩さずに座っているのがやっとだという状態だった。だから部長が私に座りなさいと言った意味も、ここでやっと理解出来た。


「ショックよね」と部長が静か私に向けて言った。

「はい」


 私は部長の言葉にこめかみを押え、「はい」と返事するだけで精一杯だった。


 部長はおもむろに立ち上がると…、

「井ノ口君、一旦席に帰ってくれる。宮内さんが帰ったら私に知らせに来て」

「はい、わかりました。失礼します」


 もうすぐ終業時刻だ。

 何をするというのだろう。

 緊張した面持ちの井ノ口君はそう言ってから、ちらりと私のことを見ると頭をぺこりと下げて部屋を出て行った。


「さあこれからが本題よ。竹内さん、話してあげて、あなたが見たことをすべてね、殿山課長に話してあげて」

「はい」


 竹内さんは私の目を真っ直ぐに見てから、責めるわけでも、怒るわけでもなく、事実を、竹内さんが見たままを淡々と話してくれた。




「まさか・・」

 私はそう言ったまま声も出ずに固まった。


「そう、まさかよね。でも、それももうすぐはっきりするわ」と、顔は相変わらずにこやかなえびす顔だが、立川部長の声はえらく機械的に私には聞こえた。


「部長、部長は、もしかして」

 私の胸がざわつく…。


「そう、もしかしてよ。きちんと確かめるわ。でもね、どうしてこんなことをやったのかは分からないけど、宮内さんの今後の事を考えると、みんなが居なくなる時間じゃないといけないのよ。あなたなら分かるでしょ?」


 立川部長にぴしゃりと言われ、私は言い返す言葉が見つからずにそのまま黙ってしまった。


 部長はソファから立ち上がり、ゆっくりと歩いて窓際前に置かれた自分の大きなデスク前に立った。

 そして向かって左端一番上の引き出しを開け、小さな鍵を片手に持ちあげて私と竹内さんに見せた。


 加奈ちゃんのデスクのスペアーキーだ。

 私は大きく息をすった。そして、指先が少し震えているのが自分でも分かった。


 嫌だろうと無かろうと、私はこの目で確かめるしかないのだ。竹内さんが見たものが事実なのか、そうで無いのかを。


 私の中で、加奈ちゃんに対する確信と否定が胃を締め上げている。


〝気分が悪い…、吐きそうだ〟と私は思った。


「課長、大丈夫ですか?顔が真っ青ですよ」と言う竹内さんの心配そうな声で我に返った私は、今、自分が部長室で立川部長と竹内さんの3人でいることに改めて気がついた。


 でも、声が出ない。

 私は大きく肩で息をした。


「お水を一杯持ってきてあげて、竹内さん」と部長に言われた竹内さんが「はい」と返事して部屋を一旦出て行った。


 そして、私と二人きりになった部長がツカツカと歩いて来て、私の真っ正面のソファに座り身を乗り出しこう言った。


「なにが宮内さんを変えたのかは分からないけれど。お金は魔物よ。この商売、扱う金額が大きいから魔物に魅入られて落ちていく人間を、私は何人も見てきたわ。


 殿山課長、あなたもこの世界で上を目指すなら、魔物に魅入られてはダメよ。

 お金はね、確かに人を陥れる魔物だけれど、持つ人の心根一つで幸せにもしてくれるわ。人生を楽しませてもくれる。そこを忘れてはダメね。忘れた人間は上には行けないわ」と部長は私に言った。




 それから20分ほどして加奈ちゃんが帰ったと井ノ口君が知らせに来た。だが、まだ営業の二人が残っているという。


「その二人が帰ったら教えて」と部長に言われ、「はい」と返事して井ノ口君が再び部屋に入って来たのは、それからさらに30分たってからだった。




「さて、いきますか。3人ともしっかり立ち会ってね」

 立川部長の言葉に私と井ノ口君、竹内さんの3人は無言で頷いた。


 部長を先頭に部長室を出て、加奈ちゃんのデスクに向かう。誰もなにも言わない。営業第二課の天井灯だけがついたフロアは妙に不気味だ。


 なぜだか私の目には、加奈ちゃんの机だけが光りの中で浮き上がっているように見えて、言いようのない存在感を示していた。


 私と竹内さん、井ノ口君が見守る中、部長は加奈ちゃんの鍵の掛かった引き出しを開けた。


 中はきれいに整理されている。

 私たちが知りたいものは、引き出しの真ん中で静かにその居場所を知らせていた。


「これね、竹内さん。あなたが見たのは」と立川部長が竹内さんの目を見て確かめるように聞いた。


「はい、そうです」

 一瞬、竹内さんの声が震えたように思った。


 私は、加奈ちゃんの机の引き出しの中にある一点だけを見つめていた。


〝あの中に…、本当にあるの?〟

 部長は、加奈ちゃんの引き出しの中から赤い色のハードカバーがかかった、A5サイズの日記帳の様なものを手にしていた。 


 そしてそれをおもむろに開く。


 中からはしおりの様に挟まれた小切手が3枚。

 皆、無言だ。

 誰もなにも言わない。

 ただ、3枚の小切手を食い入るように見ていた。


「井ノ口君、名前と金額を確認して、日にちもね」と立川部長が静かに言った。


「はい」

 井ノ口君は緊張した面持ちで口を一文字に結ぶと、何度も、何度も、指と目を行き来して3枚の小切手を確認している。


 無言で待つその間が、ひどく長い時間の様に思えた。

 その間、私は、加奈ちゃんはどうしてこんなことをしたんだろうと考えていた。


 どうしてこんな幼稚なやり方をしたのだろう。女子校のいじめじゃあるまいし、ここは会社なのだ。仕事をしてお金を儲けるところだ。


 儲けたお金が無くなれば徹底的に調べる。こんな幼稚な隠し方ではいずればれることは目に見えている。

 それなのに加奈ちゃんは、そんな幼稚なことをやった。


 そのとき、なぜかふっと加奈ちゃんの省吾を見る目を思い出していた。


〝まさか、そんな…、まさか…。それが理由なの加奈ちゃん〟と思った途端に井ノ口君の声がした。


「間違いありません。名前も、金額も、切られた日にちも未入金になっている3名の方の小切手です」


 井ノ口君の声は興奮して大きくなっていた。

 部長は、そんな井ノ口君に落ち着きなさいというように、ポンポンと井ノ口君の肩を二回叩いた。


 そして、それから私と竹内さんの目を見て、「はい、今日はこれでおしまい。後は私に任せてね」と、満面のえびす顔で立川部長は私達に言った。 


〝なにを考えているのか、この人は〟と、部長の言葉の裏にある部長の考えを推し量ろうとしたが、今の私には目の前の出来事が信じられなくて頭が回らない。 


 ただ、何度、信じた人間に裏切られれば気がすむのだろうかという情け無い気持ちと、自分の中に人を裏切らせる何かがあるのかと、考えても、考えても答えのでない思いに私は捕らわれていた。


 そして、私は「今日は、これでおしまい」と言った部長の言葉にすがろうとした。


 だから私は、部長の言葉に無言のままで頷き、ひどく重い気持ちを抱えたままオフィスを後にした。






 ☆-☆-☆


「課長!」

 たった今、会社の前でそれぞれ反対方向へと無言で分かれた竹内さんが息を切らせて駆け寄ってくる。


「どうしたんですか?竹内さん」

 私は驚いて竹内さんを見た。


 ハァハァと息を弾ませながら苦しそうに立っている竹内さんは、〝ちょっと待って下さいね〟というように手で胸を押さえ、弾む息で大きく深呼吸して私を見た。

 私は頷き、竹内さんの息が整うのを待った。



「課長、私は宮内さんを庇うつもりは有りません。彼女のやった事は、課長を貶めようとしたことは、卑劣で許されない行為だと思います。それで彼女が罰を受けたとしても、それは自業自得です。課長が気になさることは何一つないと思います」と竹内さんは一気に喋った。


 でも私は、なにも返事が出来ずにいた。

 そんな私をみて竹内さんは続けてこう言った。


「ですが、彼を、省吾さんを宮内さんに会わせたことは課長の最大のミスです。彼は…、課長の愛する人は、人の心を狂わせます。壊します。もし、宮内さんが彼に会うことがなかったなら、こんな卑劣な事をして課長を排除しようとはしなかったと思います」と竹内さんどこか私に対して怒っているように言った。


「それって…」

「そうです。宮内さんは、きっと課長を貶めて会社を辞めさせ、彼を養う能力を奪い。彼を、省吾さんを自分のものだけにしたかったんだと思います。若い女性に彼を見せるのは酷なことです」


「竹内さん…」


「課長、なにも言わないで聞いて下さい。私は夫を愛してなんかいませんでした。ただ、ある女性に勝ちたい一心で夫と結婚したんです。でも、そんな私を夫は愛して庇ってくれました」と竹内さんは言った。


 竹内さんはなにを言っているのかと私は困惑した。

 そしてほんの一瞬、私と竹内さんの二人だけが得体の知れない世界に身を置いたように感じた。


「夫を殺したのは私です。事故なんかじゃないんです。だから私には、夫の子どもである娘と病気の息子を一生かかっても、いいえ、私の命にかえても守らなければいけません。夫の血を引く子どもたちを幸せにしないといけないんです。分かりますか?この気持ち…」と私に問いかけた竹内さんの目には、薄らと涙がにじんでいる。


 思わぬ告白に言葉がでない。確か、竹内さんのご主人は交通事故で亡くなったと聞いている。

 でも、今、竹内さんはご主人を殺したのは自分だと言っているのだ。


 私にはその意味は分からない。

〝分からないことを考えるのはよそう〟と私は思った。


 竹内さんとご主人の間に何があったのかは私には分からない。

 もしかしたら竹内さんが言う「夫を殺したのは私です」という言葉の意味は、そのきっかけを作ってしまったのが竹内さんで、その結果ご主人が亡くなり、その罪の意識から出た言葉なのかもしれない。


 しれないが、他人の私が何をどう想像したところで仕方がないことなのだ。


 多分、竹内さんの言いたいことは、自分になんの足かせも無ければ、自分も省吾を私から奪おうとしたかもしれません。という私への告白なのだ。


 それに、ある女性に勝ちたくては、今の竹内さんには私の気持ちよりも、加奈ちゃんの気持ちの方がはるかに分かるのだと言いたいのだろう。


 だから…、


「いいえ、ごめんなさい。私には分からないわ」

 私は竹内さんの問いかけに正直にこたえた。


 竹内さんの目が『そうでしょう。課長には、こんな気持ちはおわかりにはならないでしょう』と言っている。



 そして、

「課長、もし私に守る者も、なんの罪も背負わない、自分勝手な行いが出来た時代に帰れるのなら、私も課長に対して宮内さんと同じことをしていたのかもしれません。省吾さんにはそれだけの魅力があります。


 私が宮内さんのように狂わないでいられるのは、夫に対する罪の意識と子どもたちがいるからです。ですから、もし、今後、こんなことがまたある様なら、課長も傷つきますが、その子も傷つきます。そして、それは・・・。


 いえ、すみません。言い過ぎました。今のことは忘れて下さい。失礼します」といって竹内さんは目を伏せた。

 


 そして、竹内さんは目を伏せたまま私を見ることなく、頭を深々と下げてから私に背を向けて、来たときと同じ様に反対方向に向い急ぎ足で遠ざかって行った。


 私は、ただ黙ってその後ろ姿を見送る。

 美しい省吾を、人に見せびらかしたいという自分の浅はかな考えの結果がこれなのだ。


 そして、今の言葉は、竹内さんの心の奥にしまい込まれた本当の気持ち、正直な言葉でもあるのだと確信した。


 省吾を見るものは〝心を狂わせ、壊す〟のだと、決してその事を忘れないでくださいねという、竹内さんからの重い一言なのだと私は自分に言い聞かせた。






 ☆-☆-☆


 翌朝、加奈ちゃんは席にいなかった。

 竹内さんは、何事も無かったように淡々と仕事をこなしている。昨日の衝撃的な告白を私にした涙目の竹内さんは、もう何処にもいなかった。


 井ノ口君も、いつもどおりに仕事をしている。

 昨日となにも変わらない。

 変わったのは、いつも私を見て笑ってくれていた加奈ちゃんが、もうそこにはいないということだけだった。



 私は、のろのろと現場打ち合わせの為に会社をでた。

 午後2時過ぎ、現場での打ち合わせを終えて帰ってくると、加奈ちゃんが目を真っ赤に泣きはらし、午前中で早退したと聞かされ直ぐに部長室に呼ばれた。


 部長室に入ると、書類に目を通していた立川部長が顔をあげ、私を見てあのえびす顔でにこやかに笑った。


 それから、手で座りなさいと合図した。私は軽く頭を下げて目の前のソファに腰掛けた。

立川部長が席を立ち、ゆっくりとこちらに向かって歩いて来て私の向かいのソファに座る。


 そして…、

「あなたの彼氏、相当美しいそうね。男の人に美しいという言葉もどうかと思うけど、そうとしか表現できないと宮内さんが言っていたわ」と、立川部長がちょっと悲しそうな顔で言った。


「そうですか」と私は情け無い声でこたえる。


「あら、嬉しくないの?と言いたいところだけど、こんなことされたら言えないわよね」と笑う立川部長の顔が、今の私には虚しく見える。


「はい、あの、加奈ちゃんは、宮内さんは、どうなるんですか」

 私の問いかけに部長は一瞬黙ってから、

「そうね、どうしましょうか」と静かに言った。


「部長、加奈ちゃんは良い子なんです」

 なにを言っているんだろう私は、と思いながらも口が勝手に喋っていた。

 

「ねえ、殿山課長、あなたならどうする?」と立川部長の顔から笑顔が消え、私の顔を真剣に見て言った。


「それは・・」

 そう問い返されて、私は何も言えずに黙ってしまった。


「彼女は、やってはいけない事をやったの、うちのお客様は家という夢、家族の幸せという未来にお金を払ってくれているの。リホームにしろ、新築にしろ、出来上がるのを今か今かと心を躍らせて待っていてくれているの。

それを、彼女は自分の欲望の為に汚したのよ。自分の欲望を満たすためにね、利用したのよ」と立川部長は私を諭すように淡々と言った。


 私は何も言い返せなかった。

 確かに、部長の言うとおりだ。



「だからね、事を公にすれば、その夢を汚されたことがお客様に知られてしまう。そしたらどうなる?綺麗になった家を見る度に、未来の夢を描いて幸せになるんじゃなくて、嫌な思いを365日。一日24時間。毎日、毎日味わう事になる。


 そんなこと、わざわざする必要がある?無いわ。断言してもいい。そんなことは必要ない。だから、宮内さんには一身上の都合で自主退社して貰うわ。

 勿論、退職金もだすわよ。彼女は、小切手を隠しはしたけど使ってはいない。

ただ、悲しいかな、男に狂っただけ・・、それだけよ」と部長の声が冷たく響く。



 でも…。


 一瞬、部長が、『でも、あなたを犯人にして、後から使ったかも知れないわね、あの小切手、彼の為に』と言いたげな顔をしたが、それは私の想像でしかない。

お金に関することに関してはそれ以上、部長は何も言わなかった。



「そうですか。仕方ありませんね」

 私は諦めたように呟いた。


「そう、仕方のないことよ。ところで、美しすぎる彼は外国人の血がはいっているんですってね。とても綺麗な目をしていて、心を吸い込まれたと宮内さんが言っていたわ。そして、どうしてもその隣に居るのが、あなたではなくて自分で有りたいと願ったそうよ。


 それと、これは言いにくいことなんだけど、若さの持つ残酷さね。自分の方が若くて、年齢的にも、彼にはあなたよりも自分の方が相応しい。これは運命なんだって言っていたわ。あなたからしたら馬鹿げた考え、思いだろうけれども、宮内さんはそう信じ切っているようだったわ」

 部長の顔が悲しげに見える。


「加奈ちゃんが?そんなことを」

「ええ、恋はときに人を狂わせ、心を壊すのね。話を聞いて私も一度お会いしたいと思ったけど、止めておくわ。私は今が幸せだから」

 部長は、ふっふっと優しげなえびす顔で笑った。


 たぶん加奈ちゃんは、もっとひどい事を部長に言ったに違いない。


 部長は、その内容がどんなにひどくても、私が納得する答えの部分だけを抜いて教えてくれたのだと思う。



 それから加奈ちゃんは、その週末付で一身上の都合によりと本人不在のまま退職した。


 荷物は、「私が頼まれましたから」と言って竹内さんがてきぱきと片付け、本人の希望だということで、その日にうちに実家宛に宅配便で送られた。

 なんだか、とてもあっけなくって寂しい結末だった。




 だが、こういう話は隠していても、どこからか洩れるらしい。


 その日、いつもの様に杉山社長と打ち合わせの後の昼食の席で、いきなり切り込まれた。



「あなた、大変だったそうね。横領の犯人にさせられるところだったんですって?」と杉山社長が、まるで世間話をするようにサラリと私に言った。


「うぅ、・・」

 杉山社長の言葉に、飲みかけのスープが違うところに入りそうになって私は急いで咳払いした。


「蛇の道は蛇よ!これでも、いろいろ情報網はあるの。ところで前にも話していたけど、あなた独立しない?本当に応援するわよ」と、パンをちぎる手を止めて杉山社長は真剣な顔で私に言った。


 前々から進められてはいたが、自分には縁遠い世界の事と真剣に考えてはいなかったが、今回の加奈ちゃんのことや、竹内さんに言われた一言が痛い。


 それに、なにより省吾との出会いが自分の中の何かを変えようとしていた。


「杉山社長、私に出来るでしょうか」

 私は本心からそう聞いた。


「ええ、あなたなら大丈夫、やれるわ。私の目に狂いはないわ」と60歳バリバリの現役女社長は私に太鼓判を押してくれた。


 私は、このとき独立しようと心に決めた。


 もう誰にも邪魔されない、省吾と私だけの世界を持つために人生の自立をしようと決めた。





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